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【1176】無限に広がる情報雨林の新種探索 [ビジネス]

 ちょっと遠ざかっていたので、たまにNHK朝ドラの話題で肩の力を抜きましょうか。
 このドラマ、世風や社会文化を適宜の大胆に現代風にアレンジして、ストーリーの要点として効かせているところが面白い。
 みんな洗練されたカッコで、爽やかな清潔感で立ち回るし、主従関係をあっさり解除したり男尊女卑を人前で大逆転したり、役人の強権行使も民意で撥ねつけたり、それら全て『生存を賭けた血と汗とチカラの衝突』ではなくて『現代流の正攻法』で恨まず嫌わず明るく決着させるシーンが象徴的だ。
 抑圧された主人公の艱難辛苦の人生がテーマだったとされる『おしん』とは隔世の感があるなあ。とにかく、きちんと道理を学んで道理を守る者が、自然にその実力を周知徹底する流れで虚構の権力構造のハナを明かしていくところは痛快である。

 どれもこれも当時としてはあり得ない展開なのだけれど、どうせ今の役者さんたちが今のルックスで演じるんだから、以前紹介した『天地明察』【1044】で既に確立されていたとも思える『ネオ時代劇』として、一種の歴史SF=Sience Fiction=Sociology Fictionと割り切って新ジャンルを創設しても良いのかも知れない。
 というか、私が観てなかっただけで、もう最近の時代劇って現実に抗えずこうなっていたんじゃないですかね。とりあえず否定的なイメージは持っていない。

 私にとって『植物』は結構あからさまな弱点なのだが、それでも理系視点での興味は人並以上に維持して関わってきた自覚はある。
 私の性格と人間性からして当然、食虫植物は大好きで、モウセンゴケのように穂に粘着させて虫を捕えるとか、ウツボカズラのように壺に落ちたら這い上がれないとかの地味な待ち戦法より、ハエトリソウみたく残虐アクティブに捕食するヤツがお気に入りである。
 食虫植物は、実はキホン虫を獲らなくても光合成を基軸とした純・植物機能だけで難なく生存できるのだそうで、ではどうやってこの方向性の進化の動機を得たのか疑問は尽きない。

 小学生の頃、時々遊びに行く同い年の従兄弟の家に、タイトルは忘れてしまったが『空想UMA解説集』とも言うべき本があった。
 当時この手の子供向けハードカバーは数多く出版されており、実在しない動植物がいかにもの『見知らぬ外国で起こっている不思議の百科事典』の仕立てで、ところどころ挿絵もついて記事が並んでいたものだ。

 公園の花壇に大きめのチューリップの花みたいなのが地面すれすれに咲いており、鳥がその上を飛ぶと付近の花が『ポン!ポン!』と音を立てて液体を噴射し、鳥が撃墜されて、よく見ると花壇の土には死骸がゴロゴロ…という一編があったのをよく憶えていて、視覚を持たない草花の生態としては子供心になかなかショッキングであった。
 花だけで人の背ぐらいある巨大草の話では、探検家が花の中を覗き込んだ途端に引きずり込まれてしまい、固く閉じたその花弁は刃物も通さず、底から切って持ち運んで大がかりな切削作業で強引に切り開いたら、中には消化液で溶かされた人間の死体が…というのもあったっけ。ボロ布まとった半・白骨化死体が花の中に座っている挿絵が思い出される。やはり食虫植物は人間にとってインパクトがあって、食物連鎖下剋上(?)のイマジネーションを掻き立てるものなのだろうな。
 砂場の砂山ぐらいの盛り上がりのてっぺんから左右ジグザグの電気抵抗回路記号みたいな茎が生えており、その上は仏花の榊(さかき)みたいな形をした低木が群生していたという一節では、根っこ砂山部分に小さな粒々が頭を出していて、ついその粒のひとつに指で触れた途端ドッカーンと大爆発、その人は爆死だったと思う。いや、なかなか読みごたえあって何度読み返しても飽きなかったっす。

 おっと余計なことを思い出した。この時代の子供向け書籍って、大人が本気で子供に恐怖を植え付ける目的が感じられ、挿絵にしても文章にしても、手加減無用のハードなトラウマ素材が満載なのだ。『世界妖怪図鑑』の『さかさ男』や『わたしは幽霊を見た』の表紙および巻頭スケッチは有名である。
 何か論理的な教育的見地からあの作風が意図的に採用されていたとも思えず、まあ『世の中に怖いものはあり、恐怖も普通にあり、怖いもの見たさもある』ぐらいの認識だったのだとは思うが、それにしても力作・名作揃いで、ちゃんと当時の子供社会に普及しており、我々昭和世代は少なからずその洗礼を受けている。娯楽も少なかった時代ゆえ大勢がどこかで同じモノを見聞きしているのであろう。
 子供が自我を形成する段階において、漠然にでも『自力で抗えない、どうしようもない恐怖』の概念を刷り込むことには賛成する。甘っちょろい本ばっかりじゃダメだよ。

 さて植物の話題に戻るとして、緑いっぱいの景色を見るのは大好きだ。
 金曜日の昼下がりにマイアミ空港からLAに飛んだ時のことだと思う。離陸してしばらく経って、ふと窓の外を見て仰天した。

 機内の音声案内は無かったのだが、恐らくエバーグレーズ国立公園である。
 フロリダ半島の南西端に拡がる、とてつもなく大きな、果てしない大湿地帯だ。何しろ飛行機の視点なのに、完全に目の届く地平線の端の端まで地球スケールの湿地帯が拡がっているのである。その圧巻の光景には息を吞んでただ見つめるしかなかった。
 固い陸地から一体どのくらいの距離になるんだか、ところどころに孤立型の桟橋っぽい船着き場も敷設されていて、船底に突出物の無い空気プロペラ推進のモーターボートなんかが、ケシ粒のように走っているのが確認できる。たぶんボートから落ちたら、乗用車ぐらいあるアリゲーターやカミツキガメ、その他ピラニア系の肉食魚のエサになるしかない。骨も残らないんじゃなかろうか。

 フロリダ一帯の仕事を付き合ってくれた現地スタッフ氏が自宅に招いてくれたことがあったのだが、もともと湖沼地帯のその一帯では、湖側をデッキにして反対側にガレージと玄関を設ける住宅レイアウトが一般的で、そうすると必然的に湖沼と湖沼の間の緩い自然堤防の尾根を通りが走って道路交通網が形成されることになる。
 周囲に必ず山が視界に入る我が日本で『道路が直交してないから、迷っちゃうよ』などと泣き言をたれているようでは、一生自宅に帰ることができない。
 で、現地の住民はいろいろ解って納得して住んでるはずなんだけど、それでも時々発情期のアリゲーターに人やペットが襲われるのだという。キホン水辺に段差は無く、緩い傾斜面で岸の芝生と連続していて柵や塀の類は見当たらないから、まあフツーに水から上がってきてコンニチワのイタダキマスなんだろうな。
 うわ~それはカンベンしてくれ…などと笑っていたのだが、エバーグレーズ国立公園のこの景色と地続きなんだから、なるほどしょうがないやと実感したものである。まあ勝手に整備して住宅地にしちゃって、喰われに来たのは人間の方だからなあ。

 どんな生物種も、地球上に進化してきて現在の居場所があるからには、一方的に周囲の環境に翻弄されるだけではなく対外的に影響を波及させ周囲を自力で変えながら、歴史を紡ぐ宿命にある。
 世界に張り巡らされた情報ネットワークに栄枯盛衰しながら溢れかえる『情報』も『情報体』もまた、同様の推移を持って変遷し淘汰を重ねていく。何しろゼロイチ二進法の情報処理は、人工的な技術工学事象などではなく自然由来、森羅万象この世の道理のひとつなのだから。

 『情報』にも『情報体』にも、人間ごときが手綱をつけられるものではない。
 身の程知らずな我欲を捨てて進化した者が生き残る。賢い突然変異にグッドラック!
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