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【1130】要整理の積み置き想い出ファイル群 [ビジネス]

 NHK朝ドラ『舞い上がれ!』もそろそろ終盤近くなってきてるはずだよな。
 総じて、特別に構えずまんまに身を預けて楽しめる、好感度の高いドラマである。

 製品開発や設計・実験・試作、あと工場での量産や出先の営業まで、中小機械工作メーカーの具体的な業務内容が、ストーリー展開にきっちり機能的に効いているのが新規性あって面白い。
 普通このパターンだと、シロートが遠目に見たままのイメージで劇中の作業場セットや操業動作を組んでしまう御都合式の造りが目立って、専門領域では何だか気恥ずかしい雰囲気が漂う間に合わせシーンで『ドラマなんだから文句言いっこなし』みたいになってしまうところだ。実際こういうところに気合を入れ過ぎると、今度は視聴者層に理解されず、ヘタすると面倒がられるような造り込みになるから難しいだろうなあ。
 本作はNHK朝ドラ枠への適用として、絵ヅラの清潔感や業務内容の解りやすさ、および人間関係の明瞭化が必須要件だとして、難しくなり過ぎず浮世離れもせず、良いセンでできているんじゃないでしょうかね。『ネジ製造で、不況で、ピンチを切り抜ける』という本編ストーリーを、ちゃんと現実の現場の出来事に実感で反映させる制作意識が感じられる。

 さて株式会社IWAKURAのベテラン笠巻さんから解説のあった『切削』や『転造』など金属素材の成型技術に加えて、昭和の大学の機械工作実習では『鋳造』や『溶接』など数多くの工程をひと通りは習得したものである。
 中でも私の記憶に深く突き刺さってココロの糧として効いているのが『溶接』だ。

 端的に、ヘタクソの溶接ほどどうしようもない損害は、この世に存在しない。何もかも台無しにして、修復のしようも無く、ちゃんとやっていれば整然と人の役に立っていたはずの立派な素材を、直視に堪えない産廃に貶める神の冒涜に匹敵する悪行である。
 ええ、ワタシ得意ですとも。長いことやってないがアレは真剣に首括りたくなるよ。

 ハンダ付けは溶接ではなく『ロウ付け』に分類される。電気回路の接続に使うにしても、鈑金の表面均らしに使うにしても、端子や鉄板の母材とハンダが熔け合うことはない。故に思い立ったらハンダを取り除いて、いっくらでもやり直しが利く。
 いっぽう溶接の場合、ずびびばびどび…!と火花が散りながら確かに手元からロウ材が熔け出してはいるのだが、接続する母材の方もこれから繋げたい双方から熔け出して、全てが融点を超えて混ざり合って結合するのだ。電源クリップの片方を製品に繋ぎ、もう一方でロウ材=溶接棒をくわえさせて手にもって、スパークさせることによりコレをやるワケだね。火花が散りながら溶接棒は先からどんどん減ってくる。
 だからなのだが、ヘタクソが綺麗に接合線を繋げられずに途切れ途切れになるとか、間違えて熔けたロウ材をぼちょんと母材肌に滴下させるとかすると、そういった失態の全ては冷えて固まった地球の記憶の溶岩ジオグラフィック地形となり、修復は不可能なのだ。その醜さたるや一生のトラウマになるに十分なもので、そんじょそこらのグロ系クリーチャーなど簡単に凌駕する。もちろん強度も気密も全く無い。

 スマホも写メもない昭和時代だったから、実験工場の廃材処理場に葬り去って二度と見ずに済んだのだけれど、あれ程おのれの未熟さ無能さの罪を容赦なく突き付けてくる光景を、私は知らない。おうちが自動車修理工場だという同期が、いともあっさり綺麗な溶接をやってしまうのが妬ましかったこと。

 いかん、溶接は他にもいろいろ積もるハナシがあるのだが、加工学系の話題はまたどこかで系統立ててやらないと、何をどこまでやったかわからなくなりそうだ。いったん切ろう。
 とにかく、高度経済成長期には街じゅうどこでも盛んだった工作現場が今はすっかり勢いを失くしており、つまりは製品のブツを出荷する現場がしおれてるんだから、景気が悪いのも当たり前なのだよ、きっと。

 マズいな。機械加工には他にも思うところあって、今もの凄く中途半端なところで急に予定変更を決心するのだけれど…そうだな、つい最近に偶然手にした映画DVDのハナシで後半を埋めるとするか。
 …というか、いずれ映画も整理して系統立ててやらないとヤバい雰囲気だぞこりゃ。そんなに映画好きとして入れ込んでいる自覚は無かったんだけど、意外と人並み以上に観ている方なのかも知れないと最近気が付いた。どうしよう?

 まあいいや、今回はこの流れで押し切るとして、”MY LIFE”(1993年米、邦題同じでカタカナ表記)を、ふとした巡り合わせで手にすることになったのである。三十路前後のころ公開当初に映画館で観て以来、私にしては珍しく、正確な内容を他人にきちんと説明できるくらい記憶を保っていた作品である【663】
 実にその十数年後、ほぼ同じシチュエーションが私自身の身近で現実となった。もう十分珍しい話でもなくなっていたし、まさかの現実を受け入れるしかなかったのだが。

 末期癌が発覚した広告代理店社長をマイケル・キートン、その時点でおめでたが発覚していた奥さまにニコール・キッドマンという超有名どころの二大キャスティングだ。主演はダンナの方ではあるのだが、連れ合いニコちゃん夫人の透き通るような美しさと圧巻の演技が印象的な一本である。完璧とも言うべき隙のない端正な顔立ちに、20代にしてこの映像と音声を残すナチュラル訴求力に溢れたパフォーマンス、まさにハリウッド女優の面目躍如といったところか。
 要は『末期癌患者の終活』をストーリーにしたものなので、丸ごと一般庶民の日常生活に普通に起こり得ることだからか、CGや大仕掛けな撮影セットを駆使した特殊映像技術は一切使われていない。故に大御所キャストのハリウッド映画にしては派手さの無い造りなのだが、初見での印象も良かったし後に自分の体験にも重なり、助けられたところも思うところもいっぱいあるし、大好きな作品である。

 1993年というと平成4年、末期癌は家族ともども患者当人に率直に告知され、もちろん進行予測は精度不明の手探り状態ながら、親戚を含めた関係者の総合力で、現実を受け入れる関係者全員の着地点をひとつずつ整備して実行していく。
 ほんの少し前の高度経済成長期から昭和末期においては、癌を『大したことない、いずれ治る』と本人には告知せず、近親者に先に内申するというケースが珍しくなかったと記憶しているのだが、この”MY LIFE”『マイ・ライフ』で私は何の意外性も感じずに観ていたので、平成への移行前後に個人や社会の『癌との向き合い方』が随分と変わったのではないかと思われる。
 携帯電話も電子メールも無く、SNS含めて社会に流通する情報が少なかった時代には、面と向かって専門家たる医師が断言しない限り『本人は厳しい実情を知らないで済む』という情報操作ができると当て込んでの処置だったのだろう。だが余命期間に施せる医療措置も急速に発達し、随分と良質の時間が延びたので、本人も納得承知で意思決定しながら最善を尽くす方針に主流が移ったということか。それともうひとつ。

 以前『パニック現象vsグレース現象』の回で、大衆心理の一般的特性として『自分の力では抗いようがない深刻な境遇において、人間は無駄に騒いだりしない、我を見失った破滅的な行動は起こさないものだ』と述べた【907】
 私は、晴天の霹靂式に進行癌を宣告された姉のケースに余命一杯関わって、また同じ病室の闘病仲間の方々や医療機関の心身ケア対応にも直接触れて、なるほど昭和の時代に恐れていたほど手に負えない迷い方・見失い方は、案外と起こりにくいのだろうと考えている。

 かつて私の小学校までの通学路には近所の映画館のポスター掲示板があって、つまり当時の公開中の映画のポスターを毎日リアルタイムで見ていたのだ。そりゃあもう、成人映画からスプラッターから、何からナニまで一切の遠慮なしであった。
 洋画では『ホラー映画』などいくつか流行ジャンルがあり、そのひとつに『パニック映画』がしっかりと確立されていたのを思い出す。ヒトが迷い、見失う現象それそのものがメインテーマとしてストーリー構築され、それが流行になっていたのである。
 もしかすると国内外に跨るような大きな空間規模で、『ヒトが追い込まれた局面で荒れるか鎮まるか』の認識が、形態共鳴【482】のような社会現象として、時代と共に移り変わっていたのかも知れない。
 個人が自身の健康問題を理由に社会との接し方をどう処すのかと、社会空間から降りかかってくる危機的環境にどう対処しようとするのか、そんな個々人の選択が巻き起こす集団行動がどんな傾向を見せるものなのかの間には決定的相違があると思われ、ごちゃ混ぜにはできないんだけどさ。

 ハナシとしては基本ここまでで、あんまり気の利いたオチも無いのだが、癌医療コンセプトの変遷と、集団パニック現象の映画文化史と、社会組織の制御逸脱事故の解説は、私にとってセット扱いのフォルダーに収まっている記憶ファイル群なのである。
 『誰かに、何かに流される』という光景を目の当たりにした時、『流されない』条件って何だろうなと考えると、この一連の思考フローが蘇ってくるのだ。

 まあ面倒くさいコト抜きに見やすくて良い映画です。オススメしつつグッドラック!
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