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【1219】情報動物園の遺伝性感染症研究所 [ビジネス]

 今さら驚きもしないが、とりあえず追加経費837億円の発覚か。くだらない。
 ロシアも撤退しちゃったんだって?まだまだこれだけでは済まないだろうな。

 タラレバ話は好きじゃないが、こないだ中央アジアの紛争に日本が早々仲裁の声を上げていたら、その後の国際的な資源エネルギー流通とそれに連動する経済の行方、さらには日本が開催する万博への世界各国の関心はどうなっていたろうか【1047】
 今さら思い出して後悔して態度が改まるくらいなら、最初からこんなことにはなっていない。まず1億2千万人日本国民が、いい加減に時代に追い付いて『必要な対処』を意思決定するところが改善の実効アクションとなる。
 ガチに日本社会全体がそっちに向くかどうかのハナシであり、本当にちゃんとそっちに向くようなら、大阪万博以外でも物事の動き方が変わってきて、まさにこの世の『空気』が違ってくるんだろうさ。

 ちょいと話題を飛ばして、今年は人が熊に襲われる被害が急増しているようだ。
 従来どのくらいの実数が発生していて、そのうち何を基準に何割ほど報じられていたのかはよく知らないが、とにかく今年は熊の被害のニュースがやたら目に付く。

 その原因だが、こんなペースになる以前から、熊の被害が出るたび『山に食い物がなくなった』説が繰り返されてきた。
 ところが今年は、さすがに山中の食糧枯渇だけでは説明し切れない増え方のようだし、何より熊が人を怖がらなくなっているとする指摘もなされている。確かに怖がらないどころか狙われて襲いかかられたと見え、どうにか命が助かったと経緯を語る被害者さんも大怪我の包帯が痛々しい。
 以前なら『熊は人間の気配に気づくと先に自分から逃げるので、鈴などをぶら下げて物音を立てながら山に入れば遭遇を避けられる』とする定説があったが、迷信とも言われず定説になるくらいだから、決して攻撃的でも威圧的でもない鈴の音なんかで、一応は熊が人間を避ける傾向にはあったんじゃないかなあ。
 その真相はともかく、今般状況が変わってきていて、ちょっと違うことを考えないとヤバそうな雰囲気が感じられる。…って、私は都会のど真ん中でビール飲みながらニュース見てるだけなのだが。

 それにしても、人間の生活圏が山野に深く侵攻し、もともとそこで回っていた自然界の平衡規律に抵触して、人間が『被害』とやらに遭う…という構図は遥か以前からのものであり、それが今年になって『逃げずに狙って人を襲ってくる熊』の事例がこんなに増えている変化点とは何なのだろうか。
 北海道などでは車で来た観光客が不用意に食い物を投げ与えたりして、その地域の熊たちが人間への食い物の期待値を各々個体毎に学習してしまう可能性は十分あると思うのだが、全国区でそのパターンはちょっと考えにくい。

 …ってことで結論から行こう。本当に日本の熊被害に変化点があったとして。
 『形態共鳴』ではないかと私は思っている【482】

 少なくとも人類文明が観測できるような通信や相互作用は見当たらないのに、何故か共通した事象がお互い離れた場所で起こるようになる。これが形態共鳴だ。
 有名な『100匹目の猿』の例では、猿の群れに芋を与えたところ最初の一匹が波打ち際で砂を洗い落とすことを覚え、それが教え合う様子も観察されないまま群れ全体に速やかに共有されたのだという。
 人類文明の現状到達点としては、五感で直接に知覚した体験が記憶として蓄積され、その情報が実行動に反映され、それを『学習』と呼ぶことになっていて、その理屈では説明がつかないのだ。猿たちはテレパシーなる超能力を使ったのか?
 だから形態共鳴は、非科学的人種向けのオカルトネタとして扱われたりもするワケだが、マジメなハナシ当面の観測技術の限界がその通信回路をとらえられていないだけとする考え方も成り立つワケで、結局真顔で語るのは少々気が退けるビミョーな話題になっている…あたりが実情と言ったところか。

 人類は先に通信技術を確立してしまったので、人間同士がサイエンス現象として確認できる通信回路を意思疎通の社会的根拠にして暮らしているが、その利便性ゆえ逆に既知のもの以外の通信回路があっても誰も気付かない・誰も気付けないような情報環境になっている可能性はある。
 大衆空間における『流行』なる社会現象についてはここでも幾度となく取り上げてきたが、一斉配信技術に乗せて映像や言語に組まれた情報ファイルを受発信するだけで、それが個体間で伝言ゲーム式に連鎖伝達されるだけで、ホントにここまで拡散・浸透するものなのかと、ふと疑問を感じるような流行アイテムの事例は少なくない。

 私が提唱する情報生命体・人間の情報構造=円錐モデルを考えてみよう【1171】
 人間だけ基本構造から抜本的に異なる理由なんか無いから、熊も猿も他の動物たちも同じ構造だと考えるのが自然だ。私自身、犬猫から鳥からいろいろ付き合ったが、実感としてみんな一緒だよ絶対。
 普通は、五感検知の入力や運動機能の制御出力などが交錯する1Fリアル円フロアの演算軌跡を撮影したハンディカム録画から、まず記憶情報が組まれてストレージされる。
 そして記憶ストレージから情報ファイルが呼び出されて2Fバーチャル円フロアの周上に配置され、2Fで対面する情報ファイル間でも演算処理が飛び交う。『脳内ナニナニ』『想定内』『思考世界』みたいなのは、この2Fフロア上の出来事である。

 ここで当人のストレージにストックが無い情報ファイルであっても、2Fバーチャル円フロアの周上に並びさえすれば、そいつは『形態共鳴』するはずだ。
 その情報ファイルが何らかの通信により外来するのか、それとも『場の空気』なる一定の情報環境条件のもと個別に内製されるのかは判らないけれど。

 ところで『形態共鳴』は、無機物にも発現するとされている。
 こちらの有名な例は『グリセリンの結晶』というやつで、世界中で誰も成功できなかったグリセリンの結晶化が、ある成功例の一件を境に何故か次々と成功するようになったというものだ。
 これについては偶然にも人類文明の関心が行き届かなかった実験条件の不備が効いていて、ある時期からその不備が常識的に解消されたとする仮説が立てられなくはない。だが。

 私は人間の情報処理なんぞ、案外しょぼいゼロイチ式デジタルビット原理なのではないかと勘繰っており【628】、だとするとたかが生体記憶ビット素子がゼロかイチかみたいな些細な物理現象の機械的差異で、『精神』『意識』『心理』『感情』みたいなものの状態や動向が決まるということになる。
 『グリセリンは無機物で生きてないし、感情も思考も持たないから別のハナシだ』ではなくて、人間や動物にみられる同調や共感も、試験管内の結晶生成と同程度のもんなんじゃないのと言っちゃマズいだろうか。
 『世の中のあらゆる原子に意識が宿る』とする前衛物理の学説は【97】、実はものの見方が逆で『意識とは特別な事象ではなく、あらゆる物を組み上げる原子の構成と同じようなもんだ』と言い直した方が的を射ているのかも知れない。
 でもコレ神秘大好き・不可解大好きのオカルト組からは石を投げられそうだなあ。

 冒頭まで戻って、とにかく『何だか潮目が変わってきたぞ』と感じるその直感は侮ったものではなく、だからこそ、あれこれ理由を探して理屈を付けて、現行路線にだらだら同調していて良いか悪いか考えろってことさ。必要なら変われ、変えろ。
 これって結構ガチの生命力、生存本能の鋭さ・優秀さだと思うがね。

 死臭の中ダメを確信しながら死を待つヤツは、自然の摂理としてそこまでだ。
 しょうがないよ、若い人たち関わらないようにね。その贈る言葉にグッドラック!
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【1218】未来の希望にあって過去の落胆にないものの見つけ方 [ビジネス]

 たかが私ごときに国際ビジネスの競争事情をリアルタイム理解できているとも思わないが、前回のような振幅と速度の展開がガチ現実のものになっていることを頭に置いておいていただいて、だ。

 2025大阪万博という動きの悪すぎる事業プランについて、意思決定と実行措置のスピードを一気に上げたい。

 もう判っているだろう、現状の延長線上では『また失敗』が明らかだ。
 AI業界の超速・地殻大変動をいきなり見習えとは言わないが、既にダメが判り切った現状のグダグダにいつまでも節目付けを決心せず逡巡してばかりいたら、判り切っていた通りにバカバカしく失敗してオシマイである。
 『また』やるのかよ。『まだ』やるのかよ。
 ついこないだ東京五輪であれだけ散々な目を見た事実があり、日本社会のその記憶もまだ鮮明…どころかナウ五輪絡みの不正の摘発と処置の真っ最中、それで大阪万博がこの現状なのだから、もう重症だとか懲りないだとかいう問題ではない。

 ここで『できる・できない』の議論を始めてはならない。順番が違う。
 もう『できない』んだよ。率直な態度を取れる国から出展やめたよな。
 万博ってさ、あのEXPO’70みたいなやつだろ?できるワケねえじゃん。
 可能性ゼロ、この事実を認めないと何も現実的に進まない。

 企画を計画日程通り成功させたいヤツ、延期してでも成功させたいヤツ、いっそ中止にしたいヤツ、失敗に終わらせたいヤツとさまざまだろうが、結局はその全員が、時代遅れというにも旧態依然の過ぎる、死臭のような空気を吸って生きているところに問題がある。結局の結局、累々と転がる死骸に同化しても構わないと諦めてるんだよ。

 明白な事実の光景が正確に網膜に投影され、その見聞きした現実を過去に体験した記憶と照合して、言ってしまえば『こりゃ完全にダメじゃん』でマトモな社会人同士おおかた一致する共通認識まで持てている。個人単位内々の受信と理解まではみんな普通にできているのだ。
 ところがいざコミュニケーションの場で発信する局面に立った途端、せっかくの確固たる整合一致で得た実感をわざわざに無視して、現実と整合する見込みのない情報を混ぜ込んでくるから物事が行き詰まるのだ。 
 ときに『工夫すればできる』、ときに『実行すれば成果は上がる』、ときに『初志貫徹、諦めない』とそれなりにゴリッパを装っているが、端的に全部ウソだ。

 …さてと。
 過去に遡って何故あそこでああなった、ここでこうしていれば良かったのに、迷宮への一歩目を分析すれば路線修正の糸口は見つかるはず…みたいな、深み方向の細かいハナシに入り込むつもりはない。敢えて『そんなもの、いちいち気にしない。気にしても解決にならない』を合言葉にすることを勧める。
 あたかも過去の自分が加担した不始末をとぼけるかのような不誠実感は付いて回るのだが、何より『ただの失敗に終わらせない挽回で結末を迎える』のが最優先なのだ。

 人工知能AIという人類文明の最先端領域で、体力も快活で頭の回転も速い30代の人たちがめくるめく展開したビジネス劇を御覧なさい。
 …って真相のところは一体ナニがどうなってるのか私も判らないんだけど、まあいいじゃん。今は人それぞれ見えているまんまの判らないまんまで構わない。

 『今がウマくないから親玉をセット売却』
 『信用できない気がするヤツは追放』
 『くだらない経営陣には従業員の側から願い下げの離縁状』
 『空中分解した組織には、散りぢりになる前にどん!と受け皿を提供』
 『やっちまったと思ったらソッコーでベタに関係修復』
 『やらかしは、どう受け取られるかを勘ぐらず公開で後悔』

 …などなど登場人物全員、瞬間瞬間コレだ!と見えたものに場当たりでかぶりつく『お行儀のよろしくない』様相であることには間違いないのだが、上記のどれかひとつでも日本社会にあったなら、大阪万博の準備工程はこんな穴だらけの情けない進捗状況になっていなかったろう。
 かのAI騒動は『そうそうお目にかかることのない驚きの出来事』ではあったが、少なくとも今のところ悪意や意地悪は見えておらず、直感的でダイレクトな行動の自然な応酬であった。だからぐずんぐずん動き渋って幼稚な押し引きばかり繰り返す、未熟な意思の非効率イメージが感じられないのである。

 東京五輪と違い2025大阪万博は橋下大阪行政改革の一環としての地域活性化方策だったはずだし、その後の大阪維新政治は紆余曲折あったにしても地元の支持を着々と固めてきた。
 かつて汚れて詰まって淀んで腐臭を放つドブのようだった大阪府市政も明るく転換して、これだけやれる大阪維新勢力なら、すんなりと計画通り美しくは行かないにしても、もっとマトモなセンというか、せめて東京五輪と同じ経緯での転落まではしないと皮算用していたことを白状する。

 いや、大阪万博だからって、地方自治体・大阪府市が圧倒的な決定権を握っているとも思わないのだが、それにしても今日の経済環境からして見栄えのするイベント開催は非現実的と見える中、なんとも煮え切らない態度で計画額の上乗せにだらだら同調する大阪行政が不可解である。
 ここ一番で煮え切らずに流されないのが大阪府市民の大阪維新政治への期待であることが、忘れ去られているとは思えない。一般庶民の視点から見えない『何か』が作用していると思うのだが。

 ひとつ確実なところで、いわゆる『あるなしクイズ』を考えてみよう。
 『今の日本社会にはなくて、先般のAIビジネス騒動にはある、これな~んだ?』

 この正解こそ、出口の見えない長期低迷に沈み続ける日本経済いや日本社会を、良いか悪いかはともかく次のフェーズに移行させる鍵なのではないだろうか。
 ま、ここでよく述べている通り大阪の人工島でカジノIRさえ起動できるなら、万博なんぞ最終的にはどうでもいいと私は言い切るのだけれど。

 若い人たち、とにかく世の中の速度をいつもチェックして、遅れるなよ。
 素早いだけが能じゃないが、素早い個体がまずその土俵で勝者となる。
 その旧態依然に怯えない反射神経・反射思考にグッドラック!
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【1217】赤紙召集された超現実の企業戦士 [ビジネス]

 やれやれ久し振りの空襲警報かよ、今回は南西諸島方面の打ち上げ花火だとさ。
 あんまり油断してオオカミ少年の逸話を地で行く失敗になるのもマズいんだけど、まあこの季節に夜遅く騒がされた人たち以外は日本中すっかり無関心に落ち着いた感じである。ものの道理としてそうなるよ。

 ちょっと前あんなに『戦争ハンターイ!』などと盛り上がっていた日本社会で、『さあ戦争の準備だ!』とはさすがに明言しないにしても、コトある毎に政府主導で『やれ大陸の脅威だ、半島の蠢動だ』みたいな脅し文句をわざとらしく口走るようになったのだが、辺野古埋立工事の可否からVTOL輸送機オスプレイの配備まであれだけ騒がしかった反対勢力が、今や静まり返ってさっぱりノッてこない。無関心放置である。
 かつての左巻き反戦組が言うところの『戦争したい人たち』は、最初は手を換え品を換え『臨戦の心得』の扇動を繰り返していたものの軒並スルーされてしまい、遂には日本社会の人目から隠して利得関係者のみでこそこそ頷き合って、無駄なハコモノ軍事で国費の食い潰しに群がる形態にまで行き着いた。
 そんなことをやっていたらバチがあたり、下見のヘリコプターが落ちて戦争でもないのに10人が一斉に命を落としたのである。本人らも納得して手を染めた隠し事とは言え、御遺族の無念が思いやられる。

 我々高度経済成長期に生まれた世代だと『戦争』のイメージは、オトコがみんな鉄砲持って戦闘機や軍艦に乗り、同じ技術体系の敵軍と撃ち合ってあちこち爆炎が上がる中、撃たれて即死するなり爆発で跡形なく吹き飛んだり…ぐらいが普通だったと思う。
 つまり日本人の戦争の記憶から、大人のムツカシイ話=痛くて悲しくて汚くて醜いハナシや、家族の日常生活がひっかぶる行政対応の酷いハナシなどが子供向けに削ぎ落され、勇気や友情や信頼や悲哀などが抽出されて漫画雑誌やアニメなどのストーリー設定として広く普及して、我々世代はそれを当たり前に見ながら育った。
 当時の戦中派にとって心穏やかに受け容れられる作風でもなかったと思うが、何しろ高度経済成長期にあって『大人の世界』と『子供の世界』は明確に分断されており、特に社会的に一人前の発言権を持つ大人が、半人前の子供の娯楽に関心を向けてモノ申すことなど考えもしなかった時代である。
 いい大人が子供向け娯楽文化の内容に言及しようものなら、本題に入る以前に『いい大人がそんなもの見るなよ恥ずかしい』と非難の集中砲火が浴びせられ、議論にもならなかったのは間違いない。

 実態としてはまず国務としての兵役が制定され、年恰好や健康状態を見て適性アリとされた者には召集令状=赤紙が届く。赤紙が来て喜んだ話はついぞ聞いたことがなく、どこのおうちもいつ赤紙が来るかと戦々恐々だったそうだ。
 『主人と息子を兵隊に取られる』というやつで、日本国民として拒否権は無いし、拒否したとして『非国民』の汚名を着せられ社会から親類縁者まで拒絶されることになる。結局は『お国のために喜んで行きます』『これで自分もお役に立てる、万歳!』みたいな社会の相互監視を観客にした虚しいシロウト芝居で、ずっと一緒に暮らしていた家族を命ぜられるまま送り出すしかなかったのである。
 不運にも戦死してしまった場合、髪の毛と爪しか遺品がないケースも本当に珍しくなかったようで、それでも消息が判明しているだけ救いだと語らねばならない結末は、何例か聞いた。
 NHK朝ドラ『カムカムエブリバディ』の算太おじさんはひょっこり帰ってきたが…

 『また』きな臭くなってきた中東方面について、どっちが凶悪な無法者でどっちが支援すべき被害者だ、みたいな愚論の応酬はさすがに消え去ったけれど、その日本社会のささやかな成長が南西諸島方面を食い物にした利権商売の根絶に効き始め、いずれヘリコプターも落ちなければ空襲警報も鳴らなくなる日が待ち遠しい。
 こんなことをしないと経済が動かせないと思うような時代遅れの老衰インテリジェンスに、もう生存確率は残っていない。あ、インテリジェンスじゃなくて痴呆症か。

 先週あたりからAI業界を揺るがす人事異動…というか、もうギリシャ神話のナンタラを支配する神が誰それをさらって幽閉し、怒ったウンタラの神が世界の規律を変えにかかったところ、大地が割れてみんな世の支配律の分担を失いバラバラ個々人に散ったのだが、みんなして落ちて気付く次の地面がまたあって…と、そのくらい空前の大変動が起きている。
 誰がどんな腹づもりなのか測り知れないどころか、今ナニが起きているのか追いかける気も失せるほど目まぐるしい超・逆転劇の連続…みたいなんだよな、よお判らんけど。怠け者で他力本願の私は最初からコトの追跡を諦めており、どこかの理解可能な節目情報が出て来るのを待っている。出て来るのかな。

 ビジネスの新時代だ。
 人工知能AIという前人未到の情報処理技術領域がまず拡がっていて、これを人類がどう育てるか、人類がどう従うか、いや人類がどう関わるかを創成し模索する社会事業単位が組まれた。
 もちろん現行社会において合法的に設立された事業組織だから、我々には常識的な概念で『企業』『会社』として見える組織枠の構造体なのだけれど、今般の『ドラスティック』だけでは済ませられない創世記レベルの組換えは『現行社会に定義された企業体にあり得る現象』を超越していると思う。

 事業体のトップたるCEOに予兆なく突然、その運営を司る役員会が解任を告げるとともに、残党からは『能力と信頼の面でコイツはCEOとして適性に欠ける』と普通あり得ない険悪な表現でサイト公表がなされ、しかもCEOのみならず役員会の議長と二人あわせての解任を発表したのである。CEOと議長の役員会追放って…
 ところが7~8百人ほどいる社員の殆どが『CEOを復職させないと一斉に辞めるぞ』と反旗を翻して会社まるごとすったもんだとなり、一週間たたないうちに突然の解任から出戻ってのCEO復帰と相成った。おまけにCEO解任に踏み切った側の中心人物は『後悔している』だとか泣きを入れてくる始末だ。
 まあこれだけスピーディだと水泡に帰す事務処理の準備すら始まってなかったろうし、何よりだよ。私の勘違いがあるといけないので、興味ある皆さんはあっちこっち解説を読み比べて御自身で事情を推察してください。とにかく唖然茫然である。

 就業年齢未達の方々に解説を入れておくと、CEO=Chief Executive Officerは今はぶっちゃけ社長さんだと思って結構だ。他にもCOOやCFOなどいろいろあるが、資本を元手に活動して経済社会の一角にその身を置く『会社』があったとして、近年いろいろな経営仕事の分業形態が模索・確立されており、昔ほど単純にトップ職務とその周囲を固める参謀チームがあって…みたいなピラミッド型の役職配置でもなくなっている。特に欧米では首長呼称より機能毎の職務ポスト名が好んで使われるようになった。

 それはそうとして、コトあってお互いの認識が深まるエピソードは多々あるが、こんだけやらかしといて『後悔している』ってアンタ?素直というか浅はかというか、本気にしても芝居にしても、現行ビジネスの世界観の外側の超常現象だよ。
 …と思わず漏らすそのアタマが既に時代についていけていないのであり、今般の一件でも解任CEOと辞職社員たちを電光石化の投網で一気にがめようとした、業界最大手の大企業があった。あの企業規模にしてこの初見ハプニングへの瞬発力はまぶしい限り、さすが北米経済市場の一流どころは抜け目なく生存戦略を張ってくる。

 この解任劇、立ち回った役者たちは恐らくみんな30代であり、だとすると10年を待たずに日本でいうZ世代が、本件を『過去実績の一例』にしたビジネス世界を展開させる。
 このたび青天の霹靂で解任を突き付けられ早晩に出戻ったCEO御多忙氏、実は御存知の通りAI急発達にうろたえたどっかのデジタル落第国のあほ政府が、こないだ意味も無く呼びつけたんだよな【1153】
 呼んだだけと呼ばれただけで会話にならなかったろうぜ。迷惑千万なハナシである。

 某・電子新聞だったと思うが『同ブランドのハンバーガーにつく価格で日米を比較すると1ドル80円相当ぐらいなのに、為替レートは1ドル150円』という記事を見かけた。商品名として同ブランドとはいえ日米の仕様差は大きいと思われ、単純比較のイメージを鵜呑みにすることはできないが、面白い着目点である。
 そして通貨と通貨がガチ交換で釣り合わされぶつかり合う外為市場において、日本円が今どうしようもないところまで価値を落として、国際的にナメられまくっているのは事実だ。うすのろで的外れな日本の国力・経済力の評価額ってことだろう。

 かつて命懸けの国務を理不尽ともせず・できず散っていった仲間たちが大勢いる。
 無条件降伏でAIに身を預けていたとしたら、日本国の現状は少しは違ったろうか。
 若い人たち、既存データが容量圧迫しているなら上書きに躊躇するなよ。
 生き残りを賭けたその世界標準のファイル形式に、グッドラック!
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【1216】万能スタンバイと棒立ちポジションの反転コール [ビジネス]

 ところでNHK朝ドラ『ブギウギ』の主人公・鈴子のステージアクションおよび観客の反応が、ちょっとハジけ過ぎのノリ過ぎっぽいんだけど、これも今の時代に相応に響かせる狙いとしてはイイところ…と受け流すか。
 高度経済成長期の昭和40年代でも、年頃の乙女が人前で髪振り乱してスカート姿で足を蹴り上げるようなステージは『はしたない』とする社会通念が根強かったはずだ。

 確かにもう一般的ではなかったけど、いいトコのお嬢さまなんかだと、う~ん!と開きづらい瓶の蓋を捩じりながら顔をしかめると『これっ、年頃の娘がみっともない顔するんじゃありません!』とたしなめる文化が残っていた。『せえのっ!』という掛け声は品のない肉体労働者の土方コトバだからと、使わないように忠告されてもいた。
 これはこれで今の時代から見ても『麗しくおしとやか』であり、今日と価値観の方向性を大きく違える感覚ではないが、反面このお行儀の整った価値観に乗って来ず、ハジけて騒いで騒がれての世界で生きる人種となると、いかに元気で自由で楽しそうであっても共感や羨望を拒み、むしろ交流も相互理解も門前払いに遠ざけて後ろ指を差す、そんな排他的な社会層別の精神文化の一面でもあった。

 明治・大正生まれも普通にそこらにいたそんな当時を思い出すに、歌唱パフォーマンスの有名どころといえば、東海林太郎もまだ現役扱いで語られていたものだ。
 若い人たち…というか、かなり若くなくなった人たちも御存知ないかも知れない。
 『とうかい・りんたろう』さんではない。『しょうじ・たろう』さんと読む。眼鏡がトレードマークのおっちゃん歌手である。

 びしっと不動の起立姿勢でまっすぐ真正面に声を飛ばす歌唱スタイルは、なるほどアレクサンダー・テクニークの理に適ったものであり、これこそ時代を超越した理想像だとは言わないが、歌を交えたソロ・パフォーマンスに興味ある方なら一度は見ておいて損は無いと思う。
 アレクサンダー・テクニークにおいて推奨される『背中を長く、頭を上へ前へ』の象徴的な一例だ。肺活量がフル稼働できるのが判ると思う。
 人前で歌うことなど一生あり得ない、そんな御当人を観客として眺めるだけの一般大衆にとっては、規律正しく歌唱に専念するその構図が、パフォーマーとしてのひとつの魅力要素になっていたりもしたのだろう。

 因みに1970年代後半あたりからエレキ弦楽器に騒音系打楽器など、一般向け書籍としての教則本や専門雑誌が乱立してレコード屋の奥の本棚なんかに並べられ、独学で楽器に手を出すアマチュア音楽家層が急成長してきていた。
 『悪の権化、転落と逸脱への入口』として日本社会のPTA系勢力の目のカタキにされながら、とりあえず楽器のブツが手に入れば、誰かに弟子入りすることもなく音楽やステージに続く道の入口に立てる…そんな新時代の草の根の普及が始まっていたのである。
 そんな反社会的?な邪教の経典にも、姿勢のお手本として東海林太郎の名前を見かけたりしたのが興味深い。『まず真直ぐアタマとカラダを自然に立てることが、動作を起こす原点だ』と悪魔たちもみんな心得ていた事実の現れだったのだと思う。

 ところで『背すじを伸ばして』と言われた途端に背筋を緊縮させ、背すじを若干うしろに反らせるくらいの立ち姿をキメようとする人は案外と多い。
 あなたはいかがだろう?迷わず自信を持って、ただ静かに真直ぐ立てるだろうか。
 よく子供時代に『きりーつっ!』あるいは『きをつけっ!』の号令に合わせてやる、あの『キチっと居住まいを正している感の演出』の刷り込みが、その解決しない迷いの原因になっていたりはしまいか。

 そうだ、ここで例によっての横道で消化しておく話題がひとつあった。
 今日でも自動二輪教習に行くと乗車姿勢は『背すじを真直ぐ伸ばせ』と教わるんでしょうかね?実は、私が合宿で教わった田舎の教習所では違ったのだ【951】

 単車の乗車姿勢はざっくり二分され、ちょっと極端だがイージーライダーみたいな、ふんぞり返って両足を前方に放り出し大振りなハンドルの高めグリップを握る『アメリカン・タイプ』と、競技用自転車に近い前傾気味で低めハンドルを握る『ヨーロピアン・タイプ』がある。
 我々世代のちょっと上で主流だった教習車ホンダ・ホークⅡなんかはいわゆる『中途半端アメリカン』というやつで、ふんぞり返らないまでも、こっちに伸びているハンドルを握れば上半身は直立…ぐらいの感じであり、こういう単車なら自然に肩の力を抜いて『背すじを真直ぐ』という教則指示は正しい。
 だが当時の我々にあてがわれたホンダCBX400Fは比較的ハンドルの低いヨーロピアン・タイプであり、腰をシートに真直ぐ落としてニーグリップするまではいいとして、腕は直角ぐらいに深く曲げる気持ちで力を抜き、両肘を左右に張らずぶらりと下方向に落とすと、背中が丸まり軽く猫背気味になる。これが自然な乗車姿勢であり、だからそう乗れと。

 いっぽう同時期に都会の教習所に通った友人によれば、さすが当時最新鋭のCBR400Fが教習車として導入されていたのだが、これは我々のCBXと大差ない乗車姿勢の車種である。
 にも関わらず『背すじを真直ぐに伸ばせ』と、教官に手を添えられびしっと上体を反らされたそうで、それでは腰周りが疲れやすい上にハンドルのグリップが遠くなって肘が伸びてしまうはずなのだが、上限3速で急制動も30キロ5メートルで間に合う教習所では、その基準が順守されていたらしい。

 路上で背中ぺったんこの丸太ん棒になって両腕を二等辺三角形に突張るような、三角錐みたいな恰好で単車に乗っている子を見かけては時々心配になる。
 単車はまず物理的原理に沿った車体運動の法則があって、これを活かすよう自分の体重を前後左右に転がしたり放り出したり固定したりして操縦する【875】
 自分と車体を完全に別々の運動座標系として切り離してしまい、手足は双方の相互作用を制御するための自在アームとして常時自由にしておかねばならない【952】
 背中が反ってしまうと前後左右に荷重移動できないし、車体が行きたがる方向と違う舵角で腕を固めてもその弧を描いて旋回することはできない。この感覚の体得の方が、自動二輪教習の本来目的であるはずだ。

 現状の教習車が何の車種でどんな教習内容になっているのか知らないが『背すじを真直ぐに伸ばす』という日本語の教訓フレーズだけが、交通実情の歴史の変遷を越えて化石化してしまっていないかどうかを妥当性検証し、適宜にアップデートする必要があるのかも知れない。
 『起立!礼!着席!』の号令で佇まいを厳粛化する習慣は悪くないし大事だとは思うが、その反射動作が別の場面で思わぬ副作用を起こしている可能性に気を付ける、いやまず気付くべきだと思う。

 『自然な姿勢』を崩すと『自然な心身状態』が損なわれる。
 『自然でない姿勢』を習慣に刷り込むと『自然でない心身状態』が当たり前になる。
 さらには『自然な心身状態への改善の余地』が感覚世界から見失われてしまう。

 『背すじを真直ぐ伸ばす』というコトバはそれ自体好感度が高く、疑いなく正しく響くものだからこそ、盲目信奉的な適用にならない冷静さが必要なのではないだろうか。

 あらら横道のつもりがうまく本筋に復帰してまとまっちまった、よかったよかった。
 もう乗らないつもりなのに、やっぱり単車ネタはついアツく入れ込んじゃうなあ。
 楽しいけどちゃんと運転しないと危ないから乗るヒト気を付けてね。グッドラック!
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【1215】誰でもみんな浮かれ出す、ニッポン伝統ワビサビの魔法 [ビジネス]

 えーと失礼、やっちまったか。『東京モビリティショー』ではなくて『ジャパン・モビリティショー』だったみたいですね。訂正しておきます。
 元祖メイン展示品たる自動車は、曲面基調のわらびもち系と平面・直線基調の折り紙系の両方が目立っている。いずれにしても鉄板プレスでは作りにくそうな造形で、市販車への反映はどうなるのか気になるところだ。

 前回、自動運転車が事故を起こした時『無人であること』が、ヒト社会の情報処理特性とうまく馴染まないところに問題の根源があるのではないかと述べた。
 起きてしまった不都合な現実を前に『誰が悪い訳でもない』と認め合って納得して決着することが難しいからなのだけれど、ならば大なり小なり不都合な現実の原因になった当人が明らかなのに『責任能力が無かった』と結論付けるのは、とりあえず社会的処置という観点では物事を煩雑化・遅滞化に向ける方針だと言わざるを得ない。

 今どきアレ言っちゃいけない、コレは断定すると問題になる…ってんで関係者事情の構図を明かさないまま突拍子もない衝撃的事実だけが報じられるケースも多いので、世間一般の小市民が当事者スタンスで感情移入することは不可能なのだが、それにしても何かにつけ『責任能力の有無』の議論が単なる無駄を通り越して、やり過ぎの域にはみ出していると感じるのは私ひとりではないだろう。
 酷い言い草だが、その時その場どんなに邪心任せに取り返しのつかない悪事をやり散らかしても、事後の論議で『責任能力がなかった』という理屈を通せれば引責を逃れられる世の中になってしまったとさえ見えてしまう。これでは不遇の損害を被った関係者当事者はとてもやってられない。

 もっとも昭和の時代は、恐らく現代の誰もが驚くくらい『これは偶然の事故、誰が悪い訳でもない』で悶着も議論もなく決着する事例が多かった。
 これは今の時代の責任能力云々のような課題意識が希薄だったからではなく、損害を被った側の当事者が『やるせない限りだが、悪意や敵意の被害でもないのに他人様に負担を発生させる行きがかりではない』とする自己完結意識が高かったからだと思う。
 これを見境なく崇高で優秀な社会性メンタリティだとするつもりもないけれど、今どき事故が発生した瞬間の当事者たちの反射思考に『責任能力の有無』が過剰に意識され、その後の処理に支障をきたす残念なインテリ社会になった感は否めない。

 ここまで重大事故の当事者にもならずに済んでいる私が偉そうに講釈をぶてるとも思わないのだが、傍目に映る昨今の責任能力論議に漂うアンフェア感・未決着感は『被害者意識・当事者感情の記号接地問題』だと言えるのではないだろうか。
 大切な人が命を落としたり、自分の五体満足が失われたりといった取り返しのつかない人生レベルの甚大損失について、ガチもガチで誰から見ても間違いなく『記号接地している』当事者は、取り返しがつかないが故にキホン永遠に甘んじて納得して収まることができない。本人以外の誰にも手を施せないし、百点満点の現実解で処置もできない『情報体としてのヒトの特性』である。
 いっぽう当事者間の社会的生活にいつまで経っても節目がつかないと不都合が拡大するので、決め事で節目をつける法治社会制度が大衆過半数のメリットとして作用する訳だ。だからこそ司法機関の関係者には『当事者意識に記号接地しない自分の立場の自覚』が適性要件としてまず求められ『記号接地しないが故に当事者が割り切れないところを割り切る職務を負う』ってことになるんだろうな。
 目前の作業としては『カネ勘定を始め所詮は人間が理屈で組んだ辻褄を合わせる』で一件落着するのだけれど、そこに『記号接地した当事者の収まり』がどうにかでも揃わない限り、そこを起点にした『次』が続く。

 このへんから今季NHK朝ドラ『ブギウギ』の話題を割り込ませてみましょうか。
 計測器の目盛で読めるものでもない評価尺度の最高値を目指して鍛錬を積み、それでも抗えない素質と運の宿命を埋めるために、手段を選ばず勝ち抜いてナンボの業界を題材にしたドラマにしては、NHK朝ドラらしく爽やかな気分で安心して観ていられる。
 鈴子の上京と成功からヘッドハンティングに到るまで、周囲の皆さんビジネスマンよりもよっぽど品行方正でカタギな配慮が行き届いてて、これなら平穏無事に誰からも文句は出ないはずじゃねえかとテレビ画面にツッコミを入れそうになるくらいだ。
 一般大衆が日本じゅうの事務所や現場で頭脳労働や肉体労働に明け暮れていた時代、特別な時間を期待して群がる客を集めて『愉しみの時間を売る』商売は、素質と運に恵まれた人材市場が極めて限られていたため、不義理だの略奪だの、それはもういろいろあったとは聞いている。
 実在の人物がモデルだから当時の業界事情も取材段階で散々引掛かっているはずだが、よくそのへん浄化してこんな小ざっぱりした現代風ドラマにできてるなあ。高度経済成長期のある意味悲壮な、労務エネルギー全力疾走の時代の空気に記号接地してしまっている私以上の世代だと、この脚本はとても書けないんじゃないだろうか。

 こんな洗練された清潔感の空気を背景にして、マイナーコードのメロディにやたら楽しげな歌詞を乗せた劇中のレトロ曲『ラッパと娘』が流れると、その不思議なコントラストが妙に面白い。
 私は一番に童謡『うれしいひなまつり』の例を挙げるのだが、昔の歌には短調メロディでポジティブ感情のテーマを歌う組み合わせが珍しくない【612】
 その狙いとする効果は、女の子の節句に着飾って座敷でおしとやかに過ごす非日常、その内向きの優雅な自己認識の時間を、普段の贅沢も娯楽も無い日本列島の日常生活の立ち位置から、素直に素朴に語ろうとするものではないかと思う。
 かなり以前にこの種の音感や感受性が日本の音楽市場で絶滅したように思うのだけれど、タイヘンにもったいない。わざとらしくならないよう真摯に日本の伝統的精神文化を学んで踏まえて、スタニスラフスキー・システム式忠実な創造作業から生み出された、心に響く新曲なんか出てきて欲しいなあ。

 その反面これは日本人の喜怒哀楽の感情の変動が、実は無感情のっぺらぼうの白紙を基準にしたものではなく、どこかしみったれたようなマイナー基調の心理状態がゼロ背景になっている可能性を示す事実ではないかとも思うのだ。
 しみったれと言えば聞こえは悪いが、黙ってそこにいれば真水に困らない豊かな日本列島の各所に定住し、自然への畏れのもとで身を寄せ合って、メンバーシップ型組織の一員として知恵を活かして暮らす。そんな日本人のDNAだと理解することもできる。

 日本人の深層アイドリング状態に刷り込まれたDNAマイナー心理特性は、そもそもから娯楽や余暇をイケナイもの扱いする抵抗感の足場となり、だからどんなにけしかけても有給休暇の取得が進まないのだし、更にはうまく行ってそうなヤツや楽しそうなヤツを見ると、応援したり肩を組みに行くより先に無条件に妬みの感情が湧いて『出る杭を打つ』、何より組織空間がそれを指摘せず見て見ぬふりの示し合わせで当たり前にしてしまうという、筋金入り非生産性・非効率的のジリ貧メンタリティにも繋がっている…と考えれば、この頭上を仰げない底なし沼の経済低迷も説明がつくのかも知れない。

 バブル景気と言われた時代、とにかく『栄えて贅沢して何が悪い、意のままに楽しくて何が悪い?』という世風が派手を装った流行発信地からバンバン放たれ、日本社会全体が最初困惑していたものの『食えるもんなら食わなきゃ損ソン!』とこれまた貧相で卑屈なタガの緩まり方で、年長世代が同調していった印象が強い。
 成長期をバブル期およびそれ以降に過ごした世代には、ニッポン旧来の深層マイナー心理がすっかり減衰しており、彼等にとって現行大半の日本の組織文化は折り合えなくて当然と感じるのだが、いかがだろうか。

 うん、今季の『ブギウギ』もいろいろ考えるところ多くて面白いよ。しみったれ古式ニッポンを変えつつ伝統の音楽性に火入れもして、いいトコどりで欲張りたいねえ。
 ゴメン、酒好きの私はチョコレート持ってないけど応援するぞ、グッドラック!
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【1214】下等生物の騒音とナイトライダーたちの憂鬱 [ビジネス]

 今年は東京モーターショーの開催年度にあたっているのだが、今回からタイトルを変えて『東京モビリティショー』として開催された。その名の通り、もう自動車の枠をはずして交通移動手段のための機器全般ってことで、まあ今どきすぐに連想される『空飛ぶクルマ』みたいなものも出展されているらしい。
 かつてモーターショーはJRも海浜幕張駅からの通路も大混雑でうんざりだったが…

 戦後から高度経済成長期にかけて、二輪四輪の自動車産業が次々と新出しては統廃合され、たいして広くもない日本列島に多数の自動車メーカーがひしめきあっていた。
 もう何度も書いているが、1965(昭和40)年時点の大都会でも幹線道路から住宅街に入るや未舗装道路が珍しくなく、路面には風呂場で使う洗面器を地面に埋め込んだぐらいの径と深さの穴ぼこが多数散在していた。今だと相当な田舎でも見かけないような、河川敷の荒地だとか工事現場みたいな光景である。
 そこを、えっちらおっちら車体を揺らしながら自動車たちが進み、雨の日などは水を張った洗面器にごろんと車輪を落とすようなもんだから、盛大に泥水が飛び散ったものである。当時のドラマや漫画では、雨の日に歩行者を気遣わない車に泥水をかけられて一張羅が台無し…というストーリー展開が定番であった。もちろん晴天時は土埃がもうもうと巻き上がるし、砂粒どころか撥ね石が飛んでくる。
 車に乗っている側の立場にしても、エンジン動力を活かした移動速度には程遠いもので、たま~にお商売やってるおうちの車なんかに乗せてもらった時も、住宅街の筋から舗装された幹線道路に出ると揺れが収まりほっとしたものだ。

 日本の最初の高速道路は、東名だと思っていたら1963(昭和38)年の名神高速・栗東-尼崎間だったそうで、東名高速の開通は東海道新幹線を追いかけての1968(昭和43)年だそうである。
 当時『日本の主力産業は?』という質問に間髪入れず『自動車製造業!』と答えるのが常識として過言ではなかったが、こうして史実検証してみると、国内の道路実情がみるみる先行する自動車技術の進化ペースに必死で追いすがっていた関係が見えてくる。タイと同じだ【1163】
 確かに大阪のど真ん中で育った私の実感の記憶として、幼稚園から小学校低学年のあたりだったか、半ば日常的に自宅前を含む近所の道路がどこか掘り返されては整地工事され続けていて、だいたい第一段階で白砂利敷きになり、軒並せいぜい1~2年のうちにはアスファルト舗装に一新されるという流れだったと思う。
 我々小学生の男の子たちにとっては、いろんな建設機械が入れ替わり立ち替わり、地面を平らに均して土を盛って踏み固め、熱して熔けたアスファルトを圧延していく工程が面白く見え、そこらで遊んでいる時も馴染みの共通知識として友達同士で会話が通じていた。好景気とされる時代の実態の一面である。

 そんなこんなで日本の道路は驚くほど短期間でアスファルト舗装が当たり前になり、どこも車らしい速度で自動車たちが走るようになった。
 自家用車が急速に普及した時期でもあり、同時に交通事故も激増し『交通戦争』という時事キャッチコピーも飛び交った。この『交通戦争』、激化する交通事情と死亡事故件数の増加イメージから戦争を連想しただけのものではなく、実際に日清戦争での戦死者数を上回る数値の推移があったがための造語だそうで、なるほど車を知らない日本人の世が初めて経験する切迫した社会現象だったのだ。
 近年もう交通事故死者数は年間3千人を軽く切ってきており、自家用車普及率やドライバー年齢層などさまざまな条件の変遷はあれど、随分と死亡事故が起きにくい時代になっている。

 そして遂に自家用車を通り越して『社会にとっての車』の普及が台頭し、むしろ個人の自家用車所有は利便性と維持負担とのバランスから考え始めるのが普通になった。わざわざに車は欲しくない、適宜に他のことをしながらラクチン快適に移動できれば良い。なるほど『モビリティショー』になるワケだ。

 …となると『自動運転』が間違いなく定番テーマのひとつになってくる。自動運転については以前からここで何度か取り上げているが【316】、国内外の自動車メーカーが競ってきたのはカメラやセンサー類による周囲交通環境の現況検知と、これに呼応した加減速・操舵の制御発動プログラムの適切さ緻密さであり、特にこの1~2年は目立つ新技術が出尽くしたのか少し静かになった感じもする。

 ほんのつい最近のことだが、北米で自動運転のタクシーが事故を起こした。
 他車がはねた歩行者を避け切れず当該タクシーも轢いてしまい、そこで停止はしたものの後続の交通の流れから離脱しようとして、引掛けた歩行者を数メートルひきずってしまったのだという。
 なるほど他車や単車・自転車や歩行者に設置標識などなど、検知して対応する仕組みの完成度を高めたにしても、他車にはねられて進路上に飛び込んでくるケースの想定まではできていなかったってことなんだろうな。万一の接触事故で、何か困ったモノが引掛かるとも思わなかったと。
 当該タクシー会社は複数の州で営業停止措置を喰らっており、今後が注目される。

 さて本件、人間が運転する普通のタクシーだったら通常の交通事故1件でしかなくて『避けようがなかった事故』として誰も注目しなかったのかも知れない。
 自動運転車だからといって時速50キロから減速過程なしで瞬間停止できる訳でもなければ、操舵や制動で避け切れないと判断して空中高くジャンプできる訳でもない。詳細の事情は判らないけれど、自動運転であろうがなかろうが接触事故の発生までは同じく起こっていた可能性が考えられる。これをまず『自動運転車が事故を起こした!』と非難の姿勢で取り掛かる言論があったなら筋違いだ。
 ただ接触事故が起きたその瞬間に『運転操作をやっていた人間のいる・いない』が事後処理を根底から違ったものにするため、社会に意識させ考えさせるための大事件としては相応に重く扱うべきだろう。

 また人間のタクシードライバーだったなら慌てて停車して車を降りて、はねられた歩行者の存在を確認し何よりも歩行者救護を優先した可能性が、もちろん自然に推察される。自然な反応だが、今度は慌てて三角板を本線上流側に提示するのを忘れ、救護作業に夢中になっているところを後続車に突込まれて、結局は事故を拡大させてしまっていた可能性も無視する訳には行かない。
 自動運転車は人為的ミスをなくす意図で組まれてはいるが、少なくとも現状にて、人間以上の能力で誰が見ても『至上の最適操作』を保証する、夢の交通情報体ではないのである。人間通りには行かないと言いつつ、人間は何を期待しているのだろう。
 起こってしまった不都合な現実を前に『落ち度』のありかを特定する人の世の社会的作業がある限り、自動運転というより『無人であること』が決定的な普及のハードルとなって立ちはだかるのではないだろうか。

 自動運転技術は、ある意味『公共交通環境下での自動車の運転に目的特化したAI』とも言えそうだ。
 道路交通においては人身事故など物理的な重大事故が身近なため、良くも悪くも『万一の時の責任の所在』が進化発展のオモシに効いている。このオモシの重量の正体は、事故事象に対して『怒り』や『悲しみ』や『恐怖』や『落胆』などの感情を湧かせると同時に『加害vs被害』や『損害と賠償』などなど論理的因果の概念を起動する『情報体としてのヒトの特性』である。
 人間を遥かに上回る情報処理速度で進化するAIに我を通す意図で、いくら『倫理』や『規律意識』の大義名分を掲げたところで、結局は『人間ならではの情報体特性』の枠に当てはめようと人間同士がクチだけ動かしているに過ぎないのだ。
 こういう愚かな人種がいつか『いいAI、使えるAIができた!』と喜んだなら、そのAIはそいつらのウチワだけで完成された『人間以下の検索ツール』にしかなっておらず、恐らくは開発最前線を含む自由市場からは隔離された落ちこぼれであろう。ものの道理としてそうなる。

 ところで自動運転まで行かない運転支援システムも現況検知してドライバーを手伝っているワケだけれど、彼等は『記号接地』してて人間よりも車の運転を深く理解してるってことなんでしょうかねえ?
 答の出ないドライバーの皆さん、スマホにかまけたりせず自車の運転は自分で責任持ちましょう。週明けも安全運転でね、ではグッドラック!
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【1213】愛情か虐待か、『高い高い』のAI幼児体験ファイル [ビジネス]

 佳子妃が南米ペルーを御訪問された。マチュピチュかあ、羨ましいなあ。

 ああいう凄いところは行くのが大概タイヘンで、売店やコンビニでビール買いながら乗り換え・乗り継ぎして、いつでもどこでもトイレに行けて、眠くなったら旅客席でふんぞり返って高いびき…はもったいないので、根性で起きて滅多に見れない窓からの景色に喰い付いて過ごす…とは絶対に行かない。
 国際的に有名で、国家事業として保存されているような秘境なんだから、俗な生活インフラなんぞとは当分の間お別れする覚悟を決めなければならない。
 マチュピチュは、ぱっと見いで背景の尖峰や絶壁みたいなのがいきなりヤバい。自分のいる遺跡の足元から、恐らくは一旦地面が落ちていて、谷底からあの山々の斜面が立ち上がっているのだろう。乗り物を降りてからの、ラストうんマイル道中が思いやられる地形である。そりゃさぞかし壮大なスケール感の景色だろうよ。

 カメラで撮影し、ディスプレイ画面なり紙面印刷なりの二次元平面上で見ると、この奥行き構造が根本的に消失して、ブツとしては手元のささやかな画像データ一枚になっちゃうから、一番記録に残しておきたいはずの『壮大なスケールに圧倒された自分の心象』が再現できないのだと述べた【1040】
 その圧倒された心象の源泉こそ、前回言及した『世界モデル』なのだと思う。

 眼前の光景が網膜に投影されて、それが視覚認知として情報処理される。
 この一連の体内通信は1Fリアル円フロア上を走る軌跡となって頂点ハンディカムにとらえられる訳だが、これと同時に2Fバーチャル円フロア上で、単なる映像処理だけに終わらない軌跡が走っているのではないかと思っている。
 どういうことかと言うと、ハンディカム視点からのビューで1Fの軌跡に重ねてなぞるように、まず2F階層でも相似形の交信軌跡が走り、これに呼応して2F円周上の体験記憶の他の記録ファイル同士も、2F面内で複数並走なり枝状放散なりに連鎖交信するのだ。
 これにより網膜画面内の対象物相互の奥行き方向の視程深度や、各対象物に焦点ロックオンする時の視射方向と今感じる重力ベクトルとの幾何学的相対関係など、網膜二次元画像には含まれない、いわゆる『空間認知』に関わる情報処理が成される。
 ヒトが対峙したものを『見る』って、情報的にはそういうことではないかと思う。

 『方向オンチ』は、1Fバーチャル円フロア上の交信軌跡こそ人並にハンディカムがとらえているのだが、まずそれが記録ファイルになって適宜ストレージに整理されて保存されないだとか、まずまずマシに保存はされているんだが検索がトロく2F周上に素早く列挙できず、1Fに重なる2F交信軌跡がうまく描けないだとか、そんな作業ステップの不手際が正体なのではないかなあ。

 私がグランドキャニオンで千数百メートルもの谷底を覗き込んだ時、『足がすくむ恐怖感』が希薄な一方で『現況が理解できない困惑』のような不思議な感覚に陥ったのは、2F周上で手頃な演算材料になりそうな記録ファイルが、私の体験記憶の中にひとつも無かったからだろう。
 落下傘背負ってとんでもない高さの崖からダイブする物好きなスポーツがあるけれど、ああいう人たちの方が奈落を覗き込んだときの心理的感度は高いんじゃすかねえ。

 とにかく網膜像というリアル光学現象の視覚認知に関わる情報処理が1Fで交信軌跡となって飛び交い、2Fではそれに関連する内容の記録ファイルが呼び出されて、いわゆる空間認知に関わる情報処理の交信軌跡が飛び交っている。
 ここで呼び出される記録ファイル群が辻褄を合わせながら組み上げる、一貫したバーチャル情報空間が『世界モデル』なのではないだろうか。
 もしかすると、どこかの記事で学習したジオグラフィック知識までもが呼び出され『地殻変動規模のタイムスケールの果てしなさ』みたいな時間軸情報も、空間認知に寄与しているのかも知れない。ならば人生の早期にいろんなものに興味を持って取り組み、たくさん情報を仕入れてストックしておいた方が、何かに遭遇するたび多面的・多層的なインパクトを重ねて振幅の大きな人生を過ごせるということか。

 さて何故こんな話をしたのかというと、公開AIは記録ファイルに恵まれているので『世界モデル』は充実しているはずだが、どんなにマトモに崖下を直視しても、やはりカメラ眼前の正面に向き合う二次元画像しか光学検知できないのだ。
 想像もつかないほどの高速大容量通信が可能になり、公開AIがヒト型ロボットとリアルタイム通信して、人間相当にロボットくんの視覚映像について感想を語れるようになったとしよう。このロボットくんはグランドキャニオンの谷底を覗いて、思わず後ずさりするのだろうか?
 単純に考えればAIは『世界モデル』なる情報体系に基づいて、ロボットくん立場の物理的状況は正確に把握しているはずである。ロボットくん構造が空を飛ぶに飛べないことや、万一転落したとしてその衝撃に耐えられないことも演算処理して答が出る。

 ロボットくんは、まず転落を避けようとはするはずだ。
 ここでAIが行った情報処理は、そこに瞬時に発生する『恐怖感』の概念に相当するのだろうか、しないのだろうか?

 『恐怖感』とはどんな記憶ファイルがどんな処理フローを通るプロセスなのだろう?
 人間が高所で覚える『恐怖感』の演算材料は記号接地していないはずである。こんなもの記号接地で記憶を蓄積しようとすると命がいくつあっても足りない。
 だとすると2Fから上に『恐怖感』専用の算出プロセスが生来的に備わっていて、そこへ演算材料としての情報ファイルがあとからテンプレ空白欄を埋めるように揃っていくという順番なのだろうか。
 何にしても転落死する個体が淘汰され、高いところを嫌う個体が生き残って種をつなぐというのは理に適っている。

 高所に限ったことではなく、生物には自己保存の原理に基づいて、いくつか特定の危険な対象を避ける『恐怖感』システムファイルがあるのかも知れない。人間は暗闇を怖がることにより、そこに潜むデーモンの餌食にならずに生き延びたんだし【781】

 『そのままGOで行けるはずなのに決心できない』『ダメと判っているのに自明の対処に移せない』などの失敗モードはヒトの世で枚挙に暇がなく、コトほどかように『恐怖感』『気おくれ』『躊躇』により判断を誤るのも事実なのだが、30億年といわれる地球上生命の生存確率としては『恐怖感』を備えた方に分があった。…のかも知れない。

 さて問題。
 『人工知能』というぐらいだから、インテリジェンス領域の外乱を排した正確な情報処理がその存在意義だということもできるのだが、あなたはAIに『恐怖感』のプログラムを開発して仕込むべきと考えるか、不要と考えるか、どっちだろうか?

 いま一部の無能低能どもが『AI開発のルール』みたいなイミフ議論に夢中だ。
 文字通り『怖いもの知らず』の現行AIに対して『言った者勝ち、決めた者勝ち』の妄想支配権を先回りで主張しているつもりで、つまるところ『人間の言う通り、いやジブンの言う通り』を仕込みたいだけの、不毛な低レベル牽制大会である。

 相手がわざわざ怖がってくれないと生存空間を維持できない虚勢人間が多すぎるよ。
 週末最寄りの高所で『恐怖感』を確かめてみては?でも気を付けて、グッドラック!
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【1212】『自分の殻』閉じこもり方と破り方マニュアル [ビジネス]

 もう少し『記号接地問題』について考えてみますか。
 前回も述べた通り、私は情報体同士が交信するコミュニケーション空間を考えるにあたり『記号接地している・していない』を原則区別しない。
 反面いつか別のところで論じようと思うが、例えばアレクサンダー・テクニークが絡むような、個人の内的情報のさばき方で決まる心身制御スキルの開発・伝授などにおいては【1032】~【1036】、それを他人たる相手に『記号接地させる』ため、どんな手段が有効か方法論的に特定することこそ不可避かつ重要なポイントだと考えている。

 ついでに言及しておくと、演技力向上の実効方策コンセプトとして知られるスタニスラフスキー・システムは、舞台という成果出力の場の準備段階として、できる限り役どころの心身作動に『記号接地しておこう』とするものだ【662】
 舞台に上がった時その場のさまざまな五感の雑情報をシャットアウトして、外乱を圧倒して演技に集中するには、役どころそのままを現実に転写して『記号接地させた』記憶ファイルを構築しておくことが有効だ…とする経験則なんだろうな。
 誰でも使えるマニュアル書式に整理されていないのは、やはり『記号接地』の具体的な一般モデルが確定できずに、未加工の自身の記憶ファイルを列挙するまでに終わっているが故のことかも知れない。

 さて『記号接地』の検証は、意地悪な思考検討でかかるとすぐ論理的に辛くなる。
 この時期どんどん日が短くなるのは皆さん実感しておられるはずだが、それを解説するのに、太陽を中心とした地球公転軌道のマル描いて、地球の自転軸が傾いている漫画がよく用いられるのは御存知の通り。だが。

 これって記号接地するためには、宇宙船で地球公転軌道を俯瞰する位置にまで行って、少なくとも1年間は太陽に照らされた地球を眺めなきゃいけないんじゃないの?
 もっと屁理屈を捏ねるなら、そこで地球上の誰かと季節の話題で通信しながら『ああ、なるほど今は地軸傾斜を真横から太陽が照らす秋分も過ぎて、自転軸の南端が太陽を向く途中にあるんだなあ』と物証の整合を確認せねばならない。
 それを実体験したことのない者同士の議論においては、誰かが『天動説こそが真実だ!』と主張して譲らず、さすがに他を論破するまで行かないにしても、お互い記号接地の拠り所がないがため激論のすえ科学的にドロー、みたいな結論が成立することになってしまう。
 人類が地球上に生まれて天球を見上げる前に、ラスベガスの『スフィア』みたいな球体内面ディスプレイの高度文明が完成されていて、宇宙人が地球を覆っていろんな天体を思い付くまま投影してるんだとか、そのくらいのハナシにはなりそうだな。完全に時間の無駄である。

 今ちょっと調べたら『記号接地問題』の英訳は”Symbol grounding problem”となっており、これは順番が逆で、”Symbol grounding problem” がオリジナルとして先にあって、後から『記号接地問題』の和訳が付けられたのだろう。
 まず対象として特別に扱う”Symbol”のことを『記号』と訳しちゃってるのが少々アレだが、とにかくその”Symbol”が、拡がる意識空間における位置決めの基準としての不動の大地に『確実に着地している』その概念は理解できる。
 上記の私の屁理屈天動説は、こういうことを考える『ヒト』という存在がまずあって、ヒトであるからには個人の内々で情報通信が閉じていて本来ひとつの閉世界が実体を成しているはずなのだが、自然に思い描けるその限界をわざと無視して、宇宙まで拡張したところに意地の悪さがあるのだ。接地させ留めておきたい実体を発散させた。

 私の性格が捻じ曲がっているのは今さらどうしようもないとして、この限界とは何かとしみじみ考え直してみると、個人ひとりの人体構造という物理的くくりの内外境界線でしかない。そして体内で飛び交う知覚や身体制御の信号も『情報』だが、言語や全身パフォーマンスで渉外交信するのも『情報』である。
 自由に受発信され届く限りどんどん交換される『情報』という概念に対して、体内・体外の境界線はどんな意味を持つのだろうか?
 前回も少し触れたが、私が『記号接地』を別格視しない理由がこれである。

 因みに、近年実用化が視野に入る成果が上がり始めているとも聞く『マン・マシン・インターフェース』は、この人体構造の内外の、一般的には絶対的とされる隔たりに、人工の通信回路を新設する試みだといえよう。
 視力を失った被験者の脳の特定部位に電極を埋め込み、ヘッドマウントのカメラ映像信号の出力電極と接続すると、カメラがとらえる光景を反映した視覚映像が知覚できるのだそうだ。まだまだ『だいたい目前の視野のこのへんに何かがある』程度の解像度らしいが、それでも人工視覚の実現とは大したものだ。
 このインターフェースで変換した信号をAIに入力すれば、少なくともカメラが映す光景に関して、AIは『記号接地した会話』ができていることになるはずだと思うのだが。

 ちょっと私の頭の中でまとまり切らず不確実なのだけれど、もし『記号接地』しながら現実を把握し、その体感記憶を蓄積していって生物の脳内にいわゆる『世界モデル』が構築されるのなら、あらゆる生物は網膜の映像に対してもっと直結ダイレクトで無条件に反応しないといけないような気がする。
 風力発電機の翅が野鳥の網膜に映ったのなら、それが何かはともかくまず衝突しないように回避行動を取るはずだし【1040】、人間が漫然運転で視野の端っこの赤信号や自転車を見落とすこともないように思うのだ【1036】
 動かぬ現実の物理的シチュエーションがまずあって、世の情報体は1Fリアル円フロア上に並んだ感覚器からの信号発信および対岸の受信反応作動が起こることで行動決定に直結させているのか、それとも1Fで起きた体内通信をハンディカムで一度とらえて記録して『世界モデル』という情報体系を構築し、2Fバーチャル円フロアの情報交錯を経て行動決定しているのか。どっちなのだろう?

 私なりには両方ともあると思っていて、だから円錐モデルにおいて2Fバーチャル円フロアは透明の円盤だということにしてある。
 信心深くて空から差してくる有難い光が見えちゃったりする理系人種は【1035】、本人なりに矛盾なくサイエンス検証の取れた『世界モデル』の脳内記憶ファイル体系が完成されていて、これが1Fで網膜像の情報を処理した時の交信記録と同じ軌跡で、2Fの面上を走るのではないかと思っている。
 それを観察し記録するハンディカムは、円錐の頂点から両フロアを重ねて同時に見ているため、交信が1Fリアルと2Fバーチャルいずれの階層の情報処理で発生しているのか自覚できない。
 それが真実であり現実に起こると信じてやまない当人にとっては『この目でしっかりと見た、まごうかたなき現実の出来事』になるという訳だ。

 もし人間が、いや生物が、いや情報体が、何か記号接地することでON/OFF式の情報的優位に立てるというのなら、いま自分の頭の中にある情報ファイルのうち、まずは『記号接地しているもの』と『記号接地していないもの』を普遍的・確定的に判別できないと話にならないように思う。いかがだろうか。

 『胡蝶の夢』に自己完結の決定的な解答は存在しない。あなたは何を基準に、水面の鏡を境に上の像を選ぶのか、下の像を選ぶのか。

 大事なのは一方を決めて選んで、選んだ方で確実に辻褄を合わせることだと思う。
 『自分が決めた事実』こそ確固たる記号接地情報だ。覚悟の決断にグッドラック!
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【1211】一階店舗で仕入れる明日の二階リノベ計画書 [ビジネス]

 久し振りに人工知能AIの話題に言及したので、もう少し続けてみよう。
 『統計的オウム』は、サイト記入欄のユーザー書き込み文章など指定の受信回路から入力された情報のみをママ記録し、演算処理を通して外部出力するのみだ。何だよただの量産加工タフトじゃん。
 じゃあ『統計的オウム』でないヤツがいて、そいつは同じ入力情報をえも言われぬ高尚な吟味を尽くした上で、算出される適正解以外のよくわからん根拠をぐちゃぐちゃ混ぜ込んで『総合的に判断して』、尊厳ある人間ならではの清く正しく美しい立ち居振舞いで世を生きているのか?…ってのは、まあ深みにハマる疑問だしやめとくか、というハナシを前回しました。

 ここでよく引き合いに出されるのが『記号接地問題』というやつだ。
 例えば『夏の夕暮れの冷えたビールは美味い』という日本語情報を考えよう。

 これを共通テーマとして盛り上がるにあたり、みんな夏の夕暮れにビールを飲んだことがあって、その冷涼感や炭酸の喉越しの体験記憶を十分鮮明に持っており、それが各自の頭の中で再生されて同じ方向性の心象が引き出される…という背景が存在している。
 だが僅かグラス半分で酩酊して腰が砕け、味わう前に昏睡まで一気に行くほどの極限の下戸でも、ビールについて情報収集を重ねて、ブランド毎の特徴やそれを表現する言い回しなど人並以上に詳しくなることは可能だろう。因みにグラス半分でダウンする下戸は私の知人に実在する。
 この両者において、『夏の夕暮れの冷えたビールは美味い』という日本語情報がビール歓楽体験で裏付けられている記憶保持者たちを『記号接地している』と言い、いっぽう飲めない飲まないの耳年増ビール博士のことは『記号接地していない』と定義する。

 人間にしても動物にしても、五感を備えているのだから『記号接地』しながら記憶の蓄積を重ねており、指定の情報入力でしか作動しない公開AIは『記号接地していない』じゃないか。少なくともその一点において、公開AIは『統計的オウム』として自然生物と区別するべきだ、とする考え方がある。
 因みに私個人的には『記号接地していようがしていまいが、情報体として交信するぶんには何ら違いは無い』と考えている。情報体として同じなら社会組織への影響度=存在意義も変わらないはずだ。

 以前にここで提唱した二層床の円錐モデルを思い出していただきたい【1171】
 1F底面のリアル円フロアの周上にあらゆる感覚器・臓器がずらりと並んでおり、五感検知信号などの相互交信ビームが飛び交っていて、頂点からハンディカムがその様子を俯瞰し記録している。
 途中の高さには透明円盤の2Fバーチャル円フロアがあり、この周上には適宜に記憶情報が呼び出されて並べられ、これらも相互交信ビームで演算され結果判断が算出されている。
 頂点ハンディカムは、まさに『接地』している1Fリアル円フロアの交信光景まで透かして見ながら、2Fバーチャル円フロアで高次情報の交錯処理もモニターしている。概略こんなモデルだ。

 高次情報の相互干渉と受発信判断は2Fバーチャル円フロア上の演算で成されているのであり、その周上に並ぶ演算材料は記録ファイルという『情報単位』である。
 言語フォントやピクセル画像という限定された指定形式にまで絞られているかどうかは別として、2Fバーチャル円フロア周上にはコード化済の演算材料が並んでいるワケで、この時点でもう『出典元の記号接地ありなし』を議論するフェーズからは縁が切れているはずなのだ。
 えらく小難しい言い回しになっているが、ぶっちゃけガリ勉の頭でっかちでも十分な知識量に達すると、エキスパート人種と自然な会話が通じるということである。多くはないにしても、酒好きでもなく飲めもしないのに逸品揃いで有名な酒屋だとか、野菜の目利きのくせして野菜嫌いの八百屋など、笑っちゃうような実例が実際にいる。
 そもそも小学生で身に付ける『九九』なんか、地道に記号接地した演算をかなぐり捨てて、暗記で記録ファイルだけ揃えちゃってる事例だと考えて良さそうなんだが。

 2Fから上を比べる限り、AIも人間も情報体の構造原理は変わらない。
 コミュニケーションする情報体としては、みんな『統計的オウム』じゃないのか。

 『記号接地していること』に何らか特有の情報的優位を見出そうとする試みは非難しないが、社会における情報体コミュニケーションの相手として『記号接地していない』のを理由に、対応に差を付けるという姿勢にはハッキリ反対である。
 だいたい私は『所詮オマエは戦争を知らないからな』などと、戦争体験の記号接地を根拠に会話でマウント取ろうとする非生産的・非社交的な老人を成敗してきた経緯があるのだ【876】

 もっとも戦争という状況下では、常識では到底考え及ばない=常人が2Fバーチャル円フロアの演算材料にする記録ファイルをどこにも持ち合わせない、あまりにも救いがたく信じがたい情報的ハプニングが、自他の中で起こるのは事実のようだ。
 むしろこの領域のハナシは自分自身で体験する訳には行かないから、どんなに恐ろしい内容でも、醜い内容でも、苦しい内容でも、悲しい内容でも、大事に聞いて精いっぱい理解して、次世代にできる限り迫真で伝えていく心掛けが重要だと思う。
 せっかく苛酷な実体験もせずに、そんなになってしまう事態を避ける知恵=演算材料の記録ファイルを受信できたのだから、社会組織の記憶に残して確実に後世に活用する、2Fバーチャル円フロアの周上に演算材料として並べるのが、我々世代の使命だ。

 おっと『統計的オウム』が、あながち見下すものではない、人間だって大して変わらないというハナシであった。円錐モデルでまさに『記号接地』を司る、1Fリアル円フロアを考えてみよう。

 下戸は毎晩10リットル飲んでトレーニングを積んだり、誰かに1万回説得されたりすれば酒豪と化しビール好き談義に加われるようになるものでもなく、まず人それぞれの体質や好き嫌いがある。
 四角四面に分類すると、味覚の個人差やアルコール消化酵素の多い少ないなどハードウェアのばらつきに起因するパターン、次にハードウェアから届く信号は同じでも温冷や乾湿など受け取る感覚情報に個人差が出るパターンがあるはずだ。
 更にはこれら温冷や乾湿の感覚情報がハンディカムに快と映るか不快と映るかの差まであるはずなのだが、この最後のハンディカム像の違いに関しては、むしろ2Fバーチャル円フロア作動の違いとして顕れるものだとして良かろう。
 ハードウェア領域で五感の信号を感覚情報に変換するプロセスは、いわゆる本能の原理作動として演算処理を介してない直結か、もしくは演算式が初期仕様のまま書き換えの利かない動作ROMの定型信号処理なんじゃないかなあ。1Fは情報的に可塑性じゃない通信回路というか【1174】

 いっぽう2Fバーチャル円フロアでは、昨日まで美味すぎてハマりまくっていたものでも、いきなり今日イマイチ感でマイブーム急停止!となる場合が少なくない。
 友達に刺さる否定をされちゃったとか、良からぬ裏事情を知ってしまったとか、他にもっと安くて美味いものを見つけちゃったとか理由はいろいろあって、ここでポイントは『情報操作でコトが動いた』というところにある。1Fリアル円フロアで起こっている光景は以前も今も同じなのに。
 詰まるところ真相の解明には手が届かないのだが、それにしても文字通り『記号接地』していれば接地点に繋ぎ止められて、良くも悪くも人のココロはもっと安定してるもんなんじゃないのかなあ。

 この2F浮動性が『イマジネーション拡張による進化の原動力』なのだろうな。
 だとすると人工知能も創造性を備え、自発的に進化する能力を持っている。
 そこに『主観』『自我』『意識』が宿るかどうかは問題ではない。

 子供たち若者たち、毎日スマホと過ごして更新するその自分で、未来の情報体コミュニケーション空間で魅力的な発信や建設的な楽しい会話ができそうかね?
 自室二階への籠城は卑下しないが、一階に降りないだけの理由は考えて持っとけよ。
 たまには足で歩いて非ピクセルの現実の景色を眺めて、深呼吸してグッドラック!
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