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【1132】緊張感スケールに引かれた赤ラインの安全率 [ビジネス]

 NHK朝ドラで長井さんとこの作業場にあった二軸の転造機、興味あるなあ。
 ちゃんと取り上げ方を体系整理してからでないと機械工作に深入りはしないということで決めたワケだけれど、機械工作の本題でないところでちょびっとだけ。

 加熱した試作品のネジをやっとこで摘まんで、ブジュッ!と水に浸しているが、ちょうど粘土で作った概形素材に螺旋状のローラーで型押しして作るようなネジ転造の工程において、実物の粘土みたく一発押しただけで大人しくその形で落ち着いてはくれないため、チカラずくで押さえ込まれて金属組織に溜まったストレス=『応力』を、あの熱処理で取り除くのである。
 『焼き入れ』『焼き戻し』『焼きならし』『焼きなまし』といろいろあるが、深入りするとヤバいな、そのへん詳細はまたいつか。いま気にするのは、加工品を金網のバスケットみたいなのに入れてディップしたり、試作品を素手で持っていたりするところだ。まああのシーンは素手で何の問題も無いんだけど。

 工作機械も加工素材も製品も、ちょっと置いておくとすぐ表面から酸化してしまう…つまり早い話が錆びが来てしまうため、ああいう製造現場ではいろんなブツが機械油に覆われている。
 だが、とある機械システムの作動実験では、そんな機械油が『どこにどれだけくっついているものなのか』が調査対象になっていたりするのだ。ある条件設定で既定の運転を行って、そのままそお~っと分解し、部品のひとつひとつから機械油を洗い落として付着量を測定するのである。

 そんな測定において、20世紀の頃は『洗浄フロン』なるものが使われていた。
 フロンは御存知オゾンホールの原因と言われて取り沙汰された物質だが、『フロン』と言ってこの世でただひとつコレ!と特定できる訳ではなく、実はいくつも種類がある。よく話題に上がったものに、半導体など電子部品の製造工程で洗浄剤として使われるフロンがあり、私はあんまり詳しくないのだが、後にこれは水洗浄主体のシステムに置き換わったと認識している。
 今や最盛期の見る影もなく衰退してしまった日本の電子部品産業だが、その主産地は東北地方や北陸地方など綺麗な湧き水の潤沢な地域が中心だ。飲料水や農業用水としてだけではなく、電子部品産業にとっても日本列島の擁する淡水は類まれなる自然の恵みなのである。いずれの時に備えて覚えておこう。

 おっとっと、そういうことで『フロンガス』という聞き慣れたコトバもあるがそっちは別にして、常温常圧で水のようにさらさらの液体になっている『洗浄フロン』なるものがあり、部品から機械油を徹底洗浄するため、その強力な脱脂力を利用するという現場作業があった。いつでもささっと部品洗浄できるよう、使いやすいフロン洗浄槽と作業台が整えられていたものだ。
 一般家庭で『このテレビCMで到底あり得ない、しつこい油汚れをどうしよう?』みたいな状況に悩まされている人たちは、感動しまくるんじゃないすかね。そりゃあもう、アレもコレもすっかり落ちて、さらっさらすべっすべ清潔な表面を取り戻す。

 この洗浄フロン、腐食性もなければ浸透性もなく、素手でじゃぶじゃぶ触っても別に何てことはない。もっとも脱脂力は最強なので手指の表面も工業清浄的にすべすべさらさらになり、粉は吹かないが、コンクリに手をついた時のように、指紋に沿って表面が真っ白になる。まあこれもすぐ元に戻るので、気にすることは無いんだけど。
 …って、工業用の脱脂洗浄剤に素手を突っ込んで、普通に人間が遭遇する自然環境と一緒のはずないんだよな。だから航空機用ネジの試作品をディップしていた、ああいう金網バスケットを使うべきなのだ。だが私はバカなので、ついつい機械油のちょっとした洗浄作業を素手でやっていた。

 そんなことをしていたから手指がバリバリに乾いて傷んできて、それでも懲りないバカだったので、その対処にステロイド外用薬を使ってしまったのである。
 当時すでに依存症になるという知識はあって注意していたつもりだが、結局のところ長期的の慢性的な使用ペースになっていたのは間違いなく、今こうしてその安直な健康管理意識の失敗を償っているところだ。知らぬが仏で大損害の原因を仕込んでいた。

 プチ横道だが、実はこの程度たいした失敗でもないっちゃなくて、昔の工場職人には指先を失ったり手足に盛大な傷跡を残している人は少なくなかった。そういう『名誉の負傷』の証をひとつでも持ってようやく一人前、みたいなことを言う風潮さえあったから、戦後から高度経済成長期の現場の素朴さ厳しさが窺い知れる。

 さて改めて洗浄フロンそれそのものには何の罪も無く、そんな安全で便利なツールにだらしない油断を習慣化させた私の問題を考察しようというハナシだ。
 家事で食器用・台所用・衣類用などさまざまな洗剤に手をさらす皆さま、どの製品も健康被害のリスク配慮は十分されているはずだが、何より『自己管理として、減らせるケミカル負荷をできるだけ減らしておく』という心掛けはしておいて損はないですぞ。

 家事を工夫するにしても、お肌ケアに慎重さを研ぎ澄ますにしても『何をどこまで』の判断基準なんか無いし、生活の必要に駆られたらそんなことも言っていられない、というのが実情になるのは普通だろう。だが『しょうがない』で結局一線を越えてしまったら、結果として普通でない重たい処置から逃げられなくなる。
 では『しょうがない』が行き過ぎない現実解として、どうすればいいのか?

 普段から意識して『一応の精一杯』を頑張っておいて、一番のポイントは『健康トラブルが発生した時、身ひとつ細工ナシの静養で改善するかどうか』の事実確認を、結構な期間横暴キャラを決め込んででもきっちり見切ること。これだと思う。
 クスリに頼らず、自分の身体の自然な対処がどう解決するのか確かめる。特に湿疹や肌荒れは、損傷した体組織の廃棄過程の出口側である場合が多いと思われ、真因が深いところだと数週間から数ヶ月かけて解決するケースが案外と珍しくない。
 見かけに影響してしまうと何かにつけ辛くなるが、そこは必要に応じて、非難轟々を聞きながら天の岩戸を閉ざして引きこもるしかない。そう、この判断に『つい躊躇する』ことこそ『ついつい油断してクスリを濫用してしまう』という過失の一線なのだ。

 ステロイド完全断薬から10年強を経て私は『うう~調子悪い、戻るまで寝るっ!』で、痛み痒みや不快感にも悩まされず平和に眠って済むようになった。内容を正確に思い出せないが、凝った長編ストーリーの夢を見た読後感ならぬ観後感が毎回残る。
 頭の中では何かが起こっているらしく、断続的に頭蓋骨の中に突張り棒が入っているかのような内圧感があって、なんとモノを注視していて視野のあっちこっちが次々と瞬間的に盲点同様の空白映像になる。視神経が一本ずつヤク離脱しているのだろうか。
 ストレージ機能も何がどうなっているのか、さすがにもう丸一晩ではないが『脳が眠ろうとしない』状態に陥ることがあり【377】【643】【747】、そんなとき覚醒を自覚しながらも、明らかに頭の別の端っこで夢のストーリーが進行していたりもする。

 こんな体験を積んでいると、どこかの事務所で外国人ふたりが英語で会話している場面を、積み上げられた書類整理箱の間から傍観している夢を、その内容を吟味しながら見ていたりもするのだ。自分は完全に観客なのである。
 うむう、夢とはやはり記憶のデフラグ中に閲覧した記録ファイルの内容認知であって、『夢の世界』に自分が飛び込んで覚醒時と同じように振舞う、そんな体験型の仮想空間劇場ばかりではないんだろうな。
 現状のこんな離脱フェーズのお陰でというか、かつてのように赤鬼のように腫れて顔面傷だらけってことはないのだが、顔じゅう薄っすら紅潮斑の地図がパターンを変えながら常在しており、目から上は久し振りに粉を吹いている。早くよくなってくれないと、見かけはともかく皮膚片が目に入るからコンタクトレンズが使えないんだよな~

 …と、このくらいにまでは到達できた。
 発覚してから足の速い疾病もあるのは事実で、必要な処置を手遅れにしない注意力は必要だ。だがクスリは健康の自律に対して外乱であり、外乱なら乱れが自然に収まる過程の消化も必須である。そして『ほかっときゃ治る!の手放しで健康』、これが本来は維持操作の手間が不要なゼロ標準だと肝に銘じておこう。

 儲かる投資先を探すに先んじて、これからの時代『ただの健康』に固定コストを発生させるのは賢明ではない。明日の元気に、グッドラック!
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【1131】ニッポン労働力の受け皿設計コンペ [ビジネス]

 菱崎重工さん、舞ちゃんとのあの会話からエライさんがすぐ自ら足を運んで直接工場を見に来るとは、なかなか軽快なフットワークじゃないか。株式会社IWAKURAもどこまで内情開示したのか知らないが、その場の判断で実地検討用に試作図面をもらえるというのは大ラッキーだ。
 何にしても、現場の現実をストーリーに大切に効かせるコンセプトは好感度高いよ。

 ごくたま~にだが、飛行機が飛んでる間に部品を落っことす事故が報告される。
 国際線旅客機だと高度1万メートルあたり、つまり8,848メートルの世界最高峰エベレストを危なげなく飛び越すぐらいの高さを飛んでいて、巡航中の大気温度は摂氏マイナス50度くらい。乗ったことのある人は御存知だと思うが、客室前方の共同ディスプレイには世界地図上の自機現在地と外気温度が飛行中いつも表示されている。

 夏場なんか地上では摂氏30度以上…というか場所によっては50度もあり得るから、航空機はタイヘンなサイクリック温度変化を通り抜けながら運行されていることになる。上空では気圧も0.3気圧前後まで下がるため、乗員居室など減圧させられないスペースには与圧区画を設けることになるが、この与圧居室がまるごとポテチ袋のようにパンパンに膨らもうとするから【1124】、全壁面くまなく気密を保つ強度が必要となる。この繰り返し荷重だけでも相当なものだ。
 母材に突き刺さって表面摩擦力だけで結合強度を維持するクギなんか論外、螺旋形の長い接触面で緩み止め方向の摩擦力を確保して締結を維持するネジも、ただの安価な汎用素材だとガバガバに緩んだり疲労で切れたりしてオシマイだ。ボーイング747ジャンボジェットの居室は、上空で直径が10センチぐらい太っているのだという。
 まあそれでも、工業技術ってのはアレコレ手を尽くして、何とかしてホントに作っちゃうからな。株式会社IWAKURAがどうするのか見ていよう。

 少し時間を巻き戻して、舞ちゃんの航空機産業参入意欲について永作ママから聞いた悠人お兄ちゃん、ちょっと不確かなのだが『まあいいじゃん、やるだけやってみたら』と言ったように聞こえた。むう?残念ながら『じゃん』は完全に東のコトバだよ。
 『まあええんちゃう?やるだけやってみたら』だったとしたら正解なのだけれど。

 似たところで『私ひとりじゃダメなんです』の『じゃ』も関西ではあまり使わない。
 もともと『私ひとりでは』の文語式言い回しが崩れて『私ひとりじゃ』になっているのだと思うけど、大阪弁ではむしろ『私ひとりではアカンのです』の方が自然である。

 大阪弁講座も大概しつこくなってきて気後れするし、最近は聞き流しスルーすることも多いのだが、いざ引掛かる非ネイティブ用法・発音に遭遇すると、やはり我慢が利かなくなってしまう。どうしましょうか。
 さていろいろな機械加工の個別解説に入り込むのは前回思い留まったとして、かつての同僚の世間話を。カメラのレンズ筒を造る中小メーカーに知り合いがいたそうだ。

 とにかく加工精度の高さが業界で抜きん出ており、価格設定は決して安い方ではなかったそうだが、固定の客先相手にお商売は安定していたらしい。一度お得意先のひとつに、安価を提示してきた競合他社に乗り換えられてしまった例もあったものの、結局客先の方から戻ってきて取引再開したというから、よっぽど完成品の魅力を購買ユーザーに訴えるセールスポイントとして効いていたんだろうな。
 そこんちの設計は担当一人でやっており、とにかく仕事大好きで、当時にしてもう古式文化アイテムになっていた烏口(からすぐち)という製図ペンで図面を引いていたのだという【441】
 烏口で線を引いたら、そのインクを乾かさないと上から定規や手を置けないため、部屋に何本も洗濯の干し紐を張ってクリップで図面を吊り下げ、乾かすことになる。いつも所狭しと何枚も並んで吊られた図面に囲まれ、今度はこっち次はあっちと嬉々として次から次へと線を引き続けていたそうな。

 面白いのは、部品の加工精度が売り物のメーカーなのだが、その高精度の秘密は設計段階の独自の部品分割思想にあったそうなのだ。自社の工作機械まで知り尽くして、工員個別の技量差が出ないように巧みに部品分割を工夫し、実際経験の浅い若い職人でもカンコツを探るような助走期間ナシに十分な精度を出せるものだったのだという。その種明かしに隠す素振りもなかったというところも興味深い。
 なるほど加工精度の出し方ひとつにしても、作業者の職人スキル頼みに限った話ではないということだし、最新の光学機器が市場で重宝される製品として送り出されるにあたって、烏口の図面で十分にコト足りるというところも改めてタイヘン勉強になった。

 世代交代など視野に入れると良い悪いの評価がビミョーになるのだが、とにかくその設計者氏の独自技術が大黒柱となって会社を支えているのだと聞いた。後継やバックアップが欲しい…というより必要なのは百も承知しているが、中小企業の現実として『必要だから』でハイそうですかと揃うものではない。
 こういう実例に触れると、電子機器の利権商売だけを目当てにしたあほ役所のデジタル化政策なんぞ、日本の職人領域の製造技術にとっては百害あって一利なしの外乱にしかならないことがよく解る。
 こんな貴重な製造技術がデジタルネイティブ世代に交代して、必要都度の判断で現場ツールの維持整備を進めた結果として電気仕掛けのデジタルデバイスを選ぶなら、それに迅速十分に応えて支援する事業単位があれば良いのだ。損害ばかりで役立たずのデジタル庁とやらも便所タワシも、あまりに無意味で的外れな『仕事の邪魔』でしかない。

 のちに大学時代の先輩数人と、人材育成における本人適性の判断について会話していた時のことだ。
 『いや~それでも大手は人がいるから良いよ。中小はさあ、そもそも人が来ないんだから』と、完全に問題の困窮度の次元が違うというノリで語られて、なるほど普通に連れてきたヤツを向いてる向いてないで判定して仕事になるというスタンスで話し始めた私は、苦労知らず甘ちゃんの好き嫌いもいいところだなと少々恥ずかしくなった。
 人員配置ポストのストライクゾーンの方を拡げておいて、決して使命感や充実感に溢れたドンピシャの適材でもない人間であっても、騙しだましにでも組織業務が回るメカニズムを考えねばならない。いや、むしろ組織の平常作動ってそっちなのかも知れないな…と思ったものである。

 株式会社IWAKURAで『設計ができるのは先代社長と結城だけ』という台詞が飛び交い、業績回復をもって転職していた結城社員を再雇用し、かつて解雇してしまった小森社員の再雇用も現在進行中だが、あれは浪花節ドラマの同胞意識の演出ではなく、切実な中小企業の採用事情と見るべきであろう。
 熟練スキルを持っていて自社の業務事情にも通じた『即戦力』の人材となると、それこそカネやタイコで探したところで見つかるものではない。
 人を雇う限りは人件費がかかる。人件費をかけたからには、それに値する収益ぶんの生産力向上の保証がなくては倒産してしまう。逆に明日倒産するのでもなければ、自社の生産力に噛み合って確実に稼働できる労働力は何をさておいても、他から奪ってでも手に入れたい【1126】

 だから若い人は就業年齢到達時点で、追々こんな『求められる専門職』に成長できるように、一般基礎の知力・体力を備えた優秀な素材としての『人材』になっている必要があるのだ。とにかく勉強して体を鍛え『使える取柄』を持っておこう。
 この『人材』の理想像や具備要件はその時代の産業の実情によって変動するとは思うが、明日の国家産業を支える専門職予備軍にとって『ブラック、ブラック』と拒絶されず『ホワイト過ぎて…』と見限られもせず、ちょうどいい平衡とはどんな状態なのか。

 今さら天上の理想像なんか夢見る必要はなく、まずは従来きちんと確立してきた、法治のもと基本的人権に基づく正直な民主主義議会制と、単純明快な算出で正確に数値管理する資本主義の国内自由競争市場への徹底回帰ではないだろうか。
 今週から始まった国会は、その目的で議論できなければ『無い方がマシ』である。

 『人材』たち、どいつがナニ言うかよく見ておきな。明日の判断に、グッドラック!
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【1130】要整理の積み置き想い出ファイル群 [ビジネス]

 NHK朝ドラ『舞い上がれ!』もそろそろ終盤近くなってきてるはずだよな。
 総じて、特別に構えずまんまに身を預けて楽しめる、好感度の高いドラマである。

 製品開発や設計・実験・試作、あと工場での量産や出先の営業まで、中小機械工作メーカーの具体的な業務内容が、ストーリー展開にきっちり機能的に効いているのが新規性あって面白い。
 普通このパターンだと、シロートが遠目に見たままのイメージで劇中の作業場セットや操業動作を組んでしまう御都合式の造りが目立って、専門領域では何だか気恥ずかしい雰囲気が漂う間に合わせシーンで『ドラマなんだから文句言いっこなし』みたいになってしまうところだ。実際こういうところに気合を入れ過ぎると、今度は視聴者層に理解されず、ヘタすると面倒がられるような造り込みになるから難しいだろうなあ。
 本作はNHK朝ドラ枠への適用として、絵ヅラの清潔感や業務内容の解りやすさ、および人間関係の明瞭化が必須要件だとして、難しくなり過ぎず浮世離れもせず、良いセンでできているんじゃないでしょうかね。『ネジ製造で、不況で、ピンチを切り抜ける』という本編ストーリーを、ちゃんと現実の現場の出来事に実感で反映させる制作意識が感じられる。

 さて株式会社IWAKURAのベテラン笠巻さんから解説のあった『切削』や『転造』など金属素材の成型技術に加えて、昭和の大学の機械工作実習では『鋳造』や『溶接』など数多くの工程をひと通りは習得したものである。
 中でも私の記憶に深く突き刺さってココロの糧として効いているのが『溶接』だ。

 端的に、ヘタクソの溶接ほどどうしようもない損害は、この世に存在しない。何もかも台無しにして、修復のしようも無く、ちゃんとやっていれば整然と人の役に立っていたはずの立派な素材を、直視に堪えない産廃に貶める神の冒涜に匹敵する悪行である。
 ええ、ワタシ得意ですとも。長いことやってないがアレは真剣に首括りたくなるよ。

 ハンダ付けは溶接ではなく『ロウ付け』に分類される。電気回路の接続に使うにしても、鈑金の表面均らしに使うにしても、端子や鉄板の母材とハンダが熔け合うことはない。故に思い立ったらハンダを取り除いて、いっくらでもやり直しが利く。
 いっぽう溶接の場合、ずびびばびどび…!と火花が散りながら確かに手元からロウ材が熔け出してはいるのだが、接続する母材の方もこれから繋げたい双方から熔け出して、全てが融点を超えて混ざり合って結合するのだ。電源クリップの片方を製品に繋ぎ、もう一方でロウ材=溶接棒をくわえさせて手にもって、スパークさせることによりコレをやるワケだね。火花が散りながら溶接棒は先からどんどん減ってくる。
 だからなのだが、ヘタクソが綺麗に接合線を繋げられずに途切れ途切れになるとか、間違えて熔けたロウ材をぼちょんと母材肌に滴下させるとかすると、そういった失態の全ては冷えて固まった地球の記憶の溶岩ジオグラフィック地形となり、修復は不可能なのだ。その醜さたるや一生のトラウマになるに十分なもので、そんじょそこらのグロ系クリーチャーなど簡単に凌駕する。もちろん強度も気密も全く無い。

 スマホも写メもない昭和時代だったから、実験工場の廃材処理場に葬り去って二度と見ずに済んだのだけれど、あれ程おのれの未熟さ無能さの罪を容赦なく突き付けてくる光景を、私は知らない。おうちが自動車修理工場だという同期が、いともあっさり綺麗な溶接をやってしまうのが妬ましかったこと。

 いかん、溶接は他にもいろいろ積もるハナシがあるのだが、加工学系の話題はまたどこかで系統立ててやらないと、何をどこまでやったかわからなくなりそうだ。いったん切ろう。
 とにかく、高度経済成長期には街じゅうどこでも盛んだった工作現場が今はすっかり勢いを失くしており、つまりは製品のブツを出荷する現場がしおれてるんだから、景気が悪いのも当たり前なのだよ、きっと。

 マズいな。機械加工には他にも思うところあって、今もの凄く中途半端なところで急に予定変更を決心するのだけれど…そうだな、つい最近に偶然手にした映画DVDのハナシで後半を埋めるとするか。
 …というか、いずれ映画も整理して系統立ててやらないとヤバい雰囲気だぞこりゃ。そんなに映画好きとして入れ込んでいる自覚は無かったんだけど、意外と人並み以上に観ている方なのかも知れないと最近気が付いた。どうしよう?

 まあいいや、今回はこの流れで押し切るとして、”MY LIFE”(1993年米、邦題同じでカタカナ表記)を、ふとした巡り合わせで手にすることになったのである。三十路前後のころ公開当初に映画館で観て以来、私にしては珍しく、正確な内容を他人にきちんと説明できるくらい記憶を保っていた作品である【663】
 実にその十数年後、ほぼ同じシチュエーションが私自身の身近で現実となった。もう十分珍しい話でもなくなっていたし、まさかの現実を受け入れるしかなかったのだが。

 末期癌が発覚した広告代理店社長をマイケル・キートン、その時点でおめでたが発覚していた奥さまにニコール・キッドマンという超有名どころの二大キャスティングだ。主演はダンナの方ではあるのだが、連れ合いニコちゃん夫人の透き通るような美しさと圧巻の演技が印象的な一本である。完璧とも言うべき隙のない端正な顔立ちに、20代にしてこの映像と音声を残すナチュラル訴求力に溢れたパフォーマンス、まさにハリウッド女優の面目躍如といったところか。
 要は『末期癌患者の終活』をストーリーにしたものなので、丸ごと一般庶民の日常生活に普通に起こり得ることだからか、CGや大仕掛けな撮影セットを駆使した特殊映像技術は一切使われていない。故に大御所キャストのハリウッド映画にしては派手さの無い造りなのだが、初見での印象も良かったし後に自分の体験にも重なり、助けられたところも思うところもいっぱいあるし、大好きな作品である。

 1993年というと平成4年、末期癌は家族ともども患者当人に率直に告知され、もちろん進行予測は精度不明の手探り状態ながら、親戚を含めた関係者の総合力で、現実を受け入れる関係者全員の着地点をひとつずつ整備して実行していく。
 ほんの少し前の高度経済成長期から昭和末期においては、癌を『大したことない、いずれ治る』と本人には告知せず、近親者に先に内申するというケースが珍しくなかったと記憶しているのだが、この”MY LIFE”『マイ・ライフ』で私は何の意外性も感じずに観ていたので、平成への移行前後に個人や社会の『癌との向き合い方』が随分と変わったのではないかと思われる。
 携帯電話も電子メールも無く、SNS含めて社会に流通する情報が少なかった時代には、面と向かって専門家たる医師が断言しない限り『本人は厳しい実情を知らないで済む』という情報操作ができると当て込んでの処置だったのだろう。だが余命期間に施せる医療措置も急速に発達し、随分と良質の時間が延びたので、本人も納得承知で意思決定しながら最善を尽くす方針に主流が移ったということか。それともうひとつ。

 以前『パニック現象vsグレース現象』の回で、大衆心理の一般的特性として『自分の力では抗いようがない深刻な境遇において、人間は無駄に騒いだりしない、我を見失った破滅的な行動は起こさないものだ』と述べた【907】
 私は、晴天の霹靂式に進行癌を宣告された姉のケースに余命一杯関わって、また同じ病室の闘病仲間の方々や医療機関の心身ケア対応にも直接触れて、なるほど昭和の時代に恐れていたほど手に負えない迷い方・見失い方は、案外と起こりにくいのだろうと考えている。

 かつて私の小学校までの通学路には近所の映画館のポスター掲示板があって、つまり当時の公開中の映画のポスターを毎日リアルタイムで見ていたのだ。そりゃあもう、成人映画からスプラッターから、何からナニまで一切の遠慮なしであった。
 洋画では『ホラー映画』などいくつか流行ジャンルがあり、そのひとつに『パニック映画』がしっかりと確立されていたのを思い出す。ヒトが迷い、見失う現象それそのものがメインテーマとしてストーリー構築され、それが流行になっていたのである。
 もしかすると国内外に跨るような大きな空間規模で、『ヒトが追い込まれた局面で荒れるか鎮まるか』の認識が、形態共鳴【482】のような社会現象として、時代と共に移り変わっていたのかも知れない。
 個人が自身の健康問題を理由に社会との接し方をどう処すのかと、社会空間から降りかかってくる危機的環境にどう対処しようとするのか、そんな個々人の選択が巻き起こす集団行動がどんな傾向を見せるものなのかの間には決定的相違があると思われ、ごちゃ混ぜにはできないんだけどさ。

 ハナシとしては基本ここまでで、あんまり気の利いたオチも無いのだが、癌医療コンセプトの変遷と、集団パニック現象の映画文化史と、社会組織の制御逸脱事故の解説は、私にとってセット扱いのフォルダーに収まっている記憶ファイル群なのである。
 『誰かに、何かに流される』という光景を目の当たりにした時、『流されない』条件って何だろうなと考えると、この一連の思考フローが蘇ってくるのだ。

 まあ面倒くさいコト抜きに見やすくて良い映画です。オススメしつつグッドラック!
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【1129】パーフェクト均等資格者の総当たり闘技場 [ビジネス]

 さて前回からカジノの話を続けてみるとしよう。
 まず国譲りズブズブの底無し借金体質が、更にどうしようもない暗黒星雲のサルガッソーレベルまで悪化していた大阪府市財政において、寿命終焉の超新星大爆発一直線という感じで、誰もその清算をまともに考えられなくなったまま日本円だけ撒き散らされて債務が積み上がり続けていた。

 これを清算する手段として『カジノ』つまり賭博場が起案され、まあバクチ打ちを正面切ってそれと認識しつつ政策として推進するのってイマイチ気が退ける…ってことで、『IR=インテグレーテッド・リゾート』と呼び変えて検討が進んでるワケだよな。
 一部和訳して『統合型リゾート』ってことだけど、いくつナニと抱き合わせようと、どうせ本命の目的機能はカジノなんだし、こういうバカみたいな自意識のフヌケ腰抜け取り繕いの悪習慣は早く卒業すべきと思うのは私だけだろうか。無駄だよ。

 おっと今はそんなくだらない議論をするつもりは無かった、今回は『カジノ』ひいては他の公認賭博まで含めて、こういうカネ流通に良い悪いの判別を下そうとする脳足りんが後を絶たないのだが、そんな余地が本当にあるかどうか考察してみたい。

 結論から先に行くと、成人社会人がおのれの資産を拠出するぶんには、どんな目的であろうと他の誰からも文句をつけられる筋合いなどない。その善悪に口出ししようとする概念がそもそも的外れであり、強いて言えば迷惑である。
 百均ショップで一生モノの愛用品を買うのも自由なら、カジノで百億円の勝負に出て全額スッちまうのも自由だ。そして個人所有の資産を拠出して自由にナニかやったとして、その後の社会的な顛末の維持管理には、やはり当人が個人完結で収めるべき責任が発生する。以上誰も知ったことではない、これが基本的人権の原則というものだろう。

 賭け事の現場においてカネは『人にとって掛け替えのない思い入れ価値』ではなくなっており、『偶然に預けて一定の確率で増減するだけの数値情報』になり切っている。
 さあさ倍率100倍だよ、アンタはおいくら張り込むんだ?それとも降りるのか?
 当該現場でカネ移動にまつわる事情は、これが全てだ。それがルールなのだから。

 だからこそ自分にナニができるとも思えないその日暮らしの小市民も、稼ぎまくってたんまり持っていながらなお稼ぎ続けるウルトラ富裕層も、完全なイコール・コンディションで勝率を均等に分けており、運さえ向けば一攫千金。その確率は一生かかって巡り合わせないほどの超絶レア数値ながら、間違いなくゼロではない。あいつにもこいつにも『大当たりが現実になり得る』という保証があるのだ。
 恐らくはこれが賭博の娯楽性の本質ではないかと思っている。
 人間がまず社会組織を成し、そこで流通する『カネという物体』を価値だと認めるから、その『カネという物体』を能力相応の分配から切り離して、賭博というカタチで偶然に任せることができる。均一条件下の価値の偶然の行方、皆ここに興味があるのだ。

 例によってちょっと横道にそれておくと、カネなんぞの概念を持たない動物たちの生活集団においては、能力主義でチカラ関係が決まり、価値の分配が決まり、みんな納得して各自相応の立ち位置に収まっている。
 人間は『カネ』なる文明価値の流通システムを発明し、それは紙幣・貨幣など手作業取扱いの耐久性・利便性をしっかり持たせた物体に、有価物との等価交換を約束共有したものだったはずだ。だが程なくこのカネを利用して、価値の得失を偶然に預ける『賭博』という文化をも開発した。
 そのココロは『何にもとらわれず無条件にいい目を見たい』とする、究極に原始的な衝動だと私は思っている。全生物の全個体には『いい目を見て寿命を過ごしたい』という本能原動力のシステムファイルが備わっているのだろう。

 カネ経済の文明発達は、たまたまの二次的に『個々人の能力差をノーカウントにできる時空間』の発明としても効いたのである。これにより人間関係において『価値=いい目を見れる因果』を個人ひも付けで帰属させず、むしろせっかくの能力で作り出した価値をいったん無機質なカネ物体に変換して偶然に預けて、お互いに『いい目を見れるかも知れないという夢を楽しむ』射幸性の社交空間が転がり出ることになった。

 だから『賭博』という人類文化に対して、思い入れ価値相応の正当性・不当性を語る善悪の議論で組み付いても意味は無いし、結論も出ない。そして賭博への参画は、経済空間を生きる個人が自己判断でやれてしまう行動だし、本人の拠出だけで自己完結もするため、他人の人権侵害を問われる行きがかりにもならないから、せいぜい『好き嫌い』の議論までで論理数学的にはオシマイである。裏返せば、賭博好きが複数人数いたら、横から制止する筋合もなければ制止したところで無力なのだ。

 さて話題を本筋に戻していくのだが、かくして恐らくは『本能』いわゆる深層心理の原理レベルに訴えかけるほどの娯楽性があるため、カネ経済を基軸に動いている現代生活での人並な資産運用がついつい二の次になってしまい、身を持ち崩すヤツが確かにそれなりの確率で発生してしまう。
 だが、これをもって『人にとって掛け替えのない思い入れ価値』が社会的に損害を受けた、社会的損失が発生したという判断は、個人の誰にもできないというところが大事なポイントである。だからこそ宗教など一定の世界観を根拠とする理論構築に沿って、賭博を禁止したりもする訳だ。わざわざ調べたことないけど、賭博行為を禁じている宗教って結構あるんじゃないですかね。

 ここで再びプチ横道だが、確かイスラム教は『借金』を禁じていたと記憶している。
 もちろん融資や分割払いを直球の四角四面に禁じると現代経済圏と折り合えず孤立してしまうため、宗教観に逆らわずそれらを実地運用する理屈は工夫されているのだそうだが、金欲都合ありきのだらしない拡大解釈によるカネ価値運用の失敗に対しては、それなりに実効力のある抵抗感として働いていたりしないかなあ。

 以前にも述べたと思うが、濡れ手に粟で大金を稼いで得意になって大勝負に出たものの、負けが込んでしまい結局スッテンテン。いったん負け始めたら取り返せる確率にすがる気持ちが抑えられなくなるという実体験を通して、その後は損切りのセンを固く守ってイイ頃合いで手を引くようになり、それが功を奏して最終的には大富豪になったとか、あるいは自分は賭博に向いていないと深く自認して二度と賭博に寄り付かなくなったとか、そっちの建設的な展開もあるはずなのだ。
 ちょっと美し過ぎる想定であることは認めるが、これはこれで無機質な『採算を合わすカネ価値』としての資産が、賭博を通して『本人にとって掛け替えのない思い入れの人生価値』に昇華する効用の一例と考えられるのではないだろうか。
 御主人がパチンコで一日10万円負けたのを奥さんに見つかって離婚届を突き付けられつつこっぴどく叱られ、それ以降は現金1万円以上持たせてもらえなくなったけど、ああアレがなかったらこの幸せな家庭は破滅してたかもねえ…なんていう笑い話は結構そこらにありそうに思うのだが。

 悪だくみして、狙って当てて、してやったりでほくそ笑むのを至上の喜びとする私は、相変わらず大の賭博嫌いなのだが、以上の通り人間には賭博を面白がるシステムファイルが備わっていると考えており、賭博にまつわる周辺事情まで含めた派手で賑やかな社会現象については興味津々だし大好きである。

 何より賭博で動くカネ流通には、関係各位に当人なりの完璧な納得が保証される。
 『法律でそうなっているから』『合法だから』という日本語文章だけを根拠に、国会議員が毎月100万円を使途未公開で使い捨てるカネ流れなんかより、よっぽど1億2千万人の理解と支持で総力的に維持発展させられそうな潜在的経済パワーの期待値は高い。

 極論すれば2025年大阪万博は、カジノ実現の起点として機能すれば十分である。
 カネという人類文明は、ヒトの知能で作動原理に忠実に制御しよう。それが目的だ。
 理想を描き、考えて実行して、その成果だから価値がある。理解して、御幸運を!
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【1128】考える葦の足場マイルストーン [ビジネス]

 世を律する道理の巡り合わせには到底あり得ず、ほんの一瞬の偶然として過ぎ去った昭和夢物語は、当然のこととして今の若者世代の心に面影すら無い。では昭和世代に欠落している、その『夢物語でない道理に則った勝率』の直感・実感とはどんなものなのか?分析・考察するための具体例は無いのだろうか?
 今やっているNHK朝ドラ『舞い上がれ!』においては、創業者一家やベテラン従業員たちにとっての『自分が生きている意味』としての株式会社IWAKURAの価値と、日本社会の経済産業面にとっての『採算成立性=数値バランス充足』としての同社の価値の対比が見えやすく描かれていて面白い。

 柏木くんとの破局を報告する舞ちゃんのセリフは、重箱のスミ的厳密には『目指すもんが違ってしもた』ではなく『ちごてしもた』が正しいな…と今回もしつこく挟み込んで、そんなのはまあいいや。
 当座の会社のカネ採算成立のために、生産性パフォーマンスを秘めているはずの従業員を解雇して人件費を削減し、どうにか倒産を免れるというケースは実際少なくない。だが日本社会では被雇用者の法的保護が手厚く、つまりこういうケースにおいては、会社側の採算都合で一方的に解雇を決めるのが世界的に見て難しいと言われる。だからって不採算を不採算のまま処置しないことも叶わないワケで、どこかに何らかの現実解を断じて処置するしかない。

 この通りフトコロ事情がきつくなったらマイナス代ぶん限界を割り込んで『身を切る経営判断』を下すしかないのである。とりあえず破綻せずに生き延びることができたなら、残った体力でその先の自己延命と採算性の好転を目指すことになる。廃業する気が無いなら、何か現時点より収益性を向上させねばならない。
 『危ない時もあったが、コレコレで持ち直して乗り切った』という事業沿革の逸話はどこにでもあるものだ。

 その『どこにでもあるもの』が、日本社会を成す日本経済には冗談みたいに無い。
 最初は借金での埋め合わせに始まったが、日本の国家財務の借金はヒト対ヒトの直面で『ピンチなので助ける・助けられる』の要・決着の負担感を、ヒトの心に発生させる仕組みを持たなかった。故に財政関係者全員も全員が、揃いも揃って『踏み倒し確信犯の融資詐欺』を組織的にやってしまうことになったのである。
 同時に清算できないヤバい埋め方を目の当たりにして『こんな嘘っぱちの穴埋めでどうやって採算性稼働を取り戻すのか』を、これまた1億2千万人全員が他人事にして、ニッポン金融犯罪無法地帯を国民総ぐるみで見過ごすという異常事態に陥った。
 真面目に汗を流して働いて返済する心づもりを失くした日本国組織は、中央銀行で印刷機を回して日本円を好きなだけ刷り足して返済に充てる手段を容認し、生産事業の建て直しをたださぼって日本円の増刷・重刷ばかりを繰り返すようになったのである。無能クロちゃんが何度も口走った『異次元緩和』というやつだ。

 ちょっと横道になるが、こうして国内の生産の現場がしおれている状態こそ『景気が悪い』『不況』と呼ばれる状態であり、言ってしまえば物価や為替レートやGDPがどうたらとは無関係である。『物価や為替レートやGDPが不況で示す傾向』はある。OK?

 産業活性化の光が見えない不況下で日本円を無限にばら撒くと、給料を出して従業員を雇用している諸企業は『収益が上がっているうちに徹底的に貯蓄する』方針を固めざるを得ない。産業停滞の不況が続くからには将来の収益悪化が確実と予見され、その一方で従業員の解雇が難しいから人件費は延々と支出され続ける。倒産のリスクに急迫されたくなかったら、蓄えておくのが経営志向というものだろう。
 ひところ無責任な烏合マスコミの乞食ひな壇が『内輪の抱え込みだ!』とさも財政協力拒否の背徳行為であるかのように吹聴し、雇用・被雇用の双方一同が納得して甘んじるのも尻目に、役人ウケをチラチラ窺いながら聞こえよがしに非難していた『企業の内部留保』というのがコレである。

 数字のカウントの仕方や計算の仕方にもよるのだが、日本国財務の負債額が加速度的に積み上がり、そのカーブを見るだけで返済意思の放棄があからさまになってくるのは、実は21世紀に入ってからのことだ。
 ああ~こんなもん、もう返せない。もうダメ、あとは知~らないっと。いい大人が。
 一方ちょうどこの前後に、日本社会で正常な採算性回復を実現し『組織の自我がその気になれば債務依存症から離脱できる』と実証した事例がふたつだけ存在する。

 ひとつが某・舶来社長さんの『リバイバルプラン実行によるV字回復』だ。
 いま思えば烏合マスコミの乞食どもは『この人こそ日本国の次期財務大臣に!』みたいなことを、あっちこっちでぺろんぺろんやってたんだよな。この程度にでも政権批判できてた時代が懐かしいよ。
 あのV字回復の記憶を日本社会が思い出して真剣になると現政権…というか代々偉いつもりでふんぞり返って済んでいる国務ポスト全域の立場が危うくなると思ったのだろう、イチ民間企業に到底理解し難い財務処理の因縁をつけて、経営仕事の真っ最中だったかのヒトをある日いきなり逮捕し、兼ねてから国際的に悪名高い『人質司法』で見せしめともいうべき異例の長期拘束をもって拉致監禁した。お隣の半島といい勝負だ。

 恐らく囚われの御本人は日本社会の特性をよく理解していたと思われ、元は事業沿革に宿る思い入れ由来の絶対的価値が強みだった日本経済だが、それが裏目に出て、近代経済がドライに設定した採算ルールと今もって折り合い切れていないだけだと割り切っていたのだろう。だから日本文化を恨まず嫌わずで静穏に応じた一方、脅しや嫌がらせの類には一切応じずで、自らの身柄を預けて事態が硬直していたのだと思う。

 黄色いサルはそんな文明的で理知的な思考を理解できず調子に乗るばかり、放っておくと法治制度も何もあったものではなく、世界が顔をしかめる醜いサル山リンチを強行していたことと思われる。サル山帝国の強制統治体制を誇示する吠え声がうるさいだけだったろうことは間違いない。
 だが多くの日本人が『このヒトをサル山から救出して人間の世にお返ししないとバチが当たる』と理解していたはずで、心ある日本人たちのチームワークにより無事に御帰宅いただいたのは、以前にここでも解説した通りである。
 あれは日本国の正気と良心であったと共に、世界人類の一国一員として、国際社会への社会人意識が確認できた一件であった【813】

 ともあれ的確な統治で、辛く厳しい禁断症状を誤魔化さず受け止めて解決する覚悟を決め、依存症から抜け出す腹が括れれば、日本の社会組織はV字回復できるのだ。
 この頃サル山で誰かの吐き捨てたエサを頬張りボス猿のケツの穴を舐めて暮らす経済学者や何たらエコノミストみたいなのが『彼にできたのはコストカットだけだった』という言い回しを大好きだったのだが、現代人類文明のカネ流通経済においては、そのコストカットでまず採算を合わせないと生き残れないことを理解しておこう。

 公開リンチまで誰とも面会させず痛めつけるだけの拘束で悦に入っていたつもりの黄色いサルだが、いともあっさり虚構の網が破れてしまい、その支配力に大穴が開いているのを隠そうとでも思ったのか、やたら手の込んだスパイ組織の大作戦に『してやられたテイ』の演出に執心して笑いを誘ったのが記憶に新しい。もうすっかりサル山政権のゲロ舐めクソ舐めに商売替えした烏合マスコミどもが『GONEがナンタラ』だとか、手のひらを反して調子を合わせたものである。
 この『GONEがナンタラ』を軽々しくやったヤツ、やった局、やった紙の一切合切、私はガチでその時その瞬間から二度と見聞きしていない。
 まだ真実を伝えるだの、自分らは言論のプロだの言ってたら呆れるな、知らんけど。

 採算性回復ふたつめの実証事例が、次の選挙が近くなる前の今のうちにしっかり解説しておきたい橋下大阪府市政改革である。後に続く今日までの大阪維新政権も、この基本行政マインドを崩さず維持できていると思う。
 それまで無意味な府市競争意識を理由に、グダグダ日本国政に輪をかけた『異次元緩和府市財政』を慢性化させ、奇妙すぎる公務員優遇制度といい【360】ムダなハコモノ乱造といい【704】もう誰にも止められない惨憺たる状態だったのだが、これに明確な折り目がついて、少なくとも制御不能の放蕩財務からは体質改善した感じである。
 日本社会の根深い異種価値混同の依存症がまず地盤にあって、これが『理屈より馴れ合い』の大阪気質で底抜けに悪化し、ここに年功序列・永久身分保障という前時代的な公務員特権がつけ込んで、これに群がる寄生虫ともども手が付けられなくなっていた惨状に【1022】、橋下さんが最初単独で斬り込んでここまでに漕ぎ着けた。

 これも当初は旧・大阪府市政サル山にひれ伏す烏合マスコミの、なりふり構わずの嫌がらせで集中砲火を浴びていたものだが、これを正攻法の言論で全弾跳ね返したところが橋下さんの凄いところだと思う。
 普通どんなに優れた人間でも高負荷、特に馬鹿馬鹿しく幼稚で理不尽な妨害工作や嫌がらせが続くと疲労が嵩み『電池切れ』で思考判断や言論の質が落ちてくるのだけれど、そんな情報処理容量の危なっかしさが一度も見えなかったのは驚異的である。冗談抜きに、あんなヒト初めて見たよ。
 その後も決してさっぱりと心を入れ換えた大阪府市でもなさそうなんだが、なかなかどうして大阪維新の会も足場の固めを緩めず、地道に真面目によく頑張っている。
 日本史を荒らす黄色いサルが2025年大阪万博も『莫大な浪費の末の失敗』に終わった構図を仕込んで誇張して、『ほおら結局は万博も、大阪維新もみんなおんなじ』と喧伝しサル山滅亡の道連れにしたがるんだろうが、浮足立たずの臨機応変で未来をよく狙って建設的な現実解を固めて欲しい。妙案ひらめいたら、その都度公開で協力しよう。

 おっと変な切れ方だが今回はここまで。日本社会は重篤な依存症を患っているが、決して不治の病ではない。
 まず『人にとって掛け替えのない思い入れ価値』と『採算を合わすカネ価値』との経済的・社会的な交通整理をし、カネ価値については、数値の流動と足し引きだけで確実に片付く『カジノ』という現実解がある。

 昨日今日は昔でいう共通一次の日だったんだっけ。まあ結果は寝て待て、御幸運を!
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【1127】過大な記録域の重要な不要ファイル [ビジネス]

 株式会社IWAKURAの行く末を案じながら、まずは大阪弁講座のツッコミから。
 『おばちゃん大丈夫?』のクルミちゃんに『忙しくしてるけど…』と答える舞ちゃん。

 ネイティブ大阪弁の実際では『忙しいしてるけど』あるいは『忙ししてるけど』が一般的で、以前指摘した『行かんくて』『行かなくて』の音便にも多少通じるが、ここに『く』は割り込まない。
 『忙しして』の『し』の連続発音なんかは、標準語体系ではビミョーに不自然とも扱われる可能性を感じてしまうが、特に方言にはこういう『非合理的発音を、非合理と感じつつもしっかり発音する』ケースが案外と少なくない気がする。御当地の勝手都合でお気楽フィーリング優先になりがちなのは方言の基本特性なのだが、反面それが高難度マニアック滑舌の慣習となって落ち着いていることもしばしばで、つまりは『合理性基準』ではなく『現地の言い習わしの掟が上位』ということだ。言語って面白い。

 まず『何がやりやすいか=自然にジブンに起こりやすいか』、実行動としてそうしといて『動機=行為の起動に対して、完結感=ちゃんと決着して気が落ち着くのか』、つまりジブンとしてファイナライズ処理が完了してコトが収まるのか。極限の素朴には、この行動選択のパターンとして、生物学的な場当たり反射の原理原則があるはずだ。
 一方その簡素で明快な原理原則をただの杓子定規に適用した体験の遭遇事例が次々繰り返され、それらは『実績の記憶』となって蓄積される。出会い頭に考える間もなく反応しちまった経験が吉と出たり凶と出たりして、例えば脳というストレージ機能にデータストックされ、適宜の呼び出しと活用を待つ流れになる。

 ここでその生物には『場当たり反射のやりやすいラクにしとくvs記憶に残る成功の実績によく馴染む方にする』のいずれかを採択して行動を決定する、二択課題が発生することになる。
 この二択設問に下す判定の傾向が『意識』の正体なのではないかと私は思う。

 脳というのはただのストレージでしかなくて、何だか神秘的に奥深い謎のヒューマン情報処理をやっているのではなく、ただのハードディスクに過ぎないのではないかと思うのだ。人間や家族相当のペット動物たちは、ここに膨大な記憶データのファイルを取り置ける容量を備えているから、生物学的な反射の原理原則に必ずしも直結しない、記憶に基づく相手個別の対応=付き合ってわかりやすい『意識』の存在が目立つのではないだろうか。
 以前に述べた、主に生物学的反射のみで振舞う普通のカマキリがいたとして、そいつにUSB接続で記憶容量を足してやると、感情表出に一定の記憶由来の傾向が見えてきて性格が顕れてくる…みたいな話はコレである【938】

 『喰うヤツ vs 喰わないヤツ』の両方が偶発するなら『喰うヤツ』の方が生き残るから、皆とりあえず生きてたら何でも口に入れて喰おうとする。甘いものは糖分なのでエネルギー源だが、辛いものは刺激物だし、苦いものは毒だし、酸っぱいものは微生物による分解済の残存…だったっけ。
 脳の記憶容量の無いヤツはこの摂食判定の大原則のみに従って、甘味OKだけを選択していく一方、脳の記憶容量がいっぱいあるヤツは『辛いが身体があったまった』とか『苦いが頭が冴えた』とか『酸っぱいが腹の調子が良くなった』とか、いろいろ大原則に乗っからない例外の新規メリットを開拓しては記憶に残し、この記録ファイルの情報ライブラリーを根拠に食の選択肢を拡げることができる。そのぶん原始的な種族よりも生存確率が上がり、現実をただの原理原則で判定するだけに留まらず、偶然から独自に読み出した情報をも新たな定理として、原理原則と自前定理を併せた総合選択を介して判定しながら種を繋いでいく。
 最初は各個体が各々現実に遭遇してはその個体毎に記憶が残るだけだが、同種同士が同じ生活形態で通信し共鳴し、一定の行動パターンが共有され、それが種の特徴にまで拡大されて世代を跨ぎ、遂にDNAに反映され血縁伝承されるようになるのだろう。

 ここで今回の本題からはちょっと横道にそれるのだが、より多くの記録ファイルを検討材料に並べ、より多くの過去判定結果の実績を記憶できているヤツに生存のチャンスが増えそうなのは間違いないとして、そうしないと生存のチャンスが枯渇して種が滅びるかというと全然そんなことはなさそうだ、というところに気付いておきたい。別に脳を発達させることが生物としての至高の最適解ではないのだ。
 だって人間なんか煮たり焼いたり散々に手を尽くしてグルメ放題をやっているワケだが、そんなことせず手当たり次第に口に入れられる物を喰い続けて生きている他の種族たちのほうが圧倒的多数で地球上に栄えているではないの。小うるさい脳が、余計な選り好みをせず大らかに受け入れる方が強いんじゃないかなあ。

 まあいいや、『意識』とは主に『本能的反射』と『記憶』の二大アイテムで構成されているのではないか、というハナシに戻ろう。
 例えば昭和世代の日本人は、対人印象の原理原則として『コイツって実力の伴わない無能だなあ』『コイツって信用に値しないペテン師だなあ』と本能的に正確に感知しているのに、いざ『いろいろある社会』に身を預けたところ、理に逆行するおかしな現実がのさばっているにも関わらず、自分の手の届かない得体の知れない事情により『意外にもどこかでちゃんと生産性機能が発揮されて儲けが出て、何とか暮らせてしまうものだ』という実績記憶を積んでしまっているのではないかと思うのだ。お陰で素朴な本能がどんなにSOSを訴えても、本気になれない日和見組織人ばかりになってしまった。
 脳が発達し過ぎると、記憶情報の影響代が本能的反射に対して大きくなり過ぎる。人間は、殊に極東の豊かな島に恵まれた日本人は、たまたま敗戦からの商工業ゼロ起動および急成長時代において、貪欲な欧米消費市場を相手に好き放題に過ごすことができたため、そのヌルい記憶情報が深く強烈に刻み込まれ過ぎたのではないだろうか。

 目前の幸運を貪ることに夢中になり、その幸運に呆けて自己管理・自己制御が破綻しても、我が事として真剣に問題意識をもって取り組めない。この生物としての致命的な緊張感の喪失が、実は無駄に発達し過ぎた脳の、行き過ぎた記憶機能によるものだとすると…だ。
 こういう情報的にシンプルでない面倒くさい壊れ方って、もしかして薬物依存などによる脳神経疾患の特徴に似ていたりはしないだろうか。

 つまり一大組織生命体として見た時の日本国組織は、一旦ケンカで負けて敗戦として這いつくばり、そこから実際は他力の助けに大いに引張られたものだったのに、自力での復活と勘違いして『自前の底力に自惚れる射幸感』に浸ってしまい抜け出せなくなった。元が千変万化の自然豊かな日本列島で、奪い合い滅ぼし合いもせずに身を寄せ合って血統を繋いできた人種だからこそ、その歴史の記憶と自覚が裏目に出て、なおさら自分らの組織力の凄さに夢中になった。
 組織原理を無視したテキトー不正な前人類式・非文明式の国家運営をやり散らかして、その『なりゆき成果としての平和』に安泰する射幸感に浸り続け、逆にそれを失うことが認められなくなり、つまりは依存症に陥った。
 まだ大丈夫、まだ助かる、まだちょっとぐらいなら許容範囲、いやいや急に現行方針を変えるとショックが大き過ぎて混乱するといけない…みたいな。時々引き合いに出される『現状維持バイアス』という定番ワードも、つまりは生物としての本能的反射を上回るほどの過剰な記憶機能の『脳内成功例への執着』と考えられるのではないだろうか。

 ここまで理解して、昭和時代の日本社会では『あまりに不自然な上級者向け(?)コミュニケーション形態』が横行していたのだが、その特殊性の決定的要因として効いていた『無難な集団イノチ、平穏な組織イノチ』の戦後の具体例の体感記憶がもはや消えつつある…と言いたいのだ。
 生物の本能領域、DNA伝承ゾーンのシステムファイルとして、昭和世代の過半数には『無難に群れていれば、どんなインチキやデタラメやサル山独裁を押し通しても破綻しない。みんなに愛想を尽かされ路頭に迷う自分たちの姿はイメージしない、イメージできない』と書き込まれ、ロックがかかっているのだと思う。
 だが今世紀以降に生まれた『昭和破綻ネイティブ』にそんなものは最初から無い。

 依存症と言えば、ベタだがまず連想するのは麻薬中毒、目の下にクマ作った廃人ちゃんが『ねえ、クスリちょうだい、クスリ…』と迫ってくるアレだろう。だが私自身ステロイド依存症を実体験して、そんな魂を抜かれるような切迫したクスリ摂取欲みたいなものは全く感じなかった。
 そうじゃなくて、クスリをやめた途端に異次元苦痛の無限ループが大爆発、だがクスリさえあれば快適とは言わないまでもどうにか平穏に収まる。『抜ければ地獄、浸れば平穏』、これが薬物依存の正体なのかも知れない。『意識の組織性』もまた然りだ。

 過去あったものを無条件にやたらめったら『守る』と言いたがる個体は、先行きいくらも寿命が持たない記憶依存症ではないかと疑って行こう。
 守るべき遺物なんぞ生まれてこのかた見たこともない子供たち若者たち、あなたがたは過去への執着に取り合う必要などない。
 依存症に気を付けて安泰しない次の成功を目指せ。それが成人社会人だ、御幸運を!
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【1126】クイズ世代別意識に聞きました、過去の栄光の記憶? [ビジネス]

 あらら胃潰瘍で倒れた頃からビミョーにアブナい雰囲気が漂っていたのだが、ここで大口失注の大ピンチをクリアせずに特命係長が急逝ですかー!
 ストーリー展開としてしょうがないんだけど、私にとって国内の俳優さんで『カッコいい二枚目の男前』といえばいの一番にこのヒトだったので、登場頻度が激減しそうなのは残念である。デビュー当初そのあまりの童顔に『この娘トシとったらどうするんだ?』と心配した永作りぼん嬢だが、想定外に下町の可愛いママさんがズバリ適役でびっくり、夫婦の掛け合いも自然でいい感じだったのに。まあ黙って先を見守りますか。

 そうそうプチ大阪弁講座をまたひとつ、五島のお祖母ちゃんが足を傷めた電話連絡を受けた時の永作ママに『舞がいてくれたら』という台詞があった。
 例によってネイティブ大阪人は、言わなくはないが『舞がおってくれたら』の言い回しが圧倒的高頻度である。誰々がどこそこに『いる』は、全て『おる』に言い換えて間違いないくらいではないかなあ。

 日本社会の量産製造業、殊に中小規模の要素部品メーカーは、キホン戦後の焼け野原に芽を出して成長してきているから、その事業沿革に関わった関係者全員にとって一切の理屈を抜きにして『絶対なくせない、何を引き換えても手放せない、自分の人生の成果そのもの』の価値になってるんだよな。
 この視点において、いくらロジカルに整然でも『他人に明け渡して商売繁盛』が正解でないのは論外の自明とされ、極論すれば『気心知れた仲間一同で破綻するまで突張り通して玉砕』で業界に語り継がれる方が納得のいく決着だとする時空さえ成立する。
 分岐点で勝率の高い方を算出しながら思考フローをなぞって結論が決まるのではない。人ひとりナットクするvsしないの精神状態の収まり方が決定的要因、当事者と傍観者で思考フローを司る精神構造が根本的に異なるのだ。

 もっとも、ならば浪花節の感情論なのかというと決してそうではない。
 特命係長も洩らしていた、料理人=自職場に適応進化した労働力としての人材なんかは、確かにそこを支える石垣の石のように固有の形状で各々噛み合って存在しており、一度バラすと元通りの再現は不可能である。『一番すぐ暖まりやすいのは3号機』だとか、『初めての際どい形状だが5号機で50発なら打てる』だとか、世間一般で価値カウントされないが自職場ならではの生産性発揮に関わる知見など、どこの作業場にも無数にあって効いているからだ。教えて習って情報通信で伝授はできない。

 だが悠人お兄ちゃんの言っていたことも本当で、経営に行き詰まった会社は潰れるしかない。端的に赤字決算が一定期間続いて営利事業としての成立条件を割り込むと、本人たちのやる気とは無関係に『倒産』である。ここに、詰まるところ事業成立の成否は『カネ』という数値基準のみを根拠として判定される…というところがポイントだ。
 どんなに思いの詰まった良い会社、大事な会社=そこに関わる人たちの成す組織において何物にも代えがたい有価事物であっても、どうにでも変動する、たかがカネ=価値流通媒体の収支が一定条件を満足できなければ、問答無用で日本社会において経済活動として継続することはできない。

 だから、どうしても倒産させられない人たちが、社会一般の査定基準を割り込むような苦しい経営状態に陥りながら、尚も当座の運転資金とするためのカネの借り先を、違法な金利ででも探したりするワケだ。ただ。
 その『どうしても倒産させられない人』がどんどんいなくなっているのではないか。

 端的に日本社会は、体力に溢れ柔軟性にも優れた就業若年層が、『赤貧から苦心を重ねて成果を積み上げた結果としての事業沿革』を知らない世代にすっかり置き換わっていることを認識すべきだと思う。
 つまり若い人たちにとっては、事業単位といわず日本社会全体が『現状自分の文化的生活に役立つかどうか』という切実ドライなロジカル判定の対象になっている。ちょっと前に破局の理由でよく聞いた『価値観の違い』、まさにアレではないのか。
 どお~も年長世代がそこを『自分の外側』と割り切れていなくて、遥か以前に若い人たちが心中に動機から湧かず、乗って来なくなっている『年長精神世界』からグズグズ踏み出せないでいるのではないかと見受ける。そんな世界の果てが自然形成されていて、年長組は抜け出そうと思いつく段階から叶わず、思い思いの古式価値観の同好会サークルとして孤立し閉塞しながら、順次死滅して数を減らしているように見える。

 Z世代から今やその次のアルファ世代に移行しつつある就業若年層は『ちゃんとやってる事業』『ちゃんとやれてる企業』を求めているのであり、カネが他よりいっぱい手に入るとか、ラクやトクに優先的にあやかれるだとか、そんな非社会的で原始的な自己保存欲への泥臭い執着というか執念みたいなものは、もう昭和世代からすれば本能欠落とさえ感じられるほどの勢いで希薄になっている。
 明け透けな表現を使うなら『自分がいい目を見れること』を、それ単独で味わって嬉しがる貧相なメンタリティを、時代の移行として抜け出している気がする。

 反面、意識して気にかけている人間関係に対しては細やかに気を遣う傾向が強く、こちらとしては大して気にも留めていなかった些細な行き違いや会話応酬の末端について、後からでも一生懸命に連絡をつけて説明してくれることもしばしばだ。
 これ私個人的には決して困った傾向とは思っておらず、過剰に人間関係の平穏を取り繕おうとするが故のことでは決してなくて、無駄な水面下の思惑マップに想像力を張り巡らすような会話を避けたい気持ちの素直な表れだと捉えている。彼等が丁寧に気をまわしてメンテしてくれる焦点が、理解に苦しむ的外れだったことは一度も無い。

 私自身はあなたが普段から見聞きするまんまの人間だ、粗野で下品で鈍感で横暴な性格だが、あなたが悪いことを悪いと知っての邪心の言動でもなければ絶対に嫌ったりしないから、今もこれからも気を遣わなくて結構。気が向いた時に思うままの解説をくれれば必ず味方に立って理解するから、何か思い立ったら思うままに持ち掛けてくれ…と回答すれば解決する。

 職位や年恰好の立場なんかを勝手なパワーアイテムに読み替えて、会話の端々にイヤミや悪口の当て擦りをわざとらしく挟み込むとか、陰気でモテない欲求不満の指摘屋が今風うんたらハラスメント・なんたらコンプライアンスを大義名分にして騒ぐから、ここはコトを荒立てずなびいておくのが利巧じゃないかとか、こういう裏含みの濁ったコミュニケーションを『当たり前の常識』と受け流せる時代は遥か昔に過ぎ去っている。
 陰険な不純物に気付いてもスルーしておくのがお約束で、そんなボロい人間関係を滑り込ませて、カタチだけでも仲良くお付き合いしてもらえると思うその精神構造は、コトバを交わす前の会話の背景として、もう若年層を遠ざけているのだ。もちろん派閥の概念なんぞとんでもない。

 こう書くとひと昔前の日本社会が、いかにも洗練されていない荒んだコジキ文化のようにも映ってしまうのだが、実はこのゾーンで、人間の集団についつい発生しがちな不平等感や嫉妬心などの不満要素を、深刻な組織全体の生産性トラブルとして顕在化させずに吸収できていたと私は考えている。あるのはみんな知ってる、でも問題視しない。
 けど、何がどう良かろうが悪かろうが、それ今の時代には通用しないんだよ。

 日本社会の稼働モードは、ちょうど今見ているあたりで完全に世代間格差ならぬ世代間メンタル差により、いったん不連続に途切れるのではないかなあ。
 そこからどうなるか私にも判らないが、いざそんな時には、未来の主力に立つ若者たちに腹を割って会話してもらえる年長でいたいものだ。
 今年もよろしくお願い致しますよ、子供たち若者たち。明るい未来にグッドラック!
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【1125】思考変動による立往生SOSのUターン大渋滞 [ビジネス]

 さて正月三が日も過ぎて年明けのNHK朝ドラも始まった。悠人お兄ちゃんの斬り込みがなかなか切れ味鋭くて、ますます楽しみである。

 この年末年始に始まったことでもなく、ここ数年で一気に顕著になってきたと思うのだが、高速道路の交通事故の質がひと昔前と違ってきているのではないか。
 かつて私は高速道路をかなり頻繁に利用するタイプ、しかも一回あたりに結構な距離を乗るタイプだったのだが、今は正直まったく乗らなくなった。新規のSA・PA探索は元より、走り慣れた区間だと定番のピットストップで食事したりお土産買っていったりの、お気に入り休憩地点が幾つもあったのに。
 私自身の暮らし向きの変化によるところもあるけれど、それにしても『自家用車で高速道路vs新幹線含む公共交通の乗継ぎ』を条件トントンで二択できるなら、今の私は迷わず公共交通の方を選ぶ。とにかく高速道路が怖すぎて、正直やむ無しでもないのなら乗りたくない。乗ってる人には申し訳ないけれど。

 まず『追越車線上に停車しているヤツがいる可能性』という普通あり得ない危険に、この普通でないペースで怯えながら走るとなると、とても何時間レベルで集中力が持続しない。こっちからは危険回避のしようもなく、遭遇して回避操作の成否に賭けるとこから先はどうしようもないのだが、何故そこで止まる?止まろうと思う?
 高速道路と言わず路上で走れなくなるトラブルに遭遇したら、まず車速ゼロにならないうちにあらゆる手を尽くして路肩に逃げ出さないとほぼ確実に追突される。前方は乗って座って普通に見えてるからいいんだ、問題は後方であり、さっきまで自分が走っていた速度で背後からナニに突込まれるか直感で恐怖に縮み上がる、これが路上走行体の本能ともいうべき危機意識だろう。

 …ってのは昭和人種の視野狭窄的ただの思い込みであり、そもそも運転免許の保有が当たり前でもない平成世代には、そんな感覚はあって当然の本能でなくなってるのかも知れない。良い悪いはともかく今やそっちがスタンダード、いやスタンダードだからって了解して受け流せるハナシではなく、そのぶん事故が当たり前ペースで多発して、絡めばジブンがただでは済まないんだけどさ。

 では、ちゃんと路肩なり路側帯なりに脱出して停まればどんだけ安全なのか?
 昨今メチャクチャ怖いなと思うのは、故障やタイヤのパンクなどで緊急停止するにしても、ちゃんと左ぺたに十分寄せて走行車線外に退避していたと思われる車輌にも後ろから突込むパターンの事故が、珍しくないレベルで盛んに報じられることだ。
 こうなると高速道路上を周囲並の速度で走行し続けられないトラブルに見舞われた場合、逃げ場はガードレールの外にしか無い。高架だとそんなスペースの無い所も多い。昔から路肩や路側帯に退避しても追突される危険はあるから降りて離れていろとはされていたが【803】、今どきこれがガチの絶体絶命に格上げされ迫っている感じである。ドラレコ撮影とSNS公開が普及しただけの因果の認知件数増とはとても思えない。

 実は私がまだ高速道路のヘビーユーザーだった時代から、イヤでイヤでしょうがなかった社会現象の記憶があるので、そこから語っておこう。
 渋滞にハマると、後ろの車の運転者が例外なく携帯電話をいじり出すのだ。

 『ながら携帯』の事故が多発して交通違反の取り締まり対象になったのはいつだっけ、あれが施行されて、運転中に携帯通話しているのを見つかると違反切符を切られるようになった。だがそうなった後も、高速道路上で伸び始めた渋滞の列の中となると、即座にそこを検知して瞬時に取り締まりに舞い降りてくる者などいるはずもない。
 つまり渋滞が始まった途端に、どいつもこいつも安心して携帯にかまけ始めるのだ。後ろが大型トラックだったりすると、ひたすら『私相手の失敗だけはするなよ…』と天を仰ぐのみである。愛車をお釈迦にされないか気が気ではなかった。
 あれが今では、情報量が何倍か増しのスマホに代わったということではないだろうか。路肩退避中の故障車に突込むわ、車線規制の誘導員を跳ね飛ばすわ、今どきの高速道路は誰ひとり前を見ずスマホに熱中しながら走っていると考えて、あながち的外れではないとさえ思われるほどの惨状だ。とにかく怖すぎる。

 これでオシマイでもなく、もう早々から周囲背景の交通気質それ自体に『何かあったらただでは済まない』という重保管理の常識意識の共有が期待できないんだろ?
 昔なら『人生終わる勢いで危ないから、運転中は何があってもそこは大人になって』自分の精神状態を静穏に保つくらいの情操スキルは、成人社会人ともなると洩れなく備わっていたものである。
 交通事故の損害額と行政処分の面倒くささこそ『後悔先に立たず』を地で行くキホンを誰もが理解していたからだが、それが今や『モノ知らぬコドモが犯す未熟な過ち』とごちゃ混ぜになっている。現実としての事故を恐れる『本気』が無いとでも言うか。

 実は今回話題にしたかった本命の焦点はこのハナシの方だったりする。
 間違えてヒトやモノに損害を与えてしまった場合、イチ社会人として経済生活と国民管理情報の両方に事後処置が発生する。ではその損害度と処置判断は、ナニを基準に誰が下すのか?道路交通法の文章を手にオマワリくんが機械式にマルバツつけるのか?

 あんまり対象を拡げると議論が発散するので、今ここでは私自身が気になっている交通規則を巡るケースに限定させていただこう。
 以前『単車のすり抜けを違法化したがる痴呆交通安全』については解説した【951】
 これに加えて雲行きが不穏なのは『盲目的・暴力的な歩行者優先』の風潮である。

 信号の無い横断歩道や、右左折時に車輌が横切る青信号の歩行者ゼブラにおいて、とにかく歩行者を先に行かせないと即刻違反だと断ずる痴呆判定がどんどん増殖している感じなのだ。業績の優れない警察署がそんなものを好都合にお手軽検挙を稼ごうとでもするのか、違反切符を切られたハナシも実際あるようだし、昨今ありとあらゆる交差点でそれを警戒して、右左折車がゼブラ手前でつっかえるシーンが激増している。

 前走車に続いて右左折しようとして、ちょっとでも視界に歩行者が入った途端に前走車が慌てて急停止してしまい、まず追突しない・されない調整を強いられた後に、交差点の真ん中で邪魔な待ち方をしないといけない危険がどれだけ増えたことか。
 自分がのんびりと歩行者の立場にいて、車がつっかえそうなので『どうぞ、どうぞ』とジェスチャー交えて誘導しても、車内から返されてかち合ってしまい、こちらが急遽予定変更して駆け出さざるを得ないことも多い。

 お前ら運転免許を取得する時に、いや幼稚園や小学校で道路を歩く年齢になった時に、ちゃんと習わなかったのか?
 安全で円滑な交通は『ゆずりあい』が基本だ。よく覚えておけ。

 信号機に代表される進行可否の交通表示だが、まず赤が『止まれ』、そして青は『進め』ではなく『進んでもよい』だとされている。
 その場にいる路上関係者たちの調整に委ねる、という意味である。その調整の基本コンセプトは『ゆずりあい』だ。歩行者を立ち止まらせたら違法、なんてあり得ない。
 適宜お互い目を合わせて身振り手振りまで交えて意思疎通し、相互の安全を確保しながら行きたい方向に進行し、和やかに会釈を交わして友好的速やかに通過しましょう。その愉快な出来事は全員の心情を安定させ、次もその次も、いつでも余裕の気持ちの判断を、行き交う交通全体に連鎖させ普及させるから。
 この交通安全の原理を見失うぐらいなら、『歩行者優先』の漢語スローガンなんか撤廃した方がよっぽど社会のためである。『ゆずりあい』の平仮名5文字で必要十分だ。

 まだ今週末いっぱい休暇の人も多いのかな。交通事故は『注意一秒、怪我一生』、少々まわりくどくても無事に目的地に到着してこその車の利便性であることを是非お忘れなく。流れるスピードは爽快・痛快で楽しいが、のんびり平和に楽しもう。
 大雪が大変な帰省先なんかは、死ぬのでなければ公共交通機関でUターンして、カネと時間かけて後日渋滞知らずで愛車を回収するのも一手ですぜ。
 せっかくゆっくりできた正月Uターンの交通安全、無事の日常再開まで御幸運を!
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【1124】ニッポン最高峰の想い出学習ノート [ビジネス]

 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお付き合いくださいませ。

 今年『も』、今年『は』、今年『こそ』いい年になりますように…と各自それぞれに願いをかけたら、いよいよただのおまじないにも終わらせないよう、手元の現実を御自分の手でかっちり動かして参りましょうや。きっと今年はいい年になりますぜ。

 正月早々にガチゴチ尖った話題ってのもナンだし、おめでた系ってあったっけ?
 …と考えたら、そうそう富士山のハナシが長らく積み置きのままになっていたことを思い出した。ええ、私は一度だけだが、頂上までの富士登山をきっちりと経験している。
 実はこれも父が家族旅行で連れて行ってくれたものなのだ。たぶん私が小学校5年から中学1年あたりのどこかだと思う。姉と私の子供2人がよちよちと危ない小児年齢でもなくなって、なおかつ高校受験でサザエさん型の家族団欒と決別するまでの間ということだったんだろうな。いやいや悪くないセンスだよ。

 もちろんというか季節は今と真逆の8月前半とかそのくらいだったが、とにかく家族4人で前泊から入って、早朝の出発で五合目から頂上を目指した。雲はそこそこあったが天候としては悪くなくて、首尾よく登頂を果たせている。

 そもそも富士山自体は見て判るまんまのあのプロポーションなので、クリフハンガー系の厳しい地形と戦うための超絶凄い装備は必要ない。だが間違いなく3,776メートルもある高山なので、遠足ではない心掛けの備えは必須だと思う。
 五合目から登山道を登り始めるあたりは、とりあえずハイキングコースっぽい雰囲気が漂うのも事実であり、ついつい甘く見て軽装で踏み込んでしまう観光客が多いと当時からよく聞いた。登山道の入口付近には、軽装どころかハイヒールの踵が落ちているとさえ言われていたのだから驚く。登山道なんだから行く先にお洒落な飲食店も土産物店も無いことぐらい明白だろうに、何を目的にどこまで行くつもりだったのだろう?

 それこそ遠景で見たまんまの、あの斜面形状が登山道から見る視界に拡がるワケだが、我々家族一同が呆れたのは斜面一帯を覆うゴミの量の凄さであった。どこそこのグラウンド何面分だとかではなく、あの山の途中に立てばカタチ相応に見える地形は延々と見えるのだけれど、実にその遥か隅々にまでくだらないゴミが散らかっているのが見えてしまってどうしようもない。現地に立つまでつゆとも想像しなかった反面、その光景に圧倒されるショッキングな現実がそこにあった。
 まだ身近な都心部では空も河川も不透明に濁り切って悪臭を放つのが常識だった時代だから、その後に綺麗に清掃されていることを心から願いつつ思い出すのである。

 天候の悪化もなく順調に頂上を目指すことができた我々一家だが、七合目だか八合目だかで、まず姉が、次いで母が、高山病を発症して足が止まった。その遥か手前からヘビースモーカーだった父は『数歩進んで深呼吸』のペースにまで落ちており、たった一人元気だった私は家族の苦しみもロクに気遣わずに、ちょんちょん先へ進んでは苦しむ家族どもに言いたい放題文句をタレていたのである。
 いま思えば酷い話だが、父は呼吸を整えるペースの死守にひと苦労だったし、姉と母は吐き戻して何十分か座り込んでいたぐらいだから、言われる方も自分ら自身が大変過ぎて私に取り合うどころじゃなかったはずであり、そんな予想外の苦難に阻まれつつも登頂断念しなかったのは立派っちゃあ立派である。
 道中の右手だったと思うが、万年雪の雪面も見ることができて感動したことよ。

 頂上の気温は摂氏5度ぐらいで周囲は林立する雲に囲まれており、残念ながら眼下に拡がる山麓の大パノラマは見ることができなかったが、青空を背景に燦々と陽を浴びてもくもくとそそり立つ積雲の光景は今もはっきりと憶えている。さすがに空の青み深みが半端ではなかった。
 一方せいぜいフライパンか醤油皿ぐらいに想像していた噴火口が、あんなに明確な竪穴として窪んでいるとは思っていなかったので、そっちの巨大アース・ビューの印象が鮮烈である。ちょこちょこと底に降りて立てるのではないかと思っていたけれど、これでは落っこちたらほぼ絶対に死ぬし、死ななかったとしてもとても這い上がれない。富士山って、意外とマジのすんげえ火山なんだなあ…甘く見ててスイマセンでした。
 …などなど、いろいろ学んだところは多かったと思う。富士山の凄さ、侮れんよ。

 ところで有名な話だが、富士山の頂上で飯盒炊爨(はんごうすいさん)はできない。
 若い人は飯盒なんて初耳で、見たこともないかもな。お米と水を入れて蓋してアウトドアで御飯を炊くための、調理具兼お櫃だ。基本的には底から蓋まで高さ20センチぐらいの楕円柱形状で、ただの楕円ではなく腎臓マークのように途中で屈曲している。腰に吊り下げて携行するので、体に沿わせるためだ。

 下から火を焚いて、水が摂氏100度で沸騰するのは御存知だろう。H2O分子たちは火力で底から熱エネルギーをくべられて、いずれ液体の水としてじっと収まっていられないほど活発になり、遂にH2O分子ひとつひとつが個別にバラけながら空中に飛び出す。とりあえずこれが『沸騰』だと思ってよろしい。
 ここでH2O分子が空中に飛び出す時、ナニも無い大気にふわりと泳ぎ出るのではなく、てめえら液相の水として大人しくしてろやと外から押し返してくる大気圧に打ち勝って、大気側に強引に割り込んで飛び出していくというイメージが正しい。
 つまり抑圧してくる大気圧が低くなればなるほど、100度まで熱さなくとも低い温度で早々に水は沸騰できる。そして沸騰して大気側に飛び出したH2O分子は、キホンお米を炊く液体の『お湯』でなくなってしまう。富士山頂では確か70度台で水が沸騰してしまうため、お米が生煮えでちゃんと熱の通った御飯になってくれないのだ。

 下界で普通に買ってきたポテチなどの袋スナックが、大気圧による抑え込みが緩むためパンパンに膨れるというのは本当だが、興味深いのは缶ビールの挙動である。実は実験した知り合いがいるのだ。
 ついついシェイクした炭酸飲料の大噴出を想像してしまうのだが、意外にも平和に普通に開くらしい。まあビールのような溶媒から気相に飛び出してくる二酸化炭素CO2の蒸発圧イコール内圧ってことなんだから、冷えててもぬるんでも所詮はあのパワー、むしろ低温環境で鎮静化されていて、ちょっと大気圧が下がったくらいじゃ俗世間と有意差なしってことか。なるほどなあ。
 でもそんなトリビア実験、実際にやったハナシでも聞かないと、とても結果に確信は持てない。深く感謝する限りだが、やはりというか最初に試した時、その姿を認めた周囲の人々は後ずさりして身構えたという。

 再び思い出話に戻って、明るくなるやならずの早朝に登り始めて登頂時点で15時くらい。天候は悪くなかったが暗くなると冷え込むのは間違いなく、山小屋以外に夜を明かせそうな場所も無い。
 父は下調べをして下山にかかる時間が意外に短いことを知っていたようなのだが、とにかく四人全員が無事登頂を達成した我々家族は『須走(すばしり)』と呼ばれる砂斜面を急いで下ることになった。まあ人里に到達するまで道に迷うような景色でもないのだけれど、もちろん富士山の斜面に気の利いた街燈なんかひとつも無いから、暗くなったら漆黒の闇に包まれるのは間違いない。
 なかなかどうして結構なギリだったと思われるものの我々は無事に山を下り切り、バスに乗って宿屋に転がり込むことができた。深刻な天候の急変で足止めされるだとか、家族の誰かが持ち直せずに動けなくなるだとか、致命的な行程消化のトラブルがあったらヤバかったような気もする。まあとにかく。

 私が富士山に登ったのは、後にも先にもこの一回きりだ。チャンスがあればもう一回行きたいと常々思うのだが、特段の山好き山男でもない私にとっては、真面目にプラン立案する手前の段階で面倒や労力の億劫が先に立ってしまい、結局新幹線の車窓から眺めてはあの頃を思い出すに留まっている。

 自然も文明も社会活動も、あの位置から俯瞰する小さな諸現象のひとつに過ぎない。
 日本最高点を踏破しておくなら、やはり若いうちがやりやすいよ。ただ死人も出る山なので、決してナメずの侮らずで、くれぐれも慎重に。
 今年の目標としていかがでしょうか。では本年も、皆さま是非ともの御幸運を!
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