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【1129】パーフェクト均等資格者の総当たり闘技場 [ビジネス]

 さて前回からカジノの話を続けてみるとしよう。
 まず国譲りズブズブの底無し借金体質が、更にどうしようもない暗黒星雲のサルガッソーレベルまで悪化していた大阪府市財政において、寿命終焉の超新星大爆発一直線という感じで、誰もその清算をまともに考えられなくなったまま日本円だけ撒き散らされて債務が積み上がり続けていた。

 これを清算する手段として『カジノ』つまり賭博場が起案され、まあバクチ打ちを正面切ってそれと認識しつつ政策として推進するのってイマイチ気が退ける…ってことで、『IR=インテグレーテッド・リゾート』と呼び変えて検討が進んでるワケだよな。
 一部和訳して『統合型リゾート』ってことだけど、いくつナニと抱き合わせようと、どうせ本命の目的機能はカジノなんだし、こういうバカみたいな自意識のフヌケ腰抜け取り繕いの悪習慣は早く卒業すべきと思うのは私だけだろうか。無駄だよ。

 おっと今はそんなくだらない議論をするつもりは無かった、今回は『カジノ』ひいては他の公認賭博まで含めて、こういうカネ流通に良い悪いの判別を下そうとする脳足りんが後を絶たないのだが、そんな余地が本当にあるかどうか考察してみたい。

 結論から先に行くと、成人社会人がおのれの資産を拠出するぶんには、どんな目的であろうと他の誰からも文句をつけられる筋合いなどない。その善悪に口出ししようとする概念がそもそも的外れであり、強いて言えば迷惑である。
 百均ショップで一生モノの愛用品を買うのも自由なら、カジノで百億円の勝負に出て全額スッちまうのも自由だ。そして個人所有の資産を拠出して自由にナニかやったとして、その後の社会的な顛末の維持管理には、やはり当人が個人完結で収めるべき責任が発生する。以上誰も知ったことではない、これが基本的人権の原則というものだろう。

 賭け事の現場においてカネは『人にとって掛け替えのない思い入れ価値』ではなくなっており、『偶然に預けて一定の確率で増減するだけの数値情報』になり切っている。
 さあさ倍率100倍だよ、アンタはおいくら張り込むんだ?それとも降りるのか?
 当該現場でカネ移動にまつわる事情は、これが全てだ。それがルールなのだから。

 だからこそ自分にナニができるとも思えないその日暮らしの小市民も、稼ぎまくってたんまり持っていながらなお稼ぎ続けるウルトラ富裕層も、完全なイコール・コンディションで勝率を均等に分けており、運さえ向けば一攫千金。その確率は一生かかって巡り合わせないほどの超絶レア数値ながら、間違いなくゼロではない。あいつにもこいつにも『大当たりが現実になり得る』という保証があるのだ。
 恐らくはこれが賭博の娯楽性の本質ではないかと思っている。
 人間がまず社会組織を成し、そこで流通する『カネという物体』を価値だと認めるから、その『カネという物体』を能力相応の分配から切り離して、賭博というカタチで偶然に任せることができる。均一条件下の価値の偶然の行方、皆ここに興味があるのだ。

 例によってちょっと横道にそれておくと、カネなんぞの概念を持たない動物たちの生活集団においては、能力主義でチカラ関係が決まり、価値の分配が決まり、みんな納得して各自相応の立ち位置に収まっている。
 人間は『カネ』なる文明価値の流通システムを発明し、それは紙幣・貨幣など手作業取扱いの耐久性・利便性をしっかり持たせた物体に、有価物との等価交換を約束共有したものだったはずだ。だが程なくこのカネを利用して、価値の得失を偶然に預ける『賭博』という文化をも開発した。
 そのココロは『何にもとらわれず無条件にいい目を見たい』とする、究極に原始的な衝動だと私は思っている。全生物の全個体には『いい目を見て寿命を過ごしたい』という本能原動力のシステムファイルが備わっているのだろう。

 カネ経済の文明発達は、たまたまの二次的に『個々人の能力差をノーカウントにできる時空間』の発明としても効いたのである。これにより人間関係において『価値=いい目を見れる因果』を個人ひも付けで帰属させず、むしろせっかくの能力で作り出した価値をいったん無機質なカネ物体に変換して偶然に預けて、お互いに『いい目を見れるかも知れないという夢を楽しむ』射幸性の社交空間が転がり出ることになった。

 だから『賭博』という人類文化に対して、思い入れ価値相応の正当性・不当性を語る善悪の議論で組み付いても意味は無いし、結論も出ない。そして賭博への参画は、経済空間を生きる個人が自己判断でやれてしまう行動だし、本人の拠出だけで自己完結もするため、他人の人権侵害を問われる行きがかりにもならないから、せいぜい『好き嫌い』の議論までで論理数学的にはオシマイである。裏返せば、賭博好きが複数人数いたら、横から制止する筋合もなければ制止したところで無力なのだ。

 さて話題を本筋に戻していくのだが、かくして恐らくは『本能』いわゆる深層心理の原理レベルに訴えかけるほどの娯楽性があるため、カネ経済を基軸に動いている現代生活での人並な資産運用がついつい二の次になってしまい、身を持ち崩すヤツが確かにそれなりの確率で発生してしまう。
 だが、これをもって『人にとって掛け替えのない思い入れ価値』が社会的に損害を受けた、社会的損失が発生したという判断は、個人の誰にもできないというところが大事なポイントである。だからこそ宗教など一定の世界観を根拠とする理論構築に沿って、賭博を禁止したりもする訳だ。わざわざ調べたことないけど、賭博行為を禁じている宗教って結構あるんじゃないですかね。

 ここで再びプチ横道だが、確かイスラム教は『借金』を禁じていたと記憶している。
 もちろん融資や分割払いを直球の四角四面に禁じると現代経済圏と折り合えず孤立してしまうため、宗教観に逆らわずそれらを実地運用する理屈は工夫されているのだそうだが、金欲都合ありきのだらしない拡大解釈によるカネ価値運用の失敗に対しては、それなりに実効力のある抵抗感として働いていたりしないかなあ。

 以前にも述べたと思うが、濡れ手に粟で大金を稼いで得意になって大勝負に出たものの、負けが込んでしまい結局スッテンテン。いったん負け始めたら取り返せる確率にすがる気持ちが抑えられなくなるという実体験を通して、その後は損切りのセンを固く守ってイイ頃合いで手を引くようになり、それが功を奏して最終的には大富豪になったとか、あるいは自分は賭博に向いていないと深く自認して二度と賭博に寄り付かなくなったとか、そっちの建設的な展開もあるはずなのだ。
 ちょっと美し過ぎる想定であることは認めるが、これはこれで無機質な『採算を合わすカネ価値』としての資産が、賭博を通して『本人にとって掛け替えのない思い入れの人生価値』に昇華する効用の一例と考えられるのではないだろうか。
 御主人がパチンコで一日10万円負けたのを奥さんに見つかって離婚届を突き付けられつつこっぴどく叱られ、それ以降は現金1万円以上持たせてもらえなくなったけど、ああアレがなかったらこの幸せな家庭は破滅してたかもねえ…なんていう笑い話は結構そこらにありそうに思うのだが。

 悪だくみして、狙って当てて、してやったりでほくそ笑むのを至上の喜びとする私は、相変わらず大の賭博嫌いなのだが、以上の通り人間には賭博を面白がるシステムファイルが備わっていると考えており、賭博にまつわる周辺事情まで含めた派手で賑やかな社会現象については興味津々だし大好きである。

 何より賭博で動くカネ流通には、関係各位に当人なりの完璧な納得が保証される。
 『法律でそうなっているから』『合法だから』という日本語文章だけを根拠に、国会議員が毎月100万円を使途未公開で使い捨てるカネ流れなんかより、よっぽど1億2千万人の理解と支持で総力的に維持発展させられそうな潜在的経済パワーの期待値は高い。

 極論すれば2025年大阪万博は、カジノ実現の起点として機能すれば十分である。
 カネという人類文明は、ヒトの知能で作動原理に忠実に制御しよう。それが目的だ。
 理想を描き、考えて実行して、その成果だから価値がある。理解して、御幸運を!
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