【1260】地獄行き搭乗便の退職代行業 [ビジネス]
あーあー今度は小笠原でヘリコプター落としたのか。まあそうなるよ。
去年の宮古島事故からちょうど一年後に規模倍増で今度は2機か、御丁寧に。
場所は鳥島周辺というから、東京都から南方に延びる伊豆諸島の南海である。
回転翼が始終燃料を消費して航続距離を限られるヘリコプターなんだから、不時着する場所も無い大海原に、わざわざ夜に飛ばすからには『4名・4名の2機分乗で対・潜水艦を想定した夜間訓練をやっていた』というのは一応本当なんだろうな。
乗員7名が行方不明、1名は身柄を回収したものの命は無かったという。
当面のところ、と言っておくが『また生存者ゼロ』ということになりそうだ。
端的に、一度事故を起こしておいて、二度と事故が起こらないように再発防止の処置をしなかったのだから、確実に再発する。世の道理であり、確率がどうこうという問題ではない。間違いなくこうなる。
自衛隊うんこ組織にとりあえず一度でも目にした現実を記憶できる真人間がどのくらいいるのか知らないが、昨年のあれを見ておいて命知らずの物好きがぞろぞろ出て行ってやらかしているのだから、もう同情の余地などあるまい。日本国民としてその愚かさ加減に呆れるばかりだ。
『行くと死ぬから行かない判断を下す、命が惜しいので自分のクチで断る』という、我が身の最低限の安全管理をきちんと実行せず、不真面目な軍隊ごっこの役回りにひざまずいてイケナイ遊びの輪に入ったのだから、そりゃ物事の流れとして死ぬんだろう。
軍用ヘリに乗って夜間訓練という身分と年齢なら、日本国憲法に保障された我が身の主権に基づいて、当該労働環境について十分な安全衛生の維持管理を職場に問い質し、納得いかなければ拒否する判断が可能である。
…っちゅうか拒否しなかったのなら、好きで遊びに出てったんだよ、いいオトナが。
宮古島で利権商売の下見遊覧を出してポカ事故を起こして、10人を大量殺人しておいて、自衛隊うんこ組織はアッパラ無能バカ殿から奴隷バカボン三等兵まで、それで構わないってことにして放置したんだろ?
死ぬのも殺すのも勝手だが1億2千万人の血税で買ったたっかい軍用ヘリふたつも落としおって、本来なら自衛隊員が日本じゅうで臨時バイトでもやって、国民に弁償するのがスジではないのか。
そもそも悪天の夜にヘリコプターを出すのは避けるのが普通だし、宮古島事故のこともあるから多少は敏感になっていたはずで、逆に昨夜普通に出て行ったからには十分な好条件だったと思われる。
宮古島が単独事故だったため成す術なく全員死亡の結末となったのだから2機ペアにしよう…とする対策思考があったとも考えられるが、恐らくはそれが裏目に出た。
既に公表されている通り、今般の事故は僚友機同士の接触の可能性が高い。
一般庶民の生活を送っている限りは、なかなかヘリコプターに乗る機会は無いと思う。私も熱気球まで乗っておいて、ヘリコプターには乗ったことが無い。いっぺん乗りたい。
それはともかく、ヘリコプターは揚力発生のため凄まじい周辺気流を巻き起こす。
かつて田舎暮らしをしていたころ消防庁の訓練施設が近所にあって、時折グラウンドで低空ヘリコプターからのロープ昇降訓練を見かけることがあったのだ。施設の塀の外から多分50メートルぐらいの距離で見れていたと思うのだが、それはそれは強烈というにも余りある暴風烈風と砂埃である。
まああれだけの機体があの大きさの回転翼で、空気相手に踏ん張って空中に留まるのだから、なるほどこんなことにはなるかあ…と納得しつつ、その操縦技量に見とれるのも大概の苦行であった。
空気は目に見えないので、その場の気流を体感しないとイメージが湧きづらかったりするのだが、ヘリコプターは強力な下降流を叩き下ろして、それを足掛かりに飛ぶため、上下に開けた空間の流れ場はえらいことになっている。
故にヘリコプターは複数が接近して、特に高度差をつけて接近して飛ぶことは避けたいのだ。広域事件や大事故が発生したとき報道ヘリが空を飛び交うが、各機の相対位置の取り方を観察してみるとよろしい。
まず岸を離れた夜間の絶海であれば、他にぶつかるものもない空で、低空飛行とはいえ安定飛行のための高度は死守するはずだ。
そこでお互いの乱気流を避けつつ何かあったら僚友機を目視確認できるようにしておきたい…となると、高度を揃えて横に並ぶはずなのである。そしていま春は強風の季節。
総合すると、2機で出動し連れ立って高度を揃えて並進飛行中、急な横風に見舞われて接触事故を起こしたものと考えられる。横風による流され代の想定が甘かったため、結果的に見て2機が空けていた相対距離は不十分だった。これが推定原因だ、以上。
さて脳足りん集団が敵もいない作戦ごっこで命を無駄遣いするぶんには、たかが仕事のふりだけしていたいママゴト組織のウチワ揉めで、文字通り揉み消して揉み消されて大ゴトにもならずに済む。
だが残り1年を切っちゃってて、明らかに何もかも間に合いようがないのに、中止も延期も言い出せずにずるずると惰性で転がり進んでいく2025大阪万博は、とてもそうは行かない。
まず重機と積み置き資材だらけの工事現場が会場になるのが確実な、この2025大阪万博がとりあえず来年4月に本当にゲートオープンだけはしたとして、そこで『空飛ぶクルマ』とやらを一般客向けの出し物にするのは絶対にやめるべきである。
いま決心して計画を処刑しておかないと、来年一般客で4機目19人目の死者が出る。
クレーンに接触して、海外の要人や小さな子供を乗せて落ちたらどうする?
だから今やめろと言っている。断言する。
契約しちゃったナニナニの違約処置が面倒だとか、遅れたナンタラの後始末が法的に前例ナシだとか、その全ては『情報』のハナシだろうが。実行動の選択は結局どうにでもなるんだよ、特にこの人類文明創世記以前の日本社会では。
まず絶対に人が死なないように、大怪我の後悔で泣かないようにするのが先だ。
大阪夢洲にはカジノIRの起点さえ打ち込めれば良いんだよ【1196】
インバウンド需要に買い叩かれながら身を預け身を落とし続ける日本円経済を、人類文明として価値ある通貨流通システムの原理作動に戻す唯一の現実解だからである。
航空技術にしても経済操作にしても、道理の必然に導かれる『情報』に示された作動原理をよく理解し、現実にコトを起こすための要件アイテムを選択して実行しなければ、ただのゴミクズ情報の空論大喜利に時間を浪費してオシマイだ。
『理性で暮らす人の世の幸福』に浸りたいものだよ。では週明けからグッドラック!
去年の宮古島事故からちょうど一年後に規模倍増で今度は2機か、御丁寧に。
場所は鳥島周辺というから、東京都から南方に延びる伊豆諸島の南海である。
回転翼が始終燃料を消費して航続距離を限られるヘリコプターなんだから、不時着する場所も無い大海原に、わざわざ夜に飛ばすからには『4名・4名の2機分乗で対・潜水艦を想定した夜間訓練をやっていた』というのは一応本当なんだろうな。
乗員7名が行方不明、1名は身柄を回収したものの命は無かったという。
当面のところ、と言っておくが『また生存者ゼロ』ということになりそうだ。
端的に、一度事故を起こしておいて、二度と事故が起こらないように再発防止の処置をしなかったのだから、確実に再発する。世の道理であり、確率がどうこうという問題ではない。間違いなくこうなる。
自衛隊うんこ組織にとりあえず一度でも目にした現実を記憶できる真人間がどのくらいいるのか知らないが、昨年のあれを見ておいて命知らずの物好きがぞろぞろ出て行ってやらかしているのだから、もう同情の余地などあるまい。日本国民としてその愚かさ加減に呆れるばかりだ。
『行くと死ぬから行かない判断を下す、命が惜しいので自分のクチで断る』という、我が身の最低限の安全管理をきちんと実行せず、不真面目な軍隊ごっこの役回りにひざまずいてイケナイ遊びの輪に入ったのだから、そりゃ物事の流れとして死ぬんだろう。
軍用ヘリに乗って夜間訓練という身分と年齢なら、日本国憲法に保障された我が身の主権に基づいて、当該労働環境について十分な安全衛生の維持管理を職場に問い質し、納得いかなければ拒否する判断が可能である。
…っちゅうか拒否しなかったのなら、好きで遊びに出てったんだよ、いいオトナが。
宮古島で利権商売の下見遊覧を出してポカ事故を起こして、10人を大量殺人しておいて、自衛隊うんこ組織はアッパラ無能バカ殿から奴隷バカボン三等兵まで、それで構わないってことにして放置したんだろ?
死ぬのも殺すのも勝手だが1億2千万人の血税で買ったたっかい軍用ヘリふたつも落としおって、本来なら自衛隊員が日本じゅうで臨時バイトでもやって、国民に弁償するのがスジではないのか。
そもそも悪天の夜にヘリコプターを出すのは避けるのが普通だし、宮古島事故のこともあるから多少は敏感になっていたはずで、逆に昨夜普通に出て行ったからには十分な好条件だったと思われる。
宮古島が単独事故だったため成す術なく全員死亡の結末となったのだから2機ペアにしよう…とする対策思考があったとも考えられるが、恐らくはそれが裏目に出た。
既に公表されている通り、今般の事故は僚友機同士の接触の可能性が高い。
一般庶民の生活を送っている限りは、なかなかヘリコプターに乗る機会は無いと思う。私も熱気球まで乗っておいて、ヘリコプターには乗ったことが無い。いっぺん乗りたい。
それはともかく、ヘリコプターは揚力発生のため凄まじい周辺気流を巻き起こす。
かつて田舎暮らしをしていたころ消防庁の訓練施設が近所にあって、時折グラウンドで低空ヘリコプターからのロープ昇降訓練を見かけることがあったのだ。施設の塀の外から多分50メートルぐらいの距離で見れていたと思うのだが、それはそれは強烈というにも余りある暴風烈風と砂埃である。
まああれだけの機体があの大きさの回転翼で、空気相手に踏ん張って空中に留まるのだから、なるほどこんなことにはなるかあ…と納得しつつ、その操縦技量に見とれるのも大概の苦行であった。
空気は目に見えないので、その場の気流を体感しないとイメージが湧きづらかったりするのだが、ヘリコプターは強力な下降流を叩き下ろして、それを足掛かりに飛ぶため、上下に開けた空間の流れ場はえらいことになっている。
故にヘリコプターは複数が接近して、特に高度差をつけて接近して飛ぶことは避けたいのだ。広域事件や大事故が発生したとき報道ヘリが空を飛び交うが、各機の相対位置の取り方を観察してみるとよろしい。
まず岸を離れた夜間の絶海であれば、他にぶつかるものもない空で、低空飛行とはいえ安定飛行のための高度は死守するはずだ。
そこでお互いの乱気流を避けつつ何かあったら僚友機を目視確認できるようにしておきたい…となると、高度を揃えて横に並ぶはずなのである。そしていま春は強風の季節。
総合すると、2機で出動し連れ立って高度を揃えて並進飛行中、急な横風に見舞われて接触事故を起こしたものと考えられる。横風による流され代の想定が甘かったため、結果的に見て2機が空けていた相対距離は不十分だった。これが推定原因だ、以上。
さて脳足りん集団が敵もいない作戦ごっこで命を無駄遣いするぶんには、たかが仕事のふりだけしていたいママゴト組織のウチワ揉めで、文字通り揉み消して揉み消されて大ゴトにもならずに済む。
だが残り1年を切っちゃってて、明らかに何もかも間に合いようがないのに、中止も延期も言い出せずにずるずると惰性で転がり進んでいく2025大阪万博は、とてもそうは行かない。
まず重機と積み置き資材だらけの工事現場が会場になるのが確実な、この2025大阪万博がとりあえず来年4月に本当にゲートオープンだけはしたとして、そこで『空飛ぶクルマ』とやらを一般客向けの出し物にするのは絶対にやめるべきである。
いま決心して計画を処刑しておかないと、来年一般客で4機目19人目の死者が出る。
クレーンに接触して、海外の要人や小さな子供を乗せて落ちたらどうする?
だから今やめろと言っている。断言する。
契約しちゃったナニナニの違約処置が面倒だとか、遅れたナンタラの後始末が法的に前例ナシだとか、その全ては『情報』のハナシだろうが。実行動の選択は結局どうにでもなるんだよ、特にこの人類文明創世記以前の日本社会では。
まず絶対に人が死なないように、大怪我の後悔で泣かないようにするのが先だ。
大阪夢洲にはカジノIRの起点さえ打ち込めれば良いんだよ【1196】
インバウンド需要に買い叩かれながら身を預け身を落とし続ける日本円経済を、人類文明として価値ある通貨流通システムの原理作動に戻す唯一の現実解だからである。
航空技術にしても経済操作にしても、道理の必然に導かれる『情報』に示された作動原理をよく理解し、現実にコトを起こすための要件アイテムを選択して実行しなければ、ただのゴミクズ情報の空論大喜利に時間を浪費してオシマイだ。
『理性で暮らす人の世の幸福』に浸りたいものだよ。では週明けからグッドラック!
【1259】二系統同時ブートの過熱OS消費電力 [ビジネス]
今度は四国で地震か、人間界のタイムスケール的には最近続いてる感じだなあ。
風光明媚な四万十川流域を含んでおり、四国らしく急峻で尾根と谷の入り組んだ複雑な斜面の印象が記憶に残る、宿毛(すくも)や中村の地名が見える。皆さんどうかお大事に【1178】
NHK朝ドラ『虎に翼』が序盤からハイペースで波乱続きだ。
お馴染みの、物理的にも精神的にも現代風に隅々まで清潔感の行き届いた世界であり、陰湿で貧相な旧態ニッポン精神文化をすすぎ落とした人間模様が少しばかり気になる造りではあるが、とりあえず観やすい。
今度はトラちゃんちに嫁入りした親友のハナちゃんが悩み始めたか。
家庭から一歩外へ出た『社会』での男女の扱いの差もいろいろあったのだけれど、そういう場はいわゆる『オトコ社会』ってことでひと通り決まっていて、これに対して戸別の家庭内は全面的にオンナに預けられ任され丸投げされていた。
この『外はオトコ、内はオンナ』の対照的な生活構造は、まず夫婦二人がいてその間に男の子ができて、その男の子がヨメをもらって家庭の一員として連れ込む。ここから始まる。
こうして二世代目の夫婦二人もその家庭に同居し、世代違いの夫婦二組・合計4人を基本構成として一家のくくりの骨格が完成するのだ。ここが今回のポイントである。
なおこれ以外は大した問題ではなく、例えば最初の夫婦に二人目以降の男の子ができたり、あるいは女の子もできたりしたところで、まあ派生事実とされ場当たり的に処理された。
さてオトコが平日仕事に出払ったあとの家庭空間を、最初の夫婦のカミさんと、その息子のヨメという、血のつながらないオンナ二人で切り盛りすることになる。一致するはずのないオンナ二人の『意識』『主観』『自我』が、狭い家一軒の生存空間に閉じ込められ、お互いがお互いの窮屈になりながら逃げ場を失う構図になるのは宿命である。
ハナちゃんは猪爪家の家庭空間を仕切る大御所・トラちゃんママに、少なくとも現時点ではどうにかこうにか迎合できているようだが、これが高度経済成長期の時代においては『ヨメ・シュウトメの確執』という相容れない永遠の真理の対立構図として、日本社会の定番テーマになるほどの常識であった。
息子ヨメが二十歳前~20代前半で嫁入りしてきて以降、実に数十年にわたる閉空間での日常的な軋轢ゆえ、一生をかけた悩みになるほど深刻だが解決策のない、女性として誰もが背負い込んでいる根深い社会問題という位置付けだったと記憶している。
私が子供時代の高度経済成長期には既にテレビが全世帯に普及していて、日中とくに午後イチ以降夕方前までの時間帯は、圧倒的に専業主婦の視聴者を狙った番組構成となっていた。
この時間枠の、報道でもなく教養でもなく映画でもなくドキュメンタリーでもなく…のユルいニーズに合わせ、庶民に知名度のある有名人の面々が世間話風に漫談する番組が起案され『ワイドショー』と呼ばれ始めたと思うのだが、そこで『ヨメ・シュウトメの確執』が格好の定番ネタのひとつとなった…はずである。私自身は春・夏・冬の長期休暇でもない限り、その時間に在宅していないし新聞のラテ欄でしか知らん【1210】
まあ日本社会の全てがそういうテイで動いていた。とにかく平日日中のテレビって、男の子にはほんっとに観るもんなくて困ったんだよ。
それこそオンナ同士で怨念絡みのような精神戦を繰り広げる再現ドラマだとか、そんな内容で視聴率を争うくらいだったから、チマタの主婦の精神状態の平均値は総じて安穏でなかった時代なのだろう。
今はすっかり見聞きしなくなったが、息子世代が一軒家を新規購入して別居する『核家族化』が進んでくると、今度は息子ヨメの立場からは『家付き、車付き、ババ抜き』こそ理想の好条件だとする荒んだ幸福論も提唱され、そんなものが笑って普通に語られていたのである。ひっでえなあ。
そう、ここでたびたび繰り返しているが、高度経済成長期というのは今の時代から見て決して『日本社会が元気いっぱい働き、輝かしく豊かに突き進む理想郷の時空間』だったのではない。
お行儀を守って貞淑なヨメに収まるハナちゃんと、その内なる負担に気付いたトラちゃん義母シュウトメはどう折り合っていくのだろうか。
『平和な家庭組織で幸せな生活を送りたい』という永遠一元の目的は正しいのだが、個々人で閉じる『意識』『主観』『自我』は誰とも一致するものではないため、共存するには大なり小なり必ずそこに抑制が必要となる【84】
だからこそ、お互いの『意識』『主観』『自我』をありのまま率直に情報化して、コミュニケーションの場にまず挙げて、双方の噛み合う抑制マップをどうするか現実的な処置を決めねばならない。
『腹を割る』という日本語はこの『ありのまま率直』を指すのだと私は思っている。
ここまで理解して、かなりの壮絶なる過去を吐露した男役ちゃんなのだが、この手のとっつきにくい系ぼっちタイプには結構見どころのある好人物が多いのだ。
少なくとも本人的には共鳴点も確かめずに馴れ合わない理由をちゃんと持っていて、無難なだけの無駄な付き合いを良しとしない判断力を確立しており、少々の不穏な空気にも動じず率直に意味のあるコミュニケーションを相手に持ち掛ける、誠実な心掛けが完成されている証拠であろう。
自分の『意識』『主観』『自我』をもって正確にコミュニケーションできたのなら、相手の受容なり反発なりを刈り取って次を決めれば良いだけであり、このプロセスさえ成立すれば何らのやりにくさも不信感も起こり得ない。
それどころかインドア引きこもりでもサブカル没入ぼっちでも、本人思うままに『意識』『主観』『自我』を解放して生きているぶん、よっぽど直接的かつ健康的に会話ができる気がする。思慮深くてハナシの解る面白いヒト、多いよ。
社会空間を共有する個々人が、各自の自由ナル『意識』『主観』『自我』を率直に折り合わせるため、法律という『情報』が目安として設置されているのだ。
今季朝ドラ『虎に翼』は始まったばかりだが、まだまだ凝ったキャラ設定が続出してきそうな予感がするぞ。
ではお手元の文字列がハッピーな有効打でありますよう。その通信にグッドラック!
風光明媚な四万十川流域を含んでおり、四国らしく急峻で尾根と谷の入り組んだ複雑な斜面の印象が記憶に残る、宿毛(すくも)や中村の地名が見える。皆さんどうかお大事に【1178】
NHK朝ドラ『虎に翼』が序盤からハイペースで波乱続きだ。
お馴染みの、物理的にも精神的にも現代風に隅々まで清潔感の行き届いた世界であり、陰湿で貧相な旧態ニッポン精神文化をすすぎ落とした人間模様が少しばかり気になる造りではあるが、とりあえず観やすい。
今度はトラちゃんちに嫁入りした親友のハナちゃんが悩み始めたか。
家庭から一歩外へ出た『社会』での男女の扱いの差もいろいろあったのだけれど、そういう場はいわゆる『オトコ社会』ってことでひと通り決まっていて、これに対して戸別の家庭内は全面的にオンナに預けられ任され丸投げされていた。
この『外はオトコ、内はオンナ』の対照的な生活構造は、まず夫婦二人がいてその間に男の子ができて、その男の子がヨメをもらって家庭の一員として連れ込む。ここから始まる。
こうして二世代目の夫婦二人もその家庭に同居し、世代違いの夫婦二組・合計4人を基本構成として一家のくくりの骨格が完成するのだ。ここが今回のポイントである。
なおこれ以外は大した問題ではなく、例えば最初の夫婦に二人目以降の男の子ができたり、あるいは女の子もできたりしたところで、まあ派生事実とされ場当たり的に処理された。
さてオトコが平日仕事に出払ったあとの家庭空間を、最初の夫婦のカミさんと、その息子のヨメという、血のつながらないオンナ二人で切り盛りすることになる。一致するはずのないオンナ二人の『意識』『主観』『自我』が、狭い家一軒の生存空間に閉じ込められ、お互いがお互いの窮屈になりながら逃げ場を失う構図になるのは宿命である。
ハナちゃんは猪爪家の家庭空間を仕切る大御所・トラちゃんママに、少なくとも現時点ではどうにかこうにか迎合できているようだが、これが高度経済成長期の時代においては『ヨメ・シュウトメの確執』という相容れない永遠の真理の対立構図として、日本社会の定番テーマになるほどの常識であった。
息子ヨメが二十歳前~20代前半で嫁入りしてきて以降、実に数十年にわたる閉空間での日常的な軋轢ゆえ、一生をかけた悩みになるほど深刻だが解決策のない、女性として誰もが背負い込んでいる根深い社会問題という位置付けだったと記憶している。
私が子供時代の高度経済成長期には既にテレビが全世帯に普及していて、日中とくに午後イチ以降夕方前までの時間帯は、圧倒的に専業主婦の視聴者を狙った番組構成となっていた。
この時間枠の、報道でもなく教養でもなく映画でもなくドキュメンタリーでもなく…のユルいニーズに合わせ、庶民に知名度のある有名人の面々が世間話風に漫談する番組が起案され『ワイドショー』と呼ばれ始めたと思うのだが、そこで『ヨメ・シュウトメの確執』が格好の定番ネタのひとつとなった…はずである。私自身は春・夏・冬の長期休暇でもない限り、その時間に在宅していないし新聞のラテ欄でしか知らん【1210】
まあ日本社会の全てがそういうテイで動いていた。とにかく平日日中のテレビって、男の子にはほんっとに観るもんなくて困ったんだよ。
それこそオンナ同士で怨念絡みのような精神戦を繰り広げる再現ドラマだとか、そんな内容で視聴率を争うくらいだったから、チマタの主婦の精神状態の平均値は総じて安穏でなかった時代なのだろう。
今はすっかり見聞きしなくなったが、息子世代が一軒家を新規購入して別居する『核家族化』が進んでくると、今度は息子ヨメの立場からは『家付き、車付き、ババ抜き』こそ理想の好条件だとする荒んだ幸福論も提唱され、そんなものが笑って普通に語られていたのである。ひっでえなあ。
そう、ここでたびたび繰り返しているが、高度経済成長期というのは今の時代から見て決して『日本社会が元気いっぱい働き、輝かしく豊かに突き進む理想郷の時空間』だったのではない。
お行儀を守って貞淑なヨメに収まるハナちゃんと、その内なる負担に気付いたトラちゃん義母シュウトメはどう折り合っていくのだろうか。
『平和な家庭組織で幸せな生活を送りたい』という永遠一元の目的は正しいのだが、個々人で閉じる『意識』『主観』『自我』は誰とも一致するものではないため、共存するには大なり小なり必ずそこに抑制が必要となる【84】
だからこそ、お互いの『意識』『主観』『自我』をありのまま率直に情報化して、コミュニケーションの場にまず挙げて、双方の噛み合う抑制マップをどうするか現実的な処置を決めねばならない。
『腹を割る』という日本語はこの『ありのまま率直』を指すのだと私は思っている。
ここまで理解して、かなりの壮絶なる過去を吐露した男役ちゃんなのだが、この手のとっつきにくい系ぼっちタイプには結構見どころのある好人物が多いのだ。
少なくとも本人的には共鳴点も確かめずに馴れ合わない理由をちゃんと持っていて、無難なだけの無駄な付き合いを良しとしない判断力を確立しており、少々の不穏な空気にも動じず率直に意味のあるコミュニケーションを相手に持ち掛ける、誠実な心掛けが完成されている証拠であろう。
自分の『意識』『主観』『自我』をもって正確にコミュニケーションできたのなら、相手の受容なり反発なりを刈り取って次を決めれば良いだけであり、このプロセスさえ成立すれば何らのやりにくさも不信感も起こり得ない。
それどころかインドア引きこもりでもサブカル没入ぼっちでも、本人思うままに『意識』『主観』『自我』を解放して生きているぶん、よっぽど直接的かつ健康的に会話ができる気がする。思慮深くてハナシの解る面白いヒト、多いよ。
社会空間を共有する個々人が、各自の自由ナル『意識』『主観』『自我』を率直に折り合わせるため、法律という『情報』が目安として設置されているのだ。
今季朝ドラ『虎に翼』は始まったばかりだが、まだまだ凝ったキャラ設定が続出してきそうな予感がするぞ。
ではお手元の文字列がハッピーな有効打でありますよう。その通信にグッドラック!
【1258】ウラとオモテのメビウス雌雄進化論 [ビジネス]
明律大学女子部の学生ちゃんたちに囲まれた裁判の判決、法廷の実際とどのくらい整合するものなのかは知らないが、結論とその主旨が一般視聴者に解りやすく語られていて感心した。
法律として書き置かれた『情報』を関係者一同が受信したとして、情報生命体・人間は『自由ナル心証ニヨリ』実行動を選択する。
社会組織のみんなで合意した『情報』を、みんなが『これでいつでも誰でもハッピーだよね』と合意した当初のコンセプト通りに運用できているかどうか検証し、社会組織としての行動選択を率先・指南するのが元来の裁判の仕組みだと思う。
この今季朝ドラ『虎に翼』では開幕早々『女のくせに』という台詞が頻出しているが、こういう時代、実は『男のくせに』という台詞も同じくらいしょっちゅうチマタを飛び交っていた。
前回述べた通り、法的にも日常生活的にも男女の扱いに不自然な差がついていた時代なのは間違いないのだが、その反面ちゃんと(?)問答無用の口封じで男に見えやすい高負荷をかけておいて反論させない社会通念も共有されていたと思う。
本人的にはマジ不可抗力・孤立無援の苦境により不本意な醜態をさらす立場に甘んじていても、オトコは弁解や不満を一切聞いてもらえず『男のくせにだらしない』と切り捨てられる役回りにあった。まあそれも『世の中そんなもん』で逆らわず収めておくのが、オトコの処世術のひとつだったのだ。
映画のタイトルにもなった『オトコはつらいよ』という台詞、改めて有名すぎるあの映画のイメージから離れてただの日本語として聞くならば、そんなこんなのオトコが社会の重圧に耐えて洩らす泣きの一言だと理解できるのではなかろうか。
オンナが何かにつけ不利を強いられるのがマズかったのか、オトコが持ち上げられつつクチより先にムチを入れられるのがマズかったのか、とにかく社会の男女差の軋轢は、ただの一方的ではなく両方向にあったっちゃあったのだ。
10年ちょっと前だったか『ダイバーシティ』という未知の単語を前に、ナニをどうしていいのかさっぱり判らなかった日本社会のあちこちで、やたらめったら『オンナの方が優れている』と言いたがる風潮が公共言論で大流行した。ススんでる良識派を装い世論に向けて点稼ぎしたい意図ばかり見え見えの乞食漫談家どもが、さも論理的な根拠アリのテイで機会を狙ってはよくやらかしていたものである。
別に男女のどっちが優れているとする判定を社会一般的に定着させたいなんて誰も思ってなくて、あからさまに下心が露見していたその心象に自分で気付く程度の知恵はあったのか、結構すぐに廃れて静かになったのだけれど。
どっちが優秀だとか、優遇されるべきだとかいう問題ではないのだ。
物事の道理として人間に男女の差異があるのなら、それを文明の仕組みでどう扱うのが社会組織のみんなにとって生産性高く幸福なのか…という問題である。
釣りの好きな人なら御存知かも知れないが、サカナには生涯のうちに性転換する種が結構いる。私は小学生の科学読み物だったか何かで、マグロだかハマチだかブリだか、おっとハマチとブリは同じ魚だったっけ、とにかくそういうお馴染みの種でも性転換するヤツがいると知った。
新米の漁師が『若い個体はオスばっかり、大きくなるとメスばっかり、一体なぜなのだろう?』と不思議がるシーンから始まるその内容が、大人になってからもずっと記憶に残っている。
多細胞生物の世代交代は、もともとサンゴやカタツムリなんかの雌雄同体生殖による単体複製に始まり、のちに遺伝子配合の組合せを多様化させた雌雄異体の配偶方式が、より環境適応に融通性を拡張し進化を加速させたと言われる。
なるほど成長期で体力にあり余る若年層が激しく遺伝子の混交を促進するオスになり、安定した身体構造を完成させた成熟層がメスになるってのは、地球上生命の自然な淘汰のなりゆきとして理に適ってるよなあ。
もしかして人間にもその特性の痕跡は残ってて、頑丈で大雑把でバカでデタラメに動く若いオトコと、一足先に大人になって安定した生活を志向するオンナがいて、オトコの方がさっさと賞味期限切れになって寿命を終えると。なんだか納得いくじゃないか。
もっとも、これでハナシはまとまってくれず、サカナの群れの中で雌雄個体数が大きく変動すると、どっちからどっちへの制約なく一定数が性転換して群れの雌雄バランスを保つという話も後に聞いた。
雌雄性転換が可逆だとすると、そういった種の魚類はそもそもから全数がキホン両性具有の身体構造を持っていて、適宜に雌雄どっちの機能臓器を活性化させるだとか、そういう仕組みで生きていると考えるのが妥当だろう。
私の知る限り、カエルやイモリなどの両生類、トカゲやカメなどの爬虫類、もちろん鳥類に哺乳類と、海から上がったあとの脊椎動物たちに性転換する例は無い。わざわざに生まれ落ちた時の雌雄を維持したまま一生を通す方式に移行したのは何故だろうか。
例えば身体構造を雌雄転換するのは非常にリスキーな生物学的タスクで、種族保存の生命原理的にバカにならないくらい、そこの局面の個体喪失率が高かったとか。
昆虫たちを見ていると、幼虫からさなぎを経て成虫に羽化して飛び立つまで、決して安心安全のステップアップ保障に守られている訳ではない。許容外の環境変化に打ちのめされたり外敵に捕食されたりしなくても、身体構造を刷新する変態そのものが相当な淘汰のふるいになっており、何割のオーダーで変態に成功できずに落命する【13】
焼き魚や煮魚を食っていると、あの頭部構造で魚に大容量ストレージ機能や高度演算処理機能があるとはあんまり思えない。いっぽう地上に上がってからの脊椎動物たちは、まず遠目に一見しただけでも、首から下と分離して単独持ち上げた『中央情報センターとしての頭部』が形成されている。
交錯する体内通信網トランポリンを俯瞰するための、機能性レイアウトだ【628】
この情報由来のハードウェア基本レイアウトにより、ソフトウェア的にも『体内情報処理の円錐モデル』【1171】が実現し、『意識』『主観』『自我』を備えた高度情報生命体への進化の道が拓けたのだろう。
そして地上の脊椎動物たちに性転換の事例は聞いたことが無い。
首から下をアタマで、いや目から下すべてを脳で俯瞰するハードウェア構成とその配置が、情報処理由来としては完成度が高く、そこに収まるソフトウェアも多機能・高機能になっていたりするのだが、お陰でちょちょいとスイッチングして雌雄双方に転用が利くような共通構造はもはや不可能になった…と、そういうことではないかと思う。
昆虫たちも性転換の事例は聞いたことが無いけれど、そもそも短い寿命の間に幼虫・さなぎ・成虫と変態して交配して老衰死だし、わざわざの性転換よりは単純軽量でロバスト性高い身体構造の特化を進め、雌雄ひっくるめた総出生数を増やす数量作戦が功を奏したのではないだろうか。
ここまで生命の歴史ならぬ『雌雄の歴史』について考察すると、人間ですら雌雄差は遺伝子的な視点で見るとほんの僅かな違いだという説明にも納得が行くし、性徴ファクターがオトコなりオンナなり一方に揃わず混在してしまう『LGBTQ』という境界領域の個体が一定数発現する可能性も理解できる。
恐らくLGBTQなる社会層はヒト社会に限らず他の生物種にも存在しており、圧倒的多数の平均的個体が成す雌雄二律社会との折り合いに、ただならぬ苦労を強いられているのであろう。
同胞を取りこぼさない『多様性社会』の動機はあって自然だと思うが、多数派のなりゆき平衡点もまた自然なバランスの結果である。そこを理解せずに『不便を強いられてきた少数派の、新時代の主権拡大』みたいなイメージで突走ってしまうと、組織生命力の内乱となり良い結果には向かないと思う。
まあいいや、明律大学女子部の奮闘っぷりが楽しみだ。では今週もグッドラック!
法律として書き置かれた『情報』を関係者一同が受信したとして、情報生命体・人間は『自由ナル心証ニヨリ』実行動を選択する。
社会組織のみんなで合意した『情報』を、みんなが『これでいつでも誰でもハッピーだよね』と合意した当初のコンセプト通りに運用できているかどうか検証し、社会組織としての行動選択を率先・指南するのが元来の裁判の仕組みだと思う。
この今季朝ドラ『虎に翼』では開幕早々『女のくせに』という台詞が頻出しているが、こういう時代、実は『男のくせに』という台詞も同じくらいしょっちゅうチマタを飛び交っていた。
前回述べた通り、法的にも日常生活的にも男女の扱いに不自然な差がついていた時代なのは間違いないのだが、その反面ちゃんと(?)問答無用の口封じで男に見えやすい高負荷をかけておいて反論させない社会通念も共有されていたと思う。
本人的にはマジ不可抗力・孤立無援の苦境により不本意な醜態をさらす立場に甘んじていても、オトコは弁解や不満を一切聞いてもらえず『男のくせにだらしない』と切り捨てられる役回りにあった。まあそれも『世の中そんなもん』で逆らわず収めておくのが、オトコの処世術のひとつだったのだ。
映画のタイトルにもなった『オトコはつらいよ』という台詞、改めて有名すぎるあの映画のイメージから離れてただの日本語として聞くならば、そんなこんなのオトコが社会の重圧に耐えて洩らす泣きの一言だと理解できるのではなかろうか。
オンナが何かにつけ不利を強いられるのがマズかったのか、オトコが持ち上げられつつクチより先にムチを入れられるのがマズかったのか、とにかく社会の男女差の軋轢は、ただの一方的ではなく両方向にあったっちゃあったのだ。
10年ちょっと前だったか『ダイバーシティ』という未知の単語を前に、ナニをどうしていいのかさっぱり判らなかった日本社会のあちこちで、やたらめったら『オンナの方が優れている』と言いたがる風潮が公共言論で大流行した。ススんでる良識派を装い世論に向けて点稼ぎしたい意図ばかり見え見えの乞食漫談家どもが、さも論理的な根拠アリのテイで機会を狙ってはよくやらかしていたものである。
別に男女のどっちが優れているとする判定を社会一般的に定着させたいなんて誰も思ってなくて、あからさまに下心が露見していたその心象に自分で気付く程度の知恵はあったのか、結構すぐに廃れて静かになったのだけれど。
どっちが優秀だとか、優遇されるべきだとかいう問題ではないのだ。
物事の道理として人間に男女の差異があるのなら、それを文明の仕組みでどう扱うのが社会組織のみんなにとって生産性高く幸福なのか…という問題である。
釣りの好きな人なら御存知かも知れないが、サカナには生涯のうちに性転換する種が結構いる。私は小学生の科学読み物だったか何かで、マグロだかハマチだかブリだか、おっとハマチとブリは同じ魚だったっけ、とにかくそういうお馴染みの種でも性転換するヤツがいると知った。
新米の漁師が『若い個体はオスばっかり、大きくなるとメスばっかり、一体なぜなのだろう?』と不思議がるシーンから始まるその内容が、大人になってからもずっと記憶に残っている。
多細胞生物の世代交代は、もともとサンゴやカタツムリなんかの雌雄同体生殖による単体複製に始まり、のちに遺伝子配合の組合せを多様化させた雌雄異体の配偶方式が、より環境適応に融通性を拡張し進化を加速させたと言われる。
なるほど成長期で体力にあり余る若年層が激しく遺伝子の混交を促進するオスになり、安定した身体構造を完成させた成熟層がメスになるってのは、地球上生命の自然な淘汰のなりゆきとして理に適ってるよなあ。
もしかして人間にもその特性の痕跡は残ってて、頑丈で大雑把でバカでデタラメに動く若いオトコと、一足先に大人になって安定した生活を志向するオンナがいて、オトコの方がさっさと賞味期限切れになって寿命を終えると。なんだか納得いくじゃないか。
もっとも、これでハナシはまとまってくれず、サカナの群れの中で雌雄個体数が大きく変動すると、どっちからどっちへの制約なく一定数が性転換して群れの雌雄バランスを保つという話も後に聞いた。
雌雄性転換が可逆だとすると、そういった種の魚類はそもそもから全数がキホン両性具有の身体構造を持っていて、適宜に雌雄どっちの機能臓器を活性化させるだとか、そういう仕組みで生きていると考えるのが妥当だろう。
私の知る限り、カエルやイモリなどの両生類、トカゲやカメなどの爬虫類、もちろん鳥類に哺乳類と、海から上がったあとの脊椎動物たちに性転換する例は無い。わざわざに生まれ落ちた時の雌雄を維持したまま一生を通す方式に移行したのは何故だろうか。
例えば身体構造を雌雄転換するのは非常にリスキーな生物学的タスクで、種族保存の生命原理的にバカにならないくらい、そこの局面の個体喪失率が高かったとか。
昆虫たちを見ていると、幼虫からさなぎを経て成虫に羽化して飛び立つまで、決して安心安全のステップアップ保障に守られている訳ではない。許容外の環境変化に打ちのめされたり外敵に捕食されたりしなくても、身体構造を刷新する変態そのものが相当な淘汰のふるいになっており、何割のオーダーで変態に成功できずに落命する【13】
焼き魚や煮魚を食っていると、あの頭部構造で魚に大容量ストレージ機能や高度演算処理機能があるとはあんまり思えない。いっぽう地上に上がってからの脊椎動物たちは、まず遠目に一見しただけでも、首から下と分離して単独持ち上げた『中央情報センターとしての頭部』が形成されている。
交錯する体内通信網トランポリンを俯瞰するための、機能性レイアウトだ【628】
この情報由来のハードウェア基本レイアウトにより、ソフトウェア的にも『体内情報処理の円錐モデル』【1171】が実現し、『意識』『主観』『自我』を備えた高度情報生命体への進化の道が拓けたのだろう。
そして地上の脊椎動物たちに性転換の事例は聞いたことが無い。
首から下をアタマで、いや目から下すべてを脳で俯瞰するハードウェア構成とその配置が、情報処理由来としては完成度が高く、そこに収まるソフトウェアも多機能・高機能になっていたりするのだが、お陰でちょちょいとスイッチングして雌雄双方に転用が利くような共通構造はもはや不可能になった…と、そういうことではないかと思う。
昆虫たちも性転換の事例は聞いたことが無いけれど、そもそも短い寿命の間に幼虫・さなぎ・成虫と変態して交配して老衰死だし、わざわざの性転換よりは単純軽量でロバスト性高い身体構造の特化を進め、雌雄ひっくるめた総出生数を増やす数量作戦が功を奏したのではないだろうか。
ここまで生命の歴史ならぬ『雌雄の歴史』について考察すると、人間ですら雌雄差は遺伝子的な視点で見るとほんの僅かな違いだという説明にも納得が行くし、性徴ファクターがオトコなりオンナなり一方に揃わず混在してしまう『LGBTQ』という境界領域の個体が一定数発現する可能性も理解できる。
恐らくLGBTQなる社会層はヒト社会に限らず他の生物種にも存在しており、圧倒的多数の平均的個体が成す雌雄二律社会との折り合いに、ただならぬ苦労を強いられているのであろう。
同胞を取りこぼさない『多様性社会』の動機はあって自然だと思うが、多数派のなりゆき平衡点もまた自然なバランスの結果である。そこを理解せずに『不便を強いられてきた少数派の、新時代の主権拡大』みたいなイメージで突走ってしまうと、組織生命力の内乱となり良い結果には向かないと思う。
まあいいや、明律大学女子部の奮闘っぷりが楽しみだ。では今週もグッドラック!
【1257】法治国家組織ビッグバンの光と影 [ビジネス]
今季NHK朝ドラ『虎に翼』は昭和ひとケタ年のスタートだから、また戦争を挟む。
良いことだと思うよ、明治以降の日本社会史について空白だった、昭和40年代の欠陥教育制度に甘んじた世代としては。
日本の学校教育が歪められ、日本国が民主主義議会制を選択して国力構築を志した記録情報を意図的に封じられた時代であり、戦後日本が『自己管理に無関心な群衆』に向かってひたすら弱体化する元凶となった黒歴史だ。
日本社会における女性の主権が、事実上まだまだ認められていませんでした…という社会情勢の描写から物語が始まったが、実は昭和40年代の高度経済成長期にあっても『オンナのくせに』という台詞は定番中の定番であり、これを持ち出された女性はその正否を問うような酔狂な面倒を避け、とりあえずにでもその価値観・世界観に沿う処世術を身に付けておくのが賢いとされていた。
ま、我らがニッポンの社会的生産力はオトコが生命力を擦り減らしながら切り回すものであって、他の全てはその至上目的のための付帯作業という扱いだったからなあ。
実際その勢いがあったから、華もなく必要最小限に質素な国内市場で流通するだけの『ボロくてダサい国産品』の貧相なイメージが、みるみる世界市場の大衆を根こそぎ動かし『先進技術と高品質のメイド・イン・ジャパン』に裏返っていった。
実に野蛮に乱暴に、加工貿易・第二次産業に国力を全面投入していたのだ。
そうそう、当時の記憶について横道を少し。小学生時代に家族で兵庫県北部の城崎(きのさき)に旅行したことがある。温泉で有名な、あの観光地である。
今の時代にすれば想定外レベルの『ところが』なのだが、観光入浴仕立ての広い湯船は男湯だけにしかなかった。外湯も数軒、調子に乗って父とハシゴしたものだが、男湯と女湯が同じ造りになっていたところは、果たしてあったのかなあ?
母と姉は、宿に備わっている一般家庭並の浴室に入っただけと記憶している。
子供心にせっかくの旅行で訪れる男女両方の客を迎えておいて、この差にはちょっとあんまりな不自然を感じたものだ。当時のことだから『それが当たり前』として、あからさまな不満も出なかったのだろうけれど。
これが数年後には時間帯を区切って男女の受け入れを交替するなどの工夫が目立つようになり、そのうち大規模な改装・改築が進んで男女等しく迎える宿屋文化が定着していった。いつも城崎旅行を思い出しながらビミョーに安心したものである。
今の若い人たちにはこの世の果ての外側の話だと思うけれど、まだ50代の私がこんな実体験の記憶を残しているくらいだから、いま我々が生きている日本社会は、表面的に流通している社会整備の仕組みの底に、こんな前時代的な質の精神構造がまだ染み込んでいて、こびりついていると思って間違いはない。
さて朝ドラに話題を戻して、トラちゃんは『法律とは何ぞや?』の疑問に奮闘中だ。
これを巡っての会話がなかなか面白かった。
やる気満々確信的に『法律とは私たちが守らなきゃいけない規則で…』と切り出した出鼻を、いきなり男役ちゃんに『法律を校則か何かと思ってんの?』とくじかれた。
帰宅して先に法学に勤しんでいる下宿生くんに尋ねたら、今度は『法律とは自分で見つけるもの、自分なりの解釈を得ていくものと言いますか…』と、何とももどかしい回答である。
下宿生くんの表現はかなり当たってると思うけど、なるほど若いトラちゃんならフラストレーションが溜まりそうなところだ。
結論から行くと、法律とは『情報』である。
ヒトの集団があって、そこにステージ・パフォーマンスのハッピーなコミュニケーションが自然発生して、せっかく組織生命リビドーが起動して『ただの群衆』がイノチを得て『生産性組織』になったのなら、そこには『お互いさまのお陰さま』で知力と体力を合わせた進化が同時多発的に始まる。
みんな暮らすその場をハッピーなコミュニケーションの応酬で持ち合い埋め尽くし、個々人でできないことを協力して実現する組織力。それを維持管理するための、みんな共通の思考基準・行動基準の概念が発現してくることになる。
みんなでその内容を等しく理解して持ち合うには、組織空間内で共有されている意思疎通のコミュニケーションツールつまり言語により、まず『情報化』するしかない。
次にここから、その時その場に・クチから放って・耳で聞いて・アタマで覚える・だけの刹那性を取り払って、みんなに等しく響く=受信した誰もが等しく思考判断や行動選択の現実的局面に反映させられる、そんな文言を工夫してひとつ書き決めて一元化し、ブツとしての記録媒体に残す…という順番になる。
以上こんな経緯があって、詰まるところ日本社会における法律とはただの日本語文章であり、それを記録した書面に過ぎない。要は『情報』である。
『情報』は元の現実も途中経緯も関係なく、誰にでも、どうにでも組めてしまう。
どう組んだところで、受信者がコトを動かしてようやく社会的な意味が備わる。
しかし、民事訴訟法に『自由ナル心証ニヨリ』と記載があるシーンには驚いた。『ごんべんに登る』を当用漢字の『証』で当てちゃったけど良いのかな。
判決に必要な弁論を重ねて、それらも結局は『情報』なんだから、裁判では組織の誰もが納得できることを志してきっちりやらんかい…の文章はあると思うんだが、こんなにのびのびとした表現で記されていたとは。現行表記もこれと同じままなのだろうか。
『ガソリン販価がリッター160円を超えたら、ガソリン販価への課税を引き下げる』
…と日本社会は経済的な思考検討を経て、根拠を持って意思決定し、法律のカタチでそれを定めた。だが法律が『情報』に過ぎないがゆえ、それを実行動でコトとして動かさなければ、まさにいま御覧の通りだ。
コトを動かさずにナニをしているのかの議論は今さら繰り返さないとして【1007】、要は経済原理に則った思考検討をしたのに、それを反映させて自国経済の通貨管理を現実として動かせていない。時間の浪費、国力の損失である。
だから国際経済市場で日本円がみくびられ、円安は底無しの沈下が止まらない。
インバウンド消費が賑わうのは、他国視点で日本円の価格表示が格安だからだ。
この宇宙が『無』から始まったのだとすると、あらゆる物質が生成するのと同時に、鏡像のように『反物質』が生成しているはずだとする学説がある。
我々人間は、長らく『ある』『存在する』を取り払って『無』『ゼロ』の概念を発明するところまでで止まっていたのだが、それは表裏あるうちの片側しか見ていないだけなのだと。
『ただの群衆』から始まった日本国組織には、体験記憶を蓄積して構築する『理性』『知性』だけではなく、それらと逆方向の『反理性』『反知性』みたいなものが生成して、どこかに蓄積しているのかも知れない。
うん、今季の朝ドラも面白そうだ。貧しくてこういうことをマジメに考えられなかったのが、高度経済成長期の日本社会だったのだと思う。
では明律大学女子部のオンナたちの理知性に囲まれた法廷に、グッドラック!
良いことだと思うよ、明治以降の日本社会史について空白だった、昭和40年代の欠陥教育制度に甘んじた世代としては。
日本の学校教育が歪められ、日本国が民主主義議会制を選択して国力構築を志した記録情報を意図的に封じられた時代であり、戦後日本が『自己管理に無関心な群衆』に向かってひたすら弱体化する元凶となった黒歴史だ。
日本社会における女性の主権が、事実上まだまだ認められていませんでした…という社会情勢の描写から物語が始まったが、実は昭和40年代の高度経済成長期にあっても『オンナのくせに』という台詞は定番中の定番であり、これを持ち出された女性はその正否を問うような酔狂な面倒を避け、とりあえずにでもその価値観・世界観に沿う処世術を身に付けておくのが賢いとされていた。
ま、我らがニッポンの社会的生産力はオトコが生命力を擦り減らしながら切り回すものであって、他の全てはその至上目的のための付帯作業という扱いだったからなあ。
実際その勢いがあったから、華もなく必要最小限に質素な国内市場で流通するだけの『ボロくてダサい国産品』の貧相なイメージが、みるみる世界市場の大衆を根こそぎ動かし『先進技術と高品質のメイド・イン・ジャパン』に裏返っていった。
実に野蛮に乱暴に、加工貿易・第二次産業に国力を全面投入していたのだ。
そうそう、当時の記憶について横道を少し。小学生時代に家族で兵庫県北部の城崎(きのさき)に旅行したことがある。温泉で有名な、あの観光地である。
今の時代にすれば想定外レベルの『ところが』なのだが、観光入浴仕立ての広い湯船は男湯だけにしかなかった。外湯も数軒、調子に乗って父とハシゴしたものだが、男湯と女湯が同じ造りになっていたところは、果たしてあったのかなあ?
母と姉は、宿に備わっている一般家庭並の浴室に入っただけと記憶している。
子供心にせっかくの旅行で訪れる男女両方の客を迎えておいて、この差にはちょっとあんまりな不自然を感じたものだ。当時のことだから『それが当たり前』として、あからさまな不満も出なかったのだろうけれど。
これが数年後には時間帯を区切って男女の受け入れを交替するなどの工夫が目立つようになり、そのうち大規模な改装・改築が進んで男女等しく迎える宿屋文化が定着していった。いつも城崎旅行を思い出しながらビミョーに安心したものである。
今の若い人たちにはこの世の果ての外側の話だと思うけれど、まだ50代の私がこんな実体験の記憶を残しているくらいだから、いま我々が生きている日本社会は、表面的に流通している社会整備の仕組みの底に、こんな前時代的な質の精神構造がまだ染み込んでいて、こびりついていると思って間違いはない。
さて朝ドラに話題を戻して、トラちゃんは『法律とは何ぞや?』の疑問に奮闘中だ。
これを巡っての会話がなかなか面白かった。
やる気満々確信的に『法律とは私たちが守らなきゃいけない規則で…』と切り出した出鼻を、いきなり男役ちゃんに『法律を校則か何かと思ってんの?』とくじかれた。
帰宅して先に法学に勤しんでいる下宿生くんに尋ねたら、今度は『法律とは自分で見つけるもの、自分なりの解釈を得ていくものと言いますか…』と、何とももどかしい回答である。
下宿生くんの表現はかなり当たってると思うけど、なるほど若いトラちゃんならフラストレーションが溜まりそうなところだ。
結論から行くと、法律とは『情報』である。
ヒトの集団があって、そこにステージ・パフォーマンスのハッピーなコミュニケーションが自然発生して、せっかく組織生命リビドーが起動して『ただの群衆』がイノチを得て『生産性組織』になったのなら、そこには『お互いさまのお陰さま』で知力と体力を合わせた進化が同時多発的に始まる。
みんな暮らすその場をハッピーなコミュニケーションの応酬で持ち合い埋め尽くし、個々人でできないことを協力して実現する組織力。それを維持管理するための、みんな共通の思考基準・行動基準の概念が発現してくることになる。
みんなでその内容を等しく理解して持ち合うには、組織空間内で共有されている意思疎通のコミュニケーションツールつまり言語により、まず『情報化』するしかない。
次にここから、その時その場に・クチから放って・耳で聞いて・アタマで覚える・だけの刹那性を取り払って、みんなに等しく響く=受信した誰もが等しく思考判断や行動選択の現実的局面に反映させられる、そんな文言を工夫してひとつ書き決めて一元化し、ブツとしての記録媒体に残す…という順番になる。
以上こんな経緯があって、詰まるところ日本社会における法律とはただの日本語文章であり、それを記録した書面に過ぎない。要は『情報』である。
『情報』は元の現実も途中経緯も関係なく、誰にでも、どうにでも組めてしまう。
どう組んだところで、受信者がコトを動かしてようやく社会的な意味が備わる。
しかし、民事訴訟法に『自由ナル心証ニヨリ』と記載があるシーンには驚いた。『ごんべんに登る』を当用漢字の『証』で当てちゃったけど良いのかな。
判決に必要な弁論を重ねて、それらも結局は『情報』なんだから、裁判では組織の誰もが納得できることを志してきっちりやらんかい…の文章はあると思うんだが、こんなにのびのびとした表現で記されていたとは。現行表記もこれと同じままなのだろうか。
『ガソリン販価がリッター160円を超えたら、ガソリン販価への課税を引き下げる』
…と日本社会は経済的な思考検討を経て、根拠を持って意思決定し、法律のカタチでそれを定めた。だが法律が『情報』に過ぎないがゆえ、それを実行動でコトとして動かさなければ、まさにいま御覧の通りだ。
コトを動かさずにナニをしているのかの議論は今さら繰り返さないとして【1007】、要は経済原理に則った思考検討をしたのに、それを反映させて自国経済の通貨管理を現実として動かせていない。時間の浪費、国力の損失である。
だから国際経済市場で日本円がみくびられ、円安は底無しの沈下が止まらない。
インバウンド消費が賑わうのは、他国視点で日本円の価格表示が格安だからだ。
この宇宙が『無』から始まったのだとすると、あらゆる物質が生成するのと同時に、鏡像のように『反物質』が生成しているはずだとする学説がある。
我々人間は、長らく『ある』『存在する』を取り払って『無』『ゼロ』の概念を発明するところまでで止まっていたのだが、それは表裏あるうちの片側しか見ていないだけなのだと。
『ただの群衆』から始まった日本国組織には、体験記憶を蓄積して構築する『理性』『知性』だけではなく、それらと逆方向の『反理性』『反知性』みたいなものが生成して、どこかに蓄積しているのかも知れない。
うん、今季の朝ドラも面白そうだ。貧しくてこういうことをマジメに考えられなかったのが、高度経済成長期の日本社会だったのだと思う。
では明律大学女子部のオンナたちの理知性に囲まれた法廷に、グッドラック!
【1256】無人のステージを囲む群衆の満足度投稿コメント [ビジネス]
先週の有明フォーミュラEに続いて今日は鈴鹿でF1、かつて自動車大国の栄華を誇った日本国に、改めてモータースポーツの人気と元気が戻り始めているのなら嬉しい。
う~ん、日本の角田くんは10位かあ。まあ頑張ってくれ、応援してるので御健闘を!
今どきショールームの新車は軽自動車でさえ200万円近い値札が付いているし、納期が年単位かかるケースも珍しくないというから、若い人たちには到底手が届かなくなってしまっているのが悲しい。
車ってそんなもんかあ?1万5千円の中古車を買ってきて、そこらの部品屋で合いそうなラジエター5千円を調達して乗っていた時代が遠く懐かしい。『現車、見る?』と訊かれて、薄暗くなった時間帯だとはいえ中古車ディーラーがライセンスプレート無しで十数キロ走って見せにきてくれたのだから、のんびりした時代だったものよ。
最近の車は全方位にセンサーだらけ、何もかもが電子制御だらけで、自動車としての基本機能以外の付加価値が満載されている。これらがいずれ経時劣化して故障するのは間違いないのだが、そのへん全部はぐって安いエンジンとトランスミッションに乗せ換えて、『素の自動車』を走らせる遊びができないものだろうか。
できればそのまんま、ライセンスプレート付けて公道使用まで行けたら良いんだけど、無理なら廃墟になったホテルでも工場でも流用してその敷地内限定ででも、自分で自動車を組んで走らせられる場所を用意するだけで、頭脳も体力も、日本社会の『使える基礎技術力』は一定代向上すると思うんだけどねえ。
身近にあれだけ自分で気軽にいじりまわして、判りやすく自分の能力の成果を刈り取れる題材を、私は他に知らない。
最近では割と若い子でたまに車好きを見かけても、ショップ任せでぴっかぴか綺麗に整備した車に乗っているケースがキホン多くて、貧乏ユーザーが散々手を尽くしメカ工学機能を維持して一生懸命乗っているパターンに出遭わないのだよ。ありていに言えば、ドカタ領域の車好きがいなくなって寂しい。
機械は、勉強して設計して組み立てて整備して、それで初めて至高の楽しみ・技術屋のメシのタネになるのだ。
せっかくの若い頭脳と体力をユーザーの立場にばかり居残らせる日本社会は、このままではまだまだ何十年も『失われた時間』を浪費しつつ、観光立国とやらで史跡資産ハードウェアも国家生産力ソフトウェアも、ぼろぼろに擦り切らせていくことだろう。
案の定というか、このところ見境ない自動車の電動化政策が目に見えて世界中でポシャり始めた。
もともと欧州は、政治勢力が思想的に暴走して、現実性を欠いた理想郷政策をぶち上げる傾向がある。それは確かに大衆社会の常識にあぐらをかいた慢心を打ち切り、わざわざの努力に腰を上げて人類がまたひとつ文明の歩を進めるための創造的ハプニングではあるのだが、世の道理として成立解が無いものについては『無いものねだり』を早期に見切ってイチ抜けに転じた者がブレークスルーして先へ行く。
ここまで承知の上で、世の技術屋がスタンスを決めているように見受けるのだ。
来日した現地エンジニアたちと会話していると『無能の政治家が現実を見ない政策で社会を混乱させ、国力損失を発生させるのはどこの国も一緒だよ』なんてみんな笑うのだが、やはり海外は何だかんだで皆さんしたたかだ。自由経済市場の荒海で、潮目を読み損ねたら沈没するのは自分だからな。
誤解の無いよう繰り返しておくが、私は自動車の電動化技術を全面否定はしない。
電力供給網に合わせEV運用エリアを限定してライドシェアにするなり【1025】、集電機能を持たせた高速道路を基軸としたEV運輸路線を整備するなり【316】、工夫のしどころはまだあるし、最大の問題である『電気エネルギーは理屈抜きですべからく環境負荷が低い』というトンデモ大ウソに対しても、日射の無い時は自動車の運行ペースを落とすようなライフスタイルの取り組みを本気でやれば、それを定着させられる日本人はそれなりの数がいると思っている。夜は寝ようよ、曇りや雨の日は自然任せのインドアでいいじゃん。
まあしかし、それでも今もって中古バッテリーの充放電性能の保証はできてないし残寿命は読めないし、廃バッテリーの処理技術にしても、コスト的にも環境的にもさっぱり目処が立っていない。それを片付けないと、電動化の大義がまず立たない。
だからって地球上の『燃料』は、圧倒的に生成ペースより消費ペースの方が速いんだから、内燃機関に回帰して従来並みの勢いで好きに燃やしまくって将来安泰とも思えない。そこの代替案が見つからない限りは、徐々に内燃機関は運用ペースを落としていかざるを得なくなる。
ここで改めて『人工的に燃料を生成する』という本末転倒の痴呆フェイク技術論はお呼びでないことを解っておこう。現時点で、燃え落ちてエネルギー放出したあとの『燃えカス』に残る炭素原子を、再びエネルギー充填しながら『燃料』の化学式に組み上げられるのは、植物の光合成だけなのだ【1193】
昭和の時代、学生の小遣いで車が買えて、あれだけ自由に触って好きに乗れたのに。
大学の工学部に行けば、学術情報から加工設備から何もかも全部揃っていたのに。
どうして今、全部なくなっちゃったんだろう?油断してたよ、我々世代のせいだ。
昨夜ひさしぶりに復活したNHK『プロジェクトX』を観た。スカイツリーの話だ。
巨大鋼管を成型するのに古い大型プレス機を使ったそうなのだが、それはいいとして『オペレーター氏の熱意で、無理めの負担にも関わらずきちんと成型できた』みたいに映る語り口があり、そこには正直かなり深刻な不満を覚えた。
プレス機の耐用荷重に収まっていれば、いくつであろうが普通に成型できる。やる。
逆に耐用荷重を越えていたなら、プレス機が壊れるので最初からその板は打たない。絶対にやらない。おいくら提示されても受けない。
ドキュメント仕立てで感動的なドラマにまとめたいのは解るが、人類文明の技術思考を精神論的な融通と混同するかのような演出の制作姿勢にはゆめゆめ賛同できない。
うるさいコト言って申し訳ないが、今後二度と繰り返さぬよう重々心得られたい。
『失われたウン十年』は、日本人が『造ること』を嫌がって忘れて、全員ユーザー側の立場を決め込みたがるようになってしまったウン十年なのかも知れないと思った。
造れば良かったのに、刷り足されたバラマキ日本円を手にユーザーになり続けた。
モノ造りイベントでは『ユーザーやめて造りたいと思う衝動』が作れてるのかなあ。
無価値な通貨を手にして客席ばかり埋めたところで、ステージ・パフォーマンスは成立しないし、もちろん組織生命リビドーも発現しない。
もののはずみで結構、若気の至りでステージに踏み出すその一歩にグッドラック!
う~ん、日本の角田くんは10位かあ。まあ頑張ってくれ、応援してるので御健闘を!
今どきショールームの新車は軽自動車でさえ200万円近い値札が付いているし、納期が年単位かかるケースも珍しくないというから、若い人たちには到底手が届かなくなってしまっているのが悲しい。
車ってそんなもんかあ?1万5千円の中古車を買ってきて、そこらの部品屋で合いそうなラジエター5千円を調達して乗っていた時代が遠く懐かしい。『現車、見る?』と訊かれて、薄暗くなった時間帯だとはいえ中古車ディーラーがライセンスプレート無しで十数キロ走って見せにきてくれたのだから、のんびりした時代だったものよ。
最近の車は全方位にセンサーだらけ、何もかもが電子制御だらけで、自動車としての基本機能以外の付加価値が満載されている。これらがいずれ経時劣化して故障するのは間違いないのだが、そのへん全部はぐって安いエンジンとトランスミッションに乗せ換えて、『素の自動車』を走らせる遊びができないものだろうか。
できればそのまんま、ライセンスプレート付けて公道使用まで行けたら良いんだけど、無理なら廃墟になったホテルでも工場でも流用してその敷地内限定ででも、自分で自動車を組んで走らせられる場所を用意するだけで、頭脳も体力も、日本社会の『使える基礎技術力』は一定代向上すると思うんだけどねえ。
身近にあれだけ自分で気軽にいじりまわして、判りやすく自分の能力の成果を刈り取れる題材を、私は他に知らない。
最近では割と若い子でたまに車好きを見かけても、ショップ任せでぴっかぴか綺麗に整備した車に乗っているケースがキホン多くて、貧乏ユーザーが散々手を尽くしメカ工学機能を維持して一生懸命乗っているパターンに出遭わないのだよ。ありていに言えば、ドカタ領域の車好きがいなくなって寂しい。
機械は、勉強して設計して組み立てて整備して、それで初めて至高の楽しみ・技術屋のメシのタネになるのだ。
せっかくの若い頭脳と体力をユーザーの立場にばかり居残らせる日本社会は、このままではまだまだ何十年も『失われた時間』を浪費しつつ、観光立国とやらで史跡資産ハードウェアも国家生産力ソフトウェアも、ぼろぼろに擦り切らせていくことだろう。
案の定というか、このところ見境ない自動車の電動化政策が目に見えて世界中でポシャり始めた。
もともと欧州は、政治勢力が思想的に暴走して、現実性を欠いた理想郷政策をぶち上げる傾向がある。それは確かに大衆社会の常識にあぐらをかいた慢心を打ち切り、わざわざの努力に腰を上げて人類がまたひとつ文明の歩を進めるための創造的ハプニングではあるのだが、世の道理として成立解が無いものについては『無いものねだり』を早期に見切ってイチ抜けに転じた者がブレークスルーして先へ行く。
ここまで承知の上で、世の技術屋がスタンスを決めているように見受けるのだ。
来日した現地エンジニアたちと会話していると『無能の政治家が現実を見ない政策で社会を混乱させ、国力損失を発生させるのはどこの国も一緒だよ』なんてみんな笑うのだが、やはり海外は何だかんだで皆さんしたたかだ。自由経済市場の荒海で、潮目を読み損ねたら沈没するのは自分だからな。
誤解の無いよう繰り返しておくが、私は自動車の電動化技術を全面否定はしない。
電力供給網に合わせEV運用エリアを限定してライドシェアにするなり【1025】、集電機能を持たせた高速道路を基軸としたEV運輸路線を整備するなり【316】、工夫のしどころはまだあるし、最大の問題である『電気エネルギーは理屈抜きですべからく環境負荷が低い』というトンデモ大ウソに対しても、日射の無い時は自動車の運行ペースを落とすようなライフスタイルの取り組みを本気でやれば、それを定着させられる日本人はそれなりの数がいると思っている。夜は寝ようよ、曇りや雨の日は自然任せのインドアでいいじゃん。
まあしかし、それでも今もって中古バッテリーの充放電性能の保証はできてないし残寿命は読めないし、廃バッテリーの処理技術にしても、コスト的にも環境的にもさっぱり目処が立っていない。それを片付けないと、電動化の大義がまず立たない。
だからって地球上の『燃料』は、圧倒的に生成ペースより消費ペースの方が速いんだから、内燃機関に回帰して従来並みの勢いで好きに燃やしまくって将来安泰とも思えない。そこの代替案が見つからない限りは、徐々に内燃機関は運用ペースを落としていかざるを得なくなる。
ここで改めて『人工的に燃料を生成する』という本末転倒の痴呆フェイク技術論はお呼びでないことを解っておこう。現時点で、燃え落ちてエネルギー放出したあとの『燃えカス』に残る炭素原子を、再びエネルギー充填しながら『燃料』の化学式に組み上げられるのは、植物の光合成だけなのだ【1193】
昭和の時代、学生の小遣いで車が買えて、あれだけ自由に触って好きに乗れたのに。
大学の工学部に行けば、学術情報から加工設備から何もかも全部揃っていたのに。
どうして今、全部なくなっちゃったんだろう?油断してたよ、我々世代のせいだ。
昨夜ひさしぶりに復活したNHK『プロジェクトX』を観た。スカイツリーの話だ。
巨大鋼管を成型するのに古い大型プレス機を使ったそうなのだが、それはいいとして『オペレーター氏の熱意で、無理めの負担にも関わらずきちんと成型できた』みたいに映る語り口があり、そこには正直かなり深刻な不満を覚えた。
プレス機の耐用荷重に収まっていれば、いくつであろうが普通に成型できる。やる。
逆に耐用荷重を越えていたなら、プレス機が壊れるので最初からその板は打たない。絶対にやらない。おいくら提示されても受けない。
ドキュメント仕立てで感動的なドラマにまとめたいのは解るが、人類文明の技術思考を精神論的な融通と混同するかのような演出の制作姿勢にはゆめゆめ賛同できない。
うるさいコト言って申し訳ないが、今後二度と繰り返さぬよう重々心得られたい。
『失われたウン十年』は、日本人が『造ること』を嫌がって忘れて、全員ユーザー側の立場を決め込みたがるようになってしまったウン十年なのかも知れないと思った。
造れば良かったのに、刷り足されたバラマキ日本円を手にユーザーになり続けた。
モノ造りイベントでは『ユーザーやめて造りたいと思う衝動』が作れてるのかなあ。
無価値な通貨を手にして客席ばかり埋めたところで、ステージ・パフォーマンスは成立しないし、もちろん組織生命リビドーも発現しない。
もののはずみで結構、若気の至りでステージに踏み出すその一歩にグッドラック!
【1255】咲き競う情報ファイルお花畑の名画ジグソーピース選定眼 [ビジネス]
昨朝ちょうど出掛けようとしたところへ突然の緊急地震速報。続いて津波警報。
慌てて予定を変更してテレビに張り付き、ザッピングを開始した。
テレビ・ラジオの緊急地震速報は、広域災害通知の社会機能としてスピードも実効性も、かなり『現時点やれることが尽くせている』と見受ける。
テレビは、申し訳ないが字幕だ音声だの工夫はともかくとして、背景で対象地域の危険検知から避難開始に到るまでのリアルタイム映像が確認できるのが圧倒的な強みだ。
最初のどかに船着場近隣を走っていた車が次々と退避を始め、小型船は競うように全速力で港湾から脱出していく。これに続いて大型船も大急ぎで岸を離れて後を追う。
スマホなどパーソナル通信回線に始終べったりと密着しているユーザーは、通信事業者主導による緊急広域通信の割り込みサービスに助けられたしても、せいぜい警告アラーム音と視認性を高めたテロップ表示あたりが関の山だろうから、どうしても状況の認識には制限がかかる。
『現地のただならぬ現状をユーザー本人が直視できる』いわゆる『百聞は一見に如かず』の効力はゆめゆめ侮れない。私の知る限り、不意を突かれて現認者が右往左往の浮足立った直感で流す映像こそ、過去の検討を経てワザを利かされた映像よりも、別格の切迫感を喚起できるとする声が多数派である。
テキトーにチャンネルを換えていただけなので違ってたら申し訳ないのだが、国内で人や船や車の動きを追って映していたのはNHK、いっぽう台湾現地の被災の瞬間の動画が早かったのは民放だったように見受けた。良い悪いの批評をするつもりはなく、視聴者の立場としては双方うまく棲み分けされていて、どこを回しても同質のものが出てくるより有難かった。
『未加工のまま最短時間で届く現在進行中の現実』を確信できる情報は、間違いなく受信者に響く。ひとつ確実な定番解である。
ただ未加工ゆえ画像にせよ音声にせよ、見方・受け取り方を知らない受信者には響かないので、そこを埋めるために赤や黄色の大胆テロップと繰り返しの呼び掛けを添えるというコンセプトで、現状各局の画面構成はひと通り精一杯に頑張れていると感じた。
ただひとつ呆れ返ったのは『戦闘機が調査に飛んでいます』みたいなナレーションを流していたどあほが混ざり込んでいたことである。
変動帯・日本列島においてはどこも等しく震災のリスクがあり【404】【436】、現時点で現実問題として地震予測は技術的に不可能であるため、発生都度対応のスピード勝負に特化せざるを得ない。
国民生活がある領土内としては最大震度4で済んでいたし、その離島から遥か遠くの内地の立場ではなおさら切迫感が薄かったのは事実だが、緊急地震速報の発信ルートにこんな遊び半分の不真面目文言を混ぜ込んで良いか悪いかも判らないような非国民が紛れ込んでいる現実には失望した。
重篤な損害が現実化する前に、日本国の危機管理として緊急の対応処置が必要だ。
離着陸速度が高いため長大な整備滑走路を必要とする戦闘機が本当に飛んだかどうかは知らないが、大地震でてんやわんやの台湾に一方的に断りだけ入れて、現地上空に踏み込んで高見の見物をする訳には行かないはずなのだ。そんなことも判らないのか。
そもそも日ごろ大陸側から領空・領海の境界線を割り込まれては牽制に忙しい一帯なんだし、秒を争う必要性があったにしても軍用機で出掛けたりしたら、それ自体が死ぬほどムダな悶着の火種になるばかりである。
万一よもや余震が南西諸島を襲って基地の滑走路が損傷した日には、帰投先を失う。
本当に戦闘機を発進させたのなら、その理由が知りたい。
本当に戦闘機が発進しなかったのなら、わざわざにこんな虚偽の情報を緊急地震速報に混ぜ込んだ、あまりに不自然な公共発信の真意が知りたい。不適切にも程がある。
せっかく強みもあるのに、みんなテレビを観なくなるワケだよ、くだらねえな。
おっとっと、ここまで結構な分量になってしまったので、前回の内容の補足をして後を埋めよう。ちょっと失敗して解りづらい文章になってしまい気になっていたのだ。
まず、ヒトが複数いるだけのデタラメな群衆にステージ・パフォーマンスが自然発生すると、それが原動力となって『組織』が形成されるのだと述べた。
これと同じく、漫然と生きるだけのデタラメな体組織に部位別役割の因果と分担が自然発生すると、それが原動力となって『ヒトひとり』が形成される。
…で、ここまでは、身体構造ハードウェアとしての『ヒトひとり』なのである。
この『ヒトひとり』ハードウェアには情報体系としての『人格』は備わっていない。
おぎゃあと生まれたら、まずは体験記憶の情報ファイルが片っ端から蓄積される。
そしてこのデタラメな体験記憶の情報ファイル群に、ナニガシか因果づけがなされて、入出力の変換を定義する演算プロセスがでっち上げられ始めると、それが原動力となって『人格ひとつ』が形成される。
こうして情報的に白紙だった身体構造ハードウェアに、情報構造ソフトウェアとしての『人格ひとつ』が収まる姿になっていく。この順番ではないかと思う。
私は自分の就寝中の夢を考察していて、記憶の断片を無作為に結び付けては、強引に一本のストーリー成立を決めつけるかのような情報処理が起こっているのではないか…と仮説を立てた【693】【937】
これって、まさに体験記憶の情報ファイル群から演算プロセスを新規構築しようとする創出工程の顕れではないかと思う。
こんなプログラミング作業が就寝中に起こっているのだとすると、なるほど某・数学者さんの『人間とは便利にできていて、寝ている間に脳みそが自動的に考えてくれるから、壁にぶつかってもあんまり気負う必要はない』とする経験則も、人間の情報特性的に根拠のある正攻法だと言えそうだ【629】
記号接地がどうたらこうたら理屈捏ねてクチばかり動かしているヒマがあったら、おのれの五感でひとつでも多く『この世の因果律』を体験し、情報ファイルのストックを質・量の両方で充実させることだ。
そして目いっぱい『この世の因果律』を体験したら、よく眠ること。これだよ。
今年は意外なほど桜の開花が遅かったが、いったん開花したら意外なほど早く満開まで突走っているように思う。
天気も気温もなかなか狙いを定めるのが難しそうな今年の花見だが、うまくスケジュールを命中させて、咲き乱れる桜の花のもとでTVアニメ『悪の華』エンディング曲を楽しく合唱していただきたい。では盛り上がる宴にグッドラック!
慌てて予定を変更してテレビに張り付き、ザッピングを開始した。
テレビ・ラジオの緊急地震速報は、広域災害通知の社会機能としてスピードも実効性も、かなり『現時点やれることが尽くせている』と見受ける。
テレビは、申し訳ないが字幕だ音声だの工夫はともかくとして、背景で対象地域の危険検知から避難開始に到るまでのリアルタイム映像が確認できるのが圧倒的な強みだ。
最初のどかに船着場近隣を走っていた車が次々と退避を始め、小型船は競うように全速力で港湾から脱出していく。これに続いて大型船も大急ぎで岸を離れて後を追う。
スマホなどパーソナル通信回線に始終べったりと密着しているユーザーは、通信事業者主導による緊急広域通信の割り込みサービスに助けられたしても、せいぜい警告アラーム音と視認性を高めたテロップ表示あたりが関の山だろうから、どうしても状況の認識には制限がかかる。
『現地のただならぬ現状をユーザー本人が直視できる』いわゆる『百聞は一見に如かず』の効力はゆめゆめ侮れない。私の知る限り、不意を突かれて現認者が右往左往の浮足立った直感で流す映像こそ、過去の検討を経てワザを利かされた映像よりも、別格の切迫感を喚起できるとする声が多数派である。
テキトーにチャンネルを換えていただけなので違ってたら申し訳ないのだが、国内で人や船や車の動きを追って映していたのはNHK、いっぽう台湾現地の被災の瞬間の動画が早かったのは民放だったように見受けた。良い悪いの批評をするつもりはなく、視聴者の立場としては双方うまく棲み分けされていて、どこを回しても同質のものが出てくるより有難かった。
『未加工のまま最短時間で届く現在進行中の現実』を確信できる情報は、間違いなく受信者に響く。ひとつ確実な定番解である。
ただ未加工ゆえ画像にせよ音声にせよ、見方・受け取り方を知らない受信者には響かないので、そこを埋めるために赤や黄色の大胆テロップと繰り返しの呼び掛けを添えるというコンセプトで、現状各局の画面構成はひと通り精一杯に頑張れていると感じた。
ただひとつ呆れ返ったのは『戦闘機が調査に飛んでいます』みたいなナレーションを流していたどあほが混ざり込んでいたことである。
変動帯・日本列島においてはどこも等しく震災のリスクがあり【404】【436】、現時点で現実問題として地震予測は技術的に不可能であるため、発生都度対応のスピード勝負に特化せざるを得ない。
国民生活がある領土内としては最大震度4で済んでいたし、その離島から遥か遠くの内地の立場ではなおさら切迫感が薄かったのは事実だが、緊急地震速報の発信ルートにこんな遊び半分の不真面目文言を混ぜ込んで良いか悪いかも判らないような非国民が紛れ込んでいる現実には失望した。
重篤な損害が現実化する前に、日本国の危機管理として緊急の対応処置が必要だ。
離着陸速度が高いため長大な整備滑走路を必要とする戦闘機が本当に飛んだかどうかは知らないが、大地震でてんやわんやの台湾に一方的に断りだけ入れて、現地上空に踏み込んで高見の見物をする訳には行かないはずなのだ。そんなことも判らないのか。
そもそも日ごろ大陸側から領空・領海の境界線を割り込まれては牽制に忙しい一帯なんだし、秒を争う必要性があったにしても軍用機で出掛けたりしたら、それ自体が死ぬほどムダな悶着の火種になるばかりである。
万一よもや余震が南西諸島を襲って基地の滑走路が損傷した日には、帰投先を失う。
本当に戦闘機を発進させたのなら、その理由が知りたい。
本当に戦闘機が発進しなかったのなら、わざわざにこんな虚偽の情報を緊急地震速報に混ぜ込んだ、あまりに不自然な公共発信の真意が知りたい。不適切にも程がある。
せっかく強みもあるのに、みんなテレビを観なくなるワケだよ、くだらねえな。
おっとっと、ここまで結構な分量になってしまったので、前回の内容の補足をして後を埋めよう。ちょっと失敗して解りづらい文章になってしまい気になっていたのだ。
まず、ヒトが複数いるだけのデタラメな群衆にステージ・パフォーマンスが自然発生すると、それが原動力となって『組織』が形成されるのだと述べた。
これと同じく、漫然と生きるだけのデタラメな体組織に部位別役割の因果と分担が自然発生すると、それが原動力となって『ヒトひとり』が形成される。
…で、ここまでは、身体構造ハードウェアとしての『ヒトひとり』なのである。
この『ヒトひとり』ハードウェアには情報体系としての『人格』は備わっていない。
おぎゃあと生まれたら、まずは体験記憶の情報ファイルが片っ端から蓄積される。
そしてこのデタラメな体験記憶の情報ファイル群に、ナニガシか因果づけがなされて、入出力の変換を定義する演算プロセスがでっち上げられ始めると、それが原動力となって『人格ひとつ』が形成される。
こうして情報的に白紙だった身体構造ハードウェアに、情報構造ソフトウェアとしての『人格ひとつ』が収まる姿になっていく。この順番ではないかと思う。
私は自分の就寝中の夢を考察していて、記憶の断片を無作為に結び付けては、強引に一本のストーリー成立を決めつけるかのような情報処理が起こっているのではないか…と仮説を立てた【693】【937】
これって、まさに体験記憶の情報ファイル群から演算プロセスを新規構築しようとする創出工程の顕れではないかと思う。
こんなプログラミング作業が就寝中に起こっているのだとすると、なるほど某・数学者さんの『人間とは便利にできていて、寝ている間に脳みそが自動的に考えてくれるから、壁にぶつかってもあんまり気負う必要はない』とする経験則も、人間の情報特性的に根拠のある正攻法だと言えそうだ【629】
記号接地がどうたらこうたら理屈捏ねてクチばかり動かしているヒマがあったら、おのれの五感でひとつでも多く『この世の因果律』を体験し、情報ファイルのストックを質・量の両方で充実させることだ。
そして目いっぱい『この世の因果律』を体験したら、よく眠ること。これだよ。
今年は意外なほど桜の開花が遅かったが、いったん開花したら意外なほど早く満開まで突走っているように思う。
天気も気温もなかなか狙いを定めるのが難しそうな今年の花見だが、うまくスケジュールを命中させて、咲き乱れる桜の花のもとでTVアニメ『悪の華』エンディング曲を楽しく合唱していただきたい。では盛り上がる宴にグッドラック!
【1254】未来極東のライト兄弟はフェイク作画のマルチ商法屋 [ビジネス]
NHK朝ドラ『ブギウギ』が最終回を迎え、そこにちょうど間に合うカタチで『あさイチ』の朝ドラ受けとプレミアムトークが戻ってきた。おお、新年度のプロローグ。
さて前回、ヒトの集団が成す社会組織には『組織生命リビドー』とも呼ぶべき原動力エネルギーが潜在しており、それはパフォーマーvsオーディエンスの対比を内包するステージ・パフォーマンスの構造になって顕れると述べた。
ここから拡がる話題は数限りなくあるのだが、他の時事トピックについ噛みついてそのまま本線復帰を忘れてしまうことが私には普通にあるので、ひとつ今のうちに言い切っておきたいところを先に済ませておく。
ヒト個々人が各自に閉じた『意識』『主観』『自我』みたいなものを持っているとしよう。呼び方はどれでもいいや、要は情報世界の『ジブン』です。
こいつらを複数人数、ひとところに集めたとして、まずは『ただの群衆』だ。
集めた人数分の呼吸で酸素消費もするしメシも喰うが、その数量効果以上のコトは何も起こらない。
ここに世間話でも歌でもパントマイムでも、何かひとつコミュニケーション事象を共有して群衆がパフォーマーとオーディエンスに分かれ始めると、そこにステージ・パフォーマンスが自然発生し『組織生命リビドー』が発現する。
まだ目的を定めて行動を起こすような具体性は持っていないが、最初の最初にこのエネルギー源が発火したからこそ、このきっかけに他がうまく巡り合わせれば『組織力』が起動する。
『ワクワクするような目標を見つければ、一同が湧きたって職場が活性化する』
…みたいなイメージで企業理念の文言に頭を悩ませる前に、その土壌がきちんと整備されていなければ永遠に空振りが続くだけだ。
おっと危ねえ、脱線するよ。これはこれでまあいいや、各自で御一考されたい。
今日済ませる本題に戻して、久しぶりに『組織フラクタル構造』で考えてみよう。
組織の一部を拡大視すると、そこに全体像の相似形が顕れるというやつだ。
まずヒトの集団は、最初『ただの群衆』なのだが、たまたまステージ・パフォーマンスの自然発生に恵まれて『組織生命リビドー』の動力源に火が入り、実効性ある『組織力』を備えた『組織生命体』になる。
そこには、群衆の構成要素である個々人の誰からも情報的に浮いた『組織の自我』が発現しており、その組織生命体は、個々人の誰にも従わない『組織力』をもって世に振舞う。
この総観的構図は、一段階スケールダウンしてヒトひとりにも収まっているのだ。
まず細胞分裂を始めたばかりのヒト幼生は、最初カツオノエボシみたいな、ただの生体細胞の集合体なのだろう【607】
栄養分と酸素を消費して生きているだけの細胞たちに、そのうちステージ・パフォーマンス形態の役割分担が自然発生し始める。
軽く余談を突込んでおくと、つまりステージ・パフォーマンス以前のただの群衆イチ要素の段階にまで立ち戻ることができれば、それがいわゆる転用自在の原生万能細胞=IPS細胞になるはずなんだよな。
…で、そっちは今ちょっと置いとくとして、どんどん細胞分裂を繰り返しては機能分化する順番で、ヒトは人間イチ個体としての総合機能体系を完成させていく。まさに体組織が、『群衆』から『組織』へ移行していくのである。
キホンここまでの完成度でヒトはおぎゃあと生まれてくるのだろう。
出生の瞬間から、情報的にはヒトへの『外界情報の記録インプット』が始まる。
初期段階で赤ん坊の情報ストレージ空間に記録されていくのは『ただの情報群』でしかない。ヒトを人数カウントで集めただけの、社会的に無意味な『ただの群衆』と同じく、赤ん坊も薄らトンカチにメシ食って出しながらあれこれ見覚えるだけの『ただの情報群』でしかなく、情報体としての機能をまだ持っていない。
見覚え聞き覚えの記録の断片を、ひたすら書き込んで積んでいくだけなのだ。
ヒトを集めた『ただの群衆』の漫然や混沌の中から、ステージ・パフォーマンス構造が組み上がって、そこに『組織の自我』が発現してきて、組織生命体となる。
記録を集めた『ただの情報群』にも、ステージ・パフォーマンス相当の因果律構造が組み上がって、そこに『意識』『主観』『自我』が発現してくるのではなかろうか。
『意識』『主観』『自我』って、ヒトが思うほど手の届かない神秘のオカルト現象ではないんじゃないかなあ。
以前からここでは『意識や主観の正体とは、五感のリアルタイム入力を過去の記憶ファイルとを整合する工程の内視ビューであり、故に記憶ファイルなくして自我の実体は無いはずだ』と考察してきたが【1006】、恐らく間違ってはいない。
忘れないうちにそれを言い切っておきたかったのだ。よし、ミッション完了。
やっぱり群衆がいて、そこにステージ・パフォーマンスが始まるという流れは、生物が宿す生命力の原点に直結するような、宿命の導きがあるんではないかと感じる。
現代社会の日常生活においてステージ・パフォーマンスは、ついつい『必要ぶんの生産』ではなく『余裕ぶんの消費』としての遊び事・レクリエーションである…と人生のアクセサリー領域みたいに解釈してしまいがちだ。だがヒトが最も解放され自由に過ごせる時空でそれをやろうとするのは、ヒトの誰もが等しく自然にそっちに傾く共通の方向性を備えている事実の裏付けなのではなかろうか。
放っておいてステージ騒ぎがさっぱり自然発生せず、けしかけても誰ひとりステージに乗って来ないような、あるいは取り囲んで盛り上がらないような群衆は、もう組織生命体として世を駆けまわるリビドーの火種が消えているのかも知れない。
逆にまだどこかに生命力の潜伏を見込めるなら、過半数が賛同してノッてくるステージ発現のきっかけを模索する価値は残っている。
いま目標を持てない子供たち若者たちには、めくら滅法でガチ学校成績の点稼ぎにしかならなくて良いから、片っ端からかぶりついて何かひとつでも、人並が60点なのに自分が20点でも、とにかく勉強してゼロでない能力領域を身に付けておくよう勧める。
ある日きっかけに出遭ってステージのどこかに首を突込むための持ち駒を、手当たり次第ストックしておくのだ。
世界各国が実現しているジェット旅客機もロケットも、モノにならない後進国家。
こんな無能の群衆に『ジェット戦闘機造って他国に売って良いかどうか』は問題か?
なんじゃあの速度トロくて運動性悪そうな米戦闘機のちびっこ劣化版CG画は?
突然に『リージョナルジェットをまたやりたい』みたいな寝言のリフレインも聞こえてきたが、世界に恥じる量産ヘリの日和見墜落の失敗さえ原因解明も再発防止もできない現状ニッポンは、そもそも航空機を開発する技術力なんぞ捻りだしようのない『ただの群衆』なのである。『技術力のたかひく』以前の問題だ。
本気で国産航空機の開発を夢見ない群衆は、航空機開発名目のバラマキ日本円に群がる。その日本円は、自国産業なんかどうなろうが興味の無い、抜けガラ日本国民の無関心納税でまかなわれている。国際的には『無能の国の無価値な通貨』になるワケだよ。
国家組織の特性、組織力としての国力は、組織の過半数が決めると述べた。
とうの昔に機能喪失した国務アイテムの残骸を、まだ今さら公共事業詐欺のネタにする方もする方だが、まんまと思考停止の無抵抗で身を預け、上がり続ける徴税に隷従する方もする方である。
こんな運営方針で、日本国組織は明るい組織寿命を過ごせるものだろうか?
その答を出して行動を起こすのも、1億2千万人日本社会の過半数である。
…お。まずまず大層なスケールの結論で今季朝ドラのテーマをくくれたぞ。
では週明けからの『虎に翼』の新規ステージを楽しみに、来週もグッドラック!
さて前回、ヒトの集団が成す社会組織には『組織生命リビドー』とも呼ぶべき原動力エネルギーが潜在しており、それはパフォーマーvsオーディエンスの対比を内包するステージ・パフォーマンスの構造になって顕れると述べた。
ここから拡がる話題は数限りなくあるのだが、他の時事トピックについ噛みついてそのまま本線復帰を忘れてしまうことが私には普通にあるので、ひとつ今のうちに言い切っておきたいところを先に済ませておく。
ヒト個々人が各自に閉じた『意識』『主観』『自我』みたいなものを持っているとしよう。呼び方はどれでもいいや、要は情報世界の『ジブン』です。
こいつらを複数人数、ひとところに集めたとして、まずは『ただの群衆』だ。
集めた人数分の呼吸で酸素消費もするしメシも喰うが、その数量効果以上のコトは何も起こらない。
ここに世間話でも歌でもパントマイムでも、何かひとつコミュニケーション事象を共有して群衆がパフォーマーとオーディエンスに分かれ始めると、そこにステージ・パフォーマンスが自然発生し『組織生命リビドー』が発現する。
まだ目的を定めて行動を起こすような具体性は持っていないが、最初の最初にこのエネルギー源が発火したからこそ、このきっかけに他がうまく巡り合わせれば『組織力』が起動する。
『ワクワクするような目標を見つければ、一同が湧きたって職場が活性化する』
…みたいなイメージで企業理念の文言に頭を悩ませる前に、その土壌がきちんと整備されていなければ永遠に空振りが続くだけだ。
おっと危ねえ、脱線するよ。これはこれでまあいいや、各自で御一考されたい。
今日済ませる本題に戻して、久しぶりに『組織フラクタル構造』で考えてみよう。
組織の一部を拡大視すると、そこに全体像の相似形が顕れるというやつだ。
まずヒトの集団は、最初『ただの群衆』なのだが、たまたまステージ・パフォーマンスの自然発生に恵まれて『組織生命リビドー』の動力源に火が入り、実効性ある『組織力』を備えた『組織生命体』になる。
そこには、群衆の構成要素である個々人の誰からも情報的に浮いた『組織の自我』が発現しており、その組織生命体は、個々人の誰にも従わない『組織力』をもって世に振舞う。
この総観的構図は、一段階スケールダウンしてヒトひとりにも収まっているのだ。
まず細胞分裂を始めたばかりのヒト幼生は、最初カツオノエボシみたいな、ただの生体細胞の集合体なのだろう【607】
栄養分と酸素を消費して生きているだけの細胞たちに、そのうちステージ・パフォーマンス形態の役割分担が自然発生し始める。
軽く余談を突込んでおくと、つまりステージ・パフォーマンス以前のただの群衆イチ要素の段階にまで立ち戻ることができれば、それがいわゆる転用自在の原生万能細胞=IPS細胞になるはずなんだよな。
…で、そっちは今ちょっと置いとくとして、どんどん細胞分裂を繰り返しては機能分化する順番で、ヒトは人間イチ個体としての総合機能体系を完成させていく。まさに体組織が、『群衆』から『組織』へ移行していくのである。
キホンここまでの完成度でヒトはおぎゃあと生まれてくるのだろう。
出生の瞬間から、情報的にはヒトへの『外界情報の記録インプット』が始まる。
初期段階で赤ん坊の情報ストレージ空間に記録されていくのは『ただの情報群』でしかない。ヒトを人数カウントで集めただけの、社会的に無意味な『ただの群衆』と同じく、赤ん坊も薄らトンカチにメシ食って出しながらあれこれ見覚えるだけの『ただの情報群』でしかなく、情報体としての機能をまだ持っていない。
見覚え聞き覚えの記録の断片を、ひたすら書き込んで積んでいくだけなのだ。
ヒトを集めた『ただの群衆』の漫然や混沌の中から、ステージ・パフォーマンス構造が組み上がって、そこに『組織の自我』が発現してきて、組織生命体となる。
記録を集めた『ただの情報群』にも、ステージ・パフォーマンス相当の因果律構造が組み上がって、そこに『意識』『主観』『自我』が発現してくるのではなかろうか。
『意識』『主観』『自我』って、ヒトが思うほど手の届かない神秘のオカルト現象ではないんじゃないかなあ。
以前からここでは『意識や主観の正体とは、五感のリアルタイム入力を過去の記憶ファイルとを整合する工程の内視ビューであり、故に記憶ファイルなくして自我の実体は無いはずだ』と考察してきたが【1006】、恐らく間違ってはいない。
忘れないうちにそれを言い切っておきたかったのだ。よし、ミッション完了。
やっぱり群衆がいて、そこにステージ・パフォーマンスが始まるという流れは、生物が宿す生命力の原点に直結するような、宿命の導きがあるんではないかと感じる。
現代社会の日常生活においてステージ・パフォーマンスは、ついつい『必要ぶんの生産』ではなく『余裕ぶんの消費』としての遊び事・レクリエーションである…と人生のアクセサリー領域みたいに解釈してしまいがちだ。だがヒトが最も解放され自由に過ごせる時空でそれをやろうとするのは、ヒトの誰もが等しく自然にそっちに傾く共通の方向性を備えている事実の裏付けなのではなかろうか。
放っておいてステージ騒ぎがさっぱり自然発生せず、けしかけても誰ひとりステージに乗って来ないような、あるいは取り囲んで盛り上がらないような群衆は、もう組織生命体として世を駆けまわるリビドーの火種が消えているのかも知れない。
逆にまだどこかに生命力の潜伏を見込めるなら、過半数が賛同してノッてくるステージ発現のきっかけを模索する価値は残っている。
いま目標を持てない子供たち若者たちには、めくら滅法でガチ学校成績の点稼ぎにしかならなくて良いから、片っ端からかぶりついて何かひとつでも、人並が60点なのに自分が20点でも、とにかく勉強してゼロでない能力領域を身に付けておくよう勧める。
ある日きっかけに出遭ってステージのどこかに首を突込むための持ち駒を、手当たり次第ストックしておくのだ。
世界各国が実現しているジェット旅客機もロケットも、モノにならない後進国家。
こんな無能の群衆に『ジェット戦闘機造って他国に売って良いかどうか』は問題か?
なんじゃあの速度トロくて運動性悪そうな米戦闘機のちびっこ劣化版CG画は?
突然に『リージョナルジェットをまたやりたい』みたいな寝言のリフレインも聞こえてきたが、世界に恥じる量産ヘリの日和見墜落の失敗さえ原因解明も再発防止もできない現状ニッポンは、そもそも航空機を開発する技術力なんぞ捻りだしようのない『ただの群衆』なのである。『技術力のたかひく』以前の問題だ。
本気で国産航空機の開発を夢見ない群衆は、航空機開発名目のバラマキ日本円に群がる。その日本円は、自国産業なんかどうなろうが興味の無い、抜けガラ日本国民の無関心納税でまかなわれている。国際的には『無能の国の無価値な通貨』になるワケだよ。
国家組織の特性、組織力としての国力は、組織の過半数が決めると述べた。
とうの昔に機能喪失した国務アイテムの残骸を、まだ今さら公共事業詐欺のネタにする方もする方だが、まんまと思考停止の無抵抗で身を預け、上がり続ける徴税に隷従する方もする方である。
こんな運営方針で、日本国組織は明るい組織寿命を過ごせるものだろうか?
その答を出して行動を起こすのも、1億2千万人日本社会の過半数である。
…お。まずまず大層なスケールの結論で今季朝ドラのテーマをくくれたぞ。
では週明けからの『虎に翼』の新規ステージを楽しみに、来週もグッドラック!
【1253】孤高のトップスターと大衆地盤の相対標高差 [ビジネス]
久し振りに『リビドー』という単語を思い出した。
どなたも一度くらいは耳にしたことがあると思う。有名な心理学者フロイトが提唱した概念なのだが、何だかおかしな誤解のされ方をして、その誤解版のほうが、あっちこっちで定説めいた語り口で扱われているケースが多い。
よくある俗説の失敗例としては『難しい解釈過程がごちゃごちゃあるが、つまるところリビドーとは性欲であり、ヒトがこの世で何かしようと思い立つ動機を追究していくと、全てはリビドーに行き着く』という論説パターンだ。要は『ヒトの活動は結局すべからく性欲由来』とする定説となって広く親しまれている。
ウマい笑い話的に『なるほど人間なんてそんなもんだ』と誰にでも合点されやすいためか、なんちゃってサイエンスのウンチク都市伝説として根付いているようだ。
ここでいきなりの横道なのだが、この『リビドー』も、ロクすっぽ学術的な深堀りもなく我々世代の高校科目『倫理・社会』の教科書に登場した【1244】
今もって倫社の授業を回想するに、サイエンスとしての情報体・人間の基本特性、その分析および解明の歴史的経緯と、そんな人間たちが生み出してきた思想や世界観の実例など、きちんと関連付けられて教示された気はまるでしない。むしろ未整理な情報の断片を強引にひと袋にくくっただけの無理筋の知識カテゴライズの印象が、当時も今もついてまわるばかりだ。
義務教育の年齢でもなくなったハイティーン学生としては耳にしておくべき教養だろうし、とりあえず若い頭脳に押し込んじまえ、後の人生で必要に応じて各自で掘り下げればよかろう、ぐらいの割り切りがあったんでしょうかね。
ともあれ『リビドー』とは性欲ではなく、人間が生きて寿命を過ごすにあたって『理屈抜きの衝動』が、具体的な標的もなく漫然・漠然と存在し、それを原動力としていろんなことが起こるので、その理屈抜きの衝動をフロイトが『リビドー』と名付けた。そういう位置関係で間違っていないはずである。
生き物でいる以上は腹が減って食い物が欲しくなり、そんなとき食い物を見つけたら喰らいつくし、逆に自分を喰らいに来るようなヤツには抵抗するなり離脱するなりで対処する。こういうのは個体保存の道理に沿って起こる必然の因果だとして、他方その因果律とは別系統の行動、例えば異性めがけて一目散に絡みに行こうとするような動機の元となる精神エネルギー源が別にある。これが『リビドー』である。
大好きな異性には自分の食い物を譲っちゃうし、大好きな異性を無事に逃がすためには我が身が餌食になる危険にも身を晒す。明らかに個体保存とは別系統なのだ。
まあとにかくヒトを含めて生き物は、とりあえず個体保存して、そこに居続けることを原点ゼロ状態として、そのまま何にも関わらず生まれて死んでいくだけなら、ただの地球上生命のイチ単位である。影響力ゼロ、そいつの周囲世界には何ひとつアクティブ変化は起きない。
そうじゃなくて、原点ゼロからイチなり10なり500なり『何か起こす』、足し算勘定のアクティブ発動を自然発生させるエネルギー源が生き物には内蔵されていて、それが『リビドー』なのだと私は考えている。情報処理ではなく『起震』機能とでもいうか。
ここまで頭に入れておいていただいて、前々回に紹介した北米の俗社会的(?)ステージ・パフォーマンスの事例について考えてみよう。
できる素質を持ち合わせたヤツがいて、通りがかってふと興味を覚えた取り巻きがくっついて、もうそれだけで、そこには『パフォーマーと観客で分担し合うエンタメ社会組織』が自然発生する。
そして、各々の立場で最もハッピーに浸れる時空間を目指し、パフォーマーは発信を工夫するし、観客は拍手と歓声でその成果をフィードバックするしで、みんなしてその時空を『良いコト』『幸福』として盛り上げるワケだ。
こんな原始的な巡り合わせがコトの始まりであろうことに異論を唱える方はおられないと思う。のちに思想や社会構造の文明が組み上がってくるにつれ、儀式や演劇やコンサートや学校授業、そして企業など機能性社会組織の活動に枝分かれ進化していって、いま各々の現状に到達しているのではないだろうか。
今の時代に演劇や演奏会というと、ついつい『非凡なタレント人種が、無才の凡人の関心を集めて、発信源の一点から大衆先導する』という構図で、余暇に楽しむ特別な社会活動の形態としてとらえてしまいがちなところだが、そうではないと思う。
むしろ、複数のヒトで構成される社会組織が協調作用に成功して、ひとまとまりの組織力をもって振舞う、その原理原則モデルがこの『原始的ステージ・パフォーマンスを内包した一群』なのではないだろうか。
先に冒頭の流れの結論だけ言い切ってしまうなら、この原始的ステージ・パフォーマンスこそが、ヒトのリビドーに相当する『組織生命体のリビドー』なのだと思う。
パフォーマーにとっては発信がハッピーで、オーディエンスにとっては受信がハッピーで、どっちにとっても飛び交うコミュニケーションの全てがハッピーで、そんな連中が噛み合って構成する組織体は、何か標的を見つけるとガンガン喰い付いて、片っ端からモノにして、モノにしたら次なる獲物を探そうと一層貪欲になる。
『リビドーなきところに行動意欲なし、リビドーの降臨こそが始まり』だ。
どうにでもばらつく母集団の中に、この組織生命リビドーが偶発したところから、あらゆる社会現象が巻き起こってくるのだろうし、企業組織なんかが立ち上がって台頭してくるのだろうと思っている。
みんな仲良く一列一本おてて繋いで輪になって、その円周上まんべんなく同じくらい意欲的でいて、全周から一斉に『やろうぜ!』と活力が湧き上がって目覚ましい成果を上げるヒトの集団は見たことがない。
理由は簡単、そもそも個々人のばらつきがあって集団は均質ではないからである。
もちろんだけれど、組織生命リビドーが発現し活性化する土壌として、母集団の過半数が本心から『こうなったらいいのにな』と夢見る『幸福感の指向性』を共有していなければならない。
例えば…と最後にいっきなりムツカシイ時事問題を持ち出すが『長期低迷から日本経済をすっかりすっきり脱却させたい』と日本国民が本気で思っていないのなら、どんなに才能と体力に溢れたパフォーマーが現れて高らかに歌っても、観客がノってこず徐々に火が消えて、烏合の衆は三々五々の解散となり雲散霧消に終わる。
組織の行方は、優れたパフォーマーではなく『組織の過半数』が決めるのだ。
ヒトは、自己保存とリビドー由来の本能で、その寿命をアクティブに生きる。
組織生命体も、収支採算とリビドー由来の本能で、その寿命をアクティブに生きる。
あっちとこっちの間柄でイイから、ひとつのステージに関わって一緒に楽しもうぜ!
そんな時空、そうなりそうな時空が、あなたの視界のどこかに見えないだろうか。
今季NHK朝ドラ『ブギウギ』を名残惜しみつつ、ラストステージもグッドラック!
どなたも一度くらいは耳にしたことがあると思う。有名な心理学者フロイトが提唱した概念なのだが、何だかおかしな誤解のされ方をして、その誤解版のほうが、あっちこっちで定説めいた語り口で扱われているケースが多い。
よくある俗説の失敗例としては『難しい解釈過程がごちゃごちゃあるが、つまるところリビドーとは性欲であり、ヒトがこの世で何かしようと思い立つ動機を追究していくと、全てはリビドーに行き着く』という論説パターンだ。要は『ヒトの活動は結局すべからく性欲由来』とする定説となって広く親しまれている。
ウマい笑い話的に『なるほど人間なんてそんなもんだ』と誰にでも合点されやすいためか、なんちゃってサイエンスのウンチク都市伝説として根付いているようだ。
ここでいきなりの横道なのだが、この『リビドー』も、ロクすっぽ学術的な深堀りもなく我々世代の高校科目『倫理・社会』の教科書に登場した【1244】
今もって倫社の授業を回想するに、サイエンスとしての情報体・人間の基本特性、その分析および解明の歴史的経緯と、そんな人間たちが生み出してきた思想や世界観の実例など、きちんと関連付けられて教示された気はまるでしない。むしろ未整理な情報の断片を強引にひと袋にくくっただけの無理筋の知識カテゴライズの印象が、当時も今もついてまわるばかりだ。
義務教育の年齢でもなくなったハイティーン学生としては耳にしておくべき教養だろうし、とりあえず若い頭脳に押し込んじまえ、後の人生で必要に応じて各自で掘り下げればよかろう、ぐらいの割り切りがあったんでしょうかね。
ともあれ『リビドー』とは性欲ではなく、人間が生きて寿命を過ごすにあたって『理屈抜きの衝動』が、具体的な標的もなく漫然・漠然と存在し、それを原動力としていろんなことが起こるので、その理屈抜きの衝動をフロイトが『リビドー』と名付けた。そういう位置関係で間違っていないはずである。
生き物でいる以上は腹が減って食い物が欲しくなり、そんなとき食い物を見つけたら喰らいつくし、逆に自分を喰らいに来るようなヤツには抵抗するなり離脱するなりで対処する。こういうのは個体保存の道理に沿って起こる必然の因果だとして、他方その因果律とは別系統の行動、例えば異性めがけて一目散に絡みに行こうとするような動機の元となる精神エネルギー源が別にある。これが『リビドー』である。
大好きな異性には自分の食い物を譲っちゃうし、大好きな異性を無事に逃がすためには我が身が餌食になる危険にも身を晒す。明らかに個体保存とは別系統なのだ。
まあとにかくヒトを含めて生き物は、とりあえず個体保存して、そこに居続けることを原点ゼロ状態として、そのまま何にも関わらず生まれて死んでいくだけなら、ただの地球上生命のイチ単位である。影響力ゼロ、そいつの周囲世界には何ひとつアクティブ変化は起きない。
そうじゃなくて、原点ゼロからイチなり10なり500なり『何か起こす』、足し算勘定のアクティブ発動を自然発生させるエネルギー源が生き物には内蔵されていて、それが『リビドー』なのだと私は考えている。情報処理ではなく『起震』機能とでもいうか。
ここまで頭に入れておいていただいて、前々回に紹介した北米の俗社会的(?)ステージ・パフォーマンスの事例について考えてみよう。
できる素質を持ち合わせたヤツがいて、通りがかってふと興味を覚えた取り巻きがくっついて、もうそれだけで、そこには『パフォーマーと観客で分担し合うエンタメ社会組織』が自然発生する。
そして、各々の立場で最もハッピーに浸れる時空間を目指し、パフォーマーは発信を工夫するし、観客は拍手と歓声でその成果をフィードバックするしで、みんなしてその時空を『良いコト』『幸福』として盛り上げるワケだ。
こんな原始的な巡り合わせがコトの始まりであろうことに異論を唱える方はおられないと思う。のちに思想や社会構造の文明が組み上がってくるにつれ、儀式や演劇やコンサートや学校授業、そして企業など機能性社会組織の活動に枝分かれ進化していって、いま各々の現状に到達しているのではないだろうか。
今の時代に演劇や演奏会というと、ついつい『非凡なタレント人種が、無才の凡人の関心を集めて、発信源の一点から大衆先導する』という構図で、余暇に楽しむ特別な社会活動の形態としてとらえてしまいがちなところだが、そうではないと思う。
むしろ、複数のヒトで構成される社会組織が協調作用に成功して、ひとまとまりの組織力をもって振舞う、その原理原則モデルがこの『原始的ステージ・パフォーマンスを内包した一群』なのではないだろうか。
先に冒頭の流れの結論だけ言い切ってしまうなら、この原始的ステージ・パフォーマンスこそが、ヒトのリビドーに相当する『組織生命体のリビドー』なのだと思う。
パフォーマーにとっては発信がハッピーで、オーディエンスにとっては受信がハッピーで、どっちにとっても飛び交うコミュニケーションの全てがハッピーで、そんな連中が噛み合って構成する組織体は、何か標的を見つけるとガンガン喰い付いて、片っ端からモノにして、モノにしたら次なる獲物を探そうと一層貪欲になる。
『リビドーなきところに行動意欲なし、リビドーの降臨こそが始まり』だ。
どうにでもばらつく母集団の中に、この組織生命リビドーが偶発したところから、あらゆる社会現象が巻き起こってくるのだろうし、企業組織なんかが立ち上がって台頭してくるのだろうと思っている。
みんな仲良く一列一本おてて繋いで輪になって、その円周上まんべんなく同じくらい意欲的でいて、全周から一斉に『やろうぜ!』と活力が湧き上がって目覚ましい成果を上げるヒトの集団は見たことがない。
理由は簡単、そもそも個々人のばらつきがあって集団は均質ではないからである。
もちろんだけれど、組織生命リビドーが発現し活性化する土壌として、母集団の過半数が本心から『こうなったらいいのにな』と夢見る『幸福感の指向性』を共有していなければならない。
例えば…と最後にいっきなりムツカシイ時事問題を持ち出すが『長期低迷から日本経済をすっかりすっきり脱却させたい』と日本国民が本気で思っていないのなら、どんなに才能と体力に溢れたパフォーマーが現れて高らかに歌っても、観客がノってこず徐々に火が消えて、烏合の衆は三々五々の解散となり雲散霧消に終わる。
組織の行方は、優れたパフォーマーではなく『組織の過半数』が決めるのだ。
ヒトは、自己保存とリビドー由来の本能で、その寿命をアクティブに生きる。
組織生命体も、収支採算とリビドー由来の本能で、その寿命をアクティブに生きる。
あっちとこっちの間柄でイイから、ひとつのステージに関わって一緒に楽しもうぜ!
そんな時空、そうなりそうな時空が、あなたの視界のどこかに見えないだろうか。
今季NHK朝ドラ『ブギウギ』を名残惜しみつつ、ラストステージもグッドラック!
【1252】タイパ時間割の一番コマは朝ドラ15分 [ビジネス]
いまや私もテッパンのNHK朝ドラ視聴層の一員になってしまった。
一日がごちゃごちゃする前の朝8時なので、他の用事に割り込まれて視聴が途切れる失敗が無いというのは有利なんだろうな。
それともうひとつ、一話15分の放送枠ボリュームの見やすさが効いていると思う。
動画サイトを開いてよく目につくのは、視聴時間が十数分のコンテンツだ。
人間が視聴覚情報に接して関心を向け、その内容を理解し記憶するにあたっては、このぐらいの時間単位が最も効率が良いのだという話を聞いたことがある。
講義形式の情報提供で成り立つような教育内容の習得が目的なら、微積分の基礎概念も、エネルギー保存則も、過去分詞形の用法も、十数分の単位に切り分けて動画コンテンツを準備し、あとはひとつ観たらちょっとトイレ行って、またひとつ観たら軽食つまんで…と本人任せにしておくと断然に学習効果があがる。そういうことらしい。
動画コンテンツの制作に大層な設備が必要だったり、その配信網も普及していなかったりという時代においては、受講者を大勢まとめて一室に押し込み、教壇の一箇所から講師の直接プレゼン作業をもってコンテンツ提供をするしかなかった。
そんな集団行動を十数分の細切れにしていては、イチ単位の起動と停止にかかる過渡行程ばかりに時間を浪費してしまい、純粋な内容習得にかけられる時間も集中力も雀の涙となって、とても学習の場にならない。だから時間的にも空間的にも拘束感があって少々窮屈だが、だいたい小学校授業45分から大学講義100分ぐらいの講義コマで教室一斉の授業方式に落ち着いているのだそうだ。
これが真実だとすると、NHK朝ドラはコンテンツのボリュームとして、そもそもから理解を得て受け容れられやすい特性を持っているということになる。
もっとも映画やドラマは『よしっ、今日の放映ぶんを逃さず洩らさず見覚えるぞ!』と構えてかかったりしない娯楽コンテンツだ。むしろ視聴に耐えるくらい手の込んだ事実関係のストーリーを語ろうとすると、最低でも子供向け番組の30分枠や一般的な1時間ドラマ枠、さらには劇場公開の映画並のひと声90分以上が必要になる。
一話15分の細切れにするからには、前回の記憶も新しい翌日のうちに次回、つまり毎日の放映がまず前提となりそうだし、それはそれでひとつ組み上がったストーリー全体像を一気に視聴する通常スタイルとは異なる造りにしなければ、15分毎回を洩れなく視聴に耐える内容でつないでいけない。
ストーリーの進展が止まったりダレたり混濁したりしては視聴者のアタマの中でハナシが繋がらなくなり、日課としての視聴を諦められてしまう。いったん諦められたら、少なくとも半年は客が戻って来ない。制作ハードルが高い番組形態だ。
大衆向け歌謡曲の尺がせいぜい数分単位、しかしそれでも一話15分枠にはどえらいボリュームを占有するはずなのだが、そこを割り切って楽曲ステージの完全版収録を優先し、番組のウリ=メインコンテンツとして各々しっかり収めたところに今季『ブギウギ』の値打ちがあったと思う。
今どきビジュアル面も音響面も、大掛かりなステージ設備はすっかり収益性を失ってしまって壊滅状態、保全に手間のかかる遊休機材を維持できず力尽きた業者の話もいくつか聞いた。
いったん倒産して事業体が失われると、代わりの誰かが機材を揃え直して即参入とは全く行かず、故に業界が傷めば傷んだぶんだけ、単純引き算でヒトもモノも不可逆的に失われていく。ステージ設備業界に限ったことではないが、補助金名目の税金バラマキで点稼ぎをしようとした愚政コロナ騒ぎの結末の一例として、経済単位を再起不能に衰弱させた事実をよく見覚えておいていただきたい。
当時その気前でバラマキをやっていた奴等の、そんな気前の出どころの一面が、今頃ちょっと人目について話題にもなってるワケだよ。当時のうちから経済原理に則した資金源なんか日本のどこにもないことは判っていたはずなのに、扇動されるままバラマキ日本円を手に同調してしまった日本大衆社会は、貴重なエンタメ文化の専門業域を瀕死に追いやってしまったのである。
とにかくこんな状況下で、今のうちに民放にない資金力でCGも使わずに、昭和ステージ様式を再現して若い役者さんたちの活躍の舞台を組み、これだけの記録に残せた意義は大きい。
ところで講義形式の教育プログラムの話題に戻るが、『微積分の基礎概念』『エネルギー保存則』『過去分詞形の用法』みたいな知識アイテム題目がまずひとつあったとして、受講生のタイプ別に数通りのオプションで動画コンテンツを用意しておけば、現状の学校教育相当どころかそれ以上の習得効果は上げられるはずだとする考え方があり、それには私も賛成である。要は教養コンテンツの一大標準ライブラリーだ。
幸いにも致命傷にまでは到らなかったものの、他ならぬ私自身が『この教師の受け持ちでさえなかったら…』式に出会いがしらで苦手科目の心象を刷り込まれ、余計な回り道をした記憶がある。
嫌いなんだからできませ~ん!で終わらせず、自らが模索・工夫して習得してしまう自律スキルも重要だが、それが平均的に期待できる年齢となると、やはり義務教育以降だと思う。そうなるまでは、やはり『教師ガチャ』のハズレをなくして基礎学力を効率よく習得するに越したことはない。
こうなると、初等教育で生徒たちの記憶ストレージに知識情報ファイルを書き込む仕事はごっそり機械化・自動化が進むことになり、生徒の誰々にとりあえずどのバージョンをあてがうのが良さそうかは、わざわざAIと言わずもっと昭和式にドカチン原始的なフィーリング判定でやっちゃって大きな問題はなさそうに思う。
一方そうでない領域が『学校の機能』『教師の専門職域』として残るんだろうな。
おのれに備わったストレージ機能の『未書き込み=白紙領域』を自覚した生徒たちが、信頼して腹を割ってコイツに学ぼうと決心して、率直で真剣なコミュニケーション成立のもと、勉強の楽しさ面白さを共鳴し合える人格こそが、教師の本質的な適性として求められる時代が来ると思う。ホントは今だってそうでないと困る。
人さまと『心理の共鳴』を実現するコミュニケーション要件とは何なのだろう?
解ってるヤツは自然に解っていて、解ってないヤツは何をどう説明しても解らない。
あっちとこっちの間柄でイイから、ひとつのステージに関わって一緒に楽しもうぜ!
そんな未来の学校は、転売禁止のチケット入場制になるのかも知れない。
では『ブギウギ』大詰めのステージを楽しみにしつつ、週明けもグッドラック!
一日がごちゃごちゃする前の朝8時なので、他の用事に割り込まれて視聴が途切れる失敗が無いというのは有利なんだろうな。
それともうひとつ、一話15分の放送枠ボリュームの見やすさが効いていると思う。
動画サイトを開いてよく目につくのは、視聴時間が十数分のコンテンツだ。
人間が視聴覚情報に接して関心を向け、その内容を理解し記憶するにあたっては、このぐらいの時間単位が最も効率が良いのだという話を聞いたことがある。
講義形式の情報提供で成り立つような教育内容の習得が目的なら、微積分の基礎概念も、エネルギー保存則も、過去分詞形の用法も、十数分の単位に切り分けて動画コンテンツを準備し、あとはひとつ観たらちょっとトイレ行って、またひとつ観たら軽食つまんで…と本人任せにしておくと断然に学習効果があがる。そういうことらしい。
動画コンテンツの制作に大層な設備が必要だったり、その配信網も普及していなかったりという時代においては、受講者を大勢まとめて一室に押し込み、教壇の一箇所から講師の直接プレゼン作業をもってコンテンツ提供をするしかなかった。
そんな集団行動を十数分の細切れにしていては、イチ単位の起動と停止にかかる過渡行程ばかりに時間を浪費してしまい、純粋な内容習得にかけられる時間も集中力も雀の涙となって、とても学習の場にならない。だから時間的にも空間的にも拘束感があって少々窮屈だが、だいたい小学校授業45分から大学講義100分ぐらいの講義コマで教室一斉の授業方式に落ち着いているのだそうだ。
これが真実だとすると、NHK朝ドラはコンテンツのボリュームとして、そもそもから理解を得て受け容れられやすい特性を持っているということになる。
もっとも映画やドラマは『よしっ、今日の放映ぶんを逃さず洩らさず見覚えるぞ!』と構えてかかったりしない娯楽コンテンツだ。むしろ視聴に耐えるくらい手の込んだ事実関係のストーリーを語ろうとすると、最低でも子供向け番組の30分枠や一般的な1時間ドラマ枠、さらには劇場公開の映画並のひと声90分以上が必要になる。
一話15分の細切れにするからには、前回の記憶も新しい翌日のうちに次回、つまり毎日の放映がまず前提となりそうだし、それはそれでひとつ組み上がったストーリー全体像を一気に視聴する通常スタイルとは異なる造りにしなければ、15分毎回を洩れなく視聴に耐える内容でつないでいけない。
ストーリーの進展が止まったりダレたり混濁したりしては視聴者のアタマの中でハナシが繋がらなくなり、日課としての視聴を諦められてしまう。いったん諦められたら、少なくとも半年は客が戻って来ない。制作ハードルが高い番組形態だ。
大衆向け歌謡曲の尺がせいぜい数分単位、しかしそれでも一話15分枠にはどえらいボリュームを占有するはずなのだが、そこを割り切って楽曲ステージの完全版収録を優先し、番組のウリ=メインコンテンツとして各々しっかり収めたところに今季『ブギウギ』の値打ちがあったと思う。
今どきビジュアル面も音響面も、大掛かりなステージ設備はすっかり収益性を失ってしまって壊滅状態、保全に手間のかかる遊休機材を維持できず力尽きた業者の話もいくつか聞いた。
いったん倒産して事業体が失われると、代わりの誰かが機材を揃え直して即参入とは全く行かず、故に業界が傷めば傷んだぶんだけ、単純引き算でヒトもモノも不可逆的に失われていく。ステージ設備業界に限ったことではないが、補助金名目の税金バラマキで点稼ぎをしようとした愚政コロナ騒ぎの結末の一例として、経済単位を再起不能に衰弱させた事実をよく見覚えておいていただきたい。
当時その気前でバラマキをやっていた奴等の、そんな気前の出どころの一面が、今頃ちょっと人目について話題にもなってるワケだよ。当時のうちから経済原理に則した資金源なんか日本のどこにもないことは判っていたはずなのに、扇動されるままバラマキ日本円を手に同調してしまった日本大衆社会は、貴重なエンタメ文化の専門業域を瀕死に追いやってしまったのである。
とにかくこんな状況下で、今のうちに民放にない資金力でCGも使わずに、昭和ステージ様式を再現して若い役者さんたちの活躍の舞台を組み、これだけの記録に残せた意義は大きい。
ところで講義形式の教育プログラムの話題に戻るが、『微積分の基礎概念』『エネルギー保存則』『過去分詞形の用法』みたいな知識アイテム題目がまずひとつあったとして、受講生のタイプ別に数通りのオプションで動画コンテンツを用意しておけば、現状の学校教育相当どころかそれ以上の習得効果は上げられるはずだとする考え方があり、それには私も賛成である。要は教養コンテンツの一大標準ライブラリーだ。
幸いにも致命傷にまでは到らなかったものの、他ならぬ私自身が『この教師の受け持ちでさえなかったら…』式に出会いがしらで苦手科目の心象を刷り込まれ、余計な回り道をした記憶がある。
嫌いなんだからできませ~ん!で終わらせず、自らが模索・工夫して習得してしまう自律スキルも重要だが、それが平均的に期待できる年齢となると、やはり義務教育以降だと思う。そうなるまでは、やはり『教師ガチャ』のハズレをなくして基礎学力を効率よく習得するに越したことはない。
こうなると、初等教育で生徒たちの記憶ストレージに知識情報ファイルを書き込む仕事はごっそり機械化・自動化が進むことになり、生徒の誰々にとりあえずどのバージョンをあてがうのが良さそうかは、わざわざAIと言わずもっと昭和式にドカチン原始的なフィーリング判定でやっちゃって大きな問題はなさそうに思う。
一方そうでない領域が『学校の機能』『教師の専門職域』として残るんだろうな。
おのれに備わったストレージ機能の『未書き込み=白紙領域』を自覚した生徒たちが、信頼して腹を割ってコイツに学ぼうと決心して、率直で真剣なコミュニケーション成立のもと、勉強の楽しさ面白さを共鳴し合える人格こそが、教師の本質的な適性として求められる時代が来ると思う。ホントは今だってそうでないと困る。
人さまと『心理の共鳴』を実現するコミュニケーション要件とは何なのだろう?
解ってるヤツは自然に解っていて、解ってないヤツは何をどう説明しても解らない。
あっちとこっちの間柄でイイから、ひとつのステージに関わって一緒に楽しもうぜ!
そんな未来の学校は、転売禁止のチケット入場制になるのかも知れない。
では『ブギウギ』大詰めのステージを楽しみにしつつ、週明けもグッドラック!
【1251】人生いろいろ、ステージいろいろ [ビジネス]
いよいよ今季NHK朝ドラ『ブギウギ』も今月いっぱいとなった。面白かったと思う。
社会の高度情報化が進む昨今、パフォーマーとオーディエンスが一堂に会して受発信する有価事象とは何なのか、改めて考えさせられる。一話15分の放送枠内にステージ・パフォーマンス一本の完結パッケージを頑張って連発した番組構成は、のちのち貴重な記録になるのではないか。
今の時代の現役世代の役者さんたちをしっかり若年層まで起用して、素朴に『歌なら音声、舞踊なら容姿と動作』でショーの商品性を確保していた時代のパフォーマンスを再現し、それを朝ドラ放送枠で流すという企画は秀逸だったと思う。
何もかもが清潔で洗練され過ぎているだとか、やたら今風に優しく理解ある常識がまかり通っているだとか、重箱の隅を突つき始めると気になる点も出てくるのだが、不便で手間のかかる旧式ステージ文化の様式が、最新ピッチピチの元気な現代若年層で実現して、さすがの飛んだり跳ねたり歌ったりが朝ドラでお披露目できたんだから、カビくさいアラ探しなどお呼びでない。
主人公・鈴子役は、昭和世代に懐かしい熱中先生と普通の女の子に戻ったランちゃんを掛け合わせたお嬢さんだけあって、何というかアレクサンダー・テクニーク的にサラブレッドの血統を感じる。体格はかなりの小柄のはずで、発声も動作もクリスプなのでてっきり二十代だと思っていたら、もう三十路過ぎとのこと。小柄ゆえ末端までの精緻な俊敏を強みにしていたチャップリンの評価をちょっと思い出した【1041】
いわゆるKAWAII世代のアニメ顔というより和風の齧歯類系の顔立ちなのが面白く、少なくとも私が今まで出遭ってきた米人オトコは軒並『日本の女の子なら和風の顔立ちがタイプだ』と言っていたし、昭和歌謡をテーマにしたドラマの主人公としては的確な人選だったと思う。
しかし見てくれや佇まいはともかく、ラインダンスやタップダンスのシーンを朝ドラ向けにあれだけ作り込んだのはお見事。皆さん若さあっての、体力あっての好演で、この遠隔通信コンテンツの時代に現場に居合わせた現実としてあのアスリート稼働をやるのは、NHK朝ドラの撮影ニーズでもなければ実現する機会も無かったろう。
ショービジネスとしてかっちり品質管理された組織パフォーマンスはカッコいいよ。
二十世紀の頃、三十路そこそこの私が北米全土を対象に遊撃型の仕事をしていたハナシはちょくちょくしている。基本はロスからデトロイトからニューヨークから、拠点から拠点に数日ないし数週間単位で移動しつつ、途中でスクランブルがかかったら突発でキホンどこへでも駆けつけて、出遭いがしらの課題事象に次々どう処置するか判定し、さばいていくという業態であった。
ジョブ単位の瞬間芸・一発芸で手抜きなし、一期一会の完全決着としてやっていかないと、後始末や追加フォローを発生させていていては仕事にならない。まあ当時の私も若かったから、東西最大3時間の時差を喰らいまくりながらやれてたんだよな。
ニューヨーク近辺一帯で一緒にやっていた現地スタッフが、とにかく仕事のあと一杯行くのが大好きで、もう夕方4時になるやならずのうちから『今日もリラックスしに行こう、リラックスしに行こう♪』と仕事会話の端々にウキウキワクワク気分をチラつかせ始めたものだ。
どう、どう、気持ちは解るが今日の仕事を走り切るとこまで走り切っとこうぜ。
…と言いつつ北米ペースで朝7時台には出動してるし、まあ17時にはまだ遠い、サマータイムだと夕方の雰囲気が訪れる以前の時刻に、そいつが行きつけにしていたカウンターバーによく連れていかれたのである。ちょうど『ターミネーター2』の序盤で、全裸のシュワちゃんが衣類と単車と銃およびサングラスを調達するシーン、あのくらいの規模と雰囲気の建屋だったと思う。
ただ本格的な料理用のグリルもビリヤード台も備わっておらず、がらんと広い空間の一辺からコの字型のカウンターが伸びていて、要は中央を接客側とした囲みカウンター式の店造りになっていた。壁際にスロットマシンとジュークボックスぐらいはあったかも知れない。
コの字の真ん中には天井まで伸びる2本のポールが立っていて、アイランド型のポールダンスのステージになっている。『またかよ~』などと半分呆れて笑いつつ結構な頻度で訪れては、夜10時を過ぎるまで付き合ってたんだから私も若かった。
店がそんな構造になっているからには、入れ替わり立ち替わり女の子が出てきてはポールダンスをやってたりもするのだけれど、ポールダンスをやっていない間は適宜にカウンター内から個別の接客にまわるという業態であった。私個人としては、日本国内ではあんまり見た記憶が無いスタイルだ。
相棒が踊り子の一人を眺めつつ『おい信じられるか、彼女あれで子供二人育ててる母親なんだぜ』と囁いた時のことが思い出される。日本人の相場に比べたとしても小柄な方に見えたが、その理論的理想値のプロポーションと隙のない動きは、ギリシャかローマの芸術品を思わせる造形美であった。
以前に紹介した映画”THE REWRITE”『リライフ』【917】では、マリサ・トメイ演じるシングルマザーが『ダンサーをやっていたが足首の怪我で諦めて帰郷、野球選手と結婚し娘二人をもうけた』と過去を吐露する場面が出てくるが、あーなるほどあんな感じね!とフラッシュバックしつつ合点したものである。
NY近隣とはいえ場末の飲み屋でこのレベル、まあ都心で成功して表舞台でやれるようになったら私生活も睡眠時間も吹っ飛ぶだろうから、闇雲に向上心を燃やさずマイペースを維持する向きも少なくないんだろうなあ。
いっぽう西海岸LAではユニバーサル・スタジオにほど近い遊歩道の一角で、南米からの移民と思われる家族のストリート・パフォーマンスに出遭ったことがある。
親世代が民族楽器を演奏し、中高生くらいの年頃と思われるお嬢さんが純白のマキシ丈ワンピースで舞うのだが、これがまた視界に入った瞬間、目が釘付けになり口が開きっぱなしになるほどの驚愕の美しさであった。インカとかアステカとかの古代文明で、雨乞いの儀式で神のいけにえにされるタイプである。
このお嬢さんも150センチあるかないかの小柄で、浅黒い肌に漆黒の瞳とさらっさらの黒髪、非現実的なまでに均整の取れた容姿といい流れるような手先足先の優美な動きといい、一分のほころびも見出せない。
だがこちらは手前の地面に楽器ケースの小銭受けが置いてあって、つまりその稼ぎで家族が日々を暮らしているということなのだろう。いろいろと事情はあるのだろうが、ただの通りすがりの日本人としては呆気にとられるばかりであった。
各国各地で、発信したいタレントがいて、受信したい大衆がいて、さまざまなステージ・パフォーマンスが成立している訳だが、そこには特定の人種間ならではの需要と供給があったりするし、価格換算される上演レートの違いも、関係者の状況次第でピンからキリまでいろいろである。
人並以上に秀でていて、みんなに披露したい、そしてみんなが求めて観るパフォーマンスがあるから、これらエンタメ商用ステージが成立している。個々人が持ち合わせた優位性をわざとらにカンナで削り落とし、ツライチの平面を撫でて嬉しがる『コンプライアンス』なんぞに浸食されて劣化する前に、特に若い人たちには是非興味を持って研究していただきたい。
できるヤツがいて、それに興味を持つ取り巻きがくっついて、それぞれの立場で最もハッピーな受発信を目指して展開するのがステージ・パフォーマンスだ。
今あなたの手元のスマホ画面を高々とかざせば、みんな思わず振り返りますかね?
『ブギウギ』観て何かひらめくと良いね。いよいよ最終週めがけてグッドラック!
社会の高度情報化が進む昨今、パフォーマーとオーディエンスが一堂に会して受発信する有価事象とは何なのか、改めて考えさせられる。一話15分の放送枠内にステージ・パフォーマンス一本の完結パッケージを頑張って連発した番組構成は、のちのち貴重な記録になるのではないか。
今の時代の現役世代の役者さんたちをしっかり若年層まで起用して、素朴に『歌なら音声、舞踊なら容姿と動作』でショーの商品性を確保していた時代のパフォーマンスを再現し、それを朝ドラ放送枠で流すという企画は秀逸だったと思う。
何もかもが清潔で洗練され過ぎているだとか、やたら今風に優しく理解ある常識がまかり通っているだとか、重箱の隅を突つき始めると気になる点も出てくるのだが、不便で手間のかかる旧式ステージ文化の様式が、最新ピッチピチの元気な現代若年層で実現して、さすがの飛んだり跳ねたり歌ったりが朝ドラでお披露目できたんだから、カビくさいアラ探しなどお呼びでない。
主人公・鈴子役は、昭和世代に懐かしい熱中先生と普通の女の子に戻ったランちゃんを掛け合わせたお嬢さんだけあって、何というかアレクサンダー・テクニーク的にサラブレッドの血統を感じる。体格はかなりの小柄のはずで、発声も動作もクリスプなのでてっきり二十代だと思っていたら、もう三十路過ぎとのこと。小柄ゆえ末端までの精緻な俊敏を強みにしていたチャップリンの評価をちょっと思い出した【1041】
いわゆるKAWAII世代のアニメ顔というより和風の齧歯類系の顔立ちなのが面白く、少なくとも私が今まで出遭ってきた米人オトコは軒並『日本の女の子なら和風の顔立ちがタイプだ』と言っていたし、昭和歌謡をテーマにしたドラマの主人公としては的確な人選だったと思う。
しかし見てくれや佇まいはともかく、ラインダンスやタップダンスのシーンを朝ドラ向けにあれだけ作り込んだのはお見事。皆さん若さあっての、体力あっての好演で、この遠隔通信コンテンツの時代に現場に居合わせた現実としてあのアスリート稼働をやるのは、NHK朝ドラの撮影ニーズでもなければ実現する機会も無かったろう。
ショービジネスとしてかっちり品質管理された組織パフォーマンスはカッコいいよ。
二十世紀の頃、三十路そこそこの私が北米全土を対象に遊撃型の仕事をしていたハナシはちょくちょくしている。基本はロスからデトロイトからニューヨークから、拠点から拠点に数日ないし数週間単位で移動しつつ、途中でスクランブルがかかったら突発でキホンどこへでも駆けつけて、出遭いがしらの課題事象に次々どう処置するか判定し、さばいていくという業態であった。
ジョブ単位の瞬間芸・一発芸で手抜きなし、一期一会の完全決着としてやっていかないと、後始末や追加フォローを発生させていていては仕事にならない。まあ当時の私も若かったから、東西最大3時間の時差を喰らいまくりながらやれてたんだよな。
ニューヨーク近辺一帯で一緒にやっていた現地スタッフが、とにかく仕事のあと一杯行くのが大好きで、もう夕方4時になるやならずのうちから『今日もリラックスしに行こう、リラックスしに行こう♪』と仕事会話の端々にウキウキワクワク気分をチラつかせ始めたものだ。
どう、どう、気持ちは解るが今日の仕事を走り切るとこまで走り切っとこうぜ。
…と言いつつ北米ペースで朝7時台には出動してるし、まあ17時にはまだ遠い、サマータイムだと夕方の雰囲気が訪れる以前の時刻に、そいつが行きつけにしていたカウンターバーによく連れていかれたのである。ちょうど『ターミネーター2』の序盤で、全裸のシュワちゃんが衣類と単車と銃およびサングラスを調達するシーン、あのくらいの規模と雰囲気の建屋だったと思う。
ただ本格的な料理用のグリルもビリヤード台も備わっておらず、がらんと広い空間の一辺からコの字型のカウンターが伸びていて、要は中央を接客側とした囲みカウンター式の店造りになっていた。壁際にスロットマシンとジュークボックスぐらいはあったかも知れない。
コの字の真ん中には天井まで伸びる2本のポールが立っていて、アイランド型のポールダンスのステージになっている。『またかよ~』などと半分呆れて笑いつつ結構な頻度で訪れては、夜10時を過ぎるまで付き合ってたんだから私も若かった。
店がそんな構造になっているからには、入れ替わり立ち替わり女の子が出てきてはポールダンスをやってたりもするのだけれど、ポールダンスをやっていない間は適宜にカウンター内から個別の接客にまわるという業態であった。私個人としては、日本国内ではあんまり見た記憶が無いスタイルだ。
相棒が踊り子の一人を眺めつつ『おい信じられるか、彼女あれで子供二人育ててる母親なんだぜ』と囁いた時のことが思い出される。日本人の相場に比べたとしても小柄な方に見えたが、その理論的理想値のプロポーションと隙のない動きは、ギリシャかローマの芸術品を思わせる造形美であった。
以前に紹介した映画”THE REWRITE”『リライフ』【917】では、マリサ・トメイ演じるシングルマザーが『ダンサーをやっていたが足首の怪我で諦めて帰郷、野球選手と結婚し娘二人をもうけた』と過去を吐露する場面が出てくるが、あーなるほどあんな感じね!とフラッシュバックしつつ合点したものである。
NY近隣とはいえ場末の飲み屋でこのレベル、まあ都心で成功して表舞台でやれるようになったら私生活も睡眠時間も吹っ飛ぶだろうから、闇雲に向上心を燃やさずマイペースを維持する向きも少なくないんだろうなあ。
いっぽう西海岸LAではユニバーサル・スタジオにほど近い遊歩道の一角で、南米からの移民と思われる家族のストリート・パフォーマンスに出遭ったことがある。
親世代が民族楽器を演奏し、中高生くらいの年頃と思われるお嬢さんが純白のマキシ丈ワンピースで舞うのだが、これがまた視界に入った瞬間、目が釘付けになり口が開きっぱなしになるほどの驚愕の美しさであった。インカとかアステカとかの古代文明で、雨乞いの儀式で神のいけにえにされるタイプである。
このお嬢さんも150センチあるかないかの小柄で、浅黒い肌に漆黒の瞳とさらっさらの黒髪、非現実的なまでに均整の取れた容姿といい流れるような手先足先の優美な動きといい、一分のほころびも見出せない。
だがこちらは手前の地面に楽器ケースの小銭受けが置いてあって、つまりその稼ぎで家族が日々を暮らしているということなのだろう。いろいろと事情はあるのだろうが、ただの通りすがりの日本人としては呆気にとられるばかりであった。
各国各地で、発信したいタレントがいて、受信したい大衆がいて、さまざまなステージ・パフォーマンスが成立している訳だが、そこには特定の人種間ならではの需要と供給があったりするし、価格換算される上演レートの違いも、関係者の状況次第でピンからキリまでいろいろである。
人並以上に秀でていて、みんなに披露したい、そしてみんなが求めて観るパフォーマンスがあるから、これらエンタメ商用ステージが成立している。個々人が持ち合わせた優位性をわざとらにカンナで削り落とし、ツライチの平面を撫でて嬉しがる『コンプライアンス』なんぞに浸食されて劣化する前に、特に若い人たちには是非興味を持って研究していただきたい。
できるヤツがいて、それに興味を持つ取り巻きがくっついて、それぞれの立場で最もハッピーな受発信を目指して展開するのがステージ・パフォーマンスだ。
今あなたの手元のスマホ画面を高々とかざせば、みんな思わず振り返りますかね?
『ブギウギ』観て何かひらめくと良いね。いよいよ最終週めがけてグッドラック!