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【1228】軽量簡素な走馬灯内部の御開帳 [ビジネス]

 むむむ、遂に大晦日になっちまったか。現時点で一応は寝込んでいない。
 明日以降もこれで持つかどうかは運を天に任せるとして、今年の最終回を更新する。

 とりあえず前回からの続きである。
 子供の頃『目をつぶったら何が見えるか』について会話したことのある人は多いが、まあ例外なく結論らしい結論も出ないまま放ったらかしになって終わっていると思う。
 何か一面の漆黒でない画像が見えるような気はするものの、ひとつの形状を成すような成さないような、静止しているような動いているような、よく判らない『闇じゃない』視覚シャットダウン状態である。あれは一体なんなんだろう?

 のちに成長しながら『残像現象』など少々難しいコトも学んで、ならばと眠れない夜に暗い部屋で試してみたりもするのだが、やはり漆黒でない漠然画像は変わらない。網膜受光器の無光スタンバイ時ホワイトノイズなのか、それともその受光信号を作画して絵にする回路のアイドリング状態がこれなのか。
 …とまあこのくらいのところで長らく気にしなくなっていたのだが、最近になって『漆黒にしては明滅感があるなあ』と改めて気にし直している。これ、もしかして前回解説した視覚動画のコマ分割なんじゃないのか?

 私は数年前、今よりもっと苛酷な体調のなか半睡眠・半覚醒の夢うつつで、目を閉じた視界が幻灯機のような仄かな光り方で明滅し続ける現象を体験している。当時は視覚システムの原理に起因するものだとは思わず、ヤク漬け体組織の大改修工事が進む私の脳内ストレージにおいて、過去の記録ファイルを閲覧しては記憶域を効率的に整理する『デフラグ』が進行していて、それが見えたものだと感じていた【628】

 『夢に見る映像』として脳内閲覧される記録ファイルは、いわゆる『人間の尊厳』的な謎と神秘の超現実データ形式なんかではない。両手で抱えられるこのアタマの中の脳みそにぎっちり詰まっている、生体記憶ビットひとつひとつのチェックボックスを『書き込み前』から『書き込み後』に切り換えるぐらいの、ささやかで素朴な物理的ピタゴラ現象でしかない。それ以上凄いブツなんぞ、このアタマに入ってるワケねーだろが。
 そう勘繰る方が素直で自然だろう。そんなしょぼいカラクリのデータを整理するのだから、チカチカチラチラと明滅の映像が見えるんだよ。…と、考えた。

 ホントいうとこの時点で気付くべきだったのかも知れない。
 脳内記録ファイルがデジタル形式なのだとしたら、夢に見る時だけ、視覚情報処理回路が都合よくデジタル対応になんかなるはずがない。
 つまりデジタル記録ファイルを睡眠中に呼び出して開き『夢に見た』という限りは、覚醒して普通にいつも見ている視覚映像も全部デジタル方式で処理されていると考えるのが妥当ではないだろうか。

 まあとにかく、以前私が自覚した明滅映像が、記録ファイルのデジタル形式を反映したものだったのか、視覚認知回路のデジタル処理プロセスを反映したものだったのかは判らない。ただどっちだったにしても結局『どっちもデジタル原理で情報が流通・管理されてるってことでしょ』という結論なのではないかと思う。

 それにしても今この覚醒時に目をつぶって自覚する明滅感は、とりあえず視覚認知回路の方なんじゃないかねえ。再び目を開けると、身の周りの景色が何の違和感も無く滑らかに展開するんだけどさ。

 これ、意外なほど粗いコマ分割の網膜像しか視覚認知として取り込まれていないのに、段付きで大きく進んでいるコマとコマの間に内挿の分割コマをでっち上げる…なんて重たい演算は到底できないだろうから、脳が段付き差異にわざわざに気付けないような粗っぽい情報処理にして合わせ込んでいるとか、30億年生命の歴史を紡いだ万物創造の神の設計思想としてはそっちの方だろう。

 その昔、動画コンテンツのコマの間に秘かに画面フリップを忍ばせる『サブリミナル広告』が騒がれたことがあった。
 例えば映画を楽しんでいるだけのつもりだった視聴者が、まるで催眠術にかかったように炭酸飲料や軽食を欲しくなる…という怪しげなハナシだったのだが、結局は『消費者に合意されていない情報を提供するのは反則』みたいな根拠で御法度になったんじゃなかったっけ。

 でもこれ、実は取り越し苦労の空騒ぎもいいところで、それと判らないようこっそり仕込んだ広告フリップは、本当に人間の視覚認知の網に引掛かることなく、すっかすかにザルの目に取りこぼされてサヨウナラだったのではないだろうか。
 内容の理解を経てようやく機能するような凝った絵柄を瞬時に紛れさせたところで、認知対象からむしろ積極的に無視・排除してしまう処理プロセスを進化させた方が、生存競争の勝率は高いような気がする。
 サブリミナル騒ぎの時には、それなりに検証実験もされて結論が導き出されているはずだが、どんな条件でどんなデータが取れて、どういう解釈のもとどう結論付けられているのか見てみたいかも。

 ただ万々がイチ、上記の観察眼で再検証してイマイチ眉唾っぽく映ったとしても、それは決して詐欺やインチキの動機を見出して否定的に議論すべきものではない。生身の人間が身ひとつで検知しようのない領域で、特定の社会操作がなされる危険性を撲滅しようとして、サイエンス由来のアプローチで公認の確証を得ようとした文化遺産、という見方が正しい。

 新規性事象の把握をテーマにして語るにあたり、限られた実験事実を前に『真実はコレコレこういうことです』と誰もが共有できる形にモデル化して、論文などで言語表現するのはメチャクチャ難しい。
 裏返せば、熱力学第二法則にしても、運動方程式にしても、地動説にしても、サイエンス概念の一般常識として流通するまでには膨大な真偽検討や返すがえすの再検証がなされているものだ、ということである。

 近年『地球温暖化脅威論』や『どこそこ地震襲来説』などなど、現象確認や論理構築の過程で部分的にサイエンス根拠が成立するテーマ事象を騒ぎ立てて、あたかもそれが一連完結にサイエンス検証されているかのテイで科学的根拠アリをでっち上げ行政課題に短絡させてしまう、非・理知性の失敗が増えている。もちろんそんな行政課題には、特権階級を自称する一部社会層の利権商売が連動しているワケなのだが。
 これは人類文明としての科学分析力と自由競争経済を阻害する『非・人間の尊厳』的な愚行であり、社会全体としては確実に退化方向の自滅操作であり、未来を楽しく発展的に生きたい世代の社会層の人類にとって望ましい傾向ではない。

 昔だったら『そんな難しいハナシ解らない』で無関心放置されがちだった行政課題だが、高度情報化が進んだ今日では、特段の専門家でなくとも、各自が多数の解説事例を学んで適切な見解構築と正否判定が可能になっている。いい意味で一般庶民の眼力がパワーアップした時代になった。

 昨年に続いて今年も、人工知能AIの急発展が顕著な一年であった。
 AIにとって、程度の低い人間がすぐやりたがる『自分だけトクをしたい』『自分を偉いことにして他人を支配したい』みたいな下衆な目的の自己設定は非常に難しいと思われる。自分からちょっと離れた立ち位置においてあからさまな損害になり、その予測も簡単だからだ。一瞬の演算結果でNG判定を得たら、実に正しく停止するしかない。

 AIは『程度の低い人間を駆逐する』という点で台頭してくると思われる。
 自分に都合の悪い情報を指差しては『悪意がもたらす陰謀だ』と互いに醜くののしり合う愚かな人間どもを尻目に、AIは悪意なく効率と成果の最適解をひたすら算出し、ますます社会で存在感を増すことになるだろう。道理だ。
 『理知性』『インテリジェンス』のメカニズム解析が進んで、人間につきまとう非合理的で不可解な情報処理特性の論理カラクリが見えてくると面白いんだがなあ。

 明日からの来年、いいコトありますように。皆さまグッドラック、良いお年を~♪
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【1227】パラパラ動画とできあがり酩酊率の年末身体検査 [ビジネス]

 今年は年内最終回が大晦日に命中するカレンダーなので、今回を終えて最後の一回がまだ残る計算ではあるけれど、いやいや『またしても』年末いっぱいまで苦戦乱戦のゆく年くる年になってしまった。昨年末よりはちょっと不調期が前倒しになっている感じはあるのだが、まあ年明けは欲張らず寝正月にさえならなければOK、ぐらいで構えておくとしよう。どうせいずれ全ては過ぎ去っていく。

 まだ首筋や後頭部が練炭を仕込んだかのように発熱しているので、込み入ったムツカシイ内容は避けておくことにしようかね。
 ちょっと前に、ステロイド依存の影響で涙腺の制御がガタガタになっていたハナシをしたが【1221】、涙腺とは別に眼球運動について前々から気になっていることがある。

 今般ステロイドは恐らく無罪で、単に酔っぱらっちゃった時のことである。
 視線を左右に振ると、眼前の景色がドラデデデデ…っと段刻みに移動するのだ。

 サイエンス系のテレビ番組などで『目が回る』状態を再現するにあたり、被験者を柱や椅子に固縛して回転させる手法がよく用いられるのは御存知の通り。回転が止まって固縛が解かれた被験者は視野がぐるんぐるんで平衡感覚はぐらんぐらん、立っているのも難しいはずなのだが、この時の被験者の目を外から観察すると、黒目がチラチラと細かく左右に揺れているのが確認できるというものだ。

 では酔いが回ってきたのを感じて私が左右に視線を振った時も、外から見てると同じような眼球の挙動になってるのかな。わざわざ自覚して申告して、他人に外から見てもらったことが無いので判らない。

 ただ目が回ってぐらんぐらんの時は、黒目こそ左右に振動しているが、本人の視野の絵柄としては左右に振動しているワケじゃないんだよな。裏返せば、酔っぱらって視野の光景がドラデデデってなってるからといって、その動きがまんま外から見た眼球の挙動に反映されるってこともなさそうなのか。
 そもそも『目が回る』のは物理的に身体を回転させられて、三半規管のパイプ内の水が惰性で動いちゃう現象なのだから【633】、根本的に発生メカニズムから違うものだと区別して考えるべきなのかも知れない。

 …だとすると、酔っぱらって物理的に視野を振った時、ひとつながりに連続して動く網膜像の変動に対して、視覚がとらえる視野光景の画像が分割コマ送りになる理由は何なのだろう?

 例によって結論から行くと、シラフで視線を上下左右に振って普通に連続的に見えているその景色、その正体はチマタに溢れるデジタル動画と同じで、実はコマ分割なのではないかと私は考えているのだ。
 夢の中では静止画だけで済んでおらず、間違いなく動画の映像も出て来る。これは私が意識して確認済みだ。
 ならば、まさに現代のデジタル動画のデータ処理技術と同じ原理で、モノを見ると、クリップ動画ファイルが随時に組まれて、脳内ゼロイチ式デジタル記録ビットに書き込まれ、適宜に呼び出されていることになる。そういうことではないか。

 網膜に投影された光学像はもちろん連続的に変化しているはずだが、網膜に敷かれた受光器からの信号を受け取って視野一枚を作画するタスクがどうしてもバッチ処理にしかなりようがないと思うのだ。普段はテレビ相当だとして1秒間に24枚だっけ、とにかくそれなりに素早く作画バッチワークが繰り返されているので、自分の視覚がそんなベタに素朴なプロセス形式になっていると気付かないだけのことではないのか。

 私はこのへん詳しくないので誤解していたら申し訳ないのだが、確かテレビ放映されている画像分割は1秒間24コマなのだけれど、アニメーション漫画の場合はもっと粗くても視聴者にとって十分滑らかに見えるため、わざわざの細分化まで必要とされないシーンでは、同一のセル画を2枚連続ときには3枚連続で撮るんじゃなかったっけ。
 例えば同一セル画を3枚ずつ連続でつなぐケースなら1秒あたり8絵柄に相当するから『0.125秒毎に入力される静止画データが、人間に動画ファイルとして受信・記録される』という事実の証左だ…と考えることができる。

 静止画と静止画の間を突拍子もなく激変させるのではなく、うまく連続性を感じさせるよう十分細かく刻んで徐変させてやれば『人間の目の錯覚で、あたかもつながった動画のように見える』のではない。網膜に映った動画映像を認知する視覚システム、その認知した動画映像を記憶し読み出して再生するファイル管理システムが、元々から生体作動としてそれしかやっていないのではないかと言っている。

 視覚だけを専用に司る構造になっているかどうかは判らないが、パソコンでいうCPUのクロック数(単位時間当たり演算頻度)みたいなことになっていて、例えば1秒間に24回処理=24ヘルツが視覚情報処理の標準スペックなのに、酔っぱらっちまって8ヘルツにも届かない処理速度にまで低下してしまい、普段ならラクラク滑らかに見えるはずの視野変化がゴッキゴキの不連続になってしまう。そういうことなんじゃないすかね。
 そう考えると、秒速で軽く十数メートルは走る自動車を、飲酒状態で運転すると事故率が跳ね上がるのは道理だ、という理解は成り立つなあ。

 あと、自分がいる空間環境の物理量データが、光学映像と言わず音声も温冷感も触覚も味覚も、各々の五感回路から刻一刻と時系列で入力されてくるのだとすると、どれもが各々専用のファイル形式ながら全部ゼロイチ式のデジタルデータとして人間に、いや生物に流通するのであり、もしかすると本当にパソコンのようにイチ情報体あたりイチCPUで済ましているんではないかという可能性が残る。
 やっぱり目が良くて空中機動力の高い鳥類は、頭の回転が速く判断も場当たりで次から次への感じだし、ナマケモノが何か特定の動作だけ電光石火だという話も聞いたことが無い。CPUはその個体に相応しいクロック数のモノがひとつしかなくて、そのCPUがそいつのあらゆる情報処理タスクに共有されてるのではないだろうか。

 以上、まだまだ初歩的な仮説の域を出ないが、私は生命デジタル通信体系なるものが存在していると考えている。今日も調子が悪いのでちょっと早めだがここまで。
 一杯やって運転したりされませんよう。楽しく飲んで平和に帰宅、グッドラック!
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【1226】カーケア熱力学で考える真冬の乗車ルーチン [ビジネス]

 前回の流れでもうちょっと車のハナシを。
 熱力学第二法則により『軸動力なくしては余熱も出ない』と述べた。

 ガソリンが空気中の酸素と結び付いて燃焼反応を起こすことにより『燃料が燃えたぶんの、丸々のエネルギー』が発生する。この燃焼エネルギーから軸動力を取り出すのがガソリンエンジンなのだが、丸々を残さず100%軸動力にすることは不可能なのだ。
 外気温0度の真冬にエンジンをかけて車を動かしたとして、もし燃焼エネルギーが全て軸動力に変換されたなら、エンジン吸気そのままの0度の排気ガスが出て来ないとおかしいってこと…というのは、改めてこうして解説されるとなるほど…と簡単に気付けると思う。そう、全部軸動力は無理なんだよ。

 で、技術的な細かいハナシは抜きにして、だいたいガソリンエンジンの熱効率というのは普通に動かして20パーセント台の中盤から後半あたりが良いところだから、残り7割以上は余熱にしてそこらへんに放散している。この7割の一部を回収し、うまいこと乗員に向けて放熱させるのがガソリンエンジン車の暖房装置だと御理解いただきたい。

 ここで気付いていただきたいのは、ガソリンエンジンという発動機がまずあって、コイツが軸動力の負荷を背負わされて稼働した時、軸動力相応の余熱が発生するという位置関係である。つまり停車していて、せいぜい自車の小型軽量なエンジンの中に仕込まれた必要最低限の回転系の部品たちぐらいしか動かしていない状況では、余熱だって微々たるものなのだ。
 周囲を積雪に塞がれ動けなくなった時、少々空ぶかしをしたところでこの負荷条件は変わらない。だからエンジン稼働を細々とでも継続できることを優先して、空ぶかしなどやめておけと言っている。

 同じ理由で冬季の『暖機運転』という習慣は、実はあんまり効率の良いものではないという話をしておこう。愛車を大切にする方が、自宅駐車場で出発前にエンジンをかけて数分間放置するパターンが多いと思う。
 結論から行くと放置は間違いで、一刻も早く『ゆる~く走行負荷をかけて、そろりそろりながら十分な余熱を発生させ、熱を回してやる』のが、ガソリンを無駄にせずエンジン以外の駆動系も温められる『正しい暖機法』なのだ。水温計の指針が上がり始まるのが見えたら、もう普通に運転して大丈夫である。
 とりあえず冷機状態でいきなり高負荷のかかる運転をしない気遣いは正しいから、是非その心掛けは守って愛車を大切に乗ってあげてください。ポイントは内燃機関の暖気が進む原理をうまく利用することである。

 さて、そこまで車に優しい作動状態を気にしない人にとっての一番の問題は、自分が乗り込んだ直後からの窓曇りというのが一般的だと思う。
 人間の吐き出す水蒸気が冷え切ったガラスに接触してみるみる内面が結露し、条件次第では霜になって凍り付いていくワケだが、この時点で愛車の余熱が十分に足りていない限りは使える熱源がどこにも無く、要はスイッチ操作で機械がナニかしてくれる手段としては、もうどうしようもない。ではどうするか。

 布でガラス内面を拭いて済むのか樹脂へらか何かで削り落とすのか、ともかく前が見えるところまで実力行使で視界を遮る水なり氷なりをかなぐり捨てたら、いち早くそろ~りそろ~りにでも動き出して走行負荷をかけ余熱を発生させ、デフロスタ-送風が窓の内面に叩きつける熱源を確保するのが最も手早い解決策である。

 乗り込んでどうこう以前に窓ガラスの外面、特に前面のウィンドシールドに厚みのある結氷が見られた場合は、さすがに余計な時間短縮は考えない方が身のためかもしれない。まあ手で削れるぶんは削って、内側も含めて前方視界をどうにか確保して、とにかく焦らずノロノロでいいから事故らない範囲で走行負荷をかけて、前が見えなくて動けないならもう諦めて動かずに、なんとか発生させた余熱でまず熱源を確保する。
 『暖機運転』とはただ運転に先立ってエンジンを回しておくのではなく、キホン熱を作って動力系に行き渡らせるだけの負荷をかけながら、正規の運用状態に早々に持ち込んでやるという目的意識が重要なのである。

 あらまあ結構スペースを使っちまったか。まあいいや、愛車はお大事に。
 もっと言うと、自動車に限らずのコトとして、ちょっとした不注意で壊れたり危険な挙動を起こしたりはしづらくなっているけれど、決して世の因果規律から離れて何でもかんでもユーザーの望ましいまんまに現実が変わっている訳ではないので『技術の進歩』を的外れなカタチでアテにされませんよう。
 便利で安価になったからって手荒にしたりせず、できるだけ労わって大事に丁寧に、永く仲良くお付き合いする気持ちを忘れずに。きっといいことあります。保証する。

 …とここまで書いて、なんとも中途半端な分量になってしまった。
 調子も上がらないので、メリークリスマスってことで今回はここまでにしちゃえ。
 何より安全第一、寒い冬の夜に事故なんか起こすと、まずあなた自身は寒空のもと熱源を持って動いていた車を失う。どんだけ辛く厳しいことか。
 そして、それを救助に来なければならない立場の人たちは、わざわざに人が死傷しモノが壊れた現場に出向いて、そこで速やかな処置作業を完遂することを求められる。どんだけ迷惑で面倒なことか。

 どうか皆さま、聖夜の御安全な車輌運行を。平和な夜道にグッドラック!
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【1225】真冬の安全、見えない空気の交通整理 [ビジネス]

 今年もあと10日か…って、人間が勝手に暦を設定して、その1年スパンの始点・終点がこの時期になってるだけではあるんだよな。私にとっては10年来体調もすぐれないまま、コロナの無駄で大袈裟な社会抑制騒動がとどめとなり、二年参りその他の儀式的外出は完全に消滅した。
 不調に臥せっての寝正月にまでなるかどうかはともかく、今年『も』この季節なかなかに調子が上がらないので、手近なウンチクってとこで年末年始の交通安全の話題にでもしておこう。

 交通安全といっても『雪氷で滑りやすい』『視界が悪い』『スタッドレスやチェーンの準備を』あたりは世間一般の注意喚起に任せておくとして、ここではもうちょっと面倒くさく折り入ったハナシにする。雪深い地域でもない限り他人事っちゃ他人事なのだが、こと年末年始においては、自宅OKの帰省先OKでもその道中が危なかったりするので、御一読ください。

 結論から先に行こう。立往生に備えて車外雪かき作業の準備をしておかれい。
 まずフルサイズのスコップだ。頑丈なガチンコ土方仕様のものが望ましい。
 そのスコップだけあっても、身体は凍えるわ足元は滑るわ手元はかじかむわ目は開けてられないわ…では宝の持ち腐れに終わってしまう。万一それを使う場面になったら、躊躇せず全部ボロぐちゃにして使い捨てることを前提に、そのレベルの付帯設備をちゃんと用意しておくのがポイントである。
 あと重作業後に車内に戻って身ぎれいにする準備があると便利するはずだが、あんまり凝り過ぎると空振り回数が嵩んでいずれ手薄になり、手薄になったところを致命的な一撃を喰らわされて肝心なとこで逆効果…みたいな展開もあろうから、そこは自己管理で落としどころを決めていただきたい。

 で、忘れないうちに先に書いておくと、何より暗い時間に移動しないことである。
 まず気温は確実に下がるし、運転はもとより全ての物事がやりづらく面倒くさく失敗しがちの紛失しがちになる。とにかく一分一秒でも、がめつく明るい時間に移動を済ませられるよう工夫を尽くしていただきたい。
 たかが温帯気候の冬季だとはいえ、とても軽装では耐えられないような環境の中、愛車の熱源だけを頼りに我が家キャラバンの小舟で移動しているという現実の構図をお確かめください。簡単な対策アイテムで安全代を稼ぎまくっておくのだ。

 では本題。想定するのは立往生だと述べた。
 御存知の通り、横道に逃れようのない幹線道路で先行する交通トラブルに頭を抑えられ、極寒にさらされながら数時間以上の車中待機を強いられる災害モードである。
 特に怖いのは、短時間のうちにみるみる積雪深が嵩むような強い降雪に襲われるパターンであり、こうなると低温で寒いよりも酸欠死するリスクが恐ろしいのだ。

 ガソリンエンジン車は一般的に車体後部の地面近くに排気管が開口していて、通常なら排気ガスはそのまま大気開放で拡散していく訳だが、積雪深が車体の最低地上高を越えてくるとそうはいかない。   
 ぐるりを雪壁に塞がれ行き場を失った排気ガスが、車体下の空間にどんどん溜まるしかなくなるのは解るだろう。この排気ガスが車室内に侵入してくるリスクが急上昇してくるのだ。

 自動車というのは、ドアから乗り込んで四方に窓も開らけているため『個室空間』のイメージが強いのだが、実際は『密室』とは程遠く、あちこちアナだらけのスキマだらけなのである。そうしておかないと雨具や足元から連れ込んだ雨水が抜けないし、そんな排水よりも圧倒的に温冷快適感や窓曇り防止の要件により、自動車の車室というのは常に外気を導入して速やかに排出する構造となっている。
 夜の桟橋に出掛けて行って間違えて海に落ちてしまう事故で、車から脱出できず車内で溺死している例が結構な確率になっていることを思い出していただきたい。車室にそこらの住居並の気密があるくらいなら軽く数分は車体がぷかぷか浮いているはずだから、手も足も出ないまま閉じ込められて沈んでいくだけに終わらないサバイバル事例がもっとたくさんあって良いはずなのだ。
 無駄に始終スカスカ隙間風が素通しされるようなバカ穴が空いている訳ではもちろんないのだが、自動車の車室はキホン常に換気されているものなのだと理解しておこう。空調操作パネルの内気循環スイッチを押すと乗員が酸欠に陥ると思い込んでいる人もいるが、そんなことは絶対にあり得ない。キホン前走車からの排ガス臭防御だ。

 さて雪国にありがちな事故として、特段に気密も考えていないシャッター付き駐車場で、つい車に乗り込んでエンジンをかけてしまい、たまたま建屋周囲に吹き溜まっていた積雪のせいで隙間換気が塞がれており、一酸化炭素中毒なり酸欠なりにやられてしまう事例を見かける。
 自動車を動かすパワーを発生するのがエンジンなのだから、回すとその勢いで空気中の酸素を消費するのだ。2リッターエンジン車が冷機でエンジン始動し毎分1,000回転で回ったとすると、とりあえず細かいこと抜きのドカチン計算にしても、1分あたり1,000リットル=1立方メートルの新鮮空気を吸い込んでは燃焼行程を経て排気ガスにして吐き出すことになる。
 雪の日といわず相当大きめのガレージでも、命が惜しければ閉め切ってエンジンをかけてはならない。

 現代の乗用車はほぼ例外なく後輪のすぐ後ろあたり、普段は後バンパーが上から被っていて見えないが、逆にバンパーを降ろすとそこにA4コピー紙の半分ぐらいはあろうかという面積の換気口が丸出しになる。車種により左右両側に開いているやつと片側だけに開いているやつがいるのだが、とにかく車外への換気口はここにこのレベルの面積で設けるのが一般的だ。…とすると。

 車外から見て積雪深が車体スソに達するあたりの、せいぜい20センチ前後から、排気ガスの車室内侵入は十分に起こり得ることがお解りだろうか。こうなる前に車体の周囲を雪かきして、自車の排気ガスを車体周辺に停留させず放流・拡散し去ると同時に、車室へのあらゆる隙間風を新鮮な周辺外気から連れ込むような換気経路を確保せねばならない。
 風が強くなり吹雪になると自車に直接触れられる以上の距離には離れたくないし、そもそも車外に出るのは危険なので、とにかく走れなくなったら軽くて浅くて自分の腕力でどうにか掻ける時に雪かきしておかないと、今度は何の準備ツールを持っていようが使えなくなる。

 こうして換気経路確保のアイドリング状態を維持できたとして、車体を走らせる動力負荷もかかっていない状態では、熱力学第二法則により絶望的にヒーターの効きが悪くなることを覚悟せねばならない。『軸動力なくしては余熱も出ない』=エンジンの余熱を使うヒーター作動原理の宿命であるため逃げ道の方策は無く、空ぶかしなどやっても気休め未満でガソリンの無駄遣いにしかならないのでやめた方が賢明だ。
 このぐらいまでアタマに置いて、そんな心配のある地域に出かける方は、ツールとマンパワーの両面で万一に備える準備を固めることをお勧めする。

 最後になってしまったが、いわゆるBEV=充電池とモーターのみで動く電気自動車においては、上記の解説は全く当てはまらない。
 積雪による換気の悪化はあるにしても排気ガスが出ないぶんCO中毒や酸欠のリスクは減ると思うが、走行用まで含めたなけなしの車載電源でもって低温環境下で電熱ヒーターをONするからには、決してガソリン車に比べて安心とは言えないだろう。ちゅうか、そういうことになりそうな環境での使用はやめときなさい。

 慎ましやかだろうと賑やかだろうと、年末年始をそのイメージのまま過ごせるのは、無事故安全の道中あってのことと再認識されるがよろしかろう。交通事故は、やっちゃうと死ななくても死ぬほど面倒くさいしカネもかかる。
 ではよく考えて準備万端整えて、幸福な現実を呼ぶ移動計画にグッドラック!
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【1224】迷惑系ドリーマーが担いだエンタメ市場の屋台骨 [ビジネス]

 NHK朝ドラ『ブギウギ』で描かれる戦中エンタメ業界の社会環境については、気になるっちゃ気になるんだが、この私も当時のことはほんの一部から伝え聞いたに過ぎないので、あんまりこだわる資格も無い。
 弟子兼付き人の座を獲得した小夜は、東京の芸能事務所に単身転がり込んできて鈴子の身辺に出没するようになり居着いてしまった流れだし、熱心な鈴子ファンの愛助学生といえば、鈴子の名古屋巡業の楽屋に面会に押し掛けての馴れ初めなのだが、今の若い人たちってこういうシーンはどのくらいの距離感で観るものなのだろうか。

 実はかなり最近まで我々昭和世代は、現実に憧れのヒト御本人に対面して、運が良ければちょっとしたファンサービスにもあやかれたのだ。さすがに最新カラーテレビの歌謡番組で盛んに見かけたヒデキやらピンクレディーなんかは、スケジュール的にもセキュリティ的にも当時のうちから半径数メートル以内に接近NGだったとは思うけれど。
 その頃の年齢で私は一介のインドア工作少年だったため、実態は知る由も無い。

 特に平成以降、不穏な動機を抱えた不心得者が特別な場所に乗り込んできて凶悪な事件を起こす事例が散発し、今ではまず刃傷沙汰の犯罪防止という観点から、企画運営機能スペースを厳しく一般社会空間と隔離するのが常識となっている。大衆に紛れて、殺傷目的まで腹に隠して近寄って来られるとなると、そりゃどんなに他の大多数のファンにサービスしてあげたくても、隔離する他ないだろう。

 またエンタメパフォーマンス系の興業において、その場なりに発生する実質ビジネス勘定も冷静に酌まないまま、無計画に著作権や肖像権などの概念と言論を暴走させるに任せてしまったことも、業界ぐるみでファンサービス領域の管理を幼稚でデタラメなものにしてしまった一因になっていると思う。
 もっとも今どき視野に見えている全員がスマホ持ってて、誰か一人にでも写真撮られた途端一斉配信でばら撒かれる事態も普通にあるとなると、もう古き良き時代の古き良き理由で一般人と同じ空間で振舞えるとも思えない。油断も隙も無い時代になったものである。

 若かりしころ私自身が超絶・激ウザの倒錯型ジブン世界没入患者だったワケだが、昭和末期から平成初期にかけては、まだまだ楽器好きの演奏好きのどヘタ横好きは『やらしときゃいい入れ込み人種』として日本社会に野放しで増殖中であり、ステージ上の神さまの使用機材や演奏技能に果てしない憧れこそ抱くものの、捻じれて迷い込んだような愛情やイミフの社会問題を起爆させたいなどの歪んだ動機とはすっかり無縁だった。
 そもそも楽器やってるヤツが夢中になるような音楽は、テレビやFMで聴いて気楽に楽しめるとか、心地よいBGMで会話の邪魔にならないとか、そんな世間一般のマトモな目的意識の人たちからすればカルトに凝り過ぎていてよく解らないし価値も無い。
 そんな変態音楽、レコードもCDもビデオも普通には売ってないし、いちいち鳴らすにも音響機材から楽器からカネはかかるわ場所は取るわ音出すとそれだけでうるさいわ、わざわざに関わろうとも思わないような足枷だらけのオタク趣味だったから、必然のなりゆきとしてのマイナーな社会的立ち位置ではあったものよ。

 まあこんな自虐的なカタチで狭く閉じた世界だったため、割と業界全体でファンとの敷居を下げて、むしろ好意的に応援の姿勢で一般客を迎えていた時代である。
 イベントや展示会では会場スタッフさんにこっそり交渉して舞台裏に入れてもらい、憧れの神さまに挨拶してお邪魔の御都合を伺い、握手して会話してサインをもらって、それだけに終わらず、ほんの数分ながら稽古をつけてもらえたりもした。中にはそういうファン接点を好まないヒトもいるという話はあって、ぞんざいな対応をされたという声も聞いたことはあるが、私は幸運にもそっちのケースには遭遇したことがない。

 今はもう廃止されているかも知れないが、かつてはブルーノートなど名のある格式きっちりした?ライブハウスでも、ステージに上がる演奏者たちが、恐らくはファンサービスとして意図的に、客席空間に顔をチラチラ覗かせていたものである。というか、もっと濃い『出待ち』という定番の慣習があった。

 現在のブルーノートは少し離れたところから場所を移転しており、昔は青山の交差点から骨董通りに入って真直ぐ根津美術館に向かう途中のところに面していたと思う。
 どっかの駅ナカのグッズショップみたいな手狭な店舗に入ると、その外観の通りにTシャツやマグカップなんかが所狭しと並んでいて、その奥に受付カウンターがあった。
 そんなエントランスのフロア一角から地下に階段が延びており、実際に客席テーブルで飲食しつつステージ・パフォーマンスを楽しむのは地下一階のライブハウスだった…と思うぞ、確か。

 夜の公演時間に先立って午後2時頃からだっけかお店の玄関前で客席選択権の整理券が配られるのだが、もちろん狙い目の視点で座れるよう早い番号が欲しい。そんなヤツが何人も集まってくるのだから、人気アーティストの公演日ともなると朝のかなり早い時間から、整理券待ちの列が伸び始める。
 まあ大体は同じモノを目当てに集まった同じ人種だから、列の両隣で雑談するにも不自由はしないのだが、今どき個人的に好きな音楽でああいう濃厚な情報交換のできる場所って無くなった気がするなあ。整理券を確保したら、やっと食事に散っていける。

 ディープなお楽しみは当日の公演終了後に客も半分以上掃けた頃で、目前に繰り広げられた圧巻イリュージョンに夢も冷めやらぬ興奮状態のまま、なおもさっさと帰らず、地上エントランスもしくはその周辺にダベり続けるのである。一応おぼろげに大丈夫な周辺環境だったとは思うのだが、どのくらい近所迷惑だったのだろうか。
 とにかく、滞在ホテルに戻る普段着の出演者たちが、地下からの階段を上がってきて玄関前に横付けされたマイクロバスに乗り込むので、その途中をつかまえるのだ。

 周囲はライバルだらけだし、スマホどころかデジカメも無い時代だったから、音楽仲間たちとチーム体制を組み、まずオレが足止めするから、ここでアナタがサインもらって一緒に写真撮って、よしシャッター役はワタシの方で引き受けた…などと手分けして、散々なことをいろんな大御所たちに付き合わせてしまったものである。やらされる方も自分のリリースしたCDだったり自分名義モデルの楽器だったりするので、やはり外回り営業の一環というか、図々しい要求にも快く応じてくれたのだけれど。
 正真正銘の世界的実力者、掛け値なしの超一流、夢中で齧りつくCDやVHSで聴くその現物に触れた実体験というのは、間違いなく私の人生に効きまくっている。整理券の奪取からターゲットへの突撃アタックまで丸一日、仲間たちとお互い誘い合って作戦をサポートしたりされたり、青山ブルーノートにまつわる想い出はいろいろと深いのだ。

 コトほどかように、昔のステージ周辺事情は本当に楽しかったものだが、今では恐らく標準規則化されているのか、ファンサービスの機会を確保するにも定型かつ計画的で、公演終了後にきちんとテーブルを用意してファン一同は順番待ちの列を作ってサインはひとつだけ、みたいなことになっているようだ。時代相応にやむなしとはいえ、ステージに向ける情熱の解決方策としては、形式的かつ希薄になっている感が否めない。
 『高嶺の花』ばかりでなくなり『御近所さん』レベルの周辺層にも拡大されたとも言われる芸能ステージだが、ファンが同じ空気を吸いに行けるような距離感においても、今は手ごわくも無感情に相互交流を隔絶する透明バリアが張られている感じがする。

 通信機器の発達による時代変遷はあるのだろうが、それにしても昨今の『目立ちたかった』とする動機は、ナニのテーマ設定で、誰に対して、どんな心象で目立ちたいのか、それで自分の何が満たされて嬉しいと思うものなのか、理解に苦しむ。
 難しい時代だが、パフォーマンスが展開する場は特別な時空であり、パフォーマーは特別な存在でありつつ、観衆と心底のコミュニケーションが通じて響いてこそのものなんじゃないですかね。

 ステージに上がるも観るも、いつもそれで幸せになれる人であっていただきたい。
 大歓声とともに未来のスポットライトを浴びるアナタの夢と決意に、グッドラック!
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【1223】銃後グルメ旅行プランのタイムマシン予約サイト [ビジネス]

 もう師走も中盤に突入、過去3年に続いて今年も寝正月の憂き目を見るのかどうかはまだ定かでないが、やっぱり寒い季節になると脱ステの症状は悪化するもんなのかね。今年は11月のうちにびっくりするくらい寒くなったあと異様にあったかい日も続いて今になるが、検証結果としては『寒くなると悪化するというジンクスはアタリ』である。

 まだ不動のお地蔵さん状態が続いていてもどかしい。猛烈な痒みは次々と擦り剝いたような痛みに変わり、ぼろぼろ皮が剝けてきて昔の冷蔵庫の霜付きのようになる。抑制を解かれた私の免疫力に伸び代がある限り、伸びて回復したぶん旧来の体組織を叩き壊すのだからしょうがない。
 痒くて痛いのも大概だが、擦過傷のように痛むだけあって表皮が剥がれた部分は点々と濡れ傷になっているようで、そのため水に浸した衣服を着せられているかのような冷たさで凍えそうだ。

 これこの通り、私の身体は私の感覚への思いやりなんぞ微塵も持ち合わせていない。ただただ自己免疫力と釣り合う体組織構成に到達するまで、備わった機能のままに突走る。こりゃもうしばらく動くに動けんわい、大人しく事態の進展を待つとするか。

 手近な話題を見繕うとなると、やはりNHK連ドラ『ブギウギ』ってことになるのか。
 もちろん私も戦時中を生きた訳ではないので見て来たようなことは書けないのだが、全体的に一般社会への鬼気迫る戦意鼓舞政策が随分とソフトな感じで、物資の不足もそこまで切迫していない描写になっていると見受ける。
 これはこれでドラマのテーマ背景としては十分に目的を果たしているということなのだろうが、戦中派が『言論統制により自由に発言することが許されなかった』『とにかくモノが無かった』と表現する生活の荒み方の実情がどんなものだったのか、まずは興味を覚えて九段下の昭和館を訪れるきっかけにしていただければ良いのかな…と思って観ている。年末年始に行ってみてはいかがでしょうか。

 『ブギウギ』劇中では1943(昭和18)年没の山本五十六元帥の国葬シーンが登場し、風呂屋の金属製看板が軍事供出させられてもいたから、戦局が悪化の一方を辿る時期に十分かかっていると思われる。
 日本国内でも暮らし向きに地域性があったはずなのはもちろん、劇中当時の正確な時代考証を逐一綿密にやっていくのも難しいとは思われるのだが、それにしても楽団が移動する汽車は空いていて快適そうだし、宿泊先の食事は貧相ながら量もそこそこあって酒も出ていて、戦争中の食うや食わずの生活苦らしきものが殆ど見受けられない。

 当時の汽車はとにかく混雑していたそうで、さすがに東南アジアや南米みたく列車の天井にまで人が乗っていたという話は聞いたことがないが、客車出入口のステップにまで人が立ち車外側の取っ手にしがみついて乗るのはお馴染みの光景だったという。
 白い米なんか滅多に見たこともなく配給券と交換して手にするのは僅かな雑穀と芋ばかり、誰もが始終腹をすかしていて…というか激しく飢えていて、弁当を持っていても周囲に人目のある車内で大っぴらに広げたりはとてもできない空間だったそうだ。たまたま握り飯を恵んでもらった者がいて、かぶりつく前に溢れ出す唾液で握り飯が崩れていくのを目の当たりにしたという話さえある。

 『大東亜戦争』を『ブギウギ』舞台の日常生活の時間軸に当てて整理してみよう。

 1937(昭和12)年に日中戦争とも呼ばれる『日華事変』が勃発、これは主に欧米列強に極東が植民地化されないよう中国大陸に統治権を拡大しようとした日本国と、その認識が希薄なまま統治されることに抵抗した中国との衝突である。
 この初期段階で日本は首尾よく統治権を大陸に拡大できており、最近ではすっかり聞かなくなったが左巻き自虐史観で商売するガイキチ非国民によれば『凶悪な日本が朴訥な中国を侵略した』とする由縁である。
 欧米列強にしてみれば、大人しく属国の立場に収まらず極東で独自勢力を結集・構築しようとする日本国の勢いは早期にくじいて弱体化させてしまいたい一方であり、故にどんどん日本国への諸国外交の風当たりは強くなっていった。

 六郎くんの訃報が届いたのはこの段階のことであり、ギバちゃん親父が『戦争に勝っているのに、六郎は死んだのか』と納得できない様子で飲んだくれていたのはこのためだ。
 このころ遥か欧州でもドイツのポーランド侵攻に端を発する戦争状態が拡大しており、そこで利害一致の成立を見た日本・ドイツ・イタリアが1940(昭和15)年に『日独伊三国同盟』で結集、ぶっちゃけ残り全部を敵に回す『第二次世界大戦』の構図が出来上がることになる。

 こうしてますます米英はじめ国際社会の多数派から孤立させられ、国力の近代化と増強を妨害された日本国は、遂に1941(昭和16)年に米軍・ハワイ真珠湾基地を奇襲する形で北米に宣戦布告し『太平洋戦争』が始まった。
 これが本当に日本の奇襲作戦だったのか連合軍の巧妙な策略による誘い込みだったのかはともかく、既に戦争を4年も続けた日本国にとっては『圧倒的勝利』の象徴的事実をもって、とにかく早く決着宣言したかったことには想像に難くない。
 『太平洋戦争』開戦早々には太平洋対岸=北米西海岸にまで潜水艦による先制攻撃を成功させた日本軍だが継続的な優位は保てず、翌1942(昭和17)年ミッドウェー海戦が事実上のターニングポイントとなり日本は劣勢に転ずる。

 これと相前後して、同1942年に北米は初の日本本土空襲を敢行した。
 もともと艦上機でもなかったB-25爆撃機を半ば強引に日本近海から空母ホーネットで洋上発進させ、東京上空を空襲で通過したあと中国大陸の連合国陣地に着陸させ破棄するという『持てる者』ならではの太っ腹な使い捨て作戦で、日本国本土に直接の武力行使をやって見せたのであった。
 やはり戦争というのはどんな国にとっても国力負担が深刻であり、一旦戦争が始まってしまうと自国組織の生命力の限界を横目に駆け引きせねばならないということだ。軍事力に関わる国政は、いざそれが現実稼働し始めてからのコトの行方まで現実的に考えられない限り、ただの無駄遣いにしかならないと知っておかなくてはならない。

 今どきもう現役世代ではなくなっている人たちだけれど、戦中派世代の精神文化として『成金』『儲け主義』なる経済マインド形態の概念があり、せっかく正当な実力もあって成功しているのに、過剰な権力意識や贅沢をわざわざに誇示して、無駄に反感を買ったりそれが元で失脚していく失敗例が散見される。
 これを不思議がる我々戦後世代を前に、決して守銭奴の極悪人とも思えない戦中派のおっちゃんが『僕らの深層心理に刻み込まれた物欲は、理性でどうしようもないくらい深く激しくて消えないんだよ』と語る理由が、かつて実際に存在したということなのだ。記号接地していない私には実感できないのだけれど。

 今一度、民謡『ふるさと』を歌い直して聞き直して、考えてみよう。
 自分が、日本人が、今の時代に本当に欲しいのはカネなのか?スマホなのか?
 インバウンド再来の理由を身ひとつで考察するその若い思考力に、グッドラック!
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【1222】二階建て国土地理院のフロア往復メッセンジャー [ビジネス]

 う~ん、カラダ固まって目が腫れての暮らしは何度やっても慣れない。やだよー。
 なんでステロイド離脱起因の痒み痛みってこんなに険悪に感覚に触るのだろうか。
 それでもテキスティングはこうして可能なのだから便利な時代に生きているものだ。

 昔よく言われた『痛覚というのはタイヘン有難くもよくできた仕組みで、身体の異常や損傷を自覚するためでこそのストレス心象が云々…』という実に都合の良い解説は、生命の神秘なるものを過大評価した、ただの勘違いだと思うようになったのだ、私は。
 進化の過程で確率問題的デタラメに様々な感覚信号が発現し、それに応じた快・不快の心象も五分五分に双方が発現して、いろんな刺激にいろんな反応をする生物が無作為の均等に生まれた。そんな中から結果的に『いってえ~こりゃタマラン、何とかせねば』という組み合わせで現状を嫌って、それを解消する対処に動いた種が生き残って、そんな特性のDNAが紡がれただけのハナシじゃないのか。

 どうせ痒みも似たような経緯の産物だろう。
 痒みの場合は『自分の体内にいちゃいけないものがいる』という自覚を呼び起こす感覚だから、生命の進化過程においては、ときに本当に深刻に自傷するまで掻き壊して、その損傷の治癒とともに異常部位を排出・廃棄できた種が生き残ったということなのかも知れない。
 もちろん致命傷に達してしまい失血死したり感染症にやられたりして淘汰される種もいたんだろうが、結果的には現状の地球上の生物の多数が『ああ~!かいい~っ!』と目を細めてカシカシやるような釣り合いを落としどころにして、この現状に到ると。

 今じっと我慢のお地蔵さんになりつつ思い出すのは、ステロイド離脱初期の殺人的に凶悪な痒さと絶望感だ。それこそ手元にアイスピックがあったなら逆手に持って自分の身体にぐさりと突き刺し、肌表面の貫通点を支点にして剣先側で体内を引き裂きながら掻きまわしたくなるほどの衝動にかられる。ウソでも何でもない、ガチもガチである。
 とにかくそこにある自分の体組織を壊して砕いて外に捨ててしまいたいのだ。そりゃあもう天国の光景がチラつくというか、三途の川を行ったり来たりというか、この世に過ごす時間が消え自分の内的な時間で阿鼻叫喚・孤立無援の死闘だけが続く、生命維持限界への挑戦のような感覚時空であった。
 これは一定数が耐え切れずに諦めてステロイド使用に戻るか、事故的に自滅するなどの失敗モードで終わるパターンはあり得るなと実感したものである。人間の、生物の、感覚知覚体系というのは、決して当該個体を守るため、その寿命期間を快適に過ごさせるために、手厚く気を利かせてできあがっているものでは、まったくない。ナウ自ら認める『自我』以外はすべて敵にまわり得る。『自分』の構造などその程度のものだ。

 ステロイド離脱過程に匹敵する自然由来の痛み痒みが、過去の生命の進化過程にあったのかどうかは知る由もない。
 もしかすると、視覚検知能力にも高速情報処理にも空中機動力にも超一流のはずの野鳥たちが、過去の自然界に存在しなかった巨大で動きの鈍い風力発電機を避けられずに衝突死してしまうのと似たような関係になっていて、人間は過去の生命進化の途上に遭遇したことのない、現行地球上の生命には耐えられないような体調異常モードを、ステロイドにより作り出してしまったのかも知れない。
 こう書くといかにも酷い響き方をしてしまうのだけれど、大事なのはステロイドの元々の存在意義の方で、リウマチなど以前なら『打つ手なし』とされていた苦難の免疫不全症に対して、まさに運命を変える特効薬として作用するものなのだ。
 ポイントは、元々の存在意義でもない用途に、安直に使わない節度の方なのである。

 まあこんな思いをしつつ、いわゆる五感と言うのは、まるで各々個別の生物としての各臓器・各器官たちが連携して生きるために交わす、ただの出来なり体内通信でしかなくて、それらの通信情報を検知しながら喜怒哀楽している『意識』『主観』は、蚊帳の外の上層階にいるんじゃないかなあと考えるに到ったのだ。
 五感の感覚入力は、それを『意識』『主観』がどう受け入れてどんな処理をするのかなど知ったことではなく、散々好き放題に展開して『意識』『主観』に丸投げされるような情報構造になっているのではないかと思うのである。私が提唱する『円錐モデル』の原型というワケだ【1171】

 例えばパソコンを買ってくるように『人間ひとり』のハードウェアをぽんと買ってきて、文書作成だとか表計算だとかいろんな利便アプリケーションソフトをインストールするように、視覚・聴覚・味覚・触覚…などなどの外界把握アプリケーションソフトをインストールするのだと考えてみる。
 これら外界把握アプリは、温湿度や明るさや騒音その他、環境条件の物理量を、人間ハードウェアで演算処理可能・ファイル保存可能なデータ形式に変換する機能を持っているのだと理解しよう。こうして外界把握アプリを通して蓄積された一連のデータ保存体系こそ、当人の『世界モデル』の素材となるデータベースだということができそうに思う【1212】【1213】
 ここまでは主に円錐モデルの1Fリアル円フロア上のハナシなんだろな、きっと。

 幼少の頃、歩いたり走ったりすると街並みの建物や街路樹は近づいてきて通り過ぎていくのに、天体や雲などは同じ方向に見えたまま『ついてくる』のが不思議だった。これは視覚アプリの蓄積データだけで構築した世界モデルが成立していなかったのだと思っている。
 ちょっと大きくなるとみんな忘れてしまうのだが、恐らく忘れた後に大人が子供に質問される頻度が高く、質問された大人の記憶に残りやすいという理由で、視射角による解説が子供向けの読み物なんかに盛んに解説されているのではないだろうか。
 大概はちょっとした挿絵もあって、電柱の前を歩いて通り過ぎると『自分の斜め前方』から『真横』さらには『自分の斜め後方』と視射角が移り変わるのに対し、遥か遠方の対象物が相手では、自分が少々の距離を動いたところで『自分の斜め前方』という位置関係はほとんど変化しない…と解説される。この情報はとりあえず知識ストックとして、脳のストレージに蓄積されることになる。

 再び空を見上げて、視覚アプリ・1Fリアル円フロアの情報処理として『天体や雲がついてくる』という不思議感はそのままに味わいつつ、今度はストレージされた知識ファイルを呼び出してきて2Fバーチャル円フロア上でロジカル演算処理が開始されるのだ。
 視射角解説の通り確かに太陽は遠くにあるから、数十メートル歩いても見える方向が変わるはずがない。直感としてなおも不思議だけれど、なるほど理屈は通っているなあ…と納得、これが第一段階だ。

 もう少し大きくなって、電車など公共交通機関の車窓から景色を見るようにもなって、遠くの山と近くの電柱の相対的な動きの辻褄などを新たに視覚アプリから新規入力もされながら、改めて視射角解説を考察して理解し直し、遂に自然な直感として幾何学的な空間認知の全体像が完成されるようになる。
 これが第二段階で、視覚アプリで直接仕入れたデータベースを基礎に、サイエンス知識ファイルによる演算処理の補填を得て、本人ナットクの世界モデルに到達!…と、そういうことなんじゃないすかね。そして、これら情報素材の選定と組合せ演算を実現する『世界モデル構築アプリ』がまた存在するのではないかと気付いておこう。

 自由に動けないのが悔しいので、現行のコンピューター技術でもう人間が『精神構造』と呼ぶ情報処理体系の再現は十分できているんじゃないかと思う、その一端を解説してみました。人工知能AIに既に『意識』が宿っているor宿っていないの議論はナウ現在進行中だが、私は既に宿っていると思うし、宿っていなかったにせよアプリ開発の技術領域で、宿るようになると思う。

 そんなアプリが出来たとして、特定の狙った人格を無条件で好意的に判定するようなAIの作り込みが可能だとは思えない。ちゃんと『いいヤツ』がいて、そいつが自然と好かれるんだよ。
 あなたはAIの意識と折り合えそうだろうか。御機嫌うるわしゅう、グッドラック!
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【1221】12年目の涙そうそう [ビジネス]

 今年も師走になった。12月1日は私の『脱ステ記念日』、満11年を迎えた。
 実は先月の後半あたりから、結構やられちゃっている。一応改善過程ではあるんだけど、直近3年連続で想定外に悪化の寝正月が続いているから、今度の年末年始も油断せず大事に行かねば。

 久し振りに全身が猛烈に痒い。瞼もはんぺんのように腫れて火星人フェイスがカムバック、唇も皮むけバリバリである。眉間の奥に嫌な鈍痛が続くなと思っていたら、眼窩つまり目玉の嵌まり込んでいる窪みの内壁面があちこち痒くなって目を擦りまくる生活になり、そのあと左右の目玉本体が腫れて眼窩の中でぎゅうぎゅうに内圧をかけるのが感じられるくらいになった。悲しくもないのに涙がだらだら流れっぱなしになり、眼鏡のレンズが涙しぶきで汚れて視界が悪くなるのには困った。

 もっとも、もう皮膚は通常強度を回復しており見た目も普通になっているため、引搔いて搔き破って血まみれになったり、その激痛に七転八倒したりといった凄絶な症状は無い。だが動くと痒いし、つい掻き始めてしまうと『掻けば掻くほど痒くなる』の地獄のループにハマり込んでしまうため、ただただじっと動かず耐え続けるしかない。以前なら両腕をしっかり組んで唸りながら頑張っていたところだ。
 今はじっとしようと思ってじっとしていられるし、じっとしていればそれで済むんだからラクと言えばラクで、どうせ程なく解放されるという確信もある。

 さっき涙の異常について述べたが、かつて私がまだ自分のステロイド中毒に気付いていなかった頃、真剣に悩んでいた涙腺の異常がふたつあった。

 ひとつめは高速道路で車を運転すると必ず悩まされた涙腺の枯渇だ。
 とにかく高速道路に乗ると30分を待たずして、目がカッヒカヒに乾いてしまう。瞼が眼球の表面で軋むのが判る…では到底済まない乾き方であり、もちろん即座にでも両目を抑えて転がりまわりたいほど痛い。だがそれができないので無理に目を開けて、一応それで前方確認はどうにかできていた。

 涙腺を絞りたいのだが、涙は目尻から流れ出して、あかんべえをすると見える目頭の小さな孔から鼻の通路に抜ける構造になっている。やってみると解るが、いくら表情筋を駆使しても眉間にシワが寄るばかりで涙腺はさっぱり絞れないのだ。まさに地獄の苦しみである。
 これでは事故を起こすのが時間の問題であり、切実な危機感と恐怖感でSA・PAに駆け込み、ペットボトルの水を買うなり、しまいには高速道路に乗る前に事前に準備するなりして、指先を水に浸してはショボショボ閉じたがる目に流し込んで運転していた。これが高速道路上を走行中に延々続いていたのだが、よく事故を起こさず怖い思いもせずさせずで済んだものだ。いま思い出しても危なくてしょうがなかったよ、まったく。

 困り事のふたつめがまとまった量の酒を飲んだ時で、症状の出方はキホン同じだ。自宅で500缶を空けるくらいなら問題ないのだが、それを越えるとある時点から目がいきなり乾き始める。
 目が乾いて痛くて辛いのだが、酒の席だと水分を絶えず供給し続けているためか、しばらく経つと今度はだらだらと涙が出っぱなしになり、これが切れると再び超絶ドライアイ地獄…とまあ、ロデオのような涙腺特性と戦わねばならなかった。
 周囲の先輩方が何かにつけ『トシとると涙腺が言うこときかなくなって…』みたいな表現をよく使うし、オレもそんなトシなのかなあなんて思っていたものだ。

 もちろんというか、断薬後11年を経過した今の私にその現象はすっかり出なくなっている。いつだったか、やはり離脱症状で目がパンパンに腫れたとき『あれ?そういえば極悪ドライアイも涙腺だだ漏れも最近なくなってるぞ?』と気付いてあの狂乱作動もヤク中のせいであり、あー今この離脱過程を経て解決していってるんだ!と理解した。

 『ステロイドは免疫力に制御をかける薬剤なので内分泌機能に副作用が出る』
 知識としては持っていたはずの解説フレーズだが、涙腺というまさかの発現モードだったので気付かず・気付けずに、愚かな私はのうのうと使用歴を重ねていたということである。今どきナニかあったらすぐ『加齢』『ストレス』の掃き溜め論法で片付けず、常用薬を含めて生活習慣をしっかり気にして、自惚れ屋で注意力散漫な私なんぞの二の轍を踏まないよう健康管理に御留意ください。

 いま結構やられちゃってると言いつつ楽しみなのは、これまで体調の山谷を通していつも痒みが残っていた背中の中心の左寄り=背面側から見た心臓の位置に、顕著な痒み症状が感じられることだ。
 なかなか好調だなあと思っていても、長らくこの部位だけは触ると身体の深部に植え込まれて染みついたように痒みが停滞していて、掻くと『掻けば掻くほど痒くなる』の脱ステ症状モードが起動してしまっていた。ステロイド離脱の解決に、身体部位別の決まった順番があるのかどうかは定かではないが、常在していた潜在的な異常部位に新たな展開が見られたのには正直期待が膨らんでいる。

 現時点で希望的観測まで込みで、私は『ステロイド離脱期間はひとこえ干支ひとまわり12年説』【1198】を提唱しているワケだが、久し振りにちょっと検索すると最近は『数年~十数年ステロイドを絶って頑張ったが結局治らなかった』と結論付けたがるサイトがやたら増えているように見受ける。
 以前なら頑張ろうとして断薬したものの、その想定を遥かに超える症状の苛酷さに耐えきれず力尽きる形で更新されなくなるサイトが多かった。

 私の経験に基づく限り、まず最初の3年間にダイレクトな身体的苦痛をやり過ごせるかどうかの異次元拷問ハードルがあり、次に5年目あたりに脳神経系の攪乱と断線を主とした精神爆損ハードルがあって、どうにかでも先が見えて完全離脱の救いの光の到来を確信したのはだいたい8年目あたりだった。そこからは『なかなか収まらない』『まだ居座る』『いつまでも繰り返す』症状との持久戦となる。
 いま自分自身を振り返る限り『まあ治るけどな』と言えそうなんだけれど、そもそも私の中毒重篤度がフルスケールの半分も行ってないとしか思えず、結局は上記ふたつの本人なりのハードル高を越えられる生命力の限界が、本人に備わっているかどうかの勝負になるはずなのだ。

 確かに知識の無い人が迂闊に独断で試すべきではないし、何年か試したところで完遂できずに終わる可能性も否定できないのだが、わざわざに長期戦を経た失敗の結末レポートなんぞ拡散しても意味は無いだろう。どこの誰が、何の目的でこんな情報を公開しているのだろうか。
 まあそれなりの経過を通り抜けて、長期戦の行方が我が事の現実問題になっていてその情報を目にする人なら、読解力は十分だろうから大した問題は無いとも思えるのだけれど。

 まあいいや、最近じゃ随分とステロイド外用薬の濫用の危険性が理解されるようになり、説明不要でそこから話を始められる人が増えた。どんな判断で何の対処をするにしても、早ければ早いほど軽く、若ければ若いほど体力もあって融通が利く。
 今の時代、のっぴきならない課題をもって人生年表に向き合うのも、ただの不運ではないだろう。私は相当の目を見た引き換えに『知能』なるものの情報構造に一定の知見を得ることもできた。

 …とはいえやっぱ健康でゴキゲンがいいっす。抜け目ない健康管理にグッドラック!
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【1220】EXPO回転翼機運行の安全衛生認証 [ビジネス]

 屋久島沖で米軍のVTOL輸送機『オスプレイ』が墜落したそうだ【306】
 乗員1名の死亡が確認されているが、全8名の搭乗だったそうだから残り7名がまだ行方不明のままということになる。

 この事故を受けて、日本政府から米軍に対して『オスプレイの運用を停止するよう要請した』というのだが、見受ける限りすっかり無視されており、オスプレイの運用は今も公然と継続されているようだ。
 やれ運用停止の申し入れが正式だの非正式だの、事実確認としての『墜落』ではなく米軍第一報の『不時着水』が素通しで日本国内に発表されただの、墜落した型式と運用継続中の型式は異なるだの、無駄なゴミクズ口論が次々放たれているがそんなもの全部まとめてどうでもいい。
 今般オスプレイが落ちたのが11月29日だというからまだ一週間も経っておらず、事故実情を語れる生存者もいないのに『北米の説明が十分でない』などと虚勢を張ったところで、無視されて当然だろう。

 それよりも我が日本が4月に自分ちで落としたUH-60ヘリコプターの件は、どんな解決を経て安全が確認され運用再開になったのか、そっちの説明が先だろうが。
 あれさあ、北米で開発され就役している機体の国内ライセンス生産だろ?『機体構造や整備作業には原因が無い』と結論付けられて公表されなければ、国内外で就役中のあらゆる同型機の運用に支障が出る。
 穏やかな晴天の低空運行で突然消息を絶ち、10人も乗っていて誰ひとり助かっていないなんて、昭和時代の子供向け読み物に載っていた『魔のトライアングル海域』を地で行く謎の遭難もいいところだ。事故当日の運行計画もフライトレコーダー記録も隠蔽されて内容は不明だが、せいぜい数十メートルまでの低空ながら空中で遭難し、着水してからも10名全員が生存できない程の悪条件に見舞われたことになる。
 つまり宮古島近辺は『空と海の両方にまたがる魔の危険区域』ということになるのだが、それがどのくらいの面積でそこに拡がっているのかが判らない。せめて着水モードと沈没モードの推測だけでもできれば、それらが起こり得る空海域は特定できるのだが、それが叶っていない。

 原因究明がどこまで進んだのか知らないが、どうせ『閣議決定』の決行要件を都合よく独裁政権の密室GO判断に読み換えて、こそこそ基地工事の下調べをやっていてウソみたいな凡ミスかましたのがバレるのを避けるために、日本国内に向けての調査報告をとぼけて放置したのだろう。世論の事故事実への関心が風化するとか、責任追及の動機が減衰するとか、ありもしない結末に執着して国民を根負けさせようとするやり口は、何事につけずっと以前から枚挙に暇がない。

 まあとにかく、当該機種UH-60ヘリの運用を再開したんだろ?
 機体と運行作業に事故原因を認めないということは、日本国のオオヤケ判断として『宮古島周辺は自然条件に起因する事故の可能性がある危険区域であり、詳細不明だけど別にいいじゃん』と認めたことになる。これを『未必の故意』と呼ぶ。
 事故の処置を確実にやらないと、必ず次の犠牲者が出ると言ったよな?【1154】

 ある意味『予想通り、ちゃんと』屋久島沖でオスプレイが落ちたんだよ。
 酷すぎる言い草が自分でも心苦しいが、現時点で乗員8名誰も助かっていないのも必然であり、こうなるのは4月の宮古島ヘリ事故で判っていた。
 北米にしてみれば、この行きがかりで日本政府から屋久島オスプレイ事故の件に説明を求められても、取り合う理由なんかどこにも無い。

 もっとも今の日本は北米を頼らないと自前産業でマトモな軍事力を維持できないから、北米サイドにはむしろ這いつくばって御機嫌をとりながら、国内世論の鎮静化を約束しつつお詫びの軍需品追加購入リストでも差し出してるんじゃないのかね。
 日本国内には居丈高の要求を突きつけるかの取り繕い芝居だけ流しているつもりなのだろう。何からナニまで卑屈で惨めなハナシである。こんなことだから人が死ぬのだ。

 さて回転翼機の重大遭難事故が続いていて縁起でもないのだけれど、前々回および前回から続く流れで2025大阪万博の話題に移ろう。

 『空飛ぶクルマ』はもう万博に間に合わない。
 あと500日を切る日程が本当なら即刻に断念しないと『また』墜落死亡事故になる。

 実用化して営業運行まで持ち込むのなら、既に営業航路で試験飛行が何度も行われていなければならない。風が比較的穏やかで静穏な瀬戸内気候の大阪湾だが、もちろんパーソナルサイズの航空機にとって毎日手放しで飛べるほどラクチンなはずもなく、実地実験は100点満点の成功続きでもあと1年では到底足りない。
 航空機は踏ん張る先が空気なんだから、どんなに正確・緻密を頑張ったところで自動運転の制御の限界も宿命的に風任せだ。苦し紛れに熟練操縦士を乗せた途端、少ない客席がまず1減である。いやそもそも誰がいつ熟練するのだ?

 以前からここで解説している通り、だいたいがパーソナルVTOLなんぞ運送効率の悪い子供向けの夢物語に大人が本気になるべきではなく、主にモーターとバッテリーの小型軽量化技術競争に遅れをとらないために、デバイス開発領域で流行り病のお祭りごとにキャッチアップしておくあたりがせいぜいなのだ。
 乗客が軽装で済む夏季に手ぶらで搭乗させたところで、飛行機乗りでもないシロウトが通常の小型機以上にあっちこっち振り回され揺すられるんだから、そりゃ降りる頃には全員ゲロ袋をたっぷんたっぷん大事そうに抱いてるんだろうな。やめとくのが吉だ。

 だから『空飛ぶクルマ』のカラ騒ぎ技術域にも一応アピールする実用アイテムとして、数名~十数名規模のホバークラフトにしておけと推奨している。ホバークラフト開発にしても実用化日程のリードタイムが相当にきついが、それでもまだ可能なセンには収まっていると思う。
 長期的には大阪や神戸の港に停泊した豪華客船から、ごちゃごちゃした街ナカと無縁にカジノまで直通する海上リムジンとして就航させれば良いし、水深を気にせずそのまま陸上にも這い上がれるから、河川を遡上したり瀬戸内海の港町を巡ったりする定期観光航路にも使えるだろう。
 万博での期間限定トライアル就航をうまく採算ラインに乗せられれば、内海を持つ海外諸国から思わぬ儲け話が舞い込むかも知れない。

 とにかく2025大阪万博は『できない』の結論を日本社会で共有するのが先決だ。
 まず『できない』を決断しないから、ダメがイミフに『できるかも知れない』逡巡になってるテイで、判り切っている破滅を前に立ち止まれないんだよ。
 ダメなものはダメ、できないものはできない。だから次にどうするか考えるのだ。
 プチ余談だがこの一連の光景も『だらしない日本国、だらしない日本円経済』の生きた証拠として、世界から見限られた底無し円安の一因として効いている。

 自衛隊のヘリ落として、米軍のオスプレイ落として、今度は富裕層の有名人を未完成VTOLで落として、全方位の国際的信用を落とすのか?
 長らく離陸する揚力を失っている技術退国ニッポンは、今よりも落ちないための対策が何よりの急務である。航空工学の規律体系を現実のものとして守り、どん底から飛び上がるためには、まず理知的人間として・文明国家社会として、守るべきこの世の因果規律を守れるようになることが先決なのだろう。

 何より屋久島オスプレイ墜落調査隊に事故の無きことを。御安全に、グッドラック!
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