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【1245】遠く彼方の単純明快と揺らぐ足元の深層崩壊 [ビジネス]

 そうか、今年はうるう年なので今日は2月29日なのだよ。

 地球の公転一周にかかる天文学的1年の長さは365.2422日なので、太陽暦のカレンダー通りの一年365日だと、ホントいうと公転一周し切らず0.2422日ぶん足りないところまでしか行かないのだ…と子供のころ勉強した。
 これが4年たてば未達ぶんの蓄積が0.9688日つまりほぼ1日となるので、4年に一回うるう年を設けてカレンダーに2月29日を加えましょうと。
 すると今度は4年毎に0.0312日ぶんカレンダーが進み過ぎる計算になる。従って100年に一度はうるう年の巡りになっても2月29日の設定は見送ることにしましょう…で間違ってないはずだ。24回蓄積した過剰ぶん0.7488日を1日さっぴく処置で解消する。
 これまた0.2512日がさっぴき過ぎになるので、400年に一度は100年巡りであっても見送らずちゃんとうるう年にするってことで、今のところ天文学的サイクルに対する太陽暦カレンダーの端数処理が計算式として決まっているのはここまでだと思う。

 改めてよく考えると意外なのは最初に出てきた365.2422日であり、端数はほぼ四半日なのだから6時間近くもカレンダーの刻みと齟齬が発生しているという事実である。
 元旦の日の出にでも、夜明け直前の他の星々の位置を記録しておき、その年の大晦日の同時刻に、おんなじ日の出ではあるが、星座の位置がなるほど6時間ほど遅れているなあ…みたいな確認をわざわざにしないから気にならないだけのことだ。
 一年365日のうちに約6時間つまり360分ほどずれるということは、毎日1分近く星空の進みが遅れていっているのだけれど、日常生活には特段の不都合もないので皆あんまり気にしていない。

 ここまで書いて『もしかして』と思ってちょっと検索したら、やはり今どき六分儀の作り方があちこちネットで紹介され、いくらでも見放題になっている。電気も食わないし場所も取らないし、好きな人は自作して、御自身の日常生活で公転周期の端数を実感するトリビア方策など探してみてはいかがだろうか。
 私は無学にして四分儀や八分儀との違いを解説することができないのだが、どれでも構わないので工作が簡単そうなやつからでも試してみると良い勉強になると思う。

 計測装置を自作しようとすると、関心の対象について科学的ロジカルな現象モデルがまず確定している必要があって、そこに確信のある計測原理を適用して目盛の読み値を得るのだから、欲しいと思う対象現象と測定行為の世界モデルが共に破綻なく頭の中に構築され、組み合わさっていなければ叶わない。
 とりあえず工作を頑張ってそこそこ計測器っぽいモノができたとして、その自作測定器の指し示す値を頼りに、あなたは決めた方角にぴったり10キロあるいは20キロと移動することが可能だろうか。スマホのGPS機能で簡単に答え合わせができるのだから便利な時代になったものである。

 大航海時代に外洋に乗り出した帆船は、その程度の航路保証に信頼を置いて命を預けざるを得ず、読み誤りがなくとも周囲に何ひとつ見えない海原ばかり何日も何週間も続いたろうし、水も食料も決して潤沢ではない航海だったはずだから、かなりの高確率で乗員組織の統率崩壊による遭難事故が起きていたものと察せられる。
 首尾よく海を渡って帰って来れれば船いっぱいの積荷ぶんの商取引が可能だが、その儲け話は死と背中合わせの大勝負だったに違いない。
 こんなシビアな条件下でとにかく生存確率を上げたくて、悪天候に強く食料備蓄にも余裕のある大型船が望まれ、逆境にも勘が鋭く冷静で適切な操船を誤らない腕利き水夫集団が求められたのだが、当時の経済社会の限界として、ただのカネ持ちに集まる程度の経済力では資本調達が間に合わない。

 そこで通貨を介して誰でも売買できる『株』と、その取引の場となる『株式市場』が発明され、不特定多数の経済力を集中させられるようになり、その基本原理は現代にまで受け継がれている。株式会社をはじめ経済組織なるものが、人間個人では到底不可能な社会力を実現したのと同時に、その人間個人の誰からも離れて浮いた『組織の自我』なる意思決定系の情報処理が発現した、人類文明の象徴的な変化点である【589】

 つい先日、日経平均株価がバブル期以来の最高値を更新したそうな。
 もっとも現状市場動向の長期的な平衡点としてすっかり定着している円安によるところが大きく、要は、実はそこまで大したことない平均株価なのに、それを価値の低い円で買おうとするんだから大枚はたかないと買えません、その大枚の額が過去に例を見ないレベルにまで行っちゃった…と、そういう種明かしだ。
 どこも『最高値』だけで終わらせず『円安の影響』までセットで論じていたのは、当然の事実報道とはいえ一応ほっとしている。いま国政の前時代式ままごとチカラ関係がこれだけ同時多発的に崩れてきて、もうどん底景気をとぼけてニッポン絶好調の大合唱で御機嫌を取る相手もいなくなっているということなら正しい展開なのだが。

 株価が素直に上がらないのにそれなりの理由があるのはもちろんで、これだけ劣化して何が主力産業なのかもはっきりしない日本経済において、まだその切迫性に真面目に向き合えない円経済の運営層の実力を見抜かれているのである。この現状になお体質改善の兆しが見えないのだから、確かに総じて明け透けのハズレ株ということになる。
 今まともな成人社会人なら日本国ごときに改善努力なんぞ期待しないのが自然な判断だろうが、一方で米大統領選の影響は少なからず効くだろうから、近々の番狂わせを当て込んで格安の日本株をがめておくという購買動機は十分活発にあって不思議は無い。
 すると格安日本株のがめ合いになり、株価が上がり、その株価を紙屑のような日本円で値付けしたら『バブル越えの過去最高値』になっちゃいましたという顛末なんだよな。情けないハナシである。

 …で、私自身は結構トランプ君の返り咲きがあり得るというか、むしろ期待しているのだ。史上もっとも存在感のない=大統領ポストの機能に穴を空けたバイデン爺には、かつての反トランプ派も含めて全米が不満を感じていることだろう。バイデン政権で北米がどうなったのかを訊かれても、答える文章を咄嗟に思い付けないもんな。
 御存知の通りトランプ君はとにかく『我がまま、北米のまま』が彼なりの理屈で明確であり、モメようが先に言うことを言ってしまって結果としての現実が対応してドタバタする順番のため、ジョブ単位でわかりやすいのだ。
 そして北米も近代経済システムの原理に由来する本質的な問題を抱えていて、しかもそれがじわじわ進行中だから、程度の差こそあれ、決して『日本を重要な経済パートナーとして特別視して優遇する』ようなおめでたい方向性の政策は採ってこない。
 トランプ君なら高らかに自国擁護を明言しつつ仕掛けてくるだろうから、国際経済は大きな振幅で反応する。日本国内のシケて腐ったぐずんぐずんよりよっぽどコミュニケーション係数が高くて、見ていて理解して学習しやすい。

 前半の毎日1分ズレのハナシなんかもそうだが、毎日自分なり=情報源や受信経緯が確信的に把握できている観測記録を残していくと、測定精度はしょぼくても観測にまつわる事実認識が強力なため、最初気付けなかった対象物の特性や作動原理が見えてくる。

 逆説的で申し訳ないが、今の日本国内は何もかも支離滅裂で空中分解が進行中なので、これから興味を向けようとする試みの対象としては、あんまりオススメできない。
 わざと意思疎通を避けようとするコミュニケーション不全の空間では、受発信される情報は意味を持たないし、その後の現実にもロクな効果を及ぼさない。時間の無駄だ。

 測定に値するマトモな通信を観測しよう。その未来の学習効果にグッドラック!
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【1244】情報屋ルッキズムの必勝人事評価 [ビジネス]

 NHK土曜夜ドラマ『お別れホスピタル』が最終回を終了、これも面白かったなあ。
 確か番宣で、いわゆる終末医療系の施設で現場取材に注力した作品とのことだったので、例によって録画を駆使してまで全4回をパーフェクト視聴した。

 昭和の時代、人生の打ち切り宣告や残り時間の身の周りの現場について話題にするのはタブーとされており、本人に告知せず懸命に気遣い続ける周囲の人々の葛藤や、何かの拍子に自身の寿命を知った本人が残り時間に目標設定し努力する…あたりがメインテーマになるのが定番だったと思う。結局のところタブーを作法通りに避けて、終末医療はメインテーマを語るにあたっての背景にしておくという位置付けである。
 もちろんそれはそれで充実したストーリー展開になっていたはずだが、反面いざ我が身にその境遇が降りかかった時、ほとんど実用知識として使えない。これが昨今は随分と、限定された人生の残り時間のリアルな日常を、堂々とテーマに取り上げるエンタメ業界文化にシフトしてきたように見受ける。
 日本社会の『健康』や『医療』や『生死』にまつわる意識が、ついつい個人的な不快や心労に繋がるケースが懸念されるゆえ公共の場で避けるべきとしていた情報領域を、もっと現実相応に共有して役立てようとする方向に変わってきたのだろう。情報化社会組織が高齢化するにあたっては自然な傾向である。

 当事者の現実としては綺麗さっぱり完結し得ない『寿命の途切れ方』という題材を、その通り完結させずにどう放映枠に収めるかが難しいところと思われるが、現時点の当事者でもない私にとっては見やすくてしっかり楽しめた。
 病床の『情報体としての人間』が持ち合わせる人間関係ネットワークの中で、限られた時間内にどこまで情報量の濃密なコミュニケーションが尽くせるか、この関係者一同のチャレンジ模様と結果成否が解りやすく描かれており、良いドラマだったと思う。

 ところで、ここでは以前から『情報体としての人間』の情報特性は、一人にひとつの人格像として決まらないという考え方を提唱している。物理的にそこにいる人間ひとりをハードウェアとして、まるでコイツを作動させるための専用人格ディスクが相手違いで何枚もあるかの如く、びっくりするほど人間はその場その場で違った情報特性をもってコミュニケーション稼働するものなのだ【231】
 脳みそひとつの中に複数の人格システムファイルがあって、どれをブートするのか適宜に一択して稼働しているのか、それとも人格システムファイルはやっぱり固有なけなしのひとつしかなくて、コミュニケーション対象に応じて各々発現する特徴的な傾向がそう見えるだけなのか、今のところ判定する手段は無いのだけれど。

 …で、ハードウェアの側って情報特性に寄与するのだろうかと考え、思い出した。
 見かけることが最近少なくなっているのだけれど『クレッチマー三類型』というのを御存知だろうか。人間の身体的な特徴に呼応して、精神的な傾向も概ね特定されるというものだ。

 痩せ型は真面目で控えめ、目立たないタイプ。内向的で同調性が高い。
 肥満型はのんびり屋で温厚なタイプ。良くも悪くも融通が利きこだわらない。
 筋骨型は精力的で集中力があり、几帳面だが頑固。執着心が強くくどい。

 私は高校時代の『倫理・社会』の授業で、恐らくは思想や哲学に関わる知識のひとつとして、この『クレッチマー三類型』が語られる教育現場を経験している。
 でもこんなの倫社で教えることか?まず医学とかサイエンス領域のジャンルっぽいし、これだけ大勢いる人間をたった3通りに分類して、人格像のバックグラウンドたる精神動向の基本特性をレッテル貼りするのは無理がありすぎないか?
 自分の周囲でそこらに思い当たる面々をざっと記憶に照らして検証して、おおなるほど…と納得できないのは私だけではないだろう。正直のところ率直な第一印象は『ホントかよ?』って疑惑である。
 だいたい3通りしかないんだから、よっぽど極端な的外れの事例が出て来ない限りは『言われてみれば、そんな気もしないでもない』の適合レベルには結論づけられてしまって当然じゃないのか。

 まだABO式血液型の4分類の方が、引き合いに出して引掛からずに会話が弾むと思うぞ。その筋で真剣な研究を進めている方には申し訳なくも失礼だが、どお~も学説と呼ぶには腑に落ちる根拠に困るんだよな、コレ。
 もちろんサンプル集団があって身体測定とメンタル問診票なんかも用意して、それなりに調査結果の統計処理もやったんだろうけど、ぼやんと一様の星空プロット群を前にして、本人が思い込みありきで天の川を見出し相関線を引いちゃったとか、そんな想像をしてしまうのだ。スマン!

 首から下の感覚神経・制御神経の特性に、体型別に何らかの特徴的な傾向があっても不思議は無い。やはり体格に応じた神経網の幾何学的な形状があって、それ相応の部位別の神経経路長というものもありそうに思う。それはその通り。
 いっぽう遥かに外形で決まる幾何学的な差が出にくいと思われるのが首から上の側で、これだけ一律なのに人柄つまり人格像は百人百様・千変万化するのだから、首の上下を組み合わせてしまうと、結局は首から下のたった数パターンに代表させて分類するほどの大まかなグループ特色は顕れないんじゃないですかね。

 今どきこういう内容を検証するのは『コンプライアンス上、不適切』なんだろうな。
 私自身これまでの人生経験を振り返って、精査したくなるほどの的中感が全然無いので、まあいいやで終わらしてしまうのだけれど。

 文句言わず指示通りなびく組織にしたいから、断食推奨で痩せ型集団にする。
 柔軟な発想の新展開が欲しいので、メタボ体型を掻き集めて脅迫的に追い込む。
 短期決戦の起死回生プロジェクトは、ムキムキを選出して洗脳の説法研修から。

 うっそだあ~、誰かハタと手を打つ適合事例を教えてよ。御健康に、グッドラック!
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【1243】幸運相関図の我がまま総当たり戦必勝法 [ビジネス]

 NHK『あさイチ』不定期挿入ドラマ『幸運なひと』が最終回を終了、面白かった。
 『何かをしたい』と心が動く欲望=エゴが『生きるということ』ではないのか、と。
 エゴは我のまま、わがまま、自分の『本当』
 それをぶつけられる人はあまりいない。ぶつけられる人がいるのは幸運だと。

 以前ここで紹介した映画『マイ・ライフ』もそうだけれど、まだ未来の人生の余白があることを前提に日常を送っていて、ある日いきなりその遥か手前で打ち切りを宣告された時、人間は存命の残り時間に何をするかの厳しい選択を突き付けられる【1130】
 もちろん本人にとって十分な満足が期待できる人生計画であるはずはなく、逆らえない現実の残酷さ理不尽さに納得できないまま、実現可能な範囲まで消化してなりゆき決着で寿命を畳むしかない。

 『思い残すコト』が山とあるのはとても残念なことで、姉はいつだったか『余命2年と言われたか3年と言われたかの違いはとても大きくて、もし選べるならその差分1年でもきっちり欲しい』と言っていた。
 もちろん本人の病状を過去事例と照合しての推測値にしかなりようがなく、高精度で余命期間の確定のしようはないのだが、それでも姉にとっては、どっちも結局は足りないにしても、切実に延びるものなら延ばしたい1年という時間単位だったのだ。
 最期となる前々日にもメモ用紙に『ぜったいなおす』とガタガタの筆跡でメモを残していた姉は、本当に最後の最後まで諦めていなかったのだと思う。

 生きて果たしたい『思い残すコト』の数々が最後までバックオーダーに積まれている人生というのは、私にとって幸運な境遇に感じられる。人生の持ち時間が余っちまうのが先になったら、そのあとが退屈でしょうがない。

 ただ真剣に最後の最後まで諦めていないがゆえ、病状が進行するほどに病床の姿で自分を見舞われるのを嫌がったものだ。今は会いたくない、今ではないと。
 家族だとはいえ本人が望まないのに余計な手出しはできないし、とにかく本人が諦めていないのに私が妙に送り支度みたいなマネをすると、何もかもが良い方向に行かないのは目に見えている。
 だが現実的な確率問題として、このまま仲良くしてくださった方々と大切な会話も交わさずにいて、それが双方の後悔を引きずるような形に帰着する事態は、何があっても避けなければならない。どうしよう?

 『重病の療養中なのだから、現時点で見映えも心映えも優れないのは当たり前、そんなものは見舞いに来てくれる人たちも全員理解していて誰も否定視しない。むしろ馴染みの人たちにいま好きなことを好きなように好きなだけ話して、回復したらまた改めて元気な姿で会い直せばよい』
 この理屈に姉が素直に納得してくれたお陰で、すぐに私は関係筋に連絡を回して、ありとあらゆる見舞客を何度でも送迎し、どんなに短時間でもお連れする役割に専念することができた。
 いきなり初日の見舞いラッシュが混み過ぎて病院側からペース調整を指南されたほどで、それでも連日、入れ替わり立ち替わり許容枠いっぱいの見舞客が途絶えることはなかったのである。

 その二週間後の早朝、母が一緒にもぐりこんで寝ていた病床の布団の中で、姉は巡回の看護婦さんに呼吸が止まっているところを見つけていただくことになる。

 病床で弱った自分を人目に晒したくないと気後れするのは人間として自然なことだが、それを理由に先送りを繰り返していて、いざ二度と再会が叶わなくなるとやはり悔いが残るものだ。
 似た境遇で行き詰まって悩んでおられる方がいらしたら、私と同じ理屈で見舞い放題の企画を取り持ってみてはいかがだろうか。くれぐれも御無理は禁物、そして終活の空気と別次元で『直接会って話したいことを話す』ところがポイントだと思う。

 姉が築いていた人間関係は、周囲の方々が『あの人はコレコレこんな人だからこそ、自分の身の上のコトを共有したい』という動機で構築してくださったものである。
 姉という情報体の特性に好評価をくれて、わざわざに他でなく姉を選んでコミュニケーションしてくれて、それが行き違わず放置もされず双方で成功して続いていた…という幸せ交信の実績の記録だ。
 『最後の』という流れにはしたくないが現実には抗えない。ならば実態を見て一人ひとり思い思いの現状認識に任せるとして、せっかく姉が本人の幸運を取り置いていたコミュニケーション空間があるのだから、それを稼働できるうちにフル稼働させて、残せる限りの記憶を関係者全員に残そうとしたコンセプトであった。

 お互いが『諦め』や『落胆』の心境をシャットアウトして、本当に大事なコミュニケーションに専念するための現実解として、我ながら方向性も実行時期も悪くない判断だったと思う。
 そして何だかんだで昏睡にも落ちず『ぜったいなおす』と正確な日本語が使える状態で、ギリまで姉本人の人格としてコミュニケーションが叶ったのは幸運であった。
 おいでいただいたどなたと何の会話が交わされたのか私は知らないけれど、その場でお互いが伝えたいと思う内容を思うままに日本語にして、無駄も粉飾もない情報交換がなされたことと心得ている。

 しかし人間とは、ただ現存する事象や自分の意向を素朴・率直に伝えるだけにしても、このくらい追い込まれないとなかなか真面目に取り組まないものだ。人工知能AIとどっちが知的に効率よく情報空間で機能しているのだろうか。
 傍若無人のずけずけではない『我がまま』を言って言われて、真に受けて応えてまた返されて、意のままを実感するコミュニケーションに囲まれた時間で人生を過ごせること。これが情報的に『幸運なひと』の条件ではないかと思っている。

 あなたは幸運を掴みに行って、掴めているだろうか。後悔なきようグッドラック!
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【1242】結果にコミットする情報トレーニングジムの月額負担 [ビジネス]

 まだもう少し人間の、いや生物の体内情報処理について考えてみよう。

 脳の構造は『神経網が脂肪のカタマリの中に浮んでいる』とよく説明される。
 スズメの焼鳥のアタマ部分を嚙み潰すと、中の脳みそは、サイズがしょぼいので味わいの特定がなかなか難しいところではあるが、一応なるほど!の食感…のような気がしないでもない。

 そりゃやっぱり鶏肉や鴨肉なんかに比べると柔らか感もジューシー感も遥かに貧相で、ねぎまだの皮だのモモだの区別も一切なく、スズメの小鳥ちゃん一羽がまんまキホン串に刺さって平たく炙られた丸焼きである。さすがに足先だけは食えなくて、指が拡がっている少々上の脛の途中で切り落とされてるんだけどさ。あ、あとくちばしもか。
 手乗り文鳥と大して違わない体格なんだから、串の焼鳥というより半ば煎餅みたいなもんであり、夏の京都伏見あたりでビールのアテにするぶんには、たまの非日常を感じられるしそれなりに美味いしで面白い。
 因みにひとまわり大きく肉厚なウズラも横で売っているが、こちらは大きくて太いぶん骨の主張が強く、スズメほどオススメはしないとのこと。今もって私はウズラに手を出したことがない。

 脂肪といえば、生体の構成素材としては、蛋白質やカルシウム部材の固定構造部に対する『変動部』に相当し、身体構造のスキマ充填剤であると共に栄養分のストックとしても機能する。ぱっと思い付きで解説する限りはこんなところか。
 食い過ぎるとストック供給が嵩んで太るし、絶食の修行でずっと食わずにいると、内部留保のストックが持ち出し消費されて痩せる。血を通わせ成長させて構築する骨や筋肉とは区別して、体内にぶら下がって貯まる流動体の概念として『脂肪太り』『脂肪でぷるぷる』みたいなコトバがあるんだよな。実際おサカナや肉料理の脂身もそのイメージだし。

 この『流動性』が大きな機能要件だと思うのだ。
 かねてから私が推察する通りに、生物の『記憶』の情報もコンピューターと同じくデジタルデータ原理で記録されているのだとすると、その記憶素子はゼロイチ二進法の書き込みと消去で稼働することになる。
 そこでコンピューターの記憶ビットのように電気的にゼロかイチかを任意に切り換える物理的構造など、生体には不可能だと思うのだ。
 生物が何かを動かすならキホン筋肉が要る。筋肉でゼロイチ切換スイッチを動かすのだとすると、本体が動き回って三次元方向のGを喰らうと、スイッチ端子の位置決めにどうしてもエラーが発生しがちになる。
 G環境が静穏であっても、何千何万で済まない数のスイッチング動作を行わねばならず、合計すると相当な筋肉運動量を四六時中こなし続けることになるはずで、これでは作動信頼性が低すぎて種が滅んでしまうだろう。

 重さのあるスイッチ端子を筋肉でゼロからイチに動かすのではなく、生化学領域の化学電子式で書き表されるような、記憶ビットの電子ケミカル変化を使うしかないのではないか。だとすると、ゼロイチをスイッチ式に切り換えるのではなくて、チェックボックスを白紙『ゼロ』から書き込み『イチ』に変化させるしかない【628】【629】

 一度ケミカル変化させた物質を再び変化前に戻すような都合の良い生体機能を、私は思いつけない。そもそも行って来いが自由自在な可逆変化を原理にすると、これまた書き込み損ないが散発してストレージとして使い物にならず、やはり種が滅んでしまう。
 だから一度チェックを入れたが最後、消しゴム無用のワンタイム使い捨て式にするしかないはずなんだよ、生体記憶ビットは。
 毎日新しい現実に遭遇し、毎日新しい情報を書き込み、それだけでは行き詰まってしまうので、記憶ビットの書き込み状況を適宜にデフラグ整理し、不要になった記憶ビットを片っ端から捨てていく必要がある。

 ではガンガン調達し、気前よく使い捨てできる記憶ビットの素材とはナニか…?
 そう、流動性のある脂肪が適切な素材ということになる。

 世間一般で『脂肪』というと、肥満の原因だとか血管の劣化をはじめ健康状態を悪化させがちなワルモノの印象が常識的にまかり通っている。
 野生で暮らしていた頃の特性として、飢餓などに備えて生き残るために脂肪でエネルギー源の体内蓄積をするワケだが、現代文明社会は食料が豊富でそのリスク対応負荷が軽くなり過ぎており、早いハナシが普通に食っていたら脂肪が余りがちの溜りがちになるであろうことはすぐ判る。少なからずの現代社会人が脂肪過剰に悩む所以だ。

 だがもうひとつ、脳内でえらい勢いで書き込まれては記録ファイルとして保存され、刻一刻この世の現実に遭遇しては新規情報により更新されて、毎日の睡眠デフラグでどんどん用済みになり使い捨てられる記憶ビット。この素材が他ならぬ脂肪であり、だから脳みそは『脂肪のカタマリに浮かぶ神経網』という構造になるのだよ、きっと。

 ホント高負荷の頭脳労働をやると、自分の記憶管理にドタバタ騒乱が起こっている自覚もあるし、何よりめちゃくちゃ腹が減るのだ【201】【556】
 『もう書き込んじゃったから再使用不可』という理屈で次々と廃棄される記憶ビット脂肪は、のちに筋肉ムーブメントの熱源に転用され燃焼させられるのだろうか。それとも30億年生命の歴史はまだそこまで体内回収エコシステムを構築できておらず、いきなり翌朝うんこにしてサヨウナラだろうか。

 『脳は最もエネルギー消費の大きい臓器である』と言われるが、確かにまず化学電子式レベルの微小なケミカル変化のイチ単位ながら、膨大な記憶ビット数でそれをやるからには、そこに内燃機関としてのまとまった規模のエネルギー消費が発生する。
 この燃料消費ぶんに加えて、脂肪素材の記憶ビットたちが『書き込み済、再使用不可』の廃棄処分となってただ使い捨てられるのだとしたら、こちらは燃焼反応でエネルギーを取り出すところまでやらずに、もったいなく消費していることになる。
 このあたりが、内燃機関としての脳みそが別格にエネルギー源を浪費し、熱効率の悪いイメージに映る原因なのではないかと思っている。

 ともあれ、四六時中ナニガシか暗記ゴトを見つけては、何分で幾つまで行けるか試すような暮らしの習慣があれば、記憶ビット脂肪の日常消費ペースは促進されるはずだ。
 高脂血症とか脂肪肝とか、多少のそれなりにでも抑制効果が期待できるようなら、脳トレ生活スタイルを工夫してシェイプアップしてみてはいかがでしょうか。

 高度情報化社会は超速で脂肪消費タスクを積んでくる。遅れるな、グッドラック!
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【1241】活動写真なきカリスマ弁士のレジェンド話術 [ビジネス]

 前回に続き、人間の画像ファイル記憶って案外と少ないんじゃないかという話を。
 想い出の画像は、それを特定する要件としての言語や図式などのロジカル判定項目に書き換えられて取り置かれ、元のクッソ重い絵柄そのものはストレージ負荷を軽くするためさっさと廃棄されるのではないか。私はそう考えている。

 絵心の無い人に鳥の絵を描かせると、しばしば足を四本描いてしまう例が見られるのもこのためだろう。
 ふわふわぬくぬくの恒温動物で知能も比較的高く、人によくなつくし感情も交換しやすい。卵で生まれてくるが、お付き合いの相手としては犬猫・牛馬なんかと同列の『動物くん』である。
 鳥好きで普段からペットとして現ブツをいじりまわしているだとか、理科好きで生命の進化に伴う四肢の骨格構造に興味や知識が向くだとか、そういう動機でもなければ『動物とは四本足で歩くもの、前足2本と後足2本が揃うもの』という社会通念のロジカル情報が先に立ってしまう人は少なくないと見る。
 ぱっと見い鳥の羽根は形状も機能も足とは違い過ぎて、そっち方面に得意でもない人たちにとっては別モノになってしまい、最初に鳩サブレーの概形ぐらいまでは常識の一環として作画できたとしても、その下に延びる足が何本あるかの記憶が不明瞭だと、つい『動物だから4本』とする判断が働くのではないかと。
 だから四本足の鳥の絵を描く人は、必ず『あやふやな記憶を一般概念のロジック知識で補完する』という画法で描いているはずである。

 因みに犬猫・牛馬は童話などで鳥よりも頻繁に擬人化されたりするので『目鼻口の配置、四肢の構成は人間と一緒』という知識がより深く定着しているのだと思われる。
 鳥は、一般社会人がアタマで考えるにあたり、人間と体格構成を同一視するかどうかがビミョーだってことなんだよな。まあどんだけ絵がヘタクソでも四本足の鳥を描くなんて私の子供時代にはまずあり得なかったから、総じて鳥が現代人類社会の記憶から疎遠になっていて、漠然と『動物一般』に混同されてきている事実の顕れであろう。

 やはりというか生物種としてマイナーなブランドに行くほどこの傾向は顕著となる。ここにタコやタツノオトシゴの絵を描ける方はどのくらいおいでだろうか。
 タコであれば8本足の中央部にあるのが口であり、だから『頭足類』と呼ばれるのであって、人間がアタマ扱いしているところは内臓その他がいろいろ詰まった胴体である。
 もうここまでで、お馴染みの照る照る坊主状の漫画は人間の勝手な擬人化ロジックによる各部位の取り違えがあからさまなのだが、更にはひょっとこの口のように描かれがちな噴水口が定番通りに突き出しているにもかかわらず、両目を入れ縦線の鼻を描き、それで終わらず横一文字の口まで揃ってしまっている例を見かける。
 タツノオトシゴの失敗も同じパターンであり、頭部からちゃんと『口吻』が伸びるところまで正しいのに、そこにヨコ・ヨコ・タテ・ヨコで両目・鼻・口を入れてしまうのだ。…お、おいっ?

 そもそもの興味が不十分なのだろうが、とにかく現物を観察した上での判定ポイントの記憶情報が作画するに足りておらず、そこに本人が直感するところの『顔のパーツと配置』の一般概念が、絵柄のビジュアル要件でなくロジカル判定チェックリストとして割り込んでくるので、こんなことが起こるんだろうな。
 この目で見たお題の体験画像を、的確にお題専用のロジカル判定チェックリスト項目に落とせていないのである。

 ところで非常に精緻な描き込みで有名な日本画家・伊藤若冲【479】の作品には、まるで人間のように切れ長の目をした鳳凰や象が登場する。
 あれだけ画力の達者な人でも、架空の存在であったり、当時はそうそう見ることが叶わない海外の珍しい動物であったりすると、写実基準ではなく一般通念基準の判定ポイントを反映した描写になるという事例だろうな。
 誰にでも自然に受け容れられる、いちばん精度高い『目』の情報がそれなんだもん。
 絵のプロなんだから、そう描くさ。

 もうひとつ似たような話としては、遊就館で黒船来航の解説パネルにも引き合いに出されている肖像画『ペルリ像』の例が面白い。
 少なくとも作画者本人はペリー提督を直接見ていないはずで『目が青い』と伝承されたロジカル情報だけを頼りに頑張った結果、いわゆる白目の部分に青の差し色を入れる形になってしまった。どっちを向いても黒い目の日本人しかいない社会で『目』のイメージがまず固まっていて、でもこんなもんのどこがどう青いんだよ…?と絵描きの記憶と想像力を振り絞った結果がこうなったのである。

 カラー写真など重たい画像データが記録や通信に乗せられなかった時代、その情報を言語という簡素お手軽なロジカルデータに変換し、伝言や手書き文書で流通させたところ、元の情報量が大幅に削られてえらくあやふやな伝わり方をし、受信者側の創造力で埋め合わせた情報に化けて再現された。軽くて便利でたくさん積み置けるロジカル書面だが、こんな不確実性の宿命が抱き合わせなのだ。
 そして私は、社会のヒトとヒトとの情報伝達のみならず、ひとりの人間個人の内部通信でもこんな感じで、結構な粗い目のざるでロジカル化に引掛かった内容ぶんだけ抽出して演算・記録しているのではないかと思っている。

 まず人間のストレージに、画像ファイル・動画ファイルを保存することは可能だ。
 私自身を顧みて、確かに友人の運転する車の助手席で体験した交通事故の動画ファイルは、視野設定も画像も驚くほどしっかりと残っている。のちのちその動画を考察して、あのとき普段と違う網膜像の収集や処理が走っていたのではないか…などと思い巡らせられるのは、未加工ナマの動画が検索可能な状態で保存されているからだろう【54】
 だが相当な条件が揃わないと、この記録モードは発動しないのだと思う。

 むしろ普段から命懸けでもなくテキトーに関心を向ける程度の景色なんか、どんどん『ぱあっと華やかな』とか『何ともおどろおどろしい』とか『血の気も退くほどの』みたいな言語情報や、『青空』『見上げる摩天楼』『商店街』などの大まかな図式情報に変換され、その軽いファイルの方が圧倒的に優先して大事に保存される。
 動画一本、画像一枚をまんま記録するより、日常生活に効く情報内容を項目限定的に抽出して、ロジカル情報処理のチェックリストだけを次々と蓄積する方に生存競争の勝率を賭けた、生命進化の現実解のひとつってことなんだろうな。

 身軽であること、シンプルにこなすこと、これらは毎日たくさんの現実に出遭って、その情報内容から役立つ要点を効率よくストックするための基本原理なのである。
 画像から音声から見境なくスマホに記録を残すより、ちょくちょく間違っても暗記した方が情報生命体としては健全なのかもよ。では明日の進化を目指してグッドラック!
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【1240】踊るジュラシックパークの最新ステップ [ビジネス]

 第一話の冒頭シーン反復から『東京ブギウギ』の舞台フルコーラスで先週が終了。
 NHK朝ドラに絡んで、またちょっと横道トピックを思い出したので消化しておく。

 ドラマのタイトル『ブギウギ』とは楽曲構造のスタイルを指すコトバであり、音楽やってる人には『中抜き三連符基調で、疾走感フィール気味の曲調』と言えばイメージは固まると思う。
 ワン・ツー・スリー・フォー、スクタ・スクタ・スクタ・スクタ…と進むのが三連符。
 その真ん中を抜くので、スッタ・スッタ・スッタ・スッタ…というリズムになる。因みに、つよぽん先生の『スリー・ツー・ワン・ゼロ!』は実用例を聞いたことがない。

 多くの人が『これはスキップするときのリズムだ』と言われて、ハイハイそうねと合点できるはずだ。厳密にいうと朝ドラ主題歌『ブギウギ』も『東京ブギウギ』も、スキップするには少々速すぎるのだけれど。
 時折うまくスキップできない人を見かけることがあるが、あれは『運動神経』なる謎の素質がイマイチ人並でないとか、そういう問題ではない。自分のこなすべき動作の要件が整理できておらず、手足の何をどう制御するのか決めて実行できていないだけのことである。具体的な解説から始めてしまおう。

 まず片足で立ってみる。ぐらつくようなら何かを手でつかんでも結構だ。
 そのまま立っている片足で『よっ!』とジャンプして着地する。
 『よっ』で飛んで『と』で着地。着地して一旦オシマイで全然構わない。

 誰もが『スキップは連続動作だ』と直感的にイメージしており、それは間違いないのだが、気が早やって『次に滑らかに続く動きとは何なのか』を理解しないままテキトーにデタラメをやってしまうので、現実の物理的動作にスムーズに噛み合わなくなり、連続性が破綻してしまうのだ。
 運動神経云々よりも『苦手意識』だとか『食わず嫌い』の心象が主原因だと思う。

 さて片足ジャンプで着地に成功したら、足を換える。ゆっくりで良い。
 しっかり反対の足で立てたら、また『よっ』で飛んで『と』で着地。
 着地したら、また足を換える。そのうち両手を空けて直立で試して欲しい。

 あとは足を換えるのにかける時間を詰めていけば、感覚がつかめてくると思う。
 足を換えるとき一歩踏み出すようにすれば前進できるようになるだろう。

 よっと・よっと・よっと・よっと…と片足ジャンプが左右交互につながって感じられるようになってくれば、スキップの完成である。ポイントは『落ち着いて左右片側ずつの動作単位を確定し、次に連続させていく順番で取り組む』というところにある【214】

 なお、この動作リズムを楽譜にすると上記の『中抜き三連符』になるという関係にあり、三連符を杓子定規に記譜すると譜面が『3』だらけになってウザいので、音楽やってる人種の間では三連符指定の書き込みを省略した上で『これはハネた感じでお願い!』という言い方で済ます方策が広く流通している。

 ところでこんな話にしても前回の論点でしつこく繰り返すなら、今の時代にマッド博士がいて人間の頭と両足を物理的に切り離し、無線接続にして両足を探査機に乗せ月面まで連れて行ったとすると、まず頭と両足の感覚と制御は人間ひとり相当につながっているのだから『記号接地』状態のはずだ。
 だが頭でジャンプを思い立ってから実際に足が地面を蹴るまで1.3秒、飛び上がった足が着地してからそれを検知するまで1.3秒、これではとてもスキップの練習ができない。

 だが、今度はバラバラ切断前の元通りの人間につなぎ直して、生まれ持っての頭から足まで体内の有線接続回路でスキップの練習をするにしても、発信された情報が受信側に届くまでの経路で、間違いなくゼロでない時間がナニガシか掛かっている現実を忘れてはならない。
 太古の巨大首長竜くんたちは、末端から頭までの所要時間が結構な時間遅れになったというハナシもあるから【1041】、ディプロドクスやブラキオサウルスなんかは生体脳神経通信の速度限界が主要因でスキップできないことになる。生体情報処理の作動速度などその程度のものなのだ。

 やっぱ『記号接地』ってコトバは、言語情報としては存在するけれど、明確な定義が現実になって対応するかというと随分と怪しい。たまたまヒトの神経伝達が時間遅れを感じさせない程度に短いから、これを『接地=仲介プロセス皆無の別格な神秘タッチ』として特別視してるだけなんじゃないのかなあ。
 …あ、しまった!そもそもマッド博士が人間の足だけ月面に連れて行ったとして、現地の引力でスキップしようとしても絶対うまく行かないのか。いや、くだらない横道の連鎖はこのへんでやめておこう。

 予定外にスペースを割いてしまったので、残りを別の小ネタで埋める。
 以前、目をつぶると絵柄としては何だかよく判らない漠然とした明滅感のような視覚受像が感じられると述べたが【1228】、目をつぶって創作でも回想でも構わないので、絵柄も色彩も具体的に完成された視野映像を見ることのできる方はおられるだろうか。
 私はいくら頑張ってもワケわからん明滅感のヤミ世界しか見えず、そこにドラえもんもスヌーピーも、日本の国旗の日の丸さえも、再現カラー画像で見ることができない。

 なのにドラえもんやスヌーピーや日の丸どころか、アリでもカマキリでも蛙でも文鳥でも、ゼロ戦でも、C62でも、戦艦大和でさえも、一目見てその瞬間にそれと判別できるし、あっちからこっちから自在に視点を変えてソラで漫画を描き、それっぽく見える程度の正確さで着色まで可能である。何故だ?
 視覚入力にまつわる情報処理と記録のプロセスって一体どうなってるのだろう?

 夢のシーンには、くっきり青空を背にした白亜の豪邸や、真っ暗な夜空を走る虹色の閃光など、明確な形状と色彩のイメージで刻まれた記憶が確かにある。夢に登場する事物は、どう考えても実在し得ない、出遭って自分の目で見ることなど叶わないモノが少なからずあり、故にそれらは私の記憶ストレージからただ呼び出されただけの過去履歴の画像ではない。
 つまり夢の中では、網膜像をリアルタイム検知しての視野映像に相当する入力が、創作の画像データを作り上げた上で起こっていて、朝起きた時点でそれが記憶に残っているということになる。むしろ過去の実体験の記憶より鮮烈ビジュアルなくらいだ。

 覚醒状態で目をつぶって記憶を辿り、想い出の光景を検索しようとしても、その試みの努力が届かないところに視覚画像ショットあるいは動画クリップ形式の記録ファイルがしまい込まれている。だから自力で再現して見ようとしても見えない。
 いっぽう眼前の現実をまず見て具体的な網膜像が入力されてしまえば、想い出がそれに一致するかどうかの合否判定はできる。想い出の形状や色彩を詳細に特定するデータはちゃんと記録され、保存されているのだ。
 さらには朝ドラが『らんまん』の頃に一度考察している通り、その思い出データの断片群を輪郭だけの無着色の『線図』とも整合して、元の現実がどんなだったかを再現できるんだよな【1170】

 恐らく言語や図式やそれに近いロジカル情報単位として『細長い』『四方に拡がっている』などなどチェックリスト形式の判別プログラムが組まれているであろうことと、もうひとつは『眩しい光』『目の覚めるような赤』を見た時の、視覚入力以外の他の連鎖反応が検索タグになって抱き合わせで記憶されており、今リアルタイムで映っている網膜像に、それらを適用してマルバツ式判定で整合性採点するような演算処理が走っているのではないかと考えている。あああ~わかりにくい文章だなあ。

 子供の頃はインパクトの強い視覚入力があると、目をつぶってもその画像が見えてしまい困ったものだが【54】、のちに大人になるにつれ視覚情報処理のフローチャートが変化したということになる。画像ファイルは重くてストレージ負荷が高すぎるので、ロジカル要点ファイルでの記録に切り換えていくんじゃないのかね。

 30億年生命の歴史で高度情報生物の進化の枝をここまで伸ばしてきた原動力は、体内流通情報のデジタル化と、通信・保存の飽くなき軽量化・高速化志向だったのではないかと思うのである。
 ではスキップで頭も身体もほぐしましょうか。軽やかに速やかにグッドラック!
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【1239】ココロ追い求めるマッドサイエンティストの発想源 [ビジネス]

 NHK朝ドラはタイトル曲『東京ブギウギ』が登場、そろそろクライマックスだな。
 続く『あさイチ』では不定期挿入の短編ドラマ『幸運なひと』が面白い。若夫婦のダンナ側にある日いきなり末期の肺癌発覚…というストーリーは、他ならぬこの私が姉で類似ケースに遭遇しており【196】、ついつい入れ込んで録画してまで観ている。
 ドラマ本筋はともかく、そこでヨメちゃんが音楽業界にいた絡みで”All the things you are”というジャズスタンダード曲が使われていたのには一層喰い付いてしまった。

 哀愁帯びた曲調のジャズらしいっちゃジャズらしい曲なんだが、とってつけたような有名なイントロがあって、それをもって演奏を始めることが多い。知らない人が無防備に耳を任せて聴くと、ちょうどメロディが始まるところで、なんだか拍が合わなくなるはずである。
 しかも綺麗に4小節単位で節目がつく素直な構成になっておらず、何も考えないまま楽器パート同士でソロ応酬をやっていると、メロディのおしまい近くで『字余り』的に小節が余る【566】
 おまけに最後の最後に、またしてもメロディからくだんの有名イントロの変態フレーズに戻り、あれっ?と思うような途切れ方で終わってしまうのだ。どんな歴史を経てこんなことになったかねえ。
 好きな人も多く、押しも押されもしない名曲なのだけれど、なんでこんなヒネりのある曲を劇中曲に選んだのだろうか。NHKでは、ただの直球で無難に終わらせないポリシーの選曲基準でもあるのだろうか?

 さて、せっかく妙な懐かし怪奇サイコ映画の話題に触れたので、もう少し続ける。

 記憶に残っているのは実験テーブル上の生首ちゃんひとつと壁面から突き出た両腕3組、端的に数が合わない。頭部のコミュニケーション機能と腕のアクチュエーター機能は、各々連携なく個別に機械に接続されていたのかなあ。
 ともあれラストシーンで両腕が博士の首を絞めるからには、やはり腕に触れたのが博士だと認識して、腕の制御には殺意が籠められていると見るのが自然であろう。とすると、生首ちゃんの目視による判断が入ってるか。

 あとふたつ生首ガラスケースがあったのか、少なくとも3人をこんだけバラしちゃったんだしオリジナルの人体構成にこだわらず、頭ひとつに腕3人分という組み合わせトライアルで接続していたのか?
 今さら確かめる術は無いのだが、とにかく博士に向かって話しかけた生首ちゃんと博士の首を絞めた両腕は、ちょうどヒト一人相当の情報体系のもと通信していたとする。ならば。
 普通に考えて、壁から伸びた腕の指先にアツアツのやかんを触れさせると、生首ちゃんは『アチッ!』声を上げ、腕は思わず手を引込める動作で応えるんじゃないすかね。

 ここに生首ちゃんは『お湯を沸かしたやかんを触ると熱い』という現実事象を、記号接地状態で認識したことになる【1211】

 いっぽう腕と生首ちゃんの接続が切れていれば、生首ちゃんはやかんに指先が触れるのを他人事として眺めるだけ、あとで水ぶくれができちゃった指先を見て、痛そうだし気の毒だし『火傷』というネガティブ現象が起きていることを認識する。
 次にまた同じような行き合わせになりそうだったら、生首ちゃんは誰かに『腕が火傷すると可哀想だから、やかんを近づけないようにね』と頼むんだろうな。のちに接続がある程度でも復活して、自分のコントロールで腕を動かせるようになったなら、熱い感覚まであるかどうかは別にして、火傷しないよう意図的に腕をよける。

 これは『お湯を沸かしたやかんを触ると熱い』という現実事象を、記号接地せずに学習したと表現して良いと思う。

 では腕を隣のおうちに連れて行って、電話回線で生首ちゃんと接続してみよう。
 隣に連れていかれた腕の様子はカメラでライブ中継されていて、生首ちゃんは目の前に置かれたモニター画面を通して、リアルタイムで自分と回線接続された腕の映像を見ることができる。
 生首ちゃんにとっては、間近の腕を肉眼で見るか、隣のおうちの腕をモニターで見るかだけの違いなのだが、これで五感を通して手元の経験を等しく積んだとして、それは仲良く揃って記号接地していると言い切れるのだろうか?
 お解りの通り、アイテム間に通信回線つまり情報の延長経路が挟まっただけの違いであり、情報処理デバイスや、流通する情報の量と質は全く同じである。

 既に実用化されている遠隔操作の手術装置なんかは、まさにコレだよな。
 これって、執刀医にとっては『直接手術する』vs『凄いマシンで手術する』という、異なる二通りの記号接地体験になるはずで、でも手術される患者にとっては『名医に的確な執刀を受けた』という完全一致の記号接地体験となる。

 ここで生首ちゃんを人工知能AIに入れ換えて考えてみたい。
 『AIは記号接地体験ができないため主観や意識の構築ができない』という見解を唱え、いわゆるココロある生命体と区別したがる意見をよく見かける。けれど『記号接地』ってそもそもナンなのだ?それはホントに主観や意識の成立要件になるのか?

 つまるところ『俺は区別するもんね~』とコミュニケーション空間の流通情報的には何の意味も作用もない差別意識をひとり決め込んで、言ってもその先の展開なんか無くて宙に消えるだけなのに、ただ無駄に主張しているだけではないのかと思ってしまう。
 人間がスピリチュアルな心象を籠めて語る『他者に乗り移る』という概念が、具体的な動作手順にまで現実化したとして、まずAIに乗り移ってみて人間が自覚する『主観』『自我』の有無を確かめないと答が出ない。確かめた本人が個人的に答を出しても、それを他の誰かに伝える手段が無い。

 私自身、興味が無い訳じゃないが、ハマるばかりで良いコトなさそうなのである。
 何より私は、そもそもから生物と無生物の間にセンを引かない主義だし【97】

 私は上部と下部の両方の内視鏡の経験者である。要は胃カメラも飲んだし、お尻からもCCDを突込んだ過去がある。
 どっちも自分の視界内にディスプレイが置かれていて、医者にカメラをぐりぐり操作され『ああ~綺麗じゃないの』なんて言われながら一緒に画面を眺めていたのだが、消化器内壁にカメラの固さや温度を感じた記憶はあんまりない。よってカメラの動画ビューにダイレクトにセット連動した触感体験も無い。
 このシチュエーション、腕を隣のおうちに持って行かれて、その自分の腕のモニター画面を眺める生首ちゃんと、どっちが記号接地度が高いのだろうか?

 社会で振舞う『情報体』として人間とAIの間に差異を定義しようと躍起になるのは、あんまり建設的な試みではないと私は思う。
 マッド博士になって人間を実験台にしたら犯罪者だが、パソコンを実験台にしてパーツ構成を試すぶんには、どこからも文句は来ない。映画をヒントにPCマッド博士になればいい考えが浮かぶかもよ。
 お宅のPCくんもどうか御機嫌うるわしゅう。幸せなお付き合いを、グッドラック!
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【1238】最先端サイエンス原野開拓者のパノラマ美的感覚 [ビジネス]

 あいや、月面探査機SLIMくんは季節の巡りで月面の夜を迎えるタイミングとなり、ソーラー電源が切れて機能停止するらしい。大気に覆われない月面の夜の極低温は苛酷だが、湿度も存在しないので着氷や凍結膨張で壊れる心配も無いし、ここはひとつ果報は寝て待つとしよう。グッドラック!

 私は生まれてこのかた皆既日食を見たことが無い。
 簡単に見れるチャンスをみすみす逃したことは一度もなく、日本列島の本州に住んでいて普通に見に行こうと思うようなところに皆既日食の発現域がかかったことが無い…という不可避の国民的不遇がその理由である。残念だが納得がいく。
 いっぽう皆既月食はそんなに激レアな天体現象でもなく、私ならずとも皆さん何度もお目にかかっておられることだろう【568】

 皆既月食の赤い月を眺めるたび、赤色が均一な色合いでなく濃淡の分布があること、そしてその濃淡が激しくめらめらと月全体スケールで揺れ動いていることが確認され、あれをいっぺん月面側から動画で見てみたいと思うのだ。
 まるで燃え盛る暖炉のようなあの赤色の揺らめきは、月面側からこっち向けて見るとどんな景色になっているのだろう?

 地球には大気があるため、木星や土星ほどではないにせよ輪郭にボカシが入ってはっきりしない外観になっている。
 最近にわかに現実味を帯びてきた民間宇宙旅行の目安のひとつとして、だいたい高度100キロをもって『宇宙空間』とする考え方があるワケだが、これに対して地球の半径は6500キロ弱もあり、つまり地球の大気層は皮一枚のように薄い。

 皆既月食の時の太陽・地球・月の位置関係を考えるに、月面からの視射ビューは、地球の丸く真っ黒な影を、ぐるりと朝焼け・夕焼けが囲むカタチになっているのだろうと推察する。
 そして地球大気が揺れ動いて太陽光の透過率や屈折率を変動させるので、ほんの薄い大気層のことながら、月面に投影される夕焼けの濃淡は激しく大胆に揺らめく…ということではないだろうか。
 さぞかし綺麗なんじゃないかなあと、皆既月食を見るたびに思う。でもわざわざ見て喜ぶくらいに他にも良いコトあるなら、もっと早くにさっさと撮って公開画像が出回っているはずだから、あんまり実質的なサイエンス価値は無いのかも知れない。残念。

 月面から見る皆既月食中の地球の姿が私の見立て通りの美しさだったとして、やはりいずれはカメラを通した画像ではなく、現地に身を置いて肉眼で見たいと思うのが人間の願望だろう。
 だがこれまでの地球上の生命の歴史が紡いだ情報生命体の情報処理プログラムは、数日間を閉所で過ごす宇宙航行にはなかなか耐えるのが難しそうだという前回のハナシであった。ショッキングな日本語になってしまうのだが、人間の精神改造レベルの技術が必要になってくるのではないかと。

 まだテレビがモノクロだった昭和40年代、いま思えば結構ヤバいサイコ系インテリ映画がちょくちょく平日の真昼間に流されていたものだ。この記憶もいつか整理しつつ特集したいのだが今回は置いとくとして、その中でも私の脳裏に焼き付いているのが、マッド・サイエンティストの人体パーツ個別化実験をストーリーにした一本である。
 たぶん小学生時代に帰宅したら放映中でやっていて、途中から観始めたのだと思う。よってタイトルも大筋も私は最初から知らない…はずだ。例によって私の記憶容量が足りていないだけのことなのかも知れないが【581】、とにかく紹介したくても紹介できる情報が無い。どこの国か不明だが、海外の作品である。

 かのマッド博士が人っけのない場所に秘密の研究棟を構えており、その実験室テーブルにはひと抱えほどある半球ガラスケースが据え付けられている。そしてその中には確かスキンヘッドの女性の生首ちゃんが収まっていて、あちこち何本か電線ケーブルがつながっていたように思う。また壁の一面からは、人間の両腕が横並びに3組だらんと垂れ下がっていた。
 博士が制御パネルを何かしら操作すると、ガラスケース内の生首ちゃんが口を開けて絞り出すように発声したり、壁の両腕たちがそれぞれ宙をつかむように動く…みたいなシーンがあったのを憶えている。

 つまりマッド博士は人間をばらばらに切断して、電子機器…は当時は具体的概念が無かったはずなので電気回路と接続して、任意の入出力制御が成立するかどうかを実験していたという設定である。
 うわ~エグいにも程があるよ、なんでこんな映画作ろうと思ったんだろ?

 先に走り切っておくと、実験していて確かガラスケースの生首ちゃんに何か意味のあることを言われてたじろいだマッド博士が後ずさりし、そのまま背中で壁ドンするのだが、その場所がちょうど壁から伸びた腕のある位置で、マッド博士は背後から首を絞められ、抵抗するもののそれをはずせず苦しんだのち絶命してしまう。その光景が退いていって、陰鬱な静寂のラストシーンになるのだ。
 最後までどうしようもないな、なんだこりゃ?でももう一度観たくてしょうがない。

 コンピューターが社会稼働する以前の時代に、電気回路で組まれたマン・マシン・インターフェースのズバリそのものの概念が存在していて、それが庶民向け映画にまでなっていたという事実の記録なんだよな。
 悪趣味もいいところの内容ゆえ、フィルムがケミカル劣化しても保存の対象にもならず、もうこの世に残っていないかも知れない。残っていたとして、金輪際一般公開できないのは間違いない。
 こんなものが作られた1950~60年代の時代、科学技術の発達競争が世界中に水爆をいくつも落とし、大気圏外に無人・有人の機械装置を数々打ち上げた。子供向けアニメでは緑あふれる森をブルドーザーが根こそぎ押し崩し、バンビやリスや小鳥たちが悲壮な表情で逃げ惑っていた時代だ。

 科学技術パワーが『善』でも『悪』でもないとされる反面、自然破壊の一面をもってはかなり明確に『悪』のイメージで象徴的に描かれていたと思う。
 だが世界各国が経済発展を主とする国際競争のため、なさけ無用の仁義なき技術発展にしのぎを削るのは、もう人類みずからコントロールが効かなくなっている『探求心』『開拓精神』の本能の暴走として、ただの『悪』でもなく扱う世風が広く定着していた。『悪』の面を認めつつ、そっちに身を預けていたと思う。
 ある意味、人類の手綱を離れて突走る科学技術との対比があからさまだったからこそ、イミフにヒトを別格視した『人間の尊厳』みたいな幼稚で厚かましい自己主張は聞かなかった。当時はそんな時代だ。

 ありゃりゃサイコ映画のハナシに化けて終わっちゃったよ、まあいいや。
 さまざまな情報に溢れたこの現代社会で、無作為に放つにはあまりにヤバすぎる映画なのだが、受信する側の視聴者層の当時の受け止め方として、これが問題にならなかったという事実に気付いて考えておきたい。社会は何故、どんな経緯を辿って、変わったのだろうか?それは良いコトなのだろうか?

 子供たち若者たち、社会は常に変わるので変える側に立て。今週もグッドラック!
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【1237】銀河クルーズ参加資格のメンタル問診票 [ビジネス]

 月面探査機SLIMくんは機能を残しているらしい。とりあえず素直に喜ぼう。
 脳天着地のまま、月面でいう西向きだっけかのソーラー発電パネルが受光し、完全ではないんだろうけど探査機能と収集データの通信成立が報告されている。
 まあ荷重支持するはずの足回りが仕事を失って宙を仰ぐ反面、欲しいブツなり情報なり天上から受け取るつもりだったのに、そのへん軒並み地面とにらめっこになっちゃってるんだから、逆立ち姿勢は結構な大打撃のはずなのだ。行き過ぎた期待はせず『いいコトあったら御報告よろしくっ』ぐらいで、面白いまぐれ当たりを待つ感じで丁度いいと思われる。

 本当に可能かどうかは別にして光の速度を超える移動技術を持たない現代の人類文明としては、4日間ほどで行ける月が宇宙拠点開発の到達限界であろう。
 …っちゅうか、国際宇宙ステーションISSでなくてせめてエコノミークラス級で構わないんだけど、その乗員席から思い立った都度よっこらせっと立ち上がってトイレに行けるくらいの自由度が確保できないことには、乗員のメンタルが持つかどうか心配である。座席に縛り付けられ、4日かけて現地に行って、また4日かけて帰ってくるなんて、それだけで現状の生物としての人間の精神力の限界ギリではないのか。
 そこらの一般人だと、一生に一回のことだから死ぬ気で頑張れと言われても、途中で閉塞感と拘束感に耐えられず気がおかしくなる方が普通だろう。

 早々に横道にそれるが、これのプチ体験版が船上生活だと思うんだよな。
 私が学生時代に船旅50時間で沖縄まで行った話はしたが【664】、うわ~凄い、この船で沖縄まで行くんだ、わあ陸地が見えなくなった、すんげーこんな景色見たこと無い…の未知との遭遇的な熱烈ドキドキワクワクの心境は、200メートル級フェリーならものの3時間もあれば、すべからく沈静化する。
 洋上に出れば普段は目にすることの無い明確な雨柱と虹を従えた積乱雲や、イルカだのトビウオだのいかにも外海らしい生物たちに歓声を上げたりもできるのだが、だだっぴろい床に雑魚寝滞在の大部屋で第一発見者の声を聞き、潮風強いデッキに駆け出して喜んでいられるのは数分から十数分のこと。
 あと夕暮れから夜明けまでは風も弱まり、さすがに空の超絶スペクタルショーが見飽きることのない素晴らしさなのだが、これとて当時すでにポータブルのカセット再生機で聴ける高音質の音楽があって、空の開けた場所に仰向けに寝転がって怒られない甲板スペースがあって、二晩だからそれで済んだのだろう。

 船上生活でしか味わえない貴重な体験の輝かしい記憶の隙間時間を埋めるのは、圧倒的なボリュームの閉塞感である。いま別に散歩に出て何キロも歩き回りたい訳でもなければ、真横に騒がしい手前勝手の群衆がいて迷惑な訳でもない。
 なのに文字通り『地に足が着いた安心感から浮いた』漠然とした不穏心理が拭い切れず、人も羨む優雅なレジャー時間のはずなのに、そのイメージ通りの解放感に身を預けてリラックスし切れない。
 ただただ変化のない『特別な時間』が流れるだけ。それをポジティブに消化し受け流すのが難しいのですよ。まだまだ知見の浅かった学生時代の私が、五感をもって記号接地で学習した貴重な知識アイテムのひとつである。いやあ、いい経験だったよ。

 どこまで乗客の要求値を満足できているかは知らないが、これを調達可能なブツで抑え込む最高級の豪華待遇メンタルケアとして、料理や果実をてんこ盛りにした金銀きらめく大きな杯が並ぶなか炎めらめらのジャグリング…みたいな過剰気味アトラクションの一般解が発達してきたのではないだろうか。
 一方かつての大航海時代には、自由経済市場の原理に則って一旗あげる野望に溢れた貿易船が数々競って長期航路に乗り出し、その少なからずが暴動により船上組織が崩壊して海の藻屑と化した【589】
 現代の社会生活のどこに適用先を見出すかは人それぞれだと思うけれど『孤立空間の集団マネジメント』という課題には、洩れなく意識して観察眼を働かせておいて損は無いと思うのだ。

 もちろん行き先が火星となると何の動力でナニを飛ばすかにもよるのだが、片道ですら軽く年単位の旅程となるのは避けられない。人間は、どこまで狭いワンルームに何人が暮らせるものなのだろうか。後戻りのできない期間中、どんな変化が起こって、どこまで自己完結で解決できるものなのだろうか。
 適性のありそうな掛け合わせで新生児から準備し、外界を知らない狭所で純粋培養式に育成して、それでも恐らく半分以上のダメなヤツはダメで、どうにか壊れずに持ち堪えそうな個体を選別して『火星開発適材準備局』を結成するとか、かなりムチャな人材開発をやらないと火星の有人開拓は計画から成立しないと思われる。

 その居住環境で直近の生命の危険を覚えるような要素など無いはずなのに、恐らくは当人の意識にある『世界モデル』として、何かしら『拘束されている』と自覚しただけの段階で、人間は自由空間と現状拘束条件の対比で頭がいっぱいになり、不安と不満と葛藤に苛まれる窮屈感のプログラムを備えた情報体なのだろう。
 裏返せば『情報』の領域で何らかの的確な工夫で処置を施せば、ウソのように問題なく生命維持の要件動作だけこなしながら、長期間の閉空間の滞在も可能になるのではないかと思っている。

 人工知能AIの開発が進むのに並行して、人間の『意識』『自我』『主観』とは何なのかの議論も見え隠れするのだが、人間がこれらをマシン語の文字列としてAIのプログラミング構築に適用できるくらい解明されれば、数日を越える長期宇宙航行の可能性に手が届くのかも知れない。
 ただここまで来ると、マジガチの文字通りに人間を操縦する精神コントロール技術の実用解ということにもなるからタイヘンだ。具体的成果の記録ファイルを手にしたとして、運用管理のステップでオオヤケ目線には行き詰まった構図で硬直しながら、水面下では無法・非道の実地適用事例が乱発する事態が予想される。
 『自分の願望を優先したい』『他人を従わせたい』『ジブン優位に浸りたい』みたいな卑小で不幸な自己満足の作動特性に抑制をかけられない粗悪ポンコツ情報体・人間なんぞに裁量を持たせてはならず、こんな時こそ究極の合理性で無欲に判定を下すAIの出番なのかも知れない。

 今度はAIの知力を助けにして、人間がポンコツ我欲を修正する順番ですかね。
 それはそれで面白いし、人間もAIもひっくるめて『世の情報体が社会性をもって作り出す技術の進歩』という見方ができる。『情報体の進化』が世を引張る時代だ。

 火星移住が叶う頃には、地球社会ってもう少しマシな問題で悩んでるのかな。
 そんな未来に馴染めるジブンでまずいたい。冬の夜空を見上げてグッドラック!
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