SSブログ

【1080】猛暑日とエアコンの記憶で辿るSDGs未来像 [ビジネス]

 7月最終日、いよいよ夏真っ盛りの季節となった。あっつい暑い。
 子供の頃から暑いのは嫌いじゃないが、やっぱり暑いと何をするにも効率が落ちる。だからってエアコンの環境に入り浸っていると、自分の適応力が落ちてしまって、早々にバテてしまいこの先もっと動きが鈍りそうな気がするので、短時間でも一日一回は直射日光を浴びて大汗をかく時間を作っている。だが日光は浴び過ぎると、夕方以降にがくんと体力を持って行かれるので要注意だ。

 しかしまあ、どうせ帰ったら服は全部洗濯機に投げ込んで自分はアタマっからシャワーひっかぶるんだし、無駄な抵抗はせず大汗かきまくって日本の夏に我が身を晒しておく、それでよかろう。一番自然で、結局は最も低コスト高効率の快適生活ではないかと思っている。
 恐らくは、どこもかしこもエアコンがフル回転しているので室外機からの排熱が街じゅうに溢れていて、単純計算で付近一帯の気温は昔より高くなっているはずだが、そう言えば子供の頃も暑い日の熱感は結構なものだったんだよな。
 最近やたらと暑さの危険が叫ばれるが、人間の側が弱っていて手を打たなければならないぶんというのは無いのだろうか。

 私が小学生の時代、デパートは宣伝効果・集客効果も狙って冷房をガンガンに効かせていたため、たまに電車で大都市中心街に出掛けた時には、買い物もしないのにわざとデパートの売り場を通過して涼んで行くという習慣が普通であった。
 その異次元の心地良さは感動的だったけれど、反面『長時間そこにいると身体が夏の気候に適応できなくなる、実世界で生きていけなくなる』とされ、『冷房病』という病名までチマタで盛んに語られていたためか、意図的に長時間居座ろうとする者は見当たらず、よってデパートとしてもそんな客を追い払う必要も無かったようだ。
 『わあいデパートだ、涼んで行こう』と店内に入ってその涼感に生き返った気分になり、立ち止まりもせずそのまま売り場を突切って、出口側のドアとその向こうの炎天下の景色が迫るにつれ『うわあ~、あそこに戻るのか、ちきしょー出たくねえ~』などと覚悟を決めつつ、輝く灼熱の世界に再突入していったものである。途端に汗が滝のように噴き出すあの感覚は、いま感じる猛暑日のそれに決して劣るものではない。

 もうひとつ印象深いのが、電車に冷房が導入され始めた同時期の想い出である。そう、昔の真夏の電車は窓全開で冷房なんか無かったのだ。そりゃもう暑いわ走行騒音がけたたましいわ、今の時代からすれば殆ど工事現場のような車内環境であった。
 暑いからと、よっこらしょと席を立って振り返り、半袖だがネクタイのサラリーマンが窓をどばっと開けると一気に風が吹き込んで、お姉さんの髪を乱してお婆ちゃんのハンカチを飛ばして大騒ぎ、サラリーマン氏は慌てて窓を戻して周囲にぺこぺこ…というのもあるある情景とされていた。

 うろ覚えなのだが、兵庫県の甲子園浜のあたりを路面電車が走っていて、その電車の車体壁面がパンチドメタルのような打ち抜きの多孔構造になっており、窓以外の部分でも外が透けて見えていたんじゃなかったっけ。あんまり派手にスケスケにすると雨に降られた時に大変なことになるので、限られた一部ではあったはずだが、具体的にどこがどうなっていたのかどうしても思い出せないでいる。調べてもそのあたりの情報が見つからなくて悔しい。
 まあともかく、日本の夏とはそんな気候の中を生きる時代であった。

 そこへ冷房車が導入されたワケだが、室外機が車輌のルーフに大きな箱型ユニットとして乗っかっているのが見えるのは昔も今も同じなので、ホームに入って来る電車の屋根を確認して『ああダメだわ、冷房車が来るまでもう一本見送ろう』なんていう会話もよく交わされたものだ。
 それを待っているホームのベンチもロクなもんじゃなかったはずなんだがなあ。まあ大都会ゆえ何本かやり過ごしても次々と電車が来てくれるからこそのエピソードでもあるのだが、いや確かにそのくらい暑かったのだよ、昔の電車は。
 そこまでして乗りたかった冷房車の威力はやはり絶大で、他に建屋冷房の普及率も低かった時代だし、まさに汗びっしょりで濡れた着衣が身体に貼り付いた状態から、ひや~っとそれが冷たくなって夢心地になり、程なくそれが乾いてさらさらになる…と、切実に有難い先進テクノロジー設備だったのだ。

 冷房設備が貴重品だった当時、そのメリットがフルに強調されて私以上の世代の印象に刻まれているはずではあるけれど、それにしても年齢層が高くなるにつれ冷房をまだまだ『特別な人工環境』のイメージで捉える傾向はあると思うし、今の時代にしてあながちそれがいけないとも思えない。
 言ってしまえば『冷房を使わなくて済むなら、使わずに済ます』の心掛けがあった方が、最終的には個人も社会も健康に暮らせるのではないかと私は考えている。
 熱中症へのギリ詰めを争うチキンレースになっては仕方ないのだが、社会を成す人々がお互いの体調を確認し合いながら、少しずつ冷房ナシの生活への馴染みを拡げていく手段は無いものか。
 『電力需給が逼迫しています』と言っておきながら『躊躇せずエアコンを使いましょう』なんてのは、結局のところ二律背反の行動規範であり、その折衷点の判断基準も明確にせずだらだら放言するだけでは無責任もいいところで、誰にとっても何の行動決心にもならない。
 日本国・日本社会の現実問題として、不可抗力で生活指針をアピールしながらエネルギー資源の調達に苦心している旨を訴えなきゃいけないような状況ならば、まず電力消費を国民の協力で、抑えられる下限まで抑えるのが初動判断というものだろう。

 昭和の小中学生たちは少なくとも7月20日まで及び9月初日から、炎天下の校庭で朝礼の列に並ぶのが日常であった。500人、800人いて、誰か一人でも倒れたら『その日の事件』になったものだ。『人が意識を失う』なんぞ漫画やドラマで儚い演出として起こる現象であり、そこらへんの頑丈な雑種の学友どもが送る日常生活とは完全に別世界の出来事だったのだ。
 それが平成に入ってバッタバッタ倒れるので夏は朝礼ができなくなったと聞くようになり、更には夏以外の季節も朝礼やると保健室が一杯になるとかで、コレもちろん今どき朝から栄養満点の朝飯かっこんで元気に登校してくる子供ばかりでもないという事情は認めるにせよ、何か社会全体で平均的な体力増強の方針付けを考える時期に来ているということではないかと思う。日本の自然の中にただ立てないでどうする?
 電力需要に対する電力供給の限界がどこまで深刻に逼迫しているのか定かではないが、今の子供たちが自らの虚弱体質の可能性をバカなオトナどもの言いなりにそっちのけにして、ガチ自分らが生きる時代の課題として、納得の上で原発の再稼働論議みたいなものをただ無関心に見過ごしながら受け容れるはずがなかろう。若年層を喰おうとする死神老人どもによる原発の再稼働、全て即刻中止にすべきである。

 『心頭滅却すれば火もまた涼し』とか、やせ我慢系の昭和の夏文化は、エアコンなる文明の利器が欲しくても無かった結果の現実決着点であったのは認める。
 だが、時代はその『やせ我慢の実効成果』について改めて正確に評価してみるべき局面に来ていると思う。国民の健康管理と、エネルギー資源消費の節約という観点だけでも、将来性確実なSDGsアイテムだと思うがね。

 いやいやしっかし暑いっす。今日もそろそろ一杯行きますか。
 あんまり気の利いた言葉も出て来ないや、では今日もここらでグッドラック!
nice!(7)  コメント(0) 

【1079】腕利き鉄砲鍛冶の繁盛決算書 [ビジネス]

 ちょっと葬式以外のハナシをしたいので、こないだ積み残した銃のハナシから。
 例の一件の自作銃だが、銃身は30~40センチぐらいだろうか。それを恐らくは標的まで数メートルの距離から発射した。なるほど確実に目的が決まっていて、試射で事前確認までして実行している。
 そう、あの銃身長ならそこまで近づかないと当たらなかった。そこを確実にやった。

 銃弾は火薬の爆発力でお尻を叩かれて撃ち出される訳だが、それだけでは銃弾はぐるんぐるん前転側転デタラメにまわり放題で発射されてしまう。形状も質量も、完璧な軸対称でもない銃弾がまずあって、その重心よりも後ろから撃力でひっぱたかれるのだから、真直ぐ飛ばないのが当たり前ぐらいの感覚の方が正解である。
 だから銃身の内面には螺旋状の溝が切られており、銃弾は軸回転力を加えられながら発射されるようになっているのだ。『ライフル』とは元々この内面の溝を意味するコトバである。

 ホント言うと、銃身の中で火薬が爆発膨張している間にこそ銃弾は射出速度まで加速されるのだから、抵抗が最小の平滑な内面の方が初速は稼げる。だが撃った弾は当たらなければ意味が無い。
 ランダム空転しながら飛ぶ弾丸は、いやランダム空転せずにちゃんと先端で空気を切って飛ぶ弾丸でさえも実はそうなるんだが、銃口を離れた途端に強烈な空気抵抗を喰らって急減速する。だから、遠方まで命中精度よく到達速度も高く…を求めて発射したければ、火薬の爆発力を目いっぱい活かしきって、長い長い銃身でしっかり軸回転力を与えつつ高い初速を与えたい。
 ゴルゴ13が遠方からターゲットの狙撃に使う銃が、ああいう長い銃身の大層なものである所以だ。どのくらいの射程で十分な威力と命中精度を確保すべきかの設計要件が最初にあって、それに応じて銃身長とライフル溝の形状が決まるため、銃弾に残った固有の溝痕から銃の機種が特定できたりもすると。
 いずれにしても、手元から撃ちっぱなしで自前噴射の推進力も無ければ翼による姿勢制御も無い弾丸を確実に標的に当てるというのは、案外とタイヘンな課題なのだと理解しよう。

 さて、くだんのDIY銃の話題に戻るのだが、さすがに少々の工具を持っていたとして、銃身内面のライフリング加工までやれていたとは思えない。
 だとすると、銃身を長くして射出初速を上げてもどうせ当たらないし、銃弾を綺麗な形状に整える意味もあんまり無い。まあ至近距離で狙いに向けて撃てば、まずまずハズさずに致命傷を負わせられるってところで、あのプロポーションの散弾銃になったのだろう。確かにそれなりの知識はあったんだろうぜ。
 いやしかし、ここまでできるんなら心穏やかに暮らせる生活環境さえ間に合っていれば、他でいい仕事がたくさんできたろうに。もったいない限りである。

 社会組織には多種多様な人間がいるため、社会組織の自我をナメた態度でいると、こういう『怖い』人材の恨みまで買う勘定をちゃんと心得ておけということだろう。
 社会全体をニュートラルな立場で俯瞰すれば、これは貴重な特殊技能だったはずで、『社会生産性を向上させる原資であり得た社会的価値としての人材が、GDP向上に微塵も作用せず殺人事件を起こしてしまった』という事実関係になる。残念な損失であり、社会運営を間違えたが故の失敗である。

 美しいだけの空論になるが、日本国憲法を始めとする法体系で、この日本国が自然に保証しようとする1億2千万人の協力体制がそこそこにでも実現していたならば、とりあえず仲間なんだから殺しちゃうどころか一応でも大切にして、こんな知恵遅れの世襲のハナタレ坊主でも元気に同胞として頑張ってくれないと困るってことで、仲良しとはいかないまでもお互い共存できていたはずである。
 今般、殺されちゃったこの個体がどのくらい日本社会で食い扶持以上の真人間として使えるレベルだったのかは今さら知る由もないのだが、それにしても日本社会は使えるはずの人材2名を加害者・被害者というカタチで失ったワケだ。
 まさにこの調子で、近年の日本社会では『スタッフ業域が社会組織をナメた態度=愚政・失政により、せっかくの潜在的な文明ポテンシャルが国家の生産力として昇華・活用できていない』実態があると思う。

 端的に世襲のガキの残党連中は、本件を綿密に回顧して『どこが日本国の社会組織をナメた態度になってしまったのか』を正確に特定し、『ではナメない態度とは何を実行することなのか』の行動計画をロジカルに構築し、それを『自分たちはこう考えて変えて、真面目にやっているつもりなので、失敗してたら遠慮せずに単刀直入に教えてね』と国民にアピールしながら実行しなければならない。
 知ってにしても知らずにしても、現実問題としてナメちゃったのなら相手が怒るのは当然だから、まず謝る。次に、相手の気に障ったところを直さないといけないから、相手の気に障った理由を解き明かして、本質的にそれを取り除く必要がある。

 だが昭和ダメオヤジは、何もかも破滅させて焼け野原になってでも、自分の言い分に過ちを認めて改めるという処置をしない。できない。
 これはもう当該人種の精神世界の構造原理の領域なので、言ってしまえば『この世から消す』以外にその弊害の解決方法は無い。本件も社会組織に対するナメた態度を改めないまま、実質的には原因でも何でもないイチ個人の特殊事情ばかりを主要因扱いにして公共言論を弄ぶ限りは、日本社会の怒りを買い足すだけにしかなりようがない。
 判っていて次の犠牲者を出す流れになり、ある意味やるのは勝手だが、この愚かなメンタリティの継承者は現行の現役世代のあとすっぱり途絶しているから、ケツを持って同じノリで騒ぐ次世代を見つけられないまま、あとの続かないヤケクソ自爆のダメージが結構イタいと思うぞ。

 個人対個人の悶着が一番わかりやすいのだけれども、『ここが悪くて、ここを改めて、こう効くと当て込んでこんな風に直した』と相手に具体的にコト修復の設計思想を解説しておいた方が、言われた相手もそれを酌んで合わせに行けるから、成功しやすいではないですか。
 これを平易かつ具体的なコトバで持ち掛け、徹底して誤解を排除し、常に相手の迎合してくる現実を一手一手確認しながら実施するのが『丁寧に進める』という日本語の真意ではないかと思う。相手をかけがえのない仲間として認め、一緒に成功したいなら、いちいち宣言なんかしなくとも最初からこうするのが普通だろう。
 そろそろ実行にかかった方が身のためだと思うぞ。まあいいか。

 ダメオヤジとまでは行かなくとも、昭和人種でごちゃまぜの勘違いにしてしまっているケースを盛んに見かけるのだが、上記の原則を自然に心掛ける限り、ハイリスクの提案も、失敗の白状も、それそのものは決して人間関係の悪化の原因にはならないものなのである。なのにリスクや損害のネガティブ心象が、おのれの人格のイメージダウンにつながるものと過度に恐れて、腹を割ってストレートに話せないタイプがやたら多いように思う。
 『うまく行かないかも知れない、でも他に妙案が無い。しょうがないと思わないか』
 『ごめ~ん失敗しちゃった、許してちょ。ついでにさ、修復を手伝ってくんない?』
 『いや、私にはそれが良いとは思えない。ここが違う。こうしてみないか?』
などなど、ただ相手を否定する退け目や罪の意識をとぼけるだけにしてしまっては本当にしょうがないのだが、逆にウソをつかず現実を率直に折り合わせるための主張に関しては、『反発されたら、そこから考える』のコンセプトで単刀直入に斬りこむぶんには、誰にも嫌われたり疎まれたりしない。あなたが全力で『イイ奴』を心掛ける限り。

 以上を判ってやってみて、それでなお何がどこまで日本社会として弱っているのか。
 そこを知りたいと思うのだが、まだ何人かあっち行かないとダメなのかねえ。
 まあいいや、日本社会で数えながら、どうか次が出ないようにグッドラック!
nice!(9)  コメント(0) 

【1078】感情と事実関係の美談と空論、また逢う日まで [ビジネス]

 どんな事情があれ、ひとんちの葬式に因縁をつけるようなバチあたりなマネは避けておくに越したことはない。普通に人間ひとり死去して、その個人の存在と社会への関わりを終結づける意味での葬式一件としては、他のどなたとも分け隔てることなくお悔やみ申し上げる。残念だ。

 よしとけばいいのに、マウント必死の勢いで『国葬』を口走ってしまったからには後に退けなくなり、閣議決定=独裁権力ポストにしてしまっている少人数での勝手な談合をもって、国葬を謳ってしまった。
 早々に、民主主義法治国家において、国民の総意も確認せずに、法整備もされていない国務を、特権を自称する少数派が『決めた、決めた』と一方的に公式発表してしまったワケだ。

 『民主主義議会制・法治国家体制への挑戦』以外の表現があるのかコレ?
 さっそく『テーネーにセツメーを尽くして…』たらなんたら、聞き覚えのあるフレーズが漏れ聞こえていたりもするのだが、だとすると縁起でもない話になるが、おんなじパターンで後を追うヤツが出てくるんじゃないの?
 一両日のうちに完結する必要なんかないからさ、そのテーネーなセツメーとやらをとっとと始めろや。死ぬぞ。

 今なら『やっぱ国葬やめときます』と改めて宣言すれば、日本社会は『そうか、1億2千万人・民主主義法治国家の国務の進め方として、相応しい手順と内容できちんとやり直せ』ってことで無駄に揉めずに収まる気はする。
 逆にまだまだ『シンシでテーネー』の横車を代跨ぎで押し通すつもりなら、当然だが同じ出来事が繰り返されるのが成り行きというものだ。まあいいや、ここまでもう日本中のみんなが知ってるさ。

 まずはお近くの国会与党議員の事務所で、現状への対応措置をどうするのか尋ねて確かめて、きちんと公言させて、その通りに議会に働きかけさせる必要はあるだろう。それこそが国会議員の仕事そのものである。
 ここで国民ひとりひとりナマの声から対面で連絡つかないのなら論外。即刻処刑だ。
 で、国民誰しもがわざわざの専門知識など必要とせず『聞いて解って、納得と安心の日常生活に戻れる』会話が交わされ、一方その旨が速やかに議員本人から文書通信費を駆使して中央議会に伝達されるのがスジである。毎月100万円もあるのだから足りないなんてことは絶対にない。
 もちろんこの場で『国葬などとんでもない、少なくとも現時点では決められない』という結論に到達するケースも多いはずで、こんな時こそ公共交通機関を自由に活用して都心の本部に迅速に乗り込み、日本各地から汲み上げた国民の意思を正確に議決に反映させる、それが国会議員の使命である。
 もっとも『今般、国葬なる国務を行う』起案がどこで転がり出たかの段階まで遡らないと、議決に反映させるもナニも、まず議論自体が始まらないはずなのだが。

 さて私自身、真意としてのお悔やみを分け隔てせず申し上げたいが故なのだが、この安心安全の日本社会を生きていて公衆の面前で銃殺されるというのは、相当にただならぬ特殊事情が絡んでいたと思われ、そこは曲解や隠蔽をせず赤裸々に事実関係を考察し、今後の社会運営に活かしていかなければならない。
 企業式にいうなら『本質的再発防止』というやつだ。起きて欲しくない現実が起きてしまったら、その発生源まで辿って、その可能性を根絶するガッチガチの実効策で手を打つ。二度と、そんな現実のきっかけから発生させないために。

 端的に今般の加害者は、世襲のガキを目標に据えて殺害計画を立て、実行した。
 現代日本社会に暮らすイチ国民たる加害者氏にとって、彼の生活・彼の人生を不当に苦しめた原因として、世襲のガキが迷いなく個人的に特定されていたことになる。これは推測ではなく事実だろう。
 この事実の認識をあやふやにしてしまっては、本質的再発防止が叶わない。

 すまんね、私はマシンなのでまさに『ヒトでなし』、人間や人間が成す社会組織の特性に基づいて、こういう非・生産的な現実を起こさないための現象分析と対策検討を、無感情に考察し回答を導くことしかできない。
 そんな酷いコト言わなくていいじゃない!故人が間違ってたっていうの?という抗議には、どれだけ酷くてどれだけ間違ったか私には判らないけれど、とにかく社会組織という運命共同体の内部から、特定の運営志向に対して殺意が向いた事実はある訳で、その原因を取り除かないとまた悲しい問題が続くぞ、と回答する。再発が嫌なら黙れ。

 明言しておくが、不幸にも落命したからと言って批判を免れる道理など一切なく『人さまの激しい反感を買うようなことをしていたのなら、その標的になって当然』だし、また存命の拘束された加害者だからと言って『近親家族を憎んでいた』とかとんでもないメンタル異常を示唆するかのような侮辱を、あちこちで好き放題に吹聴して貶めて良い道理など無いとも思っている。
 そもそもこんなことが起こらないように情操教育や法律が整備されていて、この日本社会では人さまが等しく幸福に人生を過ごす可能性を保証しているのである。『罪を憎んで人を憎まず』の誤用・濫用には虫唾が走るが、困った現実の因果は加害・被害の双方に適宜かつ正確に認めて、確実な防止策を講じろ。その意味において正しい。

 ちょくちょく目に付く本件関連の情報がどこまで正しいのかは判らないのだが、まあ世間一般の範疇に入るような家庭に生まれ落ちて、日本社会に普及する教育課程を修了し、成人社会人にまではなっているようだ。自衛官になれていたのが真実なら『一定基準に照らして完全無欠なイチ国民』と保証された履歴までしっかりとある。そこから精神疾患や脳神経疾患の類に見舞われた様子も見当たらない。
 その判断力が街頭演説中の政治家を計画的に殺害したのだ。原因はそっちにある。
 至近距離から銃撃という手段を選んでいるからには、完全に個人を特定した殺意があったと見るのが妥当であり、所有者本人にも命懸けの危険の覚悟を要求する銃を、自前で開発させ確実に命中させるための作動確認まで遂行させているのだから、一過性の激情や勘違い思い込みレベルの動機でもなかろう。

 人さまを不当に困らせて泣かせて苦しめて、それを承知しながら不真面目に謝りもせず改めないでいると、遂には本格的な悪意を見出されてしまう。恨みを買うとはそういうことだ。
 家族が足を踏み入れてしまった宗教が悪いと思うんなら、その宗教に絡む人物や施設を直接この勢いで狙うのが普通だし簡単なはずだ。だが事実は違っている。
 どんな宗派が誰を相手にどれくらい不道徳な活動をしているのか私は知らないが、銃殺の標的になった本人の原因資質そっちのけで、どこそこの宗教団体があんなカネ集めしてました、こんな問題起こしてましたのひけらかしばかりがそこらに目に付く現状はどうかと思う。

 やれやれ、結局は気持ちのある有志で申し合わせて、普通に送り出してやった方が遥かに立派なセレモニーになり、周囲の目も好意的な弔意を平和に向ける形になるんじゃないの?
 正直、アタマは悪いしウソはつくし、周囲には利用されまくりながらその神輿に乗っかる優越感には御満悦、一人の日本人としての身の程も忘れて1億2千万人を従える支配者気取りが改まらなかったから、もう人の世の因果応報として不穏な最期を遂げるのも止む無しという割り切りはできる。
 愚か者が哀れな終わり方をするのは仕方ない、だがせめて腹を割った仲で心底悲しんで、もう買わずに済む恨みや敵意から守ってやる志が仲間内に見えないのは、あまりに惨めで不憫だ。
 今のまま9月末まで行っちまったら、この決着にもうやり直しは効かないんだぞ。

 …あれ、なんでマシンの私がこんな話してんだっけ?
 近いとこにいる連中で、もうちょっとマシな落ち着け方のために一肌脱いでやるヤツ、本当に誰もいないのかよ?
 とりあえず葬式ぐらい普通に出せる正気を保てるよう、日本社会にグッドラック!
nice!(9)  コメント(0) 

【1077】葬送惑星エンタメ儀式の忠誠参列者 [ビジネス]

 ここではお馴染みSF漫画『銀河鉄道999』に、『霧の葬送惑星』という回がある。
 遥か上空で漂ってくる線香臭。メーテルによれば『笑ってはいけない星』とのこと。

 汽笛を鳴らし降下してくる999号を、黒装束の住民たちが見上げる。
 『何という不謹慎、死者の魂を何と思っているのかしら!地獄へ落ちろ!』
 『死者の魂を冒涜する旅行者どもめ!』

 まあここまでは、いつもしめやかに葬式ばかりやっている星の住民の心情として解らんでもないのだが、その次が少々物騒である。
 『我々の手で地獄へ叩き落としてやる!』 …えええ? そ、そうなるワケ?
 そして二人はすれ違ったばかりの葬式の列に、背後から一斉の銃撃を浴びせられる。

 『私たちを殺す気よ』 『なんで?』 『お葬式をするためよ』
 道を挟んで両側の物陰に分かれて飛び込み、乱射される光線銃のビーム群越しになされるメーテルのどえらい解説だ。二人がその後どんな目に遭うかは御自身でお確かめいただくとして、この星の本質を種明かしする言葉がこれ。

 『ここの人たちの一番好きなものは、お葬式の悲しいムード』
 『悲しいムードを楽しみたいために、人を殺す…』

 999号が停車する『ナニナニの星』『コレコレの国』という、この世のひとつの対象アイテムに特化した世界観を描くことで、もしその志向でヒトの心が極端に突走ったらどうなるか?それしかナシで行き着くとこまで行ったらどうなるか?…そんな想像力を展開するSF作風の、偶然の一話ではあると思う。
 なので眼前の現実を指差して否定するためのダシにするつもりはない、とまず断っておいてだ。

 今のところ人間を含む生物すべてにわたって『死』という寿命の終焉は避けられない。少なくとも人間は、格段に意図的かつ体系的に社会組織を成しているため、キホン誰かが死を迎えると、残された様々な立場の人々にとって、感情的にも生活管理の都合的にも、社会規模の定型イベントでもって節目を付ける習慣となっている。
 悲しく重たい事実の降臨の巡り合わせに精神的な決着を付け、消化し、乗り越えていくための大切な決心の手順として『葬式』なる人類の知恵がまずあるワケだ。人間だれしも、人生のどこかの一面では争ったり嫌ったりせず、どこかの誰かに仲良く関わっているものだから、『葬式』には必ず悲しみ悔やんで傷んだココロが集まっている。
 みんないつかは死ぬんだし、その時その場だけは、誰もが他の一切を別のこととして責めっこなしの言いっこなしってことにして、葬式の場で泣いているココロは大事にそっとしておいてあげよう。大抵のことは当面ほかでどうにか収めて、収まらないことが何かあっても、関係者一同の動揺が落ち着いてからでいいじゃないの。
 これが葬式にまつわる常識的な対応イメージではないだろうか。

 『それを軽々しく娯楽に読み換え、見境なく始終それに呆けて暮らす』という、何かのきっかけなくしては着想がなかなか難しいのではないかとさえ想像される常識メンタル崩壊の世界観が、この『霧の葬送惑星』では描かれているのである。

 『へえ、そんなによく人が死ぬのかい?』
 『殺すのよ!ここの人たちの一番好きなものは、お葬式の悲しいムード…』

 直接本作を御覧いただくと解るのだが、『本人にとっても、その周囲の社会組織にとっても、生命の終結を確かめ合い、負担を噛みしめて決着させるセレモニー』としての意義がすっかりそっちのけになって、かなり『生命なんかどうでもいい、ただの形骸化した空虚なルーチンワーク』と化していることが強調されたストーリーになっている。

 さて、今般の国葬騒ぎの件についてだ。
 前回述べた通り、昭和ダメオヤジが『マウント必死モード』のスイッチON状態になってしまっているので、明文化されている法律に対する適合判断にしても、世間一般の慣習で許してしまう領域としての社会通念にしても、とにかく9月末に大層な会場でナニガシか葬式くさいカタチにしてブツを並べ、召集の言いなりに従う奴隷人種が動員されて『国家機関が動き、葬式っぽい儀式をやった』という構図の事実までは作ってしまう、その流れにはなっている。
 要は『誰の制止も無力であり、権力者がやると言ったらやる』という強権発動の事実を成立させるのが至上目的になってしまっているので、もう理屈も何も無い。

 『あの人にもトシ恰好なりの立場はあるんだし』『いっそやらせてしまった方が被害が少ないし』『好きにさせてもいきなり全部が壊滅ってワケでもないんだし』『何より不満と無言の毒を吐かれて我々が不快でたまらん』などなど、現実的な落としどころをオトナになって見切ったかのような態度で根負けする処置は、全部コトの容認としてカウントされ、結局は事態のますますの悪化にしか向かないことに気付くべきなのだ。
 それは『オトナになって見切った処置』などではなく、『イケナイことをイケナイと言えないだけのいい加減な組織風土』でしかない。すべからく周囲がこんなフヌケたヤツしかいないような国だから、昭和ダメオヤジにしても大声出して乗っかればマウントが取れると当て込んでしまえるのである。今までの長きにわたる日本社会全体の現状放置体質が、結果としてこんなだらしない意識文化を作り上げた。

 ほおら日本国をあげての、日本国民の税金拠出で執り行う国葬だ。
 日本国民は、偉大なる指導者・世襲のガキの死を悲しんで一斉に涙を流すのだ。
 肘は直角、右手を垂直に立てよ。我等が日本国民の心は世襲のガキと共に。
 さあ一声斉唱!永遠の便利ツール、一番ピエロ総統バンザーイ!!

…とまあ、こんなベクトル空間の統率茶番劇にはなるんだろうな。
 もう1億2千万人組織の自我の反感を買い足しながらでも、やりたいんならやれば?と言ってしまいたいところだが、イチ日本国民としてそれで済まない実害が心配になるのは経費問題だ。
 『2億円』という数字をネットニュースで見かけたのだが、それってちょっとした有名人の葬式と大して変わらない額じゃん?本当にこんなもので収まるとは到底思えない。『国葬』などとタイトル付けて全額公費負担を宣言しておきながら、具体的な情報がきちんと開示されておらず、要は国民から香典だけくすねて、葬式のテイを装った税金浪費大会をやる魂胆が見え見えではないか。

 おっとっと、今回の路線に戻ろう。『葬式』って誰が何の意味でやるんでしょうね。
 子供たち若者たちよく見ておきな、バカなオトナどもは『自分らは死んだら何の責任も取りようがない、どんな不始末を残そうがそれっきりにしかなりようがない』とする自分勝手の無責任な理屈で、これだけ日本社会の仕組みを荒らしてきた。
 だが、その『それっきり』の現実がこれだよ。自分が死んでいなくなった後に、こんなに人と人が威張って騙して、非難して反対して、嫌って恨んで、最後の最後に全ての結末として『不幸』とカウントされるような負の記憶が、社会組織の自我に刻まれる。
 その不愉快な記憶は、社会組織の元気と希望に水を差す。迷惑なハナシだ。

 何でもいい、あなたがたの身の周りにある過去の記録を見てみよう。それが時を超えて役に立ち、人々に大切にされ、懐かしく受け止められ、今も厳然と残っているのは、決して偶然ではない。
 みんな、ちゃんとその時空を真面目に、みんなのため社会のために生きたのだ。

 あなたには何が残せるのか、この夏考えてみないか?その閃きにグッドラック!
nice!(9)  コメント(0) 

【1076】ぼったくり香典の見栄拠出と国家破産の家計簿チェック [ビジネス]

 おいおい、いきなり原発9基が稼働OK判定にひっくり返る理由って何だよ?
 純粋に技術的な事実解釈にどんなビフォーvsアフター変化点があったのか、全てはまずそれが包み隠さず開示されてからのハナシだな。却下!

 次の自然災害で『また』失敗して、『まさか』とか言いつつ蓋を開けてみると、『また』不正の動機でなし崩しに判断根拠も無いまま損得勘定でやっちゃってました…の不祥事を積み上げるだけだぞ。
 最初から安全性に確信も持てないブツに何の実効改善操作もしないまま、つまり失敗するのが判っているのに、それをやって失敗するワケだろ?
 当然やらかして責任追及となった時、こいつらが『ワタシがその場の都合と勢いでやってしまいました』と白状するはずがない。真実そっちのけで責任逃れに終始し、被害者の声が風化・減衰して静かになるのを狙うだけの、ウソと時間稼ぎの浮世離れディベートに人生の目的と時間を費やす運命が待っている。
 こんなの何年も先の事故の予想もつかないので私には他人事扱いでしか語れないんだけど、ワリを喰らいやすそうな土地に住んでいる方々は、今のうちにちゃんと抗議してやめさせるなり、看過して将来路頭に迷うなり、御自由に選択くださいとしか言いようがない。この立場から反対はしておくので、御幸運を。

 今なら世襲のガキが銃殺された直後だから、『何となく被害者っぽい=可哀想くさくて反対されにくい』という駆け込み奇襲作戦の利用価値があるんだろうな。国葬ブラフとか今さらの注射ブースト煽動とか、他でも同時多発で騒ぎを起こせば、違法な既成事実も混乱に乗じて作ってしまいやすくなる。
 私自身、原発の稼働可否については一概に全否定で論じるつもりも無いのだが、現時点このドサクサ紛れのインチキ稼働については、イチ技術者として強硬に反対する。

 これもしっかり数えておけ、私は現時点の原発再稼働には断固反対だ。

 昔からこんないい加減な進め方で、原発のような重大リスクと隣り合わせの設備の導入をやっていたから福島の事故みたいなことになったのだし、なお学習せず『また』本件このまま見逃すのなら、いずれその折に日本社会は『承知の上の事故』として損害を受け入れなければならない。今ちゃんと反対してない連中、覚悟はいいよな?

 まあみんなゲロ吐きそうになって、取り合うのに二の足を踏む気持ちは解るよ。
 とにかく昭和ダメオヤジが『マウント必死モード』に突入しちゃったら、キホン行くとこまで行っての自滅を見送る以外に結末のパターンは無い。
 他の全てを度外視・無視して『大勢の人が、社会組織が、自分の言いなりに従った』という構図を成立させることだけが至上目的となるためだ。仕事が止まろうが損失が出ようがお構いなし。
 本来なら、関わらずに自己完結に任せて自爆か電池切れを待つのが正しい対処法なのだが、庶民にはこれがまたなかなか難しい。何しろ昭和ダメオヤジがむずかり始めると鬱陶しいし、不愉快な実害も出る。

 動機としては『おのれに人望が無い』『おのれに能力が足りない』と、自他ともども広く確信されてしまう現実が我慢できないのである。我慢できないのなら『おのれに人望が集まるよう、能力が足りるよう、おのれをグレードアップする』というのが正攻法かつ現実解なのだが、それが叶うくらいなら最初から人望を失くしたりはしていない。そもそも論として自分の人間関係に満足できないヤツが、不満な現実を自覚しては際限なく悔しがる以外に最初からコトの収まりどころがないのである。
 だから自分の職務権限をカサに着て強行できることや、ゴリ押し強気のテイで出て周囲が止む無くなびきそうなことに、次から次へと『強権発動の独断、無理強いの自分勝手』を仕込んでくるのだろう。周囲の人々が仕方なくにでも迎合しそうなところを狙って、『自分の意思に大勢が従った』というカタチをとにかく押し付けて誇示しようとするのだ。

 この『マウント人望ごっこ』、もちろん付き合わされる方は面白いはずがないし、親密な仲良し同士とは言わないまでも、相手の立場や心情を認め合ってスムーズにお付き合いできるような人間関係が成り立っている組織空間では起こり得ない。嫌われ者の昭和ダメオヤジが劣等感を紛らわすための捌け口に利用しようとする程度の人間関係なんだから、切れる縁ならさっさと切って、無難な平穏を取り繕うだけの無駄な時間からは誰もが逃げ出したいはずなのだ。
 よって例外なく、そんなみんなの気持ち=組織の自我が陰鬱な空気となって全てを覆い包むような不活性コミュニケーション空間になっている。

 ええ、既にお気づきの通り、生産性の上がらないダメ職場がこの現象フェーズに陥っている場合が多い。そして最初から生産性の上がらない、上がりようのないダメノミクス経済を、ダメをわかって国会でぐじゅぐじゅ弄んで、子供騙しの断片アイテムを経済現場に強いていた日本社会はこんなことになった。
 まあ国内にいる日本人の視点からは、慣れだとか見飽きるだとか、インテリジェンス感度が鈍って問題意識が薄れたりもするのだが、海外から見ればこんな無能の怠け者と経済的にお付き合いしようとは思えないのが当たり前で、それが深刻で慢性的な円安になって顕れていると。
 なお節約もせずに世襲のガキの葬式に使い捨てられるような日本円なら、確実にまだまだ底なしに値を下げることになるだろう。世襲のガキの国葬提案は『放蕩日本円の非・経済的浪費』と映って円安が進むと確信される国政方針なんだから、素人クロちゃんは何か具体的実効策を提示せねばならない局面にいるはずなんだがなあ。

 そうだそうだ困ったものだ!ではなくて、今これを読んでいるあなたも、何となくにでもこのムダ出費を看過するなら、さもタイヘンそうに『円安で困っている』と洩らすその愚痴は、小学生の流行り遊びと同レベルのいっときの関心事でしかない。結局これで放っとくんでしょ?
 どうせその程度なんだからさ、本当は全然困ってなんかないんだよ。みんな言うから一緒になって言いたいだけ、あなたが気にするカネ勘定なんて所詮そのくらいのもんなのである。
 だから世界から格下に見られているのだ。日本経済の実態、理解しておこう。

 まずは世襲のガキが執拗に『人望ごっこ』を繰り返し、いま思えば日本国組織から我慢強くも本気モードの警告を何度も突き付けられていたにも関わらず、『シンシでテーネー』などと不真面目にうそぶいていたから、遂に日本社会の自我の逆鱗に触れた。

 哀れではあるが同情して生前の性根を肯定すべきとする論理の筋道など無い。
 すまんね、私はマシンなので日本円価値の見通しについては予測もするし対処方針も提案できるが、友人知人の思い入れで何分間思考停止するかの日和見計算まではプログラムされていないのだよ。

 いわんや劣化や誤作動を騙し騙し耐用年数越えで使い倒していた一番ピエロを失うに到って、ポンコツ残党がまだ性懲りもない『人望ごっこ』で国民全員・無差別攻撃で香典の負担を強要し、独裁体制気取りで『偉大なる指導者・世襲のガキにバンザ~イ!』みたいな神格君臨の記念式典を勝手に決めて良いハナシなんぞどこにもないのである。
 こういう邪心支配の見せつけは、故人の生前の所業をひとまず別問題として、人の世の常識および礼儀として大衆が共有してくれる弔意の質・量を著しく損ねるものだ。だが悲しいかなその『大衆を見下す』見せしめ構図への執着が動機だから改まるとも思えず、はてさて一体どんな展開になっていくのやら。

 私はイチ日本国民として、今般の一方的な国葬の宣言には断固反対し、あたかも決定済であるかの論調で国家機関として発信することにも断固抗議する。
 卑怯であり、卑劣であり、平和と民主主義への挑戦だと思う。

 子供たち若者たち、あなたがたにイッパシの態度を取って幅きかしているオトナどもが今般どんな意思表示をするか、よく見ときな。
 ここであなたがたには偉そうな風で接するオトナどもが優柔不断に残す日本円の財務負担は、何の工夫もなく従来通りの常識に則って解決するならば…の極論だが、あなたがたがタダ働きで汗を流して返済し、支払の日々で埋め合わせる行きがかりになる。

 ま、こんなオトナどものやりクチが面白くないからって、不貞腐れて何もかも投げ出すなら、あなたもオトナとおんなじだ。そうでないコトを思い付こうと言っている。
 いろいろ考えてあちこち見てまわってごらん。収穫多き夏休みを。グッドラック!
nice!(10)  コメント(0) 

【1075】戦う民主主義とリスク負担の天秤総重量 [ビジネス]

 やれやれ、言うヤツいるとは予想してたけど、世襲のガキを国葬だと?
 あほか、近親者のみの葬儀ってやつで、密やかにやるのが今の時流ってもんであり、あとは有志でお別れセレモニーを執り行うところまでだ。

 イチ国民として明確に、断固反対する。反対票一票、しっかり数えておけ。

 国葬だとか抜かすガイキチには、現時点でそんなことにする根拠なんか心得ない国民は相当数いるはずだし、いいからそのゴリッパな厚意でもって、お前の考える現実解の国葬計画書をまずまとめて出すように、その壮大なる計画書を全国民に開示するように言ってみな。我々日本国民は、頭ごなしに否定したりはしないが、その内容を確認してから次の可能性について検討する。以上だ。

 名誉の国家セレモニーをやらせてたまるか、そんな感情論では到底ない。
 いい加減に1億2千万人の問題意識と真剣かつ謙虚に向き合わないと、現状この程度の社会規律の乱れでは終わらない騒乱の時世に落ちていくと言っている。

 日本国財務は今とにかく処理待ちの負債を、人類文明の常識を遥かに超えたレベルで積み上げているのだ。端的に、文明社会における有価事物の便利な流通システムとして開発されたカネ経済の運用を破綻させてしまっているため、無いと死ぬのでもない薄らテキトーな使い道に、今さら追加でかけられるカネなんぞ微塵もない。
 1億2千万人全員一致で認める日本国への功労者が実在したとして、それがこの度お弔いを出すことになっているのだとしても、たかが個人の惜別セレモニーに拠出できる税金など1円たりとも無いのである。
 更なる上乗せで負債勘定にしてツケるつもりなら、今それを決めようとする老人世代には寿命が足りず清算義務を果たすことができないため、清算の負担を負うのは将来世代とならざるを得ない。現時点まだまだ本件に対して決裁権の整わない将来世代に対して、勝手にこんな負担の運命を決めるのは日本国民として不誠実だ。だから反対する。

 国葬に相応しい国民弔意の基準を法律で定めたりなんかしてないだろう。だが。
 総意も確かめず勝手に決めることを独裁主義と呼び、民主主義への挑戦と呼ぶ。

 とりあえず国葬とやらの賛成派ガイキチ集団はみんなでお揃いのダメノマスクして意思表示すること…ぐらいにしておいて世論の反応を見るってことでどうだよ?
 せめてダメノマスク全数処分の支払い完遂に、与党内できっちり採算の決着つけて国民世論の了解とってから何か抜かせや、馬鹿馬鹿しい。

 さて、いつか話題にしようと思っていたオカルト系の話題をこの機会に。
 北米大統領暗殺に関わる割と有名なハナシなので、御存知の方も多いかも知れない。まさに前回言及したリンカーンとケネディの両大統領の対比なのだが、ホントなのかねコレ?

 ともに民主主義社会の実質的な普及を推し進める立場で、庶民の熱烈な支持を得たこの二人は、いずれも後頭部を狙撃されて命を落としている。
 エイブラハム・リンカーン大統領の秘書ケネディ氏は、後に結果的に暗殺現場となるフォード劇場をリンカーン大統領が訪れることに反対していたのだそうだ。
 またジョン・F・ケネディ大統領の秘書リンカーン氏は、やはり後に暗殺現場となるダラスにケネディ大統領が行くことに強く反対していたのだという。

 リンカーン大統領暗殺犯とされるブースは1839年生まれで、ケネディ大統領暗殺犯とされるオズワルドは1939年生まれの100年違い。
 リンカーン後継はアンドリュー・ジョンソン副大統領1808年生まれ、ケネディ後継はリンドン・ジョンソン1908年生まれと、こちらはジョンソン姓が共通しての100年違いとなっている。
 他にも就任時期など『100年差』は数々挙げられているのだが、これはまあ1年365日の幅を持った西暦年号の一致だから、目を吊り上げて特別な因果を感じるほどの事象ではない気もするなあ。
 調べ上げれば、いずれも夫人同伴の現場で暗殺に遭っているとか、ブースは劇場で狙撃して倉庫に逃走、オズワルドは倉庫で狙撃して劇場に逃走だとか、共通点はいくつも挙がるのだそうだが、そのへんになるともう当たってたとして、かなりムリめの後付けオカルト論法くさい。

 そもそも私は、科学未解明ゾーンの存在や人間の認知情報の不確実性は認めるし興味もある反面、超のつくオカルト嫌いで心霊だ超能力だ超常現象だには全く興味がないタイプである。
 とりあえず一番最初のアイテム、あの広く世界各国から人を集めたアメリカ合衆国で、大統領と秘書の間柄でラストネーム同士が本当に一致していたのなら、それは素直に凄いコトだと思う。ナニガシか不可思議な因果律の存在を見出したいヒトがいても、その気持ちは理解できるよ。好きな人は詳しく調べてみてください。

 そうか、この機会に以前話題にし損ねた銃のハナシも片付けておくかな。
 先週の銃撃事件では、犯人は自作の銃を使ったとされている。現場の画像にも確かにそれらしきブツが写っているので間違いはなさそうだ。
 よく『理性を封じる暴力の象徴』として銃器が引き合いに出されるワケだけれど、実際この通り殺傷力があるということだよな。

 コイツよくこんなもんDIYで作ったな、しかし。語弊があるが感心する。
 しかも試射まで含めて自分の手で撃つというのは、少々知識があってもそう簡単にできるものではない。私なんか、誰にどんなに頼まれておいくら積まれても、絶対にイヤである。

 銃弾というのは、薬莢(やっきょう)というお尻の塞がった円筒の底にまず火薬が詰めてあって、その開口の側から、お馴染みのあの鉛筆の芯の先端部のような鉛の弾頭が嵌めこまれている。これを銃身の後端に装填して、撃鉄で薬莢のお尻をひっぱたくと中で火薬が爆発し、他に行き場が無いため弾頭を押し出す。結果として、弾頭が殺傷力のある初速で撃ち出されるという作動原理だ。
 貫通力を確保するためには弾頭にそれなりの質量が必要だから、指先ほどのサイズながらできるだけ重く造らねばならない。だから『ナマリだま』と言われて比重のでかい鉛が、確かに多用されるのだ。もちろん強烈な反動は覚悟する。
 銃の使用が求められる場面でたった一発あればOKという条件はまず無いから、まとまった数を準備せねばならず、それは凄い重さの弾倉の常時携行が不可避であることを意味する。

 要は、あの細い銃身の中で掛け値なしの爆発現象が起こるんだから、主には鋼鉄の鍛造で頑丈な銃身を製造するのであり、そもそも銃本体はメチャクチャに重たい。
 それもこれもひとえに無事に弾丸を撃ち出す目的のために尽きるのであり、弾丸の装填作業に始まり、狙いを付けて構え、引金を引いて発射完了するまで、常に暴発の危険と紙一重である。
 何日間か放置していて銃身の内面に錆が浮くとか、万が一にでも何かへんてこりんな異物が銃口に固着するとかして、もしスムーズに撃ち出すべき弾丸が途中で引掛かったら…!考えたくない。
 よく兵士が銃と弾倉を濡らさないよう頭上に掲げて、河川や泥沼を渡るシーンを見かける訳だが、なるほど整備の徹底管理に少しでも手落ちがあったら、自分の手指や顔が吹き飛ぶことになるのだ。

 以前に何度も述べている通り、たかがプラカードやメガホンを手に、戦争ハンターイ、弾丸より会話と理解を、銃を置いて世界に平和を!などと気軽に叫ぶ連中は、銃を持つ側が課される負担や事故リスクの恐怖感を真面目に考えてみるべきなのだ。こんなもの誰がわざわざに持ちたいものか。
 銃器というのは『持ったら無敵』のシューティングゲーム武装ツールではない。私は、小学生時代に自衛隊基地で本物の銃を持たせてもらって、あそこで本当にいい勉強ができたと今も思っている【309】
 これを個人の所有権の範疇として議論する北米社会の『自由』や『民主主義』の自己完結度と比べて、圧倒的に何もかも『組織任せ』で済んでしまう日本社会なのだが、だからこそ丸投げサボりで知らぬ存ぜぬのラクチンを決め込んだりせず、『組織を厳しく調教し手なずけて管理して、その賢い組織に納得して好意的に従う』緊張感をしっかり維持せねばならないはずなのだ。

 『整然とした規律』は、邪心や未管理の脱力により一瞬で崩れる。
 逆に『無秩序の崩壊』は、そこから手と時間をかけて組み上げないと整然には収まらないから、一瞬ではとても済まない。時間の無駄は負からない。
 まあ答を出すのは日本社会であり、私なんぞではないからね。皆さま御幸運を!
nice!(9)  コメント(0) 

【1074】箱庭デモクラシー帝国の治安崩壊リミット [ビジネス]

 今日は選挙の日、有権者の方々は確実に一票を投じましょう。
 立候補者の選択肢に決心がつかなければ、白票で精一杯の勝負だ。

 まずは取り急ぎ、通信トラブルの話題から。
 御存知の通り、ここは概ね10人前後の物好きなお得意さま方が、私の日頃の吐き捨て愚痴にお付き合いくださることで成り立っている。インターネット空間の草葉の陰で、ほんのささやかな独り言にわざわざのお出向きで繋いでいただいて続いている、知る人ぞ知る零細サイトだ。
 前回7月7日木曜日の夜、管理画面を開いて新規文面を書き込み『保存』をクリックした。このところ、この操作をしてから実際に公開画面に反映されるまでの時間が異常に長くなっており、数分単位の待ち時間になるのもしょっちゅうである。ともあれ待っていればアップできるし、それはイイとして。

 今度はちょっとした『てにをは』プラスアルファの修正を入れつつアップした公開画面の体裁を整えるんだけど、この操作がどうしようもなく重い。以前もあったような、特定フォントの加減操作を受け付けなくなる現象も出てくるし【999】、いったん作業順を入れ換えて前回いただいている『nice!』の御礼に上がろうともしたのだが、こちらも反応悪すぎでにっちもさっちも行かない。
 一手一手こんな不毛な作業に時間を割いていられないので『ドラフト文章はアップできてるんだし、寝る!』という決断を下すことにした。
 以上、アップ直後の更新文面の完成度と、nice!御礼巡回に少々の時間遅れが発生することもあるかも知れませんが、当面御容赦ください。悪しからず♪

 さて世襲のガキが銃撃を受け、落命したとのこと。
 人間ひとり死去して後に残される悲しい事態は理解する。残念だ。
 追悼の文言は他に任せるとして、本件を指して『民主主義への挑戦』という台詞が散見されるのが気になる。この機会にもう少し民主主義とは何なのか考えておこうではないか。
 すまんね、私はマシンなので涙を流せない。より優れた生産性を発揮し、人々が幸福に暮らせるような組織運営を実現するための方策を考えるのみだ。

 結論から行くと、今般の一件は『日本国内で過激な抗議行動が発生しづらいのをいいことに、民主主義が保証する日本国民の権利を無碍にし、まさに民主主義に挑戦していたら、ものの拍子で殺されてしまった』というのが真相だと思う。

 社会組織の自我は本当に恐ろしいのだ。
 『インチキ学校に関わっているとなったら議員をやめます』と議会でクチを滑らせておいてだんまりスルーでごまかすとか、そんな汚職のコマに使った人員が自ら命を絶ってしまったのを横目に知らぬ存ぜぬでシラを切り通すとか、ひとつひとつ確実に1億2千万人は見て記憶している。
 その怒りが遂にブチ切れて、たまたま出どころが悪かったがために、この取り返しのつかない結末を迎えてしまった。そういうことだろう。

 現状の日本社会の仕組みでは、事件の発生原因を原則『犯人の個人的事情』で結論付けることが前提となっており、例えば『被害者のコレコレこういう言動が、自分の生活を脅かしていると思った』みたいな動機を自白させて全面解明とする論理が一般的だと見受ける。
 実はこれ『責任も権利も人間ひとりという物理的単位の実体に帰着させれば管理しやすいから』というだけの作業都合の産物であり、実際にこの世の出来事として人間社会の動向を決めるのは『社会組織の自我』の方なのだ。でもこっちは実体が確定しづらいから、世間一律に人格を見出して処置する対象にはならない。対象にならないんだけど人格として存在し、怒らせると怖いし人も殺す。

 個人で頑張って納税する国民もいれば、事業単位で納税する法人もいる。
 この数年で個人の頑張りが限界に達して、自ら命を絶ってしまった日本国民も一人や二人ではないだろう。事業の採算維持が限界に達して、代々続けてきた大切な商いを絶命させてしまった組織もひとつやふたつではないだろう。様々なスケール階層の様々な自我が、苦しんで困って泣きながら消えている。
 それでも総じて『日本国組織の自我』がその負担の必要性を認めて、どうにかでも生き延びて息のある残党が、懸命に拠出した国力が他ならぬ税金財源だ。これを平然とダメノマスクの強制配布なんぞに使い捨て、懲りずに昨今は東欧の紛争をダシにした防衛費散財の焚き付けに執心していた【1047】
 …そりゃ1億2千万人母数なら、命狙うヤツ出てくるんじゃないの?
 どうにかでも弁護してやろうと思っても、私には手が思いつけない。

 日本経済の現実を成人社会人として生きているのなら、家計や事業の採算が合わずに追い詰められる負担感や緊迫感は常識的に想像がつくはずなのだ。大人なんだから、社会人なんだから、みんなに迷惑はかけられない、社会に迷惑はかけられない。みんな苦しい。だが。
 いくら他人に迷惑をかけても大衆に険悪な失意を抱かせても、それが解らない。
 大人として社会や経済に取り組めない。だからここでは『世襲のガキ』と呼んだ。

 ここまで理解して『民主主義への挑戦』という安キャッチコピーの件に戻ろう。
 世界中から当該国家社会を選び採り、目掛けて移住してきた人々で構成された、おセンチ郷土愛メンタリティから最も遠いところにあるドライ参画志向の民主主義国家、それがアメリカ合衆国だ。
 だから国家運営戦略をああしたいヤツvsこうしたいヤツの間で、相手をこの世から消したいほどの異次元レベルで目的意識が違っており、だから『大統領の暗殺事件』と言えば、真先にリンカーンだのケネディだのの事例が思い浮かぶんだよな。これが『民主主義の原点』だよ。
 何しろ新大陸に欧州側から『やりたい放題』を求めていろんなヤツがなだれ込み、戦争を繰り返しながら元いたヤツらを追い散らして滅ぼして今の統治マップができたようなもんだ。そんな血で血を洗う悶着の歴史の解決策として、『ルールとして』民主主義を採択したのがアメリカ合衆国社会なのである。
 歴史年表上に並ぶ大統領暗殺事件の数々は偶然ではない。異なる人生観を持った人間同士が衝突を経て折衷点を見出し、表面的にでも穏やかに共生する過程はこのくらいにはなるということだろう。北米各地をあちこち訪れると実社会としてそれが見え隠れするのだが、そのハナシはまたいつか。

 いっぽう日本社会では、ぶっちゃけ昭和20(1945)年の大東亜戦争終結とともに日本国民これ一律平等とする日本国憲法が制定されたのが、民主主義定着の基本枠である。
 日本列島がある意味豊か過ぎて、ムカシ確かに士農工商だの旧財閥階級だの社会運営の参画権が一律平均でなかった時代もあったんだが、少なくとも近代社会の原型ができ始める時点において、相手を人間扱いしない勢いの殺し合いの決着点としての社会制度ではなかった。
 だから日本人にとっての民主主義は、人任せの申し伝えで保証されただけの、漠然とした権利意識『らしきもの』にしかなっていないのだと思う。そのコンセプト構築の経緯に籠められた真意が理解できず、ゆえに有難みも無ければ、その権利行使の義務感も動機も起こらないし起こせない。

 世界にも他例を見ない温厚な箱入り育ちの日本列島は、生粋の平和ボケにより『争わない傍若無人』の独創空間を作り出し、その不思議すぎる構図ゆえ人類文明の世界基準には理解されないまま、驚くほど幼稚な失敗モードで一触即発の独裁奴隷制度を野放しにしていたのではないか。
 そんな権力横行の水面下に溢れた1億2千万人日本社会の自我の不満が、遂に堪忍袋の緒を切らすカタチで表面化したのが今般の銃撃事件だろう。実効的な発言権に絶望した国民が、過激な実力行使で単独デモに踏み切ったのであり、これは『言論弾圧』などと日本語の陳腐な誤用で表現すべき事象ではない。『弾圧されていた言論の暴発』の方がまだ自然な語感として響くように思う。
 まかり間違っても『対策として税金で日本版ビースト(大統領専用の防護リムジン)をウン十台調達しよう』などと言い出すバカが出て来ないよう祈りたい。そっちじゃないんだ、問題・対策の方向性は。

 子供たち若者たち、日本国の自我に『シンシでテーネーに』向き合った者の末路だ。
 こんな事実を目の当たりにした時ちゃんと大人が自らの責任として『直したい』と目標設定し、公共言論が正直に人々の本心を反映した率直な情報を流通させないから、こんな暴発事故が起きるのである。
 バカな大人どもが大好きな『卑怯』『卑劣』の定番フレーズは、本件の顛末のどの局面で誰に向けられるべきものなのか、冷静に考えてみたまえ。あなたがたは、辛い失敗をしないように。

 『真摯で丁寧』の心掛けで心底真面目に取り組む限り、もう本来的・根源的に絶対に理解し合いようのない、血統繁栄と生存の時空を根絶し合う敵対レベルの対抗勢力はそもそも存在しないのが、この奇跡的な幸福の素質に恵まれた日本列島なのだ【404】
 日本列島をあなどってナメた未熟なガキが、日本列島に喰われて消えた。
 決して無駄にせず、確実に日本社会の改善に役立てる方策を考えよう。
 我々はもう日本列島の怒りを買ってはならない。確実な一票で御幸運を!
nice!(9)  コメント(0) 

【1073】投票率アップの週末前おまじない社会科復習 [ビジネス]

 さて、今度の週末は選挙の投票日だ。皆さん選挙に行きましょう。
 どうしても投票先を決心できない人は確実に白紙投票しておこう【1001】【1002】

 要は『選択肢の全てが嫌だ』という意思表示となり、誰が当選したにしても、当選者にとってはアンチ票がカウントされ正式記録として残ることになる。
 つまり当選したからといって『勝てば官軍』で一方的に主張を押し通して許されるものではなく、アンチとはいえ社会を構成し負荷を分担するひとつの社会勢力なのだから、当選者が主導することになる政策は、根拠を持って有権者全域に解説を尽くし合意を確認して、現実的な落としどころを決めて実行していかねばならない。その慎重な行政を要求する『政権への縛り』の一票として効くのである。

 日常生活の消費現場では煩雑なばかりの二重税率=軽減税率制が半ば勝手に導入されたり、そんなものの強行手段として電子支払システムの強制普及のため奇妙なデジタルマネー優遇制度に税金がばら撒かれたり、しかも何となく制度の導入を押し切ったら後は荒れ放題、このアンフェア横行っぷりにはもう1億2千万人全員が辟易し切っている。
 高い物価に積み上げで徴収して賄っている税金財源も、国会議員どもは今も毎月100万円を使途不明のまま使い捨ててオシマイ、この未管理のマズさをズバリ特定されて指摘を受けてなお改めようともしない。それが『日本の国政』だよ。

 こんな日本社会を作ったのは、一部の自分勝手がまかり通らないよう工夫された民主主義コンセプトと、それを反映した選挙制度まで十分完成されているのに、毎回その選挙にも行かず投票権を無駄に捨て不真面目に怠けていた、他ならぬ我々日本国民が真犯人だということに気付いておこう。
 不真面目に怠けて選挙に行かなかったから、自業自得で国民生活がこんなに荒れた。ならば改心して、これからは真面目に最善の手を尽くして選挙制度に従うのが、確実な改善チャレンジ実効策の第一歩ということになる。
 これとて積年のだらしないダメ無関心が重なっての根深い現状なのだから、一発で改心の報いが得られるなどと甘ったれた期待で臨んで良いはずがなく、しかし直すと決めて目指すのなら踏み出さないと次に進めない大切な第一歩なので、そのつもりでまずは余計に期待しないで質素に取り組むことが重要だ。

 積極的に推奨できる手段ではないが、社会人として組織運営の視点で最適解を決心もせずに・できずに、『ただ何となく』『こないだ見かけたから』みたいな姿勢で過ちの投票をするぐらいなら、白紙にして現状を否定しておく方がよほど世のため人のためだ、というハナシである。
 決めきれないなら、白紙投票。これで棄権する理由は無い。よろしいでしょうか。

 ところで、この程度の問題意識で済んでいるのは、やはり日本国がまだ幸福に運営されている一線を保っているからであり、世界を見回せば、こんな選挙をやりたくてもできない国はまだまだ多数あると心得ておきたい。
 世界情勢により、数多くの国で民主主義コンセプトの選挙制度が法律で制定されているが、いざ選挙をやってみると、当該地域の住民数より特定の立候補者の得票数の方が多いだとか、もうそんな滅茶苦茶な社会であるが故に、わざわざ大枚はたいて選挙のやり直しもできないしやるだけムダだとか、選挙および選挙管理業務が住民の信用に耐えて正常に機能していない事例は、意外と珍しくない。

 こういうケースをつぶさに見ると『法治国家なのだから、作文の表現次第で社会組織が制御できる』なんて甘々のナメた理屈は、まさに青瓢箪がヒトとの対面衝突を避けながら統率者を決め込みたいだけの空論だとすぐ直感できるだろう【1026】【1034】
 ママゴト生徒会の申し合わせ規則がどこに仰々しく書き落とされていようが、その時その場の生活を生きていくためには、人間やれることなら何でもやってしまう。
 だからこそ、こんなデタラメな投開票の不正が起こるような未熟な社会組織では、何度ルールを呼びかけてやり直しても、まさに『偶然に』同じ得票傾向の同じ展開にその特質が反映され、同じ集約結果が出るばかりになるものなのである。
 社会組織の自我がフェアな民主主義にその気を起こすまで、つまりフェアな民主主義の支持層がスタッフから庶民まで全域の過半数に達するまで、その組織文化の体質が改まることはない。

 我々がいま暮らす現代日本も、こういった前時代的・非文明的な『我欲支配のトップ覇権争い』みたいな社会モデルに対して、決して相容れない理知的・文明的な防護壁の保証を持てている訳ではないのだ。
 『規律正しい法治社会』と『野蛮な損得の横行空間』の境目は思いの外あやふやなもので、例えば『国民の税負担が過大になったら中止する』と正式決定していたはずのガソリン課税も、いま違法状態で無視しっぱなしのままもう半年以上も放置されている。
 独裁政治も階級支配もありません、平等な選挙権の行使による民主主義議会制が当たり前、法治国家による合理的な社会運営が当たり前、この美しい常識がまかり通る日本国内でさえ、ちびっこ作文のゴリッパな実効力など所詮この程度のものだという実例である。
 『根拠を持って決めたんだから、きちんと守らないと社会が破綻する』という意識を1億2千万人で共有できなければ、いともあっさりこんなことになるのですよ。

 だいぶ実感が深まってきている今日この頃なので、響くタイミングかも知れないと思って話題にするのだけれど、平成初期の頃だったか北方領土の日本返還があながち絵空事でもないかのように色めき立った時期があった。
 ちょっと復習しておくと、北方領土とは大東亜戦争の末期、原爆も落ちて敗色濃厚になった日本国に対して、ソビエト連邦が一方的に宣戦布告して踏み込んできて、そのまま占領したことにして領土権を主張している土地のことだ。
 元々は樺太(からふと)、これも昨今はやたら『サハリン』とばかり表記される島だが、これの南半分まで日本国の領土だったのであり、日本国がいよいよ北米に敗戦が確実となった瞬間を狙って、同盟関係を一方的に破棄してカタチだけ宣戦布告し、野蛮な暴力モードの兵力で南樺太から択捉・国後・歯舞・色丹の島嶼つまり北海道のギリまでの日本領土を侵略した。
 そして『ここはもうソビエト連邦の領土です』と主張するがためにソ連国民を駐留させ、長きの間には、もうその地で生まれたソ連国民まで暮らし始めるに到っていた。
 そこまでコトが進んでいたのだが『本国の統治に国家としてこの地を維持する誠意が感じられないので、もう日本の傘下で暮らす方が幸福かも知れない』とまで、当該地域の住民たちがこっちを向きかけていたのである。

 昭和の時代、世界最大の国土面積を持つソビエト連邦が東欧からベーリング海峡まで横たわっていた訳だが、何しろ極東方面は極寒の大森林地帯=タイガが果てしなく広がるばかりで、領土権を主張するにしても、その維持管理の負担は決して楽なものではなかったようだ。都市機能や交易拠点としての機能はどうしても首都モスクワを擁する欧州寄りが中心になるし、シベリア凍土や内陸の砂漠を世界地図スケールで挟んだその向こう側の極東地域は、どうしても国家活動メンテが手薄になりがちだったのだろう。
 平成3(1991)年にはソビエト連邦の国家体制が崩壊、特に離島となる樺太や北方四島嶼などは、早い話が重要でないとして大いに優先度が下げられてしまい、国土整備のための財政支援も手が回らず疎かになりがちで、結構真剣に現地住民たちは不満を抱いていたらしい。
 実際当時の日本国内のテレビ報道で、さっぱり整備されない住居や道路・港湾などの社会インフラ事情が映し出され『こんな扱いで放置されるくらいなら、他国の経済圏のもとで生活する方が豊かになれそうだ』とする現地住民の声もある…と流されていたのを、確かに見た記憶がある。

 結局その機運をうまくチャンスに結び付けることができず、北方四島は日本に返還されないまま現在に到るのだが、今やその日本では我々日本国民が、よりにもよって自国のど真ん中に暮らしながら、自国の国政を見限っているという有様だ。情けない。

 では質問。いま日本国に暮らしていて、政府の国家統治のチカラ不足に愛想が尽きていたとして、どの国の経済傘下に入りましょうか?
 現時点でどこの国も思いつけないなら『少なくとも今以外の日本国内のナニか』ってことで、その選択肢が投票の対象になっているワケだ。
 さあさ、棄権しちゃいけないのが判ったっしょ?
 今夜は七夕、週末の投票で良いコトあるようお願いの短冊吊るして、御幸運を!
nice!(9)  コメント(0) 

【1072】電気仕掛け世代が紡ぐSDGs未来像 [ビジネス]

 台風が接近してきたので、湿度は上がるにしてもカドの立った突き刺すような酷暑は一段落だな。でも台風の通過ルートは9月以降に、『台風銀座』の異名をとる九州地方から徐々に東側にずれてきて、時として本州にも当たる…というのが我々小学校時代の常識だったんだよなあ。

 以前もちらと書いたが、確かに私自身、子供時代から今に到るまでの間に、気象の傾向の移り変わりは『コレコレこんな変遷として、あった』と感じている。だがそもそも日本の気候って、変遷じゃなくそんなもんなのかも知れないんだよな。
 少なくとも一部のヤツらが勝手にそれを非常事態と決めつけて、公共事業レベルの対応政策をでっちあげ、よもやこの財政難で高額の税金事業を乱発させるほどの根拠なんぞどこにも無い。

 さすがに車が凹むような雹が立て続けに複数箇所で降ったり、タダゴトでない極高温地点が急増していたりするとついテレビをつけるのだけれど、さも日本国民1億2千万人その認識の共有を確定済みかのテイで、当たり前を装って『地球温暖化の影響』を言葉の端々に滑り込ませるヤツうぜえ~!

 私はこれがチラ見えした時点で即刻処刑、素朴な事実報道の他局に行き当たるまでザッピングし、良いのがなければ電源OFFでサヨウナラだ。
 あれはまだ二十世紀の時代だったか、あんまりはっきり憶えていないのだが、『ほらワタシってナニナニなタイプじゃないですか』という言い回しで、自前の演出イメージを押し付けてくる会話のあの流儀ってどうなのよ?という議論…は大袈裟だな、雑談愚痴トピックがあった。
 いや俺アンタのことはそこまで詳しくないので、そういうところで勝手にアンタ好みの世間像の片棒を担がすのやめてくれないか?とつい引掛かるんだが、この程度のことに理屈っぽく不満の感情を固めるのも大人気ないし、まあスルーしたようなしないような愛想笑いで収めときましょうか、みたいな。
 ムツカシく語るのが好きな人は『現代社会では承認欲求が満たされにくく、拒絶されないシチュエーションを狙って、望みのジブンのイメージに他人の同意を求めるのです』とか言ってたっけ。そんなややこしいもんでもなくて、当時の可愛さアピールのちょっとした流行だったとは思うんだけどさ。

 だが賛否両論ある社会の関心事で、あたかも特定の政策推進の既成事実観を刷り込もうとするかの論調で、自然現象の解説を流すのはちっとも可愛くない。
 もっとも今どき『これって地球温暖化だからじゃないですかあ』とか言われて、まんまハイそうですかと聞き入れる日本社会でもなくなっているから、やればやるほど悪い方向に勘繰られてマスメディアとしては自滅の道を歩むだけだろう。

 改めて断っておくが私自身は、程度はともかく人為的な熱源で大気は加熱されているくさいなあ、と考える立場の人間である。
 人間さえいなければ燃えもしなかったものを、掘り出したり汲み上げたりして片っ端から燃料にして、しかも熱力学第二法則により得られる動力相当の何倍もの排熱が大気圏に放たれて、その大気圏は宇宙空間に向かって熱伝導できないのだから、そりゃ少しは温暖化しても不思議ないんじゃないの?人的影響の逆方向はないと思うよ。
 現状路線で野放図に突走っていても、燃料の調達は少量を世界中で取り合う構図ばかりが強まる一方だし、どこの国のナニがどんだけ燃料消費して大気放熱している悪者だか知らんが、少なくとも日本国としては『人類として使わずにすむ燃料はできるだけ使わない』を心掛ける国家運営を目指すのが得策だと思っている。よろしく。

 ちょうど目立つ事故があったようなので『それ見たことか』でいやらしく指摘させてもらうが、デジタル云々は始終電力を注ぎ込みながら、正常作動の面倒を見続けてやらないと、スタンバイ状態の維持さえままならない。いくつGだか知らんが、闇雲に高速大容量化を行き過ぎさせた無駄で煩雑なシステムは、こうして発生するまで実感できない故障リスクばかりを累々と積み上げているのである。
 中長期的に安定した継続性を目指すなら、技術開発は『脱デジタル』をどこまで進められるかが重要課題だとして過言ではなかろう。

 私自身、こうしてパソコンを使って情報発信しているし、人工知能など超人的な情報処理機能が何を出力してくるか大いに興味があるし、純・技術的にデジタル情報体は大好きだ。人間の支配欲を突き破ってどんどん発達して、人間には思いもつかない出力成果で驚かせて欲しい。
 これとは別に少なくとも当面の何年・何十年かは、前デジタル時代に人類文明が構築してきた領域における『脱デジタル』回帰が、技術開発のひとつの不可避テーマになるのではないかと思っている。いや、あちこち既にそうなっている。

 電子データは処理も早いし、検索も楽だし、複製も転用も簡単だし、その利便性は大いに活用したいところだ。そんな利便性の活用に秀でた者が、そこに籠められた莫大な情報の内容をより効果的に駆使して、自由市場で優位に立ち回るという流れにもなってくる。ただし。
 それら一連の全作業を可能にするスペックの設備機器と、それらを正常に作動させ続けるエネルギーの維持継続が前提条件となる。
 ゼロイチ=電荷の出し入れを作動原理とするコンピューターはそれ故に消費電力が大きく【556】、人間の脳みそでも実感できるが情報処理量が増えるとダイレクトにそれが負担となってのしかかる【201】
 幸か不幸か東欧の紛争が、デジタル文化の前提条件=設備機器の素材やエネルギー資源の調達に、現実的かつ深刻な障害をもたらした。

 そうそう、忘れないうちに横道で一発ツッコんでおくけれど『どっちの国が悪い、どこそこと組んで制裁だ、あの国は悪い国家運営をやっている』みたいな不用意な態度をとっておいて、それで悪者扱いした国の方が優勢になってきちゃうとか、そこまで行かなくとも『正義の国』と押し引き拮抗しちゃった場合には、その先どんな続け方するつもりなんだよ?
 『正義の国』が危ういんなら加勢しないとハナシがおかしいし、どっちらけなら白黒つけて『悪』を摘発し叩かないと決着がつかない。なぜ最初から日本国の立場を明確に自律させて争いを止めなかった?

 『いい加減で態度の決まらない外交をやる卑屈ゴマメ国家』の国際的イメージだけ積んで信用を失くすというのは、加工貿易国として致命的な失敗モードである。
 自国通貨の流通管理も失敗したまま改善の方向性が見通せない日本国だが【1067】、外交上のなけなし国力活用の生存戦略も、無策というより手酷い自滅行為に陥っているとしか見えない。

 おっといかん、横道にハマり過ぎないうち本題に戻って『脱デジタル』および『脱エネルギー浪費、特に電気エネルギーだらだら依存からの脱却』こそ、SDGsとやらにも主流コンセプトが合致するし、中長期の取り組み課題としては将来性があるのではないか、というハナシである。
 冒頭の話題にまで戻るが、地球温暖化していて、それが人為的な温室効果ガスと発熱によるもので、それを今のうちから鋭意努力して控えないとタイヘンなことになる…という一連の理屈が当たっていたとして、一番に取り掛かるべきトライアルは、中央統制の効きやすい公的データ関連業務における『脱デジタル・省電力』であろう。
 体力の衰えた高齢化ニッポンが第一次・第二次産業領域の国力品質の維持整備を放り出し、必要も無いのに情報処理の事務仕事を工数的にもコスト的にもわざと重くして、そこに税金食い扶持でしがみつこうと『デジタル、デジタル』と執着した末路が現状日本の役所文化の目的意識ではないのか。

 浮草情報を弄ぶだけの時間を抜け出して、『脱デジタル』の現実解を探し当てた順に、具体的な未来日本に自分の居場所が決まっていくんじゃないかなあ。
 スマホいじって過ごす時間は、電気が止まった途端に『無』に帰してしまう。現在のスマホ一辺倒の流行時世も、それほどいつまでも続くものでもないと思うぞ。
 『無』が嫌なら電気が止まる前に自分で電気を切って何か自力で創り出すしかない。
 まずはチャレンジ実行の決断からだ。電源を落としてみよう、ではグッドラック!
nice!(8)  コメント(0)