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【1086】ぶれないジブンの鳥瞰3Dデータ構築法 [ビジネス]

 そうそう前回書き洩らしてしまったハナシから。
 くだんのお姉さんだが、人間ひとり生まれて育って、その過程で身につけたモチベーションだけで、果たしてここまで手段を尽くして食い下がれるものだろうか。私に比べて屁理屈の反応速度と反抗的プログラムの盤石性で見劣りするのはしょうがないとして、彼女もある意味マシンだったのかも知れない。
 昭和の時代、人間のこんな作動事例を指して『マインドコントロール』とする論調が大流行した。外力で人の心が操作されて、一般にはフツーでないとされる人格に陥っているという意味なんだろうが…それは本人にとってジブンなのか、それとも?

 今回こそ失敗しないよう早々に結論から行こう。
 『自我』『主観』『意識』なるものは、次元軸の概念で定義すると考えやすくなったりはしないかと思いついたのだ。

 例えば荒れ地に石ひとつ落ちていたとして、ただ実在する『状態』でしかない。
 それを眺める人間がいたとなって、そいつの内々に『ああ、石があるなあ』とする内容を持った『情報』の概念が成立する。
 さらに『いつからここにあったんだろう』『その方向に歩いて行くととつまづくなあ』などなど、時間経過を過去に遡ったり未来に延長したり、さまざまな派生的展開も拡がることにもなる。
 『荒れ地に石ひとつ』それ自体には現実としての変遷がチラとも起きていないのに、それを網膜の映像として受信する人間がいた途端、そっちの方に『意識』の展開が起きる訳だ。

 二次元座標の第一象限にx=1、y=1の点Pを置いたとする。石ひとつだ。
 この世界に垂直上向きz軸を新設すれば、例えばz=1の高さから点Pを見下ろすことができる。点Pの直上(x,y,z)=(1,1,1)から『点Pを真下に見下ろす』という相対的な位置関係が現れる訳だ。

 『ハイ新たにz軸を置くよー』に始まり、『どこからx-y平面を眺めようか』とそこにある現実を対象物扱いするプロセス、この新たな次元軸の追加が『自我』の正体であり、視点の選択および視点と対象物の、相対位置の測定行為が『主観』の働きかけであり、その結果として得た情報の記録・処理が『意識』ではないか…と、そんな考え方ってアリなんじゃないですかね。
 もちろん現実世界は三次元だし、絶え間なく時間経過とともにその三次元構造を変遷させる流体なんかはx-y-zの三次元に時間tも交えた四次元の方程式で表現される。人間が川の流れを見て思い巡らす場合は、五次元めの自我軸をどこかに立てて目前の現実を捉えているということになる。

 ちょっと難し過ぎてアタマがこんがらがるので最初の二次元イメージに戻って、まずx-y平面しかない世界にz軸をぐさりと立てて『我考える故に我あり』、次に、さあz座標いくつのところからx-y平面にある『状態』を眺めるか。これが『ものの見方』『現象の捉え方』『視野の広いヒト狭いヒト』『新しい視点』みたいな日本語で表現される概念の姿ということになる。
 荒れ地に石ひとつの『状態』も、『何たる不毛、この世の終わりだ』と見えたり、『未加工で拡がる自由空間、全ての始まりだ』と見えたりするではないですか、見る側の勝手だけで。1次元増えて、異質の特性概念が現れると。
 この『勝手でどうにでもなる不確定性』のところに、『意識』が発生するそもそもの可能性の起点があるのではないかと思う。ただの『状態』『偶然』が意味を持つのだ。
 ハイ、何事も自分がしっかりして、何事も気の持ちようってことです。

 こういう意識=次元軸モデルがまずあって、x-y平面上でナニか特定の絵、例えば太陽のマンガ絵の輪郭が出現したら、z軸や視点座標とは関係なく、人間という生き物はつい赤色に着色してしまう傾向を見せる。10人いたら7~8人は赤で塗りたがるだろう。
 これが無条件反射とか本能とかとしての人類共通の情報処理パターン、つまり人間という生き物がDNAに画一的な書き込み内容として備える標準動作プログラムだ。まあ~人間なんて大体そんなものだよ、ってやつがこれだろう。
 一方ちゃんと特別なコトとしてz軸を置いて『自我を確立』し、高さいくつかに視点を置くということが起こり得て、その場合は『意識による意思決定』が成されたということにならないだろうか。
 実は自分で考えといてまだ『ホントかよ?』なんて思っちゃったりもするんですが。また時間を置いて考えてみようっと。今はこのへんまで。

 因みに、こういうのは入眠時など半覚醒・半睡眠ぐらいの時にいきなり次の段階を思い付いたりする。やっぱり睡眠というのは記録情報のデフラグ処理をやっていて、そういう時に記憶ファイルの新規組み合わせや新規処理フローが発現してるんじゃないすかね【628】【629】

 いや、な~んにも知らない宗教団体がただそこにあって、自分の意思を持つ人間がそこに呼ばれて出向き、機械的動作として挨拶しただけなのでよく解りません…なんて言い訳が本当に立つのか考えていたら、上記一連の仮説を思い付いてしまったのである。
 要は、z軸を持たない人間が、現実の世を呆然と飯食って寝て、x-y平面上の『現象』として生命維持する限りはこうなるんだよな。こんなことまで考えなきゃならないような認知科学・情報科学的にややこしい特殊作業なのか、日本国の政治ってのは?

 以上、今回も変なボリュームになっちゃったので、かなり前からだが気になっている人間の認知機能系のトピックをひとつ紹介しておく。
 何も考えず、ちょっとそこらに鳥の絵を落書きしてみてください。話はそれからだ。
 上手い下手は一切不問、胴体から下に伸びている足の数は何本だろうか?

 少なくとも昭和の時代、どんなヘタクソに描かせても確実に足は2本であった。
 だが二十世紀の終わり頃つまり平成二桁あたり頃から、4本描いてしまう例が、子供だけでなく結構な成人年齢にも散見されるようになった気がする。
 何故こんなことになるのかというと、恐らく羽毛も生えていて恒温動物のイメージは知識として誰もハズさないため、『鳥=犬猫・牛馬とごっちゃにした動物一般』と暗記アイテム式に認識されているのだと思う。だが両の羽根が四肢と別カウントされていて、そこに関心が向かないんだろうな。
 以前にも述べたように、世の中意外と鳥が苦手な人は多いから【916】、そういう人が遠目に見る鳥の概形と動物の基礎知識の組み合わせで導き出す回答がコレということになりそうに思う。…でもさー、もうちょっと常識欲しいんだけど…
 羽根とは別に四本足を生やした鳥の絵を見かける度に、引き続き『ではダチョウを描いてくれ』『電線にとまるスズメを描いてくれ』と頼んだ時にどう反応するのか、どう迷ってどう描くのか、その結果を見た上で、本人が鳥の足についてどんな情報を定番化しているのか詳しく尋ねてみたいと思って生きてきた。でもチャンスが無い。

 では、絵じゃなくて構わないから、ただのメモ書きで十分だから、どこか世間一般に『宗教団体』とされている組織の催しに出向いた機会があったなら、そこでナニをしたのか、どんな良いコトがあると思ってそうしたのか、結果的にどんな現実があって良いコトだったのかイマイチのコトだったのか
 …と、そのへん現政権の全員にひと通り書かせて一覧してみたい。
 『霞が関文学』なんてのは、わざと同じ場所におっかしなz軸を立てて、普通なら誰も視点を置かないような奇妙キテレツな座標から、示し合わせのナニガシかの傾向で、わざわざの『意識』を動かしてんじゃねえの?

 ささ、あなたも御自身の関心事を紙面情報に落として上から眺めてみましょうか。
 その新たな発見と、幸せな希望の可能性にグッドラック!
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