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【1262】懐かしの喫茶喫食メモリーズ [ビジネス]

 NHK朝ドラ『虎に翼』が新展開して、舞台ががらりと変わらないうちに。

 ここによくおいでくださるお得意さまが喫茶店に詳しいお方で、コメント欄に面白い御知見を書き込んでくださった。
 『純喫茶』は文字通りマジガチのお茶でノンアルコール制の喫茶・喫食限定を謳った表記だそうで、つまりはそこを限定しない、ただのお茶でもない『喫茶』が他にあって、それらとの区別を明確に『純喫茶』と店頭表記したもの…ということらしい。
 喫茶以外の機能を持つ喫茶店かあ…と最初は実感がイマイチだったのだが。

 男役ちゃんが住み込みでウェイターをやっている『カフェー燈台』というお店、あれがそうだよな恐らく。
 いやバーとかキャバレーとかクラブなんかは、夜にアルコールを交えてスケベオヤジのお触り接客も普通にあったのだろうが、カフェーと銘打った店のボックス席フロアでああいう昼サロ昼キャバ業態というのは意外だったのだ。ああいう店でカネを落とすくらいの経済力があるオトコどもは昼間仕事しかしてないイメージだし、だとするとそういう社会層が白昼から酔っぱらう訳にもいくまいし。
 もっとも、格調ある服装と素行なんか限られた上層社会だけのものだったはずで、日本国内をすみずみ網羅するまともな経済構造もできていなかった時代、あぶく銭を手にしたロクデナシが昼間っから散財する場はあったとしておかしくはない。

 フツー歩き疲れてお茶飲むにしても、書類見ながら商談するにしても、誰だって天井から蛍光灯でオフィスみたいな明るさの店という訳にはいかないだろう。
 あ、喫茶店みーっけ!と入店して、腰を下ろしたところで実はそういう『純』でないお店だと気付くパターンも散発したことには容易に想像がつく。

 時代が違うんだけれど、それで思い出したよ。私が中高生だった頃のこと。
 父の知り合いが外回り営業中にちょっと手持ちの書類の内容を確かめたくなり、手近な喫茶店に飛び込んで、早速スーツケースを覗き込んで書類を取り出したのだそうだ。すぐ冷水グラスが出てきてオーダーを訊きに来る…のつもりでふと顔を上げると!
 当時社会現象として流行ワードにもなっていた『ノーパン喫茶』だったのだそうだ。

 『うわあスイマセン!間違えましたっ!』と叫んで慌てて荷物を畳み、2千円だか3千円だかテーブルに叩き置いて、転がるように逃げ出てきたとのこと。
 今ちょっと調べるとノーパン喫茶は1970年代後半から80年代にかけて流行ったというから、私自身の年齢の記憶と合致する。もう高度経済成長期も頭を打ってバブル期にかかろうとする時代にこれだから『純喫茶』業態の軽食・喫茶店が、十分な集客を得るための死活問題として『純喫茶』を見えやすく看板に謳う文化は長らくあったのだろう。
 私の高校生時代、普通に軽食や商談に使う喫茶店は数も多くてどこもよく客が入っていたし、私自身も下校途中に友人数人と喫茶店でダベるのが日常だったけれど、際どい接客をする紛らわしい店の記憶はひとつも無いなあ。

 社会人になってすぐの頃、当時は技術職でも営業所の現場に放り込まれて外回り営業を体験する研修があった。私の面倒を見てくれる営業マンは日によって違ったのだが、まあ人によっては朝からいきなり喫茶店にシケこんで、コーヒー頼んでタバコ吸いながら漫画読んで過ごしたりもしていたものだ。
 何しろ日常業務に忙殺される営業所に『はいコイツ新人、ふた月ほどお願い!』と押し付けるだけだったので、営業マンとしては世間知らずに無駄なトラブルも起こして欲しくなかったのだろう。私だけ何もせず座っているのも間が持たないし、ノート出して書き物するのもイヤミっぽいし、とりあえず一緒に、何時間も新聞や雑誌を読むしかなかったのである。
 退屈な上に『サボっている』という罪悪感もあったのだけれど、会社員なんて別に大好きな仕事に情熱を燃やす敏腕の優秀者ばかりじゃないし、だからってこんなタイプの社員に監視・管理と罰則でムチを入れたところで生産性が上がるとは到底思えない。
 身をもってそれを理解できた時間だったことを、のちに何度も思い返すことになる。貴重な体験だったなあ。

 携帯電話も無かった時代、チマタの喫茶店は少なからずこんな営業職の『外回り先』として固定客を迎えていたのだろう。
 何も考えず頭の中で十把ひと絡げになっていた『喫茶店』だけれど、恐らくはどこも瓶ビールぐらいなら置いてあって、酔っぱらって騒いだりクダを巻いたりしなければ、ただの客一人として普通に処理されるような気がする。
 達人マスターがきっちり手順を踏んで技を尽くして、上等のコーヒー紅茶を淹れてくれるようなお店でもないそこらへんの『非・純喫茶』は、なるほど『喫茶』というより『休み処』や『談話スペース』ってことなんだろうな。

 たま~に日中『空調の効いたところで腰おろしたいな』と一瞬思っても、喫茶店が愛煙家のオアシスになっているパターンが怖くて、むしろ意図的に敬遠することが増えてしまっている。すっかり遠のいていた喫茶店にまつわる記憶だが、久し振りにいろいろ思い出したので書いてみました。

 さて朝ドラの『カフェー燈台』に話を戻そう。
 オッサンが女給さんに『あ~ん』してもらっている姿が一瞬映り込んだのだ。

 さらには崖から落ちて入院した明律大学のイケメン優等生くんが、見舞いに来たファンの女の子に『あ~ん』してもらっていた。
 いわゆるオトコ社会で、何かにつけ『オトコのくせに』と叱咤されながら、成人社会人としての体裁を保って一丁前に振舞うその同一人物が、乳幼児と同じモードで食事の世話の焼かれ方をするワケだが、果たしてこれはオトコが身を預けて喜べるオンナの親切行為なのだろうか。

 私が田舎町の工業団地で暮らしていた頃、中古車販売店か何かの居抜きと思われる格安簡易スナック?に飲みに行っていたハナシはした【1063】
 女の子たちは全員日本語が相当怪しい外人部隊の編制で、あるとき私の隣にロシア人の女の子が座ってくれたのだが、軽く180センチを越えそうな長身で、低いソファに浅く腰かけると真っ白に伸びた膝がふたつ私の真横にそびえ立つ。ブローカーにでも連れられて来日したデルモちゃんが崩れて片田舎に流れてきたのか?

 このロシア美女が上体をこっちに向けカットフルーツを『あ~ん』してくれたのだ。
 むかし実家にいた手乗り文鳥が人差し指にとまり、御飯粒を差し出してやると喜んでついばんでいたものだが、その姿が脳裏にフラッシュバックする。ヒトに餌付けされる愛玩用の小動物かオレは。

 思わず『あ、いいよ、自分で食うから』と制止したところ、彼女は精いっぱい悲しそうな表情で首を横に振り『ダメ、ダメ、おこられる』と懇願するかの口調で譲らない。小顔に大きなグレーの瞳が美しいこと。
 なるほど、店長が奥でちょくちょく監視していて、接客を怠ると叱られるのだろう。

 異国で頑張るXL寸の綺麗なお姉さんを泣かすような、みみっちい強情は許されない。
 腹くくって『ハイ、あ~ん』、嬉しいどころか屈辱感が凄い。オトコはつらいよ。

 『カフェー燈台』の薄暗いボックス席と違い、外気とは厚ビニールのテント一枚で仕切られ、テーブルを男女交互にソファーで囲んで、どこぞのフードフェス会場で国際友好の懇親会をやってるようなもんである。そりゃまあ格安だったのもうなずけるのだが『カフェー燈台』の料金設定って一体どのくらいなのだろうか。

 ま、飲食はみんな一緒に楽しくいただきましょう。では週明けもグッドラック!
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【1261】情報と行動で考える国家組織の性転換リスク [ビジネス]

 まずは前回に続けて、小笠原ヘリ隊墜落事故の当面の最優先課題の確認から。
 いま何より大切なのは、二次災害の絶対阻止だ。去年も言ったろうが【1154】

 人為的要因で人を死なせておいて、安全衛生管理を怠けて軍用ヘリコプターをおもちゃにして遊んでいたら、お約束で『案の定』の『また』死亡事故を発生させた。
 隠すことも誤魔化すこともできないお粗末きわまる現実だが、それでもまだ殺人犯どもは隠したい誤魔化したいを諦めないことだろう。
 現状行方不明7名の運命を心底マジメに気にしているとも思えないが、世論の風当たりを避けようと捜索隊を奮発して取り繕った日には、またしてもお約束の二重遭難・三重遭難をやらかしてますます失点が嵩み、バツが悪くなるだけだ。そっちのリスクはしっかり計算しているのだろう。
 米軍に大枚お支払いして土下座して三べん回って靴の裏でも舐めたのか、米軍が捜索に協力してくれるテイは整ったらしい。一般国民が見に行ける場所でもなし、その動員規模や実働態勢は全くの不明である。

 ま、とりあえずおのれの身の安全ぐらいは判断できるはずの年恰好の人間の集団なんだから、この現実を体験した上で、自分らでこんな組織に身を置いて安全だと思えるところまでは何とかするんだろうよ。
 かねてからここで述べている通り、集団の組織体質を決める『組織の自我』は、構成員の過半数の共通特性で決まる。殺人犯グループと、そいつらの人殺しがあっても『まあいいや』で黙認し同調する奴隷構成員の合計数が過半数を超えている限り、何度でもヘリコプターが落ちて人が死ぬ。
 それを看過する日本国組織の管理下に、安全な空域など無い。皆さんお大事に。

 さてNHK朝ドラ『虎に翼』が相変わらず序盤からハイペースでドタバタ続きだ。
 例によって時代考証的な視点はユルユルで構わないことにして観ているのだが、ちょっと女権向上のために戦い過ぎというか、そのために女性が虐げられ負担をかけられる初期状態でストーリーを埋め過ぎに映る。私だけの心象かなあ。
 おにぎり女神ウメコ夫人が亭主関白なダンナに不満を覚えるのはあり得ると思うが、ダンナに似てしまった長男に見下された視線を感じて『戦うのを逃げていたらバチが当たった』は、少々トゲが立ち過ぎていると思う。
 それで離婚を目論んで弁護士を目指すというのは、当時の精神文化のイメージに照らして、ウメコ夫人がメンタル疲弊し過ぎてて気の毒になっちゃったよ。

 良いか悪いかは別にして、日本列島に生きる社会組織は『男系で血統をつなぐ』という考え方が継承されており、皇室の男系皇族の議論においてもまたしかりだ【356】
 かつては男系皇族の血統維持のために『側室』=公式のメカケ組織表の仕組みまで設けられていたのであり【355】、これが社会的立場としての男女の落としどころとして、疑問を覚える以前の『ただの常識』であった。
 ポイントは、そうやって紡いできた日本社会の血統構成なんだから、日本国組織を一気にパワーアップさせたり、日本国組織の一大事を守り抜いたりするにあたっては、オトコはコマひとつの存在意義であり、時と場合に応じて使い捨てでいいじゃんと、そこまで当時の常識だったことである。

 少なくとも私が子供の頃の高度経済成長期には、まだ『亭主元気で留守がいい』=ダンナは病気もせずどっか外に出払ってるのが、女房にとっては自由気楽でやりやすい…という言葉が普及していたものだ。
 オトコ社会で勝手に心身擦り切らせて、ウチの家庭にはアガリだけきちんと放り込んでくれれば、むしろオンナの牙城にうじゃうじゃ居座って手間を増やさないで欲しいと、ぶっちゃけそういうことである。

 法律に留まらず一般生活慣習まで含めて『こうと決まっている』『こうするのが正しい』とする直感的な共通概念の世界観があったとして、それらも所詮は社会空間に共有される『情報』に過ぎない。
 もちろん『情報』の表現が意味するところを曲解したり笠に着たりして、劇中いわく『権力の濫用』みたいな形で実行動を押し通そうとするヒンシュク者はいたのだろうが、わっざわざにヒンシュクを買いながらの濫用なんかせず真の意味で『適切』に解釈して、快適で幸福な生活を実現していた正直者が普通の多数派だったと考えるのが自然ではないだろうか。
 だいたいアンタ、年頃の若いオトコの頭の中なんぞ、根拠を得て偉ぶれるシチ面倒くさい規律構造があったところで、そんなもん目の前のオンナの二の次・三の次・遥かそれ以降にしかならんに決まっとろうが。
 オトコの性根とその公認っぷりがガサツで粗野な時代風潮ではあったけれど、それ故それを描写するココロがあんまり現代風の物差しに囚われて、目盛の読み値でオトコを嫌わなくてもいいのかなと思う。

 そうそう、ハイキングで崖から落ちたイケメン優等生くんだが、当時のあの年齢のオトコなんだから、全身複雑骨折で命が危ないのでもなけりゃ家族呼ぶハナシなんかすんな、みっともない。
 随分前に亡くなったが私の叔父=母の兄は、子供時代に二階の屋根に上がって遊んでいて転落し、額の側面に大穴の傷口が開く怪我をした。だが当時は怪我をすると無駄な手間としての処置を親に面倒がられて、特に男の子はその愚行を頭ごなしに否定され怒られたのだ。
 なので、その日の夕食も傷が親の死角に入るようポジションを工夫しながら切り抜けて、まあそんなガキのこったからほっときゃ勝手に治って、本郷のちょっと名の知れた大学に行って貿易商になったよ。親もたぶん怪我のことは気付いたんだろうが、普通に生きてメシ食ってるしまあいいか、ってとこじゃなかったのかねえ。

 いっぽう何かにつけイケメン優等生くんとぶつかるヒゲ無頼漢くんだが、法廷劇のとき暴言を浴びせてケンカになった男役ちゃんに、自分のクチで『前は済まなかった。許して欲しい』と詫びを入れるあたり太鼓判の大正解で、ここはタイヘンよくできている。不器用で粗削りだが真直ぐでしっかりした、いいオトコじゃないかよ。
 1929(昭和4)年生まれの私の母が幼少期、ふとした行きがかりで近所の年上の男の子に虐められる構図に追い込まれて、泣き出してしまったのだそうだ。
 それを見つけた別の男の子がすぐに心配して『泣くな、どうした?』と訊いてきたので、しゃくり上げながら思うままにいきさつを話したのだという。その途端。

 『おおーい!そこのそいつ、オトコのくせに女の子いじめて泣かしおったぞおー!』と指差して、大声であたり一帯が振り返る勢いで叫んだのだそうだ。再び、その途端。
 母を泣かせた男の子くんが血相変えて駆け寄ってきて『やめてくれ、ごめんよ、この通り謝る、だから、頼むからやめてくれ』と人目も気にせず平身低頭、平謝りで鎮めにかかったのだという。
 みんなの前できちんと謝ってもらって、許してあげて、万事すっかり元通りに収まったのだそうだ。
 昭和ひとケタからふたケタになろうとする頃、確かに絵に描いたようなオトコ社会の規律構造はあったのだが、それは幼少期からのこんなメンタル土壌の上に築かれた精神文化を『情報』にしてまとめ、日本社会の運営に適用するものだったのである。

 ちょっと弁護しておくと、人材育成だとか能力開発だとかいうワードが見え隠れする業域の観点からすれば、イケメン優等生くんは『どう壊すか、どう踏み外させるか』が面白くも楽しい業務課題となる。
 王道をソツなくこなすヤツは、既存の評価尺度できっちり点取って優秀なんだから、未来に拡がる未開の原野で泥ぐちゃになりながらドカタ稼働で開拓できるように壊して、本人に可能性を拡張する壊れ方を覚えさせてやらないともったいない。
 ともあれこうして大きくなったオトコどもが、のちに腕によりをかけた特製の弁当を持たされ『一番おっきいのをやっつけてねっ!』とオンナ子供に笑顔で送り出され、片道燃料で朝日を浴びつつ笑顔で飛び立っていった。

 男系血統文化が連綿と築き上げてきた男女関係の具体的な実例であり、私は日本列島に生まれた日本国民の一人として、これで妥当だと思う。
 そうか、ゴールデンウィークが近いから、特に若い人は遊就館を見に行くといいよ。
 読み物にして展示解説にするのが難しい内容領域だが、その読解力にグッドラック!
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【1260】地獄行き搭乗便の退職代行業 [ビジネス]

 あーあー今度は小笠原でヘリコプター落としたのか。まあそうなるよ。
 去年の宮古島事故からちょうど一年後に規模倍増で今度は2機か、御丁寧に。

 場所は鳥島周辺というから、東京都から南方に延びる伊豆諸島の南海である。
 回転翼が始終燃料を消費して航続距離を限られるヘリコプターなんだから、不時着する場所も無い大海原に、わざわざ夜に飛ばすからには『4名・4名の2機分乗で対・潜水艦を想定した夜間訓練をやっていた』というのは一応本当なんだろうな。
 乗員7名が行方不明、1名は身柄を回収したものの命は無かったという。
 当面のところ、と言っておくが『また生存者ゼロ』ということになりそうだ。

 端的に、一度事故を起こしておいて、二度と事故が起こらないように再発防止の処置をしなかったのだから、確実に再発する。世の道理であり、確率がどうこうという問題ではない。間違いなくこうなる。
 自衛隊うんこ組織にとりあえず一度でも目にした現実を記憶できる真人間がどのくらいいるのか知らないが、昨年のあれを見ておいて命知らずの物好きがぞろぞろ出て行ってやらかしているのだから、もう同情の余地などあるまい。日本国民としてその愚かさ加減に呆れるばかりだ。

 『行くと死ぬから行かない判断を下す、命が惜しいので自分のクチで断る』という、我が身の最低限の安全管理をきちんと実行せず、不真面目な軍隊ごっこの役回りにひざまずいてイケナイ遊びの輪に入ったのだから、そりゃ物事の流れとして死ぬんだろう。
 軍用ヘリに乗って夜間訓練という身分と年齢なら、日本国憲法に保障された我が身の主権に基づいて、当該労働環境について十分な安全衛生の維持管理を職場に問い質し、納得いかなければ拒否する判断が可能である。
 …っちゅうか拒否しなかったのなら、好きで遊びに出てったんだよ、いいオトナが。

 宮古島で利権商売の下見遊覧を出してポカ事故を起こして、10人を大量殺人しておいて、自衛隊うんこ組織はアッパラ無能バカ殿から奴隷バカボン三等兵まで、それで構わないってことにして放置したんだろ?
 死ぬのも殺すのも勝手だが1億2千万人の血税で買ったたっかい軍用ヘリふたつも落としおって、本来なら自衛隊員が日本じゅうで臨時バイトでもやって、国民に弁償するのがスジではないのか。

 そもそも悪天の夜にヘリコプターを出すのは避けるのが普通だし、宮古島事故のこともあるから多少は敏感になっていたはずで、逆に昨夜普通に出て行ったからには十分な好条件だったと思われる。
 宮古島が単独事故だったため成す術なく全員死亡の結末となったのだから2機ペアにしよう…とする対策思考があったとも考えられるが、恐らくはそれが裏目に出た。

 既に公表されている通り、今般の事故は僚友機同士の接触の可能性が高い。

 一般庶民の生活を送っている限りは、なかなかヘリコプターに乗る機会は無いと思う。私も熱気球まで乗っておいて、ヘリコプターには乗ったことが無い。いっぺん乗りたい。
 それはともかく、ヘリコプターは揚力発生のため凄まじい周辺気流を巻き起こす。

 かつて田舎暮らしをしていたころ消防庁の訓練施設が近所にあって、時折グラウンドで低空ヘリコプターからのロープ昇降訓練を見かけることがあったのだ。多分50メートルぐらいの距離で施設の塀の外から見れていたと思うのだが、それはそれは強烈というにも余りある暴風烈風と砂埃である。
 まああれだけの機体があの大きさの回転翼で、空気相手に踏ん張って空中に留まるのだから、なるほどこんなことにはなるかあ…と納得しつつ、その操縦技量に見とれるのも大概の苦行であった。
 空気は目に見えないので、その場の気流を体感しないとイメージが湧きづらかったりするのだが、ヘリコプターは強力な下降流を叩き下ろして、それを足掛かりに飛ぶため、上下に開けた空間の流れ場はえらいことになっている。
 故にヘリコプターは複数が接近して、特に高度差をつけて接近して飛ぶことは避けたいのだ。広域事件や大事故が発生したとき報道ヘリが空を飛び交うが、各機の相対位置の取り方を観察してみるとよろしい。

 まず岸を離れた夜間の絶海であれば、他にぶつかるものもない空で、低空飛行とはいえ安定飛行のための高度は死守するはずだ。
 そこでお互いの乱気流を避けつつ何かあったら僚友機を目視確認できるようにしておきたい…となると、高度を揃えて横に並ぶはずなのである。そしていま春は強風の季節。

 総合すると、2機で出動し連れ立って高度を揃えて並進飛行中、急な横風に見舞われて接触事故を起こしたものと考えられる。横風による流され代の想定が甘かったため、結果的に見て2機が空けていた相対距離は不十分だった。これが推定原因だ、以上。

 さて脳足りん集団が敵もいない作戦ごっこで命を無駄遣いするぶんには、たかが仕事のふりだけしていたいママゴト組織のウチワ揉めで、文字通り揉み消して揉み消されて大ゴトにもならずに済む。
 だが残り1年を切っちゃってて、明らかに何もかも間に合いようがないのに、中止も延期も言い出せずにずるずると惰性で転がり進んでいく2025大阪万博は、とてもそうは行かない。
 まず重機と積み置き資材だらけの工事現場が会場になるのが確実な、この2025大阪万博がとりあえず来年4月に本当にゲートオープンだけはしたとして、そこで『空飛ぶクルマ』とやらを一般客向けの出し物にするのは絶対にやめるべきである。

 いま決心して計画を処刑しておかないと、来年一般客で4機目19人目の死者が出る。
 クレーンに接触して、海外の要人や小さな子供を乗せて落ちたらどうする?

 だから今やめろと言っている。断言する。
 契約しちゃったナニナニの違約処置が面倒だとか、遅れたナンタラの後始末が法的に前例ナシだとか、その全ては『情報』のハナシだろうが。実行動の選択は結局どうにでもなるんだよ、特にこの人類文明創世記以前の日本社会では。
 まず絶対に人が死なないように、大怪我の後悔で泣かないようにするのが先だ。

 大阪夢洲にはカジノIRの起点さえ打ち込めれば良いんだよ【1196】
 インバウンド需要に買い叩かれながら身を預け身を落とし続ける日本円経済を、人類文明として価値ある通貨流通システムの原理作動に戻す唯一の現実解だからである。

 航空技術にしても経済操作にしても、道理の必然に導かれる『情報』に示された作動原理をよく理解し、現実にコトを起こすための要件アイテムを選択して実行しなければ、ただのゴミクズ情報の空論大喜利に時間を浪費してオシマイだ。

 『理性で暮らす人の世の幸福』に浸りたいものだよ。では週明けからグッドラック!
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【1259】二系統同時ブートの過熱OS消費電力 [ビジネス]

 今度は四国で地震か、人間界のタイムスケール的には最近続いてる感じだなあ。
 風光明媚な四万十川流域を含んでおり、四国らしく急峻で尾根と谷の入り組んだ複雑な斜面の印象が記憶に残る、宿毛(すくも)や中村の地名が見える。皆さんどうかお大事に【1178】

 NHK朝ドラ『虎に翼』が序盤からハイペースで波乱続きだ。
 お馴染みの、物理的にも精神的にも現代風に隅々まで清潔感の行き届いた世界であり、陰湿で貧相な旧態ニッポン精神文化をすすぎ落とした人間模様が少しばかり気になる造りではあるが、とりあえず観やすい。

 今度はトラちゃんちに嫁入りした親友のハナちゃんが悩み始めたか。
 家庭から一歩外へ出た『社会』での男女の扱いの差もいろいろあったのだけれど、そういう場はいわゆる『オトコ社会』ってことでひと通り決まっていて、これに対して戸別の家庭内は全面的にオンナに預けられ任され丸投げされていた。

 この『外はオトコ、内はオンナ』の対照的な生活構造は、まず夫婦二人がいてその間に男の子ができて、その男の子がヨメをもらって家庭の一員として連れ込む。ここから始まる。
 こうして二世代目の夫婦二人もその家庭に同居し、世代違いの夫婦二組・合計4人を基本構成として一家のくくりの骨格が完成するのだ。ここが今回のポイントである。

 なおこれ以外は大した問題ではなく、例えば最初の夫婦に二人目以降の男の子ができたり、あるいは女の子もできたりしたところで、まあ派生事実とされ場当たり的に処理された。

 さてオトコが平日仕事に出払ったあとの家庭空間を、最初の夫婦のカミさんと、その息子のヨメという、血のつながらないオンナ二人で切り盛りすることになる。一致するはずのないオンナ二人の『意識』『主観』『自我』が、狭い家一軒の生存空間に閉じ込められ、お互いがお互いの窮屈になりながら逃げ場を失う構図になるのは宿命である。
 ハナちゃんは猪爪家の家庭空間を仕切る大御所・トラちゃんママに、少なくとも現時点ではどうにかこうにか迎合できているようだが、これが高度経済成長期の時代においては『ヨメ・シュウトメの確執』という相容れない永遠の真理の対立構図として、日本社会の定番テーマになるほどの常識であった。

 息子ヨメが二十歳前~20代前半で嫁入りしてきて以降、実に数十年にわたる閉空間での日常的な軋轢ゆえ、一生をかけた悩みになるほど深刻だが解決策のない、女性として誰もが背負い込んでいる根深い社会問題という位置付けだったと記憶している。

 私が子供時代の高度経済成長期には既にテレビが全世帯に普及していて、日中とくに午後イチ以降夕方前までの時間帯は、圧倒的に専業主婦の視聴者を狙った番組構成となっていた。
 この時間枠の、報道でもなく教養でもなく映画でもなくドキュメンタリーでもなく…のユルいニーズに合わせ、庶民に知名度のある有名人の面々が世間話風に漫談する番組が起案され『ワイドショー』と呼ばれ始めたと思うのだが、そこで『ヨメ・シュウトメの確執』が格好の定番ネタのひとつとなった…はずである。私自身は春・夏・冬の長期休暇でもない限り、その時間に在宅していないし新聞のラテ欄でしか知らん【1210】
 まあ日本社会の全てがそういうテイで動いていた。とにかく平日日中のテレビって、男の子にはほんっとに観るもんなくて困ったんだよ。

 それこそオンナ同士で怨念絡みのような精神戦を繰り広げる再現ドラマだとか、そんな内容で視聴率を争うくらいだったから、チマタの主婦の精神状態の平均値は総じて安穏でなかった時代なのだろう。
 今はすっかり見聞きしなくなったが、息子世代が一軒家を新規購入して別居する『核家族化』が進んでくると、今度は息子ヨメの立場からは『家付き、車付き、ババ抜き』こそ理想の好条件だとする荒んだ幸福論も提唱され、そんなものが笑って普通に語られていたのである。ひっでえなあ。
 そう、ここでたびたび繰り返しているが、高度経済成長期というのは今の時代から見て決して『日本社会が元気いっぱい働き、輝かしく豊かに突き進む理想郷の時空間』だったのではない。

 お行儀を守って貞淑なヨメに収まるハナちゃんと、その内なる負担に気付いたトラちゃん義母シュウトメはどう折り合っていくのだろうか。
 『平和な家庭組織で幸せな生活を送りたい』という永遠一元の目的は正しいのだが、個々人で閉じる『意識』『主観』『自我』は誰とも一致するものではないため、共存するには大なり小なり必ずそこに抑制が必要となる【84】
 だからこそ、お互いの『意識』『主観』『自我』をありのまま率直に情報化して、コミュニケーションの場にまず挙げて、双方の噛み合う抑制マップをどうするか現実的な処置を決めねばならない。
 『腹を割る』という日本語はこの『ありのまま率直』を指すのだと私は思っている。

 ここまで理解して、かなりの壮絶なる過去を吐露した男役ちゃんなのだが、この手のとっつきにくい系ぼっちタイプには結構見どころのある好人物が多いのだ。
 少なくとも本人的には共鳴点も確かめずに馴れ合わない理由をちゃんと持っていて、無難なだけの無駄な付き合いを良しとしない判断力を確立しており、少々の不穏な空気にも動じず率直に意味のあるコミュニケーションを相手に持ち掛ける、誠実な心掛けが完成されている証拠であろう。
 自分の『意識』『主観』『自我』をもって正確にコミュニケーションできたのなら、相手の受容なり反発なりを刈り取って次を決めれば良いだけであり、このプロセスさえ成立すれば何らのやりにくさも不信感も起こり得ない。
 それどころかインドア引きこもりでもサブカル没入ぼっちでも、本人思うままに『意識』『主観』『自我』を解放して生きているぶん、よっぽど直接的かつ健康的に会話ができる気がする。思慮深くてハナシの解る面白いヒト、多いよ。

 社会空間を共有する個々人が、各自の自由ナル『意識』『主観』『自我』を率直に折り合わせるため、法律という『情報』が目安として設置されているのだ。
 今季朝ドラ『虎に翼』は始まったばかりだが、まだまだ凝ったキャラ設定が続出してきそうな予感がするぞ。
 ではお手元の文字列がハッピーな有効打でありますよう。その通信にグッドラック!
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【1258】ウラとオモテのメビウス雌雄進化論 [ビジネス]

 明律大学女子部の学生ちゃんたちに囲まれた裁判の判決、法廷の実際とどのくらい整合するものなのかは知らないが、結論とその主旨が一般視聴者に解りやすく語られていて感心した。

 法律として書き置かれた『情報』を関係者一同が受信したとして、情報生命体・人間は『自由ナル心証ニヨリ』実行動を選択する。
 社会組織のみんなで合意した『情報』を、みんなが『これでいつでも誰でもハッピーだよね』と合意した当初のコンセプト通りに運用できているかどうか検証し、社会組織としての行動選択を率先・指南するのが元来の裁判の仕組みだと思う。

 この今季朝ドラ『虎に翼』では開幕早々『女のくせに』という台詞が頻出しているが、こういう時代、実は『男のくせに』という台詞も同じくらいしょっちゅうチマタを飛び交っていた。
 前回述べた通り、法的にも日常生活的にも男女の扱いに不自然な差がついていた時代なのは間違いないのだが、その反面ちゃんと(?)問答無用の口封じで男に見えやすい高負荷をかけておいて反論させない社会通念も共有されていたと思う。

 本人的にはマジ不可抗力・孤立無援の苦境により不本意な醜態をさらす立場に甘んじていても、オトコは弁解や不満を一切聞いてもらえず『男のくせにだらしない』と切り捨てられる役回りにあった。まあそれも『世の中そんなもん』で逆らわず収めておくのが、オトコの処世術のひとつだったのだ。
 映画のタイトルにもなった『オトコはつらいよ』という台詞、改めて有名すぎるあの映画のイメージから離れてただの日本語として聞くならば、そんなこんなのオトコが社会の重圧に耐えて洩らす泣きの一言だと理解できるのではなかろうか。
 オンナが何かにつけ不利を強いられるのがマズかったのか、オトコが持ち上げられつつクチより先にムチを入れられるのがマズかったのか、とにかく社会の男女差の軋轢は、ただの一方的ではなく両方向にあったっちゃあったのだ。

 10年ちょっと前だったか『ダイバーシティ』という未知の単語を前に、ナニをどうしていいのかさっぱり判らなかった日本社会のあちこちで、やたらめったら『オンナの方が優れている』と言いたがる風潮が公共言論で大流行した。ススんでる良識派を装い世論に向けて点稼ぎしたい意図ばかり見え見えの乞食漫談家どもが、さも論理的な根拠アリのテイで機会を狙ってはよくやらかしていたものである。
 別に男女のどっちが優れているとする判定を社会一般的に定着させたいなんて誰も思ってなくて、あからさまに下心が露見していたその心象に自分で気付く程度の知恵はあったのか、結構すぐに廃れて静かになったのだけれど。

 どっちが優秀だとか、優遇されるべきだとかいう問題ではないのだ。
 物事の道理として人間に男女の差異があるのなら、それを文明の仕組みでどう扱うのが社会組織のみんなにとって生産性高く幸福なのか…という問題である。

 釣りの好きな人なら御存知かも知れないが、サカナには生涯のうちに性転換する種が結構いる。私は小学生の科学読み物だったか何かで、マグロだかハマチだかブリだか、おっとハマチとブリは同じ魚だったっけ、とにかくそういうお馴染みの種でも性転換するヤツがいると知った。
 新米の漁師が『若い個体はオスばっかり、大きくなるとメスばっかり、一体なぜなのだろう?』と不思議がるシーンから始まるその内容が、大人になってからもずっと記憶に残っている。

 多細胞生物の世代交代は、もともとサンゴやカタツムリなんかの雌雄同体生殖による単体複製に始まり、のちに遺伝子配合の組合せを多様化させた雌雄異体の配偶方式が、より環境適応に融通性を拡張し進化を加速させたと言われる。
 なるほど成長期で体力にあり余る若年層が激しく遺伝子の混交を促進するオスになり、安定した身体構造を完成させた成熟層がメスになるってのは、地球上生命の自然な淘汰のなりゆきとして理に適ってるよなあ。
 もしかして人間にもその特性の痕跡は残ってて、頑丈で大雑把でバカでデタラメに動く若いオトコと、一足先に大人になって安定した生活を志向するオンナがいて、オトコの方がさっさと賞味期限切れになって寿命を終えると。なんだか納得いくじゃないか。

 もっとも、これでハナシはまとまってくれず、サカナの群れの中で雌雄個体数が大きく変動すると、どっちからどっちへの制約なく一定数が性転換して群れの雌雄バランスを保つという話も後に聞いた。
 雌雄性転換が可逆だとすると、そういった種の魚類はそもそもから全数がキホン両性具有の身体構造を持っていて、適宜に雌雄どっちの機能臓器を活性化させるだとか、そういう仕組みで生きていると考えるのが妥当だろう。

 私の知る限り、カエルやイモリなどの両生類、トカゲやカメなどの爬虫類、もちろん鳥類に哺乳類と、海から上がったあとの脊椎動物たちに性転換する例は無い。わざわざに生まれ落ちた時の雌雄を維持したまま一生を通す方式に移行したのは何故だろうか。

 例えば身体構造を雌雄転換するのは非常にリスキーな生物学的タスクで、種族保存の生命原理的にバカにならないくらい、そこの局面の個体喪失率が高かったとか。
 昆虫たちを見ていると、幼虫からさなぎを経て成虫に羽化して飛び立つまで、決して安心安全のステップアップ保障に守られている訳ではない。許容外の環境変化に打ちのめされたり外敵に捕食されたりしなくても、身体構造を刷新する変態そのものが相当な淘汰のふるいになっており、何割のオーダーで変態に成功できずに落命する【13】

 焼き魚や煮魚を食っていると、あの頭部構造で魚に大容量ストレージ機能や高度演算処理機能があるとはあんまり思えない。いっぽう地上に上がってからの脊椎動物たちは、まず遠目に一見しただけでも、首から下と分離して単独持ち上げた『中央情報センターとしての頭部』が形成されている。
 交錯する体内通信網トランポリンを俯瞰するための、機能性レイアウトだ【628】
 この情報由来のハードウェア基本レイアウトにより、ソフトウェア的にも『体内情報処理の円錐モデル』【1171】が実現し、『意識』『主観』『自我』を備えた高度情報生命体への進化の道が拓けたのだろう。

 そして地上の脊椎動物たちに性転換の事例は聞いたことが無い。
 首から下をアタマで、いや目から下すべてを脳で俯瞰するハードウェア構成とその配置が、情報処理由来としては完成度が高く、そこに収まるソフトウェアも多機能・高機能になっていたりするのだが、お陰でちょちょいとスイッチングして雌雄双方に転用が利くような共通構造はもはや不可能になった…と、そういうことではないかと思う。

 昆虫たちも性転換の事例は聞いたことが無いけれど、そもそも短い寿命の間に幼虫・さなぎ・成虫と変態して交配して老衰死だし、わざわざの性転換よりは単純軽量でロバスト性高い身体構造の特化を進め、雌雄ひっくるめた総出生数を増やす数量作戦が功を奏したのではないだろうか。

 ここまで生命の歴史ならぬ『雌雄の歴史』について考察すると、人間ですら雌雄差は遺伝子的な視点で見るとほんの僅かな違いだという説明にも納得が行くし、性徴ファクターがオトコなりオンナなり一方に揃わず混在してしまう『LGBTQ』という境界領域の個体が一定数発現する可能性も理解できる。
 恐らくLGBTQなる社会層はヒト社会に限らず他の生物種にも存在しており、圧倒的多数の平均的個体が成す雌雄二律社会との折り合いに、ただならぬ苦労を強いられているのであろう。

 同胞を取りこぼさない『多様性社会』の動機はあって自然だと思うが、多数派のなりゆき平衡点もまた自然なバランスの結果である。そこを理解せずに『不便を強いられてきた少数派の、新時代の主権拡大』みたいなイメージで突走ってしまうと、組織生命力の内乱となり良い結果には向かないと思う。

 まあいいや、明律大学女子部の奮闘っぷりが楽しみだ。では今週もグッドラック!
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【1257】法治国家組織ビッグバンの光と影 [ビジネス]

 今季NHK朝ドラ『虎に翼』は昭和ひとケタ年のスタートだから、また戦争を挟む。
 良いことだと思うよ、明治以降の日本社会史について空白だった、昭和40年代の欠陥教育制度に甘んじた世代としては。
 日本の学校教育が歪められ、日本国が民主主義議会制を選択して国力構築を志した記録情報を意図的に封じられた時代であり、戦後日本が『自己管理に無関心な群衆』に向かってひたすら弱体化する元凶となった黒歴史だ。

 日本社会における女性の主権が、事実上まだまだ認められていませんでした…という社会情勢の描写から物語が始まったが、実は昭和40年代の高度経済成長期にあっても『オンナのくせに』という台詞は定番中の定番であり、これを持ち出された女性はその正否を問うような酔狂な面倒を避け、とりあえずにでもその価値観・世界観に沿う処世術を身に付けておくのが賢いとされていた。
 ま、我らがニッポンの社会的生産力はオトコが生命力を擦り減らしながら切り回すものであって、他の全てはその至上目的のための付帯作業という扱いだったからなあ。
 実際その勢いがあったから、華もなく必要最小限に質素な国内市場で流通するだけの『ボロくてダサい国産品』の貧相なイメージが、みるみる世界市場の大衆を根こそぎ動かし『先進技術と高品質のメイド・イン・ジャパン』に裏返っていった。
 実に野蛮に乱暴に、加工貿易・第二次産業に国力を全面投入していたのだ。

 そうそう、当時の記憶について横道を少し。小学生時代に家族で兵庫県北部の城崎(きのさき)に旅行したことがある。温泉で有名な、あの観光地である。
 今の時代にすれば想定外レベルの『ところが』なのだが、観光入浴仕立ての広い湯船は男湯だけにしかなかった。外湯も数軒、調子に乗って父とハシゴしたものだが、男湯と女湯が同じ造りになっていたところは、果たしてあったのかなあ?
 母と姉は、宿に備わっている一般家庭並の浴室に入っただけと記憶している。

 子供心にせっかくの旅行で訪れる男女両方の客を迎えておいて、この差にはちょっとあんまりな不自然を感じたものだ。当時のことだから『それが当たり前』として、あからさまな不満も出なかったのだろうけれど。
 これが数年後には時間帯を区切って男女の受け入れを交替するなどの工夫が目立つようになり、そのうち大規模な改装・改築が進んで男女等しく迎える宿屋文化が定着していった。いつも城崎旅行を思い出しながらビミョーに安心したものである。
 今の若い人たちにはこの世の果ての外側の話だと思うけれど、まだ50代の私がこんな実体験の記憶を残しているくらいだから、いま我々が生きている日本社会は、表面的に流通している社会整備の仕組みの底に、こんな前時代的な質の精神構造がまだ染み込んでいて、こびりついていると思って間違いはない。

 さて朝ドラに話題を戻して、トラちゃんは『法律とは何ぞや?』の疑問に奮闘中だ。
 これを巡っての会話がなかなか面白かった。

 やる気満々確信的に『法律とは私たちが守らなきゃいけない規則で…』と切り出した出鼻を、いきなり男役ちゃんに『法律を校則か何かと思ってんの?』とくじかれた。
 帰宅して先に法学に勤しんでいる下宿生くんに尋ねたら、今度は『法律とは自分で見つけるもの、自分なりの解釈を得ていくものと言いますか…』と、何とももどかしい回答である。
 下宿生くんの表現はかなり当たってると思うけど、なるほど若いトラちゃんならフラストレーションが溜まりそうなところだ。

 結論から行くと、法律とは『情報』である。

 ヒトの集団があって、そこにステージ・パフォーマンスのハッピーなコミュニケーションが自然発生して、せっかく組織生命リビドーが起動して『ただの群衆』がイノチを得て『生産性組織』になったのなら、そこには『お互いさまのお陰さま』で知力と体力を合わせた進化が同時多発的に始まる。
 みんな暮らすその場をハッピーなコミュニケーションの応酬で持ち合い埋め尽くし、個々人でできないことを協力して実現する組織力。それを維持管理するための、みんな共通の思考基準・行動基準の概念が発現してくることになる。

 みんなでその内容を等しく理解して持ち合うには、組織空間内で共有されている意思疎通のコミュニケーションツールつまり言語により、まず『情報化』するしかない。
 次にここから、その時その場に・クチから放って・耳で聞いて・アタマで覚える・だけの刹那性を取り払って、みんなに等しく響く=受信した誰もが等しく思考判断や行動選択の現実的局面に反映させられる、そんな文言を工夫してひとつ書き決めて一元化し、ブツとしての記録媒体に残す…という順番になる。

 以上こんな経緯があって、詰まるところ日本社会における法律とはただの日本語文章であり、それを記録した書面に過ぎない。要は『情報』である。

 『情報』は元の現実も途中経緯も関係なく、誰にでも、どうにでも組めてしまう。
 どう組んだところで、受信者がコトを動かしてようやく社会的な意味が備わる。

 しかし、民事訴訟法に『自由ナル心証ニヨリ』と記載があるシーンには驚いた。『ごんべんに登る』を当用漢字の『証』で当てちゃったけど良いのかな。
 判決に必要な弁論を重ねて、それらも結局は『情報』なんだから、裁判では組織の誰もが納得できることを志してきっちりやらんかい…の文章はあると思うんだが、こんなにのびのびとした表現で記されていたとは。現行表記もこれと同じままなのだろうか。

 『ガソリン販価がリッター160円を超えたら、ガソリン販価への課税を引き下げる』

…と日本社会は経済的な思考検討を経て、根拠を持って意思決定し、法律のカタチでそれを定めた。だが法律が『情報』に過ぎないがゆえ、それを実行動でコトとして動かさなければ、まさにいま御覧の通りだ。
 コトを動かさずにナニをしているのかの議論は今さら繰り返さないとして【1007】、要は経済原理に則った思考検討をしたのに、それを反映させて自国経済の通貨管理を現実として動かせていない。時間の浪費、国力の損失である。

 だから国際経済市場で日本円がみくびられ、円安は底無しの沈下が止まらない。
 インバウンド消費が賑わうのは、他国視点で日本円の価格表示が格安だからだ。

 この宇宙が『無』から始まったのだとすると、あらゆる物質が生成するのと同時に、鏡像のように『反物質』が生成しているはずだとする学説がある。
 我々人間は、長らく『ある』『存在する』を取り払って『無』『ゼロ』の概念を発明するところまでで止まっていたのだが、それは表裏あるうちの片側しか見ていないだけなのだと。

 『ただの群衆』から始まった日本国組織には、体験記憶を蓄積して構築する『理性』『知性』だけではなく、それらと逆方向の『反理性』『反知性』みたいなものが生成して、どこかに蓄積しているのかも知れない。

 うん、今季の朝ドラも面白そうだ。貧しくてこういうことをマジメに考えられなかったのが、高度経済成長期の日本社会だったのだと思う。
 では明律大学女子部のオンナたちの理知性に囲まれた法廷に、グッドラック!
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【1256】無人のステージを囲む群衆の満足度投稿コメント [ビジネス]

 先週の有明フォーミュラEに続いて今日は鈴鹿でF1、かつて自動車大国の栄華を誇った日本国に、改めてモータースポーツの人気と元気が戻り始めているのなら嬉しい。
 う~ん、日本の角田くんは10位かあ。まあ頑張ってくれ、応援してるので御健闘を!

 今どきショールームの新車は軽自動車でさえ200万円近い値札が付いているし、納期が年単位かかるケースも珍しくないというから、若い人たちには到底手が届かなくなってしまっているのが悲しい。
 車ってそんなもんかあ?1万5千円の中古車を買ってきて、そこらの部品屋で合いそうなラジエター5千円を調達して乗っていた時代が遠く懐かしい。『現車、見る?』と訊かれて、薄暗くなった時間帯だとはいえ中古車ディーラーがライセンスプレート無しで十数キロ走って見せにきてくれたのだから、のんびりした時代だったものよ。

 最近の車は全方位にセンサーだらけ、何もかもが電子制御だらけで、自動車としての基本機能以外の付加価値が満載されている。これらがいずれ経時劣化して故障するのは間違いないのだが、そのへん全部はぐって安いエンジンとトランスミッションに乗せ換えて、『素の自動車』を走らせる遊びができないものだろうか。
 できればそのまんま、ライセンスプレート付けて公道使用まで行けたら良いんだけど、無理なら廃墟になったホテルでも工場でも流用してその敷地内限定ででも、自分で自動車を組んで走らせられる場所を用意するだけで、頭脳も体力も、日本社会の『使える基礎技術力』は一定代向上すると思うんだけどねえ。
 身近にあれだけ自分で気軽にいじりまわして、判りやすく自分の能力の成果を刈り取れる題材を、私は他に知らない。

 最近では割と若い子でたまに車好きを見かけても、ショップ任せでぴっかぴか綺麗に整備した車に乗っているケースがキホン多くて、貧乏ユーザーが散々手を尽くしメカ工学機能を維持して一生懸命乗っているパターンに出遭わないのだよ。ありていに言えば、ドカタ領域の車好きがいなくなって寂しい。
 機械は、勉強して設計して組み立てて整備して、それで初めて至高の楽しみ・技術屋のメシのタネになるのだ。
 せっかくの若い頭脳と体力をユーザーの立場にばかり居残らせる日本社会は、このままではまだまだ何十年も『失われた時間』を浪費しつつ、観光立国とやらで史跡資産ハードウェアも国家生産力ソフトウェアも、ぼろぼろに擦り切らせていくことだろう。

 案の定というか、このところ見境ない自動車の電動化政策が目に見えて世界中でポシャり始めた。
 もともと欧州は、政治勢力が思想的に暴走して、現実性を欠いた理想郷政策をぶち上げる傾向がある。それは確かに大衆社会の常識にあぐらをかいた慢心を打ち切り、わざわざの努力に腰を上げて人類がまたひとつ文明の歩を進めるための創造的ハプニングではあるのだが、世の道理として成立解が無いものについては『無いものねだり』を早期に見切ってイチ抜けに転じた者がブレークスルーして先へ行く。
 ここまで承知の上で、世の技術屋がスタンスを決めているように見受けるのだ。

 来日した現地エンジニアたちと会話していると『無能の政治家が現実を見ない政策で社会を混乱させ、国力損失を発生させるのはどこの国も一緒だよ』なんてみんな笑うのだが、やはり海外は何だかんだで皆さんしたたかだ。自由経済市場の荒海で、潮目を読み損ねたら沈没するのは自分だからな。

 誤解の無いよう繰り返しておくが、私は自動車の電動化技術を全面否定はしない。
 電力供給網に合わせEV運用エリアを限定してライドシェアにするなり【1025】、集電機能を持たせた高速道路を基軸としたEV運輸路線を整備するなり【316】、工夫のしどころはまだあるし、最大の問題である『電気エネルギーは理屈抜きですべからく環境負荷が低い』というトンデモ大ウソに対しても、日射の無い時は自動車の運行ペースを落とすようなライフスタイルの取り組みを本気でやれば、それを定着させられる日本人はそれなりの数がいると思っている。夜は寝ようよ、曇りや雨の日は自然任せのインドアでいいじゃん。
 まあしかし、それでも今もって中古バッテリーの充放電性能の保証はできてないし残寿命は読めないし、廃バッテリーの処理技術にしても、コスト的にも環境的にもさっぱり目処が立っていない。それを片付けないと、電動化の大義がまず立たない。

 だからって地球上の『燃料』は、圧倒的に生成ペースより消費ペースの方が速いんだから、内燃機関に回帰して従来並みの勢いで好きに燃やしまくって将来安泰とも思えない。そこの代替案が見つからない限りは、徐々に内燃機関は運用ペースを落としていかざるを得なくなる。
 ここで改めて『人工的に燃料を生成する』という本末転倒の痴呆フェイク技術論はお呼びでないことを解っておこう。現時点で、燃え落ちてエネルギー放出したあとの『燃えカス』に残る炭素原子を、再びエネルギー充填しながら『燃料』の化学式に組み上げられるのは、植物の光合成だけなのだ【1193】

 昭和の時代、学生の小遣いで車が買えて、あれだけ自由に触って好きに乗れたのに。
 大学の工学部に行けば、学術情報から加工設備から何もかも全部揃っていたのに。
 どうして今、全部なくなっちゃったんだろう?油断してたよ、我々世代のせいだ。

 昨夜ひさしぶりに復活したNHK『プロジェクトX』を観た。スカイツリーの話だ。
 巨大鋼管を成型するのに古い大型プレス機を使ったそうなのだが、それはいいとして『オペレーター氏の熱意で、無理めの負担にも関わらずきちんと成型できた』みたいに映る語り口があり、そこには正直かなり深刻な不満を覚えた。

 プレス機の耐用荷重に収まっていれば、いくつであろうが普通に成型できる。やる。
 逆に耐用荷重を越えていたなら、プレス機が壊れるので最初からその板は打たない。絶対にやらない。おいくら提示されても受けない。
 ドキュメント仕立てで感動的なドラマにまとめたいのは解るが、人類文明の技術思考を精神論的な融通と混同するかのような演出の制作姿勢にはゆめゆめ賛同できない。
 うるさいコト言って申し訳ないが、今後二度と繰り返さぬよう重々心得られたい。

 『失われたウン十年』は、日本人が『造ること』を嫌がって忘れて、全員ユーザー側の立場を決め込みたがるようになってしまったウン十年なのかも知れないと思った。
 造れば良かったのに、刷り足されたバラマキ日本円を手にユーザーになり続けた。
 モノ造りイベントでは『ユーザーやめて造りたいと思う衝動』が作れてるのかなあ。

 無価値な通貨を手にして客席ばかり埋めたところで、ステージ・パフォーマンスは成立しないし、もちろん組織生命リビドーも発現しない。
 もののはずみで結構、若気の至りでステージに踏み出すその一歩にグッドラック!
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【1255】咲き競う情報ファイルお花畑の名画ジグソーピース選定眼 [ビジネス]

 昨朝ちょうど出掛けようとしたところへ突然の緊急地震速報。続いて津波警報。
 慌てて予定を変更してテレビに張り付き、ザッピングを開始した。

 テレビ・ラジオの緊急地震速報は、広域災害通知の社会機能としてスピードも実効性も、かなり『現時点やれることが尽くせている』と見受ける。
 テレビは、申し訳ないが字幕だ音声だの工夫はともかくとして、背景で対象地域の危険検知から避難開始に到るまでのリアルタイム映像が確認できるのが圧倒的な強みだ。
 最初のどかに船着場近隣を走っていた車が次々と退避を始め、小型船は競うように全速力で港湾から脱出していく。これに続いて大型船も大急ぎで岸を離れて後を追う。

 スマホなどパーソナル通信回線に始終べったりと密着しているユーザーは、通信事業者主導による緊急広域通信の割り込みサービスに助けられたしても、せいぜい警告アラーム音と視認性を高めたテロップ表示あたりが関の山だろうから、どうしても状況の認識には制限がかかる。
 『現地のただならぬ現状をユーザー本人が直視できる』いわゆる『百聞は一見に如かず』の効力はゆめゆめ侮れない。私の知る限り、不意を突かれて現認者が右往左往の浮足立った直感で流す映像こそ、過去の検討を経てワザを利かされた映像よりも、別格の切迫感を喚起できるとする声が多数派である。

 テキトーにチャンネルを換えていただけなので違ってたら申し訳ないのだが、国内で人や船や車の動きを追って映していたのはNHK、いっぽう台湾現地の被災の瞬間の動画が早かったのは民放だったように見受けた。良い悪いの批評をするつもりはなく、視聴者の立場としては双方うまく棲み分けされていて、どこを回しても同質のものが出てくるより有難かった。
 『未加工のまま最短時間で届く現在進行中の現実』を確信できる情報は、間違いなく受信者に響く。ひとつ確実な定番解である。
 ただ未加工ゆえ画像にせよ音声にせよ、見方・受け取り方を知らない受信者には響かないので、そこを埋めるために赤や黄色の大胆テロップと繰り返しの呼び掛けを添えるというコンセプトで、現状各局の画面構成はひと通り精一杯に頑張れていると感じた。

 ただひとつ呆れ返ったのは『戦闘機が調査に飛んでいます』みたいなナレーションを流していたどあほが混ざり込んでいたことである。

 変動帯・日本列島においてはどこも等しく震災のリスクがあり【404】【436】、現時点で現実問題として地震予測は技術的に不可能であるため、発生都度対応のスピード勝負に特化せざるを得ない。
 国民生活がある領土内としては最大震度4で済んでいたし、その離島から遥か遠くの内地の立場ではなおさら切迫感が薄かったのは事実だが、緊急地震速報の発信ルートにこんな遊び半分の不真面目文言を混ぜ込んで良いか悪いかも判らないような非国民が紛れ込んでいる現実には失望した。
 重篤な損害が現実化する前に、日本国の危機管理として緊急の対応処置が必要だ。

 離着陸速度が高いため長大な整備滑走路を必要とする戦闘機が本当に飛んだかどうかは知らないが、大地震でてんやわんやの台湾に一方的に断りだけ入れて、現地上空に踏み込んで高見の見物をする訳には行かないはずなのだ。そんなことも判らないのか。
 そもそも日ごろ大陸側から領空・領海の境界線を割り込まれては牽制に忙しい一帯なんだし、秒を争う必要性があったにしても軍用機で出掛けたりしたら、それ自体が死ぬほどムダな悶着の火種になるばかりである。
 万一よもや余震が南西諸島を襲って基地の滑走路が損傷した日には、帰投先を失う。

 本当に戦闘機を発進させたのなら、その理由が知りたい。
 本当に戦闘機が発進しなかったのなら、わざわざにこんな虚偽の情報を緊急地震速報に混ぜ込んだ、あまりに不自然な公共発信の真意が知りたい。不適切にも程がある。

 せっかく強みもあるのに、みんなテレビを観なくなるワケだよ、くだらねえな。

 おっとっと、ここまで結構な分量になってしまったので、前回の内容の補足をして後を埋めよう。ちょっと失敗して解りづらい文章になってしまい気になっていたのだ。

 まず、ヒトが複数いるだけのデタラメな群衆にステージ・パフォーマンスが自然発生すると、それが原動力となって『組織』が形成されるのだと述べた。
 これと同じく、漫然と生きるだけのデタラメな体組織に部位別役割の因果と分担が自然発生すると、それが原動力となって『ヒトひとり』が形成される。
 …で、ここまでは、身体構造ハードウェアとしての『ヒトひとり』なのである。

 この『ヒトひとり』ハードウェアには情報体系としての『人格』は備わっていない。
 おぎゃあと生まれたら、まずは体験記憶の情報ファイルが片っ端から蓄積される。

 そしてこのデタラメな体験記憶の情報ファイル群に、ナニガシか因果づけがなされて、入出力の変換を定義する演算プロセスがでっち上げられ始めると、それが原動力となって『人格ひとつ』が形成される。
 こうして情報的に白紙だった身体構造ハードウェアに、情報構造ソフトウェアとしての『人格ひとつ』が収まる姿になっていく。この順番ではないかと思う。

 私は自分の就寝中の夢を考察していて、記憶の断片を無作為に結び付けては、強引に一本のストーリー成立を決めつけるかのような情報処理が起こっているのではないか…と仮説を立てた【693】【937】
 これって、まさに体験記憶の情報ファイル群から演算プロセスを新規構築しようとする創出工程の顕れではないかと思う。
 こんなプログラミング作業が就寝中に起こっているのだとすると、なるほど某・数学者さんの『人間とは便利にできていて、寝ている間に脳みそが自動的に考えてくれるから、壁にぶつかってもあんまり気負う必要はない』とする経験則も、人間の情報特性的に根拠のある正攻法だと言えそうだ【629】

 記号接地がどうたらこうたら理屈捏ねてクチばかり動かしているヒマがあったら、おのれの五感でひとつでも多く『この世の因果律』を体験し、情報ファイルのストックを質・量の両方で充実させることだ。
 そして目いっぱい『この世の因果律』を体験したら、よく眠ること。これだよ。

 今年は意外なほど桜の開花が遅かったが、いったん開花したら意外なほど早く満開まで突走っているように思う。
 天気も気温もなかなか狙いを定めるのが難しそうな今年の花見だが、うまくスケジュールを命中させて、咲き乱れる桜の花のもとでTVアニメ『悪の華』エンディング曲を楽しく合唱していただきたい。では盛り上がる宴にグッドラック!
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