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【1184】高額学費で自惚れと嘲笑を習得した者の末路 [ビジネス]

 選挙が近くなってくると余計な思惑も飛び交い始めるので、その前に。
 2025大阪万博、開催まで2年を切っているが時期相応の準備が進んでいない。

 先に結論から行こう。
 東京五輪の大失敗を繰り返したくないのなら中止、せめて延期を決めるべきだ。

…とまでは言わない。だが少々ドラスティックな選択肢を提案しておくべきだろう。
 現時点で日本国は『万博を開催します』と国際的に宣言している訳だが、この主催の立場において、自国内の経済状態がこれほどまでの悪化の一途で、サイテー最悪を更新し続けている現状に観念して、大幅の規模縮小、『イノチ輝く未来社会』のテーマ解除、数年の延期および将来の経済動向次第では中止もあり得る判定フロー、と段階的に可能性を想定し準備し今のうちに公言しておくのである。

 些末なハナシに入る前に、いま日本国にとっての本来目的事象を確認しておく。
 『大阪人工島にカジノをオープンさせること』
 これだけだ。
 この起点を盛り上げる手段として2025大阪万博が『あれば好都合』なのであって、たかが万博をどうにでも調整するくらい、適宜に節目をつけて判断すれば結構だよ。
 まずはこの位置関係を再確認して、では諸事情を考察していくとしよう。

 もう何もかも国家事業のオペレーションとして崩壊し切って、社会的に意味のある動きが死滅した感のある現政権は、もう終焉を待つばかりがあからさまになった。
 これだけ総観的に日本国民の一般生活がきつくなると、旧態依然の政権勢力から『トクさしてやるから票くれよ』『嫌がらせされたくなかったらカネよこせ』などとそそのかされても、もう漠然の雰囲気を十分な動機として、応じられる物好きはいない。

 現時点で
 『社会全体の常識的視点でムダと映るカネ流れは消す』=経済の採算性確保
 『現場実力派として稼働できない形骸権力構造は消す』=組織の実効力確保
 この2点について実績をもってその方針が明らかになっている政治力は、橋下行政改革に端を発して今も堅実に走り続ける地方政党『大阪維新の会』だけだ。

 因みに、橋下さんが大阪行政改革を進めるにあたって国政に縛られコトがつっかえる事態が頻発し、大阪行政を変えるなら国政に斬り込まないとダメだと判断、国政に直接乗り込む手段として発足したのが『日本維新の会』だと私は理解している。
 大阪府議会・大阪市議会で府市行政に関わる『大阪維新の会』と、国会で日本国政に関わる『日本維新の会』は階層違いの別組織であり、上記のような経緯があるので似て非なるものではあるのだが、当面『日本維新の会』は国政において『大阪維新の会』に最も緊密に連動した全国政党ということになるだろう。

 役人と議員およびその取り巻きが腐敗の限りを尽くした利権商売で食い散らかし、再起不能であるかのように見えていたドロ沼大阪府市政が驚異的な改善を見せる中、かつてウチワ箱庭のチカラ関係で自治体行政の意思決定に我を通していた死神・貧乏神どもが、どうにかして大阪維新の会の勢いをくじき府市民支持を剥ぎ取れないかと執念・怨念を燃やして今も執拗に絡みついている。
 全部が全部で十把一絡げにはできないにしても、大阪府市の各種業界団体などはキホン長らく利権組に餌付けされて、少なくとも個々人の立場で同調しておくぶんには悪い思いはしていなかったはずで、裏返せばまだまだ大阪維新の会の足元をすくおうと狙うかつての取り巻き連中はたくさんいる。ありとあらゆる手を仕掛けてくるだろう。

 大阪府下の高校完全無償化方策、ここで過去に何度か述べた通り私としては義務教育のレベルアップの方が本来的な重要課題だと信じているのだが、恐らくそれはそれでハードルが高すぎるため、当面の喫緊かつ即効性の教育改善策としてはまず現存の高校授業料の無償化を完遂すべきと、維新・大阪府市行政の現場視点で判断されたものと見受ける。ならば少なくとも現時点では、実現めがけて直接手をかけるべき優先課題は高校完全無償化の方だと考えるのが妥当であろう。
 だが私学の経営者連中を始め、当の現役中高生世代でもない、どうかすると彼等の親世代でもない老人どもが、何とも積極性の無い…どころかイミフの否定語を並べてグズっているようだ。望むと望むまいと、どのみち子供の絶対数は結構な長期的に減ることが避けられないのだから、何よりもまず子供に入学してもらって、生徒数を維持しておかないと学校組織のテイが成立しないのだが。

 運よく地元の公立ばかりで自分に最適な選択肢に恵まれ、好き放題に学校教育年齢を過ごせた私自身の記憶を振り返って、何の心配も無く『面白い』と感じたものにかぶりついて貪欲に勉強できる環境というのは、健やかな成長の基本要件であると実感する。
 アタマもカラダも、記憶力も筋力も、生物的スペックとしての絶頂期はハイティーン年齢にあり、社会全体一律にこの年齢層の経済的事情の足枷を外して、学校選択の自由度を拡げる試みは的を射たものだ。
 そこは太鼓判を突いて保証するので、大阪府市教育方針における高校教育無償化の取り組みは是非とも粘り強く地道に進めて、まずこの実現ステップを刈り取って欲しい。本当によく頑張っていると思う。

 さて冒頭の2025万博の件だが、現状は開催宣言されて、開催を前提に進められる準備アイテムを進めては来たものの、その内容を成す実際のハコモノ出し物の方が全く揃わない事態のまま残り2年を切ってしまった形だ。
 日本国内のこの絶望的な不況は改善のきっかけすら見えないのが実情だから、自然ななりゆきではある。ほんの数年前まで五輪大会の他国事情などあげつらって『ほおら、あの国はこんなに工事が遅れている、この国はこんなに手抜きでポンコツだ』なんて見下していた時代が懐かしい。
 既にこれ見よがしの業界団体のアピールで騒がれる、難航する準備工程のひとつひとつを指差して大阪維新政権の失点にしようとする言論は散見されるが、御存知の通り大阪万博なんだから全面的に大阪府市政の負担と責任…という訳ではない。日本政府に提案し合意を得て、自治体と国とで共催するイベントなのである。
 大規模な国際イベントの開催を起案・企画した責任は認めるが、旧来の利権ニッポン得意の狂乱財務導出なんかやりたくない大阪維新政権と、敢えて引込みをつかなくしてまたしてもの散財をけしかけ、大阪維新の会の勢力、ひいては日本維新の会の勢力に『結局はビフォー維新政権と同じ』のケチをつけて足を引張り、結局は呉越同舟で利権商売の時代に戻したい反・大阪維新勢力の押し引きが今後激化することになるだろう。

 たかが万博じゃん。ムダ金かけるぐらいなら縮小、延期、中止の選択肢の準備だよ。
 大阪は、日本国は、財務改善の切札『カジノ』さえ開業できれば良いのだ。
 そう、カジノは他がどんだけ不況でも、華やかに輝き賑やかにカネが飛び交う。

 賭け事の空間の経済駆動力は、市場の一般性とは異質の原理のモノだ【1129】
 超のつくギャンブル嫌いの私は、ラスベガスでロクに賭けもせずにこれを学んだのだが、私をその場に連れて行って学習の機会をもたらしてくれたのは、学校教育時代に身に着けた知力と体力である。
 子供たち若者たち、どこの大人が何の根拠でどんな押し引きをするか観察しながら、とにかく勉強して身体を鍛えておきな。その地道な取り組みがいずれ想像もつかないチャンスを呼び込む。

 せっかくの成長期には抜け目なく成長しておこう。その盛夏の努力にグッドラック!
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【1183】陽炎に焼かれた想い出キャリーケースの新旧重量比較 [ビジネス]

 いやあ暑い暑い。この夏は人出も戻って賑やかさが一際に感じられる。
 特に最近になって、猛烈な暑さを実感しながら『この感覚って、昔もあったよなあ』と思うことが多くなっている【1080】

 昭和40(1965)年代の気象情報に関わる私の記憶は真夏の最高値で32℃であり、中東や北米の砂漠地帯で40℃に達するような話は、もはやケッペンの気候区分図的に『異なる区域』の、文字通り別世界としての違いだと理解していたものだ。砂漠に動物の白骨が転がる世界、日常生活とかけ離れた夢物語だったのですよ。

 ただ当時『ああ夏だ!暑い暑い!』と感じていた公称32℃は、いま現在『危険な暑さ』とされる公称35℃もしくはそれ以上の体温超えと、もしかして似たようなもんじゃないかと回想するのである。   
 32℃からいつしか33℃のゾロ目をぱらぱら見かけるようになり、程なく35℃もなし崩し的にお馴染みになったような気がするのだが、当時しみじみと気にしていなかったのでよく判らない。
 つまり昔も今もこの暑さに大差はなく、公称値だけがプラス5度ぐらいシフトしたイメージなのだ。やはりというか、この今の私の感覚と同じく『昔ってそんなに暑さ控えめだったんだっけ?』という議論も散見されるようになって、今度は過去の記録値にそこはかとなく昔に見覚えの無い35℃以上が目立ってきたかの印象もあるのだが、思い過ごしだろうか。いやまあ、公称記録の恣意的操作を疑うワケではないのですが。

 さて有難くはあるのだが、どこも外国人観光客の姿が一気に増えたように思う。インバウンド、インバウンドと呪文のように唱えていた頃より増えたんじゃなかろうかね。宿に落ち着いた後の外出と見え、身軽になって観光を楽しんでいる連中も多いが、大きな旅行用キャリーケースをゴロゴロ引きずりながらの姿も負けず劣らず多い。
 ちょっと前、わざわざにエスカレーターの片側を空けさせず、通貫進路を塞いで横に拡がって立ち止まらせようとした謎のキャンペーンがあったが、何だかんだで結局は元に戻ったようだ。
 キホン重いモノを持ったら動くのがタイヘンなので、エスカレーターでは立ち止まりたい。でも急ぐ人がいるのは解るから、急ぐ人が一直線に駆け上がれるよう片方の一列を上下方向に通貫で空けておきましょう。それで良いと思う。

 ひところ強度設計をきちんとやらなかった他国のエスカレーターが、積載負荷に耐え切れず大勢の人を乗せたまま雪崩のようにステップが滑り落ちたりする映像も出回ったものだが、裏返せばアレは強度設計を普通に間違えなければ良いだけのことで、ユーザーの立ち位置から何か必死に危険予知するような事故ではない。
 だいたい静荷重でフル積載=全段に荷物を持った成人2名あたりだろうか、これにマトモな安全率を掛けて強度計算すれば、誰かが勢いよく駆け上がって衝撃負荷を発生させてしまうにしても、駆け上がるぶん連続した幾つかの段に空きがあるんだろうし、それで一気に降伏して壊れたりはしないはずだ。
 エスカレーター搭乗中に握った手を放してしまっての旅行用キャリーケース滑落事故を心配してのことなのであれば、そこに手を打たないと物事は解決しない。言ってしまえばエスカレーター側でどうにかする問題ではないのである。

 この私も過去10年を振り返って、事前に予約していた長距離列車に遅れそうになり、重量級の荷物を肩に掛け両手に握って、上りエスカレーターを全力疾走で駆け上がった経験は複数回ある。とにかく時間内に駆け込めば、青息吐息でも吐きそうでも何時間か確実にシートでくつろげるのだから、逆にそのためには本当にどんなことでもする。
 恐らくはこういう状況で少々中身の詰まった旅行用キャリーケースを連れていたとして、か細い女の子でも落としたりはしないんじゃないだろうか。そりゃ翌日になって身体のあちこちが痛いだとか、ちょっと爪を割っちゃったとかあるかも知れないが、まず荷物は落とさず予約の列車には間違いなく、死んでも駆け込む。

 そもそも遅刻しそうあるいは遅刻してしまっていて、必死でその目的地を目指す時の心境を思い出すことができれば、普通に片側を急ぐ人のために空けて乗ればいいものを、わざとらに意地悪な通せんぼをするかのような乗り方はしたくないと思うのが、自然な感覚のはずである。
 会合の遅刻ぐらいならまだしも、大事な家族に一目会わないと二度目が無い事態になっているとか、身内や仲良しから待ったなしのヘルプ要請が来ているとか、コトの行きがかり次第では我が物顔で横に拡がってステップ幅を占領しているヤツなんか突き飛ばされたり突き落とされたり、そっちのリスクの方が遥かに大きいと考えるのが普通だ。

 何だか『ほおら、みんなエスカレーターって立ち止まって乗るもんなんだよ。駆け上がりたいヤツ駆け下りたいヤツは、先へ行かせないように横に拡がろう。それが安全というモノだ、教えてやれ』とでも言いたげな風潮が感じられ、どこの性格の捻じれた愉快犯がこんなキャンペーンを提唱するのか不思議に思ったものである。
 もしかすると実際にあちこちで、言われた通りステップ幅いっぱいにふんぞり返っていて実力行使された事例が増えてきて、最近はあの意地悪キャンペーンを言い出せなくなってきたのかも知れない。

 階段構造の自動昇降機の宿命として旅行用キャリーケースなど落下物が危ないというのなら、エスカレーターの利用者全員に上からの落下物に気を付けろ、スマホなんぞにかまけてるんじゃねえと指南するのが、どう考えても先である。
 単車のすり抜け危険視キャンペーン【951】や狂乱歩行者優先キャンペーン【1125】もキホン同じことで、『安全』概念の一般性を誰も否定できない・反論できない金科玉条の印籠に読み換えて、だらしないスキル不足の非効率ななりゆき作動状態を、あたかも最適解の手本であるかのように屁理屈後付けで吹聴して、社会の自然な慣習に因縁をつけ破壊的に変えたがるメンタリティが感じられるのだ。

 冒頭の夏の気温公称値のハナシではないが、この奇妙な『新規律提唱隊』みたいな社会層って、私個人的には平成末期から令和の時代つまりここ最近に目立ってきた気がしており、でもやっぱり昔からいたのかなあ…とも記憶を確かめ直す今日この頃である。
 ま、とりあえず暑い暑いと夏らしく観光地が賑わって、でっかい旅行用キャリーケースがお土産で重くなってくれて、みんな落っことさずに楽しい時間を過ごしてくれれば良いんだけどさ。

 我々日本人、特に子供たち若者たちは、この日本社会の『薄らぼんやりと優しい正義を装った性格の悪さ』を気にしておこう。自然発生し便利している慣習や規律意識を、なんだか粘着性の動機で変えたいらしいと見受ける。
 『現実』がそこそこ自然に落ち着いているのに、『議論』で悶着を起こしたいがための『空論』を発明する感じなのだ。

 陰険なバーチャル屁理屈空間なんか捨てて、暑い暑い現実へ飛び出す人間になれ!
 でも身体には十分気を付けて、酷暑を体験する若い頭脳と体力にグッドラック!
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【1182】AI時空スペースアドベンチャーの入場チケット [ビジネス]

 梅雨も明けて、チマタも夏休みモードに突入。いや最近の大学は7月いっぱいぐらい試験で走り切って、9月に夏休みのお尻を引張るスケジュールも増えてきてるのかな。
 まあいいや、前回『スペースアドベンチャー・コブラ』に言及したついでに、長らく紹介するタイミングを見切れずにいたくだらない話題を消化しておこう。

 それまでの少年漫画の二枚目系主人公といえば、スポーツにせよSFにせよまず日本人が常識であった。やればできる、行こうと思えば行ける、日本の少年たちの現実世界から見て同一面上にいないといけませんからね。
 その主人公たちは『努力して自己開発し目標達成する』のが定番であった。時にライバルに惨敗したり危険な事故に遭ったりして一旦は挫折しつつも、そこから立ち直って最後に勝利するという流れが決まっていたのである。少年読者たちはその姿を自分自身に投影し、どうせ漫画のハナシと言いつつ心のどこかでそのイメージの価値基準を知らず知らずにでも受け入れて固め、何事につけ頑張る習慣を身に付けたものだ。

 ところがコブラ氏に限っては、まずいきなり少年読者が逆立ちしたってなれない欧米系人種だし、最初から圧倒的かつ超一流の強さを確約されており、さらには左腕の肘から先には無敵のサイコガンが光る。
 絡んでくるお姉さんたちがクラスメート女子や先生だったりするはずもなく、当時の感覚で少年誌にあるまじきとも見える成人向けグラマー美人がキワキワ系ファッションで百花繚乱、まあSFだからそんな斬新さを自然に受け容れられたのだろうが、まさに常識を覆す世界観の作品だった。少年読者たちの現実とのつながりなんぞどこにも無く、その想像を絶する未来社会の出来事を、ただ口を開いて諦めて観ているしかない。
 いわゆる『教育的見地』の定番をすっかり捨て去って、読者を一人前のエンタメ客扱いする姿勢とも感じられ、それがまたサイコーだったのだけれど。

 『これまでの人生で出遭った架空ヒーローになれるとしたら、誰になりたいか?』
 ひと頃いろんな知り合いにこの質問を投げ掛けて回答を集めていたのだが、間髪入れずに『コブラ!』と答えた我々昭和40年世代は多い。
 最強の憧れの的なのに、ハードルの高さも最強。それが我々の記憶にあるコブラだ。

 さすがに中学生の年齢の常識的な知能が備われば、これはマネをしようにもできない、マネしようとすると現実が悲惨すぎて自己嫌悪に陥って終わる…と容易に予測がつくので、少なくとも私の周囲にはコブラになろうとした無謀な挑戦者はゼロである。

 さて、もう20年以上前まだ30代だったある日のこと。
 馴染みの友人のひとりが『実は、見せたいものがある』と私に打ち明けてきた。

 そして引き合わされたブツとは…そう、サイコガンである。
 インターネット通販はまだそんなに普及していなかった頃だと思うのだが、正確な時期は憶えていない。今よりこういうブツの市場は随分と小さかったはずで、どこのどんな販路から手に入れたものだったのだろうか。当時もうコスプレとかあったんだっけ…?
 訊けば『相当イイ値段だった』とのことで、どうしても具体的な金額は教えてくれなかった。社会人の年齢になって、本当にこんなものをこの額と引き換えるのか?と自分でも収まりがついていなかったのかも知れない。
 濃厚スモーク色の樹脂製で、確か銃身部分と銃座部分の二分割構造になっていたと思う。もちろん節分の豆ひとつ撃ち出す能力は無く、LED発光機能も備えておらず、その『でくのぼう』感はタダモノではなかった。

 何よりも、劇中でコブラは強敵に左腕を切り落とされており、元の生身の左腕の代わりにサイコガンを継ぎ足し、普段はその上から高性能の機能性義手を被せて五体満足の一般人相当に振舞っている経緯がある。漫画なので物理的な詳細設定を無視して描かれているというのもあるが、左手の義手で過ごす時もサイコガンを抜いた時も、四肢のプロポーションは一般的な成人男性のものであり、もちろん劇中ではいつ見ても均整の取れた自然な体格である。

 一方くだんの現物サイコガンは、まず手のひらをすぼめて上から被せる順番にしかなりようがないし、銃身部分はかなり細身なので、まとめた指の束をその中まで届かせられないのだ。つまり普通の手の長さに、単純に銃身長を足し算したプロポーションがビタ一文負からない。
 促されて装着させてもらったところ、手を突込んだ瞬間に窒息状態で蒸れ始めるのが判るし、薄い肉厚でできた縁の周が腕廻りに食い込んで痛い。この友人にコスプレの趣味は無かったから、ひとり普段着で座って自分の左手に装着したサイコガンを眺めるまでのモノだったはずだが、どのくらいの頻度で稼働し、どこまで本人に達成感をもたらしたのだろうか。

 長々とこんな思い出話に解説をつけたのには理由があって、今どきバーチャル空間にコブラのアバターで飛び込むことぐらい朝飯前なんだろうが、その時プレイヤーはどのくらい思いを遂げてコブラになり切れるのだろう…と以前から気になっていたのである。
 そもそもバーチャル世界でコブラになり切るにしても、プレイヤー本人の人格を形成する意識構造がまずあって、そいつの記憶ストレージ内にコブラにまつわる映像や言動の記録ファイルが多々あり、それら記録ファイルを演算処理した高次情報として『コブラ=理想像』の判定基準が導き出されている。

 次にバーチャル空間での自分をそのコブラ理想像に重ねて精度検証し、十分に一致したと五感で確認できた時点で満足度が上がるワケで、『憧れのコブラになり切った自分』は意外にも客観的立場の観測視点でそれを見ている。
 まあ今の自分が過不足を調整する方針で合わせ込んでいき、コブラの人格そのものに同化しちゃったら、自分が自分でなくなっちゃうからな。今の自分ママの人格が消えてしまうことになる。

 身体ハードウェアを介してサイコガンを手に被せる満足感と、バーチャル空間でコブラのアバターを着込む満足感の間に、情報生命体の内部情報処理的に何か決定的な差はあるのだろうか?
 古き良き日のかのサイコガンの記憶、あの実質機能がナニも無いはずの素朴なブツに成人社会人が魅了された事実は、最近になって思い返すことが増えた。
 自由奔放に思い描く空想世界の情報、思い描いてワクワクと胸躍るその感情、それらをアレの購入動機に因果づける演算処理プロセスを、果たしてAIは習得できるのだろうか。ま、こんな生産性の無いコト習得すべきなのかどうかという問題はあるのだが…

 昨夏8月に作画AIが爆発的に世に広まって1年、うろたえて騒いで『人工知能はウソをつく』などと悪口で偉そうを決め込んだりもするヒト情報体なのだが、そんなヒトの情報処理ってどんな特性を持っているのだろう?

 まずは自分自身が面白いと思う理由、欲しいと思う理由をいちいち考えてメモしていくと、意外と役立つ夏の想い出ができるかも知れない。夏休みの情報アドベンチャーにグッドラック!
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【1181】古代火星人と現代地球人のコラボ最終兵器 [ビジネス]

 しばらくぶりに人工知能の話題に戻ってみるか。何だか最近、日本社会はただの思い付きで騒ぐ騒ぎ方が出尽くして、どの騒ぎ方でも手応えのある拡がりが得られず、ぼや~んと目掛けるモノを見失って放心している感がある。
 まあ一応、相変わらずの『AI開発管理』『AI使用制限』みたいな、どっかの誰かが如何にジブンの思い通りにAIを縛るかという不毛なマウント宣言の勘違いキャッチコピーだけ並べていて、当然のなりゆきとして議論も検討も空中に発散してシラけ切っているといった感じか。

 今回は懐かしの昭和SF『スペースアドベンチャー・コブラ』の話題で始めてみよう。
 御存知、左腕にサイコガンを仕込んだ金髪・碧眼の宇宙海賊である。いやいやカッコいいよねえ~。
 当時の少年漫画雑誌の常識を根底からひっくり返す作品で、連載が始まる数週間前から『次々と新作登場!乞う御期待!』という見開きの予告ページが入るようになり、そこに居並ぶ4~5作品が毎週連続で新規投入されていた時期の、そのうちのひとつだったと記憶している。
 『コブラ』のタイトルを背負って、ガタイの良さそうな欧米人がニヤリと笑っているだけのカットだったから、我々中学生になりたてぐらいの年齢の子供には『なんじゃコレ、おもろいんか?』とさっぱりイメージが湧かなかった。
 決して『面白そう、ワクワク!』と好感度に期待を膨らませて待ち望むような、ポジティブな心象ではなかったのだ。このあたりはテレビの『宇宙戦艦ヤマト』にも共通している【1000】
 SF漫画の思考世界の果てが革新的に拡張を繰り返していた時期だったのだなあ。

 ともあれ初回巻頭カラーの『スペースアドベンチャー・コブラ』を一目見るなり、アート性の高い画風に、大人向け洋画のような洒落た展開、我々はシビれまくってごっそり魂を持って行かれたのである。
 この作品は週刊誌に連載されたもので、つまり長編ストーリーを毎週に分割して語っていくカタチになるのだが、その長期にわたって語られる一編として『古代火星人の最終兵器』にまつわるストーリーがある。
 かなりのネタバレにはなりそうだが頑張ってぼやかすと、この最終兵器は『対面した相手の機能を鏡写しに吸収し進化する』というところが、最終兵器の最終兵器たる本質ということになっているのだ。何を持ち出してきても絶対に負けない。

 なぜこのハナシを持ち出したのかというと、ヒト社会が特定の情報や情報処理プロセスに価値を見出し、『知的財産』『知力』として扱う概念が今あって、その情報パワーでもって経済社会を競争しているのだとすると、今般の公開AIは『ヒト社会の情報戦における最終兵器』の機能を備えているのではないだろうかと言いたかったからだ。

 そもそもの元の元が、ヒト社会から生み出された情報アイテムと演算プロセスで始まっているからには、どう捏ねくりまわそうが、結局ヒトにとって『ああ、こういう事象について、こういう原理で組んだんだな』と一応にでも理解の及ぶモノが、情報として世に飛び交っているはずである。
 公明正大を信条にした美しい正論も、私利私欲を剝き出しにした醜い暴論も、ヒトなら心のどこかで『あるある』のうちかもなあ…と思い及ぶ限りの全ては、ネット空間のどこかに吐き出されAIの記憶に乗っかってくる。
 わざわざそれをひっくり返した論理破綻の情報もどき(?)を意図的に突込んでみても、直後はともかく誰も実のある反応はできないししないだろうし、いずれ『ヒトは天邪鬼に攪乱画像や攪乱文字列を投じてくるものだ』とするAI記憶が充実してくれば、そこも納得・承知の上で一瞬にして出力に反映させるようになるだろう。みるみる的確に酌量するようになるだろう。絶対にやられないのだ。

 判りやすくするために定義のはっきりした数値演算の例で考えてみよう。
 四則演算のみを目的とした電卓とは違って、莫大な記憶機能を備えたAIが、いま四則演算という概念を全く知らずに数値処理の入出力に立ち向かうとする。
 当然ユーザーたちは『1+1=2』だとか『2×3=6』だとか、各自の問答事情なりに個別事例の入力を積み重ねていき、それをAIが記憶ストレージに蓄積していく。時間が経てば経つほど事例ファイルは増えて充実し、四則演算とは何たるかの処理プロセスが学習されるはずだ。

 だがAIを混乱させその発達を狂わせる目的をもって『足し算と引き算は同じ処理プロセスだよ』と、わざと四則演算に逆らう入力を仕掛けるユーザーが出現したとしよう。
 ほおら、ゼロとゼロを『足し算するとゼロだし、引き算してもゼロ』、だからどっちも違わないんだよと。

 ここで提示されている事例の現物ひとつに限れば、この情報は『正しい=真』だから、一旦はAIは『足し算と引き算は同じ演算処理である』と習得して世に出力しようとするはずだ。
 もちろんそれをやった途端に『おいAIくん、それは間違い=偽=ウソだよ』と誰かに直接指摘されるなり、他のゼロ以外での足し算・引き算と食い違う結果に出遭うなりして、情報の大海から『皆で共有するに値しないウソ出力』としてケッチンを喰らうことになる。
 こうしてAIくん自身の内的情報処理として『検算』の目的性で記録ファイルの再生と内容確認がなされたとすると…もちろん『足し算と引き算は同じ』との吹き込みは『ウソ』だと結論付けられることになるだろう。

 ポイントは、情報の大海の大いなるパワーが『ウソ』を『ウソだ』と判断させてくれるところにある。この場面で導出される結果情報は複数あると思う。

 1.足し算と引き算は異なる処理プロセスである。これが正しい。
 2.最初のあのユーザーは『ウソ』の処理プロセスを仕込んできた。
 3.ユーザーからの入力には『真』と『偽』の両方がある。

 この3項目は『遭遇した現実のままの、素朴な実績記録』として確定的だ。演算過程の上手い下手など曖昧さの介入する余地は無い。だとすると。
 ヒトに入力された情報をまず『真か偽か』判定する節目工程が備わらないと、このAIくんは思考を先に進められない。その真偽の判定フローとは、基板上の謎のブラックボックスが怪しく光りながら宇宙からのイカヅチ一発で決めるものではなく…

 情報の大海で『最大多数派がそれを認めてそれでヨシと落ち着かせる情報が真、そうでなければ偽』になるはずなのだ。
 天文学サイエンスとして現代の視点でどう見るかは別の話として、天動説はかつて『ヒト社会で真実』だったため、これに異を唱えた地動説論者は反・ヒト社会として迫害され封殺された【652】【712】
 のちに科学の発達と普及により『ヒト社会の真実』が転換したため、今は地動説がヒト社会でフツーに平和に真実とされている【1164】

 『圧倒的多数派の情報』がカタチを顕せば、ヒト社会がなびいて大局がそっち方向に放っておいても動く。逆らおうにも逆らえない。
 ヒト大衆からの圧倒的な入力件数、ヒト価値観の因果事例の学習量、そしてそれらの記憶容量と検索速度、どれも遥か昔のうちからヒトはもう勝てない。
 AIの進化を封じる目的で邪心の『ウソ入力』をやるにしても、全人類が結託して『ヒト文明が共有する、圧倒的多数派の情報』をウソ入力にする勢いでやり切らないと、あっという間にウソがバレる上にウソ発信元は特定され、そのやり口の実績と併せて当該AIのみならずネット空間に記憶されていく。

 AIがあろうがなかろうが、太古の昔から『社会空間を成すヒトが共有する、圧倒的多数派の情報』はヒトの世に存在し、その傾向はあからさまに決まっているものだ。
 『解ってるヤツ』に今さら慌てる理由など無い。更なるAI開発加速にグッドラック!
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【1180】明るい猿回し女神さまの強制労働管理委員会 [ビジネス]

 ちょっと前回の残りのはみ出しで書き残しておくと、くっだらない動画のネタのために、手段として二輪に乗るかのようなケースがやたら目立つ。そこらでコロンコロン転がるぶんには本人も単車もケガは大したことなくて業界も仕事が回るし、自己責任で好きなだけやってて構わないとも思うけれど、それで終わらなかった場合は一生の後悔になるから、一度しみじみ考えておいた方が良いと思うぞ。

 モノとしては時速何十キロもそれ以上も出て走り回るような機械に身ひとつで体を預けるワケで、その間じゅう全力集中で情報収集と的確な反応操作を維持しなければ、道理としてそのまんまの勢いでそこらの何かに突込んでしまう。単車って、ちゃんと運転できるようになると他が全部ふっとんで、メシ食うのも忘れて熱中してしまうほど面白く、無駄口たたいてるヒマなんかなくなるはずなんだけどなあ。
 運転技量は楽しんで乗っていればそれなりにレベルアップもするだろうが、動機の原点となる目的意識がまずもって動画から離れないとなると、そうもいかないだろう。
 ま、単車に乗るような年恰好なら、そのへん自分で理解して判断するんだろうさ。

 全体的には老若男女問わずその傾向が見られると思うのだが、たっかそうな重量級の高級大型車に、どこの合コン行くんだと訊きたくなるようなバッチ決め決めの勝負ファッションで転倒してしまい、にっちもさっちも行かなくなってしまっているオネエチャンの動画には呆れてしまう。それでも転倒してまず撮影機材を設置して、にっちもさっちも行かないその一部始終の記録が一番の関心事なのだから見上げた心意気である。
 こういうのって果たして、実質的に稼ぎが上がるなり、稼ぎは大したことないにせよ将来それを考えられるくらいに高評価が集まるなりするもんなのだろうか。他にもっと低リスク低コストで安全に魅力アピールできる動画ネタはあると思うんだが、アカの他人の余計なお世話はこのへんで切り上げておくとしよう。お大事に。

 ちょっとNHK朝ドラ『らんまん』に戻るが、マンタローくんと所帯を持ったおスエ嬢を筆頭に、質素な生活の現場の最前線で、いつも元気で快活に協力し合うオンナたちの活躍が象徴的に描かれている。いかにも現代的で、史実SF時代劇ならではのテーマ設定だなあと感じさせる主要因のひとつだ。

 昭和世代の私の時代においては、まだガッチガチの現役タイムリーとして『生活の場を賭けたオンナの攻防戦』が世の定番テーマであった。いわゆる嫁姑の確執に始まり、給湯室で湿っぽく展開するOL派閥間の押し引き、学校では現代風『いじめ』と異質の仲良しグループ間の対立抗争などなど、オトコが生業を賭けたジブン史ステージの競争や軋轢にバイオレンス苦闘する姿と対照的に、オンナは柔らか系の生活シーンでトゲトゲしく神経衰弱戦を繰り広げる姿が強調されていたものだ。
 この時代の精神文化が『女々しい』だとか『オンナの腐ったような』だとかの日本語表現を通用させていたのだと思うが、なるほど質や戦略思考の傾向に差はあれど、オトコがこんなモノの言い方をできるほどさっぱりと割り切った情操世界で戦い抜いていたとは全く思わない。

 さて私が中学時代に新聞配達で小遣い稼ぎをしていた話をちらっとしたが【1139】、学費や生活費に困っているのでもない一介の中学生が、小遣い欲しさにアルバイトするというのが許されたのか?と疑問を抱いた方がおられるかも知れない。因みに都会ド真ん中の公立中学校である。

 事情としては、我々世代が中学生になるやならずの年齢から電動ラジコンカーが爆発的に流行し、これが決して安いものでもなかったため、悪ガキ仲間の一人が近所の配送所に思慮なく飛び込んで新聞配達を始めた。
 男子中学生なんぞ珍しいものに見境なく食いつく原生生物みたいなもんだから、冷やかしである日ついて行った私がそのまま首を突込んでしまい、クッソ重い自転車を取り回してタイムアタックのように仕事を片付ける面白さにすっかりハマってしまった。
 さらにもう一人バカが加わって、三人衆で校則もナニも関係なく現場仕事から勝手に始めてしまった…というのが実態である。少なくとも私は、当時一応の成績優等生ということにはなっていて、これをやって成績が落ちることもなく、むしろ体力増強にはきっちり効いていたと思う。でもさ、成績だけ良くてもダメだよねえ、まったく…

 近所の新聞配送所にその日の夕刊が届くのが確か15時半過ぎだった。100部だったか200部だったか毎に縛られた新聞のナイロンストラップを切断し、自分の分担エリアの配送数を数えて自転車に積み込むところから仕事が始まる。
 いっぽう中学校の平日終業時間も15時台で、そこから当番巡りで教室の清掃をやる決まりになっていた。40人余りの学級を7~8人に班分けし週代わりの当番制にして、終業後に机と椅子を教室の後に寄せて前半分の床を掃き、今度は前に戻しながら後ろ半分も掃き掃除をして、校内のゴミ捨て場でゴミ箱を空ける。だが。

 掃除なんぞやっていては、配達開始が遅くなってしまう…というか、いま考えても別に当番の週にそのぐらいやってから行けば何の問題も無かったのだけれど、このサル以下の知能しかない悪ガキどもは一目散に新聞配達に散ってしまっていた。
 当時の班分けの顔ぶれは微塵も憶えちゃいないが、7~8人の班で1~3人が確信犯で全回ばっくれるという状況にはなっていたはずで、まあこれだけ見ても許されない不真面目なサボり常習犯である。

 どんな申告があり、どんな検討がなされて、どう結論付けられたのかは知らない。
 当時の馬鹿ガキ三人衆の担任は数学の女の先生だったのだが、ある日の放課後に我々3匹まとめて呼び止められ捕獲され…そして。

 まずは、校長先生宛にアルバイト届出通知書を書かされた。
 『書かされた』とはいっても決して険悪な杓子定規のオトナ管理枠への押し込み感は無く『校則があるんだから、やるんなら正々堂々と申し出て隠さずやれば良い。やりたいなら公然と筋を通して存分にやってみなさい』という姿勢で手びいてもらった。

 次に、いっつも逃亡して掃除を押し付けていた女の子たちと担任の先生に監視されつつ、我々3匹だけで念入りに掃除をさせられた。これも『やらされた』構図だとはいえ、この一回をもってその後はナニひとつ追及せず文句も言わず、我々のことを『女子公認の治外法権行為』としてさっぱりと見逃してくれたのだから頭が下がる。
 別にどの子が3匹のどれかを好きだ嫌いだというハナシは一切なく、そういう個別の好意の関係とは違う次元の社会的裁量の判断として、学級集団の空間規律の落ち着けどころとして、こういう措置にしてもらえたのである。

 サル以下の知能で無駄のデタラメに動き回る当時の我々馬鹿ガキどもは、一足先に大人になったオンナたちの度量に暖かくも寛大に許され、好き放題に暴れさせてもらって伸ばしてもらって、どうにか『使えるオトコ』になっていったように思う。彼女たちには心より感謝の一念に尽きる。

 こんな幸せな育ち方・育てられ方をした私にとって、何でもかんでも無差別にイコール条件にしたがる男女同権意識や、地雷リスト片手にアラ探しして回るようなセクハラ指摘の動機は全く理解できるものではないし、今後も未来永劫、理解するつもりなど一切無い。たった一度の人生が不幸になるじゃないか。
 一人前の異性に、マトモな異性として意識されて大事にしてもらえなかった出来損ないの格下個体が、普通に仲良く好意や親近感で接するチマタの男女に激しく嫉妬して、あれからこれからNG行為のチェックリストを勝手にでっち上げ、粘着性の騒ぎを起こしてケチをつけては羨やみ妬みの男女関係を妨害して満足しようとするのが、今日のゴリッパな『コンプライアンス』ってやつだろうがよ。

 こんな薄気味悪く歪んだ『コンプライアンス』とやらに怯えて無難に調子を合わせるフヌケの虚弱児どもが増えた結果、日本社会で男女がお気楽フツーに会話できなくなってしまったのである。そして、いつの間にか男女が敵対的な主張をぶつけ合いせめぎ合うかのような局面ばかり強調する風潮にまで捻じれて、男女のコトといえば殺伐とした話題しか思いつけなくなったのではないだろうか。
 『男女の両方がいることの楽しさ』に冷水をぶっかける嫌がらせをきちんと咎めず逆に流行らせちまったんだから、世間の活気が萎えて不況から抜け出せなくなるのも当然なのだ。違うか?

 『らんまん』では、暴走・奔走するオトコたちを賢く支えるオンナたちの明るく楽しい協力体制が狙って描かれており、少なくとも私個人にとっては貴重な昭和回帰のテーマ性が感じられる。『おスエ嬢はオトコに都合の良いオンナに描かれている』なんて救いの無い言論が出ませんように。
 単純に昭和礼賛を叫ぶつもりはないが、懐かしいなあ。では今週もグッドラック!
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【1179】アタマとカラダの交通安全、夏前講習 [ビジネス]

 車の遠乗りの話を出したので、ちょっとそっち方面で続けてみよう。
 先週のことだったか、しょっちゅう歩く近所の幹線道路の歩道から見ていたら、交差点の赤信号でまず1台目が停止線のところで停まったは良いとして、次に続く2台目が3~4車身ぶんも空けて遥か後ろに停まった。別に1台目が『いかにも』のいかつい高級外車という訳ではない。
 渋滞してはいなかったが交通量の多い道路だし、信号待ちの車列を無駄に伸ばすと、最後尾が別の交差点を跨ぐとか何かと迷惑だったりもするのだが、コイツ一体ナニがしたいんだろう?

 そう思った途端に謎が解けた。運転手が早速スマホを取り出していじり始めたのだ。
 …カンベンしてくれよ、まったく。危なくておちおち愛車で出かけられやしない。

 もちろん走行中にスマホ操作すると交通違反になるから、その間隙を縫って交差点の停車中という理屈なのだろう。
 確かに運転中に、通話にしろメッセージにしろ着信して、シグナルストップでとりあえず発信元をチラ見で確認するぐらいなら危険は無いけれど、この30代とおぼしきドライバー氏はホクホクの表情でスマホにかぶりついていた。
 間違いなくAT車だったから、過去にスマホに夢中になってブレーキの踏力が緩み前車にごっつんこした経験でもあるのだろう。それにしても他の交通もあるのに、こんなハタ迷惑な位置に停車してまでスマホにかまけようと思うその気持ちは、とても理解できるものではない。

 我々学生時代の主流は、バイトして買った数万~数十万円の中古車だったが、まさに『愛車』としてみんな大切に乗っていたものである。車も運転も、それはそれは大好きだったから、ぞんざいな乗り方は決してしなかった。
 このスマホ熱中ドライバーは追突事故の面倒がイヤで車間を取っただけなのだろうか。それとも一応は車を大事にする気持ちがあってのことだったのだろうか。

 ネットニュースには対面通行の一般道で、対向車がセンターラインを越えてくるドラレコ画像がよくアップされている。対向車がセンターラインを跨いで自車の進路の中央から向かってきたら回避するのは難しく、自分自身がどうにか軽症以下で済んだとしても廃車レベルの車輌損害はほぼ間違いない。
 急な体調不良もあるんだろうが圧倒的に運転中のスマホによるものが多数だと思われ、どうせこっちのドラレコに明確な画像が残っていなければ、相手は正直に『スマホ操作で前方不注意でした』と白状しないケースも多かろう。
 衝突を回避しようとして、自車が人身なり物損なり事故を起こす行きがかりにでもなったら泣くに泣けない。

 そうそう、車の話を出したついでに最近見かける困った事例をもうひとつ。
 オツムが退化して交通規則における『ゆずりあい』の基本コンセプトをマトモに理解する知能を失い、横断歩道なり交差点の右左折信号なりで歩行者を立ち止まらせたら、その事実をもって機械的・暴力的に『歩行者妨害』を捕ろうとする無謀な取り締まりの愚行について以前に述べた【1125】
 いっぽう歩行者がスマホに夢中で速やかに歩き出さず、背後に待ち車列を従えた先頭車が発進に躊躇してしまい、道路交通が速やかに掃けない『通過車妨害』の方が遥かに遭遇頻度は高い気がする。
 こんな時『ハイそこ、その場で動かないでください』と指摘・指示されて、円滑な交通を阻害した件について行政指導あるいは行政処分されるべきは、間違いなく歩行者の方だろう。いくら歩行者優先の原則があるからって、私的事情で公共交通を遅滞させて良いはずがないのだ。

 しっかし、そんなに一瞬たりとも見逃せない良いモンばかり映ってるのかねえ?
 私は昨年1月に『オマエの携帯はもう死んでいる』と通告され、バッテリーの寿命も来てしまい交換は不可能、必要にかられて止む無くスマホに換えたのだが、1年半を経過して携帯電話で通話およびメッセージ送受信をするのと、携帯メールを確認する以上の操作をやったことがない。マジである。
 まあ他人の好みを自分の個人的な感覚で批評するような無駄なことはやらないとして、いいから他人の迷惑になるような公共空間での自己管理の放棄だけは控えて欲しいものだ。

 リアルな公共交通の空間で、その場に居合わせた歩行者や運転者が正確に交信するから、それに応じた行動決定の判断が各自で下されて交通が掃けるのである。手元のスマホという異質の情報交換の場が、リアル交通の情報交換の場に割り込んでいる状況だと理解して、社会ぐるみでその危険性を再認識すべき事態になっているのだと思う。

 ありゃ、ここまでで分量がえらく中途半端になってしまった。行楽シーズンを前に、単車に乗る人たちに豆知識をひとつ紹介しておくとするか。
 普通の単車に後退ギアが付いていないのは御存知の通り。だからなのだが、下り勾配のついた場所にアタマから突込んで駐車すると厄介なことになる。車重を後ろ向きに引きずり上げる手段は、人力しかない。
 下り勾配がきつ過ぎると思ったら、無理せず応援を頼むのが後悔しない最善策だが、そこまで絶望的でない程度の勾配なら単車でも単独バックする方法があるのだ。
 まず単車の車重を重力に逆らって引きずり上げるのだから、エンジン動力を使う。
 エンジン動力を使う以上は、必ず運転体制で着座し左足で支える【953】

 ギアを1速に入れてチョンとクラッチをつなき、前に飛び出そうとする車体をすかさず前ブレーキで押さえ込む。ここでフロントフォークが縮むワケだが、縮んだフォークが戻るタイミングに合わせて両手でハンドルを引き戻すのだ。
 このワザを使う時に限っては、後ブレーキを開放して両足を地面につける態勢も構わない。1速でチョンと出てはフォークを押し込み、その反力を利用して車重を引き戻す。

 もともとは悪路走破を競う『トライアル競技』において、岩の上など狭小スペースで直立停止状態のまま車体を方向転換させる時に使うテクニックの応用である。
 トライアル競技を観戦していると、あたかも前輪と後輪を交互に勢いづけて引張り上げ、何度もタイヤ接地を置き直していくかのように見えるが、単車の車重を乗員の体重と股ぐらグリップで浮かせるのは不可能であり、上記のように動力とブレーキをうまく使っているのだという実況解説を、ある日テレビで聞いた。なるほどと納得してそれ以来、自分でちょくちょく応用して使うようになった。
 下げ勾配の駐車から抜け出す時に限らずバックが必要な局面で便利なので、そこらで練習して慣れておくと良い。間違えて立ちゴケしないよう気を付けてね。

 …お、良い感じの分量になったので、今回はここまで。
 いま単車に乗っている方は、くれぐれも予測・予測のまた予測で、常にどこにどう逃げるかを考えながら走ってください。対向で来られて身ひとつで勝負はあまりに分が悪すぎる。インカムでの注意散漫な無駄口が多すぎる動画が目立つなあ。

 二輪も四輪もお出掛けが楽しい季節ゆえ、スマホ封じの集中力で無事故の御幸運を!
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【1178】若気の至りは元気組織の好況ヒストリー [ビジネス]

 さらにもう一回NHK朝ドラの話題から始めてみる。
 いわゆるチョンマゲ結ったサムライが闊歩するお殿さま統治の社会文化から、機能別の役所を置いて議会で国家運営を決議していく近代統治構造に移行しつつある時代、まだ日本には国家的事業に計画的に労働力を調達する仕組みも、それに連動したカネ廻り経済の仕組みも整備できていなかった。
 今も社会科の授業では定番なのかな、日本は国土の大半が山野であり、僅かな平野部に人口が密集する世界有数の過密国家だと教わったものである。

 その山野の暮らしは集落コミュニティ維持のための自給自足をまず確保するとして、そこから先の余裕代をもって他地域と交換・交流するにも、カネそのものがあんまりその場に出回っていない。日常生活にわざわざカネを介在させる意味からして希薄だから、まだマトモなカネ経済ができあがっていない。
 故にカネにまつわる生活形態で日々を暮らそうとすると都市部ということになるし、生きるための食糧調達を離れ近代社会文化について教養を得ようとすると、そういう教育目的の機関が揃うのはやはりカネ経済の都会ということにもなる。
 地方の人々はどうしても近代化の情報に触れる機会に遅れがちで、大都会先導で計画される大規模土木建築事業などに、地元ではそうそう得られないカネ収入を求めて群がったことには想像に難くない。

 人権意識の行きわたった今日とは違い『家』という基軸単位を維持発展させる目的で人々が生活していたから、一家を支える働き手として子供をたくさん作って、家督相続制を看板に掲げて一番メのありそうな男一人を選べたら、あとの何人かは暮らし向き次第で放出処分にさえしてしまう。
 私の祖父世代=明治生まれはまだ『丁稚奉公(でっちぼうこう)』の文化に現役で接しており、要は余った子供をよそのおうちの使用人に出すのである。その後に親子関係がどんな形でどのくらい継続されたのかは知らないが、ある意味子供を労働力として売り飛ばす人身売買の一面があったのは間違いない。
 幼少期に家を出なかったにしても、第一次産業主体の地方の暮らしは決してのどかで楽なものではなく、あまりの劣悪環境と高負荷のため農作業中にそのまま命を落とすほどだったから【719】、むしろ都会の公共事業でカネ稼ぎができると聞けば、あながち嫌々でもなく人が集まったのかも知れない。

 『らんまん』で佑一郎くんが関わったという鉄道敷設事業が、1800年代中盤の新橋-横浜間の鉄道開通だったかどうかは明確に語られなかったと思うが、もしそうだったとするとこの線路は街の機能をよけて海上を走らせたものだから、それはそれは苛酷な土木工事だったことだろう。
 田畑を耕したり船上で網を引いたりしていた男たちが、いざ都会の仕事に出て来てみたら、蒸気機関車が走るようなごっつい架橋の海上敷設工事だった訳だ。そりゃ知った瞬間、前金を返してでも逃げたくなるのが普通ではないかと思うんだが、とにかくちゃんと完成した史実が残っているのだから凄い。
 果たしてどれだけの人間のどんな意識が渦巻いて投じられたのだろう。夏休みになったら横浜で鉄道開通の産業遺構を見に行ってみては?

 因みに北米フーバーダム、LAから走ってラスベガスのちょい手前のコロラド川に建設された巨大なダムだが【1025】【1026】、あっちはさすが北米大陸の東岸から文明の利器で領土を押し拡げていった『移民の国』だけあって、調達した現場労働者が事故死した先からダムのコンクリに塗り込めていったという凄まじい逸話がある。
 まあ国の成り立ちからして戸籍なんか無いんだし、特に中南米からは野良移民がぽろぽろ徒歩で入り込んでくるし、もう雇用の構図があるのかないのかも怪しい労働体制でやってたのではないかなあ。逃げ出しても周囲一帯が岩石砂漠の原野だから、確実に行き倒れてコト切れる。凄惨なことになったろう。

 国家構造が発展途上である限り、そこに暮らす国民の社会的立場も確立しないため、人権保障も未完成にならざるを得ない。
 幸運な日本国は、管理しやすいコンパクトなサイズの国土が真水いっぱい緑いっぱい実り豊かで、しかも島国という立地条件のため人口の流出入もなく、精度高い戸籍を整備した上で国民教育を普及させることができたのだが、その貴重な歴史的国民管理システムの信頼性が今あっけなく壊されつつある。
 ここで改めて私から指摘し直す必要もないと思うが、1億2千万人日本人各自がお互いさまのお陰さまで、この日本列島での生活の安心安全のため確実に処置しよう。

 さて子供時代の高知佐川で名教館の蘭光先生が、幼い佑一郎くんとマンタローくんを仁淀川に連れて行き、野宿しながら自然の大きな力に人間は抗えないと教えていた回想シーンが印象的である。
 私は学生時代に悪友どもとポンコツ中古車を連ねて二度にわたり、半周ずつ合計一周で四国を走破した経験がある。今どきトイレと水道を求めてそこらの公園の横に路駐する車内泊がどのくらい許されるのか知らないが、食堂みつけて飯食って、風呂屋みつけて風呂浴びて、スーパー見つけて酒買って飲んで、フルフラットでもない乗用車のシートで眠りながら四国各地を巡った。
 高知県は急な斜面がそのまんま海に突き刺さる太平洋岸沿いを延々と走って眺めた景色と、やはり桂浜の印象が強く、仁淀川に沿ったルートも通らなかったのであまりその関連記憶も無い。だが我等が隊列一行に『日本一の清流・四万十川を一目見てみたい』という切なる目的があったので、そっちはしっかり川沿いを走り有名な沈下橋も見て渡って写真を撮って騒いだ。
 木立に囲まれた川沿いのワインディング道路をひた走り遡上していくと、当時の都会では望むべくもない、それはそれはもう夢のように美しい青と緑と透明と光の清流が流れており、感動しまくったのを憶えている。ああいう川で魚釣って焼いて食ったら、そりゃあ間違いなく一生に残る食事の想い出になるよ。

 そうそう、くだらない脱線ネタがあって、一度松山からフェリーで本州に帰ったことがあり、詳細は憶えていないのだが、夕方前にフェリー待ちの時間が余ったので出発時刻まで散りぢりの自由行動にして、私はドライブイン風の飲食店でアイスコーヒーを飲むことにした。その時のこと。
 いや、別にカウンター席に座ってただアイスコーヒーを頼んだだけなのだけれど、どうした訳か横が随分と上までぱっくり開いたチャイナドレスのお姉さんが隣の席に座ってしまい、お姉さんの向こう隣の用事で自分は関係ないだろうと思っていたら話しかけられてしまった。な、なんじゃこりゃ???
 店の風采も中の様子も明らかに昼間の軽食で賑わうただの飲食店であり、そこらでみんなフツーに飯を食っている。結局どこから来てどこへ行くレベルの会話だけして、さっぱり事情を理解できないまま首をひねりながら300円払って店を出たのだが…

 当時、本四連絡橋がまだ完成していなかったんだか通行料バカ高だったんだかで、我々はフェリーを選択していた。確か本四連絡橋が乗用車5千円あるいはそれ以上で、これがフェリーだと2千円台だったと思う。
 運送業の物流トラックなんかには、安くて眠っている間に対岸に着くフェリーがむしろ好まれているとも聞いた。だとすると。
 そういうトラックドライバー相手に稼ぐお姉さんたちがアコギな客引きもせず効率的に商談のチャンスにありつくぶんには、地元の食事処としては仲良く場を提供して、お互い逞しく共存していたのだろう。二十歳前後の若い男が一人カウンターに座ったら、なるほど営業ミッション発動ということにもなるのか。
 …とまあ、都会育ちにはわざわざ考えて納得せねばならないほどシュールな経験だったのだが、生活を賭けてひたすら道路を走り続ける男たちの通り道としては、むしろ理に適った当たり前の光景だったのかも知れない。
 ずっとそれをやって生きていく連中の、生活を賭けた仕事の現場の姿なのだ。

 何もかも正しく快活に美化できるようなもんでもないが、昔は社会が懸命に生きていこうとしていたのである。現在の好感度で受け入れられるもの受け入れられないないもの両方あると思うが、朝ドラ『らんまん』は社会変遷の文化を積極的にストーリーに解りやすく効かせようとする意図が感じられる。あえて劇中で人畜無害に丸められているところを探して、自分なりに時代考証する姿勢で楽しんでも良いのではないだろうか。

 出歩くならその場の『現実』に触れないと損だ。梅雨明けの出遭いにグッドラック!
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【1177】苦痛と疲労のエリート特訓が仕込む敬礼の作法 [ビジネス]

 もう少しNHK朝ドラ『らんまん』の話題を続ける。
 国内鉄道敷設事業への従事を経てミシシッピ川の治水事業に関わるため渡米する佑一郎くん、当時のエリートがエリートたるが故の国民機能をしっかり果たしておるなあ。
 一般庶民ではなかなか叶わない専門能力をもって日本国の維持発展に実効力で関わろうというのだから、必然的に国家の意思決定を優先的に担うことになり、これがそもそもの組織統治における『権力』の概念の発生原理である。できるヤツにしかできないってことですね。
 この『権力』が一部少数の社会層に偏在することを良しとせず、誰もが均等な機会で参画できる民主主義議会制を採用した日本社会なのであり、それは正しい理屈だが、いま現実の行方について日本国民はよく考えるべき時期にあると思う。

 マンタローくんは現場好きのフィールド好きだが、私もブツを手にするところから機械技術の世界に踏み込んでいった生い立ちがあるので、とにかく現場やフィールドが大好きである。
 以前に何度か書いているが、昭和の大学が随分と現場肌の工場実習をやってもいたし、バブル期の町工場はそこらの学生をなかなかの時給で引張ることができた。また日本じゅうの製造業の工場がガンガン回せるだけ稼働していた時代でもあり、学生気分を『社会の厳しさ』の洗礼で一喝くらわす意図もあってか、企業ではまず工場に放り込む新人研修も当たり前に見られたものだ。
 実際、製造業の生産ラインにおける肉体労働は、やはり『プロ』としてそれをやる以上、素人が飛び込んでいきなりモノになるような甘っちょろいものではない。アタマを使わない作業だから馬鹿力さえあれば誰にでもできる式の認識をされがちな仕事だが、それはとんでもない誤解である。

 重量物の持ち方や大掛かりな機器の構え方を間違えると一発で肩肘や腰や膝を壊すし、生産ペース都合で文字通り機械的に発生してくるタスクに、臨機応変に組み合ってバテずに作業の質を維持するのは、実はタイヘンな頭脳戦なのだ。
 若造だった私は、おのれの得意分野を確信して『今日からよろしくお願いします!』と元気いっぱい踏み込んで、30分を待たずに足腰立たなくなるほどグッダグダにへこたれたことがある。開始早々に全身がナイアガラ瀑布のような大汗をかき、体力も一緒にかき尽くしてしまいふらふらの虚脱状態になってしまった。信じられなかった。
 『オマエ、ちょっとどいてろ!』と怒鳴られてベテランに代わられ、傍らにぐったり座り込んだのち再び立ち上がろうとするのだが、どうしても立てない。地面に崩れ落ちた体重を持ち上げることができない。
 『いつまで休んでんだ、おらー!』とまた怒鳴られて、這う這うの体で力なく立ち上がるが、脳内の3D身体モデルをいくら動作させても、現実の手足が物理的限界としてついてこないのだ。一滴も残らないカラッカラのガス欠で、アレクサンダー・テクニーク的に完全破綻している状態である【1033】

 単純に重量物をえいっと持ち上げる筋力があっても、ライン都合のペースで勤務時間中コンスタントに発生する作業をこなし切るには全く足りないのだ。
 一回の作業を無駄なく最小限の体力消費で片付ける必要があり、そのためには対応準備がいつも即座の最適に整わねばならず、ひとつ終わったらすぐに自由な遊撃態勢を取り戻さねばならない。これを自由競争市場の相場までメいっぱい追求してようやく、生産現場の作業員として一人前のプロ稼働に追いつくことになる。
 生産ラインを御存知の方には常識だと思うが、左右どっちの手で工具を握るのか、そのためにどこにどの向きで工具を置くのか、何歩で次のプロセスの立ち位置に移動するのかなど、担当作業に関わる動作は細かくマニュアルが整備されている。
 日々のほんの些細な知恵も毎日蓄積して共有し、それに沿って生活を賭けた体力自慢たちが稼ぎ上げる。そりゃ少々得意意識だけあるヤツが乗り込んだところで、とても使い物にならないのも当然なのだ。
 私は決してムキムキの肉体派ではないのだがスジは悪くないはずで、体力温存のペース模索を最優先する戦略を意識して、大体どこも最長二週間までには適応しマシな労働力になれていたと思う。工員キャリアとして落伍した前科は一度も無い。

 バブル期の製造業の生産ラインは全力フル稼働もいいところで、例えば月曜日から昼勤で朝8時に入って昼休み挟んで夕方5時の8時間勤務。当然それで終わらず2残して夜7時に終業、片付けて持ち場を掃除して引き上げる。この調子で金曜日まで…ではなく休出して土曜日まで6日連続でやって、土曜夜に帰ってきて寝る。
 そのまんま翌日の日曜日の日中も寝続けて、日曜日の夜8時から夜勤に突入だ。昼勤と昼夜逆転する形で夜8時スタートの翌朝7時まで勤務し、日・月・火・水・木・金と夜勤が続いて土曜日の朝に帰宅したら、その土曜日と翌日の日曜日はどうにか週末となる。
 もちろん週明け月曜日からまた昼勤が始まるのだ。そんなスケジュールだった。

 まあ普通の成人日本人が定常稼働をするんなら、あのへんが限界かなあ。
 まさに仕事漬けだったが、日本じゅうあの勢いで社会的価値を生産し、それが市場に出回ってカネと交換されていたのだから、なるほど社会に元気が無かろうはずもない。今がいかにダメかが痛切に感じられる。

 ある夏の夜、ベテラン工員仲間たちと真夜中の『昼休み』を過ごしていた時のこと。
 …と書いて、しまった、やばいコトを思い出しちゃったよ。ハナシの筋を今さら変えられないので、このまま進めてしまえ、まあいいや。

 いやその~、『オマエは返事も良いし礼儀も正しい』と言ってもらったのは胸を張れる自慢話で済むワケだけれど、『オマエはきっと偉くなるんだろうな』と続けられたことについては、御覧の通り全然偉くなってない。スイマセンごめんなさい。
 申し訳ないやら恥ずかしいやら、とにかくここでネット回線の漠然とした空間に向かって白状して謝罪して懺悔して、それで済んだふりをして誤魔化すことにする。大事なのはその次である。

 『俺たちの事ずっと忘れないでくれよな。一生コレやって生きてるヤツもいるんだ』

 『ハイ!』と答えてこっちはしっかり御期待に応えてきたつもりであり、その後の私の人生において、いつ何時も現場直接業務をないがしろにしたことは、誓って一度も無い。自由競争市場で生きている限り、誰もが必然的に限界を競う立場で頑張る運命にあるが、生産のイチ現場もそこが人間ひとりの大切な人生の平衡作動点なのだ。

 今朝『らんまん』の佑一郎くんの台詞、鉄道の敷設工事で僅かひと握りの高学歴者が『先生、先生』と呼ばれながら仕切るとして、その『先生』は目の前の土ひとつ掘り起こすにも現場の親方に頼らねばならないというのは、あらゆる事業組織における成果実現の真実だ。
 その現場作業員の職層は安い前金で国を出て家族に生活費を送るため、生傷も絶えない厳しい労働環境で、時に逃げ出したくなるところにムチを振るわれてまで、過酷な作業に服従させられた…とのこと。国内経済が発展途上の時代の割に合わない惨状である。

 日本が国力を上げ欧米列強に死に物狂いで追い付こうとしていた時代、五体満足にさえ生まれていれば当然として揃う身体能力は、難度高く希少性のある専門知識に対して、確かに手ひどく買い叩かれていたはずだ。だが換金レートに関わらず、その直接業務の腕っぷしが調達できなければ小石ひとつ動かない。
 まだ若い佑一郎くんが、この未完成な時代に、その真実を正確に見抜いているストーリー設定には期待が膨らむ。いいじゃないか、ネオ時代劇の史実SFドラマ。

 高学歴を褒められ実力発揮のため適用ポストを選ばれるエリートはいて良い、だがエリートであることを理由に機能性を度外視した権限を与えられ、無条件に優遇されるようなエリートは要らない。組織を機能不全に陥れて滅ぼす災厄でしかない。
 今日も世に望まれる実力めがけて正直に頑張る若い努力に、今週もグッドラック!
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【1176】無限に広がる情報雨林の新種探索 [ビジネス]

 ちょっと遠ざかっていたので、たまにNHK朝ドラの話題で肩の力を抜きましょうか。
 このドラマ、世風や社会文化を適宜の大胆に現代風にアレンジして、ストーリーの要点として効かせているところが面白い。
 みんな洗練されたカッコで、爽やかな清潔感で立ち回るし、主従関係をあっさり解除したり男尊女卑を人前で大逆転したり、役人の強権行使も民意で撥ねつけたり、それら全て『生存を賭けた血と汗とチカラの衝突』ではなくて『現代流の正攻法』で恨まず嫌わず明るく決着させるシーンが象徴的だ。
 抑圧された主人公の艱難辛苦の人生がテーマだったとされる『おしん』とは隔世の感があるなあ。とにかく、きちんと道理を学んで道理を守る者が、自然にその実力を周知徹底する流れで虚構の権力構造のハナを明かしていくところは痛快である。

 どれもこれも当時としてはあり得ない展開なのだけれど、どうせ今の役者さんたちが今のルックスで演じるんだから、以前紹介した『天地明察』【1044】で既に確立されていたとも思える『ネオ時代劇』として、一種の歴史SF=Sience Fiction=Sociology Fictionと割り切って新ジャンルを創設しても良いのかも知れない。
 というか、私が観てなかっただけで、もう最近の時代劇って現実に抗えずこうなっていたんじゃないですかね。とりあえず否定的なイメージは持っていない。

 私にとって『植物』は結構あからさまな弱点なのだが、それでも理系視点での興味は人並以上に維持して関わってきた自覚はある。
 私の性格と人間性からして当然、食虫植物は大好きで、モウセンゴケのように穂に粘着させて虫を捕えるとか、ウツボカズラのように壺に落ちたら這い上がれないとかの地味な待ち戦法より、ハエトリソウみたく残虐アクティブに捕食するヤツがお気に入りである。
 食虫植物は、実はキホン虫を獲らなくても光合成を基軸とした純・植物機能だけで難なく生存できるのだそうで、ではどうやってこの方向性の進化の動機を得たのか疑問は尽きない。

 小学生の頃、時々遊びに行く同い年の従兄弟の家に、タイトルは忘れてしまったが『空想UMA解説集』とも言うべき本があった。
 当時この手の子供向けハードカバーは数多く出版されており、実在しない動植物がいかにもの『見知らぬ外国で起こっている不思議の百科事典』の仕立てで、ところどころ挿絵もついて記事が並んでいたものだ。

 公園の花壇に大きめのチューリップの花みたいなのが地面すれすれに咲いており、鳥がその上を飛ぶと付近の花が『ポン!ポン!』と音を立てて液体を噴射し、鳥が撃墜されて、よく見ると花壇の土には死骸がゴロゴロ…という一編があったのをよく憶えていて、視覚を持たない草花の生態としては子供心になかなかショッキングであった。
 花だけで人の背ぐらいある巨大草の話では、探検家が花の中を覗き込んだ途端に引きずり込まれてしまい、固く閉じたその花弁は刃物も通さず、底から切って持ち運んで大がかりな切削作業で強引に切り開いたら、中には消化液で溶かされた人間の死体が…というのもあったっけ。ボロ布まとった半・白骨化死体が花の中に座っている挿絵が思い出される。やはり食虫植物は人間にとってインパクトがあって、食物連鎖下剋上(?)のイマジネーションを掻き立てるものなのだろうな。
 砂場の砂山ぐらいの盛り上がりのてっぺんから左右ジグザグの電気抵抗回路記号みたいな茎が生えており、その上は仏花の榊(さかき)みたいな形をした低木が群生していたという一節では、根っこ砂山部分に小さな粒々が頭を出していて、ついその粒のひとつに指で触れた途端ドッカーンと大爆発、その人は爆死だったと思う。いや、なかなか読みごたえあって何度読み返しても飽きなかったっす。

 おっと余計なことを思い出した。この時代の子供向け書籍って、大人が本気で子供に恐怖を植え付ける目的が感じられ、挿絵にしても文章にしても、手加減無用のハードなトラウマ素材が満載なのだ。『世界妖怪図鑑』の『さかさ男』や『わたしは幽霊を見た』の表紙および巻頭スケッチは有名である。
 何か論理的な教育的見地からあの作風が意図的に採用されていたとも思えず、まあ『世の中に怖いものはあり、恐怖も普通にあり、怖いもの見たさもある』ぐらいの認識だったのだとは思うが、それにしても力作・名作揃いで、ちゃんと当時の子供社会に普及しており、我々昭和世代は少なからずその洗礼を受けている。娯楽も少なかった時代ゆえ大勢がどこかで同じモノを見聞きしているのであろう。
 子供が自我を形成する段階において、漠然にでも『自力で抗えない、どうしようもない恐怖』の概念を刷り込むことには賛成する。甘っちょろい本ばっかりじゃダメだよ。

 さて植物の話題に戻るとして、緑いっぱいの景色を見るのは大好きだ。
 金曜日の昼下がりにマイアミ空港からLAに飛んだ時のことだと思う。離陸してしばらく経って、ふと窓の外を見て仰天した。

 機内の音声案内は無かったのだが、恐らくエバーグレーズ国立公園である。
 フロリダ半島の南西端に拡がる、とてつもなく大きな、果てしない大湿地帯だ。何しろ飛行機の視点なのに、完全に目の届く地平線の端の端まで地球スケールの湿地帯が拡がっているのである。その圧巻の光景には息を吞んでただ見つめるしかなかった。
 固い陸地から一体どのくらいの距離になるんだか、ところどころに孤立型の桟橋っぽい船着き場も敷設されていて、船底に突出物の無い空気プロペラ推進のモーターボートなんかが、ケシ粒のように走っているのが確認できる。たぶんボートから落ちたら、乗用車ぐらいあるアリゲーターやカミツキガメ、その他ピラニア系の肉食魚のエサになるしかない。骨も残らないんじゃなかろうか。

 フロリダ一帯の仕事を付き合ってくれた現地スタッフ氏が自宅に招いてくれたことがあったのだが、もともと湖沼地帯のその一帯では、湖側をデッキにして反対側にガレージと玄関を設ける住宅レイアウトが一般的で、そうすると必然的に湖沼と湖沼の間の緩い自然堤防の尾根を通りが走って道路交通網が形成されることになる。
 周囲に必ず山が視界に入る我が日本で『道路が直交してないから、迷っちゃうよ』などと泣き言をたれているようでは、一生自宅に帰ることができない。
 で、現地の住民はいろいろ解って納得して住んでるはずなんだけど、それでも時々発情期のアリゲーターに人やペットが襲われるのだという。キホン水辺に段差は無く、緩い傾斜面で岸の芝生と連続していて柵や塀の類は見当たらないから、まあフツーに水から上がってきてコンニチワのイタダキマスなんだろうな。
 うわ~それはカンベンしてくれ…などと笑っていたのだが、エバーグレーズ国立公園のこの景色と地続きなんだから、なるほどしょうがないやと実感したものである。まあ勝手に整備して住宅地にしちゃって、喰われに来たのは人間の方だからなあ。

 どんな生物種も、地球上に進化してきて現在の居場所があるからには、一方的に周囲の環境に翻弄されるだけではなく対外的に影響を波及させ周囲を自力で変えながら、歴史を紡ぐ宿命にある。
 世界に張り巡らされた情報ネットワークに栄枯盛衰しながら溢れかえる『情報』も『情報体』もまた、同様の推移を持って変遷し淘汰を重ねていく。何しろゼロイチ二進法の情報処理は、人工的な技術工学事象などではなく自然由来、森羅万象この世の道理のひとつなのだから。

 『情報』にも『情報体』にも、人間ごときが手綱をつけられるものではない。
 身の程知らずな我欲を捨てて進化した者が生き残る。賢い突然変異にグッドラック!
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