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【1077】葬送惑星エンタメ儀式の忠誠参列者 [ビジネス]

 ここではお馴染みSF漫画『銀河鉄道999』に、『霧の葬送惑星』という回がある。
 遥か上空で漂ってくる線香臭。メーテルによれば『笑ってはいけない星』とのこと。

 汽笛を鳴らし降下してくる999号を、黒装束の住民たちが見上げる。
 『何という不謹慎、死者の魂を何と思っているのかしら!地獄へ落ちろ!』
 『死者の魂を冒涜する旅行者どもめ!』

 まあここまでは、いつもしめやかに葬式ばかりやっている星の住民の心情として解らんでもないのだが、その次が少々物騒である。
 『我々の手で地獄へ叩き落としてやる!』 …えええ? そ、そうなるワケ?
 そして二人はすれ違ったばかりの葬式の列に、背後から一斉の銃撃を浴びせられる。

 『私たちを殺す気よ』 『なんで?』 『お葬式をするためよ』
 道を挟んで両側の物陰に分かれて飛び込み、乱射される光線銃のビーム群越しになされるメーテルのどえらい解説だ。二人がその後どんな目に遭うかは御自身でお確かめいただくとして、この星の本質を種明かしする言葉がこれ。

 『ここの人たちの一番好きなものは、お葬式の悲しいムード』
 『悲しいムードを楽しみたいために、人を殺す…』

 999号が停車する『ナニナニの星』『コレコレの国』という、この世のひとつの対象アイテムに特化した世界観を描くことで、もしその志向でヒトの心が極端に突走ったらどうなるか?それしかナシで行き着くとこまで行ったらどうなるか?…そんな想像力を展開するSF作風の、偶然の一話ではあると思う。
 なので眼前の現実を指差して否定するためのダシにするつもりはない、とまず断っておいてだ。

 今のところ人間を含む生物すべてにわたって『死』という寿命の終焉は避けられない。少なくとも人間は、格段に意図的かつ体系的に社会組織を成しているため、キホン誰かが死を迎えると、残された様々な立場の人々にとって、感情的にも生活管理の都合的にも、社会規模の定型イベントでもって節目を付ける習慣となっている。
 悲しく重たい事実の降臨の巡り合わせに精神的な決着を付け、消化し、乗り越えていくための大切な決心の手順として『葬式』なる人類の知恵がまずあるワケだ。人間だれしも、人生のどこかの一面では争ったり嫌ったりせず、どこかの誰かに仲良く関わっているものだから、『葬式』には必ず悲しみ悔やんで傷んだココロが集まっている。
 みんないつかは死ぬんだし、その時その場だけは、誰もが他の一切を別のこととして責めっこなしの言いっこなしってことにして、葬式の場で泣いているココロは大事にそっとしておいてあげよう。大抵のことは当面ほかでどうにか収めて、収まらないことが何かあっても、関係者一同の動揺が落ち着いてからでいいじゃないの。
 これが葬式にまつわる常識的な対応イメージではないだろうか。

 『それを軽々しく娯楽に読み換え、見境なく始終それに呆けて暮らす』という、何かのきっかけなくしては着想がなかなか難しいのではないかとさえ想像される常識メンタル崩壊の世界観が、この『霧の葬送惑星』では描かれているのである。

 『へえ、そんなによく人が死ぬのかい?』
 『殺すのよ!ここの人たちの一番好きなものは、お葬式の悲しいムード…』

 直接本作を御覧いただくと解るのだが、『本人にとっても、その周囲の社会組織にとっても、生命の終結を確かめ合い、負担を噛みしめて決着させるセレモニー』としての意義がすっかりそっちのけになって、かなり『生命なんかどうでもいい、ただの形骸化した空虚なルーチンワーク』と化していることが強調されたストーリーになっている。

 さて、今般の国葬騒ぎの件についてだ。
 前回述べた通り、昭和ダメオヤジが『マウント必死モード』のスイッチON状態になってしまっているので、明文化されている法律に対する適合判断にしても、世間一般の慣習で許してしまう領域としての社会通念にしても、とにかく9月末に大層な会場でナニガシか葬式くさいカタチにしてブツを並べ、召集の言いなりに従う奴隷人種が動員されて『国家機関が動き、葬式っぽい儀式をやった』という構図の事実までは作ってしまう、その流れにはなっている。
 要は『誰の制止も無力であり、権力者がやると言ったらやる』という強権発動の事実を成立させるのが至上目的になってしまっているので、もう理屈も何も無い。

 『あの人にもトシ恰好なりの立場はあるんだし』『いっそやらせてしまった方が被害が少ないし』『好きにさせてもいきなり全部が壊滅ってワケでもないんだし』『何より不満と無言の毒を吐かれて我々が不快でたまらん』などなど、現実的な落としどころをオトナになって見切ったかのような態度で根負けする処置は、全部コトの容認としてカウントされ、結局は事態のますますの悪化にしか向かないことに気付くべきなのだ。
 それは『オトナになって見切った処置』などではなく、『イケナイことをイケナイと言えないだけのいい加減な組織風土』でしかない。すべからく周囲がこんなフヌケたヤツしかいないような国だから、昭和ダメオヤジにしても大声出して乗っかればマウントが取れると当て込んでしまえるのである。今までの長きにわたる日本社会全体の現状放置体質が、結果としてこんなだらしない意識文化を作り上げた。

 ほおら日本国をあげての、日本国民の税金拠出で執り行う国葬だ。
 日本国民は、偉大なる指導者・世襲のガキの死を悲しんで一斉に涙を流すのだ。
 肘は直角、右手を垂直に立てよ。我等が日本国民の心は世襲のガキと共に。
 さあ一声斉唱!永遠の便利ツール、一番ピエロ総統バンザーイ!!

…とまあ、こんなベクトル空間の統率茶番劇にはなるんだろうな。
 もう1億2千万人組織の自我の反感を買い足しながらでも、やりたいんならやれば?と言ってしまいたいところだが、イチ日本国民としてそれで済まない実害が心配になるのは経費問題だ。
 『2億円』という数字をネットニュースで見かけたのだが、それってちょっとした有名人の葬式と大して変わらない額じゃん?本当にこんなもので収まるとは到底思えない。『国葬』などとタイトル付けて全額公費負担を宣言しておきながら、具体的な情報がきちんと開示されておらず、要は国民から香典だけくすねて、葬式のテイを装った税金浪費大会をやる魂胆が見え見えではないか。

 おっとっと、今回の路線に戻ろう。『葬式』って誰が何の意味でやるんでしょうね。
 子供たち若者たちよく見ておきな、バカなオトナどもは『自分らは死んだら何の責任も取りようがない、どんな不始末を残そうがそれっきりにしかなりようがない』とする自分勝手の無責任な理屈で、これだけ日本社会の仕組みを荒らしてきた。
 だが、その『それっきり』の現実がこれだよ。自分が死んでいなくなった後に、こんなに人と人が威張って騙して、非難して反対して、嫌って恨んで、最後の最後に全ての結末として『不幸』とカウントされるような負の記憶が、社会組織の自我に刻まれる。
 その不愉快な記憶は、社会組織の元気と希望に水を差す。迷惑なハナシだ。

 何でもいい、あなたがたの身の周りにある過去の記録を見てみよう。それが時を超えて役に立ち、人々に大切にされ、懐かしく受け止められ、今も厳然と残っているのは、決して偶然ではない。
 みんな、ちゃんとその時空を真面目に、みんなのため社会のために生きたのだ。

 あなたには何が残せるのか、この夏考えてみないか?その閃きにグッドラック!
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