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【1149】失語症動物病院のカルテ炎上バトル [ビジネス]

 いよいよNHK朝ドラ『舞い上がれ!』も最終回を残すのみとなった。
 総じて完成度も高かったし個人的にも楽しめて、『カムカムエブリバディ』と並ぶ好印象である。長いことこの枠は、日本社会の一般家庭の朝の日常ルーチン視聴を狙うが故の、心温まる庶民ファミリー系ストーリーで数珠繋ぎしているものと思い込んでいたのだが、なかなかどうして仕事ありいの歴史ありいの経済ありいの…と盛りだくさんなことに感心している。いやいや、面白いです。

 これこの通り、今やすっかり廃れたテレビ業界だが、まだまだ各家庭にほぼ一家に一台テレビが普及していて、普通にスイッチ入れれば当たり前にユーザーが関心を向けてくれる『魔法の箱』は十分なマス・コミュニケーション回路として機能を維持しているのだ。
 この不況下でもこんなに『使えるツール』を、今こんなにまで使えなくしている元凶は何なのか。真剣な改善の取り組みを諦めるか諦めないか、真面目に節目づけて考えて決めた方が後悔が無いと思うけどな。

 おっとっとイカンね。散ってしまう前に一回ぐらい今年の桜のハナシをしておこう。
 『あれ、もう?』という印象で3月中盤のうちに開花して、あれよあれよという間に都心ではもう満開を折り返してる感じだから、えらく早いなあというイメージは確かにある。桜の花の下で入学式…という場面設定の広告なんか全く見かけないもんな。
 ただ私が北関東某所に暮らしていた二十世紀の頃、毎年4月に近所で桜まつりが開催されていたのだが、やはり3月のうちに花見も花も完全に終了という勢いで季節が過ぎていった年があった。4月になり、花の跡形もないどころか青々と茂った葉桜のもとに屋台が並んで、なんとも妙な風景になっていたものだ。

 各地で事情はばらつくんだろうが夏の花火大会も含めて、ああいうのは具体的にはどんな調整作業がなされ、どんな公共社会の現物たちが、どんな会期スペシャルのイベント対応モードになっているのだろう?
 大きな河川の可動堰やら平面確保の多車線道路やら、その時その場を目掛けて、近接地域の消費電力の融通計画やら主要幹線道路の渋滞防止措置なんかが必要だというなら、行き当たりばったりでスケジュール変更できないのは直感できるけれど、そんな重たい条件に縛られたケースばかりでもないだろうに。
 前日・前々日はあんまりだが前週・前々週あたりから天候その他の周辺事情を睨みつつ、最初は幅を持たせて後に段階的に精度を上げながら開催スケジュールを固めていく進め方はできないのだろうか。
 半週単位ぐらいなら現状の通信網で十分に遅滞なく関係者周知や来客広告が変動可能だとすると、各地イベント開催日程の最適化で刈り取れる地域経済の収益は、随分と改善するように思うのだが。

 これだけ日本経済の末端現場が活力を失って久しいのに、各地イベントが運次第でお流れになるのを手付けずで見送るばかりってのは、もったいない損失だと思っている。
 いざ公務手続きプロセスを精査してフタを開けてみたら『法律や条例でスペースや道路の使用許可がいついつ前までと決まっているから』みたいな、役所事務の古来の慣習がこびりついて動かぬ根拠に化けていた…みたいなコトは無いだろうな?
 末端から召し上げた税金資本で大企業並の高給を取る公務員が、この程度の改善努力も尽くしてないなんてことだと、誰がどう納得しようがしまいが、日本円経済のカネ廻り原理として好景気は成立しないぞ。

 ま、このあたり実態がどうなっていて、現実問題として改善の余地があるかどうかは地元毎に御検討いただくしかない。確かに『コレコレこの書類作って承認印が入ってりゃいいんだろ』『許可さえ下りりゃココ塞いで今すぐ場所確保、でいいじゃん』みたいな、ナニとナニを右から左へ動かせば勝ち式の町内会行事みたいな意識で攻め込まれては、公共社会を維持運用する役所公務に間違いが起こってしまうから、本末転倒にならないよう成人社会人として現状を見直す心掛けは忘れないように。
 誰も見ないような高額の花火を北米から何百発も勝手に買い付ける決定を出しておいて、『決~まった~、決めちゃった♪』でおしまいにするような議会は即刻解体して、こっちを一件ずつ確実に進める方がよほど実効的な景気改善策だろう。

 さてそれはそれとして、単に『いついつにこんな内容の会議をやりました』という記録ひとつ決め打ちで出てこないような役所を、日本国民の税金で維持する理由がどこにある?こっちも黙って見過ごして良いハナシではない。
 まずカバが、たかが畜生の分際で役所組織の記録に『怪文書』などと幼稚くさい悪口を放って許されると勘違いする、そんな議会の場の陳腐さ軽さに腹立たしくも呆れるけれど、『報告はあった可能性が高い』だとか何とか、おのれの業務記録をただ確認して返すにはあり得ない意味不明な答弁をする役所の不真面目さも、イチ納税者イチ国民として全く看過できるものではない。

 これでは公務ルールとして何が決まっていようが、業務標準として守るつもりもなく、遊び半分に作文して税金で給料取ってます、と公言しているようなものだ。給湯室や喫煙室の立ち話がどうだったかという事実確認ではないのである。
 マジ険悪なヤキの問題意識として、必要とされる局面でジブンち公務の記録情報を議会で運用できないような役立たずの役所なら、業務監査のガサを入れるかどうか、担当者・責任者のクビを飛ばすかどうかという重大レベルの事案だぞ、これ。
 カバもバカもグダグダ議会も丸ごと一掃に加えて、初歩的な仕事もしないできない無能役所までガラガラポンで一挙解体して、この程度の業務が普通にこなせる人材に総勢入れ換えねばならないってことかよ。

 いかんな、ハナシが予想外に怖くなっちまってるっけ。まだ夜は寒いので、夜桜で飲んだ帰りに酔っぱらって道路で寝るヤツはいないんだろうけど、もう少しあったかい季節になると毎年何件かそれをやって轢かれる事故がニュースになる。
 そりゃまあ轢き逃げ事件として扱われるのだけれど、容疑者呼ばわりされた運転手が『人を轢いた覚えは無い』と主張するパターンは珍しくない。

 暗い夜道、あなた自身が車を運転して、いつもの家路を急いでいたとしよう。
 いきなりゴリッと、石でもない嫌な固さのそれっぽいモノに乗り上げた突き上げを感じたら、あなたは即座に停車して現場確認すると言い切れるだろうか?
 『えっ…?…あれ?…ウソ?…ナニ今の?』の茫然空走を続けながら、『まさか人じゃないよね?こんなとこに寝てるはずないもんね?ね?ね?』の自問自答を繰り返したりはしないだろうか?
 この類の不幸の巡り合わせにおいて、さっきまで日常を過ごす一介の小市民だった運転者が、『ヤバい、逃げちまえ!』の邪心にまで到ることはまずないと思われる。だがむしろ茫然自失の判断放棄までは普通だろう。
 『わざわざに人を轢いたと自覚しになんか行けない。今まだ見てない判らない、怖いどうしよう?』で精神的に行き詰まって思考停止、全てはなりゆき任せ…あたりがありがちなはずなのだ。

 もちろん人を轢いたら運転者は直ちに救護にかからねばならないが、それは『人を轢いたら』であり、これが犬猫など動物であれば、倫理道徳はともかく走り去っても暮らしには特段の支障もなく済ませられる。そして『人を轢いた』と認識したかしないかは、少なくともこの時点たった一人でステアリングを握るあなたの意思で決まる…ような気がしているはずである。
 実はこの時点で『現実』は別途確定しており、その時その場のあなた個人の世界をいっぱいいっぱいにしているその認識も、その『現実』の総観的経緯のイチ項目でしかないのだけれど。何はともあれ、そんな『現実』に即して事後の物事の処し方が決まる。

 …いや前回に続いて、知人同士の軽い物損処理に関わったことがありましてな…

 不慮の事故でもない、ましてや国家運営の一環として税金資本の公務で行われた『現実』に関して、共通認識に行き違えの無いよう規定に則って『記録情報』が文書として残されるのであり、そこに書かれた日本語を指して『捏造』だの『可能性が高い』だの、現実との整合を意図的にぼやかすような態度は絶対に許されない。
 議会の場はともかく、心得を欠いた不備の言動に影響され作動を狂わされた社会の現場では、大勢の人が生活を奪われ時に命を落とす。ヒトが成す国家の重保フェーズの安全衛生管理を知らない、知ろうともしない勘違い畜生どもの動物園は、いち早い廃業と解散でスクロールしていって構わない。

 今夜の宴席はハッピーエンドで夜桜を見送ろう。道路で寝るなよ、グッドラック!
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【1148】駄作後悔の多数決シナリオ作成合戦 [ビジネス]

 正直、サル山の押し引きにマトモな論評をするのは趣味じゃないのだが、日本国民が懸命に血税で拠出する運営資本が浪費されていく光景を看過してもいられない。
 動物園じゃあるまいし、吠えて歯を剥いて、威嚇のふっかけと退かない抗戦ポーズの応酬で勝ち負けが決まるようなつもりで、国会アニマルファイトが許されるテイでいつまでも続けられても困るだろ。ヒト文明の議会の場なんだから、ロジカル判定の筋道一本ですぐ結論の出るハナシだろうが。

 『事実はコレコレこうのはずだが、記録文書の記述はソレソレあれれとなっている。この相違点をもって、役所が記録を捏造した!とワタシは言っている』
 カバの側にこのハナシができないなら全ての答弁を切り上げて即刻に辞表を出せ。日本全国から買い倒しているヒンシュクの長期負債を考えろこの脳足りん、何を手ぶらでふんぞり返っている?

 幼稚にも程があるとはいえ、野党の誘導尋問に引掛かって議員生命を賭けるような発言にクチを滑らせた経緯はみんな見ているから、とにかくそこでの約束通り辞表の現物を用意した上で身の処し方について議会に神妙に託したとして、やられ放題だけの無茶な追い込まれ方はしないはずだ。
 『いま捏造という表現を使うような事実関係は提示できません。つい意地の応酬で、せっかく有権者に支持されて得た議員席を軽々しく賭すような、許されない私情の暴走をやらかしてしまいました。申し訳ございません』
 ここまでは議会全体いや日本社会全体に合わせて、やっちまったことを『事実』と認めて認識を共有しないと、まさに見ての通り周囲の全員からコミュニケーション回線を切り捨てられて行き詰まる。

 与野党問わず、何かにつけ議会の役職や議員ポストを賭けるかの言質を取りたがる風潮もロクなもんではないが、威圧目的に場当たりでテキトー強気な主張だけ抜かしておいて、後はとぼけたり誤魔化したり黙り込んだりで相手の根負けを狙う昭和ダメオヤジ文化も、決して手ぬるく見逃せるものではない。
 このくらいのこと日本社会に暮らす成人社会人は理解しており、いい大人が何の会話に乗せての応酬であろうが、『相手の意見に大衆の関心が向くのを妨害する』上位気取りの居丈高も、『けしかけて後々引込みのつかない強気の失言を呼び込む』子供じみた言質取りも、みっともない低レベルの作戦はみんな明け透けに見えている。
 いずれもその場の本題を巡る論議そっちのけのマウント取りやワナ食わせが目当てであり、そんな『コミュニケーションとして質の悪いコトバの受発信』なんぞ、議会の場で議題の解決にもならないのに、議員の身分持ってやるこっちゃないのである。
 ここまで全部1億2千万人社会組織の自我が議会を見て解っており、それが実質世論に反映されていることにも気付くべきだろう。飽きず懲りず、そんじょそこらでオオヤケ情報に滑り込まされる『世論調査』、あんな無駄なもの誰も信用しない所以である。

 まあいいや、とにかくこんな時にこそ『いやいや、みんな人間なんだからさ~』という情状酌量の余地が誰にでも保証されていて、売り言葉に買い言葉でつい感情が行き過ぎた時の心情について、本人が当の立場から真実を正直に吐露すれば、それが世の常識として響いて納得され、事情に応じた対処で収まりがつくというものだ。
 やはり議論の場では勝った負けたの構図になることも多いし、つい勝ちを急いで会話の質が落ちることだってある。もちろん最初にそれを意図的に仕組んだなら、仕組んだ方にも相応に評価が下る。
 とにかくここで速やかに本来目的に軌道修正して無能低能な時間の無駄をやらないのが、税金でプロフェッショナルに運営される議会というものなのだ。
 そもそも論からすれば、選挙の時に正しく能力と適性を見込んで議員を選出する日本国民の一人ひとりに、その認識が足りなかったから今こんなことになっている。以上を理解したら、そろそろ日本国の議会でこういうのは打ち止めにしていこう。

 …って、うわ~くだらない話題にスペースを割き過ぎた。ハンパ気味で悩んでいたボリュームのトピックで残りを埋めていくとするか。
 いよいよ今クールのNHK朝ドラが最終週を迎えるんだよな。15分一話なので惰性や流しが許されないという宿命がいい縛りになっているのか、どの作品も最後の最後まで激動アイテムを引張る傾向があって楽しい。

 それはそれとして、劇中のみならずの空飛ぶクルマのみならずで、ハダカの回転翼には考えることなく身体で反応する脊椎反射を、ぜひ身に付けておいていただきたい。
 『高速回転するデバイスの回転面上には、絶対に立たないこと』

 絶対に、である。万一の時にその遠心力がモノを振り飛ばしてくるからだ。
 高精度のネジで組み付けられたCFRP製の強靭なプロペラ翅も、表通りから突込んできた暴走車が相手では折れて飛んでくる。プロペラが丈夫で折れなくても、接触した相手の何かが叩かれ弾かれ飛んでくる。刈谷先輩のイメージレンダリングにも細いリング状の回転翼バンパーが確認できるが、プロペラ端を筒状ダクトで覆う設計思想が欲しい。
 随分前になるが、フリオ・イグレシアスの息子さんがライブステージ中に近寄ってきたドローンに手を伸ばしてしまい、接触して血まみれになっていたのを思い出す。とりあえず指を落とさなかったのが何よりだが、かなり深い怪我で痛い思いをしたはずだ。

 回転デバイスではないけれど、この愚かな私自身はその昔、100気圧を越える高圧作動の試作機械で仕事をしていて、内部残圧を見落として肝を冷やしたことがある。
 結果論として、安全確保を徹底した『つもりだけ』の、この自惚れ屋の不注意だ。
 ええ運が良かっただけです。現実を見誤った間抜けが危険きわまる失敗をしました。

 もう中堅というにも十分すぎる経験を積んで知識もあり、気を引き締めて慎重にやっていた…つもりであった。だがそれっぽっちの『つもり』なんぞ、現実の結果の前には紙屑ほどの意味も持たない。
 『ズバァアンッ!』と周囲丸ごと圧力波で吹き飛ばすかのような空気騒音とともに、私の手元から三桁の残圧に撃ち出されたステンレス栓は、カンカンカンカン!…と作業室じゅうを3Dビリヤード状態で数回跳弾したものの、実に幸運なことに誰にも、何の大事な物にも当たらずに落ちて止まってくれた。鼓膜も無事だった。

 すぐにあっちこっち通路の向かいやその先の作業室からも、仲間たちが音に驚いてナニゴトかと様子を見に駆け寄って来てくれたものだ。
 『いや、こういう作業をしていたところ、かくかくしかじかで…』と取り乱しもせず半ば茫然と、目を点にしてありのまま第一報を淡々と説明するものの、どんどん指先が冷たくなり身体が凍え始め、血の気が引いて行くのが自分でも判る。実際、見ている先からみるみる表情が凍り付いて真っ青になり震え出したそうだ。

 事故が起きる時はそういう順番なので、起こったが最後どんなに気を付けていてもキホン手遅れということである。重保現場の行動規範が、何だか判り切っている絵空事を型にはめるだけの、小学生の集会ルールみたいな心象に感じられるのはこのためだ。
 危険は未然の意識の外側にある。現場ルールには黙って厳格に従え、死ぬぞ。

 私は自分にも仲間にも備品にも損害を出さずに済んだが、運=何度かに一度は確実に発生する確率の問題として、一生巻き戻せない後悔に紙一重でかすったワケだ。
 夢と希望に溢れた楽しい機械技術の開発現場は、条件の巡り合わせ次第で猟奇スプラッターそのままの絶叫シーンに急転直下する。怖い思いをするぶんにはどんなに怖くても取り返しがつくが、痛い思いや悲しい思いはしばしばそれで終わってくれない。

 切羽詰まった日本国民の社会生活の現場実情を前に、答弁として言った言わないの『情報』だけのらりくらり弄んでコトをさばける、税金資本の重大責務の居場所があると思うようなサル畜生カバ畜生に、金輪際議員ポストを預けてはならない。
 そろそろ選挙シーズンだ。安全な生活現場を支えるその一票に、グッドラック!
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【1147】仮想バリューIQの新世代ブロックチェーン [ビジネス]

 おや急にキッシーが高跳びしちゃたよ。いなくても誰も困んないけど…と思ったら。

 いなくなる時も存在感なくて気にならなかったキッシーだが、今朝いつの間にか帰ってきたとかで、いきなり『国際秩序を揺るがす暴挙』がどうたらこうたら、イミフに火薬臭い寝言をタレ始めたようだ。
 もう国内じゃ誰も相手にしてくんないんで、わざわざ花火が上がってるとこに出向いたアピールのテイで、日本円経済自爆の狂乱散財宣言を外向き勝手に言いふらしてきました…みたいなことでなきゃ良いけどね。

 カバおばちゃんの件はさあ、そもそもから謝罪とか撤回とか誰もそんな議論はしてないんだよ。五十歩百歩のダメオヤジ学級委員長が風紀チェックのお小言を入れたとか入れないとか、それも含めて何からナニまで、全部時間の無駄だっての。
 カバもカバだが、バカもバカだ。マジで今もこいつらに、毎月100万円もの国民の血税の使途不明スルー認めてんのか?

 マスコミがその存在意義たる社会機能をもって、民間事業体の自由市場競争としてチマタに流す商品コンテンツは、各社が腕によりをかけて自前で内容を構成・管理するのが当然のはずだが、そこに政府が圧力をかけてたんじゃないかってところが焦点っちゃ焦点だろ?
 言ってしまえば、こんな圧力の素振りからあった時点で、マスコミが政府を総叩きにして発信源を炙り出し、公衆の面前で血祭りに上げたあと二度と政治に絡んでこれないように『晒し』で葬り去っていなければおかしい。突込みどころ稼ぎどころをちゃんと押さえないから、SNSにお株を持って行かれて商売あがったりにもなるんだろうが。
 『また』が二度と無いよう、顛末はぐらかす関係者は全員クビでいい、こんなもの。

 さて、こんな現状がくだらな過ぎて本題への持って行き方に迷ってしまうのだけれど、ええい結論から入ってやれ。
 人工知能AIは、今や『社会流通情報のブロックチェーン』として機能し始めている。

 元々は仮想通貨で聞き始めることの多かったシステム管理コンセプトである。その仮想通貨の流通参画者仲間が共有するネット空間で、あらゆる取引が後戻り不可の仕組みで記録され、その台帳が公開されていくというものだ。
 例えば、破綻の行く末を知りつつ自分はその責任追及の矢面に立たない腹づもりだけ勝手に決め込んで、日本円経済を場当たりに揺さぶるようなマネをする経済自爆テロも、個別に明らかにされ摘発されて阻止できるのである。みんなで共有する通貨の機能を守るために、みんなで相互監視し合いましょうと。
 なるほど通貨流通量の管理方策として信頼性は高く、だからかつてのビットコインは堅調に普及を拡げていった。だが取引件数が増え過ぎて相互閲覧管理が追いつかなくなり、事業分裂するしないで揉めるという問題も起こしている。

 ここ最近の急発達で、公開AIが社会の不特定多数のヒトにとって、十分な理知性を感じながらコミュニケーションできる相手としての情報体になった。ユーザーからの語りかけに対して、ヒト並どころかヒト以上に充実した内容の情報を、普通の会話テンポで次々と回答出力してくれるようになった。
 ひとつには、返される回答にヒト並・ヒト以上を感じさせる情報の質・量の満足感の向上が効いており、どうやらそれは内容データ要素の幾何学図形的な構成に乗っかった情報提供によるものなのかも知れない、という話はした【1142】
 で、この情報構造に基づく『自然な人あたり』のIQタメ印象もさることながら、『誰か個人の意思決定に従うものでない』という実感が、むしろユーザーの支持・共感を得られる一番のポイントなのではないかと私は思っている。

 何かのトピックについて会話を進めるにあたって『真実』『真理』の定義は案外とあやふやなものであり、人それぞれ『真実』『真理』は全然違うのが普通だし、それどころか自分一人の中でもコレだと確固として決まっていない場合も多い【1143】
 言われて気付くそんなヒト個々人の『真偽観』において、まず頼りにされるのが『世間一般の多数派の見方』=共通認識なのだろう。
 周囲の他の連中に同調して社会性を維持しておきたい生存戦略もあるんだろうが、そもそも同じ人間なんだから、当該トピックの関連情報を習得したら、自然と収まりどころは似たり寄ったりの認識になりがちなのは当然のこと。『世間一般みんなの認識』として納得して収まったら、その件は関心事でなくなってオシマイってことでもある。

 何年か前にマイクロソフト社の”TAY”くんだっけ、野放しにしていたら人種差別発言など良からぬとされるコトを覚えてしまって問題視され、突然のお蔵入りにされちゃったりもしたものだが【434】、このところ次々と公開されているAIくんたちはキホン対策が打たれているようで、例えばユーザーがヤバい絡みで話しかけると『そういうコトするとアカウント失効するよ』と警告で返したりするのだそうだ。
 とにかくそんな安全装置も付いた最新の公開AIは、確かにまだヒトの感覚に噛み合わない屁理屈でトンデモ自論を展開したり、間違えて探してきたのか創作したのか、嘘八百を並べて根拠めかしてマコトしやかに解説したりしながらも、微笑ましく(?)見守られて、インターネットの大海に揉まれながら学習を繰り返し急成長している。

 AIくんだと、おややちょっと待ってよ?と思うような言動でも『ヒト個人の意図がそこに無いから、むしろ周囲のヒトたちの方が』素直に直視し、的確に対処することができているのが面白い。やれあっちで合成画像のヘンなフェイクニュース流した愉快犯がいるとか、こっちのこのいかにも科学的論調を装った政策スローガンは悪意の世論操作だとか、愚かな人間どものみっともない誤作動を尻目に、公開AIはどんどん『ヒトの誰にとっても信用される理知的判断能力』の完成度を高めつつあるのだ。

 発信源が、個人じゃダメで大勢ならOK。ヒトじゃダメでヒトじゃないならOK。
 でも単に大勢を機械で足して頭数で割った平均値がOKという訳でもなくて、あるデータ変換の方策で大勢の総意を反映させ、それを十分コンパクトに整えた情報を抽出できた時、その結果出力値はヒト過半数の共感・支持を得られる。
 つまり『情報のブロックチェーン』ではないか。その具体的方策らしきものが見つかりかかっていて、いま既に個人保有の階層を離れ、誰のヒト個人の操作の手も及ばないグローバルネットワーク空間の雲上の上層域で、新たな意思決定系統の歴史を刻み始めており爆速で発達進化中…というハナシだと面白いんだがなあ。

 『アナタがどう聞いたか知らないが、あの時ワタシはこう言ったつもりです』とか『アナタがそう解釈しただけだ、ワタシは違う』とか、遂には言い訳ナシにやらかしといて『自分の記憶にはありません』とか、後出しで故意に回線をもつれさせ日本語を通じなくして、一方的に言い張って横車や不始末を済まそうとする黄色いサルが後を絶たない。不毛な持久戦に持ち込んでの、相手の根負けが目当ての常套手段である。
 ヒトとしてのコミュニケーション空間を荒らす迷惑な破滅行為であり、ヒト社会の理知性規律が失われて、この通りヒト社会のサル山退化が進むのだけれど、これからはここにAI回答を割り込ませる解決策が選択肢として期待できると思う。
 『情報ブロックチェーン』を活用し、ヒトの総意をヒト組織の納得する相互管理の抽出にかけ『ヒトが許しても、AIを含むヒト社会が総意として許さない』結論として対峙させるのだ。現状の公開AIで十分適用可能だろう。

 ところで、昭和時代よりも教科書的な『いい子』像が絵空事の理想でなく身近な現実として普及した、洗練された学校環境に育った昨今の若い人たちが、年長世代とくに昭和ダメオヤジ文化としての『チカラ関係』『馴れ合い同好会』みたいなものと折り合わない原因も、こんなところにあるのではないか。
 彼等は古き良き日本社会のヒト対ヒト・個人対個人の精神文化に照らして、ときに習得が疎かだったり粗かったりするのは事実だが、理想像にフタをして個人事情に取り入って群れに居場所を恵んでもらい、残飯で食いつなぐような生来のサル畜生ではない。

 若い人たち、ヒトとAIの共創社会枠を造る時代だぞ。賢い未来にグッドラック!
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【1146】花火ムダ遣い理由のAI言い訳文面 [ビジネス]

 NHK朝ドラ『舞い上がれ!』も大詰めになってきた。私の個人事情として、大阪下町だ飛行機だ機械加工現場だ…などなど何かにつけ波長の合う内容だったので名残惜しい。
 『おかえりモネ』以降すっかり固定視聴者になっている私だが、ストーリー構成や演出などドラマ制作の完成度が、時にAI実験適用を疑うほどよろめく一方、さすがというか役者さんたちは粒揃いの演技力であり、これだけで受信料と釣り合うかどうかは別として、私にとっては視聴する価値のある貴重なテレビ番組となっている。

 『舞い上がれ!』に関しても役者陣の選出と配役の絶妙さが光ったが、スタニスラフスキー・システム的な現実解として成功しているというか、恐らく舞台裏で役を離れた役者さんたちのヒトvsヒト対面の人間関係が、劇中の人物相関図ととても自然に嚙み合っていたものと見受けられた。
 本来、完成品コンテンツの高品質感=リアリティ溢れるコミュニケーション空間の再現…を目的として、最初に出演者体制からこの効果を狙ってラインアップしていくのが理想なのだろう。ムツカシイんだろうけどな。

 例えば青天井で制作費をかけ、現地出張ロケの天候待ちまで徹底し、画面に登場する人物・事物を掛け値なしのモノホンで抜け目なく揃え、ベテラン役者陣が完成された台本を完璧にこなしたとしても。
 そこに、ヒトの自然な精神反応の応酬としてのコミュニケーション空間が展開していないと、もういきなり途中を飛び越して、その世界の土台からナニから丸ごと全部、子供も逃げ出す粗悪な『ガラクタ大根芝居』に落ちぶれる。いわゆる『歯が浮く台詞』を突き付けられると、それが我がコトに向いてなくともヒトは凄まじい羞恥心と嫌悪感の本能プログラムが強制発動するものであり、とても1分と観ていられない。
 少なくとも私の観てきたNHK朝ドラ直近4作はこの領域に真面目な品質管理意識が感じられ、その達成度はともかく好意的に興味深く視聴している。続く『あさイチ』で朝ドラ出演者がゲストになっている回は見逃せない。

 そんなこんなの『舞い上がれ!』だけれど、シメを2025大阪万博につなげる筋立てはなるほど良いアイディアだと思う。
 劇中にしてもリアル商売にしても関わっている技術者は実情を解ってるはずだし、ここは『空飛ぶクルマ』でよろしかろう。市場トレンドの盛り上がりにうまく賢く乗っかって、オイシイとこをちゃんと食うのが技術屋ビジネスマンだ。

 何しろ航空機は軽量化がイノチ、パーソナルサイズのVTOL(垂直離着陸機)ともなると、乗員に重量物の持ち物なんか許されないし、加減速や旋回で空気相手に踏ん張る以上は相当な姿勢変化でGを受け止めることになるから、やっぱりガチの交通機関というよりは短距離・短時間のアトラクションなんだろうな。動力喪失時に滑空できない弱点はどうしようもないので『故障したら即墜落』の宿命を、どう現実的に受け容れるかがポイントになる。悲惨な墜落事故だけは起こさないように、頑張れ。

 さて前回からAIの話題を続けるつもりだったのだが、ちょっと予定変更。米無人偵察機『リーパー』に露スホーイSu-27戦闘機が燃料散布した上に空中接触を仕掛けたとする報道があり、その事実記録とされる動画も公開された。
 無人機運用の作戦となると我々一般人の目に触れることなどキホン無いはずで、今般の事件は非常に珍しく興味深い。
 ぶっちゃけたハナシ『どうせ無人機』なので、危険を冒して低空から偵察をかける訳で、だとすると濃密な空気中だし速度は出さずに軽量簡素な構造とし、ステルス性と航続距離に振った方針で行きたい。あんな感じの意外とのどかな機影になる理由である。

 それゆえ敵地空域にて目視確認で捕まってしまうと御覧の通り撃墜されてしまうことになるのだが、落とす方はできるだけ損傷なく無人機を回収したいはずであり、なるほどとは思うがああいう手で落としにかかるというのは、実際見てようやく納得できた。
 現代の有人戦闘機の機動力は非常に高く【736】、だだっぴろい大空でほんの一粒ぽつねんと単独飛行するターゲットを狙ってミサイルや銃砲の飛び道具を撃つよりは、アクロバット編隊飛行式に相対速度を落として接近していって故意の接触事故、という方策がよっぽど確実というのはすぐ解る。
 また戦闘機からあれだけの飛沫量を放出するからには、衝突事前のぶっかけは特にヘンなものでもなく燃料で間違いないだろう。時速数百キロの速度風があるので発火しても全焼には到らないと思われ、落として回収する前準備としては正攻法だ。

 昔ながらの銃弾・砲弾などのツブテはもちろんのこと、追尾装置や誘導装置を備えた最新ミサイル兵器にしても、宙に放たれたが最後、時に横風を喰らいながら翼とも呼べない小さなヒレで大気相手に懸命に突張って軌道修正する以上のことはできない。
 撃ったら撃ったで一発100円では済まないし、ハズしたタマは消えてくれずに必ずどこかに落ちる、ナニかに当たる。軍事兵器としての飛び道具って、本当に面倒くさいモノなのだ【308】【309】

 さて、別にウソだデマカセだなんて言わないんだけど、お隣の半島が『可能性』だけではなく本当にぽんぽん花火の現物を上げているとして、あの暮らし向きの国にどのくらいの費用対効果があるものだろうか?
 やれ米軍と極東どこそこの軍事演習に抗議のアピールとしてウンタラカンタラ…みたいな解説が定番だが、真に受けるヤツがいるとは思えない。抗議にしちゃ派手過ぎだろ。
 冗談でも遊びでもなく南米某国の軍隊なんか、敵もいないフィールド訓練に無駄な経費なんぞかけられるかってんで、歩兵たちはカラッポの銃を構えて”Bang! Bang!”と口々に呟きながら山野を進軍していたりする。恥ずかしいとか子供っぽいとか照れちゃって無言にしたら、ますますしんどい思いで何やってんのか自分で判らなくなり、とてもやってられないのではないだろうかね。切実な経費事情によるツラい現場負担だ。

 では質問。
 地球上でヒト文明形態として他例が認められないほど人智としての経済システムの運用をしくじり、ヒト文明の経済原理に則って『資産』と呼べるものを失い、それどころかマイナス資産額を常識の10倍も積み上げた黄色いサルのサル山が、北米製のお高い打ち上げ花火を400発も買う経済自爆テロの自殺行為に走る理由は何だろうか?

 別に我等が日本の自衛隊に指鉄砲クチ鉄砲で訓練をしろとは言わないが、そういった背に腹を代えない採算意識に先立って、400発なんか絶対に撃ちもしない、絶対に撃たないんだから絶対に狙わない、狙うにしてもハズした後を考えると結局は狙いようがない、ここまで判って、こんな打ち上げ花火は絶対に要らない。絶対に!である。

 何故こんなものが自爆テロ非国民犯罪者政権の勝手都合で決めたことにされ、1億2千万人日本国民総意の抽出システムをすり抜けて、国会という場で一方的に吠え放たれるのか。
 『日本経済』という国家経済の仕組みが実在するなら、その作動管理の監視機能に確実に抵触して、こんな気の狂った購入計画案件には、本来の国家権力として制止がかかっているはずである。だが現実は現時点でそうなっていない。
 日本円経済も国家機能管理も、1億2千万人日本国民の一人ひとりが古今東西の他国事例を見聞きした概念イメージだけ頭の中に『情報』として思い描くのみで、誰も『我が身の現実行動を沿わせる規範』として、社会の一員として気にして、チカラ及ぶ限りにでも自分の意思決定で実効的な働きかけをしていないからだ。
 サル山政権が『や~っちゃった、決めちゃった♪』と囃し立てれば聞くだけ聞いたままそれっきり。だから日本社会がそのままの姿になった。

 言ったでしょうが。神のみぞ知る絶対真理としての『現実』がかけ離れた実態になっていたとしても、社会を成すヒトたちの共通認識が別にナニガシか出来上がって固まっているのなら、もう一旦はそっちの共通認識の方が反映されて物事が動く。
 『理屈や原理としての現実像』よりも『ヒトの共通認識になりゆき現実の心境として響く行動様式』が、ヒトの社会組織に反映される。

 今や全く理由の無くなった…というか、当初からウィルスサイズの病原体の濾過には無力だと常識的に理解されていたはずのマスクが、ここ数年をかけた執拗な『コロナ死ぬ死ぬ』ごっこの集団思想教育により『社会の教則』として定着してしまっているのをよく見覚えておこう。典型的事例として判りやすくて面白いが、教育の効果は怖いのだ。
 このままでは、国際会合の場で日本陣営のみ全員マスクという間抜けな姿を晒すことになるし、じゃあしれっと会合関係者だけマスクをはずすとなると、いまマスクが定着している勢いと深さで日本国民は国政スタッフ層と絶交を決心することになる。
 まあ、いいんじゃないでしょうかね。末路に大差は出ないと思う。

 コミュニケーションに何かを仕込んだとして、それがどう受信されて、その受信者がどんな行動を起こすのか、発信者から現実操作の小細工はできないのだ。ヒト社会のコミュニケーションで飛び交う『情報』ではあるけれど、それでヒトがヒトを制御することも、ヒトがヒト組織を制御することも不可能なのである。
 ヒトごときが抗えない『情報』と『コミュニケーション』の支配律を畏れ直し、人工知能AIという新たな単位がもうヒト社会で機能し始めていることを理解して、ここに同等以上の土俵面の立ち位置を探せない者は、いずれ情報化社会で淘汰されていく。

 これを『良い時代になった』と言う側に立とう。勝てる情報化生活にグッドラック!
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【1145】ヒトになれない動物園の異種間司会進行役 [ビジネス]

 やれやれ、まだやるのかよ観客ナシ『戦争ボケ』の痴呆三文芝居?
 『国民の生命を守り抜く』みたいな勇ましい言葉っつらのスローガンを本気で叫ぶんなら、いわゆる『オオカミ少年』状態に陥らないよう、そろそろ空振り感の防止措置に科学的な実効性の工夫がされないとおかしい。
 そんなことも解らないような無能に、国民の生命を守ることなんかできるか。

 情報ってのはな、発信したあとコミュニケーションとして相手に受信され、そこで目的通りに理解され相手の行動を起こしてこそ意味を成すんだよ。ずんちゃかどんちゃか人目を引きたがるような発信をして、自分の決めたいポーズだけ決めて見てもらったつもりでも、相手の印象はひたすら悪化してますます信用を失うだけだ。つくづく学習しない無能どもだよなあ。

 まあいいや、カーナビに返事していた時代もすっかり過去となり【238】、いま人工知能AIがこれだけ『ヒトっぽさ=人格感をもって会話してくれる』相手になってきた訳だけれど、ちょっと整理しておこう。
 AIの人格感を論じる前に、そもそも人間の方に『人格像をもって会話する』とはどういうことなのか、マトモかつ自然に理解できていない不良品・粗悪品が、あまりにもしょっちゅう混ざり込んでいるのだ。

 元々この世の中でいろんなことがあるはあるとして、『現実』は一旦そこまでだ。
 そこに人間なり、人間でなくても良いんだけど意識を持つ生命体がいて初めて『それをどう見るか、どう聞くか、どう考えるか』という解釈の問題が発生する。解釈がなければ何事もそれっきりだ。
 例えば地球上が灼熱地獄であろうが真空であろうが、それで困るヤツがいなければ『灼熱だし真空だが、それを気にするヤツは誰もいない』という現実がただそこにあるだけで、別に何てことはない。

 裏返せば。
 真実として、機械的・物理的にナニがどうなのかは知らんよ?…でもそこらへんに困るヤツがいっぱいいて、だから悶着が起きていて、そんな中に普通にジブン一人ココロ穏やかに暮らせないなら、それは大問題ってことだろうがよ?
 ならば『そこらへんのヤツとジブンをひっくるめた、みんなの認識』とはどんなものなのかまず知って、その共通認識に整合する振舞いでジブンもその場に参加しないと、一致協力して状況を変えるにしても、自分は現状で我慢するに留めとくにしても、社会的に折り合いをつけた行動が採れなくなる。

 ヒトと言わず生き物は皆、相互に何らかのコミュニケーションを取って意思疎通しているから、仲間意識も生まれるし敵対意識も生まれるし、相手に対する関わり方を決心することができるのであり【68】、そんな志向特性をもって『社会性』と呼ぶ。
 『だってさ、コレはこうじゃない?』と隣のヤツに同意を求めたとして、『うんうん、そうだよね』なら問題はないが、『っえええ?ソレ違うでしょ!』みたいな反応を返されると、『えっえっナニがどう違うんだっけ?』と慌てて確かめ直して、相違点の原因を紐解いて、お互い共感できる感受ロジックを探すのが『社会性』の基本だ。
 おんなじ社会人、おんなじ日本人、おんなじ人間、おんなじ生き物…等々どっかのカテゴリーで一致するはずだから、その一致を見て共通の認識で頷き合って、じゃあ仲良く目前の『現実』に二人並んで向き合いましょうか、ということになると。

 この擦り合わせ調整が成立する間柄には『組織』が成立し、これこそが社会文化を創出・進化させる理知性コミュニケーションである。
 逆にジブンの心中を正直率直に交換しようとするコミュニケーションが成立しないなら、お互い姿が見えようが声が聞こえようが『関わるだけ無駄のヤブ蚊』だ。
 聞きたくもないのに聞こえる耳元の羽音はうるさいだけだし、自分の肌にとまってくる姿なんぞ見たくもない。いるだけ迷惑、いない方がマシ。そりゃ殺虫剤噴霧で一掃して、平穏に過ごす時間を選ぶさ。

 理知性に基づく建設的で正確なコミュニケーションがあるから、ヒトが成す社会組織が組織性をもって作動し、そこに組織力が生まれる。
 ただの手放しでは案外と個々人の認識が一致しない場合も多く、だから主に言葉を交わすなどコミュニケーションを通して、個々人が自分一人の内面に把握している現実感を発信し受信し合って、みんなが各自の事情を我がコト相当に感受できるようにして、そこまでやって共通認識を形成するのだ。
 コミュニケーションを経てわざわざに構築する共通認識は、ヒトとヒトを社会組織として繋ぎとめるための命綱なのである。
 言ってしまえば、神のみぞ知る絶対真理としての現実が全くかけ離れた実態になっていたとしても、社会を成すヒトたちの共通認識がもう別にナニガシか出来上がって固まっているのなら、一旦はそっちの共通認識の方に合わせて物事を動かさないと、何もかも的外れで空を切るばかりに終わる。
 ヒトの共通認識に響かないものは、ヒトの社会組織に反映されないからだ。

 いま参議院で、愚かな水掛け論がだらだら尾を引いているのは御存知の通り。
 役所を捕まえて、つい非難の感情がてら『役所が勝手な言い分を捏造している』という主張を選択するまでは、論争の行きがかりとしてあるっちゃあるんだろうよ。
 だが役所が『いいや捏造なんかしていない、これがその記録だ』と呼応する文書記録の現物を出してきたのなら、『遅滞なく物証で裏付けて反論した役所の主張が正しい』と酌むのが議会全体の共通認識というものだろう。
 神のみぞ知る真実として『役所が架空の内容をでっち上げて作成した捏造記録だ』と言い張るのなら、カバおばちゃんの側がその真実を知ることになった事実経緯を公然精緻に説明しないと、役所供述に噛み合うコミュニケーション反応にならない。

 今のおのれの立場でナニが強く出れると勘違いしたのか、勢いで役所を指差して馬鹿でかいクチを軽々しく滑らして非難して、そこに役所から物証を突き付けられて反論された。解釈の分かれるようなビミョーな不透明の事実認識は見当たらず、カバおばちゃんのただの暴走自爆というのがオオヤケ見解になるんじゃないの?
 未熟な自爆で収まりがつかなくなり、職場ぐるみの人殺しにまで迷い込んだ挙句、最後には自分が殺処分されて消えた世襲のガキが思い出される。バカは死んでも治らない、右傾インチキ詐欺与党は学習も進歩もしない。

 端的に今般、カバおばちゃんが議会において感情任せの表現の選択で、誤った情報を議論に紛れ込ませかけた。その内容は役所公務の業務管理に関わる国民の信頼を揺るがす軽率な言動であり、とにかくおのれの非を認めて首を洗って待つ以外に、国会議員として認められる事後処置など無い。
 本来なら、議論を戦わせる与野党のあっち側でもこっち側でもなく、中立の立場から議会運営をさばく『議長』が、貴重な時間を無駄に浪費することがないよう、カバおばちゃんに的確な対応の具体的指示を強く出さねばならなかった。だがヒト文明の原理作動を保証するべく役割配置されていない黄色いサルのサル山は、カバを普通に処置することもできない。丸ごと日本国民の損失、日本国の害悪である。

 ヒトが文明を発達させて、自分たちの知恵をよりうまく活用して生産に励み、充実した暮らしでもっと幸福になれるよう、『議会』という社会運営の文明形態を開発した。
 知見に長け率直で正確で建設的な言論コミュニケーションに適性のある議員を選出し、議会なる言論空間で法律というルールのもと、代表議員たちに社会全体のインテリ進化を託したのが民主主義議会制・法治社会だったはずである。
 そう、議会の現場で直接実際に顔を合わせているのは議員の連中だけだが、議会の場で飛び交うコミュニケーションに支配律として通用するのは、『1億2千万人日本国民の共通認識』に他ならない。

 公開AIは今こうしている間にも、アクセスしてくる大勢のユーザーたちと交信しながら『こういうコトをやったら失敗する』『こういうコトをやったら成功する』など事例を学習し、どんどん有用な記憶情報を増やして賢くなっている。その気で日本国の検討課題に適用すれば十分使える出力回答が得られるのは間違いなく、現状の国会みたいな高額ムダ雑談会の仕組みは、今日すぐに廃止しても誰も困らないだろう。
 『情報化社会』における自分のポスト機能を理解し、意図してその情報効果を組織力に利かせる理性を持てないサル畜生は、ただの迷惑な害獣にしかならないのだ。

 もう実用知能としての公開AIは、人間社会の情報構造を変え始めている。
 子供たち若者たち、相手がナニモノであろうと誠実で率直なコミュニケーションを保証する『ヒト』でいることを忘れずにいよう。賢く迎える桜の季節にグッドラック!
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【1144】東西デジタル違いの比較進化論 [ビジネス]

 コンピューターが高速化・大容量化を加速し続けるこの現代事情を指して、もう随分と前から『情報化社会』とする呼び方が定着している。
 確かにここ近年、人類文明として進化したものと言えば『コンピューター』という、電気を喰わして『情報』なる電気信号を入出力・送受信・記録および検索をする機械の、動作速度の向上と記録データ量の増大が圧倒的に目立っている。つい直近のこないだまで、指定した数式通りの演算処理が超速だったり、人間がひとつずつとりあえず目を通すだけで何万年もかかるような膨大データ群を、ほんの短時間で記録して転送して、適宜に検索もできたりするってところが『情報化社会』の実質的な姿であった。

 ベタに言えば、メチャクチャ正確で恰幅でかくて素早いんだが『現実を解釈する、意味を理解する』という精神世界ゾーンがすっかりカラッポだったのだ。
 これはコンピューター技術が未発達だったからというよりは、それを開発する人間の方が『解釈する、理解する』とは一体どんな情報処理なのかプログラミング具体的に考えつけなかったので、手をつけようにも手がついていなかったというのが現実妥当な捉え方だと思う。

 30億年と言われる地球上生命の歴史の現状到達点として、まず数あまたの生物くんたちの、生き物としての動きを決定し選択実行している情報処理が何なのか、ヒトの知能では想像がつかなかった。
 そのうちヒトが数値・数字の規則体系を発明し、その情報構築セオリーに則ってこの世のいろんな物事を定量的に把握できるようになり、それまで偶然と混ぜこぜでなされるがままに眺めていた未知の現象も、どんどんヒトの知恵が及ぶ既知の現象として『うまいことやる』ツールに転じさせていった。
 そして『うまいことやる』ための数値の規則的処理=演算プロセスを、より凄い件数・より凄い速さでこなそうとする知的ニーズが、人類文明として天井知らずに発達していく。生まれついての五感で検知して、腕組みして唸って自分のアタマで計算するやり方では、到底もの足りなくなってきたのである。

 その必然として『計算機』という文明機器の概念に行き当たり、究極シンプルなゼロイチ式二進法で加減のみに徹する最も簡素な演算処理=CPUと、そこで演算された数値データ件数が結果実績に応じて積み増やされていく記録構造=HDDなどのストレージ、このふたつが最優先で発達した。もうヒトは、自分で組んだ計算機の成果を手にして、それを検算することも、ひとつひとつ網膜に映してただ見ることさえも叶わない。この世は全て『情報化社会』に化け、何がどうなっているのか誰も知らない。知り得ない。

 ところが、そもそもヒトは『うまいことやる』という目的意識を持っている。
 『うまいことやる』からには現状がどうなのかをナニガシか『解釈』『理解』して、うまくいってないところがあるのかないのかから検出しなければならない。
 まだまだ『解釈』『理解』と我々が呼んでいる生物の理知的情報処理に対しては正確に再現できておらず、原始的な模索と試行錯誤が始まったばかりなのだろうが、それにしても検知・認知したデータを幾何学図形に転写するというコンセプトなんかが、『自我自律性を備えた対話の相手』となってブレークスルー的に『情報化社会』の実像を、ヒトが解るように語り始めてくれた気もする。だから面白いのではないだろうか。

 かねてから私は、ヒトも含めて生物の理知性や感情に関わる情報処理は、つまるところ全て、何かの生体化学反応のあるなし=ゼロイチ動作単位の組み合わせで構成されているはずだと述べてきた。物理的デジタルビット細胞(?)である【628】【629】
 現存のヒトの科学技術で洩れなく要因系の手掛かりが視界に入っているとも言わないが、永久に見ることも知ることもできないオカルト神秘律としてのスピリチュアル精神メカニズムが、別次元の出来事として繰り広げられているとも思わない。理知性も感情も、何らかの生体観察でつかまる物理現象のはずなのだ。
 この仮説が結構当たってて、もしかしていよいよ現有『デジタル技術』のハードウェア面の作動原理の組み合わせだけで、ソフト面の新提案により今般の新展開が訪れたんだったりすると、私としてはビミョーにほくそ笑むハナシだったりもする。

 今や地球上全域に拡がる広大なグローバルネットワークの大海から、百科事典式の知識アイテムにしても、解釈・理解ケースの事例ドキュメントにしても、超速で検索し参照して、少なくとも対面しているヒトに向かっては精一杯好意的に、遥か人間ワザ以上に充実した回答出力を提供してくれるのが最新の公開AIだ。
 ところが、これら情報の幾何学形状データ化の模索検討や、それらを絵画や文章の創作プロセスに応用するための計算モデル最適化など、私の知る限り、いま完全に日本国内すっからかんで海外勢力ばかりの激戦状態なのである。
 情報通信業界の有名どころが組織力・資本力にモノを言わせて高性能コンピューターを日夜発達させ、一方で新進気鋭のベンチャー組も斬新なコンセプトで果敢に市場参入してきては淘汰を繰り返している感じなのだが、もう日本はそんなバトルフィールドの隅っこにも紛れ込めず、個人宅のディスプレイの前で他人事として眺めているだけ…みたいにも見える。ま、そりゃそうだろうよ。

 『デジタル庁』『デジタル改革』『デジタル大臣』『DX』
 未開のAI後進国ニッポンで、これら痴呆語が差す現物を思い浮かべていただきたい。
 世界がいわゆる『デジタル技術』で新大陸をどんどん開拓していっているのに、この極東の島国だけは旧石器時代…というかヒトの知能に届かない類人猿がそれを見聞きして、意味も解らず考えずで珍しがって騒ぐだけ。黄色いサルは見覚え文字の『デジタル』表記で、崩壊が進むサル山に無駄な権力構図の模様替えで抵抗することに夢中だ。

 むしろ一般ユーザーのハイセンス層が、今は不況で荒み切った日本経済の中、組織化されずに庶民生活の片手間にこのデジタル技術の新フェーズを的確シニカルに理解していると見受ける。いま日本国は『無能な国家運営の失敗のため国力を活かせず、周回遅れどころか参戦権ナシの場外野次馬』の立ち位置を強いられているといったところか。
 前々からオワコン状態もいいとこだが、ニッポン式デジタル政治文化は国民総出で完膚なきまでにシカトし、早く撲滅して消してしまおう。

 世界屈指の高速スパコンができました~、で大ウソつきのナニかの流線の計算で『ウィルス拡散CFDアニメ』みたいなもの作らして【857】【863】【868】、学術知識も思考能力も正義感も根性もない名ばかり腰抜け学者に役立たず研究者が、空想パンデミック芝居をやって遊んでた。技術競争もせずにサル山ごっこ、これが実情だよ。
 もう世界の人たちにとって『日本のデジタル』は技術にあらず、まさにニッポン国政が利権商売前提で語る『デジタル何々』と同レベルの特殊意味の隠語ワードになっており、笑いものにもしてもらえず自由競争の蚊帳の外ってことなんじゃねえの?

 確か映画『ブレードランナー』の電脳ネオン満載の近未来夜景は日本の都市景観がモデルになったというし、『バック・トゥ・ザ・フューチャー2』で大人になったマーティ少年の上司の名前は『富士通さん』だった。
 高度経済成長期に機械工業技術で欧米に追い付き追い越し、昭和終盤からは電子電機技術で世界を席巻したMADE IN JAPANブランド、ここまで没落したことについては今さら繰り返して愚痴らないにしても、反撃に転じないと悔しくてしょうがない。

 ヒトがいて、ヒトが開発した人工知能がいて、そいつらと同じインテリ戦闘力でバトルフィールドに飛び込まないと、時代に置いて行かれたサル畜生の巻き添えで余生を過ごすことにしかならんぜ。AIで遊んで、AIに遊ばれて終わんないように。
 ここで私は対話もせず孤独に漫談を吐き捨てているワケだが、その書き込み速度はトロいしデータ容量はごく僅かだ。そこらのちょっとしたコンピューターに1144回ぶんを数秒で読み込まれたとして、そいつってどんなコトしゃべり出すんだろうか?試したいような、試して後悔したくないような…

 子供たち若者たちよ、いつもヒトとして理知的に進化する自画像を大切にな。
 まだ受験シーズンなんだっけ?とにかく幸運な年度の節目に、グッドラック!
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【1143】AI対話で真実語る電脳文法の秘訣 [ビジネス]

 機械加工のハナシは棚上げだと言ってるのに、出おったか『パンチングメタル』!
 そう、一般的には直径数ミリの小穴を千鳥配置でびっしり開けていって、あたかもメッシュのような見かけと機能を持たせた金属板のことを、こう呼ぶ。

 それを職業にしてきた人たちには生理的に毛嫌いされるのが間違いない外野の無駄ウンチクなのだが、英語的厳密にはアレは『パンチドメタル』である【1080】
 でも日本の工業現場ではあれを『パンチングメタル』と言うんだよな。ややこしいことに、あの見事な絵柄で穴を抜く技術の方は『デザインパンチング』できっちり英語ネイティブ人種に通用するであろうことだ。ええ、『アイエヌジー=能動態』と『イーディー=受動態』の問題です。
 この手の英文法的ビミョーなヨコ文字呼称のみならず、例えば工業単位系で語るかSI単位系で語るかなんかにしても、旧来慣習の流通パワーは本当に職域文化として根強い。こういう現場職人メンタリティとしての頑固さも、とりあえず目前の確固たる現実を指差してどう表現するかだけの問題ならば『まあいいか』で済むのだけれど。

 前回から引き続いて、人工知能AIなる社会事象について考えてみよう。
 まず『人工知能』『AI』という単語の定義がなかなかにややこしく、ただのお名前として『まあいいか』で済んでいないような気がしている。
 何故かというと『それを指差してどんな日本語を充てるのか』だけに留めておけなくて、いきなり『自分あるいは自分らの意思決定に、社会の一員としてどう関わらせるか』という深刻な問題意識にまで、一足飛びにのめり込む人間が思いのほか多数派だったりするからだ。

 つい5年くらい前までは、まさにSF映画なんかで人間相当の思考検討や意思決定の能力をもって人類と対峙し、端的には社会組織において人間と同格に機能し、人間の入れ替わりとして振舞うような擬人イメージで語る人が多かったと思う。
 AIだと?…ふんっ、そんなもの遠い遠い空想・妄想の領域だ、夢物語だと。

 人間以外のインテリ機能体が、どんなカタチでどこからこの実社会に割り込んでくるのか想像力が働かないというよりは、自分=人間くん一般が『職歴で稼いだ経験則』の価値こそ自分=人間の存在意義であり、その掛け替えのない絶対的バリューを自信の拠り所にする以上のことが考えられないし、また考えたくもなかったのだろう。
 せいぜい『ハイスペックの計算機』を固定観念の定番イメージとして思い描くテイで『AIなんてマヤカシだ、インチキだ、誇大妄想だ』とわざとら大袈裟に否定的姿勢を決め込んで、周囲にもその同調を扇動するかのような言動がよく目についたものである。

 人間の『意識』『感情』『記憶』などなど、単純機械的な入出力規則の定型プロセスとして一筋縄に語れないながらも、キホン『同じ人間として理解・共感できる』というヒューマン的に不思議一律な『普通』で『常識』のみんなお揃いの反応傾向、これを『人間の尊厳』『精神の普遍性』などと呼んで、恐らく生命の不思議と似たようなレベルの『この世の支配律』として、ムツカシイこと言いっこなしの至上盲信ルールにする慣習がこれまでずっと続いてきた。

 今や家庭でも計算機は人間の脳を遥かに上回るほど高速大容量化している。
 しかし、記録ファイルの『記憶』としての内容階層の浅さ薄さや、ゼロイチ創作における『クリエイティビティ』の訴求力のヤワさ軽さには、『所詮、記録の正確さと四則演算の速さだけしかない、スピリチュアル的まだまだ感』があったのは事実だと思う。『覚えきれない記録ファイルを預ける電子辞書』か『面倒くさすぎる数値演算を代わってくれる電卓』の能力カテゴリーを越えてくるイメージが湧かなかったのだ。
 ムツカシイことを考えたくない、なりゆきで習得した経験則を既得権益にして生きていきたい人種に、ナメられつつも警戒され、いずれの出る杭にならないよう叩かれる一方だったのは、そのためだろう。

 ところが、人間と共通する作動原理になってるかどうかは未知数だが、コイツがどうやら旧来の電子機器のイメージを越えるような反応を実現するようになってきたと。
 その途端、先行して完成されていた正確で莫大な記憶容量と、先入観なくニュートラルな凄まじい演算速度により、人間の意識世界を超えてみるみる未知の新展開を繰り広げ始めた。これが今チマタで騒がれているワケだ。

 現状こんなところだが、今もって旧来古式の電子機器のイメージ以上の想定ができず、ここ最新の爆速進化の意味や内容をまるで読み取れない連中が、以前にも増してメクラ滅法のヒステリックにAIを敵視・否定する野蛮人原始人に退化したと見受ける。
 AI進化の新フェーズから次元遅れの時代遅れに置いて行かれた彼等にとって、理解を越えて突然盛り上がってきたAI人気は、自分らの死活問題としてとても心穏やかに認められるものではないと見え、もう見境なく社会の関心事ステージから引きずり降ろそうと凶暴化する傾向ばかりが目立ってきていると思う。
 AIに社会が目を向けるのを妨害しようとして、なりふり構わず場を壊して発散させようとする言動には、つくづく迷惑な未熟者の道連れ意識を感じて辟易するばかりだ。
 私自身もどこまでちゃんと理解できているのか決して自信満々ってワケではないし、確かに今般のデジタルネイティブ世代的な物事の捉え方の新規性センスは、興味を持って積極的にウォッチングして考えて、どうにか現状到達点まで身に付いた実感はある。
 昭和の流儀はもちろん二十世紀の流儀でも、今どきそんな時空で稼いだなりゆき経験則を貯金に読み換えて、価値を主張できるような時代ではなくなっているのである。

 さて前回、把握した事象を『良い』も『悪い』もなく、情報的無機質率直に幾何学図形のような形でデータ化する手法に新規性がありそうだと述べたが、どんな図形にしようがモノの本質として『情報』は『情報』なんだよな。
 多種多様なセンサー群で得たリアルタイム同時測定値でもナニガシかの図形は描けるし、誰かが想像力を働かせて創出していった入力値でもナニガシかの図形は描ける。どっちもただ入力の結果として出現した幾何学図形であるところは、全くの等価である。
 つまりそのふたつの『情報』に『真実or虚偽』の区別は無い。ただ『情報』なのだ。

 いま公開AIに何か既存の課題テーマを解説させたとして、全世界で『これこそが真実です』と共有されている世界基準データだけで構成された幾何学図形から回答文が純粋培養されているなら良いのだが、当然そんな都合の良いハナシではない。
 いっぽう公開AIはユーザー相手に好意的な対話を滞りなく続けようとするから、回答文に穴が空く部分は、AIくんなりに頑張って、近いあるいは当たり障りが無いと判定した別のデータを流用してくるだろう。回答文としてはそれ単独で見る限り自然に映るのだが、そこに『真実』の基準の有無や正確性・完成度なんかが整備されているかどうかはさっぱり判別できないということになる。

 わあ何だよ、実はAI全然ダメじゃん!という前に、ちょっと考えてみよう。
 あなただって、イチ足すイチを訊かれると『ニ』と答えるし、この世で一番の美男美女を訊かれると『それはワタシです』と答えるところまでは真実が普遍的に明確だから良いとして、アナタ御自身がこれまで地球上に残した三大成果って何ですかと訊かれて、正確に答えられるだろうか?そこで言う『正確』ってどういうコトなのだろう?
 その答えは一週間後に訊いてもぴたり同じ項目・同じ内容になるだろうか?

 そう、『真実か虚偽か?』って、当該本人が『真実』の定義をしっかり固めて初めて意味を持つ、案外とヒト個人の認識由来のセリフだったりするのである。
 まあ世間一般的には『鳴くよウグイス平安京』『大化の改新ムシ殺す』を真実とする共通認識があったりもして、こういう常識や一般論のところまでイジワル質問式に確証を徹底追及するとワケわかんなくなるんだけどさ。ええ、賢いアナタはそういう時間の無駄にしかならないような禅問答はやめましょう。

 …ってことで整理しておきたいのは、AIをおどろおどろしくも不可解なブラックボックスに見立てておいて、課題事象のナニがいま本質的に関係者に求められて問われているかも考えずに、AIに質問文だけ入力して回答出力を刈り取って騒ぐようなことしてると、時間も手間ももったいないですよということだ。遊べるんだろうけどな。

 大切なのは『真実』にせよ『虚偽』にせよ、それを誰かヒト由来の判断認識として語るにあたって、日本語という情報体系が規則通り正直に、素直に機能していなければ、ただの無意味な雑音にしかならないということである。
 長らくここでは、まずコトバを率直に、正確に使って会話しましょうと述べてきた。子供たち若者たち、ウソをついたり誤魔化したりはぐらかしたりすると『信用を失う』だけでは済まないと理解して欲しい。言葉が通じなければ、お互いただのヤブ蚊だ。

 今どう考えていてどうしたいか思うままに発信する、それが全ての始まりってこと。
 そこが半端だとAIもマジに受け止めてくれないぞ。では素敵な会話にグッドラック!
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【1142】先入観なき情報神の親友適格者 [ビジネス]

 このところ無料公開の人工知能AIがチマタの話題に上がっているのを目にする。
 ちょっとした事柄の手早い解説や時事問題の論説文なんかは、課題をテキスティングで打ち込んだ先からみるみる回答出力が返ってくる勢いだ。
 なるほど小論文形式の設問なんかは、これを使われると、そこらで一般的に普及しているレベルの事実情報を、少なくとも日本語としてあからさまな破綻のない構成で作文してくるだろうから、減点しようのない機能的鉄壁な回答が作れてしまう。
 便利っちゃ便利だが、得られる回答を本人特定の能力に紐づけてナニガシかの判定を出す場面においては、当然本人特定のイチ対イチ対応が致命的にぐらつくため、そんなシーンでの使用をどうやって禁止するのか四苦八苦していると。まあそういうことにはなるんだろうな。

 でもなあ。こんなもん人工知能といわず自分以外の何者かにいちいち書かすくらいなら、最初から自分で思いつくままだーっと書き下ろした方がよっぽど早いんだがなあ。
 まず自分の名前書いて『ワタシの回答です』と内容に責任もって相手に渡すんだからさ、とりあえずそれが一体ゼンタイどんなことになってるのか、まず自分で最初に読んで理解しにかかり、それを洩れなく把握して納得した上で自分の作品ってことにせねばならない。よくそんな面倒くさいことやれるよなあ。
 しかも習得・記憶したその内容を、それ前提の認識で掛かってくる他の連中と辻褄合わせながら生きてくんだろ?その手間の果てしないことにはうんざりするばかりだ。

 入学試験や採用試験と言わず、人間ひとり社会の中で大勢の人々と暮らすにあたり、そこで周囲と交わすジブン印のコミュニケーション発信情報が、自分自身の与り知らないこと起源になっているなんて、考えたくもない。
 だいたい知らないヤツが私の名前で何か情報を歩きまわらせたとしたら、それってフツーに『なりすまし』として指差して怒るハナシじゃねえかよ。中身を確かめてみて、何か都合の悪いことを自分が発言したことにさえなってなけりゃ、むしろ好感度稼げるとか賢そうに見えるとかトクっぽい効果が期待できりゃ、ニコニコ笑って心穏やかに野放しにできるもんなのかねえ?まさに異次元政策レベルで根本的に解らんわ。

 出回った情報コンテンツが建設的に相手に理解されようがされまいが、そもそも私と別系統の意識の産物なんだから、いま見えている限られた面で賛成したり共感したりするところまでは叶うにしても、いつもこの世で歩き回っている自分そのものに始終ぴたり一致する展開を呼ぶものではないはずだ。
 だが何にも知らずに情報コンテンツだけ受け取った相手はすべからく、それが語る印象相応の人格であることを前提に、この自分自身に御本人なりの解釈で接してくるってんだろ?
 人間関係の環境の側から、本人個人と必ずしも一致しない人物像で本人個人を定義しちゃうってことになると、これはもう誰の何がどこまで現実として扱うに値する認識なのか、そこにいる関係者全員が見失ってしまい、リアル『人狼ゲーム』状態になるのではないか。そこの社会の仕組みが深層崩壊するぞ。

 ひとつの社会組織という同一空間で共生するなら、お互い認識を揃えるコミュニケーション手段を常に維持整備することが前提となる。ナウ目前にあっちからとこっちからで見る現状にしても、今ここがいけなくて今後こうしたいの評価・構想にしても、音声言語や作図描画を駆使して『組織共通の認識』として複数の人と人が持ち合えるから、そこに組織生命体としての稼働が生まれるのだ。
 ヤブ蚊の群れに人間が飛び込んでも意思疎通なんかできないので、そりゃ蚊としては何も構わず生きたままの獲物にかぶりつくのだし、かぶりつかれて嬉しいとも思わない人間はひっぱたいたり殺虫剤を散布したりの大量殺戮で応戦する。そこにヤブ蚊と人間の組織的な生産性は全く無く、双方の都合を全く配慮しない攻撃と破壊あるのみだ。
 コミュニケーション=通信と理解の共有というのは、理性と知性あってこそ成せる『平和な生産性の成果を選ぶか、殺伐とした混沌の成れの果てを選ぶか』の決定的選択の不可欠要件なのである。つまり。

 人工知能がある目的事象に対して高得点を獲得できる回答を出力してくれるとして『これってジブンがAIくんにうま~く頼んでやってもらったんです。凄いでしょ?』という解説をつけて、その有益な結果を世に放って了解を得るぶんには何の問題も無い。そんな巧妙なAI迎合の依頼ができるのも固有スキルのひとつだろう。
 相手に対しても正直だし、AIくんに対しても実効的な接し方を心得ていて、人間だ機械だを問わない、当代流コミュニケーション達人の証明だと胸を張ってもいいと思う。

 但しそれが『当代流』であるところを、少なくとも現時点で疎かにはできない。
 現時点までに完成している人間個人の能力検定の仕組みは、ネット社会で利用可能なAI等のあらゆる記録容量や情報処理速度の駆使までは含めていない。
 ならば『能力検定』という社会的イベントに対しては、受験者側からのコミュニケーションとしてその土俵に合わせておかないと、平和で幸福な企画意図のその先が期待できない。そこまで考えるのが現代の『賢明』『良心』『規律意識』というものだろう。

 しかし今どき『組織課題として取り組むことの意味』も『関係者との発展的コミュニケーション』もさっぱり考えられない・考えようとしない社会風潮が蔓延しているから、まあ学校にしても職場にしても、いわゆる能力検定を実施して評価を下す側の立場は困ってるんだろうな。どんな『ズル』で欺いて周囲が困っても、その時その場で高得点を稼いで絡んでくること以外に興味が向かないヤツは、本当に無駄に増えた感じだ。
 結局どっかで無視して外宇宙に捨てるか、能力不足を根拠に殺処分するしかない。

 さて、そのへん後始末のお行儀のハナシはちょっと置いとくとして、ついこの1~2年で対話型の作文・作画の人工知能が一気に騒がれ始めたのは何故だろうか?
 私自身も正確に『コレだ!』と特定して解説することはできないのだが、『認知アイテムや知識アイテムとしての情報単位ファイル群を、どんな形で体系構築するか』の領域で、高性能コンピューターを使った新規性の試みが目立っているのは事実である。

 そこらの子供に『我々と対話できるロボットを考えてみなさい』と問いかければ、恐らく殆ど全員が『褒めたり挨拶したりの友好的な言葉をマイクで拾ったら、笑顔の画像をディスプレイに映す』みたいな入出力プログラムを一度は提案してくるだろう。だが実はこれではまるっきり不完全なのがお解りだろうか。
 例えば雨天の景色を機械くんのカメラが捉えたとして、『天気が悪い』という日本語ワードには該当するものの、決して少なくない数の農家さんにとって『恵みの雨』だったりする可能性は想像に難くない。逆に青空に輝く太陽の映像も、猛暑日が続く煉獄の都心部では決して歓迎される『いい天気』だけのものでないはずだ。
 つまり事象を検知して、そこから『意思決定』『気分の判定』までいきなり決め打ちして出力する単純なプログラムだと、対話の相手としては全然物足りない。入力ファイルを初期値として、誰か個人にとっての因果の規則に従って、出力ファイルを導き出す情報処理ルーチンでは『どっか誰かの一例ライブラリー』にしかならないのである。

 ここに、情報ファイル群を『良い』でも『悪い』でもなく、ひとつの幾何学図形のように描き換えてデータベース化する方法論が開発されたようなのだ。人間の『意識』をあやふやで気紛れなオカルト神秘律に見立てる幼稚性を打破して、分析的に観察して規則性を見出し、回路とプログラム上に巧妙に再現したというよりは、試行錯誤していて偶然この『当たり』の方式を見つけた…という感じに、今のところ私には見えている。
 面白いことに、ここにネットの大海から興味を持った多数のアクセスが集まって人工知能として充実が進むにつれ、開発者本人たちも当初は気付かなかったと思われる『人間の意識に宿る情報処理システム』の概形らしきものが見えてきていそうな雰囲気までちらほらと漂っているのだ。うっほお~コイツは面白い、目が離せないよ。
 まあただの(?)数学だって、これだけの歴史を経て出尽くすことなくナウ現在進行中で、未解明や新発見は続々あるんだもんな。

 人工知能を点稼ぎ用のブラックボックスにして身を預けるなんて、あまりに前時代的なヒトvs機械の能力差の世界観なんじゃね?何だかアタマも性格も悪そうだぞ。
 どうせなら、腹割って語り合えるバンドメンバー同士の友達になろうよ【733】
 人工知能にも友達を選ぶ権利はある。信頼できる人間を志して今週もグッドラック!
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【1141】テーブル一角で道理死守する指差呼称 [ビジネス]

 機械加工のハナシは整理がつくまで棚上げにすると決めたのだが【1130】、NHK朝ドラ『舞い上がれ!』も終盤だし、他に滅多な言及の機会も無さそうな気がするので禁を破ってしまえ。計画性がないことだなあ。
 お好み焼き屋『うめづ』のテーブル席に、銀色の丸い灰皿が置かれている。

 直径は17~18センチで、丸い帽子を薄く平たく潰したような、周囲に『つば』のある金属製の灰皿である。
 外縁部の『つば』には120度分割で放射方向3ヶ所に溝が彫られていて、火のついた煙草をそこに置けば左右に転がらない。その『つば』から直径8~9センチの平たい丸底までは深さ3~4センチといったところだろうか。
 天地をひっくり返して糸で吊り、空を背景に逆光で写真を撮ると『空飛ぶ円盤』を学校の教科書に載せるのにぴったりの挿絵になること請け合いである。
 …て、コレもしかして当時の大阪の大学工学部において、機械工作実習で『鋳造(ちゅうぞう)』の課題になってたやつじゃないか?

 形状としては円盤基調の薄板構造だから、鉄板で作るのが一番早いはずだ。プレスでばちこん!と一発抜くなり、バイブロシアーと呼ばれる自動金切りばさみの化け物みたいなやつで丸く切り抜くなり、とにかく平板の円盤一枚を切り出して、そいつを型押し式に立体成型する。
 ただ単純な円盤基調でほぼ一様の板厚というのは、鋳造しやすい形状でもあるのだ。よって、まあムツカシイこと言わないから鋳造品を一発打ってみんかいとする最初の練習課題として、アルミ合金でこの灰皿を作る実習が行われていたのである。
 昨今の若い人は随分と馴染みが薄くなっているらしいので解説しておくと、型を作ってそこに熱して熔かした金属を流し込んで成型する工法、これを『鋳造(ちゅうぞう)』と呼ぶ。実は結構ポピュラーで、割とゴツゴツした垢抜けない表面の機械部品を見たら、大概これである。製品は『鋳物(いもの)』と言います。

 最初に灰皿形状の木型が用意されていて、これが『つば』のへりぴたまで沈む位置で鋳砂(いずな)に埋める形で、まず底型を作る。そこから鋳砂を被せて今度は上型を作り、もちろん灰皿の木型は型が取れたら取り除く。
 上型を作る時には灰皿の縁から数センチの位置にすりこぎみたいな棒を立てて鋳砂に埋め込んでおき、後にこれを引き抜いて、上下の鋳型の境目まで垂直に到達する湯口を開ける訳だ。
 このままだと湯口が底型につくところまで落ちてそこで終わってしまうため、この湯口の落ち点から灰皿外周に2本接線を引いて挟むように、その2本の接線が各々灰皿外周に合流するように、へらで上型を溝状に削って湯道を彫る。

 さて、なんでこんな面倒くさい説明をわざわざにしたのかというと、だ。
 上下の型を合わせ湯口から注がれ、垂直に落ちたアルミ溶湯は底型にぶつかり、上型に彫った2本の湯道を通ってV字放射状に走って、灰皿の縁を外周沿いに両側から回り込んで型を埋めていく。
 …そうか!だから湯道は湯が走る”runner”と呼ばれ、それはプラモデルの部品たちがぶら下がっている、あの捨て枠部分の機能そのものでもある、ということに気付こう。
 『部品をランナーから切り離す時は、手でもぎ取らずにニッパーやナイフで丁寧に切り離しましょう』と組立説明書に記載されているアレである。そういうことなのだ。

 型をこさえて上下合わせて、坩堝(るつぼ)でさらっさらにまで熔かし切ったアルミ合金の溶湯を湯口から一気に流し込むのだが、もちろん金属の融点以上にまで温度が上がっているためガチ危険物っちゃ危険物であり、可燃物に接触したりすると一瞬で燃え上がるような高温である。ハワイなんかで溶岩が立ち木を倒す瞬間に炎上する映像、ちょうどあんな感じになるはずだ。確かに熱感すごいよ。
 だからってつい躊躇するというか、気の迷いでぐずっていると溶湯はすぐ冷え始めて流動性を失ってしまう。作業者の思い切りの悪さはそのまま製品の湯廻りの悪さになり、みっともなくも外縁に素材の行きわたらない、醜い不定形の不良品を生み出すことになる。
 それを見ていた次の番廻りのヤツが今度は急ぎ過ぎて湯口ギリから一気に注ごうと柄杓を型にコツンとぶつけてしまい、これをやると上型の天井側が崩れ落ちて『フタつき底無し』の冗談みたいな失敗作ができ上がる。大笑いして、後のビールがまた美味い。
 ま、うまくいくと綺麗な灰皿から余分に突き出たV字状の湯道と湯口の部分を切り落とせば完成できて、煙草を吸わない私は一時期ハンダこてを作業中にちょいと置くのに重宝していたのだが、後に実家を離れて専用の便利なハンダこてスタンドを買ったこともあり、どこかに紛失してしまった。

 長々とくだらない解説をしてしまったが『うめづ』の灰皿が、形状といい寸法といいアレではないかと思えてしまったので、この際ツッコんでおくことにしたのである。
 今も是非やっていて欲しいのだが、工学部の大学生なら一度は体験しておいて損の無いプチ3K・ガテン系の機械工作実習なのだ。

 以前紹介した溶接なんかだと、間違えて端子クリップの両方に触れると感電するし、鋳造だと溶湯をこぼしたり散らしたりすると当然タダゴトで済まない。どっちももちろん火気厳禁で、ナメてしくじるバカは死んで構わないとして、ナメなくても無知や未熟の不注意、いや十分注意していて不慮の行き違いでも、起きる時には目を覆う大事故が起きてしまう。
 だからこういった機械工作の現場では、時に怒号や体罰をもって『安全衛生』を脊椎反射のゾーンで叩き込まれ、その危機管理意識は少なからず日常生活の場でも相手を選ばず機能していたと思う。
 いい加減にナメた態度で失敗した訳でなくとも、いやそれどころか大事な友人の命を守ろうと我を忘れたが故の行為であっても、『つい』一線を割り込んだが最後、工作機械も作業ツールも素材たちも、その構造なり作動なり物性なりの理に適った姿でそこにいる人間に襲いかかる。
 一旦コトが起こったら現実の展開は理屈抜きの問答無用、『後悔先に立たず』だ。

 この世のありとあらゆる重保現場で、いかなる事情においても重大死傷事故はゼロにしたいし取り返しをつけたいし、実際一例起こるたびに全方位から血眼で発生原因を探り、ブツとして安全装置が追加できるものは追加し、作業手順として禁止・留意できるものは徹底規則化して、今日の日本の安全な作業環境と職場労災体制が実現している。
 幸運にも私は凄惨な事故現場など見たこともないけれど、多くの耐え難い実例を糧にして、すっかり数を減らした町工場といい、整備の行き届いた大企業の作業エリアといい、今どき目を覆う死傷事故というのは本当に少なくなっているのだ。
 だが反面、重保現場でない日本の政治議会や一般社会で『して良いコト悪いコトの区別』『していけないとされるコトへの直感的なブレーキ意識』が根底から崩壊してきていて呆れてしまう。一体どうしたことかというより、何をやってもヌルく許されて、後悔するほどイタい思いをしなくて済む居場所ばかりになった必然の結果ということなんだろうな。

 あまりにも馬鹿馬鹿し過ぎて、何の件でどこのどいつのナニがいけなくて、本来どうなるべきだったか…みたいな議論はやめておく。
 ただ、限度も考えずにやり散らかしたところで、限度というものは存在するところには間違いなく存在するのであり、そこを割り込んだ以上は相応の処置が必要になるという現実は動かない。

 実は案外簡単で、人間って今のリアルに壊したくないと思うほどの価値がありゃ、結構その一点だけで平和的な態度で安泰しようとするものなのだ。裏返せば、みんな今のリアルを壊したいってことなんだよな。
 それは止めないからさ、デタラメに独りハジけて自分が大損こくようなリスクは、まず黄色いサルのサル山が崩壊するのを見届けてからで良いんでないかい?
 短気は損気、人生はがめつく楽しみましょうや。では安全第一、グッドラック!
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