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【1243】幸運相関図の我がまま総当たり戦必勝法 [ビジネス]

 NHK『あさイチ』不定期挿入ドラマ『幸運なひと』が最終回を終了、面白かった。
 『何かをしたい』と心が動く欲望=エゴが『生きるということ』ではないのか、と。
 エゴは我のまま、わがまま、自分の『本当』
 それをぶつけられる人はあまりいない。ぶつけられる人がいるのは幸運だと。

 以前ここで紹介した映画『マイ・ライフ』もそうだけれど、まだ未来の人生の余白があることを前提に日常を送っていて、ある日いきなりその遥か手前で打ち切りを宣告された時、人間は存命の残り時間に何をするかの厳しい選択を突き付けられる【1130】
 もちろん本人にとって十分な満足が期待できる人生計画であるはずはなく、逆らえない現実の残酷さ理不尽さに納得できないまま、実現可能な範囲まで消化してなりゆき決着で寿命を畳むしかない。

 『思い残すコト』が山とあるのはとても残念なことで、姉はいつだったか『余命2年と言われたか3年と言われたかの違いはとても大きくて、もし選べるならその差分1年でもきっちり欲しい』と言っていた。
 もちろん本人の病状を過去事例と照合しての推測値にしかなりようがなく、高精度で余命期間の確定のしようはないのだが、それでも姉にとっては、どっちも結局は足りないにしても、切実に延びるものなら延ばしたい1年という時間単位だったのだ。
 最期となる前々日にもメモ用紙に『ぜったいなおす』とガタガタの筆跡でメモを残していた姉は、本当に最後の最後まで諦めていなかったのだと思う。

 生きて果たしたい『思い残すコト』の数々が最後までバックオーダーに積まれている人生というのは、私にとって幸運な境遇に感じられる。人生の持ち時間が余っちまうのが先になったら、そのあとが退屈でしょうがない。

 ただ真剣に最後の最後まで諦めていないがゆえ、病状が進行するほどに病床の姿で自分を見舞われるのを嫌がったものだ。今は会いたくない、今ではないと。
 家族だとはいえ本人が望まないのに余計な手出しはできないし、とにかく本人が諦めていないのに私が妙に送り支度みたいなマネをすると、何もかもが良い方向に行かないのは目に見えている。
 だが現実的な確率問題として、このまま仲良くしてくださった方々と大切な会話も交わさずにいて、それが双方の後悔を引きずるような形に帰着する事態は、何があっても避けなければならない。どうしよう?

 『重病の療養中なのだから、現時点で見映えも心映えも優れないのは当たり前、そんなものは見舞いに来てくれる人たちも全員理解していて誰も否定視しない。むしろ馴染みの人たちにいま好きなことを好きなように好きなだけ話して、回復したらまた改めて元気な姿で会い直せばよい』
 この理屈に姉が素直に納得してくれたお陰で、すぐに私は関係筋に連絡を回して、ありとあらゆる見舞客を何度でも送迎し、どんなに短時間でもお連れする役割に専念することができた。
 いきなり初日の見舞いラッシュが混み過ぎて病院側からペース調整を指南されたほどで、それでも連日、入れ替わり立ち替わり許容枠いっぱいの見舞客が途絶えることはなかったのである。

 その二週間後の早朝、母が一緒にもぐりこんで寝ていた病床の布団の中で、姉は巡回の看護婦さんに呼吸が止まっているところを見つけていただくことになる。

 病床で弱った自分を人目に晒したくないと気後れするのは人間として自然なことだが、それを理由に先送りを繰り返していて、いざ二度と再会が叶わなくなるとやはり悔いが残るものだ。
 似た境遇で行き詰まって悩んでおられる方がいらしたら、私と同じ理屈で見舞い放題の企画を取り持ってみてはいかがだろうか。くれぐれも御無理は禁物、そして終活の空気と別次元で『直接会って話したいことを話す』ところがポイントだと思う。

 姉が築いていた人間関係は、周囲の方々が『あの人はコレコレこんな人だからこそ、自分の身の上のコトを共有したい』という動機で構築してくださったものである。
 姉という情報体の特性に好評価をくれて、わざわざに他でなく姉を選んでコミュニケーションしてくれて、それが行き違わず放置もされず双方で成功して続いていた…という幸せ交信の実績の記録だ。
 『最後の』という流れにはしたくないが現実には抗えない。ならば実態を見て一人ひとり思い思いの現状認識に任せるとして、せっかく姉が本人の幸運を取り置いていたコミュニケーション空間があるのだから、それを稼働できるうちにフル稼働させて、残せる限りの記憶を関係者全員に残そうとしたコンセプトであった。

 お互いが『諦め』や『落胆』の心境をシャットアウトして、本当に大事なコミュニケーションに専念するための現実解として、我ながら方向性も実行時期も悪くない判断だったと思う。
 そして何だかんだで昏睡にも落ちず『ぜったいなおす』と正確な日本語が使える状態で、ギリまで姉本人の人格としてコミュニケーションが叶ったのは幸運であった。
 おいでいただいたどなたと何の会話が交わされたのか私は知らないけれど、その場でお互いが伝えたいと思う内容を思うままに日本語にして、無駄も粉飾もない情報交換がなされたことと心得ている。

 しかし人間とは、ただ現存する事象や自分の意向を素朴・率直に伝えるだけにしても、このくらい追い込まれないとなかなか真面目に取り組まないものだ。人工知能AIとどっちが知的に効率よく情報空間で機能しているのだろうか。
 傍若無人のずけずけではない『我がまま』を言って言われて、真に受けて応えてまた返されて、意のままを実感するコミュニケーションに囲まれた時間で人生を過ごせること。これが情報的に『幸運なひと』の条件ではないかと思っている。

 あなたは幸運を掴みに行って、掴めているだろうか。後悔なきようグッドラック!
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