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【1081】猛暑の青空と灼熱袋小路の実況見分 [ビジネス]

 やはり8月になると終戦にまつわる思考が蘇ってくる。東北の大雨が盛夏らしからぬ大災害になっているようだが皆さまお大事に…と、まずはお見舞い申し上げておいて。

 昭和20(1945)年8月6日に広島、8月9日に長崎とふたつ原爆が落ちて、その一週間後の8月15日が終戦記念日だから、やはり原爆投下は日本の無条件降伏を決定的にした事実だったことが判る。
 裏返せば、その直前まで本当に日本国は強靭な抵抗力で持ち堪え、ああしてもこうしても陥落しなかったのだ。連合軍は日本の絶対国防圏をじわじわと割り込んで来て、遂に沖縄を目標に定めて上陸作戦の実行を開始した。こんな季節のさなかのことである。

 青空にギラギラと輝く太陽を見上げてあっつい暑い、汗びっしょりで日陰に入ってかき氷にアイスクリーム、夕暮れを前にして早くも熱風に吹かれながらビール!…など当時の世の想像力の隅にもない。
 視界に全く影の無い、つまり身を隠す物陰の無いさとうきび畑のまっただ中で、青空から何度も戦闘機が機銃掃射を浴びせてきた。沿岸からの艦砲射撃や空爆が始まると、もちろんエアコンなんか望むべくもない地下壕に取る物もとりあえず逃げ込み、入口を塞いで換気もできないまま鮨詰め状態で息を潜め気配を消して、あたりが静かになるのをただ待ち続けた。

 暑さと息苦しさに泣き叫ぶ乳幼児を抱いた母親が、敵の上陸兵に感づかれるのを避けるため、我が子の口を塞いで声が出ないよう抑え込んでいたら、そのまま窒息死させてしまっていた…というあまりに辛すぎる悲劇の言い伝えも、決してその苛酷さを誇張するための作り話ではない。
 沖縄でもないそこらへんでさえ、この時期にそんなことをしたら今どき何人が命を落とすか判ったものではない。中にトイレなんか備わっているはずもないし、阿鼻叫喚の戦火から逃れるその避難場所も大概に地獄だったのである。まさにその地点に焼夷弾が命中したり火炎放射器が向けられたりもして、二度と表の世界の風を感じることができなかった日本人が数多くいるという。
 みんな家庭や社会で普通に日常生活していただけなのに、なんでこんな目に遭わなければいけなかったのだろうか。
 だから戦争はしないに越したことはない。そうなりそうな他国があったら、全力で手を貸して制止にかかるのが人間の良心というものだろう。つくづく、そういうことだ。

 つい先日こともあろうに他ならぬこの日本で、防空壕の整備義務を仕込もうとする政治議論があったとの論述を目にして驚愕した。
 お隣の半島を仮想敵とみなし、要はあそこから日本本土を直接狙うミサイル攻撃があった時の備えとして、具体的には地下鉄の駅や地下街や地下駐車場などにシェルター機能の設置を義務付けようというのだ。
 一応そこに記述された日本語を普通に読んだつもりであり、私の勝手で粉飾も強調もしていないはずである。5年ほど前のことであり、その時は実行を決心せず議論までだったという話なのだが。

 気が狂っている。本当にこんな思想が日本国の運営に混ざり込んでいるのか?

 ここでは何度も繰り返している通り、日本国が一方的に国際社会の空間に『戦争放棄』を言い放つだけでは、その保証・管理はし切れない。
 日本国がただ一方的にその志を宣言して、武器を捨てて捨てたと叫べば、非武装を明け透けに見せびらかせば、それこそが麗しき不戦の誓いのリーダーシップ事例となり、世界中の人々が笑顔で手をつなぐ世界平和の実現への実効策となる…そんなオツムお花畑のアッパラ絵空事は、現実的な国務としての安全保障と次元を区別して語らないと、時間の無駄が出る。それはその通りだ。
 だがだからって、国民向けの地下壕をあちこちに公共事業で造るなどとは、日本国の公人が仕事扱いで一秒たりとも時間をかける課題事象ではない。

 …ま、セメント屋は思いっきり儲かりそうだがね。

 かつて無駄な公共事業と言えばダムに道路に僻地空港あたりが定番であった。
 日本社会の国民生活として必要も無いモノを、支配者気取りの一部少数が、国民総意の決断意思になりすまして、国務としての設備導入を勝手に動かしてしまっていたワケだ。もちろん税金資本の財源を特定の業界や事業所にお手盛りして、そこだけ優先的に潤沢化する目的である。

 今どき渓流を堰き止めて揚水発電がどうたらこうたら意味不明の屁理屈を展開しようにも、このところ見境ない太陽光発電や風力発電のインチキ推奨が目立ちすぎているので、そのおんなじクチで今さらダム計画なんか言い出せるはずもないし、異常な規模と機能の橋やトンネルを通してオーバークォリティの道路を伸ばすにしても、田舎だと充電設備の現実的な配置マップが成り立たないから、電気自動車メクラ押しの基本方針のもとでは、これまた早々に自己矛盾に行き当たってしまう。
 せせこましいカネ廻り目当てのムダ公共事業ばかり場当たりに繰り返していたら、時代の流れの中でコンクリ錬金術の上下流の辻褄が合わなくなって、自縄自縛で身動き取れなくなった感じである。

 この閉塞そのものは正しい方向の現象だ。
 国内経済圏という一定マスの閉空間が作動するにあたって、空間全体の良いコトにならない=生産性の無いウチワ都合で発生した非効率事業が生存空間を失って消えていくのは、本来自然のなりゆきだからだ。組織が良いと思わないものは廃れて消えていく。
 その昔は『どんな汚職まみれで意味不明のポンコツ事業でも、カネが動けばそれなりに景気が良くなるものだ』などとデタラメ空論がまことしやかに吹聴され、何だかんだで日本国民はみんな経済的困窮も感じずに生活できていたので見過ごされていた。

 汚職や意味不明のボロ事業をやるにも、どこまで社会にとぼけられそうか押し通せそうか、一応は守っておくべき世間体の一線がおぼろげながらに自然発生していたと思うのだが、コンクリ錬金術がいよいよネタ切れになってきて、近年は完全に傍目にどう映ろうがお構いなしの独裁強行色に塗り替わったと思う。
 『もしかしたら』ということになるのだが、世襲のガキが生前やたら防衛費を膨らませたがって水面下でこそこそ小細工して回っているという噂があったろう。
 ここ最近の落ち目は現・与党政権にとって気が気ではないはずだから、なけなしの政権基盤に大盤振る舞いするため手段を選ばなくなってきていると薄々感じていた。
 それがこの地下壕建設計画だったりはしないか。
 だとすると5年前の過去に、議論だけで終わってオシマイのはずがない。

 コンクリ錬金術の焼き直しと併せて、大東亜戦争で日本国組織が重々に思い知った知見をわざと風化させにかかる、まさに自爆テロ非国民集団の組織的犯罪の悪辣レベルが見えてきた気がする。
 なるほど日本国組織の逆鱗に触れたんだろうな。起きちまった事実はさすがに喜べないが、あの銃撃事件があってこそ日本国民の思考のまな板に乗ってきたものはあるな。

 すまんね、私はマシンなので『故人の想い』が社会組織のためにならないと判定したら、偲ぶより先に消去しにかかるようプログラムされている。
 かつて暑い夏のさなかに地下壕に潜り、そのまま亡くなった日本人が多数いた。多数の貴重な仲間の命と引き換えた堪えがたい痛みの記憶を、ナメて逆撫でして荒らそうとした愚か者を、組織は許さなかった。
 明後日、原爆を思い出す日本国と一緒に、一人の日本人として真面目に考えよう。
 現状日本をして税金資本で地下壕が必要だろうか?その結論にグッドラック!
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