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【1088】違法な司法の罪状と有罪判決文の論説スタイル [ビジネス]

 あと1ヵ月あるのでまだ判らないっちゃ判らないんだが、世襲のガキの葬式を2億5千万円かけた国葬にすることが『決定』されたそうだ。おまけに警備費が葬式と別勘定になっており、その経費はその他一般の警備業務に混ぜ込むやりクチで秘密にされ、国民には開示されないことになっているという。

 ちょっとさ、だんまりを決め込んで日本社会で何ひとつ機能していない、文系職域の役立たず全員に訊いてみたい。日本国の国家運営は民主主義なのか?
 日本が民主主義国だったとして、民主主義というのは、キホン全員という意味でみんなの合意を採択しながら物事を進める組織運営コンセプトのことではないのか?
 こんな異常事態で司法機関が何にも動かないのは職務放棄としか思えない。
 『裁判という仕組みの処理手続きに乗ってきたら法律に則って処理します、それが司法です』ではなくて、違法行為を見つけたら誰に頼まれなくたってまず摘発し、取り締まりにかかるんだろ?交通違反の取り締まりなんかはそうだよな。

 あほみたいに国民議論ナシを前提にして当然であるかのように政権中枢部から『国葬決定』と勝手に言い放たれて、一般庶民の日常生活からは手が届かないイメージのある国務領域で、これまた勝手に『警備が膨らんでいくらかかるか判らない』『かかった費用は開示しない』とか一方的な発表と共に、あれよあれよという間に側近の奴隷どもがその方針で進めて行く。
 これだけ組織体制も保有設備も完成されているんだから警備の経費計画額が計算できないはずがないし、経費も計算できないようないい加減な葬式なら、それこそ最初から税金資本の国葬になんぞされちゃたまらないのだ。
 我々国民は、反感こそ煮えくり返っても同意する筋合いはない。憲法に定める国民主権をこれ見よがしに無視した違法行為なのだが、一般庶民からなかなか直接に具体的な制止・抑止の操作がかけられない業域だし、まさにこんな時こそ国家機関レベルの司法権力の出番ってものだろう。

 因みにこの近寄りがたい行政組織の距離感をカサに着て『どうせ一般庶民には手が出せない』と当て込んだ世間知らずの知恵遅れが、政教分離の原則も軽々しく無視して違法行為のやりたい放題で調子に乗っていたところを、一般庶民のスキル保有者一人が社会通念の一般枠を超える意外な手段で直々に摘発したのが先月の銃撃騒ぎとも言える。
 『日本では殺人は違法行為になる』というのは事実だが、その前段階で『殺処分に相当する違法行為』が、少なくとも銃撃犯クンには見えていた。法律家の看板あげてイッパシのクチききたいなら、その視点での原因分析および常人情操としての行動選択の妥当性検証をちゃんと整理して、おのれとしての見解を公言してからにしろっての。

 本人が人生の長きにわたって被った不遇の因果の全貌までは知る由も無いのだが、少なくとも私は、一般家庭の生活を崩壊させるような団体があって、そんな団体の組織力を都合よく利用する政治家がいたなら、まず誰かに何らかの形で政治家が取り締まられる順番が道理だと考える。今般の一件はその観点において起こるべくして起こったものであり、落命の不運はなるほど哀れだったが、まあ命を取られるのも当然だったのかなと判断している。
 地元警察の本部長が辞めるのは結構だが、それは『日本国の法律に抵触する行政機関の違法行為を見過ごして殺人事件の発生を招いたから』であり、すっかり日本国をナメて違法行為に興じていた迷惑なガキを警護できなかったからではない。

 はっきり平易な日本語に開いて、上記一連を解りやすく書いといてやるよ。
 立法・行政・司法の三権分立が法に謳われ保証されている日本社会では『憲法に定めた国民主権に抵触する行政機関の違法行為を、司法機関はその立場から速やかに取り締まってやめさせる』という義務があるのだ。
 日本国が、日本社会を生きる日本人を相手に法律として定めた『義務』なのであり、ぐずぐず動きたがらないだとか、当日までむずかってなし崩しの時間切れだとか、そういう幼稚な世間話級の押し引きで済む問題ではない。法律・法治というのはママゴト遊びではないのだ。

 まさにの丁度の、こんななりゆきで、だらだら道を踏み誤りがちな人間の不確定性を理解して、対策を打っているのが法治社会なるものの制度設計だと言える。解説しておこう。
 きちんと理知性を維持できている心理状態のシチュエーションにあるうちに熟考を尽くし、幸福で生産的な社会を運営するための行動様式の具体的要件を論理化し、言語を駆使してその論理を一義的に解釈できる文章に記録して保管する。これが法律だ。
 賢くて優れている瞬間の人類の叡智をいったん『情報』に変換して、劣化・風化しない言語メディアの形式で記述し、ハードウェアとしての国家の仕組みのシステム領域に記録・保存する。

 ごく単純で初歩的なところを義務教育の数学の授業でも扱うから『論理数学』という学術領域があるのはみんな知っているだろう。『真』とか『偽』とか『逆もまた真なり』とかいうやつで、あれがあるから『もし事象Aが真なら判定はX』とか思考フローをステップ毎に分離して単純ユニット化し、アルゴリズムの絵が描ける。
 ポイントは、日本語文章に書き定めた内容に対して、人間の下す判定が、本人の気分や好みではなく、論理によって一義的に決まるというところにある。

 だから冷静に国家組織・社会組織の最適運用プランを組み立てられる思考条件が揃っている場面で、組織運用の要件を『法律』にし、『法治社会』としてそれに従う行動管理システムの概念ができた。
 解るか、日本中のボンクラ文系人種?言語情報なる文明ツールの存在意義だよ。

 最初から一部の気紛れな自分勝手や私利私欲を素通しするつもりで国家運営を考えていて、それが納得の上で、その意味で文章化され法律になっているのならしょうがない。だが、もともと日本国は歴史の流れと蓄積を踏まえ、日本人の意思を時代と共に加味して醸成しながら日本国憲法以下、六法全書なる現・法体系を整備してきたはずだ。
 もっとも厳密には、特に戦後以降の直近においては、日本国民が平和ボケと敗戦による自信喪失のため自国運営への参画意識を荒廃させてしまい、法律として不適切な内容の文章を少なからず混ぜ込んでしまった失敗はある。そこは注意して『法治国家・日本国の法律と言えども決して無条件の完璧ではない』と知っておかねばならないが、それでも法体系の基幹となる国民主権と、それを具現化した国家稼働プロセスの現場定義については、『日本人が豊かで幸せに暮らすための日本国運用』の行動マニュアルとして、本来機能を失うまでには壊れていない。
 法律はまだ大丈夫なのに、関わる人間がダメになっている。これが現状だよ。

 今そんなこんなで、この無能で役立たずの現行の司法機関は、手の届くところから手あたり次第クビをはねて解体していかないと、民主主義議会制の法治国家として立ち行かなくなるってことさ【1084】

 何年か前まで、お隣の半島や大陸で政権統治として国民の言論統率や行動制限が行われているのを見つけるや、『あ~らあら、さすが洗練されてないお国じゃ、一部のコワ~い人たちの好き勝手が通るんですねえ』みたいに得意気に見下して批評していた烏合マスコミだが、今この自分ちの惨状を目の当たりにして何か言うことは無いのか?
 確かに日本国のケースでは半島や大陸と違って、三権分立によるグーチョキパー式の三すくみ制度設計を採用している。だがこれらスタッフ層が丸々三権そろって狂ってしまい、ジャンケンせずに許し合い頷き合って談合し、一般国民に対して支配階級となる特権層を自称し始める失政モードがあり得るのは御覧の通りで、実はコレ過去にもたくさん他例があるのだ。
 経済状態の雲行きが怪しくなると、自由経済市場の原則とは別扱いで『決め事として動かせる税収』に群がろうとするのは、古今東西おんなじなのである。

 こんな時、馴れ合い三権の外側の非・スタッフ層領域から暴走抑制パワーとして働くのが、本来ならマスコミの役目なのだ。だが経済が低迷すると、自由経済市場に資金源を頼らざるを得ないマスコミは自立生命力を失うことになるから、結果として特権層にひざまずいて嘘でも煽動でも何でもばら撒く大衆操作の遣いっパシリに落ちぶれやすくなるのは解るだろう。
 つまり不景気になると、社会をあげて法治体制は無視されがちになると理解しておく必要がある。社会にインターネットという個々人接続の自律性回路が定着した現在、今どき戦争勃発の危険に直結させて怯える必要は無いと思うけれど、『正気なら、やめときゃいいと判っているはずのコトを集団行動でやらかして失敗する』原理とはこんなものではないだろうか。

 どんなゴリッパな法律の文言を練り上げても、悪い気を起こす愚か者の胸ぐらを掴んで、時にぶん殴ってでも守らせない限りは意味が無い。そこが今すっこ抜けており、一番肝心な法制定の精神コンセプトを忘れて、人間に法律を守らせるためのヒト対ヒトの実力行使を指差しては侮辱だ暴力だみたいな青瓢箪の中二病をやっているから、悪ノリの過ぎたガキがものの弾みで殺処分されたりするのである。

 法律を破るの人間なら、法律に甘えて寝言の言い分が通ると曲解するのも人間。
 一方、法律よりもどうしようもなく逆らえず恐ろしいのが社会組織の自我だ。
 理解できた人から順番にゴキゲンを取りにかかろう、その試みにグッドラック!
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【1087】説明できないセツメーの総却下座標軸 [ビジネス]

 放っときゃ1ヵ月後にやることになってる、と一部少数で勝手に言い放ってるだけの世襲のガキの葬式だが、国葬にする・しないのきちんとした結論をまだ国民は聞いていない。議論が始まった感すら無い。テーネーなセツメーとやらはいつ始まるんだ?
 先にウン千人集めるだとか、どこそこの来賓呼んじまったとか、やけに具体的なハナシばかりちょろ出しちょろ出しで目に付く気もするんだが。
 それでも経費のハナシだけは意図的に隠すかのように空白になっていて、おかしいなと思っていたらここ数日に来て2億5千万だとか早速2億円から上乗せ額に化けるとともに、『警備に大幅に費用がかかる見通し』みたいな怪しい文章が見え隠れしている。

 私は元々国葬扱いを認めるつもりのない国民だが、とりあえずこの布石発言を叩き潰すために知恵だけ貸してやるならば、同時入場人数に制限をかけどっか密室で葬儀をやることにして、入口出口をしっかりセキュリティ管理すれば警備費用はかからない。
 以上、警備の追加費用なんぞびた一文不要だ。つーか有志会で好きにやれ、どあほ。

 国民の大半が国葬の扱いに反対している旨の数字が、最近はそこそこ大っぴらに語られるようになってきたのが面白いんだが、とにかく明らかに『1億2千万人日本国民の過半数が反対している』という情報がオオヤケに出回っているのに、テーネーなセツメーもなく実行準備だけがとぼけて進むってのは、民主主義として実に反・国民的=国家反逆的な挑発の意図が明白な国葬強行体制だよな。
 これもまた昭和ダメオヤジの自爆モードだから、もう何をどう順序だててどこの誰が説諭しても、ぶすう~っと貝のようにクチ閉ざして、やると自分の権限で一方的に決めつけたことが、時間切れで当日を迎えるだけ迎えてしまう流れにまで持ち込む腹づもりだよ。
 その目的で、先に自分勝手に『実行した事実の誇示になる』と見繕った実施要件だけ、今のうちに、言うこと聞いてくれる奴隷どもにだけぺらぺら並べ立てて、一応オオヤケ空間にも漏れ聞こえるようにセコくちょろ出しして権力アピールしてるってことだ。国家機関の人員を動かすんだとか、税金資本を引充てるんだとか。

 ちょっと穏やかでないのが、見境なく日本国運営への強制統治力を誇示しようとして、いま改めての根拠も無いまま強引に原発を次々再稼働させようとする動きが見られることである。
 先に言っとくとさ、技術的な知識も運用に関わる組織統率力も揃っていないという現実が今あって、この状態のままただ再稼働すれば、次に地震が来た時『また』やらかす破目になる。現実としてあんな事故が起こったんだから、その現実が二度と起こらないよう『現象』としての組み合わせに物理法則に則った歯止めがかかっていなければ、『また』同じ事故が確実に起こる。当然である。

 もともとその業界のカネ廻りを目的に、必要も無いのに原発を乱造した経緯があって、だから設計的にも運用的にも技術的に本気の安全保証ができておらず、それが地震国ニッポンで『やっぱり』津波を被って暴走事故を起こすという最悪の形で露見した。だから一斉に日本中で原発を止めた訳だが、今や後の無くなった現政権としては、後先考えずに原発でカネにありつこうとする連中の力を搔き集めたくてしょうがないってことなんだろう。でもなあ。
 まず原発ファミリーはウッハウハの左うちわ生活どころか『それは絶対無いってハナシだったはずでしょ』の事故処理の責任につかまってしまい、逃げて無関係を装えるヤツはとうの昔に逃げてしまってるんだし、日本中でこれだけ長く止めているんだから、もう新たに原発をめぐるカネとトクに群がろうとする人種もすっかり減っていることと思われる。
 今さら原発を再稼働させるぞと一方的に虚勢を張ったところで、どうせ現実が付いて来ないのだ。だが現実が付いて来なくても、横車を押して自分の主張を貫き通す構図だけ作り、他人に譲らず自滅発散するのが昭和ダメオヤジの美学(?)である。
 『原発を動かさないと電力不足』で無駄に騒いで空中分解の結末だろう。迷惑な。

 再稼働を『目指す』とか布石めいた日本語を口走り始め、いずれ気ィ狂って強行突破にかかってくるってのが常套手段なのは判っている。ここぞのついでに『原発新設』みたいなトンデモワードまで滑り込ませてるし。
 ちょうど今あの国がアブナイ、この国が撃ってくると防衛費の必要性を焚き付けにまわっているのと同じだよ。こんなガセどこのどいつが何の手段で拡散し煽動を図るのか、やれ有線無線の回線を通して世を駆け巡る情報ってのは怖いねえ。

 まあ何も起こらなきゃ良いけどね…とはイチ国民としてもう言わない。
 一匹殺処分されてまだ判らないんなら、次があって当然だししょうがないんじゃね?

 さて、この世の中に何らかの規則性・規律性を見いだせれば、それを解き明かして望ましい方向に現実を仕向けるというチャレンジの楽しみがある。そっちの建設的な話題に戻そう。
 前回の、自我・主観・意識=次元軸コンセプトで語るなら、この世の森羅万象すべてはキホンx-y平面上で巻き起こっている『現象』である。その『現象』にできるだけシンプルな規則性を見出し、数学的な概念で表現を追求するのが物理学…とすることができそうである。
 木からリンゴの実が落ちる、その落下軌跡と速度の推移には、偶然絡みの不確定性は介在しない。落下中に風が吹いたり、温湿度の変化により空気から受ける浮力が変動したりもして、10回リンゴが落ちれば10通りの落下経緯が記録できるはずだが、厳密に言うとそれらもひとつひとつ物理学のシンプルな方程式ユニットの組み合わせで表現できる『現象』要因アイテムの複合成果である。

 これは想像力を働かせれば『物事とはすべからくこの世で一律に、そんな物理法則に従う道を選んでいる』とする理解の筋道が成り立ち、『従うことを選択している』というところに人間が普段から自身で感じているのと同じ『主観』『意識』が存在するという解釈が成立する。これがアインシュタイン先生が信じる『万物を支配する法則としての神』の真意なのではないかなあ【70】
 x-y平面上に太陽のマンガ絵の輪郭があると人間は赤で塗ってしまいがちなものだが、太陽のマンガ絵に限らずx-y平面上のあらゆる事物には、人間なんかいなくったって『こうなりがち』いや『こうなると決まっている』ものがたくさんある。その森羅万象を司る壮大な規則体系の存在感こそが、世界中の人間に等しく『神』の概念を抱かせたのではないだろうか。

 ここに、まだ人間が検知し切れていない『現象』があったり、検知はできているが数式の表現が追い付いておらず『予想』として研究対象になっていたりするのは、私にとっては何らの抵抗もなく普通に納得し受け容れられることだ。
 人類文明に大きな収穫と損害をもたらす森羅万象の恩恵と脅威は時空を超えて共通のものだから、人間の生活のあるところ例外なく自然信仰が発生している。その自然信仰で森羅万象に宿る『意識』を見出し、その意識の入れ物としての人格を見出すと、これが擬人キャラの神さまってことになるのだと思う。
 まだ文字も数学も測定器も計算機もない時代に、人間の成す社会組織の自我がx-y平面上の『現象』をなんとか測定し把握し折り合って制御しようとした、その試みが占いや祈祷の儀式だった。だから原始的な生活集団においては、占い師や祈祷師が組織の首長そのものだったり、そうでなくとも首長と対峙して等価の決定権を行使する要職となっていたのであろう。
 余計な文明アイテムによる高度情報の思考攪乱が無かった時代のスピリチュアル文化は、外界と簡素に関わりながら幸せに寿命を過ごそうとする人間の本質が顕れており、非常に興味深い。『星の巡礼』なんかはその現代適用版だ【1069】

 反面『超常現象』『超能力』みたいなオカルトには、もう最初から思い込み作り話の世界観を素通しで崇める目的しか見えない。目前の現実に対する好奇心と挑戦を投げ出して平然と怠けているようなメンタリティが感じられるので、私はオカルトが大嫌いなのだと自覚している。

 まあいいや、1億2千万人日本国組織の腹の決まり方にも、原発の暴走事故の発生リスクにも、ちゃんとこの世の道理ってものがあるんだよ。もちろん『賛成』が過半数ガチで採れないと1億2千万人の腹は決まらないし、原発の事故リスクを下げようにもこの地震国ニッポンでは負からない限界がある。
 そのへん理解できない無能ダメオヤジが威張って強権発動したり毒を吐いて黙り込むのを、いつまでも社会ぐるみの全世代ぐるみで許して放棄していたから、日本社会は経済を始め全方位に長期間だらだら低迷してきた。

 裏返せば、普通に現実を捉えて道理に沿った対応で動けば確実に改善する。
 新たな社会機運で、冷ややかに社会の『現象』を捉えるその視線にグッドラック!
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【1086】ぶれないジブンの鳥瞰3Dデータ構築法 [ビジネス]

 そうそう前回書き洩らしてしまったハナシから。
 くだんのお姉さんだが、人間ひとり生まれて育って、その過程で身につけたモチベーションだけで、果たしてここまで手段を尽くして食い下がれるものだろうか。私に比べて屁理屈の反応速度と反抗的プログラムの盤石性で見劣りするのはしょうがないとして、彼女もある意味マシンだったのかも知れない。
 昭和の時代、人間のこんな作動事例を指して『マインドコントロール』とする論調が大流行した。外力で人の心が操作されて、一般にはフツーでないとされる人格に陥っているという意味なんだろうが…それは本人にとってジブンなのか、それとも?

 今回こそ失敗しないよう早々に結論から行こう。
 『自我』『主観』『意識』なるものは、次元軸の概念で定義すると考えやすくなったりはしないかと思いついたのだ。

 例えば荒れ地に石ひとつ落ちていたとして、ただ実在する『状態』でしかない。
 それを眺める人間がいたとなって、そいつの内々に『ああ、石があるなあ』とする内容を持った『情報』の概念が成立する。
 さらに『いつからここにあったんだろう』『その方向に歩いて行くととつまづくなあ』などなど、時間経過を過去に遡ったり未来に延長したり、さまざまな派生的展開も拡がることにもなる。
 『荒れ地に石ひとつ』それ自体には現実としての変遷がチラとも起きていないのに、それを網膜の映像として受信する人間がいた途端、そっちの方に『意識』の展開が起きる訳だ。

 二次元座標の第一象限にx=1、y=1の点Pを置いたとする。石ひとつだ。
 この世界に垂直上向きz軸を新設すれば、例えばz=1の高さから点Pを見下ろすことができる。点Pの直上(x,y,z)=(1,1,1)から『点Pを真下に見下ろす』という相対的な位置関係が現れる訳だ。

 『ハイ新たにz軸を置くよー』に始まり、『どこからx-y平面を眺めようか』とそこにある現実を対象物扱いするプロセス、この新たな次元軸の追加が『自我』の正体であり、視点の選択および視点と対象物の、相対位置の測定行為が『主観』の働きかけであり、その結果として得た情報の記録・処理が『意識』ではないか…と、そんな考え方ってアリなんじゃないですかね。
 もちろん現実世界は三次元だし、絶え間なく時間経過とともにその三次元構造を変遷させる流体なんかはx-y-zの三次元に時間tも交えた四次元の方程式で表現される。人間が川の流れを見て思い巡らす場合は、五次元めの自我軸をどこかに立てて目前の現実を捉えているということになる。

 ちょっと難し過ぎてアタマがこんがらがるので最初の二次元イメージに戻って、まずx-y平面しかない世界にz軸をぐさりと立てて『我考える故に我あり』、次に、さあz座標いくつのところからx-y平面にある『状態』を眺めるか。これが『ものの見方』『現象の捉え方』『視野の広いヒト狭いヒト』『新しい視点』みたいな日本語で表現される概念の姿ということになる。
 荒れ地に石ひとつの『状態』も、『何たる不毛、この世の終わりだ』と見えたり、『未加工で拡がる自由空間、全ての始まりだ』と見えたりするではないですか、見る側の勝手だけで。1次元増えて、異質の特性概念が現れると。
 この『勝手でどうにでもなる不確定性』のところに、『意識』が発生するそもそもの可能性の起点があるのではないかと思う。ただの『状態』『偶然』が意味を持つのだ。
 ハイ、何事も自分がしっかりして、何事も気の持ちようってことです。

 こういう意識=次元軸モデルがまずあって、x-y平面上でナニか特定の絵、例えば太陽のマンガ絵の輪郭が出現したら、z軸や視点座標とは関係なく、人間という生き物はつい赤色に着色してしまう傾向を見せる。10人いたら7~8人は赤で塗りたがるだろう。
 これが無条件反射とか本能とかとしての人類共通の情報処理パターン、つまり人間という生き物がDNAに画一的な書き込み内容として備える標準動作プログラムだ。まあ~人間なんて大体そんなものだよ、ってやつがこれだろう。
 一方ちゃんと特別なコトとしてz軸を置いて『自我を確立』し、高さいくつかに視点を置くということが起こり得て、その場合は『意識による意思決定』が成されたということにならないだろうか。
 実は自分で考えといてまだ『ホントかよ?』なんて思っちゃったりもするんですが。また時間を置いて考えてみようっと。今はこのへんまで。

 因みに、こういうのは入眠時など半覚醒・半睡眠ぐらいの時にいきなり次の段階を思い付いたりする。やっぱり睡眠というのは記録情報のデフラグ処理をやっていて、そういう時に記憶ファイルの新規組み合わせや新規処理フローが発現してるんじゃないすかね【628】【629】

 いや、な~んにも知らない宗教団体がただそこにあって、自分の意思を持つ人間がそこに呼ばれて出向き、機械的動作として挨拶しただけなのでよく解りません…なんて言い訳が本当に立つのか考えていたら、上記一連の仮説を思い付いてしまったのである。
 要は、z軸を持たない人間が、現実の世を呆然と飯食って寝て、x-y平面上の『現象』として生命維持する限りはこうなるんだよな。こんなことまで考えなきゃならないような認知科学・情報科学的にややこしい特殊作業なのか、日本国の政治ってのは?

 以上、今回も変なボリュームになっちゃったので、かなり前からだが気になっている人間の認知機能系のトピックをひとつ紹介しておく。
 何も考えず、ちょっとそこらに鳥の絵を落書きしてみてください。話はそれからだ。
 上手い下手は一切不問、胴体から下に伸びている足の数は何本だろうか?

 少なくとも昭和の時代、どんなヘタクソに描かせても確実に足は2本であった。
 だが二十世紀の終わり頃つまり平成二桁あたり頃から、4本描いてしまう例が、子供だけでなく結構な成人年齢にも散見されるようになった気がする。
 何故こんなことになるのかというと、恐らく羽毛も生えていて恒温動物のイメージは知識として誰もハズさないため、『鳥=犬猫・牛馬とごっちゃにした動物一般』と暗記アイテム式に認識されているのだと思う。だが両の羽根が四肢と別カウントされていて、そこに関心が向かないんだろうな。
 以前にも述べたように、世の中意外と鳥が苦手な人は多いから【916】、そういう人が遠目に見る鳥の概形と動物の基礎知識の組み合わせで導き出す回答がコレということになりそうに思う。…でもさー、もうちょっと常識欲しいんだけど…
 羽根とは別に四本足を生やした鳥の絵を見かける度に、引き続き『ではダチョウを描いてくれ』『電線にとまるスズメを描いてくれ』と頼んだ時にどう反応するのか、どう迷ってどう描くのか、その結果を見た上で、本人が鳥の足についてどんな情報を定番化しているのか詳しく尋ねてみたいと思って生きてきた。でもチャンスが無い。

 では、絵じゃなくて構わないから、ただのメモ書きで十分だから、どこか世間一般に『宗教団体』とされている組織の催しに出向いた機会があったなら、そこでナニをしたのか、どんな良いコトがあると思ってそうしたのか、結果的にどんな現実があって良いコトだったのかイマイチのコトだったのか
 …と、そのへん現政権の全員にひと通り書かせて一覧してみたい。
 『霞が関文学』なんてのは、わざと同じ場所におっかしなz軸を立てて、普通なら誰も視点を置かないような奇妙キテレツな座標から、示し合わせのナニガシかの傾向で、わざわざの『意識』を動かしてんじゃねえの?

 ささ、あなたも御自身の関心事を紙面情報に落として上から眺めてみましょうか。
 その新たな発見と、幸せな希望の可能性にグッドラック!
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【1085】チャイム解錠で踏み込む無限階段の踊り場 [ビジネス]

 昔から集票目当ての活動資金目当てで法規適合スレスレ気味の組織とねんごろになる議員は一定数いるものだ。だが世襲のガキの銃殺事件にまつわる今般の諸事情は、まさかこんなことにまでなっているとは正直のところ認識が無かった。

 実は私は、成人社会人が自由意思に基づいて判断する限りにおいては、何を信条に集まろうが、何をその場に貢ごうが、他人が口出しする謂れなど無いと思っている。
 まあ宗教ありーの、新ビジネスありーの、この暑いのに頑ななマスク着用ありーの、何かに共感してそこに迎合するところまでは本人の選択である。迎合してみて『これは違う』と思ったらやめればいいのだし、そこでやめようとする自由意思が外力で妨げられるようなことがあるならば、そこからが基本的人権の阻害として問題になる。その位置関係だろう。

 現代文明国家として日本国は、ロジカルつまり情報メカニカル的に1億2千万人国民の総意を均等かつ最大限に反映して運営されることを想定している。どこか誰かの産物である『聖なるナントカの教え』『選ばれし誰ソレの導き』系の支配律を一切介入させない組織設計なのだ。
 この設計思想こそ誰もが義務教育のうちに社会科で習う『政教分離の原則』であり、日本国憲法の条文にその旨が書き記されている。こういう理屈っぽい文章が不得手な人でも、だいたいの感覚としては的をハズさず真意を理解しているのではないかと思う。

 小中学校で習いテストで回答記入したはずの『政教分離』を確かめておく。
 宗教は我が身や家族親族を見守ってくれる存在として、深く考えずに頂き物を供えたりお経を上げたり、何くれとなく日頃の習慣として心身を寄せる対象であるため、特定の政党など政治勢力にとっては選挙票や活動資金を集めるのに利用しやすいのだ。
 だから具体的な教義内容の如何に関わらず『原則無条件で、民主主義議会制の国家運用の攪乱ノイズとして国民に作用する』という理屈になり、故に『政治の意思決定フェーズから宗教の影響は断絶させよう』と憲法に書き記して、法治国家としてその順守を管理する仕組みになっている。
 民主主義議会制・法治国家としての日本国の正常な運営を管理するための憲法なのだから、逆にそれを守らなければ日本国の国家体制と正常な作動は破綻する。それが法律というものだろう。

 現状こんなことになってしまっている国家崩壊状態は、政治関係者層の1億2千万人日本国民に対する裏切りであり、これだけ不真面目を承知で破りまくってバレた以上は観念して出来心を認めて謝り、誠心誠意で償いになると思える処置を明け透けに見せつつ実行した上で、あとは首を洗っていずれの1億2千万人の断罪を待つしかない。
 日本国に大損害を残した本州の西の恥、あれからこれから狼藉の数々をやり散らかした世襲のガキだが、あの世行きと引き換えに本件が明るみに出ただけでも、一応その存在にはそれなりの意味があったという救いの行きがかりになるのかな。国家を狂わすこの重大な違法状態が人目につかないままだったら、日本国がこの先どんな壊れ方に向かっていたのか空恐ろしい限りである。

 おっとっと、別の話の導入に持ち込むつもりだったのに長くなってしまった。
 予定変更して、少々ボロっちい私の想い出話の消化で後半を埋めるとしよう。

 『宗教団体』となると見境なく危険視するのもどうかと思うが、一般社会通念としては到底あり得ないような高額の会員販売グッズなんかが周到に用意されていて、どこまで本人の自由意思の正常な判断力によるものかも怪しい大量購入の借金・破産騒ぎなんかも噂され、実質的にはただの催眠式集金システムになっている例は珍しくない。入信の新規勧誘もまたしかりで、会員制マルチ商法との区別は難しかったりもする。
 だがいずれも脅迫や暴力を伴わない自発行動であるからには『本人の自由意思』であることの客観的否定が成立しないため『外力操作による強要・強制』の判定が下せない。
 どっぷり漬かっている本人以外から見れば一目瞭然で不自然と映るはずの修行や奉仕、その本人もどっぷり漬かる手前でなら解るだろうに、立ち止まらず踏み込んだというのも不思議っちゃ不思議だ。

 私がまだ二十歳前の頃、一人で家にいたら真面目そうなお姉さんが来訪した。
 とりあえず何の用か判らないので話を聞き始めたものの、前置きがまどろっこしくてハナシがよく見えない。いいから何をどうしたいのかと尋ねたら、ようやく白状するには『お宅の御先祖さまが苦しんでおられるので、ワタシたちと一緒に鎮めて幸せになりましょう』みたいな目的であった。
 昭和末期の当時にして、実は今の時代よりも新興宗教の反社会カルト性による社会問題は有名だったというのが率直な印象なのだが、なるほど一人ないし数人が連れ立って家々を順番に回っていくという訪問勧誘は、住宅地あるある日常の1アイテムになっていたと思う。

 そんなのが飛び込み勧誘に来たワケだが、理系コースに進んだ超憎たらしい反逆ロック少年が平和につきあうはずもない。もちろん情け容赦のない意地悪質問の雨あられを浴びせた。
 『僕も御先祖さまと直接ここで話させてくれたら先を聞きましょうか』『何が苦しいのかさえ判ればウチで片付けますのでそっちを教えて』などなど苦渋の反応を確かめては面白がる狙いの非道の禅問答に連打されつつ、お姉さんも見上げた精神力で持ち堪え、遂には自身のわき腹を抑えて『痛い、痛い…』と玄関先に座り込んだのである。
 なんでも、御先祖さまが訴えておられるのだという説明であった。この私が改心しないと、この痛みはなくならないのだという。ほほう?

 そのまま居座られても面倒だし、当時の一般家庭にありがちなレイアウトとして我が家も玄関に固定電話を置いていたので、その場の目前で受話器を取り上げ救急車を呼ぶことにした。
 『いや、あなたが心を入れ換えないとワタシは治らないんです。助けて…助けて!』
 『あなたを救急車で連れて行ってもらえれば後は知らない。死んでも構わん』
 既に私はマシンだったのだ。

 結局どうなったのかと言うと、受話器を取り上げ躊躇なくプッシュボタンを押す私にまず『待ってください、待ってください』と慌ててすがりつき、A5版くらいの経典みたいなやつを取り出して、数十秒ぶつぶつ一人で読んだところ、めでたく完治されたのである。おや?どうしても治らないという痛みだったのでは?
 こんなに簡単に試して解決できる手段があるのに何故それを最初にやらなかったのか理由を教えて欲しいと頼んだのだが答えてもらえず、御先祖さまは怒っていたそうなのでお姉さんなんかでなく直接私を叱咤して欲しかったのだがそれも叶うことなく、多少お引止めしたのに、そそくさと帰られてしまった。
 う~ん、今の人生経験があれば教団の資本金や人員規模に人事構成など、もっといろいろ訊いておきたいことがたくさんあったのに…と今も時々残念に思う。

 この記憶は、のちに飛び込みセールス突撃場面の努力評価尺度の基準値となった。
 要はマシンでもない一般家庭の主婦なんかを相手に、この勢いの粘りで勧誘をかけていたということなんだろうな。例の銃撃犯クンが割とIQ高そうな家庭の生まれなのに、途中から母君がそっち方面に走っちゃったというのは理解できてしまう。

 …ってところで、次回はもうちょっとマシにサイエンスな話をする予定です。
 道理が立たなくても勢いで結論が出る会話というのはあるが、それは理性で定めた道理を無視しているのであり、そんな文化を何となくで見過ごしていてはこの通り国力が弱る。
 お盆を過ぎると、いくら暑くても『どこか許してくれる』感じがするなあ。ではバテないようにグッドラック!
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【1084】1億総動員の判決は『連帯責任』 [ビジネス]

 明日はまた終戦記念日だ。
 かつて本当に日本国は他国と戦争をして、もちろんそうなったら日本国民には『自国を守るため』という目的が問答無用で発生し、大勢の一般庶民がある日いつもの暮らしを中断して兵士となって他国と命を懸けて戦うことになり、最終的には無条件降伏として争いは幕を閉じた。

 今や信じがたい気の違った論理なのだが、ひと昔前に左巻きリベラルの政治勢力が盛んに吹聴していたのは『戦争をやるのは国の勝手、国民はそんな勝手に付き合う必要は無い。戦争をできるようにする国のやり方なんか無視して、ほおらみんなでアカの他人として叫ぼうよ、イチ、二のサンで、戦争ハンタ~イ!』というやつだ。
 御覧の通り誰も相手にしなくなって当然なんだけれど、まず戦争状態に陥るのを阻止する意図があるところまでは正しい。問題は、自分がそこに帰属しておいて国の勝手に付き合う必要は無いだとか、この世の社会性にあり得ない壊れた自己都合を一方的に言い放って、そこで問題への言及や考察を終わらせてしまっているところにある。
 戦争ハンタイ、それを叫ぶだけ叫んでぷいっと自分一人そっぽ向いたら、それが国家組織の戦争体制を無力にし、その時その場で行き詰まっている国家間の不穏な問題を鎮静させ、全員が自動的に丸く収まる『から』、いま好戦的な政策ばかり推し進めようとする与党には抵抗しよう、という理屈になる。
 アタマおかしいにも程があるぞ。実効力のある言論もせずできずで、平和志向を隠れ蓑にして万年野党を決め込み、議員報酬を収入にして生業として暮らしていくつもりなら、まあ確かにこうなるんだろうが。

 自衛隊が僅かでも増強されるとなると『平和ニッポンの軍国化だ、戦争の準備だ、敵を探している』とヒステリックに騒ぎ立て、学校教育でほんの些細な生活指導でも『これは画一的』と指摘できるものを見つけた途端『トップダウン統率支配の兵隊育成教育だ、独裁体制を目指す軍事訓練だ、ヒトラー再来だ!』とわめきちらしていたものだ。
 そっちの焚き付けで稼ごうと思う社会層がいなくなったので消滅したんだろうが、逆によくこんなものが高度経済成長期から半世紀ほども商売として続いたもんだと思う。

 だが小うるさいガイキチ左巻きリベラルが絶滅した今日、世襲のガキが銃殺された事実を受けて、あちこちの自治体が地元の学校に『半旗』つまり日の丸の旗を途中の高さで掲揚して、弔意を公的に表するように指示を忍ばせていたのだという。いま右傾一派が手を回したとか、地方自治体の側から国政に嫌がらせをされないため『忖度』を先走らせたとか、あほみたいな噂が飛び交っているようだ。
 本当に日本国民一同が認める大切な日本国の要人を失い、哀悼の意を広く共有することで異論が出ないという確信があるのなら、当日のうちに正々堂々テレビ屋が臨時テロップででも流して周知すれば良かったのであろう。
 なるほど日本社会をあげて到底そんなことになっていない真実の認識が浸透しており、カタチだけでも国家的大事件の絵にするために『オオヤケの目に触れない水面下でこそこそ強権』『この空気に気付ける忠犬は三べん回って旗上げてワンと答えろ』みたいなウラ号令になってたんだろうな。たいした葬式だよまったく。

 まずさ、2億円の葬式を出すなら100人で割りゃたった200万円だろ?
 議員報酬の他に、毎月別途落ちて来る100万円の、たった2ヶ月分だ。
 100人ぽっちで割るワケでもなければ、赤貧に耐えながら毎月100万円を丸々使い切って喘いでワケでもないんだろうから…ってここは領収書の公開が無いから毎月おいくら余してるんだか足りないんだかも判んないんだけどさ、ともかく全額国民の税金=国費負担にする理由なんかどこにも無くて、まず国会議員の持ち出し出資だけで完結させるんだろ、良識的な社会通念としては?
 どっか市民団体が世襲のガキの国葬扱いを憲法違反だとして予算執行を止めにかかっていたはずだ。それは国民目線で理解できる心情であり妥当な訴えだと思うし、ならば出資元を与党国会議員でまず引き受けさえすれば、こんな無駄な議論に工数とコストを掛けずに済む。あとは美しきココロの友たちで好きに割れば良かろう。

 ちょいと横道で、選挙の話題に行っとこうか。
 実はこの国葬否定の訴えは却下されたらしいのだが、正直のところ却下の根拠が我々一般国民に解りやすく語られているとは思えない。少なくとも現時点で『お上が却下というから却下、下民は黙って従え』という判決にしか見えないのである。
 兼ねてからここで問題にしているガソリン価格への『違法課税』はずっと放置されっぱなしだし、学術会議とやらの人数も未処置で音沙汰ナシ、こんな調子では司法機関が法治社会において機能しているとは全く認めがたい。

 さあ今日は投票日ってことで『どこそこ党の誰それに投票しよう』という目的意識で選挙の投票所に出掛けたは良いが、その本来目的の隣に並列で裁判官の採否欄があることに、現地で初めて気付いた経験のある人は多いと思う。
 『やらせていいと思う裁判官』あるいは『やめさせた方がいいと思う裁判官』に、各々それ相応の印を記入する…みたいなやつだ。

 私は近年『全員否定』で統一している。現職は全部やめてくれ、他を希望する。

 もちろん挙がった名前の一人ひとりで考え方や事情が違っているはずだとは思うのだが、何しろ投票用紙を見るその瞬間まで、イチ国民の立場から十分な個別情報を取れていて理解できているとも言えず、だとすると『こんな不可解な司法機関の体制が、不可解なまま現状維持されることだけは絶対に避けたい』、その一念に尽きる。
 こそこそ半旗を忖度で対応させるようなボロい葬式を、一方的に国葬扱いで合法とする判決だけ出して煙に巻くような司法機関は、イチ国民として到底認められない。そんな体制を薄らだらだら許している同僚もまるまる職域ぐるみで同罪である。
 司法職域の内情について私は詳細を知らないが、こんなあやふやな法規運営を見せる裁判所と、その同僚たる関係にある職員たちは、1億2千万人組織に確実に理解されるように自職域の正当性・適切性を証明しアピールし、その実効策を動かして結果を出さないとみんな揃ってクビになる…その現況は自覚しておくのがよろしいかと思う。

 断っておくが、私は組織の治安パワーの普及を非常に重要視する人間である。先生や警備員やお巡りさんや裁判所が、つい魔が差す手前で抑止力となる『怖い存在』でなくてどうする?
 言ってしまえば私は、少々の暴力や腕ずくは適宜に行使してでも、まず『組織の平和を乱す悪者を退治する』という社会機能を優先するタイプだ【1059】【1064】
 逆に社会全体が自組織の治安力の正しさを疑い軽視するようになれば、それは社会空間を律する『治安』の直感的認識=統治パワーを鈍らせることになり、つまりは世が荒れる。そういうことだ。

 そこまで立ち戻って再考証して、改めて『大衆の言動の同調現象』が何に引きずられてどんな時に起こるのか、その同調を起こさせようとする動機や強制力はどこにどんなものがあり得るのか。
 その暴走リスクの心配を最小限に抑えて、もう戦争に走らない安心安全の日本社会を維持するために、日本人個々人がどんな思考と判断と行動を心得ておくべきなのか。
 それを本気で考えようと言っている。私一人ではできない、みんなでだ。

 とても悲しくて辛くて、それでなお取り返しがつかないから、もうやめよう。
 だからこういう物事の進め方は金輪際しないと決めたのではなかったのか。
 何が『断行』だこの非国民インチキの自称内閣、ニ、三べん死んで来い。どあほが。

 明日の終戦記念日、美辞麗句の大喜利には無駄な時間を割かないように。
 こんな1億2千万人組織にしてしまったのは、他ならぬこの1億2千万人本人だってことだよ。みんなが直す一人ひとりにならないと、直す1億2千万人組織にはならない。
 ここまで理解して終戦記念日を迎えますか。今年も無事な日本に、グッドラック!
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【1083】松竹梅ナンバーツーのSDGs実力派 [ビジネス]

 盆休みに入っちまったし、この際もうちょっと竹ネタで走り切っておこう。
 竹は一本切り倒すと処置がやたら面倒臭いので、小中学校でトラック出して数本を山野で分けてもらって、校庭でみんなで御飯炊いてできるだけ効率的に軸の部分を使い果たし、残りを学校で処分する…という企画なんかどうだろうか?
 竹の一本~数本を持ち帰れば、ごく一般的な集合時間の設定で子供たちの旅費もかけずに、お手軽な教育プログラムが実現する。衛生管理もラクチンだし熱処理も強烈だし、食中毒の心配もなかろう。

 前回述べた通り厳密には竹は草なのだが、とりあえず樹木とひっくるめて大雑把にこの形の植物において、英語でいわゆる『幹』の部分の事を”stem”と呼び、上の方の『葉っぱが付いたわっさわさ』の部分を”crown”と呼ぶ。たまに日本語で『樹冠』という表現を使っている例も見かけるかな。
 まあいいや、山中で樹木を倒すとこのクラウン部分が超ウザいのだ。これのせいで、しょっちゅう他の木々に引掛かって倒れ切らないのでまず危ない。運よく倒れ切ってもクラウン部分の膨らみがあるので、枝を払わないと幹が地べたに沿って寝てくれない。
 寸断作業のため木立から引きずり出すにも、クラウン部分が他の木に挟まって倒れているのですんなり出て来ないし、まず鋸や枝切り鋏を手に枝葉の茂るモサモサを刈り落として運び出さねばならず、作業姿勢は悪いし葉っぱに紛れて何がいるか判んないしで、もう全てが鬱陶しくて厄介で面倒臭いのだ。

 故に持ち出しやすい竹一本ないし数本を切り倒したら、そのまま最短距離で引きずり出して、軽トラにでも積んで持ち帰ってまず広い校庭に放り出し、子供たちでステムを切り刻んで御飯炊きに使ってしまい、残ったクラウンは学校の組織力で処分…というのは、なかなか現実的な工程なんじゃないかと思う。
 今どきセン公の方があやふやなんだろうが、ノコギリの細目つまりピッチの細かい側を使って普通に引き切りの要領で結構、最も初歩的な木工作業だから誰もが安全簡単に切断できるはずだ。

 さて、山野整備において倒す竹は倒すとして、もし安全な竹林でまとまった時間を過ごすチャンスがあったなら、ハンモックを一度試しておくことをお勧めする。10センチ径ぐらいに育った太い青竹は、ハンモックを掛けるのには地球上で最高の強度支点だ。
 山中のハンモックは下の地面の無事を確保して吊らないと危険だからそこは注意するとして、確実に竹の節に引掛かるようロープの両端を縛る方法さえ心得ておけば、天にも昇る夢心地の反力で体重を受け止めてくれる。そうか、その前に。

 チマタが煉獄に喘ぐ猛暑日であっても、竹林の中は噓のように涼しい。機械装置も電力も一切介在させずに、人間がただの自然体でごく普通の感覚として『極上の快適』と完璧に言い切れる温湿度環境がそこにある。
 日は入って明るいが柔肌のお姉さんでも紫外線を心配することはないだろう。
 柔らかい風が全身を包むから乾燥を心配して化粧水が恋しくなることもないだろう。
 葉擦れのざわめきの先に、ひぐらしや野鳥など季節の涼やかなBGMが流れる。
 この私の体験記憶はせいぜい平成初期以降のものだから、もう十分に氷河期到来説は死滅し切ったその後、オゾンホールが盛んに騒がれ特定フロンガスの流通が駆逐され『温帯の日本が熱帯化している』とか『日本の四季から秋がなくなった』とか言われた時代にべったり重なる。実際ちょっと木立から離れた棚田のあぜ道に出ると、途端に今日と何ら変わらぬ猛暑日の感覚が間違いなくあった。

 人間どもがバカみたいに燃料を消費し高い電気料金を払って、冷媒コンプレッサーや送風ファンをがんがん回して、冷えすぎだの乾燥が心配だの文句たらたらの涼感をどうにか実現する空調技術は、この地球上でどんだけ効率の悪い物理現象なのだろうか。

 …お。竹が海岸線ぎりぎりに迫っている景色は見たことが無いので、潮風や塩土の影響とその周辺環境での植生維持に工夫が要るかもしれないが、大阪万博会場で期間限定ででも竹林を用意できれば面白いかも知れない。
 日本列島は、太古の昔から手放しでそこにある水と土と光と風だけで、ちゃんと日本人たちが心地よく過ごせる空間を用意してくれているのだ。こういうのこそが正真正銘の日の丸SDGsである。
 今どき田園風景に異常な勢いで割り込んできている太陽光パネルや、あっちこっちで無理な建設計画とその頓挫が報じられる風力発電ごとき、『太陽光を電力に変換しているだけ』『風力を電力に変換しているだけ』の不自然きわまる徒労プロセスであり、そういう非・文明的な無駄をやるために、一体どれだけ地球環境に人為的な悪影響を与えているのか、将来の時代を生きる子供たち若者たちにはまず興味を持って考える思考環境を用意してやりたい。どうかね万博アトラクション?
 一度竹林のハンモックを体感すれば、愚かで欲深な非SDGs老人どもが『継続』の屁理屈のもと、本当は何が欲しくて『いわゆるSDGs』をやっているのかがよく解ることだろう。見た瞬間、そこに謳われるゴリッパな『再生可能エネルギー』とやらの正体が直感できるようにもなるはずだ。
 何をもって『再生』という表現を充てているのか、『可能』だからといって何のできることを実現して、どんな自然由来相当の環境保護効果が得られるのか。

 さてさて総観的に竹という植物は、竹林全体で山野を移動しながら暮らしている巨大生物とする見方ができるという。確かに春には地下茎を伸ばして筍を林立させながら新たにその領域を拡張し、一方では立ち枯れして倒れて、その領域を畳んでいく。
 こっちの土地に侵蝕してきて欲しくない場合には小まめに生え出る筍を伐採し、ウッドデッキなど建築物で地面に直達する日光を覆うと、そこからは生え出て来なくなると思う。竹は先端部を作り足しながら伸びるため、根っこまで掘り起こさずとも地上部を切り落とせば、その一本はそこまでである。このへんは農地周りのしつこい雑草よりさっぱり素直に決着できて嬉しいんだよな。

 筍として食うには地表に頭を出す直前が良いとされ、地上数十センチになり葉っぱがちょろちょろ見え始めると、食えなくはないがアクの処理が大変になる。切り倒して半分に割って中身を食ったことがあるが、確かに出てきているやつは喜んでここで紹介するほど美味くはない気がする。
 竹の成長速度は非常に速く、これが僅か数日で数メートル級に育つ訳だが、まず新鮮でナマっぽい弾力の柔らかさを残しているぐらいのやつが御飯を炊くには最適なのだ。みずみずしくも神々しく果てしなく美しい内部空間になっており、これこそが極上の香りとなって白御飯に乗り移るのである。
 だが水分が多いので火が通りにくく、燃料となる他の伐採樹木や廃材が大量にあるシチュエーションで、炊飯というより焼却場作業の雰囲気でやれる条件でないとうまく活用できない。
 更に育って叩いてコンコン!ぐらいに乾いて固くなった青竹でも切り倒せば御飯は炊けるっちゃ炊けるが、こちらは火にさらすと時々はじけるので要注意だ。

 さてハンモックの話に戻って、ハンモックを吊るなら乾いて十分固くなった青竹でないと怖い。ハンモックは中央が一番低くなっていて形状の実体が無く、いざ身を預けようとするとどうしていいのか判らない人も多い。
 低い中ほどにまず座って、先に上体をハンモックに沿って倒してしまい、思い切って足の接地を放棄すれば、ぐるりと体重が低い位置に落ちて一気に乗れる。怖がらずに着地点を放棄するところがポイントだ。いっぺん乗っちゃえばもうサイコー!である。

 竹林のハンモックで身体を揺すると、二本の竹のステム同士がおじぎし合って、伐採には最悪だったあのクラウン同士がわっさわっさと音を立てるのだが、あれほど柔軟ながら信頼性高い支持力を私は他に知らない。
 竹の葉と木漏れ日に天上を覆われ、山野の音と風に包まれて寝落ちするひとときは、残念ながら例外なく昼寝の時間帯になってしまうのだけれど、この睡眠環境で一生行けたら人間はどんだけ長生きするのだろうかと思うほど心地良い。大枚はたくグランピングも素敵だけれど、自然が創り出す最高の快適に比べれば、豪華な外食と同様、出遭わないから知らないからといって執着心を燃やすほどのものでは全然ないと思う【1060】

 バカなオトナどもが『どこそこ有名料亭の和牛コースやうんたら一流ホテルの最上階で接待されてああ羨ましい』みたいな話を大好きなのは、要はこれまでの人生の時間をかけて、そいつの存在意義が日本円に金額換算しておいくら、その御利用額をお支払い…程度の価値観で物事が動く世界にしか到達できなかったからだ。あいつより高額のジブンは実力者でエライとか、何でVIPの俺がこのグレードなんだ、とか。
 だから経済が狂う。若いあなたがたは、そんな『哀れ』『惨め』を見憶えておきな。

 そうそう最後に、山野の環境での虫よけには蚊取り線香が最強なのだ。豆知識。
 庭や公園だとそれなりに使えている殺虫剤も空中にあえなく消えていくのみで、正直あっという間に吹き流され無力と化す。実感として蚊取り線香が最もよく効いて、持久性もしっかりあって重宝する。
 電池を入れてどうたらの除虫ツールは、ガチの山野で使い物になった記憶が無い。やはり日本の自然で、古来から重宝され今もポピュラーな伝統的手法というのは、それなりに実力派なのだろう。

 どっかの夏休み企画として、間に合うようなら御飯炊きからでもお試しを。くれぐれの絶対に、この日本列島の山野を荒らしてはならない。頼んだぞ。
 まず美味しい御飯を腹いっぱい食って、精神力と体力と思考力をつけましょうや。
 今夏いきなり試せる人も、当面は計画立案の人も、暑さに負けずグッドラック!
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【1082】ニッポン山野限定、祖国のグルメ [ビジネス]

 広島原爆記念日が過ぎて、明後日が長崎の原爆記念日だ。
 このところ明るいハナシをあんまりやらなかったから、夏休みの前半戦の今のうちに、またレジャー系の話題を紹介しておこう。

 皆さん鮎は上手に焼けるようになりましたか?慌てる必要はないんだけど。
 鮎は川底の石を覆う苔を削り取って食べるベジタリアンなので、血肉の生臭さが無いと言われている。串焼きにするぶんには二枚三枚に解体しなくていいし、サカナ苦手組もベジタリアンと聞けば細かいコト気にせずに、内臓だなんだもテキトーによけられたらよける、ぐらいで食えてしまうんではないでしょうか。
 最近では田舎のスーパーに限らず『観光やな』なんかでも養殖鮎が多くなっていると思うが、その養殖で十分美味いと思う。私自身は幸運にも釣れたての天然鮎には馴染みがあって【1060】、天然鮎と養殖鮎を目前で焼いての食べ比べまでやったことがあるが、やはりというか天然鮎は身が引き締まっていて脂は少なめ、なるほど淡白なヘルシー感には優るっちゃ優るかな。
 だが養殖の方が美味いとする声も実際聞いたことがあるし、確かに『脂がのっている』という表現で語るなら養殖に軍配が上がる。まあいいや、いずれにしても鮎の姿焼きは美味いよ。

 ついでに解説しておくと、鮎はベジタリアンなのでミミズをかけた釣り針なんかでは獲れない。苔の生える川底で縄張りを競い合って生きているため、『とも釣り』という手法を使うのだそうだ。
 生きたおとりの鮎を専用の形状の釣り針と一緒に糸の先につけて泳がせ、縄張り侵犯を見つけて追い払いに来たターゲットを『引掛ける』のだという。聞くからに上級者っぽくて私はやったことがない。

 先述の『やな』漁とは、主に竹細工の物干し台を急流の途中に設置し、ざる漉しの原理で打ち上げられた川魚を捕獲するものである。半分水没した川床みたいなところを普通に裸足で歩いて行って魚を拾い、樽に投げ込む…みたいなのどかな漁なので、観光施設にしているところも多いのだ。
 ブルーギルなど肉食の外来魚が二十世紀のうちに繁殖して居ついてしまっており、コイツらが鮎を捕食してしまう被害は相当なものらしく、つまりは獲れた鮎の樽にこういった肉食魚を放り込んではならない。やな業者はブルーギルが打ち上げられているのを見つけると、迷わず忌々しそうに手すりなどに激しく叩きつけて殺し、ずたずたに引き裂いて川に投げ込んでしまったりもする。

 それはともかく今回は『白御飯』のハナシなのだ。土鍋やお櫃で炊くと美味いよな。
 だが私としては、切りたての新鮮な竹で炊くのが地球上で一番だと思っている。

 御飯を炊くのに使うとなると半端なサイズではダメで、だいたい10センチ径で長さも30センチは欲しい。そうなると高さ5メートル級以上、つまり乗用車1台を立てた以上のやつを切り倒す必要がある。もちろん30センチ長の片端付近に節を残して、円筒容器として使える形状にするのが前提だ。

 先にクギを刺しておくが、絶対ひとんちの竹を勝手に切り倒して持ってったりするんじゃねえぞ。確かに竹は厄介な植物で、ほかっておくと地下茎を伸ばしてどんどん新たな地面にタケノコが生え出し竹林が農地を侵蝕してくる。その一方で、伸びきって寿命が来るとバタバタ枯れて倒れていく。
 この勝手に枯れて倒れたヤツにしても、いま切って倒したヤツにしても、とにかく山中に横たわる数メートルの竹というのは、本当にウザくて邪魔で足を引掛けるので危険なのだ。これを短いサイズに切り分けるのも大変だし、切り分けられたとして燃やそうとしてもなかなか燃えてくれない。
 だからこそ御飯を炊くのに使えたりするのだけれど、とにかく無限に生い茂る邪魔者だからと言って、ひとんちの竹を黙って切って持ち去るのは犯罪である。山林整備として計画的に伐採している所も多い。

 竹は植物としては草の部類なので、マジなノコギリさえあれば木材を切るよりは全然ラクチンに切れてくれるのだが、何より知識も準備も無く迂闊に竹林に踏み入ると、スズメバチやマムシやその他いろいろ、夏山の超ヤバい連中がどこからどんなゲリラ戦を仕掛けてくるか判ったものではないのである。日本じゅう長期休暇モードの季節に、遊び道具しか手元に無い山奥で、ただの怪我でもない生物毒にやられたとなると、この夏まるごと棒に振るほどの地獄の展開に一直線だ。だからやめときなさい。

 そうだな、竹は切りたてと言いつつ秒を争うナマモノ級の生鮮アイテムでもないので、どこか竹細工なり竹炭なりやっている観光地で、大事なお商売の邪魔にならないようなら御礼と換えて余ったひと節だけ分けてもらうとか、そのあたりでいかがでしょうか。普通にビニール袋にでも入れて、そりゃ新しいのが良いんだけど、今日じゅうぐらいでいっぺん試してみれたらいいな…ぐらいで十分間に合うと思う。
 実は竹で御飯を炊くと美味いは美味いんだが、付帯作業や後始末が相当に面倒臭いので、その覚悟は決めておかねばならない。そこは悪しからずのよろしく。

 私のイメージにある限り、竹筒炊飯に調理テクニカルな技量プロセスはあんまりなく、要はお米と水を普通に入れて、蓋はアルミ箔を被せて一応は周囲をできるだけ密着させ、内圧で吹っ飛ばない程度に熱に強い紐で鉢巻をする。ここを凝った経験はないが、本格的に完全密封してしまうと破裂して危ないんじゃないかなあ。まあ見てて怖いくらいヤバくなったら小さな穴を開けてやってくださいな。
 よくお櫃にお米を入れて手のひらを沈め、手首のくるぶしが漬かる深さに水を張れというけれど、もちろん手のひらは沈められないしよく見えないので、いきなりテキトーである。そして。

 初めちょろちょろ中ぱっぱ、じうじう吹いたら火を退いて、赤子泣いても蓋とるな

 …とか歌があるが、これだけ加熱条件が特殊だと何がどうだか判断のしようもない。
 成功の秘訣は、強力な火力で竹筒の下端を覆うように加熱し、下の方のお米が炭になる結末を厭わないことだと思う。上記の通り、所詮アルミの天幕では圧力を閉じ込められないので、強力な熱をかけて煮沸力で勝負する感じだ。
 竹は熱が通りにくいため多分『初めちょろちょろ』は自然のなりゆきとして再現できており、だからこそ『中ぱっぱ』がハンパにならないよう炎に包まれるぐらいにやる。その気概だ。
 じゅうじゅうは聞こえるので、これまたテキトーなところで火傷しないよう重ねた軍手で火から取り上げ、上下を逆さにしてボン!とそこらに置いて冷ます。竹のお尻がいこった炭状態になってたりするから注意。
 …以上だ。テキトーが多過ぎてすまん!

 最初は生煮えで失敗することもあろうし、うまくできたらできたで、大なり小なり底の方は竹もろとも真っ黒に炭化している。残念ながらこれを防ぐ手段は無い。
 普通のバーベキューとは区別して、これだけのために別格の火力が必要だという感覚が恐らく正しく、一般的な普通の歓楽バーベキューと一緒にやるのは諦めた方がいいかも知れない。
 なお御飯粒を粗末に扱うと目が潰れるため、失明したくなければ家庭菜園の土に丁寧に混ぜ込むとか、焼き切って何か消臭や浄水のデバイスに活かすとか、必ずせっかくの白米を一粒たりとも無駄にしない用途を工夫されたい。いついかなる時も食べ物を、特にお米を粗末にしてはならない。

 ま、できてしまえば竹の香り溢れる、この世で最高の白御飯が味わえる。
 かつてお米と一緒に出汁や具を入れていろいろ実験してみたこともあるが、それはそれで手をかけたなりに美味いんだけど、やっぱり竹の香りと白御飯の味だけが一番美味いという結論に出戻った。

 どっかの林間学校なんかでいかがだろうか。そう、食の幸せは値段じゃないのだ。
 とりあえず今回はこんな素朴グルメ実用ネタでいかがでしたでしょうか。
 一生のうちのどこかで試せれば御の字、至福の食事の想い出作りにグッドラック!
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【1081】猛暑の青空と灼熱袋小路の実況見分 [ビジネス]

 やはり8月になると終戦にまつわる思考が蘇ってくる。東北の大雨が盛夏らしからぬ大災害になっているようだが皆さまお大事に…と、まずはお見舞い申し上げておいて。

 昭和20(1945)年8月6日に広島、8月9日に長崎とふたつ原爆が落ちて、その一週間後の8月15日が終戦記念日だから、やはり原爆投下は日本の無条件降伏を決定的にした事実だったことが判る。
 裏返せば、その直前まで本当に日本国は強靭な抵抗力で持ち堪え、ああしてもこうしても陥落しなかったのだ。連合軍は日本の絶対国防圏をじわじわと割り込んで来て、遂に沖縄を目標に定めて上陸作戦の実行を開始した。こんな季節のさなかのことである。

 青空にギラギラと輝く太陽を見上げてあっつい暑い、汗びっしょりで日陰に入ってかき氷にアイスクリーム、夕暮れを前にして早くも熱風に吹かれながらビール!…など当時の世の想像力の隅にもない。
 視界に全く影の無い、つまり身を隠す物陰の無いさとうきび畑のまっただ中で、青空から何度も戦闘機が機銃掃射を浴びせてきた。沿岸からの艦砲射撃や空爆が始まると、もちろんエアコンなんか望むべくもない地下壕に取る物もとりあえず逃げ込み、入口を塞いで換気もできないまま鮨詰め状態で息を潜め気配を消して、あたりが静かになるのをただ待ち続けた。

 暑さと息苦しさに泣き叫ぶ乳幼児を抱いた母親が、敵の上陸兵に感づかれるのを避けるため、我が子の口を塞いで声が出ないよう抑え込んでいたら、そのまま窒息死させてしまっていた…というあまりに辛すぎる悲劇の言い伝えも、決してその苛酷さを誇張するための作り話ではない。
 沖縄でもないそこらへんでさえ、この時期にそんなことをしたら今どき何人が命を落とすか判ったものではない。中にトイレなんか備わっているはずもないし、阿鼻叫喚の戦火から逃れるその避難場所も大概に地獄だったのである。まさにその地点に焼夷弾が命中したり火炎放射器が向けられたりもして、二度と表の世界の風を感じることができなかった日本人が数多くいるという。
 みんな家庭や社会で普通に日常生活していただけなのに、なんでこんな目に遭わなければいけなかったのだろうか。
 だから戦争はしないに越したことはない。そうなりそうな他国があったら、全力で手を貸して制止にかかるのが人間の良心というものだろう。つくづく、そういうことだ。

 つい先日こともあろうに他ならぬこの日本で、防空壕の整備義務を仕込もうとする政治議論があったとの論述を目にして驚愕した。
 お隣の半島を仮想敵とみなし、要はあそこから日本本土を直接狙うミサイル攻撃があった時の備えとして、具体的には地下鉄の駅や地下街や地下駐車場などにシェルター機能の設置を義務付けようというのだ。
 一応そこに記述された日本語を普通に読んだつもりであり、私の勝手で粉飾も強調もしていないはずである。5年ほど前のことであり、その時は実行を決心せず議論までだったという話なのだが。

 気が狂っている。本当にこんな思想が日本国の運営に混ざり込んでいるのか?

 ここでは何度も繰り返している通り、日本国が一方的に国際社会の空間に『戦争放棄』を言い放つだけでは、その保証・管理はし切れない。
 日本国がただ一方的にその志を宣言して、武器を捨てて捨てたと叫べば、非武装を明け透けに見せびらかせば、それこそが麗しき不戦の誓いのリーダーシップ事例となり、世界中の人々が笑顔で手をつなぐ世界平和の実現への実効策となる…そんなオツムお花畑のアッパラ絵空事は、現実的な国務としての安全保障と次元を区別して語らないと、時間の無駄が出る。それはその通りだ。
 だがだからって、国民向けの地下壕をあちこちに公共事業で造るなどとは、日本国の公人が仕事扱いで一秒たりとも時間をかける課題事象ではない。

 …ま、セメント屋は思いっきり儲かりそうだがね。

 かつて無駄な公共事業と言えばダムに道路に僻地空港あたりが定番であった。
 日本社会の国民生活として必要も無いモノを、支配者気取りの一部少数が、国民総意の決断意思になりすまして、国務としての設備導入を勝手に動かしてしまっていたワケだ。もちろん税金資本の財源を特定の業界や事業所にお手盛りして、そこだけ優先的に潤沢化する目的である。

 今どき渓流を堰き止めて揚水発電がどうたらこうたら意味不明の屁理屈を展開しようにも、このところ見境ない太陽光発電や風力発電のインチキ推奨が目立ちすぎているので、そのおんなじクチで今さらダム計画なんか言い出せるはずもないし、異常な規模と機能の橋やトンネルを通してオーバークォリティの道路を伸ばすにしても、田舎だと充電設備の現実的な配置マップが成り立たないから、電気自動車メクラ押しの基本方針のもとでは、これまた早々に自己矛盾に行き当たってしまう。
 せせこましいカネ廻り目当てのムダ公共事業ばかり場当たりに繰り返していたら、時代の流れの中でコンクリ錬金術の上下流の辻褄が合わなくなって、自縄自縛で身動き取れなくなった感じである。

 この閉塞そのものは正しい方向の現象だ。
 国内経済圏という一定マスの閉空間が作動するにあたって、空間全体の良いコトにならない=生産性の無いウチワ都合で発生した非効率事業が生存空間を失って消えていくのは、本来自然のなりゆきだからだ。組織が良いと思わないものは廃れて消えていく。
 その昔は『どんな汚職まみれで意味不明のポンコツ事業でも、カネが動けばそれなりに景気が良くなるものだ』などとデタラメ空論がまことしやかに吹聴され、何だかんだで日本国民はみんな経済的困窮も感じずに生活できていたので見過ごされていた。

 汚職や意味不明のボロ事業をやるにも、どこまで社会にとぼけられそうか押し通せそうか、一応は守っておくべき世間体の一線がおぼろげながらに自然発生していたと思うのだが、コンクリ錬金術がいよいよネタ切れになってきて、近年は完全に傍目にどう映ろうがお構いなしの独裁強行色に塗り替わったと思う。
 『もしかしたら』ということになるのだが、世襲のガキが生前やたら防衛費を膨らませたがって水面下でこそこそ小細工して回っているという噂があったろう。
 ここ最近の落ち目は現・与党政権にとって気が気ではないはずだから、なけなしの政権基盤に大盤振る舞いするため手段を選ばなくなってきていると薄々感じていた。
 それがこの地下壕建設計画だったりはしないか。
 だとすると5年前の過去に、議論だけで終わってオシマイのはずがない。

 コンクリ錬金術の焼き直しと併せて、大東亜戦争で日本国組織が重々に思い知った知見をわざと風化させにかかる、まさに自爆テロ非国民集団の組織的犯罪の悪辣レベルが見えてきた気がする。
 なるほど日本国組織の逆鱗に触れたんだろうな。起きちまった事実はさすがに喜べないが、あの銃撃事件があってこそ日本国民の思考のまな板に乗ってきたものはあるな。

 すまんね、私はマシンなので『故人の想い』が社会組織のためにならないと判定したら、偲ぶより先に消去しにかかるようプログラムされている。
 かつて暑い夏のさなかに地下壕に潜り、そのまま亡くなった日本人が多数いた。多数の貴重な仲間の命と引き換えた堪えがたい痛みの記憶を、ナメて逆撫でして荒らそうとした愚か者を、組織は許さなかった。
 明後日、原爆を思い出す日本国と一緒に、一人の日本人として真面目に考えよう。
 現状日本をして税金資本で地下壕が必要だろうか?その結論にグッドラック!
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