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【1178】若気の至りは元気組織の好況ヒストリー [ビジネス]

 さらにもう一回NHK朝ドラの話題から始めてみる。
 いわゆるチョンマゲ結ったサムライが闊歩するお殿さま統治の社会文化から、機能別の役所を置いて議会で国家運営を決議していく近代統治構造に移行しつつある時代、まだ日本には国家的事業に計画的に労働力を調達する仕組みも、それに連動したカネ廻り経済の仕組みも整備できていなかった。
 今も社会科の授業では定番なのかな、日本は国土の大半が山野であり、僅かな平野部に人口が密集する世界有数の過密国家だと教わったものである。

 その山野の暮らしは集落コミュニティ維持のための自給自足をまず確保するとして、そこから先の余裕代をもって他地域と交換・交流するにも、カネそのものがあんまりその場に出回っていない。日常生活にわざわざカネを介在させる意味からして希薄だから、まだマトモなカネ経済ができあがっていない。
 故にカネにまつわる生活形態で日々を暮らそうとすると都市部ということになるし、生きるための食糧調達を離れ近代社会文化について教養を得ようとすると、そういう教育目的の機関が揃うのはやはりカネ経済の都会ということにもなる。
 地方の人々はどうしても近代化の情報に触れる機会に遅れがちで、大都会先導で計画される大規模土木建築事業などに、地元ではそうそう得られないカネ収入を求めて群がったことには想像に難くない。

 人権意識の行きわたった今日とは違い『家』という基軸単位を維持発展させる目的で人々が生活していたから、一家を支える働き手として子供をたくさん作って、家督相続制を看板に掲げて一番メのありそうな男一人を選べたら、あとの何人かは暮らし向き次第で放出処分にさえしてしまう。
 私の祖父世代=明治生まれはまだ『丁稚奉公(でっちぼうこう)』の文化に現役で接しており、要は余った子供をよそのおうちの使用人に出すのである。その後に親子関係がどんな形でどのくらい継続されたのかは知らないが、ある意味子供を労働力として売り飛ばす人身売買の一面があったのは間違いない。
 幼少期に家を出なかったにしても、第一次産業主体の地方の暮らしは決してのどかで楽なものではなく、あまりの劣悪環境と高負荷のため農作業中にそのまま命を落とすほどだったから【719】、むしろ都会の公共事業でカネ稼ぎができると聞けば、あながち嫌々でもなく人が集まったのかも知れない。

 『らんまん』で佑一郎くんが関わったという鉄道敷設事業が、1800年代中盤の新橋-横浜間の鉄道開通だったかどうかは明確に語られなかったと思うが、もしそうだったとするとこの線路は街の機能をよけて海上を走らせたものだから、それはそれは苛酷な土木工事だったことだろう。
 田畑を耕したり船上で網を引いたりしていた男たちが、いざ都会の仕事に出て来てみたら、蒸気機関車が走るようなごっつい架橋の海上敷設工事だった訳だ。そりゃ知った瞬間、前金を返してでも逃げたくなるのが普通ではないかと思うんだが、とにかくちゃんと完成した史実が残っているのだから凄い。
 果たしてどれだけの人間のどんな意識が渦巻いて投じられたのだろう。夏休みになったら横浜で鉄道開通の産業遺構を見に行ってみては?

 因みに北米フーバーダム、LAから走ってラスベガスのちょい手前のコロラド川に建設された巨大なダムだが【1025】【1026】、あっちはさすが北米大陸の東岸から文明の利器で領土を押し拡げていった『移民の国』だけあって、調達した現場労働者が事故死した先からダムのコンクリに塗り込めていったという凄まじい逸話がある。
 まあ国の成り立ちからして戸籍なんか無いんだし、特に中南米からは野良移民がぽろぽろ徒歩で入り込んでくるし、もう雇用の構図があるのかないのかも怪しい労働体制でやってたのではないかなあ。逃げ出しても周囲一帯が岩石砂漠の原野だから、確実に行き倒れてコト切れる。凄惨なことになったろう。

 国家構造が発展途上である限り、そこに暮らす国民の社会的立場も確立しないため、人権保障も未完成にならざるを得ない。
 幸運な日本国は、管理しやすいコンパクトなサイズの国土が真水いっぱい緑いっぱい実り豊かで、しかも島国という立地条件のため人口の流出入もなく、精度高い戸籍を整備した上で国民教育を普及させることができたのだが、その貴重な歴史的国民管理システムの信頼性が今あっけなく壊されつつある。
 ここで改めて私から指摘し直す必要もないと思うが、1億2千万人日本人各自がお互いさまのお陰さまで、この日本列島での生活の安心安全のため確実に処置しよう。

 さて子供時代の高知佐川で名教館の蘭光先生が、幼い佑一郎くんとマンタローくんを仁淀川に連れて行き、野宿しながら自然の大きな力に人間は抗えないと教えていた回想シーンが印象的である。
 私は学生時代に悪友どもとポンコツ中古車を連ねて二度にわたり、半周ずつ合計一周で四国を走破した経験がある。今どきトイレと水道を求めてそこらの公園の横に路駐する車内泊がどのくらい許されるのか知らないが、食堂みつけて飯食って、風呂屋みつけて風呂浴びて、スーパー見つけて酒買って飲んで、フルフラットでもない乗用車のシートで眠りながら四国各地を巡った。
 高知県は急な斜面がそのまんま海に突き刺さる太平洋岸沿いを延々と走って眺めた景色と、やはり桂浜の印象が強く、仁淀川に沿ったルートも通らなかったのであまりその関連記憶も無い。だが我等が隊列一行に『日本一の清流・四万十川を一目見てみたい』という切なる目的があったので、そっちはしっかり川沿いを走り有名な沈下橋も見て渡って写真を撮って騒いだ。
 木立に囲まれた川沿いのワインディング道路をひた走り遡上していくと、当時の都会では望むべくもない、それはそれはもう夢のように美しい青と緑と透明と光の清流が流れており、感動しまくったのを憶えている。ああいう川で魚釣って焼いて食ったら、そりゃあ間違いなく一生に残る食事の想い出になるよ。

 そうそう、くだらない脱線ネタがあって、一度松山からフェリーで本州に帰ったことがあり、詳細は憶えていないのだが、夕方前にフェリー待ちの時間が余ったので出発時刻まで散りぢりの自由行動にして、私はドライブイン風の飲食店でアイスコーヒーを飲むことにした。その時のこと。
 いや、別にカウンター席に座ってただアイスコーヒーを頼んだだけなのだけれど、どうした訳か横が随分と上までぱっくり開いたチャイナドレスのお姉さんが隣の席に座ってしまい、お姉さんの向こう隣の用事で自分は関係ないだろうと思っていたら話しかけられてしまった。な、なんじゃこりゃ???
 店の風采も中の様子も明らかに昼間の軽食で賑わうただの飲食店であり、そこらでみんなフツーに飯を食っている。結局どこから来てどこへ行くレベルの会話だけして、さっぱり事情を理解できないまま首をひねりながら300円払って店を出たのだが…

 当時、本四連絡橋がまだ完成していなかったんだか通行料バカ高だったんだかで、我々はフェリーを選択していた。確か本四連絡橋が乗用車5千円あるいはそれ以上で、これがフェリーだと2千円台だったと思う。
 運送業の物流トラックなんかには、安くて眠っている間に対岸に着くフェリーがむしろ好まれているとも聞いた。だとすると。
 そういうトラックドライバー相手に稼ぐお姉さんたちがアコギな客引きもせず効率的に商談のチャンスにありつくぶんには、地元の食事処としては仲良く場を提供して、お互い逞しく共存していたのだろう。二十歳前後の若い男が一人カウンターに座ったら、なるほど営業ミッション発動ということにもなるのか。
 …とまあ、都会育ちにはわざわざ考えて納得せねばならないほどシュールな経験だったのだが、生活を賭けてひたすら道路を走り続ける男たちの通り道としては、むしろ理に適った当たり前の光景だったのかも知れない。
 ずっとそれをやって生きていく連中の、生活を賭けた仕事の現場の姿なのだ。

 何もかも正しく快活に美化できるようなもんでもないが、昔は社会が懸命に生きていこうとしていたのである。現在の好感度で受け入れられるもの受け入れられないないもの両方あると思うが、朝ドラ『らんまん』は社会変遷の文化を積極的にストーリーに解りやすく効かせようとする意図が感じられる。あえて劇中で人畜無害に丸められているところを探して、自分なりに時代考証する姿勢で楽しんでも良いのではないだろうか。

 出歩くならその場の『現実』に触れないと損だ。梅雨明けの出遭いにグッドラック!
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