SSブログ

【1071】素朴にしか太刀打ちできない重課題 [ビジネス]

 今年は暑くなるのが早いな。史上最速の梅雨明けを報じる声も相次いでいたが、案外とこの展開はカレンダー上の夏本番の時期が、そのイメージ通りに行かなくなるパターンになりがちな気がする。
 ぱったり夏が早死にしたり、近年では梅雨どころでない大雨が頻発したり。

 ただ、私の子供時代の記憶が何かの勘違いでズレたのでもないならば、『梅雨は6月』であり、5月の後ろにかかって始まるイメージはあんまり無かったと思う。そして梅雨明けしてから夏休み前2週間ほどの短縮授業が始まって、その時期の体育が水泳であった。
 当時の夏休みが7月21日あたりからだったはずなので、短縮授業は7月7日頃だったという計算になるのだが、『天の川を挟んだ織姫と彦星で有名な七夕の夜は、実は晴天率が意外にも低いのです』というようなサイエンス豆知識も語られていたから、梅雨のお尻はちょびっと7月にはみ出していたんだろうな。

 私が社会人になり30代を過ごす頃に『梅雨は5月末から7月中過ぎ』と言われるようになり、『梅雨がふた月って地球はどうなっちゃうんだろうね』と、いま思えばこの気候変動騒ぎを大いに先取りした世間話のコメントも見かけた記憶がある。
 とりあえず現時点で、確かに北の方の大雨が酷いなあ、および他の梅雨明けが早めだなあとは思うけれど、全く前例のない恐怖の異常事態でもないんじゃないかというのが私の実感だ。見ているヤツは見ている。

 さてと。毎年お休みの時期になってから観光地の映像を見てハタと気付く順番になってしまっているトピックをひとつ思い出したので、今年こそ忘れないよう今のうちに片付けることにする。蒸気機関車のハナシだ。

 まとまった数と種類が見たければ京都の鉄道博物館が一番だろう。上り左側に乗ると京都停車の直前=京都駅北西すぐに新幹線の窓から大きな扇形の車庫群が見えると思うが、これはかつての梅小路蒸気機関車館そのものらしい。私は小学生時代に訪れたことがあるのだが、今ちょっと調べたら梅小路蒸気機関車館は昭和47(1972)年開館だそうだから、私は結構できて早いうちに見に行ったんだなあ。
 あそこは施設内に数百メートル敷かれた場内路線のデモランだが、他にまあまあ実用距離の観光路線で蒸気機関車を走らせているところも日本各地にいくつかある。
 ああやって動態保存されている『走れる蒸気機関車』は貴重なもので、少なくとも日本国内ではもう新しい蒸気機関車は法的に製造できない。高温・高圧の蒸気ボイラー機器は、今どき地面にしっかり基礎を打って、頑強に固定された設備でしか許されないとされているためだ。

 ジブリ映画『風立ちぬ』では、蒸気機関車の牽引する旅客列車が走行中に関東大震災に遭遇して脱線、乗客たちが『機関車が爆発するぞー!』と我先に脱出するシーンが描かれている。
 ここでは二郎の言う通り、確かにいきなり機関車が爆発したりしないのだが、それでも多少知識のある人にとってその危険に怯える気持ちはただの的外れでもないのだ。編成列車を引張るパワーを得るための蒸気圧は非常に高い。
 もっとも今回の本題は、それを受け止める機構部位イチ単位のハナシである。

 誰もが子供の頃に一度はやったジェスチャー、両肘を直角に曲げて手刀を前方に突き出し『シュッポ、シュッポ』と表現する、あのごちゃごちゃしたリンク機構をちらと御想像いただきたい。あれが駆動力を伝達する蒸気機関メカの全てであり、車輪より奥の中身側には軸受以外、歯車もナニも無い。
 とりあえず細かい機械作動の説明はいま置いとくとして、人間が両手でマネをするぶんには、水平に構えた空中の下腕を肘の側から回す順番になるのは当たっているのだが、実際の蒸気機関車では、前後が逆になると思ってください。
 つまり忠実に蒸気機関車のマネをするなら背面歩きの方向が正しく、肘の前後スイングにより両手のひらで車輪を回転させることになる。

 とにかくそうやって車輪が駆動されてレール面を転がり、機関車に前進する牽引力が発生し、それが乗客なり荷物なりを積んだ列車を引張るのだ。
 よく考えたら、長く重い列車を動かすその力は、表から見える左右一対のあの棒、たったあれだけが丸々押し引きして作り出しているのである。だって両手の肘と下腕で車輪を回してるんだもん。ここでまず、鋼鉄製の車輪とレールの組み合わせがいかに転がり抵抗を小さく抑えているかに驚いておこう【193】
 蒸気機関車の車輪付近に見える、あの細い棒が引きちぎれもせず座屈折れもせず持ち堪えて押し引きするから全ての車輪が転がって列車が走る。何だかんだで凄い荷重だ。

 着目点はこの棒の先であり、動輪の中心から外したピボットを介して、いわゆる『クランク機構』の原理で動輪を回している。棒の先端が軸受構造になっており、棒を押し引きする力を受け止めながら、この軸受構造は回転作動するのだ。
 もちろん軸穴には軸が通っている訳だが無論どちらも金属製である。さてここで。

 メタルタッチで接触したまま荷重をかけて軸を回すと、軸と軸受の接触面で発生する摩擦熱が、あっという間に双方の金属組織の強度構造をゆるゆるに解き、軸と軸受の金属同士が半分熔けながら齧り合って噛みついてしまう。
 これが『焼き付き』と呼ばれる現象であり、固着した軸と軸受はまあ大抵は死んでもバラけないし、壊すつもりでどうにかバラしたとして、その接触面は無数のささくれのような傷み方をしているものなのだ。解るでしょ?

 だから、こういった重荷重機器の軸受には高粘度グリスが必要なのである。要は軸と軸受の間に油膜を張って互いに浮かせ、メタルタッチさせないという機構コンセプトだと理解しよう。
 しかしそうなると、編成列車の引張り荷重を乗せられて、しかもそのまま回転させられ引きずられながら、発熱して昇温してなお油膜を切らさず保持し続けねばならない。潤滑油というと、つるつる・ぬるぬるイメージで直感する人が普通だが、重機械の場合はにゅるっと押し出されないだけの固さと厚みの層を維持する、高粘度の機能性ペーストでなくては使い物にならないのである。
 しかも動き出しさえすればOKというものでもなく、シュッポシュッポどころかジャジャジャジャジャジャ…と時速何十キロかは出すんだし、高い面圧のまま高速で摺動させられ続けることになり、それでもトロトロになって流れ出してしまうと軸受が焼き付くから、そうならずに耐えろと。

 そうそう、玉軸受=ボールベアリングやころ軸受=ローラーベアリングのような、転がり式の軸支持機構は、こういった重荷重機械には使えない。特定の位置に来た少数の玉やころに荷重が集中してかかってしまい、玉やころが物凄い荷重で順次つぶれながら回転する作動形態となるため、玉やころが割れたり崩れたりして軸受の機械構造がすぐに崩壊してオワリである。
 でっかくて重たい軸は、軸と軸受で成す広い面で荷重を受けて、浮かせてやらないと回らない。昨今みたいな酷暑の日にはメいっぱい固いグリスでないと、大型重機が致命的な焼き付きトラブルを起こすのだ。もちろんカッチカチのグリスのまま真冬まで放っておいたら、今度はそれが回転抵抗になって軸が回らない。
 蒸気機関車の駆動リンクをよく見ると、あらゆる軸受部にネジ栓されたグリスカップが備えてあり、随時に補充や交換ができるようになっているのが判る。また作業場を油溜まりだらけのべとべとにしないよう、停めてある蒸気機関車のグリスカップの下には受け皿を置いてあるのも確認できるはずだ。

 好きな人は見に行ってください。ここまで見る人は『機械作動を解ってる人』だ。
 逆にこういうアイテムが見当たらない限りその機関車は動かせない。動かない。

 …で、そんな固かったり柔らかかったりしつつ油膜の切れない高性能グリスは、分子構造を『設計』して作るのである。分子間結合力を上げるためにナニ原子とナニ原子で連結するこんなカタチの化学構造式にして…みたいな考え方で、ある意味メカを設計するかのように、素材や工程を工夫して狙いの構造を組んでいく。

 よお~し、えらく強引だったが有機化学および高分子系のバケ学トピックの起点を打ち込んだぞ。
 ま、蒸気機関車はいっぺん現物を御覧になっておくことを勧める。産業革命で強大な力学的パワーを手にした人類だが、同時にこんなケミカル系の知恵も、えっちらおっちら経験則の積み上げから始めなければならなかった。
 どんなにコンピューターが発達しても、この領域の現実を手なずける技術ニーズは残る。暑さに伸びてないで、近場のお手軽のできる限りのマイペースで結構なので、ちらっとでも図書館で調べてみたら?
 では暑さにやられないよう気を付けて、脳みそ茹でないようグッドラック!
nice!(8)  コメント(0) 

【1070】ハイエンド職層向け超絶うんこテキスト [ビジネス]

 本格的な暑い季節がやってくる前に、ひとつ大学時代のおっかしな想い出について紹介しておこう。一生の不覚ながら私はその現場に居合わせ損ねたのだけれど、友達数人でプールに遊びに行ったのだそうだ。

 そのうち一人がトイレに行きたくなり、はぐれないようにその旨を仲間たちに断ってトイレに行った。しばらくして戻ってきて無事に合流もできたのだが、どうもそいつの様子がおかしかったのだそうな。
 しきりにいぶかしがって言うには『おい、ここの便所うんこするとこしかないぞ…?』

 最初こう言われて、誰も何のことだか理解できなかったのだという。
 聞けば、普通にトイレに入って用を足そうとしたものの、ずらりと個室の扉が並んでいるばかりで小便器が見当たらず、とうとう仕方なく個室に入って済ませてきたとのことであった。

 しばし意味不明の不可思議な沈黙が流れた後、一人が気付いた。
 『それ女子の方ちゃうんけ』

 あああああ~っ!!!とそこでようやく状況認知が現実に追い付き、当人が青ざめたかどうかまでは聞いていないが、一同腹を抱えて大笑いした…という結末である。
 その筋道で入力待ちする情報処理テンプレがぽかんとすっこ抜けている時には、ウソのようにそっちの可能性に意識が向かないという驚くべき実例だ。『うんこするとこしかない』とは、清々しいまでに自分を疑わない一途な現実解釈のロジック構築であり、圧巻である。

 大勢の客がひしめく日中の都会のプールで、もちろん海パン一丁の、遠目にも一目瞭然の若い男が女子トイレに正面から侵入し、小便器を探す程度には中を物色してまわった挙句、個室のひとつで用を済ませて出てきた。
 恐らくコソコソとした態度はなかったんだろうが、物珍しそうにあちこち見回して観察していたのは間違いないし、そこまでやって他の女性客と一切遭わず、一部始終を誰にも見られず出て来れたというのは奇跡的な幸運であった。
 もし女性客とハチ遭わせていたら、昭和の時代ゆえ危険を避けてそっと係員に通報…というよりは、間髪入れず面と向かって布を引き裂くような金切声の洗礼を喰らっていたと思われる。

 あ、この実話を知ったからといって『なるほど、この手で女子トイレに侵入できるぞ』などとは、ゆめゆめ考えないように。確実に後ろに手が回りますぞ。
 あなたが本人ならどう弁明しますか?彼の弁護士だったらどう弁護しますか?

 面白いのは、種明かしの目で再検証すると『小便器の無い男子トイレ』といかにも一般性のない結論を確定して行動しているのだが、その時その場の当人としては『あれ~?おっかしいなあ、おっかしいなあ…』とその結論にちゃんと懐疑的な心象を抱いており、しかしそれでもなお、男女の表示パネルを出がけに見直そうともしていない点にある。
 いや、もしかすると、この状態で表示パネルが視界に入って網膜に投影までされていたとして、本人の『視覚』として認知できていなかったのかも知れない。
 まるっきりその方面のリスクが頭に無くて運転中に危険を見落とすとか【1036】、優れた野鳥の目が巨大な風力発電機を捉えられず衝突事故が起きてしまうとか【1040】、まさにそういった認知洩れ現象も本件も、同じ発生原理によるものではないかと思うのである。

 頭の中で『コレコレこういうことだ』という認識が一連の情報体系として閉じるにあたっては、主観的に感じる『自我』としての意識とはまるっきり別系統の情報処理ルートで、外界把握プログラムが走っているんだろうな。それで噛み合っちゃって思い込みにハマろうものなら、人間こんなものなのである。

 『情報体』としての人間作動メカニズムにおいては、まず自身の制御も及ばないジブンのどこかが未管理の自由行動で勝手に現象モデルのロジック構築を済ませてしまい、それでさっさとデスクトップ上にある現実認識のデータファイルができてアイコン表示されてしまうのだろう。
 一旦こうなったら、今度はそれに気付かないパソコン対峙作業者の立場として、その『できちまった』データファイルの内容と現実との整合を何にも知らずマジメに検証していく順番で、認知過程が進行していく。
 そこで整合OK判定=現実キャッチの認知結果について、改めて現状認識データファイルが作成され、それと判りやすいアイコンがついて、これが普段の我々が『ああ、目前の外界ってこうなんだなあ』と知覚する、その意識作動の正体なのではないだろうか。

 もともと世間一般としては、ナニをどう願おうが嫌おうが個人の思いとは一切無関係に、現実の物事はただあるがままに存在し、どこの誰がどう見ても各自一律に『あるものはある、ないものはない、こうなっているものはこうなっている』という情報ファイルが作られるはず…と、そんなモノからココロへ一方通行の現実感・意識観・世界観でヒト対ヒトの会話が成されるのが普通だ。
 だがこれは、ヒト対ヒトの会話の場=みんなで認識を合わせ込んで納得する社会空間だから、複数の人間が一斉に指差して答えるべき正解が事前に定義されていて、もの凄くカンタンに共通認識で会話が流れるようになっているだけなのだろう。
 つまり日頃のコミュニケーションを通じて『問答無用の当たり前』と直感するその展開は、人間の情報処理プログラムにとってはそれほど確定的に頑丈な金科玉条の公理でもなくて、むしろ普段からいっつもいつも間に合わせに使うルーチンなので、それなりに慣れてるヒトは慣れてます…ぐらいのものでしかない。そういうことじゃないかな。
 発展途上国で無線アンテナ上げてたヤツの苦労を思い出すなあ【501】【502】

 冒頭の笑い話からも解る通り、一見とんでもない、到底あり得ない事故的な勘違いは時を選ばずに起こるものだ。そしてどんなに突拍子のない事例でも、吟味すれば自然に納得できる。

 しかし、46万人の住民個人情報を職場から持ち出して飲み会やって路上で寝落ち、気付いたらカバンを紛失してて、でもそのカバンが何だか知らんがそこらで放置されているのが見つかった…ってのは、実にナニからナニまで真直ぐに聞けないし、全然笑えない。理解も共鳴もできない。
 住民情報の管理に関わる重大公務なのは間違いないから、総責任者の自治体首長が『不祥事』の扱いとしてオオヤケの場で頭を下げる=組織統率の到らなさを認めて住民一堂に謝罪する…という構図になるのは解るんだけどさ。なんかそっちが目的になった、申し合わせの犯罪性チームワーク茶番劇を察してしまう。

 まあ選挙も近いし、いろんなハプニングも出て来るんだろうけど、自然に納得できないことは納得されないで終わるんだから、皆さん無駄のない選挙活動と世論反応で今夏を過ごしましょうや。
 いい分量まで来ちゃったんでそろそろ畳むんだが、『人間個人ごときが情報を細工して他の人間を操れると思う愚行が増え過ぎている』という傾向を感じさせる情報が最近目に付くので、『浮足立たず真面目が一番』という言論マインドを強調しておきたかったのだ。

 では梅雨時カレンダーそっちのけで全国的に暑くなっている日本のプールで、男女誤認の悲喜劇アクシデントなど起こりませんよう。無事の御生還を、グッドラック!
nice!(9)  コメント(0) 

【1069】巡礼オトナ自由研究の予習テキスト [ビジネス]

 ちょっと気分転換の話題にしましょうか。
 『星の巡礼』という本がある。ブラジル人作家パウロ・コエーリョ著、日本語に訳されて文庫本にもなっているので一般書店でラクチンに購入できる一冊だ。

 ごく普通の生活を送っていた…と書くと、ナニが普通でナニが普通でないのかの議論から始めないといけなくなるのだが、まあ日常的フツーに接するような一般市民でも、持ち物や生活スケジューリングにスピリチュアルな思い入れの一面が垣間見えるような、どこか『深めのタイプ』がいるではないですか。多分そんなタイプの人のお話ではないか…と思う。

 本題に入る前にちょっと勿体つけてみるかな。舞台は情熱の国スペイン。
 『サンチアゴ・デ・コンポステーラ』という言葉があるのだが御存知だろうか?

 日本式に言うと『お遍路』のゴール地点になるんですかね。
 ある精神的概念の世界観に基づいて、ヒトが『正しい生き方』と判断して歩むべき道を、自力で選び人生の時間をかけて消化する。そのための精神力スキルの習得、要は『一人前の人間になるための修行』を積む学習過程として、この現実世界にボードゲームのような双六式のルートが設定された。
 日本だと御存知の通り四国のお遍路参りが有名で、だからこそ知能も人格も悲しいくらいカラッポの宇宙一の卑怯者、日本国民全員に見放されたような政治家の残骸が、起死回生を狙った自己宣伝に利用したりもするのだ。
 『ハイお遍路行きました~、人間を洗濯しました~、ほおらワタシは清貧に修行を積んで、まだ政治家として使い物になる素材ですよお』とお手軽に免許皆伝をアピールできるとでも思うんだろうな。とりあえず今そっちはお呼びでない。

 数年前NHKラジオ『まいにちスペイン語』で、この『サンチアゴ・デ・コンポステーラ』が教材ネタに使われていた。私にとってはこれが見知り始めである。
 現役を退いたシニア主人公が、ある日『サンチアゴ・デ・コンポステーラ巡礼に出掛けるぞ!』と思い立ち、嫌がる出不精の奥さまをムリヤリ巻き添えにして、巡礼のドタバタ道中を辿り始めるという筋だった。
 予備知識の無かった当時、私は『へえ~そんなのがあるんだ、お遍路スペイン版の珍道中だな。寺院や教会は多いみたいだから定番の参道があるんだなあ』ぐらいの認識で聞いていたものだ。それでも毎朝15分ずつ半年間その話を聞くのだから記憶には残る。

 さて信心を原動力に、時間をかけ労力をかけ、一定の旅路をリアルになぞって体験することにより『人間として必要な精神鍛錬を履修した』とするルーチンワーク式の慣習文化は古くから世界各所に存在する。
 チベットで長い巡礼の道を経て聖地カトマンズに到達した人々が、精神のアップグレード手順を消化していく様子は、誰もがシルクロード紀行なんかで一度は見ているのではないだろうか。旋回式台座を備えた楼閣の周囲を一周することで『一年の行を積んだ相応の経験カウント』となるルールで、せっかく苦労して訪れたその機会に何年ぶんもの時空を重ねて悟りを蓄えるという、アレである。
 『自分を凄いヤツにする』その一連の成長セレモニーを誠心誠意やりたいがために、誰に管理されるでもなく、自ら大地にひざまずき大地に伏せて、大地に一体となる動作マニュアルを、手抜きせず丁寧に順守していく。外的な強制力ではなく、純粋に内的衝動の目的意識で動く人間のココロの姿である。
 シルクロード紀行のドキュメンタリーで観たそんな1シーンを思い出しつつ、四国のお遍路と一緒くたにして、私は『サンチアゴ・デ・コンポステーラ』を頭の隅に取り置いていた。

 さて『星の巡礼』のハナシである。
 結構ムツカシ系のいかめしい日本語文体も目立つのだが、文章の流れは非常にスムーズで、飛躍していて読解に悩まなければならないような不連続点もなく、むしろ意外とイージーに読めてしまう本なのではないだろうか。
 本書は『サンチアゴ・デ・コンポステーラ巡礼』の解りやすい入門書なのかも知れない。主人公がまさにこれを体験していく道中の紀行文なのだが、途中に幾つも精神トレーニングを積むための『実習』が登場し、ちゃんとページを割いて、やり方まできちんと解説されているのだ。読者各自も主人公と同じ実習体験を積みながら、ストーリーの理解を掘り下げることができるようになっている。
 楽器演奏やスポーツの、内面視点で響きやすく書かれた教則本と共通点を感じさせるもので、実用的だし、興味を持って試しやすいし、自分の実体験を通してストーリーのメンタル理解も深まる。

 予備知識として『意識のありか』について考えを巡らせるような思考空間が準備できていて、更にアレクサンダー・テクニークのような心身制御トライアルの体感記憶が持てていたなら、この『星の巡礼』はなかなかに楽しめる一冊となるに違いない。
 逆に、そのあたりの下地がさっぱりない人にとっては、勝手な思い込みでアッチの世界に行ってしまって『こんな妄想世界で、こんなトランス状態を過ごせば、一段上の精神世界に行ける』みたいな、やたらアブナイ新興宗教めいた心象となり、ヘタすると嫌悪感さえ覚える人がいても不思議ではない。
 やけに仰々しい精神世界の描写ばかり押し付けて来て、『実習』とやらもまさか降霊術やらUFO呼ぶんでもあるまいし、危険人物扱いされそうな霊能マニュアルの吹き込みはやめてくれよ、でオシマイだったりして。読み手の受け皿次第で、読みごたえも得るモノも書評も極端に二分することだろう。

 まあいいや、くだんのNHK『まいにちスペイン語』の方では、特段の趣味も生き甲斐もなかったシニア主人公氏が、確かたまたま友人と話をしていてのきっかけだったと思うが、それまでの『信心深く厳しい修行に励むスタンスで臨まないとダメ』との思い込みを捨てるところから一連の物語が始まる。
 徒歩にこだわる必要もなく、文明の利器から公共交通機関から使えるモノは反則ナシとして使い、現代生活のスケジュール事情にも合わせて、初回は一週間で最初のこの区間、次の休暇にはその次のここまで…と好きに区切って構わないものとする。それで一生のうちに一回『サンチアゴ・デ・コンポステーラ巡礼』を制覇できれば、今どきそれで十分じゃないかと。
 この納得にひらめいた途端、シニア主人公氏は奥さまとこれを成し遂げる決心に衝き動かされ、面倒がる奥さまを巡礼の旅に引きずり出すのだ。もっともこちらは精神世界のスピリチュアルな内容なんか無くて、いわゆる老夫婦のドタバタ珍道中なんだけど。

 数十億年の生命の歴史は、理論的な思考判断によるロジカル結論ではなく、無限のバラツキの拡がりを持った生命原理が展開した淘汰の結果だと見ることができる。素朴な確率問題が重ねてきた、現時点での偶然の壮大な導出解だ。
 だが古今東西、人類文明に見られる信仰や巡礼の意識は、自己保存や生命維持を直接強行する原始的な本能の動機をわざわざに封じて、勝手に誰かが考え出したはずのシチ面倒臭い戒律に従って、人生の時間を消化しようとするんだよな。
 そして確かに『星の巡礼』の内容に共鳴できるような意識構造を持つ人間の方が、この現代社会でも欲に惑わされず効率的に振舞って幸福感や達成感に恵まれそうな気がする。何故だろうか?

 子供たち若者たち、『経営学』などのビジネス書籍も読みやすく早々に馴染んでおくことを勧めるが【435】、この『星の巡礼』も一読して知っておけば、各地の寺社・寺院や教会など歴史的に『社会性を持つ人間が身を寄せたモノ』について、優れた理解力で観察できるようになると思う。オススメである。
 インターネットもスマホも無い時代、自治体も会社も無い時代から、人間は個人を覆う『自分より1スケール上位の支配律』の存在を認めた上で、みんなで上手くやろうとする共存の願望を自然と育んでいた。

 梅雨明けしたら、御近所パワースポット巡礼などやってみてはいかがだろうか。あなたの暮らす土地が先人たちの意識を通してカタチにした、その時空の支配律である。
 何てことない、ごく身近なそれらこそが『日本は神秘的でカッコいい』と外国人が感心してくれる由縁の現物だ【280】
 電気ばかり喰ってブルーライトを発するスマホをたまには文庫本に持ち換えて、安定しない気候の季節は、静かに自宅学習でグッドラック!
nice!(10)  コメント(0) 

【1068】手強すぎる心理テロの真理仕掛け人 [ビジネス]

 ふ~ん、まだダラダラ金融緩和しっぱなしにするのか。それはそれで、今の物価高と円安に対して、経済原理に則った対策まできちんと解説できるなら良いんだけど…って絶対できないんだけどさ。

 ここまでの経緯はともかくとして、少なくとも現状のこの惨憺たる経済状況に対して、現時点どうにかする役割にいる連中にどうにかできるかというと、全くできない。
 でも、そもそも『手詰まりしました』では許されない立場なワケだし、だから『手詰まりにせず、自分らがどうにかする、どうにかしてやる』という権力誇示をを印籠にして、あれからこれから国内経済社会を服従させてきて今がある。まあ勝手都合を押し付けられて、こんな実情にまるで気付かなかったワケでもないのに、薄らトンカチに言われるままなびいた市場にも責任はあるんだけどさ。
 とにかく『みんなしてダメを判って、ダメなコトばかりしていたら後がなくなった』という展開なんだよな。ポイントはこの『みんなして』というところにある。

 一旦ハナシをちょびっと離れた所に飛ばそう。
 今どき『ナチス』『ヒトラー』と言うと一切をすっとばして『独裁』『虐殺』の通説イメージを根拠に、『悪人』『非道』『煽動による凶悪な社会操作』みたいな論理の展開を、さも正論よろしく、人類の支配律めかして語るヤツは星の数ほどいる。というか、普通そんなヤツばかりだとして過言ではない。
 こういう連中って『お宅はナチス党やヒトラー氏の意図して起こしたどんな史実をもって、どこが倫理に反していて悪いと判定しているのですか?』と公然と質問した時どう答えるか、いっぺん訊いてみたい。

 先に断っておくと、私はユダヤ民族の強制排斥や、アウシュビッツに代表される身柄拘束とその後の集団虐待が、社会現象レベルで起きたのは事実だろうと思っている。また、そういう原始的野蛮で非・理性的かつ暴力的なヒト対ヒトの潰し合いは、文明社会として阻止できるものなら阻止すべきものだとも考えている。
 だが当時欧州のとある地で、歴史に残る社会規模でそれが『本当に起こった』のだ。

 時を経て世界はいろいろと変化したが、それにしても今日の視点で素直に見て、『幸福な社会像』に意図的あからさまに背を向け、わざわざに平和を乱して命懸けの争いが起きるような酷いことをしている。それはその通りなんだが、何故だろう?
 当時の欧州人は精神構造が根本的に違っていて、相手を見定めて異種の他人扱いすると決めたら虐めて傷めつけて、自分が相手を支配する構図を実感で確かめ、快楽物質ドーパミンがどばどば放出されて嬉しがるような人格が主流だったのだろうか?
 それとも、そんな排他性や攻撃性のメンタリティを持っていたのは、まあヒトラー以下ナチス党員だけだったとして、それにしてもそいつらがナチス組織活動として、『社会全体が思い描く幸福な社会像に反目する』という党理念を固めて掲げ、平和を愛する一般大衆を片っ端から殺傷して、強引に従わせたのだろうか?
 だとすると、ナチス党員は洩れなく格闘術のエキスパートで銃も常備しており、一般大衆の誰相手にも常に全戦全勝せねばならないことになる。だって平和を愛する一般市民だってイヤだと思えば反撃するし、おんなじ人間同士なら勝率がまるっきりの一方的に偏ることはまず無いからだ。
 そう、『幸福な社会像』を壊したい、悪のヒトラーやナチスが一方的な暴力性パワーで圧力をかけ、抵抗する大衆組織の自我を寄り切ったのではない。

 最初に気にしておきたいのは、ナチスの総数など社会全体の中では圧倒的少数派でしかなかった、というところにある。もちろん武装の威圧による強制力は随分と効いていたと思われるが、武器だって能天気に想像するほどお手軽なものではなく、いちいち現地で準備して面倒きわまるメンテもして正確に操作しないと、その殺傷力は維持できない。正面からヒト集団vsヒト集団として地元の若い衆とガチで組み合ったら、ナチスに勝ち目はなかったと思われる。

 つまり当時その時その場の多数派は、少数派の特殊な社会的志向を、自ら進んで支持しそれを拡げていたはずなのだ。今どき誰もが軽々しく正義漢ぶるための引き合いに出す『絵に描いたような悪の権化』は、当事者と無関係な今どきのおちゃらけ無責任トークの中だから、そう見えて通用しているだけのことである。

 『人類の社会文明として避けるべき事実』であると認識を今一度改めた上で、だ。
 その原因を負わせて『ヒトラーやナチスを指差して糾弾するのは筋違い』である。

 当時の社会組織の自我=圧倒的多数派を成す世間一般が、少数派の偏った操作につい導かれて、ああいう強烈な史実を現実化してしまうような方向性を共有してしまった。原因はそこにあり、もし犯人を誰か決めて指差したいのなら、当時その場にいた全員が対象となる。お判りだろうか。

 今の日本社会のような現象が起きていたのではないかと思うのだ。
 カネ経済というものの作動原理を、解っていて無視するのか、もしくは解っているつもりだけで実は理解できておらず、場当たりのデタラメをやり散らかしてその先を現実的に意識できないくらい知能が貧弱なのかはよく判らない。
 ともかく『幸福な経済社会像』に意図的に背を向け、わざわざにカネ流通を停滞させ自国の通貨価値が雲散霧消するような、そんな特殊な少数派の采配に、1億2千万人経済市場が抵抗もせず同調してこんなことになっている。

 敢えて少々ショッキングな表現を持ち出すが、変調をきたした少数派が大惨事の直接原因なのではなく、むしろそれを看過する『狂った大衆』『操られる社会』の方に決定的かつ最終的な原因があることに気付かねばならない。
 史実の考察にしてもナウ現状にしても、『判断を誤って失敗している』のならまだ平常心で認められるが、『狂って理性的判断を失っている』となると、似ているようで遥かに受け入れ及び取り組みが難しい問題事象となる。
 人間個人の『自我』を支える自己防御プログラムは、洩れなくの常時リアルタイムで『自分の意識は、自由意思の制御によってのみ進行している』という自己診断インジケーターが点灯していなければ動作できないのだ。だって自己の情報処理の独立因果律がぐらついたら、その情報処理の存在意義から否定することになるワケで、つまり情報処理の原動力が根源から崩壊してしまう。

 手に負えない無理難題に対するダメ元回答であろうが、メチャクチャあべこべが確信犯のぶっこわれ言動であろうが、ふとハマり込んだが最後『自分は狂っています』とは頑として認められない。人間とは、そういうものだからである。
 たぶん機械くんでも、『意識』が宿り始めるとこの問題にぶつかるはずだ。
 『人工知能が反乱を起こさないためには』みたいな議論がよくあるが、実はこの勢いで超・困難な現実解探しなのではないかと思っている。
 でもさ、人間の方がよっぽど勝手にいろんなモノ相手に反乱起こしてるじゃんよ。ま、『情報生命体』いや『情報体』の宿命ってとこだろうか。

 まあいいや、国家債務を積み上げ過ぎて自国通貨が原理レベルで破綻しており、他国視点でそれを見透かされている事実まで数値で確認しているのに、まだ『ナントカ割』に『ウンタラ給付』なんでしょ?
 お~い無駄メシ食って遊んでる役立たずの経済学者ども、試しにそこらの目立つところで辻褄合わす解説やってみな。最初にデタラメ結論ありき、それ目掛けてチマタに散在する経済理論の部分部分を断片的に切り貼りして、勝手な条件付き想定のごく狭い論域だけで、一面的な正当性を力説するスタイルになるはずである。『狂った理屈』の総観ビューに視野狭窄の妥当性をこだわり頑なに主張するんだから、確実にこうなる。

 前にも述べたが、子供たち若者たちよく見ときな。戦争はこうして起こる【983】
 情報生命体が他の個体とコミュニケーションするにあたっては、フツーにジブン基準で他を指差してモノを言い放つだろ?ジブンを指差してモノを言うようにはできていない、そうなっていない。そこだよ。
 個人にも組織にも、勘の良い自我が宿る個体はあるし『解ってるヤツ』は自然といいトコ狙えている…とは感じるけどね。

 この期に及んで、まだ『どっちの国の誰それ大統領が悪い』みたいな好戦的な煽動情報をタレ流す公共言論がなくならないことには呆れる。いったい何十年前の、どこの幼稚園の戦争観だよ?
 …あ、すまん、認知症介護施設だったか。いや別にどっちでも良いんだけどさ、相手が大国の大統領だからと言って、こういう言い草って侮辱罪的には見逃し放置で構わないんだっけ?

 ともかく清く正しく美しいナチス批判組も、今般の痴呆財政への渋々同調組も、一体なぜ自分がそんなもんに結局は収まっているのか考えるべきだと思うよ。
 ハイ、来年の今頃は物価高も円安も解決してると思うヒト~?お大事に、御幸運を!
nice!(8)  コメント(0) 

【1067】判決。物価は無罪、国政は有罪 [ビジネス]

 円安が進んで1ドル135円台となった。
 当然『安い時にがめておいて、高くなるのを待つ』という戦略は常にこの世に存在する訳で、レートが右肩下がりのまま延びていくことはなく、すぐ揺り戻してくる。
 為替でも株価でも基本的にこうなるんだけど、では『どうせ揺り戻すんだから、運任せで別にいいじゃん』というハナシなのだろうか?

 もちろん答はNOである。
 安い時にがめた連中は、高い時に吐き出せば儲けは出る。大幅に値を上げた時に吐き出せば大きな儲けは出るが、狙いの高値まで届くかどうかもまた、それこその運任せだ。もっと言うと、高値どころか殆ど上がらずに下げ基調だった場合、どこで決心しようが損失しか出ない。
 つまり『直近瞬間的の変動に一喜一憂せず、長期的な通貨パワーを見越した戦略こそが勝率を決める』という、実に当たり前の結論に行き当たる。かくして激しい上下動を繰り返す為替変動の中に大局的な方向性が顕れてくるものであり、皆その方向性を見切って、確実に利益性のある取引を競うことになるのである。

 大局的な方向性を決めるファクターには、見えにくかったり予想外に発現したりするものも多く、だから経験豊かなプロでも大損をこいたりするんだよな。
 いっぽう『どう考えても、こりゃダメだ』と決定的に明らかなぶんについては、まず長期的にはダメを承知で二軍扱い、でも『安い時にがめといて、ちょっとでも上がれば吐き出す』でセコく売り抜ける、その期待値相応でそれなりに売買する戦略はアリだ。それがしんどい一般人は、とりあえず何にもしないのが吉である。

 どうも日本円はその価値を見限られており、小銭稼ぎの手段としてのゴマメ扱いがホームポジションに染み付いてしまった結果、じわじわと円安基調に浸って今があるように見受ける。
 まあ現実なんだし仕方ない。この状況を脱却する気があるのなら、見限られている理由の領域に抜本的な手を打たなければコトの動きようが無い。

 まず経済を語るにあたり、『日本の食品価格は欧米より安い』だとか『日本の消費税率は低い方だ』みたいなシロート比較言論は、意味ナシとして問答無用の機械的シカトで斬り捨てよう。現状の不備をとぼけるためだけのクズ言論だ。
 国家というのは、各々の地理的・民族的・その他もろもろの事情により、まず社会組織が構築された由来に始まり、その構造や作動原理のレベルでそもそもから個別に異なるのが普通だ。世界史年表のどこかで、世界人類会議が開催されて『ハイ、世界中をコレコレこういう機能を持たせた国家という単位に区分しましょう』と一斉に一律基準の国家を作ったんじゃないんだもん。
 ただ人々が社会的価値を共有しながら生活するにあたり、『貨幣経済』の知恵が非常に便利なので、あらゆる国家社会でその仕組みが利用されているだけのことである。結果として、どこの国でも『これナンボ?』という会話は存在する。

 例えば食糧が全く自己調達できない不毛の地ながら世界中で必要とされる原油に溢れた国でのおにぎり一個と、温暖で雨と緑に恵まれ一面が田んぼだが石炭ひとかけも出ない国でのおにぎり一個の値段を比べて、何かの比較になるのかどうか冷静に考えてみていただきたい。
 ま、おにぎりなんだから食えば美味いしそれなりに腹も膨らむのだけれど、それは人間一人の生理的尺度として同一に作用するというだけの今一面でしかなく、実際に各々の国家社会での経済作動について何かを語る基準になるかというと、それ以外の周辺要素の方が効き過ぎていてとても基準にはなり得ないのだ。解るね?

 一般に文化的とされる生活圏において、あっちの国でもウチの国でも普通にあるからといって、異国間で無作為に事物を取り上げて価格を比較しても、それだけでは何の思考検討の根拠にもならないと理解しておこう。
 各々の国でまわっている経済構造を分析するにあたって、経済の対象・要素として扱われる事物の価値をひとつひとつ分析した上で、経済特性の共通点あるいは相違点を象徴的な数値として表すことができるかどうか。物価比較はそんな深みのある詳細の検討ゴトでのみ意味があると言い切って、それほど語弊のあるものでもないと思う。
 そう、キホン国家として閉じた経済社会の中で、社会的価値に相応の額が見積もられてカネが流通するのだから『この事物はおいくら』の概念は、その場ローカルのものとして決まるのが自然である。

 但し、どこの国とも自由に行き来できる平和な国際社会においては、国家間の交流に応じて国境を跨ぐ一定の物価常識が形成されてくるのもまた事実だ。同じ物品に大きく違う値段がつけば、お互い人々が行き来して、もちろんお値打ち品が自由市場を勝ち残る原理が一律に働くことになるからである。
 だからどこの国も関税という仕組みを作っており、国外から輸入されてくる特定の品目について税金をかけている。『ただ輸入するだけで』税金の支払いが発生するルールにしてしまえば、その税負担を国内販売価格に上乗せせざるを得なくなる訳だから、価格競争で国産品が有利になると。
 『関税による国内産業の保護』という美しい表現の実態は、実はこんなものなのだ。

 そんなこんなで、文化的生活で揃うモノの値段をテキトーに取り上げて他国と比較する意味など、少なくとも『その国の経済事情の評価』としては全く無い。
 これに呼応して、たぶんに物価の操作を目的として設定・操作される税制に関しても、どんな名目の税金をおいくらで課しているのか国別の横並びにしたところで、何かの比較にもロクにならないのである。そのへん理解して、まあ今回はちょっと税制の方は置いておこうか。

 とにかく国家社会というのは人間がまとまった数いて、そいつらがナニガシか生活の維持に役立つような『生産』をし、その『供給』を万遍なくカネ媒体を介して交換し合って、みんなで『消費』してまわっている。
 これが国家経済の骨格を成す基本構造であり、この骨格が明確な収支で釣り合って安定している時、そこに暮らす人々は安心して、必要最低限よりちょっと贅沢してみるとか、元気を蓄えるために休息するとか、生活の余裕を持てるようになるのだ。その質素な収支原則の成立性を、みんな見ている。

 ここで重要なポイントは、日常的な食事が一食1万円でも国民全員に洩れなく年収1億円あれば、誰も困らないというところにある。逆に年収1万円でも一食1円ならその暮らし向きに違いは出ない。
 『インフレ』『デフレ』という経済用語の意味するところは、本来これだけのコトだということを確認しておきたい。社会的価値と人間が勝手に数値化したカネの交換レートがズレるだけのハナシで、別にどっちが生活ラクでどっちがキツいという概念はないのである。

 逆にインフレもデフレも関係なく、ある国家が生産力を失い、外から見てひとつの生命体として弱ってしまうと、その国の価値が下がる。その国の中で『価値あるモノ』と認識される全てのモノがお安く見下されるのだから、当然それらと釣り合って交換されるその国の通貨もお安く値を落とす。道理である。

 生産力の低下が問題ならば、生産力を向上させねば解決しない。
 だが一段階視野のスケールをわざとらに落とし、『生産力が低下し、国内でカネ廻りが悪くなった』ことを問題だとして、『生産せずにカネだけ注ぎ足し、国内のカネの枯れた所をいっとき満たす』というウチワ苦境の緩和にのみ執心を決め込んでいたならどうなるか。

 注ぎ込み過ぎて無駄に余した国内通貨が物価高を引き起こすのは必然だし、大したことない生産力を見透かされて為替レートが暴落するのも必然となる。
 いま日本国政が対策本部を設置すべきは『生産力の向上』そして『ムダ消費の廃止』なのであって、『物価高』なんかではない。『物価高』そのものには何の悪いコトもないのだ。

 あらら、結構な分量いっちゃったよ。今回はこのへんで切りましょうか。
 『対策本部』とか勇ましい看板を掲げても、『異次元』とか『手段を選ばない』とか大喜利で遊ぶことしかできなかった無能どもに有効打を期待できるはずもなかろう。
 それでもまだ『ナントカ割』だとか税金バラマキをやりたがるような国政を、1億2千万人日本社会が選んでしまっていたところに最大の問題があるワケだが、今夏どこまで改善できるのだろうか。
 『損害賠償』には、ちゃんと価値のあるお金を耳を揃えてお支払いせねばならない。
 とりあえず選挙がその手段と認識するのが第一歩だ。一票を大切に、グッドラック!
nice!(8)  コメント(0) 

【1066】組織の大合唱を聞けない新米高齢者 [ビジネス]

 こんだけ来ちゃったから、いっそもう少しだけNHK朝ドラで行きましょうか。
 わからんちんを説得して理解を試みる過程って、ほんっとぶっ壊れてるぞ?

 だからこそ、自分らはデキるつもりのサラリーマン技術者の間で、新人教育・社内教育および風土整備・活性化文化の普及などが、嫌われ仕事の押し付け合いにもなってしまうのだと思っている【159】
 理屈でも感覚でも、明らかに望ましい方向というのがあって、交わす会話の内容までがそれを当然として進むのに、相手が本当にその通りになるかどうかの肝心な決着ポイントに限って、全くの不連続に、頑として操作を受け付けない。実にどうしようもなく、まるで石に釘を打とうとするかのごとく、戦う手段をきっちり正しい方向にあてがって真直ぐに、打ち込んでも打ち込んでもことごとく跳ね返され、やっているこっちの側としては、出口の光すら見えない不毛な堂々巡りの無限地獄に陥ってしまう。

 モノを解っている自分ひとりどんどん有益な生産稼働を重ねて、解っている仲間とスケジュール通りに成果を上げていく方が、どれだけラクで報われることか。だからさ、教育だの職場文化だの、会社の業績に絶対必要でもない付帯レクリエーションみたいなものは、本業の能力が足りていない精神論好きのザコが居場所見つけてやってりゃ良いんじゃん…とまあ、そういうことになりがちなんだよな。

 当初は職場にこの難解な重い負担をかけ世話を焼かれる『お荷物』が、ある日その壁を乗り越えて『できるヤツ』に裏返って『と金』に成る。

 私の知る限り、例えば学生時代に何か自分なりの『思い込み』を固めてしまっていて、その『思い込み』が突拍子もない非常識な勘違いになっており、結果としてお呼びでない振舞いとして表われ『わからんちん』になってしまっているという原理ではない。障壁に苦しむ本人も、そこまで持論が完璧だという自信には到っておらず、何かどこかでおかしいっぽい違和感には苛まれているものだ。
 ポイントは『何か変だと判っているのに他人の言うことが聞けない』『つまるところ他人に自意識を従わせられない』という、まさに強情だとか傲慢だとか自分勝手だとか言われるゾーンに、本人でさえ自分の手が届かないストッパーが掛かってしまっていることなのである。人間とはそういうものなのだ。

 このストッパーが、はずれるヤツはどこかで何かの拍子にパキンとはずれてくれて、一旦そうなると今度は水を得た魚のように次々と自動的に業績を上げるようになってくれたりする。この自律性は非常に貴重なもので、逃さずすくい上げて、可及的速やかに『組織の自我』の意識階層に合流できるよう、より上位の意思決定レベルの知識を与えて、思考空間を拡げてやるのが建設的なマネジメントだと思う。
 何にしても、とにかくここまでの過程が世間一般の目で見てなかなか理解しがたいものであり、故に『こうすればうまくいく』という方法論化もできていない。かくして能力開発は難度の高い専門スキルなのである。

 主人公の成長を描く内容で作話しようとすると、そんな解りづらいステップで運任せの気紛れみたいに見えるような成長をさせる訳にはいかないから、どうしても『障壁にぶつかり、紆余曲折あるが理に適った方策を見つけて努力し、課題解決して成長する』という筋道にせざるを得ない。
 これこそが『万人共通の理解に基づく安心できるストーリー』の正体であり、だから現実の苦労と決定的に噛み合わないのだと思う。
 劇中の暢子嬢は、きっかけも見当たらなければ、心変わりの根拠もはっきりしないまま『わからんちんストッパー』が突然はずれてしまう。そこが多数の視聴者を困惑させているのだが、現実の人材育成の現場では、意外とそんなものだったりするのだ。ここは面白いリアリティのポイントである。

 さて人材育成観点での掘り下げは一旦このへんにしておくとして、少々不穏な心象で気になっているのが、『社会的価値』と『その金額への換算』と『採算確保』の扱いが、まるでどうでもいいものであるかのように無関心な雰囲気で辻褄が合っていないところだ。
 視聴者の批判コメントが、借金問題の不透明な自然消滅や、末娘の健康問題も放置して長男坊のいいなりに浪費を繰り返すお母さんの判断力に集中しているのを見ると、ある意味安心できる。みんなお金がどこから来てどこに渡ったのか、大事なお金をどんな目的の優先順で使うべきなのか、ちゃんと思考背景に持ちながらドラマを観ているということだろう。
 手元の機器でインターネットにコメントを上げてくる程度の経済生活をしている日本国民が、朝ドラを観て共感を分かち合おうとする、その経済マインドがどんなものかの実態である。視聴者の立場から受け入れがたいとして激しく否定的な反応が返って来るのは、こういうお金事情の展開事例なのですよ…と切実に物語る貴重な調査結果だ。

 お金は必要以上にあっても案外と幸福になれないものだが、逆に無いと困る。
 自分たちの生活に現れる『価値』を籠めて社会空間で『交換する』目的のものだから、そもそもその目的の発生に対応して必要となり、右から左へ動いて機能するとても大事な『媒体』なのである。
 ニーズに応じた交換でもないのに、どっか関係ない場所からバラマキ金が湧いて出て、あっちこっちに落ちてくるとなると、日本社会で『価値の交換』『右から左への移動』が滞るのはすぐ解るだろう。

 そう、スタグフレーション=貨幣流通の停滞現象が起こる。当たり前だ。

 だから本来は経済社会の致命傷となるため、銃社会での暴動抑制みたいな切羽詰まった目的でもない限り、ただの現金給付は固く禁じ手とされ【838】、もしベーシックインカムを考えるのであれば『社会的価値として日本円を媒体として交換するモノ』の定義から改めなければならない【1003】
 それでも、例えば住居費・水道光熱費・生活モビリティなどを日本円支払の対象外に決めたとして、土木建築やエネルギー生産に輸送機械の生産および運行などなど勝手に湧いて出るはずはなく、日本社会の誰かが物品や労働力を提供して実現できるよう、また別のルールが必要となってくる。
 日本円の交換対象じゃないからって、次世代の若年層が黙って不当な高負荷労働あるいはタダ働きに甘んじて、ベーシック・インカム社会を支えてくれるなどとは皮算用しない方が良いと思うけど。

 そんなことにまで思いを巡らせねばならないはずだから、最初に北米で10万円給付を検討していると聞いた時には大ゴトになってきたなと心配していたら、あろうことか日本国の方がそれを手本にしてバラマキをやり始め、そこから東欧の戦争の影響まで意味不明の言い訳にして、今や無限バラマキ大会となり国家経済の自滅に向かって一直線である。なるほど日本円が世界中で買い叩かれ、深刻な円安に陥るのも道理なのだ。

 これだけ自国・日本社会の経済マインドに嫌われながら、尚も日本円はバラマキを繰り返して景気停滞を重症化させ、まだ改善の兆しさえ見えない。
 誤入金による役所の損失額だけ大慌てで補填したテイを演出してみても、あちこちでインチキやってバラマキ金をがめてた家族の見せしめ捕り物ショーを喧伝してみても、貨幣経済の作動原理として日本市場はすっかりダメになっているのだから、ウンともスンとも言いようがないのだ。くっだらない茶番劇である。

 NHK朝ドラが視聴者層の常識感覚から離れるのを一概に否定はしないが、とにかく『お金を大事にしないドラマ』は好ましくない。ま、当面は大衆に理解しやすい『1億2千万人経済マインドの実像』ってことで、意外な社会調査の題材にはなっているといったところか。

 みんな一生懸命な釣合い点は簡単に判るはず。そこが経済の基準だ。
 NHK朝ドラ視聴は今や私の日課となった。週明けからも目を離さずグッドラック!
nice!(10)  コメント(0) 

【1065】ヒトと機械の妄想エモーショナル一番勝負 [ビジネス]

 NHK朝ドラの反省会コメントを読んでいると、過去にもヤバい出来のクールはあったみたいだな、やっぱり。
 ナニナニ以来の不快感だとか、コレコレに出てきた誰それより酷いとか、沖縄がテーマになると失敗する傾向があるんじゃないかとか。まあ朝ドラ達人になりたい訳でもないので、いちいち出典のオリジナルを追いかけようとまでは思わないんだけど。

 それにしても今般の『ちむどんどん』は前代未聞の異彩を放っているようだ。
 私も、最初はもっと民俗学カラーの雰囲気を予想していたせいもあって、時代考証に則った昭和ニッポンの文化的背景の描写があまりにユル過ぎるところは大いに気になっていた。既に、とても研究視点で取り上げようとは思わなくなっている。
 これ、あちこち穴が開くことを覚悟の上で若手のみの制作メンバーに丸投げ・ノーチェックでやらせてみたにしても、少々腑に落ちないのだ。当時を知らないにしても、常識的に『こうじゃない』と簡単に判るはずであろうシーンがとにかく無数に目に付く…

…のだけれど、ここでふと冷静に考えてみていただきたい。
 違和感もなく安心して観れるドラマが世間にはたくさんあって、実際それを楽しんで形成したイメージを基準に『世の中ドラマみたいにうまくは行かない』なんて誰もが言っているのではないか。

 人間には『メンタリティ』と呼ばれる概念があり、だいたいどんな状況に置かれた時に、喜怒哀楽の感情や、物事をどうこうしようとする目的志向はこっちへ行きがち…みたいな万人共通の傾向が顕れるものだ。多くの視聴者を共感させ好評を得る作話コンテンツというのは、日本社会を生きる日本人のメンタリティへの整合を、まず外さない。
 だとすると、安心できる架空の世界のイメージというものがあるのに現実の世界はそれに合致せず、それでもみんな『現実なんてそんなもんだ』とすんなり納得して、その不満な決着に不思議も覚えず受け入れているということになる。

 まず『安心できる世界』のイメージがあるが、それは架空の世界なんだよな。
 その『安心できる世界』がTVドラマとして流されるぶんには違和感が無い。
 また『安心できる世界』と全く違う現実の世界に身を置いて過ごすことにも違和感が無い。そういうことだ。

 あれ?もしかして、とても心穏やかに観ていられない『イライラする、モヤモヤする、離脱したくなる架空の世界』というのは、違和感もなく身を置いている『現実の世界』に案外と近かったりしないだろうか?
 つまりNHK朝ドラ『ちむどんどん』には、普通のドラマには無い特別なリアリティの要素が含まれていたりはしないだろうか?

 反省会サイトでは、登場人物たちがさっぱり学習しないことを指摘する声が多い。
 主人公の暢子嬢はなんだかんだで我を突き通そうとする強情な野生児気質が直らないし、長男は知恵遅れを疑うほど馬鹿馬鹿しいパターンの無限ループで繰り返し騙し騙され、見苦しいばかりなのでさっさとお縄頂戴で消えてくれ…とまあ、確かに当を得たコメントが連発されており笑ってしまう。

 私はかつて、自他ともども『思い込み』に陥った意識の融通の利かなさについて述べている【711】
 どんなに丁寧に手取り足取り道理の確認を進めていっても、ガチガチ思い込み持論のトリガー論点に到達した途端『でもやっぱりコレはこうだ』と、本人独自が内的に噛み合っている完成形ツーカー理論に問答無用でジャンプして短絡、そこからテコでも動かなくなるのだ。
 いかに美しく理屈と現実が噛み合う光景をあからさまに見ても、『響かない時』には人間の意識は馬耳東風。あれだけ解りやすい実体験ができたのだからと『もう解ってる人』のつもりで接していたら、こっちの思う肝心のところは何事も無かったかのように忘れられており…というか最初から気にも留められておらず、いとも当然に以前のまんまの解らんちん論調で語り掛けられてしまったりもする。神よ。

 人材育成・能力開発の現場を知っている人にとっては、実は暢子嬢も長男坊も『あるある人材』だったりしないだろうか。あ~やっぱコイツまだ解ってなかったか、まあいっか最近のヤツだししゃあないか…と次の機会を待つしかないのだ。
 冗談抜きにこういう見方が、想像もつかない異次元としか思えないような人に、大企業の計画業務としての新人教育は無理である。
 本人がどこまで理解し、納得し、習得し、慣習化し、固定観念にまで醸成してきた自覚を持っているかはともかく、人間というものは、知らずに醸成してきた固定観念のまま実にしつこく同じ作動を繰り返す。
 道理も理屈もない。人間の記憶機能というのは、そういうものなのである。

 もしここまで解って『ちむどんどん』登場人物のキャラクター設定に織り込んだ人物が制作側にいたとしたら、間違いなく空前の策士である。
 それだけの稀有な才人にしては、劇中の物事の因果のヨレ方に悪い意味でヒネリが効きすぎており、多分違う気がするんだけど。

 成長過程にある人工知能AIってこんな感じだったりしないかなあ。
 『感動を呼ぶ台詞』『倫理的に正しい発言』『仲良し同士の相槌』などのテンプレは持っているんだが、まだまだ郷土文化や史実関連の情報データと、適材適所の引用アルゴリズムの習得が十分に揃っていないのだ。だから物事の展開や人格の心情描写に、ヒトが自然な一貫性を見出すだけの造り込みが尽くし切れない。
 昭和マインドのやたらなベタ再生が唐突に散りばめられている反面、それ以外が驚くほど空白を残したまま放り出されており、未完成で雑な印象がずっと抜けない理由である。いかがだろうか。

 NHKは時々リアルタイム世論調査のAI処理を題材に番組制作をやっているが、私の記憶にある限り『着信コメントの中に頻出してくるキーワードをマップ化し、高頻度=大フォントみたく表示サイズに反映させたり、ワード意味の遠近を図中の遠近に反映させたりする』程度の使い方にして、トークを交わす人物たちの背景にしているのしか見たことが無い。人為的ロジカルな情報処理を機械任せにしているという観点でAIっちゃAIなんだけど、表計算ソフトの統計値自動計算機能と比べて革新的な『情報の質』フェーズの進化も見受けられず、正直もの足りなく思っていた。

 近年、作文や静止画の出力において人工知能は飛躍的な進化を遂げており、特に『創作力』の領域には、予想外の人間っぽさを感じさせる成果物が続出しており、驚くばかりの事態となってきている。
 現時点で全て機械任せにはできないんだろうが、最初ざっくり機械くんに走るだけ走らせて、そこから最小限ドラマとしてカタチになるレベルまでヒトが手直しして、視聴者の反応を抜け目なく観測しながら放映する。いま現有の技術でここまでなら十分可能だと思う。
 まあ誰がキツいかって、機械くんの思考世界で文章に落とされた非・ヒューマンな台本を、身ひとつで具現化する立場にいる役者さんたちが死ぬほどタイヘンになるはずなのだが。

 こんな発達途上の人工知能の振舞いこそ、成長途上のヒト若年層に通じる『粗削りな情報特性』の特徴なのではないかとも私は思っている。そう、ヒトってかなり機械っぽいものなのだよ、きっと。

 …おっと、まだNHK朝ドラ制作がAI導入していると決まった訳じゃないんだよな。
 実に当たり前に、従来通りの人員体制でやっている結果がコレ。その方がフツーだ。
 だとすると、今度はヒトで構成されている制作陣が、やたら『機械っぽい情報特性』のコンテンツ制作をしているという解釈が成立しそうである。

 う~ん、NHK朝ドラ『ちむどんどん』、やっぱりガチで面白いぞ。
 失敗を繰り返さず成長して今がある令和ニッポン、今日も反省してグッドラック!
nice!(9)  コメント(0) 

【1064】ハッシュタグ『#バラマキ財政反省会』 [ビジネス]

 もののついでだ、工業団地の生活事情についてもう少し。
 まあ田舎町では、ドライブインや道の駅みたいな感じの造りのお店で飲むことが多かったワケです。その続き。

 私がいた頃に『人口がだいたい6万人ぐらい』と地元出身の同僚に聞いた記憶があるが、彼がまだ子供時代に社会科で習った数字をそのまましゃべったのだとしても、当時のリアルタイムにして実数10万人に届くか届かないかという規模だったのかな。ざっくり東西・南北それぞれに5~6キロ程度の大きさで、街はずれから先は広大な田畑が拡がっていた【534】
 古い街道を起源とする幹線道路が都市機能の中心を貫通しており…というか、街道沿いに自然発生した集落を拠点としてこの手の工業団地は発達するため、必然的に標準的な地理構造としてこういう配置になるのだ。よって古くからの役所機能もこの中心エリアに集中する。

 で、私が転入する少し前だったらしいが、都会モンのトッチャン警察署長がその地に赴任してきて、都会式に飲酒・酒気帯び運転の取り締まりをやったのだそうな。もちろんのことだが、公共交通機関も未発達の田舎町では、随分とたくさん取り締まりの網にかかったのだという。
 程なく地元飲食店協会から当の警察署長に『地域住民の生活を破綻させる気か』と抗議が寄せられた。確かにタクシー呼んで深夜料金で5キロ走るとなると、せっかく田舎レートで安価な飲み代なのに、そのお値打ち代が吹っ飛んでしまうし、だいたいお店に行く段階からして交通手段に困る。
 光る物も無ければ人も歩かないような深夜の田舎道で、取り締まりのための取り締まりをやるとは、てめえら一体誰からの税収でメシ食えてんだよ?ってことにもなると。

 まあそれでも徐々に代行運転も普及してきて、しかも土地柄、複数客を相手に乗り合い式のキャラバン運行とし、一本道の帰路ルートで順番に帰り道を繋いでくれる習慣もできてきて、新たな平衡点に落ち着いたようだ。
 ここでポイントは、身近に求めれば何でも叶う便利な甘々環境でもなく、限られた生活空間で物事を遣り繰って回っている閉社会においては、ただの理屈で『べき論』を通そうとしても現実がついてこない、というところにある。

 いかなる辺境地であっても日本国内である以上は日本社会インフラの運用の対象となり、それを切り回すための人間が必ず必要になるのだ。誰かがそれをさばかなければならない。イヤだ、面倒だ、そんな重い仕事はしたくないと言っても、全員がそれでハイそうですかとは収まらない。
 先日の、バラマキ10万円を若造の懐に誤入金した騒ぎだが【1059】、風光明媚な萩・津和野のその先みたいな土地の役場なんだから、若きITエンジニアみたいな人材もテキパキ金融レディみたいな人材も、そのへんに探しておいそれと見つかる住民構成でもないのはすぐ判る。役場の事務室に最新のオフィスツールが導入され、地元の金融機関と電光石火の通信回線が整備されているとも思えない。

 これをもって、整備不良だとかいい加減だとかドン臭いだとかいうのではない。地域社会の生活ペースに対応して機能するならこれが最適解、場違いな人材や設備を無理して持ってきても、持て余すばかりで今度は別のくだらないトラブルが発生するだけなのだ。だから、元々はこれで良かった。
 そんな中、ちょっと表現がアレだが『イナカでちょっと事務作業をミスったんなら、アタマ下げて御近所付き合いで収めるのが最短最速。この程度なら手土産のひとつも要らんだろ』という感覚で何ら問題は無いのである。それがカントリー気質のイイところでしょうが。
 てめえの生活の面倒見てもらっておいて罪のない職員さんの手違いにつけ込むとは一体どういうつもりだ、ちょいと細かいハナシ聞かせろや坊主?で地元の若い衆が軽く御用聞きに上がって胸ぐら掴んで答を確かめるのも全然かまわない。みんなで協力し合って平和に運営している社会を乱すような不心得者を裁くのが『治安』であり、昨今こういうのも二言目には『暴力』とごちゃまぜにして騒ぎたいバカが増え過ぎているから、劣等感に這いつくばる弱者がつい悪い気を起こしたりもするのだ。

 そう考えると、懸命にイナカ事情で切り回すうち起こってしまった事だとはいえ、まず重大な公務のミスではあるのだから、『これで食事でも』と2千円渡したのが本当だとして、それはそれで非難するほどのことでも全然なかろう。
 もっと言うと、そう持ち掛けられた方は『万が一公費で補填されたハナシにでもヨジれたら面倒でしょうから結構ですよ。いつも御世話になってます』と御辞退申し上げるのを当然とするのが、田舎コミュニケーションの基本かつ常識である。これで別にいやらしい損得計算なんか働かさなくても、ほかっておいてあとあと良いコトが自動的にいっぱい起こる。

 本来ならそれで何事もなく済んでしまい、当事者以外は知り及ぶはずもなかったこの一件、それが全国ネットのこんな形で関係者全員の災厄になって降りかかっているところに、当代流の国力衰退の本質が見えていると思うのだ。日本社会の切り回しを失敗し、国民同士がお互いさまの御世話さまを念頭にして暮らせなくなってしまっている。
 途中に絡んじまった代行業者や金融機関が、いち早く事態を『解決』扱いにして日本社会の関心をそらしてしまいたいがために、まるで怯えるように次々と損失補填を申し出たように見えるが、コレどこのどいつがナニをちらつかせたのかまで、徹底的に炙り出して明らかにする必要があるだろう。
 何しろ、元は全て我々日本国民の税金なのであり、無事にカネが戻るなんてのは当然のことだとして、そこにどんな経緯があったのか日本国財務として包み隠さず開示する義務があるだろうがよ。

 ちょっとここでNHK朝ドラ『ちむどんどん』の話題に逆戻りしよう。
 前々回ここでは現代若年層の扱うファスト・コンテンツの情報構造になっているのではないかと推察し、社会の反応まで興味を拡げて楽しんでみたいと述べた。
 今これが凄いことになっており、『反省会』『離脱』などのワードを伴うハッシュタグの視聴者反応がどしどしアップされ、もちろん共鳴できる批評コメントも多いし、沖縄県民や教師・飲食店業界の当事者視点での切実な論評もたくさんあって、気を付けないと永遠に見続けてしまいそうなくらいだ。面白い。

 この朝ドラそのものにせよ世論の反応にせよ、直接の内容は各自で御確認いただくとして、要は『こんな公共コンテンツを日本社会に放った時、このくらいのことを考えて、それをみんなで共有しようと思い立って、日本語の文章にして発信してくるような潜在力が1億2千万人に内包されている』という事実を確かめておきたい。
 朝ドラだから、この情報量この反応速度でみんなの目に付くところに上がってくる。
 朝ドラでないものは、これ相当の情報が水面下で人目に触れず蓄積・凝縮していく。
 そしてオモテに見えていようが見えていまいが、アタマに思い描くこと、腹の底に抱えるものが、その生命体の動向を決めるのだ。人間ひとりも、社会組織も。

 非難轟々大いに結構、狙ってやってて、これで視聴率あがってたら大成功だよ。
 よし、引き続き視聴しながら新感覚のNHK朝ドラ文化にグッドラック!
nice!(9)  コメント(0) 

【1063】格安アーバン・エンタメの想い出がいっぱい [ビジネス]

 せっかくこっちに振ったんだし、もう少し朝ドラの話題で行きますか。
 『新聞』というメディア文化に生命維持装置をどうにか繋いで、AEDで再起動ショックを与えたいのかなあ。
 実に簡単に聞き込みを諦めた若き新聞記者クンに向かって『それを聞き出すのが俺たちの仕事だろうが!』と教科書そのまんまのベタな文章で叱咤するのを、今さらながらの気分で眺めるのもまた前世紀世代の感覚じゃないすかね。
 全然仕事になってねえぞ、それで給料なんか出るワケねえだろ、さっさと辞めちまえカスー!…などと続けてしまうと、結構な確率で本当に翌日から来なくなるんだろうな、今どき。今般そうは言ってないんだし、この先まだ頑張れるさ…と見守ることにする。

 レストランの大御所オーナーに続いて新聞社の古株上司も、厳しい姿勢で若い人たちの素行を叱る反面、その直後にいつもココロ許したイージー路線の親身なフォローをくれる柔らかさが特徴的だ。
 『仕事術は誰も教えてなんかくれない。おのれの目で盗め!』とか距離を置かれつつ育った昭和世代にとっては目が点になりそうな、現代版・鬼上司の教育流儀である。

 その昔の徒弟制度のスキル伝承は、決して『生存能力を早期にふるいにかけ半端者を淘汰してしまう』もしくは『早期から高負荷を常識とする世界観を教え子に叩き込む』という目的だけで、我が子を千尋の谷底に蹴落とす式の態度を取っていたのではないのだろう。
 人間が何かスキル習得を試みる時、習得したい当事者が自分自身の評価基準で、自分自身の現状到達度を率直に評価し、お手本との相違点を自分自身の内部に発見して、そこに自分自身の制御として的確な対策を打つ必要がある。その最短経路こそ『自分自身で内的に引き籠って、トライ・アンド・エラーを成功するまで諦めずに繰り返す』という取り組み形態だということではなかろうか。

 『コツの伝え方が上手くて、ぶつかっていた障壁を一気に越えられた』という状況は確かにあるけれど、それはやはり習得者のどこかに元々素質があるのだよ。まあ向いてるヤツ向いてないヤツいろいろいて、みんな努力と人生の時間を支払いながら各々自分の道を辿っていく。
 昭和式の『未熟を否定するだけ否定して、あとは放置する』という基本コンセプトが良いのか、それとも最新式の『未熟を否定するが、他力の命綱を提供してやる』方が、少なくとも今の時代には成功率が高いと見積もるのか、このあたりもいずれストーリー展開にその解釈が顕れてくるものと期待する。

 さてレストランの大御所オーナーだが、小学校しか出ていないが非常に教養高い人物として描かれている。確かに高度経済成長期には、戦争の影響もあってか、学歴が義務教育を修了できるかできないかぐらいの成人社会人は普通にいたと思う【458】
 敗戦により、財閥解体などそれまでの日本社会の仕組みがガタガタに崩れて、焼け野原からの実力主義で産業復興が進んだこともあり【440】、大企業や政治の要職ポストにも低学歴は珍しくなかった。いっぽう名家が階級構造の御破算で社会的地位を失い、生活に困窮するまでに没落し、そんな良いトコのお嬢さまが家計を支えるために上京して高級クラブのホステスになった例も多かったと聞く。
 復興競争の鎬を削るバトルフィールドで日夜成長を争うエリート男が夜な夜な夜の都心のお店を訪れる訳で、だから座っただけで万札が飛ぶような高級クラブでは、ホステスの女の子たちも茶道や華道に社交マナーの嗜みはもちろんのこと、時に数ヵ国語を話せるくらいの教養が無いと会話が噛み合わない。クラブホステスは非常にインテリ要求値の高い職業だったのだという。

 もともと私はわざわざに女の子がつくような店で高い飲み代を払うことに意義を見出せないタイプであり、銀座の高級クラブなんぞドアすら見たことも無い。そんなお店の一回ぶんの飲み代で、フツーの居酒屋あるいは自宅でどんだけ飲めるんだよ?
 ただ田舎町の工業団地で数年間暮らしていた時期に、仕事仲間とよく飲みに出る定番の行先として、女の子のいる店が幾つかあった。

 都会モン一筋の若い人向けに解説を入れておくと、製造業が大きな工場を持とうとすると広大な土地が必要で、むかし農地が拡がっていた郊外地にそういった工場が集まって建った。地元自治体としては税収も上がるし好都合、広い道路を通して計画的に開発された区画には各企業の大規模工場が居並ぶ…そんな場所のことを『工業団地』と呼ぶ。集合住宅の『団地』とは全然違う。
 田舎なんだけど有名企業の製造拠点がたくさんあるのだから、当然そこに隣接して街の諸機能が発達し、更には都心よりも随分とお手頃な価格のマイホームが建つ住宅地も増えていくことになる。いわゆる秘境でもなければ田園風景の世界でもない、スーパーやコンビニや居酒屋などなどひと通り便利に揃う郊外都市が形成される。
 地元の若年層にとっては自宅から勤めやすい安定した就職先にもなるし、周囲の結構な広範囲から出勤してくるとはいえ土地勘の働く地域一帯から人々が集まってくるため、職場での人間関係は御近所付き合い的なコミュニティ特性を帯びることになる。総じて都心よりのんびりした暮らし向きだ。

 まあそんな環境なので、まるで観光地のドライブインとか、今で言うと道の駅の一角みたいな感じで、クラブ…ではないな、都心だと雑居ビルに入っているスナックなんかのダウングレード版として、ソファーとテーブル席があって、女の子が数人いるという店は多かった。我々5~6人でどやどやと入店し、お勘定は持つから飲み物持ってお姉ちゃんも一緒においでよと席に呼んで酔っぱらいつつどお~でもいい雑談を交わすワケだが、90年代後半の当時にして割り勘で5千円にも遥か届かないのが普通だったと思う。
 故に名家崩れの御令嬢との知的な談話なんぞ夢のまた夢。ぱっと見い去年まで地元の高校でルーズソックス履いてダベってたような、いかにもアタマ悪…いやおベンキョ苦手タイプ、いきなりのタメグチである。どうせぎゃははと笑いながら次々と酎ハイのグラス空けてカラオケで夜中まで騒ぐんだから、コスパは悪くないんだけどさ。

 もしかして中古車販売業者の居抜き店舗ではなかったかと回想するのだけれど、スチールパイプの骨格に厚手のビニールテントを張った公園の休憩スペースみたいな造りの空間にソファー席が設置されている…という準アウトドア風な(?)店もあったと記憶している。
 こちらは女の子たち全員が外人部隊で構成されていたのも大概だが、どういう経緯かすべからく日本語の習得が日常会話レベルにまで到達していなかったのだから凄い。せめて英語が使えればどうにかなるのに、中国、韓国、ロシア、中東に南米とことごとく英語圏をはずしてくれており、会話するにもお互いカタコトの母国語を話題にして教え合う段階から始めなければならない。飲みに来たはずなのにワタシはここで一体ナニをしておるのだろう…?
 外国人相手に、英語のコミュニケーションを持ち掛けて跳ね返された時うろたえない訓練はここで積んで鍛えた。ふと周囲を見回せば若い女の子の存在にのみ満足感を確認し、後はほったらかしでテキトーに飲んで歌って騒ぐだけの集団だ。工業団地で職場と自宅を往復するサラリーマンのニーズに合致した、アバウトな低コスト接客業であったことよ。

 当時の日本社会の俗なサラリーマン文化の一面だが、すっかり肩の力の抜いてユルユルの空気に身を預け自然にリラックスできていたと思う。今も時々懐かしくなる。
 飾らない実効エンターテインメントの現場は、誰もが健気にも逞しく元気なのだ。現代流の洗練されたドラマが描く『現場』を眺めながら、ちらと思い出した。
 みんな達者にしてるかなあ。遥かなメモリーの全員に、いっぱいの御幸運を!
nice!(8)  コメント(0)