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【1182】AI時空スペースアドベンチャーの入場チケット [ビジネス]

 梅雨も明けて、チマタも夏休みモードに突入。いや最近の大学は7月いっぱいぐらい試験で走り切って、9月に夏休みのお尻を引張るスケジュールも増えてきてるのかな。
 まあいいや、前回『スペースアドベンチャー・コブラ』に言及したついでに、長らく紹介するタイミングを見切れずにいたくだらない話題を消化しておこう。

 それまでの少年漫画の二枚目系主人公といえば、スポーツにせよSFにせよまず日本人が常識であった。やればできる、行こうと思えば行ける、日本の少年たちの現実世界から見て同一面上にいないといけませんからね。
 その主人公たちは『努力して自己開発し目標達成する』のが定番であった。時にライバルに惨敗したり危険な事故に遭ったりして一旦は挫折しつつも、そこから立ち直って最後に勝利するという流れが決まっていたのである。少年読者たちはその姿を自分自身に投影し、どうせ漫画のハナシと言いつつ心のどこかでそのイメージの価値基準を知らず知らずにでも受け入れて固め、何事につけ頑張る習慣を身に付けたものだ。

 ところがコブラ氏に限っては、まずいきなり少年読者が逆立ちしたってなれない欧米系人種だし、最初から圧倒的かつ超一流の強さを確約されており、さらには左腕の肘から先には無敵のサイコガンが光る。
 絡んでくるお姉さんたちがクラスメート女子や先生だったりするはずもなく、当時の感覚で少年誌にあるまじきとも見える成人向けグラマー美人がキワキワ系ファッションで百花繚乱、まあSFだからそんな斬新さを自然に受け容れられたのだろうが、まさに常識を覆す世界観の作品だった。少年読者たちの現実とのつながりなんぞどこにも無く、その想像を絶する未来社会の出来事を、ただ口を開いて諦めて観ているしかない。
 いわゆる『教育的見地』の定番をすっかり捨て去って、読者を一人前のエンタメ客扱いする姿勢とも感じられ、それがまたサイコーだったのだけれど。

 『これまでの人生で出遭った架空ヒーローになれるとしたら、誰になりたいか?』
 ひと頃いろんな知り合いにこの質問を投げ掛けて回答を集めていたのだが、間髪入れずに『コブラ!』と答えた我々昭和40年世代は多い。
 最強の憧れの的なのに、ハードルの高さも最強。それが我々の記憶にあるコブラだ。

 さすがに中学生の年齢の常識的な知能が備われば、これはマネをしようにもできない、マネしようとすると現実が悲惨すぎて自己嫌悪に陥って終わる…と容易に予測がつくので、少なくとも私の周囲にはコブラになろうとした無謀な挑戦者はゼロである。

 さて、もう20年以上前まだ30代だったある日のこと。
 馴染みの友人のひとりが『実は、見せたいものがある』と私に打ち明けてきた。

 そして引き合わされたブツとは…そう、サイコガンである。
 インターネット通販はまだそんなに普及していなかった頃だと思うのだが、正確な時期は憶えていない。今よりこういうブツの市場は随分と小さかったはずで、どこのどんな販路から手に入れたものだったのだろうか。当時もうコスプレとかあったんだっけ…?
 訊けば『相当イイ値段だった』とのことで、どうしても具体的な金額は教えてくれなかった。社会人の年齢になって、本当にこんなものをこの額と引き換えるのか?と自分でも収まりがついていなかったのかも知れない。
 濃厚スモーク色の樹脂製で、確か銃身部分と銃座部分の二分割構造になっていたと思う。もちろん節分の豆ひとつ撃ち出す能力は無く、LED発光機能も備えておらず、その『でくのぼう』感はタダモノではなかった。

 何よりも、劇中でコブラは強敵に左腕を切り落とされており、元の生身の左腕の代わりにサイコガンを継ぎ足し、普段はその上から高性能の機能性義手を被せて五体満足の一般人相当に振舞っている経緯がある。漫画なので物理的な詳細設定を無視して描かれているというのもあるが、左手の義手で過ごす時もサイコガンを抜いた時も、四肢のプロポーションは一般的な成人男性のものであり、もちろん劇中ではいつ見ても均整の取れた自然な体格である。

 一方くだんの現物サイコガンは、まず手のひらをすぼめて上から被せる順番にしかなりようがないし、銃身部分はかなり細身なので、まとめた指の束をその中まで届かせられないのだ。つまり普通の手の長さに、単純に銃身長を足し算したプロポーションがビタ一文負からない。
 促されて装着させてもらったところ、手を突込んだ瞬間に窒息状態で蒸れ始めるのが判るし、薄い肉厚でできた縁の周が腕廻りに食い込んで痛い。この友人にコスプレの趣味は無かったから、ひとり普段着で座って自分の左手に装着したサイコガンを眺めるまでのモノだったはずだが、どのくらいの頻度で稼働し、どこまで本人に達成感をもたらしたのだろうか。

 長々とこんな思い出話に解説をつけたのには理由があって、今どきバーチャル空間にコブラのアバターで飛び込むことぐらい朝飯前なんだろうが、その時プレイヤーはどのくらい思いを遂げてコブラになり切れるのだろう…と以前から気になっていたのである。
 そもそもバーチャル世界でコブラになり切るにしても、プレイヤー本人の人格を形成する意識構造がまずあって、そいつの記憶ストレージ内にコブラにまつわる映像や言動の記録ファイルが多々あり、それら記録ファイルを演算処理した高次情報として『コブラ=理想像』の判定基準が導き出されている。

 次にバーチャル空間での自分をそのコブラ理想像に重ねて精度検証し、十分に一致したと五感で確認できた時点で満足度が上がるワケで、『憧れのコブラになり切った自分』は意外にも客観的立場の観測視点でそれを見ている。
 まあ今の自分が過不足を調整する方針で合わせ込んでいき、コブラの人格そのものに同化しちゃったら、自分が自分でなくなっちゃうからな。今の自分ママの人格が消えてしまうことになる。

 身体ハードウェアを介してサイコガンを手に被せる満足感と、バーチャル空間でコブラのアバターを着込む満足感の間に、情報生命体の内部情報処理的に何か決定的な差はあるのだろうか?
 古き良き日のかのサイコガンの記憶、あの実質機能がナニも無いはずの素朴なブツに成人社会人が魅了された事実は、最近になって思い返すことが増えた。
 自由奔放に思い描く空想世界の情報、思い描いてワクワクと胸躍るその感情、それらをアレの購入動機に因果づける演算処理プロセスを、果たしてAIは習得できるのだろうか。ま、こんな生産性の無いコト習得すべきなのかどうかという問題はあるのだが…

 昨夏8月に作画AIが爆発的に世に広まって1年、うろたえて騒いで『人工知能はウソをつく』などと悪口で偉そうを決め込んだりもするヒト情報体なのだが、そんなヒトの情報処理ってどんな特性を持っているのだろう?

 まずは自分自身が面白いと思う理由、欲しいと思う理由をいちいち考えてメモしていくと、意外と役立つ夏の想い出ができるかも知れない。夏休みの情報アドベンチャーにグッドラック!
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