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【1214】下等生物の騒音とナイトライダーたちの憂鬱 [ビジネス]

 今年は東京モーターショーの開催年度にあたっているのだが、今回からタイトルを変えて『東京モビリティショー』として開催された。その名の通り、もう自動車の枠をはずして交通移動手段のための機器全般ってことで、まあ今どきすぐに連想される『空飛ぶクルマ』みたいなものも出展されているらしい。
 かつてモーターショーはJRも海浜幕張駅からの通路も大混雑でうんざりだったが…

 戦後から高度経済成長期にかけて、二輪四輪の自動車産業が次々と新出しては統廃合され、たいして広くもない日本列島に多数の自動車メーカーがひしめきあっていた。
 もう何度も書いているが、1965(昭和40)年時点の大都会でも幹線道路から住宅街に入るや未舗装道路が珍しくなく、路面には風呂場で使う洗面器を地面に埋め込んだぐらいの径と深さの穴ぼこが多数散在していた。今だと相当な田舎でも見かけないような、河川敷の荒地だとか工事現場みたいな光景である。
 そこを、えっちらおっちら車体を揺らしながら自動車たちが進み、雨の日などは水を張った洗面器にごろんと車輪を落とすようなもんだから、盛大に泥水が飛び散ったものである。当時のドラマや漫画では、雨の日に歩行者を気遣わない車に泥水をかけられて一張羅が台無し…というストーリー展開が定番であった。もちろん晴天時は土埃がもうもうと巻き上がるし、砂粒どころか撥ね石が飛んでくる。
 車に乗っている側の立場にしても、エンジン動力を活かした移動速度には程遠いもので、たま~にお商売やってるおうちの車なんかに乗せてもらった時も、住宅街の筋から舗装された幹線道路に出ると揺れが収まりほっとしたものだ。

 日本の最初の高速道路は、東名だと思っていたら1963(昭和38)年の名神高速・栗東-尼崎間だったそうで、東名高速の開通は東海道新幹線を追いかけての1968(昭和43)年だそうである。
 当時『日本の主力産業は?』という質問に間髪入れず『自動車製造業!』と答えるのが常識として過言ではなかったが、こうして史実検証してみると、国内の道路実情がみるみる先行する自動車技術の進化ペースに必死で追いすがっていた関係が見えてくる。タイと同じだ【1163】
 確かに大阪のど真ん中で育った私の実感の記憶として、幼稚園から小学校低学年のあたりだったか、半ば日常的に自宅前を含む近所の道路がどこか掘り返されては整地工事され続けていて、だいたい第一段階で白砂利敷きになり、軒並せいぜい1~2年のうちにはアスファルト舗装に一新されるという流れだったと思う。
 我々小学生の男の子たちにとっては、いろんな建設機械が入れ替わり立ち替わり、地面を平らに均して土を盛って踏み固め、熱して熔けたアスファルトを圧延していく工程が面白く見え、そこらで遊んでいる時も馴染みの共通知識として友達同士で会話が通じていた。好景気とされる時代の実態の一面である。

 そんなこんなで日本の道路は驚くほど短期間でアスファルト舗装が当たり前になり、どこも車らしい速度で自動車たちが走るようになった。
 自家用車が急速に普及した時期でもあり、同時に交通事故も激増し『交通戦争』という時事キャッチコピーも飛び交った。この『交通戦争』、激化する交通事情と死亡事故件数の増加イメージから戦争を連想しただけのものではなく、実際に日清戦争での戦死者数を上回る数値の推移があったがための造語だそうで、なるほど車を知らない日本人の世が初めて経験する切迫した社会現象だったのだ。
 近年もう交通事故死者数は年間3千人を軽く切ってきており、自家用車普及率やドライバー年齢層などさまざまな条件の変遷はあれど、随分と死亡事故が起きにくい時代になっている。

 そして遂に自家用車を通り越して『社会にとっての車』の普及が台頭し、むしろ個人の自家用車所有は利便性と維持負担とのバランスから考え始めるのが普通になった。わざわざに車は欲しくない、適宜に他のことをしながらラクチン快適に移動できれば良い。なるほど『モビリティショー』になるワケだ。

 …となると『自動運転』が間違いなく定番テーマのひとつになってくる。自動運転については以前からここで何度か取り上げているが【316】、国内外の自動車メーカーが競ってきたのはカメラやセンサー類による周囲交通環境の現況検知と、これに呼応した加減速・操舵の制御発動プログラムの適切さ緻密さであり、特にこの1~2年は目立つ新技術が出尽くしたのか少し静かになった感じもする。

 ほんのつい最近のことだが、北米で自動運転のタクシーが事故を起こした。
 他車がはねた歩行者を避け切れず当該タクシーも轢いてしまい、そこで停止はしたものの後続の交通の流れから離脱しようとして、引掛けた歩行者を数メートルひきずってしまったのだという。
 なるほど他車や単車・自転車や歩行者に設置標識などなど、検知して対応する仕組みの完成度を高めたにしても、他車にはねられて進路上に飛び込んでくるケースの想定まではできていなかったってことなんだろうな。万一の接触事故で、何か困ったモノが引掛かるとも思わなかったと。
 当該タクシー会社は複数の州で営業停止措置を喰らっており、今後が注目される。

 さて本件、人間が運転する普通のタクシーだったら通常の交通事故1件でしかなくて『避けようがなかった事故』として誰も注目しなかったのかも知れない。
 自動運転車だからといって時速50キロから減速過程なしで瞬間停止できる訳でもなければ、操舵や制動で避け切れないと判断して空中高くジャンプできる訳でもない。詳細の事情は判らないけれど、自動運転であろうがなかろうが接触事故の発生までは同じく起こっていた可能性が考えられる。これをまず『自動運転車が事故を起こした!』と非難の姿勢で取り掛かる言論があったなら筋違いだ。
 ただ接触事故が起きたその瞬間に『運転操作をやっていた人間のいる・いない』が事後処理を根底から違ったものにするため、社会に意識させ考えさせるための大事件としては相応に重く扱うべきだろう。

 また人間のタクシードライバーだったなら慌てて停車して車を降りて、はねられた歩行者の存在を確認し何よりも歩行者救護を優先した可能性が、もちろん自然に推察される。自然な反応だが、今度は慌てて三角板を本線上流側に提示するのを忘れ、救護作業に夢中になっているところを後続車に突込まれて、結局は事故を拡大させてしまっていた可能性も無視する訳には行かない。
 自動運転車は人為的ミスをなくす意図で組まれてはいるが、少なくとも現状にて、人間以上の能力で誰が見ても『至上の最適操作』を保証する、夢の交通情報体ではないのである。人間通りには行かないと言いつつ、人間は何を期待しているのだろう。
 起こってしまった不都合な現実を前に『落ち度』のありかを特定する人の世の社会的作業がある限り、自動運転というより『無人であること』が決定的な普及のハードルとなって立ちはだかるのではないだろうか。

 自動運転技術は、ある意味『公共交通環境下での自動車の運転に目的特化したAI』とも言えそうだ。
 道路交通においては人身事故など物理的な重大事故が身近なため、良くも悪くも『万一の時の責任の所在』が進化発展のオモシに効いている。このオモシの重量の正体は、事故事象に対して『怒り』や『悲しみ』や『恐怖』や『落胆』などの感情を湧かせると同時に『加害vs被害』や『損害と賠償』などなど論理的因果の概念を起動する『情報体としてのヒトの特性』である。
 人間を遥かに上回る情報処理速度で進化するAIに我を通す意図で、いくら『倫理』や『規律意識』の大義名分を掲げたところで、結局は『人間ならではの情報体特性』の枠に当てはめようと人間同士がクチだけ動かしているに過ぎないのだ。
 こういう愚かな人種がいつか『いいAI、使えるAIができた!』と喜んだなら、そのAIはそいつらのウチワだけで完成された『人間以下の検索ツール』にしかなっておらず、恐らくは開発最前線を含む自由市場からは隔離された落ちこぼれであろう。ものの道理としてそうなる。

 ところで自動運転まで行かない運転支援システムも現況検知してドライバーを手伝っているワケだけれど、彼等は『記号接地』してて人間よりも車の運転を深く理解してるってことなんでしょうかねえ?
 答の出ないドライバーの皆さん、スマホにかまけたりせず自車の運転は自分で責任持ちましょう。週明けも安全運転でね、ではグッドラック!
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