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【1126】クイズ世代別意識に聞きました、過去の栄光の記憶? [ビジネス]

 あらら胃潰瘍で倒れた頃からビミョーにアブナい雰囲気が漂っていたのだが、ここで大口失注の大ピンチをクリアせずに特命係長が急逝ですかー!
 ストーリー展開としてしょうがないんだけど、私にとって国内の俳優さんで『カッコいい二枚目の男前』といえばいの一番にこのヒトだったので、登場頻度が激減しそうなのは残念である。デビュー当初そのあまりの童顔に『この娘トシとったらどうするんだ?』と心配した永作りぼん嬢だが、想定外に下町の可愛いママさんがズバリ適役でびっくり、夫婦の掛け合いも自然でいい感じだったのに。まあ黙って先を見守りますか。

 そうそうプチ大阪弁講座をまたひとつ、五島のお祖母ちゃんが足を傷めた電話連絡を受けた時の永作ママに『舞がいてくれたら』という台詞があった。
 例によってネイティブ大阪人は、言わなくはないが『舞がおってくれたら』の言い回しが圧倒的高頻度である。誰々がどこそこに『いる』は、全て『おる』に言い換えて間違いないくらいではないかなあ。

 日本社会の量産製造業、殊に中小規模の要素部品メーカーは、キホン戦後の焼け野原に芽を出して成長してきているから、その事業沿革に関わった関係者全員にとって一切の理屈を抜きにして『絶対なくせない、何を引き換えても手放せない、自分の人生の成果そのもの』の価値になってるんだよな。
 この視点において、いくらロジカルに整然でも『他人に明け渡して商売繁盛』が正解でないのは論外の自明とされ、極論すれば『気心知れた仲間一同で破綻するまで突張り通して玉砕』で業界に語り継がれる方が納得のいく決着だとする時空さえ成立する。
 分岐点で勝率の高い方を算出しながら思考フローをなぞって結論が決まるのではない。人ひとりナットクするvsしないの精神状態の収まり方が決定的要因、当事者と傍観者で思考フローを司る精神構造が根本的に異なるのだ。

 もっとも、ならば浪花節の感情論なのかというと決してそうではない。
 特命係長も洩らしていた、料理人=自職場に適応進化した労働力としての人材なんかは、確かにそこを支える石垣の石のように固有の形状で各々噛み合って存在しており、一度バラすと元通りの再現は不可能である。『一番すぐ暖まりやすいのは3号機』だとか、『初めての際どい形状だが5号機で50発なら打てる』だとか、世間一般で価値カウントされないが自職場ならではの生産性発揮に関わる知見など、どこの作業場にも無数にあって効いているからだ。教えて習って情報通信で伝授はできない。

 だが悠人お兄ちゃんの言っていたことも本当で、経営に行き詰まった会社は潰れるしかない。端的に赤字決算が一定期間続いて営利事業としての成立条件を割り込むと、本人たちのやる気とは無関係に『倒産』である。ここに、詰まるところ事業成立の成否は『カネ』という数値基準のみを根拠として判定される…というところがポイントだ。
 どんなに思いの詰まった良い会社、大事な会社=そこに関わる人たちの成す組織において何物にも代えがたい有価事物であっても、どうにでも変動する、たかがカネ=価値流通媒体の収支が一定条件を満足できなければ、問答無用で日本社会において経済活動として継続することはできない。

 だから、どうしても倒産させられない人たちが、社会一般の査定基準を割り込むような苦しい経営状態に陥りながら、尚も当座の運転資金とするためのカネの借り先を、違法な金利ででも探したりするワケだ。ただ。
 その『どうしても倒産させられない人』がどんどんいなくなっているのではないか。

 端的に日本社会は、体力に溢れ柔軟性にも優れた就業若年層が、『赤貧から苦心を重ねて成果を積み上げた結果としての事業沿革』を知らない世代にすっかり置き換わっていることを認識すべきだと思う。
 つまり若い人たちにとっては、事業単位といわず日本社会全体が『現状自分の文化的生活に役立つかどうか』という切実ドライなロジカル判定の対象になっている。ちょっと前に破局の理由でよく聞いた『価値観の違い』、まさにアレではないのか。
 どお~も年長世代がそこを『自分の外側』と割り切れていなくて、遥か以前に若い人たちが心中に動機から湧かず、乗って来なくなっている『年長精神世界』からグズグズ踏み出せないでいるのではないかと見受ける。そんな世界の果てが自然形成されていて、年長組は抜け出そうと思いつく段階から叶わず、思い思いの古式価値観の同好会サークルとして孤立し閉塞しながら、順次死滅して数を減らしているように見える。

 Z世代から今やその次のアルファ世代に移行しつつある就業若年層は『ちゃんとやってる事業』『ちゃんとやれてる企業』を求めているのであり、カネが他よりいっぱい手に入るとか、ラクやトクに優先的にあやかれるだとか、そんな非社会的で原始的な自己保存欲への泥臭い執着というか執念みたいなものは、もう昭和世代からすれば本能欠落とさえ感じられるほどの勢いで希薄になっている。
 明け透けな表現を使うなら『自分がいい目を見れること』を、それ単独で味わって嬉しがる貧相なメンタリティを、時代の移行として抜け出している気がする。

 反面、意識して気にかけている人間関係に対しては細やかに気を遣う傾向が強く、こちらとしては大して気にも留めていなかった些細な行き違いや会話応酬の末端について、後からでも一生懸命に連絡をつけて説明してくれることもしばしばだ。
 これ私個人的には決して困った傾向とは思っておらず、過剰に人間関係の平穏を取り繕おうとするが故のことでは決してなくて、無駄な水面下の思惑マップに想像力を張り巡らすような会話を避けたい気持ちの素直な表れだと捉えている。彼等が丁寧に気をまわしてメンテしてくれる焦点が、理解に苦しむ的外れだったことは一度も無い。

 私自身はあなたが普段から見聞きするまんまの人間だ、粗野で下品で鈍感で横暴な性格だが、あなたが悪いことを悪いと知っての邪心の言動でもなければ絶対に嫌ったりしないから、今もこれからも気を遣わなくて結構。気が向いた時に思うままの解説をくれれば必ず味方に立って理解するから、何か思い立ったら思うままに持ち掛けてくれ…と回答すれば解決する。

 職位や年恰好の立場なんかを勝手なパワーアイテムに読み替えて、会話の端々にイヤミや悪口の当て擦りをわざとらしく挟み込むとか、陰気でモテない欲求不満の指摘屋が今風うんたらハラスメント・なんたらコンプライアンスを大義名分にして騒ぐから、ここはコトを荒立てずなびいておくのが利巧じゃないかとか、こういう裏含みの濁ったコミュニケーションを『当たり前の常識』と受け流せる時代は遥か昔に過ぎ去っている。
 陰険な不純物に気付いてもスルーしておくのがお約束で、そんなボロい人間関係を滑り込ませて、カタチだけでも仲良くお付き合いしてもらえると思うその精神構造は、コトバを交わす前の会話の背景として、もう若年層を遠ざけているのだ。もちろん派閥の概念なんぞとんでもない。

 こう書くとひと昔前の日本社会が、いかにも洗練されていない荒んだコジキ文化のようにも映ってしまうのだが、実はこのゾーンで、人間の集団についつい発生しがちな不平等感や嫉妬心などの不満要素を、深刻な組織全体の生産性トラブルとして顕在化させずに吸収できていたと私は考えている。あるのはみんな知ってる、でも問題視しない。
 けど、何がどう良かろうが悪かろうが、それ今の時代には通用しないんだよ。

 日本社会の稼働モードは、ちょうど今見ているあたりで完全に世代間格差ならぬ世代間メンタル差により、いったん不連続に途切れるのではないかなあ。
 そこからどうなるか私にも判らないが、いざそんな時には、未来の主力に立つ若者たちに腹を割って会話してもらえる年長でいたいものだ。
 今年もよろしくお願い致しますよ、子供たち若者たち。明るい未来にグッドラック!
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