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【1017】いぶし銀チャームで飾る今年の枯れ木ツリー [ビジネス]

 もう明日はクリスマスイブか、早いもんだなあ。
 11月のうちからクリスマス喧騒アイテムが大挙迫り来る、かつての季節感については見直しても良い気はしていたが、あの元気が『コロナごっこ』に勝とうという気を起こさないのが少し不思議だ。
 元々クリスマスというのは御存知キリスト生誕を祝う日のはずで、いつの間にキリスト教に御縁も無いそこらの日本人がこんな一律に盛り上がるようになったんだろうという疑問は残るが、まあ何だか複雑な気持ちである。

 白状すると、私はキリスト教系の幼稚園に通っていた。敷地内の一角には教会があり、ちゃんと尖った屋根のてっぺんに十字架も見えていた。ステンドグラスっぽい窓もあったと思う。
 高度経済成長期にあって地域に子供がたくさんいた時代、宗教的な繋がりとは無関係に『近所で通いやすい幼稚園』という条件でそういうことになったと思われ、まず私自身が自宅の仏壇で聖書なんぞ見かけたこともないし、他にも思いっきり和式に暮らす近所の数軒からは、神の愛も慈悲もどこ吹く風で虫や小動物の虐待と殺戮を繰り返す、悪の権化の私の幼馴染みたちも何人か一緒に御世話になっていたものだ。神よ。

 そうそう、今の私の年齢で幼稚園の頃となるとかなり記憶が希薄になってしまうのだが、その貴重な想い出の断片のひとつが、確かクリスマスに行われた子供劇の一幕なのである。
 当時すでに読書好きだった私は割とお利巧さん扱いしてもらっていて、天文学者の役回りを仰せつかって分厚い本を手渡され、机の上でそれを開いてテキトーに紙面上の一ヶ所を指差し『これだ、これだ』と台詞を発するよう指示されたことを憶えている。壇上で開いた本とその向こうの観客席の様子が見えていて、『これだ、これだ』と自分の声が出て行く過程を内部視点で観察していた。

 宗教施設の縛りにとらわれない、当時の公共機関の聖夜セレモニーは昔からあったようで、昭和4(1929)年生まれの私の母親が通った女学校には、クリスマスイブの夜に女学生たちがキャンドルを灯して讃美歌を歌いながら街を練り歩く恒例行事があったそうだ。
 昭和12年の日華事変に始まり昭和20年まで7年半続いた大東亜戦争は、当時の日本国民に厳しい節制を要求しており、娯楽や歓楽らしきものがすっかり失われた暮らしの中で、その女学校のクリスマス行事に参加することは母にとって長年の憧れだったのだそうな。
 どんどん悪化する戦況の中どうにか続けられていたその行事だが、遂に母の年次の時だけ中止されてしまい、とても残念だったのだという。母が恐らく15歳の時のクリスマスイブのことである。
 この母の想い出話は、私にとって『社会組織が決断を下したら、個人の望みは、自分の望みは通らない』と、まずは観念して収める自己完結の思考基盤になったように思う。社会組織の強大な決定力に逆らって、その場でイチ個人がナニを願ったところで成果には結びつかない。

 さて、それはそれとして、この時代いかに娯楽…というか『戦争を目的としないモノ』に国民が飢えていたかというところを気にしておきたい。
 『贅沢は敵だ!』『欲しがりません勝つまでは』などの有名なスローガン、ああいうのは当時の世風を象徴する現代視点の作り話なんかではなく、ガチで行政通達として一般庶民の人間関係の間に申し合わされた生活習慣であった。
 ありとあらゆる金属製品を軍事供出させられて、陶器製の通貨までが流通し、期間や頻度にばらつきはあるものの軍需工場に駆り出された地域住民も数知れず。さすがに溶接や鋳造の要所などは材料や設備の扱いを心得た専門職で回していた訳だが、鉄板の切り出しや組立作業などは俄か仕込みの一般人が動員されることも多く、故に事故や負傷もしょっちゅうだったという。
 もう社会全体を包む空気から『余裕』『休息』『安堵』というものが消え失せていたようで、そんな中キャンドルを灯して歩く女学生たちの斉唱が地域社会にもたらす時間の意味は、どれほど大きかったことだろう。
 漫画『この世界の片隅に』では、絵の得意なすずが偶然に知り合った遊女の頼みを受けて、お菓子や果物の絵を次々描いてやるシーンが出てくるが、あれには切実とした、叶わぬ願いに思いを馳せる空想としての娯楽の意味合いが含まれているのだ。

 そういった質素で勤勉な時代こそ日本社会の本来あるべき姿だ!とまで言うつもりは毛頭ない。だが特に昭和の終わり=バブル期あたりから、クリスマスと言えばサンタクロースを信じる子供たちそっちのけで11月のうちからオトナが狂乱モードに突入する習慣が定着し、それで飽き足らなくなってくると二十一世紀はハロウィンまで騒ぎのネタに加え、いいオトナが恥も外聞もなく集団心理に任せて破目を外した発散行為に走る。いい加減マジメに問題視するべき狂った社会現象だと思っている。
 成人社会人として共同で社会機能を維持し、安心して幸せに暮らせる生活環境を自己管理しようとする、そんな社会組織への参画意識が現実逃避式に欠落しているように見えるのだ。
 そんななりゆき放置を決め込んでいたからボロい行政商売が幾つも暴走し、日本経済は喰らわなくて済んだはずの大打撃を喰らったのだし、そのだらしなさにつけ込もうとする自爆テロ非国民犯罪者政権の邪心がいつまで経っても『カネ持ち老人のラクしておトク天国』を諦めないのではないのか。

 キリスト教系の幼稚園出身者としては、結構な古い歴史を持つ我が国のクリスマスの習慣に、ただ暗い問題意識だけ投げかけてクサすのも本意ではない。
 せっかくの機会なんだし少し前まであんなことになっていた経緯と、それを例えば来年以降も本来恒久的なモノとして復活させるべきかどうか、考えてみようではないか。『またアレを狙う』ならば、『また強欲政権の行政商売に使い捨てられる』立場を、自ら選ぶことになるぞ。

 まずはオトナもコドモも普通の日本人がごく自然な感覚で暮らす社会があって、そこに自然に発生するお礼やお祝いの感情を、各自が日常生活の中で思い思いに喜んで楽しめれば良いのだ。そこに各自の必要十分に応じて物品・サービスの消費行動が付いて来て、それが社会の、社会人のクリスマス商戦というものだろう。
 自然に湧き起こるヒトの幸福感に対応してカネが価値媒体として流通するのであり、華やかもささやかも、その原理原則に逆らわず合致するクリスマスであって欲しい。
 あらら必要以上に理屈っぽいシメになっちまったが、メリークリスマス、御幸運を!
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U3

少し早いですが良いお年を!
by U3 (2021-12-26 11:10) 

にすけん

 U3さま、いらっしゃいませ。

 御丁寧な御挨拶をいただきまして恐縮です。
 U3さまも、よいお年をお迎えください。

 来年もお待ちしております。引き続きの御愛顧を。
 どうもありがとうございました。 
by にすけん (2021-12-26 21:16) 

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