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【1215】誰でもみんな浮かれ出す、ニッポン伝統ワビサビの魔法 [ビジネス]

 えーと失礼、やっちまったか。『東京モビリティショー』ではなくて『ジャパン・モビリティショー』だったみたいですね。訂正しておきます。
 元祖メイン展示品たる自動車は、曲面基調のわらびもち系と平面・直線基調の折り紙系の両方が目立っている。いずれにしても鉄板プレスでは作りにくそうな造形で、市販車への反映はどうなるのか気になるところだ。

 前回、自動運転車が事故を起こした時『無人であること』が、ヒト社会の情報処理特性とうまく馴染まないところに問題の根源があるのではないかと述べた。
 起きてしまった不都合な現実を前に『誰が悪い訳でもない』と認め合って納得して決着することが難しいからなのだけれど、ならば大なり小なり不都合な現実の原因になった当人が明らかなのに『責任能力が無かった』と結論付けるのは、とりあえず社会的処置という観点では物事を煩雑化・遅滞化に向ける方針だと言わざるを得ない。

 今どきアレ言っちゃいけない、コレは断定すると問題になる…ってんで関係者事情の構図を明かさないまま突拍子もない衝撃的事実だけが報じられるケースも多いので、世間一般の小市民が当事者スタンスで感情移入することは不可能なのだが、それにしても何かにつけ『責任能力の有無』の議論が単なる無駄を通り越して、やり過ぎの域にはみ出していると感じるのは私ひとりではないだろう。
 酷い言い草だが、その時その場どんなに邪心任せに取り返しのつかない悪事をやり散らかしても、事後の論議で『責任能力がなかった』という理屈を通せれば引責を逃れられる世の中になってしまったとさえ見えてしまう。これでは不遇の損害を被った関係者当事者はとてもやってられない。

 もっとも昭和の時代は、恐らく現代の誰もが驚くくらい『これは偶然の事故、誰が悪い訳でもない』で悶着も議論もなく決着する事例が多かった。
 これは今の時代の責任能力云々のような課題意識が希薄だったからではなく、損害を被った側の当事者が『やるせない限りだが、悪意や敵意の被害でもないのに他人様に負担を発生させる行きがかりではない』とする自己完結意識が高かったからだと思う。
 これを見境なく崇高で優秀な社会性メンタリティだとするつもりもないけれど、今どき事故が発生した瞬間の当事者たちの反射思考に『責任能力の有無』が過剰に意識され、その後の処理に支障をきたす残念なインテリ社会になった感は否めない。

 ここまで重大事故の当事者にもならずに済んでいる私が偉そうに講釈をぶてるとも思わないのだが、傍目に映る昨今の責任能力論議に漂うアンフェア感・未決着感は『被害者意識・当事者感情の記号接地問題』だと言えるのではないだろうか。
 大切な人が命を落としたり、自分の五体満足が失われたりといった取り返しのつかない人生レベルの甚大損失について、ガチもガチで誰から見ても間違いなく『記号接地している』当事者は、取り返しがつかないが故にキホン永遠に甘んじて納得して収まることができない。本人以外の誰にも手を施せないし、百点満点の現実解で処置もできない『情報体としてのヒトの特性』である。
 いっぽう当事者間の社会的生活にいつまで経っても節目がつかないと不都合が拡大するので、決め事で節目をつける法治社会制度が大衆過半数のメリットとして作用する訳だ。だからこそ司法機関の関係者には『当事者意識に記号接地しない自分の立場の自覚』が適性要件としてまず求められ『記号接地しないが故に当事者が割り切れないところを割り切る職務を負う』ってことになるんだろうな。
 目前の作業としては『カネ勘定を始め所詮は人間が理屈で組んだ辻褄を合わせる』で一件落着するのだけれど、そこに『記号接地した当事者の収まり』がどうにかでも揃わない限り、そこを起点にした『次』が続く。

 このへんから今季NHK朝ドラ『ブギウギ』の話題を割り込ませてみましょうか。
 計測器の目盛で読めるものでもない評価尺度の最高値を目指して鍛錬を積み、それでも抗えない素質と運の宿命を埋めるために、手段を選ばず勝ち抜いてナンボの業界を題材にしたドラマにしては、NHK朝ドラらしく爽やかな気分で安心して観ていられる。
 鈴子の上京と成功からヘッドハンティングに到るまで、周囲の皆さんビジネスマンよりもよっぽど品行方正でカタギな配慮が行き届いてて、これなら平穏無事に誰からも文句は出ないはずじゃねえかとテレビ画面にツッコミを入れそうになるくらいだ。
 一般大衆が日本じゅうの事務所や現場で頭脳労働や肉体労働に明け暮れていた時代、特別な時間を期待して群がる客を集めて『愉しみの時間を売る』商売は、素質と運に恵まれた人材市場が極めて限られていたため、不義理だの略奪だの、それはもういろいろあったとは聞いている。
 実在の人物がモデルだから当時の業界事情も取材段階で散々引掛かっているはずだが、よくそのへん浄化してこんな小ざっぱりした現代風ドラマにできてるなあ。高度経済成長期のある意味悲壮な、労務エネルギー全力疾走の時代の空気に記号接地してしまっている私以上の世代だと、この脚本はとても書けないんじゃないだろうか。

 こんな洗練された清潔感の空気を背景にして、マイナーコードのメロディにやたら楽しげな歌詞を乗せた劇中のレトロ曲『ラッパと娘』が流れると、その不思議なコントラストが妙に面白い。
 私は一番に童謡『うれしいひなまつり』の例を挙げるのだが、昔の歌には短調メロディでポジティブ感情のテーマを歌う組み合わせが珍しくない【612】
 その狙いとする効果は、女の子の節句に着飾って座敷でおしとやかに過ごす非日常、その内向きの優雅な自己認識の時間を、普段の贅沢も娯楽も無い日本列島の日常生活の立ち位置から、素直に素朴に語ろうとするものではないかと思う。
 かなり以前にこの種の音感や感受性が日本の音楽市場で絶滅したように思うのだけれど、タイヘンにもったいない。わざとらしくならないよう真摯に日本の伝統的精神文化を学んで踏まえて、スタニスラフスキー・システム式忠実な創造作業から生み出された、心に響く新曲なんか出てきて欲しいなあ。

 その反面これは日本人の喜怒哀楽の感情の変動が、実は無感情のっぺらぼうの白紙を基準にしたものではなく、どこかしみったれたようなマイナー基調の心理状態がゼロ背景になっている可能性を示す事実ではないかとも思うのだ。
 しみったれと言えば聞こえは悪いが、黙ってそこにいれば真水に困らない豊かな日本列島の各所に定住し、自然への畏れのもとで身を寄せ合って、メンバーシップ型組織の一員として知恵を活かして暮らす。そんな日本人のDNAだと理解することもできる。

 日本人の深層アイドリング状態に刷り込まれたDNAマイナー心理特性は、そもそもから娯楽や余暇をイケナイもの扱いする抵抗感の足場となり、だからどんなにけしかけても有給休暇の取得が進まないのだし、更にはうまく行ってそうなヤツや楽しそうなヤツを見ると、応援したり肩を組みに行くより先に無条件に妬みの感情が湧いて『出る杭を打つ』、何より組織空間がそれを指摘せず見て見ぬふりの示し合わせで当たり前にしてしまうという、筋金入り非生産性・非効率的のジリ貧メンタリティにも繋がっている…と考えれば、この頭上を仰げない底なし沼の経済低迷も説明がつくのかも知れない。

 バブル景気と言われた時代、とにかく『栄えて贅沢して何が悪い、意のままに楽しくて何が悪い?』という世風が派手を装った流行発信地からバンバン放たれ、日本社会全体が最初困惑していたものの『食えるもんなら食わなきゃ損ソン!』とこれまた貧相で卑屈なタガの緩まり方で、年長世代が同調していった印象が強い。
 成長期をバブル期およびそれ以降に過ごした世代には、ニッポン旧来の深層マイナー心理がすっかり減衰しており、彼等にとって現行大半の日本の組織文化は折り合えなくて当然と感じるのだが、いかがだろうか。

 うん、今季の『ブギウギ』もいろいろ考えるところ多くて面白いよ。しみったれ古式ニッポンを変えつつ伝統の音楽性に火入れもして、いいトコどりで欲張りたいねえ。
 ゴメン、酒好きの私はチョコレート持ってないけど応援するぞ、グッドラック!
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