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【1127】過大な記録域の重要な不要ファイル [ビジネス]

 株式会社IWAKURAの行く末を案じながら、まずは大阪弁講座のツッコミから。
 『おばちゃん大丈夫?』のクルミちゃんに『忙しくしてるけど…』と答える舞ちゃん。

 ネイティブ大阪弁の実際では『忙しいしてるけど』あるいは『忙ししてるけど』が一般的で、以前指摘した『行かんくて』『行かなくて』の音便にも多少通じるが、ここに『く』は割り込まない。
 『忙しして』の『し』の連続発音なんかは、標準語体系ではビミョーに不自然とも扱われる可能性を感じてしまうが、特に方言にはこういう『非合理的発音を、非合理と感じつつもしっかり発音する』ケースが案外と少なくない気がする。御当地の勝手都合でお気楽フィーリング優先になりがちなのは方言の基本特性なのだが、反面それが高難度マニアック滑舌の慣習となって落ち着いていることもしばしばで、つまりは『合理性基準』ではなく『現地の言い習わしの掟が上位』ということだ。言語って面白い。

 まず『何がやりやすいか=自然にジブンに起こりやすいか』、実行動としてそうしといて『動機=行為の起動に対して、完結感=ちゃんと決着して気が落ち着くのか』、つまりジブンとしてファイナライズ処理が完了してコトが収まるのか。極限の素朴には、この行動選択のパターンとして、生物学的な場当たり反射の原理原則があるはずだ。
 一方その簡素で明快な原理原則をただの杓子定規に適用した体験の遭遇事例が次々繰り返され、それらは『実績の記憶』となって蓄積される。出会い頭に考える間もなく反応しちまった経験が吉と出たり凶と出たりして、例えば脳というストレージ機能にデータストックされ、適宜の呼び出しと活用を待つ流れになる。

 ここでその生物には『場当たり反射のやりやすいラクにしとくvs記憶に残る成功の実績によく馴染む方にする』のいずれかを採択して行動を決定する、二択課題が発生することになる。
 この二択設問に下す判定の傾向が『意識』の正体なのではないかと私は思う。

 脳というのはただのストレージでしかなくて、何だか神秘的に奥深い謎のヒューマン情報処理をやっているのではなく、ただのハードディスクに過ぎないのではないかと思うのだ。人間や家族相当のペット動物たちは、ここに膨大な記憶データのファイルを取り置ける容量を備えているから、生物学的な反射の原理原則に必ずしも直結しない、記憶に基づく相手個別の対応=付き合ってわかりやすい『意識』の存在が目立つのではないだろうか。
 以前に述べた、主に生物学的反射のみで振舞う普通のカマキリがいたとして、そいつにUSB接続で記憶容量を足してやると、感情表出に一定の記憶由来の傾向が見えてきて性格が顕れてくる…みたいな話はコレである【938】

 『喰うヤツ vs 喰わないヤツ』の両方が偶発するなら『喰うヤツ』の方が生き残るから、皆とりあえず生きてたら何でも口に入れて喰おうとする。甘いものは糖分なのでエネルギー源だが、辛いものは刺激物だし、苦いものは毒だし、酸っぱいものは微生物による分解済の残存…だったっけ。
 脳の記憶容量の無いヤツはこの摂食判定の大原則のみに従って、甘味OKだけを選択していく一方、脳の記憶容量がいっぱいあるヤツは『辛いが身体があったまった』とか『苦いが頭が冴えた』とか『酸っぱいが腹の調子が良くなった』とか、いろいろ大原則に乗っからない例外の新規メリットを開拓しては記憶に残し、この記録ファイルの情報ライブラリーを根拠に食の選択肢を拡げることができる。そのぶん原始的な種族よりも生存確率が上がり、現実をただの原理原則で判定するだけに留まらず、偶然から独自に読み出した情報をも新たな定理として、原理原則と自前定理を併せた総合選択を介して判定しながら種を繋いでいく。
 最初は各個体が各々現実に遭遇してはその個体毎に記憶が残るだけだが、同種同士が同じ生活形態で通信し共鳴し、一定の行動パターンが共有され、それが種の特徴にまで拡大されて世代を跨ぎ、遂にDNAに反映され血縁伝承されるようになるのだろう。

 ここで今回の本題からはちょっと横道にそれるのだが、より多くの記録ファイルを検討材料に並べ、より多くの過去判定結果の実績を記憶できているヤツに生存のチャンスが増えそうなのは間違いないとして、そうしないと生存のチャンスが枯渇して種が滅びるかというと全然そんなことはなさそうだ、というところに気付いておきたい。別に脳を発達させることが生物としての至高の最適解ではないのだ。
 だって人間なんか煮たり焼いたり散々に手を尽くしてグルメ放題をやっているワケだが、そんなことせず手当たり次第に口に入れられる物を喰い続けて生きている他の種族たちのほうが圧倒的多数で地球上に栄えているではないの。小うるさい脳が、余計な選り好みをせず大らかに受け入れる方が強いんじゃないかなあ。

 まあいいや、『意識』とは主に『本能的反射』と『記憶』の二大アイテムで構成されているのではないか、というハナシに戻ろう。
 例えば昭和世代の日本人は、対人印象の原理原則として『コイツって実力の伴わない無能だなあ』『コイツって信用に値しないペテン師だなあ』と本能的に正確に感知しているのに、いざ『いろいろある社会』に身を預けたところ、理に逆行するおかしな現実がのさばっているにも関わらず、自分の手の届かない得体の知れない事情により『意外にもどこかでちゃんと生産性機能が発揮されて儲けが出て、何とか暮らせてしまうものだ』という実績記憶を積んでしまっているのではないかと思うのだ。お陰で素朴な本能がどんなにSOSを訴えても、本気になれない日和見組織人ばかりになってしまった。
 脳が発達し過ぎると、記憶情報の影響代が本能的反射に対して大きくなり過ぎる。人間は、殊に極東の豊かな島に恵まれた日本人は、たまたま敗戦からの商工業ゼロ起動および急成長時代において、貪欲な欧米消費市場を相手に好き放題に過ごすことができたため、そのヌルい記憶情報が深く強烈に刻み込まれ過ぎたのではないだろうか。

 目前の幸運を貪ることに夢中になり、その幸運に呆けて自己管理・自己制御が破綻しても、我が事として真剣に問題意識をもって取り組めない。この生物としての致命的な緊張感の喪失が、実は無駄に発達し過ぎた脳の、行き過ぎた記憶機能によるものだとすると…だ。
 こういう情報的にシンプルでない面倒くさい壊れ方って、もしかして薬物依存などによる脳神経疾患の特徴に似ていたりはしないだろうか。

 つまり一大組織生命体として見た時の日本国組織は、一旦ケンカで負けて敗戦として這いつくばり、そこから実際は他力の助けに大いに引張られたものだったのに、自力での復活と勘違いして『自前の底力に自惚れる射幸感』に浸ってしまい抜け出せなくなった。元が千変万化の自然豊かな日本列島で、奪い合い滅ぼし合いもせずに身を寄せ合って血統を繋いできた人種だからこそ、その歴史の記憶と自覚が裏目に出て、なおさら自分らの組織力の凄さに夢中になった。
 組織原理を無視したテキトー不正な前人類式・非文明式の国家運営をやり散らかして、その『なりゆき成果としての平和』に安泰する射幸感に浸り続け、逆にそれを失うことが認められなくなり、つまりは依存症に陥った。
 まだ大丈夫、まだ助かる、まだちょっとぐらいなら許容範囲、いやいや急に現行方針を変えるとショックが大き過ぎて混乱するといけない…みたいな。時々引き合いに出される『現状維持バイアス』という定番ワードも、つまりは生物としての本能的反射を上回るほどの過剰な記憶機能の『脳内成功例への執着』と考えられるのではないだろうか。

 ここまで理解して、昭和時代の日本社会では『あまりに不自然な上級者向け(?)コミュニケーション形態』が横行していたのだが、その特殊性の決定的要因として効いていた『無難な集団イノチ、平穏な組織イノチ』の戦後の具体例の体感記憶がもはや消えつつある…と言いたいのだ。
 生物の本能領域、DNA伝承ゾーンのシステムファイルとして、昭和世代の過半数には『無難に群れていれば、どんなインチキやデタラメやサル山独裁を押し通しても破綻しない。みんなに愛想を尽かされ路頭に迷う自分たちの姿はイメージしない、イメージできない』と書き込まれ、ロックがかかっているのだと思う。
 だが今世紀以降に生まれた『昭和破綻ネイティブ』にそんなものは最初から無い。

 依存症と言えば、ベタだがまず連想するのは麻薬中毒、目の下にクマ作った廃人ちゃんが『ねえ、クスリちょうだい、クスリ…』と迫ってくるアレだろう。だが私自身ステロイド依存症を実体験して、そんな魂を抜かれるような切迫したクスリ摂取欲みたいなものは全く感じなかった。
 そうじゃなくて、クスリをやめた途端に異次元苦痛の無限ループが大爆発、だがクスリさえあれば快適とは言わないまでもどうにか平穏に収まる。『抜ければ地獄、浸れば平穏』、これが薬物依存の正体なのかも知れない。『意識の組織性』もまた然りだ。

 過去あったものを無条件にやたらめったら『守る』と言いたがる個体は、先行きいくらも寿命が持たない記憶依存症ではないかと疑って行こう。
 守るべき遺物なんぞ生まれてこのかた見たこともない子供たち若者たち、あなたがたは過去への執着に取り合う必要などない。
 依存症に気を付けて安泰しない次の成功を目指せ。それが成人社会人だ、御幸運を!
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