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【1268】マルチ表記で贈るオンリーワン・メッセージ [ビジネス]

 前回に続いて、日本語のローマ字表記についての話題をもう少し。
 今の日本ではヘボン式が圧倒的に広く普及しており、訓令式とやらは正直のところ滅多に見る機会がない。
 私の世代は小学校高学年でローマ字を習っていると思うが、そんなローマ字との最初の出会いは訓令式の方であった。では何故ヘボン式主流に行き着いているのだろう?

 あいうえお五十音にアルファベット表記をイチ対イチ対応させる一覧表において、規則性が優先されていて例外が無いのが訓令式…というイメージである。
 『あ』『い』『う』『え』『お』にアルファベット母音『a』『i』『u』『e』『o』をまず固定的に対応させ、次に『あかさたな…』各行に『k』『s』『t』『n』の接頭子音をくっつけることで全ての音が算出できるのだ。

 さ行お段の『そ=so』、な行い段の『に=ni』、ま行え段の『め=me』と楽なこと。
 この調子でやっていくと、さ行い段の『し=si』、た行い段の『ち=ti』、た行う段の『つ=tu』…という算出結果になるんだけど、別にいいじゃん。何が悪いの?

 これがよくなくなるのが中学一年で習い始める英語のフィーリングであり、自分の名前をアルファベット表記にした時、結構な割合で違和感に苦しむようになる。他の単語だったらまだ寛大にもなれたかも知れないが、自分の名前となると居心地の悪さをそうそう看過できないのだ。

 『si=し、じゃなくてスィ』『ti=ティ』『tu=トゥ』って読まれちゃうじゃない。
 日本人がわざわざ日本語をアルファベットで表記するからには、アルファベット言語人種に読んでもらう目的があるはずで、これじゃ五十音表の規則性が徹底できたところで本末転倒じゃないのか。

 こうして狭小通路の気流摩擦音『し=shi』『ち=chi』『つ=tsu』、また吐気音のうち開口面積をすぼめて噴流感を強める『ふ=huでなくfu』などが例外表記されて…という経緯が本当にあったのかどうか知らないが、とにかくヘボン式は『英語発音セオリーから直感されやすい表記法』という位置付けでみんな理解していると思う。
 このへんまでが日本ローマ字文化の一般共通ベースラインだろう。

 さらには多分1990年代ぐらいから『ん』を破裂子音『b』『p』や口を結ぶ『m』の直前かどうかで区別する考え方が拡がり始めた。
 『船場=SenbaでなくSemba』『本町=HonmachiでなくHommachi』のような表記法が大阪の駅名表示などにも見られるようになるが、これは一律に全部やると『やりすぎ』感が拭えないケースも多々出てくるためか、一般共通ベースラインに比べると普及率はぐんと低くなる。

 母音の方も揺らぎなくすんなり収まるものでもなく、ヘボン式の主流だと短母音と長母音を区別しないので『大谷さん』と『尾谷さん』は表記文字からは違いが読み取れないことになっちゃうんだよな。
 ならば長母音を『oh』にするという解もポピュラーだが、あれは昭和の時代にプロ野球の王選手のユニフォームで有名になったものの、アルファベット言語ネイティブの感覚では、日本人が思うほど長母音『おー』をドンピシャに特定させるものでもないらしく…とまあ、語り始めたらつくづく際限が無い。

 スマホもなければ翻訳ソフトもない時代、海外から日本に出張してきたり長期赴任してきたりしていた欧米人は大抵が専用のメモ帳を持っていて、備忘の発生都度に本人の感性に任せた日本語ノウハウ記録を書き残していたものだ。
 まあ他人様の書き物を覗き込んでしげしげと読むこともなかったのだが、実はそこでヘボン式は、意外にも多数派ではなかった。自然な語感・音感だとも思われていなかったように思う。

 訓令式に『し=si』『つ=tu』などとやっているのを見て『あれ?こういう表記って不自然さは感じないの?』と直球で尋ねたことがある。『し=shi』『つ=tsu』ではないのかと具体例で訊いてみた。果たして、その回答は…

 “Why?” えっえっ?『し』はsheetとか『つ』はitsとかが近くない?
 そしたら間髪入れず
 “Simple!” ページの陰に手書きの五十音表がちらりと見えたりもした。
 日本人が日本国内で共有するヘボン式好きの感覚を差し置いて、訓令式じゃん。

 結構な人数そんな連中を仕事や遊びで連れまわして、日本社会に溢れるヘボン式との齟齬に戸惑う姿はただの一度も見たことがない。そんなもんなんだよ。

 のちの1990年代になって自宅でも職場でもパソコンが急速に普及し始めるのだが、私は英字タイプライターのブラインドタッチを先に覚えていたため仮名キーは全く使えずアルファベットキーしか使わないワケで、そんな私も最初は『chi』『tsu』などとやっていたような気がするが、端的にキー操作を減らせる便利さに導かれて『ti』『tu』に落ち着いた。

 でもメールアドレスなんかになると、自分の名前をアルファベットに開く時はやっぱりヘボン式が圧倒的多数派なんだよな。もちろん街中の地名や施設名や店名なんかの表記も。

 …それでいいじゃん。ダメな理由があれば損害額で答えてみな。
 あ、損害額の算出をどうするべきかの議論なんか始めるなよ、頼むから。
 もともとアルファベット文字を使わなかった日本語だけれど、アルファベット言語の文化圏の人々に対して『とりあえず名前を読んでもらう』インターフェース機能を持たせる必要が発生した。要はそれだけのことなんじゃないのか。

 Every child has a beautiful name. 伝わるなら小難しくしなくていいっしょ。
 あなたのローマ字が語りかける相手に正確に通じて、うまくコトが運びますように。
 では言語横断コミュニケーションの御成功をお祈りして、週明けからグッドラック!
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【1267】アメリカ人のおなまえっ! [ビジネス]

 日本語へのローマ字表記の適用表をどうするか、議論が盛んなのだという。
 新宿は『訓令式』とやらの”Sinzyuku”なのか、ヘボン式の”Shinjuku”なのか。
 礼節正しきニッポンとは、げに規則化とその順守管理そのものを、利得も目的もなくただ興味の対象にして時間をかけられる、つくづくヒマな人たちの集団なのだなあ。

 北米は御存知『移民の国』であり【280】、世界各地からアルファベットを表記文字とする多くの言語文化が混交し交錯している。
 そんな社会に暮らす北米国民はどうなるかというと、他人の名前の表記を見たら、読む前に『これはどう読むんだ?』とまず質問してくるのだ。一生懸命に我流で読んであげて本人の返答を待つ…というのが意外と日本人特有の習慣なんだな、と実際に現地で人に会いまくって初めて気が付いた。

 向こうでは出遭った瞬間に”Hi, I’m Keith! You are...?”みたいにファーストネームで名乗って相手を確かめ、世間話を始めながら歩き出して、席のある場所に座ったら改めてお互いの名刺を交換するってのがよくあるパターンだ。
 そのうちの一人に”Guiberson”というラストネームの男がいて、まだ北米入りして浅い頃の私が『う~ん、これ、ガイバーソン?…でいいの?』と訊いたら『うおっ当たり!嬉しいね』なんて答えてくれた。
 なんでも、普段からなかなか正しく読んでもらえない名前なのだとのこと。

 特に西海岸は地名からも判る通りメキシコ流のスペイン語文化の影響があるし、あちこちビジネスで飛び回っている人種からすると”suite”つまり『スイート』=2部屋以上あってキッチンなども揃う滞在型ホテルの名称が連想されたりもして、母音まんま読みで『グイバーソン』と読まれることが多いらしい。
 また”suit”つまり服装の『スーツ』や動詞『適する』を表す単語、これもまた普段使い級に超有名なので『グーバーソン』と読まれちゃったりもするのだという。
 両方合わせて、ちゃんと読んでもらえないケースの方が多いくらいで、食事や病院などの受付で間違えた発音をされると自分の順番に気付けないし、いちいち自分かどうか確かめに行かないといけなくて面倒で困ると。

 苦肉の策として、受付の順番待ちリストに本人自ら”Guyberson”とアレンジして書き込む術を編み出した。そう、ナイスガイの”Guy”『ガイ』は誰もが日常茶飯事に連発する単語なので、その勢いで『ガイバーソン』と読んでくれることが多く、結局これが一番便利な解決策になってるんだよと彼は笑った。

 二十世紀の頃だったか、綴り字を見ると”Thomson”なのに、発音を聞くと『トムソン』ではなく何度聞き直しても『トンプソン』だったという事例もあると聞いた。識字率も不徹底の中、発音と表記の関連性にも各種異文化が交錯する北米社会では、こんなこともあるのだなあ…
 …などと感慨に浸るのは偏見もいいところで、我らがニッポンだって『日下と書いてクサカさん』だとか『五十嵐と書いてイガラシさん』だとか『小鳥遊とかいてタカナシさん』だとか、もうそれを特殊事例と知って教わって個別に記憶しないと読めない名前は数限りない。『サイトウさん』の『サイ』の字なんか無限のバリエーションだしねえ。

 それでも日本語文化の一端として社会に継承され、テキスティングの変換候補に出てくる難読名ならまだしも、もはや個人的にも程がある理解不能の創作ロジックで次元超越した表記文字を当てられた日本人が、DQNだかキラキラだか知らんが今なお増え続けているのだ。まあ命名者のポリシーと利便性低下を天秤にかけた本人なりの判断のことだから、改めて突込んだ議論はするまい。

 ところで人名ではなく地名なのだが、”Zzyzx”という表示板が米カリフォルニア州に実在する。  
 『ザイジクス』と読むのだそうだ。砂漠の真っただ中の、ほんの小さな集落だった。
 LAからラスベガスにかけて、モハベ砂漠一帯をあちこち車で走り回っていた頃に道中で見かけて『な、何だこの地名表示は?』と驚いたものだ。
 わざわざ幹線道路から集落にまで降りたりはしなかったのだけれど。

 今はネット検索して”Zzyzx”で引掛かるし、恐らく道端の表示板の現物もその表記なのだろうが、私が現地で出遭った1990年代当時は”Zzzyyyzzzxxx”ぐらいの長い文字列だったはずである。こっちがオリジナルなのだろう。
 手書き書面や電話音声ならば少々間違えていても正確に読解されるのだろうが、テキスト入力で通信する今の時代になると、ゼットがいくつで、ワイがいくつで、またゼットがいくつ…などとやっていて、ひとつでも間違うと不整合の判定となり発信しても届かない。まさにそのトラブルが頻発して大勢がイライラを募らせ怒り狂ったはずであり、だから元の地名の特徴を残して、ギリまで文字数を減らして現状みたいなことになってるんじゃないすかね。

 “Sinzyuku”か”Shinjuku”かで現地案内が機能喪失するとか、誰かの重要な連絡が取れなくなるとかの実質的損害がなければ、キホンどうでも良いじゃん。そもそも表音文字とは一定の柔軟性を含んでいるものなのであり、それを目にして発音した人間が失敗や不便なく暮らせるのなら、それで十分である。
 そもそも『日本』と書いて『にほん』と読むか『にっぽん』と読むかも固定していない現実があるのだから、いま街角に見るその表記に唯一絶対を求める理由が何なのかをまず考えるべきだろう。

 ホント日本人はメンバーシップ型のメンタル関心事に夢中になりがちで、何の得になるかもそっちのけで、みんな一斉に崇めて頷き合う『我等が拠り所の経典』を欲しがる民族なのだなあ。
 ちょっとさ、他国相手にナニしたら価値を認めてもらえて稼げるかの興味の方に火を入れてみないか?

 そうそうついでに書き落としておくと、私は自分の名前をアルファベット表記する時には、欧米文化圏の習慣に合わせてファーストネーム・ラストネームの順番に逆転させる。私としては、それが快適で手間もかからなかった。
 日本文化のナンタラを尊重して姓・名の順でどうたらこうたら、ジブン世界の価値意識をひとり大層にいじりまわしてこだわるのは自由だし批判はしないが、単純に間違われると不便だし指摘して直すのが面倒くさい。米人になりに行く勢いで北米社会に飛び込んで、楽しく仕事して大いに遊んで過ごしてきた私の切なる実感である。

 実は北米でも、役所なんかで正式手続きとして取り交わす書類なんかはラストネーム欄が先に立ってるんだよな。このあたりの事情は詳しくないが、住民管理台帳に従って過去経緯を追いやすいだとか、ひと家族単位のくくり記録で人員構成を見るだとか、北米社会のレジストレーション局面としては、ラストネーム・ファーストネームの順番の方が便利なのだろうと勝手に思っている。

 名前とは個人や事物を表す代表的アイデンティティであり、大切なのは解る。
 だがその『名前』は、文字や発音という手段をもってコミュニケーションの場で授受される『情報』だということを忘れてはならない。
 大切なのは『情報』に対応して、当の個人なり事物なりが正確に特定されることだ。
 困るヒトもいないのに対応一覧表の完成度に目くじら立てるニッポン・ニホン、いやどっちでも良いんだが、おいくらか費用が発生するなら、何日か時間を浪費するなら、いっそ全部現状ママで放っとかないか?

 “Zzyzx”簡素化の潔さを見習おう。稼げる国家"JAPAN as No.1"にグッドラック!
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【1266】若さは元気、元気はイノチの五月病特効薬 [ビジネス]

 前回に引き続いて、もうちょっと『五月病』なる怪現象のハナシを。

 右も左も判らない社会に飛び出したはいいが、できあいで持ち合わせた自分のチカラではコトがこなせなくて、何をどう直せばコトが少しでも前進するのか見えなくて、とりあえず気分爽快でなくなるというのなら全然問題ない。
 自信喪失して、周囲に迷惑もかけて、挽回のきっかけすら見えずに、損害にしかなっていない惨めなジブンの自覚のまま、それでいいはずないんだけどメシ食わない訳にいかないし寝ない訳にもいかない。暗い気持ちで今日も出社してくるだけの無能役立たずになるのは当たり前だ。

 いずれその時期を抜け出して戦力を発揮することになるから御心配なく…と言い切れれば良いのだが、正直のところ今どきそうも行かなくなっている。
 戦力として機能するためには、戦力構築の地盤として、能力アイテムの断片が豊富に揃っていなければならない。学費を払って、学力や体力やアルバイト級の実践知識を習得することに専念し、高成績を収めれば良いのが学生なのだが、逆に学生時代にそれができていないのは致命傷であり、社会デビューした時点で戦力構築するためのそもそもの材料が何にも無いということになる。
 戦力構築の材料から足りていなければ、収益産出の一員にはなれないのだ。猛然と追い付いて追い付けるならまだ良いが、元がカラっ欠ならば事業体としては切り捨てないと採算が取れなくなる。

 『今どき大学ぐらい出ておかないと』というイミフ常識を流行させたのは、生産力を失くした日本社会の、生産力喪失の原因になった、バカなオトナの思考停止の同調習性である。
 実際、昭和の終わり頃は過半数が高卒就職組であり【440】、大学に行くのはせめて『大きい会社や役所に勤めたい』程度の漠然たる動機であったにしても、そこで求められる国語・算数・理科・社会以上の『ナントカ学』なる専門学域に触れて知っておこうとする目的があった。
 これが平成に入ってすぐの頃にはもう『入学して早々に掛け算を教えてくれる大学があるそうだ』という風のウワサは聞いたし、二十世紀の終わりには『分数ができない大学生』と題した書籍も出版されている。就職年齢に達していて、小学校で慣熟すべき日常生活ツールが未完成なのである。

 バブル景気と呼ばれた時代、本来わざわざに高度専門の学歴を求めなかった中小企業が、身の丈に合わない高度人材をなりふり構わず振り向かせようと『大卒優遇』を乱発した結果だろうか。就活学生の立場からすれば、学歴欄に『大卒』の文字さえあれば格上の待遇が期待できるという目的意識が先に立ち、学費と引き換えにそれに応える『名ばかり大学』がどんどん設営されたとか。
 結局『大卒』の二文字だけで生業を切り回す戦力素材の保証にならないとなると、大卒は大卒でも大学ブランド別の評価に行き着くしかなくなる。日本経済の現場を駆動する国力として効かない『みんな持ってるただの大卒』にまつわる社会整備と国民負担だけが残ったのではないのか。

 『うまいことやる社会人としての渡世術がどこかにあって、それを探り当てれば人並に儲かる居場所が確保できる』みたいな方法論イメージが日本社会に拡がり、根付いてしまっているのかも知れない。
 だが私の知る限り、子供たちの初期状態は『使える能力・認められる能力を身に付けないと生きていけない』という正常な認識にある。
 若いうちに一定数が、バカなオトナの渡世術を見覚えて毒されて、どうせこんな世の中ならこんなもんでいいじゃん式に経済的戦力の材料習得の必要性を見失い、せっかくの成長期を無駄遣いして過ごしてしまう。劣悪を自覚しながらもスマホ頼みで場を凌ぐ知恵が先につくと、挽回は非常に難しい。

 そうならなかった別の一定数は認められて社会人デビューまでは進めるのだが、そんな彼等を職場で待ち受ける先輩方がいま既に『大卒の定義を狂わせた世代』なのだから困ったものだ。『使える能力・認められる能力を身に付けないと生きていけない』という新人たちの正常な認識に照らして、それを受け止めて職場で活かすには不十分な人たちなのである。
 一生懸命に気を遣って『ブラックと言われるから無理してホワイト条件で静観に留める』『ハラスメントNGチェックリストを片手に腫れ物にでも触るようにコミュニケーションをもちかける』みたいな的外れな厚遇(?)で、新人たちを出迎えてしまったりするワケだ。

 そりゃしんどくはないのだろうが、だからってその不気味なラクを喜べるはずもなく、ただただ困惑して『ここでは一人前に成長できない』と的を射たもっともな不安を訴えて、新人たちは退職してしまう。
 自然な反応だよ。これが現状ニッポンの新卒採用現場の実情ではないかなあ。

 以前にここでは、雇用市場の新卒採用に顕著な穴あきが目立つ事実を受けて『時代適応力』を書いている。これが2007年11月のことだから、もう17年前のことだ【33】
 毎年一定の新人採用で進む世代構成の新陳代謝は、定年到達で失われる人員数を補填するだけの機械的な恒例行事ではない。欠員ならぬ欠・年齢層が生じた場合、当座の業務分担表の臨時調整なんぞは序の口の軽業務で、むしろその後の恒常的損害の方が遥かに深刻だ。

 業務を完璧にジョブ単位で分解できていて、その全てのジョブ単位に完全無欠の業務標準書が揃えられていたとしても、従業員末端から経営上層まで視点別に事業の成立原理を理解するには時間がかかる。本人が実感で理解しない業務は的外れの失敗で生産性を落とすから、仕事にならない。
 各年次が均等に安定して埋まっていてこそ新人教育に始まる全ての年齢層別の能力開発が、各自の日常業務に混ざり込んで、職場全体の面積で動いているのだ。
 まず新人層に穴が開くと、翌年は自動的に二年次が欠損することになり、その翌年は三年次…と毎年異なる欠落モードで、職場が生理現象として日々やっていた能力開発が故障する。これでは対策を考えるにも効率が悪くてしょうがない。
 キホン二度と出遭わない故障形態の対策に、毎年の延々悩まなければならないのだ。

 2007年当時ちょうど6歳で就学年齢に上がった子供たちが、学業成果を携えて日本経済力の担い手として23歳で社会に参画してきている。
 2007年に安定した世代交代が目立って途切れ始め、能力開発が欠陥だらけになった職場で働く親世代に育てられた子供たちが、いま国力の将来を担う新社会人となった…とそういう位置関係だ。

 非常に厳しい状況だが、手放し放置では間違いなく今よりも悪化する。
 大切なのは『そんなムツカシイ課題、ジブンには解らない!』と拒絶する前に、解らなくてもとりあえず何とかなるかな、腹は立つけどどうにかしないワケにはいかない…と漠然とでも思い立つ元気である。これなくしては何にも始まらない。

 実は、他がどんなにぐちゃぐちゃでも、単純に若ければ若いほど『元気』なのだ。
 だから組織生命体・職場はイノチをつなぐための新人採用を切らさない。
 あなたの『五月病』、治っただろうか?では週明けから元気に出勤、グッドラック!
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【1265】買い叩かれる格安経済圏の風土病ウィルス対策 [ビジネス]

 ゴールデンウィークも過ぎると『五月病』なる季語が飛び交うようになる。
 元々は年度初めの4月に就職した新人社会人が、5月になると自他ともに原因がはっきりしない憂鬱状態に陥り、調子が沈んで困る…という意味だったはずだ。
 平成以降やたらめったら拡大解釈が増えて、もう全年齢層を対象にあれもこれもの勢いで盛りまくられた結果、いつの時期のナニを指すのかよく判らなくなった感がある。

 私はこの五月病なる経験は、身に覚えが無い。
 幸運にも子供の頃から大好きで憧れていた業種・業態で社会に飛び込んだので、とにかく準備期間・助走期間なんかすっ飛ばして早く一人前になりたいその一心だったからだ。今そんな心境で社会に出てくる若い人ってどのくらいいるのかなあ。

 昔は終身雇用に身を置いて定年まで『勤め上げる』のが常識というか、小市民の社会的使命であるとされ、故に退職や転職はそれ自体が反社会的行動にも通ずる第一印象を持たれるほどであった。
 その代わりというか、いわゆる年功序列の概念が理屈抜きの思考抜きにまかり通っており、出勤し続けて職場に居残っておれば、いわゆる『エレベーション』でそれなりの役職と年齢給が計画的の自動的に手に入ったのである。
 だからこそ『最初の就職で飛び込んだ職場は、どんな不都合があっても離れることができない』と、本人も家族も周囲も、考える前にまず結論づけていた。

 早いハナシ本人の人生の思考基盤にとって、かなり『一度就職したら退職も転職もできない』のであり、これがキャリア構築の融通の拡がりを見出せず袋小路で過労死する世界観の背景にもなっていたのだと思う。
 もっとも一本のキャリアに決め打って叩き上げ・積み上げを重ねるなら、一応にでもそうやって時間をかけたぶん、確かにその道に関する知見は人並以上のものとなるのが一般的だ。好むと好まざると、中流の凡人を自覚するなら悪くない戦略である。
 終身雇用一本道の能力開発を標準仕様とする考え方は、今も有効な選択肢のひとつであることを忘れる訳にはいくまい。社会人デビュー後の一定期間、自分の適性が自己認識できないだとか勤務先の立地が理想に合わないだとか、一時的な不本意を絶望視するような甘ったれを許さないメンタル環境が、本人さえ気付いていなかった潜在能力を引き出して、視野と守備範囲の拡張につながるケースは珍しくない。

 日本式『メンバーシップ型』組織のメリット・デメリットといったところか。
 でもいま初就職の新人の3人に一人が3年もたないとか、そのくらいだっけ?

 昨今ちょっと心配になるのは『入社後の勤務地域を確定して欲しい』『配属先を確定して欲しい』みたいな、新人側の希望提示に無理をして応えている企業が、もうそっち多数派になるかのレベルで増えていそうなことである。こんなことしてたら業務主導の経営計画が立たなくて、まともに事業採算が維持できなくなるだろうに。
 だからって経営側から従業員に、勤務地や配属先を強制する業態だと思われた瞬間に退職されてしまうだろうから、やむなしで軟着陸めざして段階的な緩和策や折衷案を捻出するしかないってことか。
 …とこんな言葉で語れば労働条件のムツカシイ問題にも聞こえるが、要は本業を疎かにして好き嫌いのウチワ揉めに四苦八苦しているだけだから、端的にその企業は収益力を失い業績を落とす。そのまま傾いて、いずれ倒産である。

 生活のためおのれで選んで飛び込んだ職業にぐだぐだ注文つけてんじゃねえ、まずは現実にやってみて自分がどこまでできるかの結果を作ってからクチきけや!で結末を見るのも一手では…なんて言うのはただの粗暴な無責任発言で、それで済むくらいなら済ましてるはずなんだよな、採用側としては。
 可塑性を秘めた若年層パワーは、ヤワ過ぎるなりゆき現状であっても『まず失わない』が事業体の死活問題になっているから、失わない=やめさせないための涙ぐましい苦労ばかりが、今の季節どうしても目立つってことか。
 早々に音を上げるにしても今どき『退職代行業』なるビジネスが人気だというのだから、本人でもない代行業の担当者からそれを告げられるのである。やり切れんな。

 民間企業に限って言えば、自由競争市場で誰もが面白がって欲しがるような事物の提供を、実力者のライバル同士で競う以上、宿命的にブラック業態となることを理解しておかねばならない。
 十分な商品力で訴えかける競合同士がユーザーを奪い合うバトルフィールドにおいて、僅かでも余裕が生じたら、そのぶんソッコーで値下げするなりサービス向上するなりしてユーザー還元し、魅力アピールで市場シェアを喰いに行くのが定石だ。

 キホンどんな商品も、一度『あそこのは良い』あるいは『少なくとも悪い思いをしなかった』という実績の記憶が確定すれば、代替えの確率が断然高くなるからである。
 比較検討の時間が今ないから、自分自身が品定めに行けず他人に頼まないといけないから…などなど全ての理由が『失敗しない選択』として、いま愛用して馴染みある既納品の代替えに帰着する。
 とにかく僅かでも潤ったら余裕の発生都度、こまめにユーザー還元して競争力を磨き続けないと、実力の拮抗した競合他社がどんどん先にそれをやって一足早くユーザーを魅了し、苦労して築き上げた自分ちの市場シェアをかっさらっていくのだ。

 この世に余裕なんてものはどこにもなく、あったら全部市場に捧げ尽くす。
 余裕など最初から無いのが当たり前で、どこまで骨身を削れるかこそが勝負。
 そうやって『生き残る』のが自由競争市場の経済単位の生命原理だ。

 プロスポーツでないからと言って、相応に鍛えてもいない虚弱児が最終学歴の卒業証書だけを手にふらふら紛れ込んで、それでどうにかなるような経済社会空間はこの世のどこにもない。

 子供たち若者たちよく覚えておきな。
 だから『仕事はできるヤツのところに行く』んだよ。
 『できるヤツ』に任せて、首尾よく良い結果が出れば、次もそいつに行く。
 任せる方はそうしないと生き残れない。それだけのハナシだ。

 冒頭の終身雇用時代の常識概念に戻るが、ある意味あの当時の方が、迷いを封じて自ら試行錯誤の牢獄に閉じこもるキャリアテンプレが、手放しで誰にも組み合いやすく保証されていた時代なのかも知れない。
 最初から何でもかんでも得意で優秀という優等生人材よりも、不本意の境遇で模索して自分の適性を見出した努力型人材の方が、挫折にも頑丈だし他業態へのツブシも利いて随分と便利だ。

 『五月病』になっちゃったらなっちゃったでしょうがないんだけど、本人も周囲もあたふたして場当たりの対処でラクチン無難に走らないのが賢明だと思う。
 市場競争に専念せず味方介護に手を焼いてばかりの集団が、弱肉強食のバトルフィールドを勝ち抜く経済単位になれるはずもなかろう。

 まあ若いうちは思い立った瞬間から物事を始めてどんな急展開・新展開もあり得る。
 困ってるなら『五月病』のウィルスでも探してみては?マジで見つかったりして。
 そろそろニッポン精神文化『五月病』の完全撲滅を目指して、グッドラック!
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【1264】不思議の国の一糸まとわぬダメオヤジ [ビジネス]

 そうそう前回書き忘れたが、とにかく体の芯から廃棄物がまとまって湧き上がってくると、そこが欠損する形で深い濡れ傷になる。中身が見えちゃうしメチャクチャ痛いし、断続的に滴下するほど流血もするしででタイヘンなのだが、とりあえず最終的には痕も残さず治る。
 特に女性なら見かけ商売でなくとも気が気でなくなるんだろうが、うろたえていろんなクスリを塗り込んだり余計な細工を持ち出したりせず、欠損しちゃった部位は大気開放で、出るモノ出しては乾かして崩れ落ちるに任せるのが基本だと思う。お互い慎重に冷静に、大事に行きましょう。

 さてNHK朝ドラ『虎に翼』は来週大きくストーリー環境が変動しそうだ。
 先週いっぱいで、トラちゃんパパが検察による『自白の強要』を証言し、被疑者の自白こそを金科玉条の証拠にして立件しようとする検察に勝訴した。

 このシーンの判決文『水中に月影をすくうが如し』とは、
 『水面に映る月の姿を実体あるブツ扱いして、水に手を突込むばかり』
 つまり画像という『情報』だけ手に入れて、それを根拠に『あるはずのない架空の現実』を収穫しようとして、静穏な置き水を掻きまわして汚すだけのことにしかなっていないぞ、という意味だ。

 コレ実際の史実がどうだったのかは知らないけれど、新進気鋭の若い裁判官が長いものにも巻かれず余計な情状にもよろめかず、この判決文で断じたとするストーリー設定は実に清々しく痛快である。

 『予審』という用語は、私はこのたび初めて知ったのだが、ありていに言えば裁判の仕組みにコトを乗せる前に、被疑者を拘束し検察が事情聴取するプロセスだと理解してよかろう。
 劇中では『もちろん今は廃止されていますが…』と解説されていたが、なんのことはない、今もなお日本の検察の初期稼働は『国家機関が一方的に個人を捕えて、一般社会から隔絶する形で閉じ込め自白を強要する行為』と指摘されており、かねてからこの現代ニッポン『人質司法』は国際的に批判を浴びている【905】

 もっとも悪意を動機とする『犯罪』のケースにおいては、証拠隠滅にしても偽証にしても狙って悪知恵の手も込んでいるだろうから、被疑者を精神的に追い詰めて本人の口から語らせないと、真相解明が面倒かつ困難であろうことは想像がつく。故に私は一概に『人質司法』の実効力を否定しない。
 ただ劇中のように、よりにもよって検察の側に『真実の在処を偽りたい意図があり、それを被疑者に証言させる』というよこしまな目的があった場合は、なおさら面倒なことになる。
 本来なら、念には念を入れた人材採用とその後の組織内教育により、司法機関に関わる人員は三権分立の一角を担う立場を自覚して、私的な感情や思考を完全に封じて職務に徹する自律行動規範を保証せねばならない。これが叶ってこそ『人質司法』の有効性議論もできるというものだ。

 だが司法機関に帰属したからといって所詮はただの人間でしかなくて、この自律行動規範なる『情報』を記憶ストレージに教え込まれたところで、現実の行動選択は結局どうにでも違えてしまえる。
 むしろ採用選定をパスして規定の教育課程を通過した時点で、人間という出来の悪い情報体は、それを根拠に『個人の我を通す』方向で動いてしまいがちだ。これはそいつが人間の素材として人格が粗悪でボロいとかいうハナシだけではなく、情報体・人間に等しく宿る不安定性のようなものだと思っている。

 個人では『信条』として記憶された『情報』の意味する通りに真直ぐやれるはず、むしろ人さま世間さま視点から反目と映るような横暴など怖くてできないのが普通だ。
 ところが規律枠にジブンをぴたり押し込む時の僅かな内圧が『逸脱の行動選択』の潜在的な原動力になって封じ込められており、これが群れを成すと似た者同士の間で共有され、共同戦線を張って組織力として鎌首をもたげてくる。『権力は腐敗する』とよく言われるが、その原因のひとつがこれであろう。
 だから三権分立で相互監視する知恵も捻りだされた訳だが、そうなると今度はみっつに割ったはずの分立を跨いで逸脱の動機が組織化してくることになる。
 三権分立の概念も所詮は『情報』に過ぎず、これに対して『逸脱の内圧』は人間に等しく備わる精神的な反応の現実だから、放っておくとキホン逸脱の方が拡大・横行して社会構造が崩壊するのだ。
 成人社会人は国家組織として国民意識の風土整備を怠らないよう目的をもって努め、日本社会のあらゆる運営現場で、せっかくの国家財産の『情報』を正しい行動選択に反映させる『国家社会の空気』を維持せねばならない。

 司法領域に限らず、何だかんだで日本の役人は国際標準に照らしてキホン潔癖で、袖の下を握らせれば何でも素通しがまかり通る国々も多いなか優秀な方だとは思うけれど、逆にそんなものを比較対象にして優位性を確かめなければならないまでの事態に陥っている悲惨な現実を認識しておきたい。

 さてトラちゃんパパに冤罪を着せようとした政治勢力には判りやすく黒幕ジジイがいて、そいつに人事権を握られているフヌケ腰巾着の無能パシリもいて、ちょうど朝ドラ的に観やすくて解りやすい構図になっているので考えていただきたいのだが、コイツら果たして、強いのか?賢いのか?偉いのか?【1114】

 劇中では『法律とは弱者を擁護するもの』『法律とは弱者が戦えるための武器』などの見解が紹介されている。ベタには腕力や財力を持ち合わせない弱者が、それらを手にしている強者の横暴の捌け口にされ、人権を侵される構図をよしとしない管理意識の具体的表現だと言えよう。
 だがちょっと待て。杖ついて歩かにゃならんようなポンコツ老人が生意気なクチきいて、そんなのにびくびく仕えるのは筋骨隆々でもない平凡なザコ事務屋だ。あと扇子で無駄な雑音を立てる攻撃しかできないでくの棒もいる。歳相応にじっとしてらんないなら裁判官が扇子もぎとって鼻の穴にでも突き刺してやれっての。
 このへん全部、到底『強者』ではなかろうに…というか見事なまでに『弱者』ばかりなのに、なんで厚かましく確信的にマウントとれるテイで人さまに絡んでこれるのか、それで通用してしまっているのか再検証しておきたい。

 要は『情報』に擁護された弱者が『情報』を武器に強気の対人関係を仕掛けると、あたかも周囲が催眠術にかかったようにそれに同調してしまい、やったもん勝ちで根拠のないチカラ関係の虚構が成功してしまっている、そういう事例なのだ。この読解パターンは、特に若い人は肝に銘じて身に付けておいて欲しい。
 正式に明文化された法律だけではなく、ヒトとヒトとのコミュニケーション空間において、自然発生してきた不文律まで含めて、全てはヒトの行動選択を左右する作用を持ち得る『情報』である。
 『情報』に応じて一定の行動パターンで対処することが流行すると、そこに実体のない架空のパワーバランス世界が出現する。『裸の王さま』というやつだ。

 トラちゃんも仲間たちも、実は自らが定義する法律の概念を原理に『権力者』になった連中を相手に、そいつらがでっち上げた架空の筋書きの牙城を崩そうと戦っていた…というパラドックス的な位置関係になっているところに気付いておこう。
 イケメン優等生くんにそそのかされた穂高御大は、人徳を積み重ねた年の功で後輩弁護士たちの能力を集結し、最終的にトラちゃんママ曰く『若造』の判断力が社会の行方に決断を下すという展開はよく造り込まれている。凝ったドラマになっていると思う。

 『情報』の架空世界に迷うバカなオトナどもみたいになるのがイヤなら、スマホ画面を見るにもそこに映す『情報』の選別には気を遣った方が良いと思うね。
 この世に生まれて一度きりの大事な時間、悔いなき行動の選択にグッドラック!
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【1263】もつれさせた平常メイズの最短脱出ルート [ビジネス]

 ゴールデンウィークもいよいよ後半に突入、カレンダーは5月になった。
 私にとってはステロイド断薬して、そろそろ満11年半を迎える節目となる。

 結論から行くと、まだ完治しない。薬物中毒の根の深さはハンパではない。
 それでも自分の身体を鋭利な刃物で深く突き刺して中から引き裂きたくなるような、やり過ごすにも厳し過ぎる痒みについては、どうやら完全に解消した。
 10年以上かかったが計画通りの進展、もう二度と遭うことはなかろう。

 あと判りやすいところでは、下腕の体毛が全て2センチから長いものでも3センチ未満に揃った。ウチの百科事典的には正常値に回復したことになる【1198】
 クスリ焼けして、まるで日焼けのように色が暗くなっている部分や、上腕の外側など薄墨の飛沫を散らしたような黒斑になっている部分は、全てステロイド依存組織の潜伏状態である。『ステロイド外用薬で肌が黒くなる』という説は少なくとも私にとって真実で、ここにひとつ確固たる実証例がある。
 いっとき少々調子よくなったと感じていても、時期を迎えるとその黒い体組織は、むくんで赤熱して痒くなり、のちに擦過傷のようにひりひりと痛むようになり、そのうち点々と出血して皮下の着色部をかき集めてそこから吐き出す形で、何年もかけてほんの僅かずつ解決していくのだ。
 自他ともどもの評価で、黒く赤かった私の肌はいま随分と白くなった。あと少し。

 久し振りなのでちょっと復習しておくと、私はステロイド依存症と、断薬によるステロイド離脱経過を考察するにあたり、人体をざっくり球体モデルで近似する考え方を提唱している【381】

 ステロイド=免疫抑制剤でヤク漬けになっているうちは、全身の体組織はその抑制されて弱った免疫力に釣り合って日々を過ごしている。
 ここでステロイドを断薬すると、抑制を解かれた自分自身の免疫力が復活してきてバランスが崩れ、弱すぎる全身の体組織を片っ端から強度不足と判定して壊して、廃棄処分にしていくのだ。
 廃棄処分になった体組織がさっさと新・免疫力に釣り合う仕様にスクロールされてくれれば良いのだが、そうはいかない。壊されて廃棄処分になった体組織は、そんなに都合よく賢く強化バージョンで新調されたりはせず、要は壊れたぶんと同じものでしか作り直せないのである。

 新規生成されてくる体組織は完全に均質ではなくバラツキがあり、現行仕様と全く同じ平均値・標準偏差の細胞群が再生されたとして、平均値近辺とそれ以下はごっそり新・免疫力の餌食だ。
 だが必ず平均値以上の一定数が新・免疫力に釣り合って居残る訳で、つまり体組織を更新しては大半を自分で叩き壊し、球体モデルの表面から廃棄しながら、強い体細胞だけを選別して残していく。
 だから脱ステ初期は体表面一斉が劇的にぶっ壊れて始まり、末期は球体モデルの表面側から離脱が完了しヤク中から抜け出していくのだ。

 この球体モデルだが、表から見える肌の面だけではなく、消化器の内壁面も『球の表面』に位置すると理解しよう。つまり見えている面が荒れて傷になってぼろぼろ崩れている時には、キホン腹の中も同じことになっているということである。
 そして、あせもであろうが謎の湿疹であろうが、もっと言うとステロイド離脱過程の肌トラブルに限らずで、大事なのは『肌の下にあるものを体外に捨て去ろうとしているのなら、痒かろうが痛かろうが見た目悪かろうが、正常な状態』だということである。

 私は過去を振り返って『外部の悪いモノを体内に採り込んでいく』という方向の肌トラブルを経験したことが無い。痒みも痛みも見た目が悪いのも、とにかく体内にある不要物を体表面から外に捨てているのであれば、一旦は捨てるに任せて捨て切らせ、それをまず終わらせるのが最短・最速の解決策だ。
 体内で不要物が発生する原因あってのことならば、そこに決定的な手を打つ。
 これ以外のことをやると、原因を封じ込んだままこじらせることにしかならない。

 さて体毛の長さ以外にここ最近の顕著な離脱症状といえば、手首足首から先の末端の壊れっぷりが結構きつかった。こないだの正月なんか、11年も経ってなんでこんな目に遭うんだと愚痴りたくなるくらいタイヘンであった。
 両手の爪はガタガタに変形して内出血に起因する黒い縦の筋がいくつも出て、指先の頂点部分が真っ赤になってささくれるように割れた。とにかくパソコンでテキスティングするのさえ痛くて躊躇する時が何度もあったし、ぺとぺとするなあと思ってふと手元を見ると『G』『H』あたりを中心に黒いキーボードの白抜き文字が血で赤フォントになっていて『な、なんじゃあこりゃあ~!』とガチに叫んだ日もあった。
 できるだけ大人しくするだけでは済まなくて、意識してちゃんと指先を確認していないと服を血で汚してしまってますます無駄な用事が増える。流血見落としの失敗に気付いたら、いつどこからやらかしているか探すところから始めなければならない。これにはつくづく参った。

 手の指がこの調子なので、足もただで済むはずもなく、昨夏のうちにくるぶしから下が赤紫色にむくんで、スポーツサンダルでも足がボンレスハムみたいになるくらい膨張し、土踏まず一帯が溶け出すように濡れ傷がいくつも開き続けていた。
 これらが涼しくなってくると指先に移動していき、足指10本が熟れ過ぎて黒紫色になったさくらんぼのようにまんまるパンパンに腫れ、何本かは指先がりんごをかじったように欠損する傷にもなって、酷い激痛が冬の間ずっと続いていた。おまけに踵も左右一ヶ所ずつ縦に割れて大峡谷ができてしまい、これがまたいつどこで流血するか判ったものではないという面倒さである。
 何気なく目を落とすと畳じゅう血痕だらけという日もあったし、座って足を組んでパソコン作業をしていたら、足元に踵から滴下して血だまりができている…という事故も一度二度ではない。家を這いまわって泣きながら後始末である。

 ただでさえ痛くて歩くのも手先の作業も控えたいのに、じっとしていても自分の出血・流血が注意力の隙を突いて、始末に悪いトラブルを起こし続けるのだ。
 ああ、神さま仏さま。ワタシここまでの狼藉はたらきましたっけ。

 いや~ここまで来ると、かつて夜な夜な眠っていて喰らった地獄絵図の責め苦フェーズの頃と同じく、腹が立つとか泣けてくるとかを通り越して、絶対いつか想い出の語り草にしてやろうと楽しみになってくるのである【1010】
 だいたい直近2年ほどこれら顕著な手足のトラブルが続いて、ようやくこの3月一杯ぐらいで収まってきたように思えるのだが、まあ症状の質的にも量的にも離脱フェーズの明確な一段階としてカウントするだけの重みは十分にあったと実感している。
 時々見かける『ステロイド離脱末期は末端症状が酷くなる』という説に合致していて、公認済の定番儀式でいま末期通過中…というのなら嬉しいのだけれど。

 満12年となる今年の年末には、どこまで改善が進んでいるのだろう?
 私と同じく、長いが迷いようのない一本道を頑張っている方、お互いグッドラック!
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