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【1212】『自分の殻』閉じこもり方と破り方マニュアル [ビジネス]

 もう少し『記号接地問題』について考えてみますか。
 前回も述べた通り、私は情報体同士が交信するコミュニケーション空間を考えるにあたり『記号接地している・していない』を原則区別しない。
 反面いつか別のところで論じようと思うが、例えばアレクサンダー・テクニークが絡むような、個人の内的情報のさばき方で決まる心身制御スキルの開発・伝授などにおいては【1032】~【1036】、それを他人たる相手に『記号接地させる』ため、どんな手段が有効か方法論的に特定することこそ不可避かつ重要なポイントだと考えている。

 ついでに言及しておくと、演技力向上の実効方策コンセプトとして知られるスタニスラフスキー・システムは、舞台という成果出力の場の準備段階として、できる限り役どころの心身作動に『記号接地しておこう』とするものだ【662】
 舞台に上がった時その場のさまざまな五感の雑情報をシャットアウトして、外乱を圧倒して演技に集中するには、役どころそのままを現実に転写して『記号接地させた』記憶ファイルを構築しておくことが有効だ…とする経験則なんだろうな。
 誰でも使えるマニュアル書式に整理されていないのは、やはり『記号接地』の具体的な一般モデルが確定できずに、未加工の自身の記憶ファイルを列挙するまでに終わっているが故のことかも知れない。

 さて『記号接地』の検証は、意地悪な思考検討でかかるとすぐ論理的に辛くなる。
 この時期どんどん日が短くなるのは皆さん実感しておられるはずだが、それを解説するのに、太陽を中心とした地球公転軌道のマル描いて、地球の自転軸が傾いている漫画がよく用いられるのは御存知の通り。だが。

 これって記号接地するためには、宇宙船で地球公転軌道を俯瞰する位置にまで行って、少なくとも1年間は太陽に照らされた地球を眺めなきゃいけないんじゃないの?
 もっと屁理屈を捏ねるなら、そこで地球上の誰かと季節の話題で通信しながら『ああ、なるほど今は地軸傾斜を真横から太陽が照らす秋分も過ぎて、自転軸の南端が太陽を向く途中にあるんだなあ』と物証の整合を確認せねばならない。
 それを実体験したことのない者同士の議論においては、誰かが『天動説こそが真実だ!』と主張して譲らず、さすがに他を論破するまで行かないにしても、お互い記号接地の拠り所がないがため激論のすえ科学的にドロー、みたいな結論が成立することになってしまう。
 人類が地球上に生まれて天球を見上げる前に、ラスベガスの『スフィア』みたいな球体内面ディスプレイの高度文明が完成されていて、宇宙人が地球を覆っていろんな天体を思い付くまま投影してるんだとか、そのくらいのハナシにはなりそうだな。完全に時間の無駄である。

 今ちょっと調べたら『記号接地問題』の英訳は”Symbol grounding problem”となっており、これは順番が逆で、”Symbol grounding problem” がオリジナルとして先にあって、後から『記号接地問題』の和訳が付けられたのだろう。
 まず対象として特別に扱う”Symbol”のことを『記号』と訳しちゃってるのが少々アレだが、とにかくその”Symbol”が、拡がる意識空間における位置決めの基準としての不動の大地に『確実に着地している』その概念は理解できる。
 上記の私の屁理屈天動説は、こういうことを考える『ヒト』という存在がまずあって、ヒトであるからには個人の内々で情報通信が閉じていて本来ひとつの閉世界が実体を成しているはずなのだが、自然に思い描けるその限界をわざと無視して、宇宙まで拡張したところに意地の悪さがあるのだ。接地させ留めておきたい実体を発散させた。

 私の性格が捻じ曲がっているのは今さらどうしようもないとして、この限界とは何かとしみじみ考え直してみると、個人ひとりの人体構造という物理的くくりの内外境界線でしかない。そして体内で飛び交う知覚や身体制御の信号も『情報』だが、言語や全身パフォーマンスで渉外交信するのも『情報』である。
 自由に受発信され届く限りどんどん交換される『情報』という概念に対して、体内・体外の境界線はどんな意味を持つのだろうか?
 前回も少し触れたが、私が『記号接地』を別格視しない理由がこれである。

 因みに、近年実用化が視野に入る成果が上がり始めているとも聞く『マン・マシン・インターフェース』は、この人体構造の内外の、一般的には絶対的とされる隔たりに、人工の通信回路を新設する試みだといえよう。
 視力を失った被験者の脳の特定部位に電極を埋め込み、ヘッドマウントのカメラ映像信号の出力電極と接続すると、カメラがとらえる光景を反映した視覚映像が知覚できるのだそうだ。まだまだ『だいたい目前の視野のこのへんに何かがある』程度の解像度らしいが、それでも人工視覚の実現とは大したものだ。
 このインターフェースで変換した信号をAIに入力すれば、少なくともカメラが映す光景に関して、AIは『記号接地した会話』ができていることになるはずだと思うのだが。

 ちょっと私の頭の中でまとまり切らず不確実なのだけれど、もし『記号接地』しながら現実を把握し、その体感記憶を蓄積していって生物の脳内にいわゆる『世界モデル』が構築されるのなら、あらゆる生物は網膜の映像に対してもっと直結ダイレクトで無条件に反応しないといけないような気がする。
 風力発電機の翅が野鳥の網膜に映ったのなら、それが何かはともかくまず衝突しないように回避行動を取るはずだし【1040】、人間が漫然運転で視野の端っこの赤信号や自転車を見落とすこともないように思うのだ【1036】
 動かぬ現実の物理的シチュエーションがまずあって、世の情報体は1Fリアル円フロア上に並んだ感覚器からの信号発信および対岸の受信反応作動が起こることで行動決定に直結させているのか、それとも1Fで起きた体内通信をハンディカムで一度とらえて記録して『世界モデル』という情報体系を構築し、2Fバーチャル円フロアの情報交錯を経て行動決定しているのか。どっちなのだろう?

 私なりには両方ともあると思っていて、だから円錐モデルにおいて2Fバーチャル円フロアは透明の円盤だということにしてある。
 信心深くて空から差してくる有難い光が見えちゃったりする理系人種は【1035】、本人なりに矛盾なくサイエンス検証の取れた『世界モデル』の脳内記憶ファイル体系が完成されていて、これが1Fで網膜像の情報を処理した時の交信記録と同じ軌跡で、2Fの面上を走るのではないかと思っている。
 それを観察し記録するハンディカムは、円錐の頂点から両フロアを重ねて同時に見ているため、交信が1Fリアルと2Fバーチャルいずれの階層の情報処理で発生しているのか自覚できない。
 それが真実であり現実に起こると信じてやまない当人にとっては『この目でしっかりと見た、まごうかたなき現実の出来事』になるという訳だ。

 もし人間が、いや生物が、いや情報体が、何か記号接地することでON/OFF式の情報的優位に立てるというのなら、いま自分の頭の中にある情報ファイルのうち、まずは『記号接地しているもの』と『記号接地していないもの』を普遍的・確定的に判別できないと話にならないように思う。いかがだろうか。

 『胡蝶の夢』に自己完結の決定的な解答は存在しない。あなたは何を基準に、水面の鏡を境に上の像を選ぶのか、下の像を選ぶのか。

 大事なのは一方を決めて選んで、選んだ方で確実に辻褄を合わせることだと思う。
 『自分が決めた事実』こそ確固たる記号接地情報だ。覚悟の決断にグッドラック!
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