SSブログ

【919】忘れたい、忘れちゃいけない国語力の黒歴史 [ビジネス]

 真顔でこんな単語を取り上げねばならない時代なんぞ、遥か昔のうちに現代社会文明史が後にしてきたんだからってことで、肩の力を抜いた組織むかし話から。
 『特高警察』というコトバ、今の若い人たちはそもそも御存知ないだろうし、聞いたことがある昭和世代にしても、既に忘却の彼方になっているのが普通だろう。それで正常なのだが、昔そんなモノがこの日本社会にあったのだそうだ。

 フルネームで『特別高等警察』という。明治時代に日本社会の近代国家式統治の構築が進むワケだが、全国統一規模の新・組織枠が稼働するには、それに反対し抵抗する社会勢力を摘発し封殺する必要があった。
 このため国家組織の正式な業域として、検閲を始め国民生活の徹底的な監視を行い、国政方針に不都合と見るや、うむを言わさず標的に仕立てて身柄拘束する執行権力まで備えた役所が存在したのである。治安や司法という表現は使いたくない。
 いわゆる『思想犯』『国家反逆罪』みたいなアッチの世界の狂気的な概念が飛び交う時代のことであり、もちろん大東亜戦争の頃は日本国内で普通に運用されていて、これが終戦とともにGHQ連合国統治により解体された。

 特高警察の実業態は、少なくとも一般庶民との接点において『迂闊な言動をして滅多なところを見つかると、即しょっぴかれて拘束され、元の人格を放棄し改心の言質が採れるまで激しい刑罰を繰り返す』という、今なら信じられない恐怖政治式の言論統制だったようだ。
 このあたり、我々高度経済成長期の生まれや、その一時代前のいわゆる団塊の世代が学童期・成長期だった昭和の終わり近く、体験談として語られる昔話にしてもノンフィクションを謳う出版物にしても、やたら凶悪なイメージで若年層世代に刷り込もうとしていた空気が思い出される。
 ちょうど敗戦の史実を深く考えない『反戦ファッション』が若者に流行していた時代でもあり、当時の平和ニッポン名目を掲げた諸政策の基盤醸成に、テイ良く利用されていたのかも知れない。

 さて戦中のエピソードだが、例えばアナタが『なぜ日本は戦争なんかやってるんだ、すぐにやめさせろ』だとか、『負けるに決まってんだろ、うちは出征なんかしないぞ』などと公言しようものなら、すぐに特高警察が押し入ってきて家族全員ひっとらえられ、『鬼畜米英の殲滅のため、明日にでも爆弾をくくりつけた片道燃料の飛行機に乗りたくてたまりません』とでも言い直さない限り、死ぬまで凄絶な拷問が繰り返されるというものだ。実際に刑死者まで出していたという話もある。
 手指の間に鉛筆を挟んで、骨が折れるまで一本に握りしめるなんてのは序の口、この下3行グロ閲覧注意である。痛い話、気持ち悪い話が苦手な方は飛ばしてください。

 後ろ手に縛って足首で逆さ吊りにする。血が頭に落ちて赤黒いスイカのようになる。
 手足の爪に指先から爪楊枝やキリを刺し通し、結局は一枚ずつ全部剥いでしまう。
 畳の縫製につかう極太のタタミ針を逆手に持って所かまわずメッタ刺しにする。

 こんなの本当にやったとしたら、やっちまった側の奴も激しく嘔吐して動けなくなる気もするのだが、後のベトナム戦争の記録なんかを見てしまうと、状況次第で人間という生物はとんでもない作動で暴走するのも現実らしい。
 おっとベトナム戦争の話はあまりに一般向きでなさすぎるというのもあるし、またどこかで機会があったらにしておこうか。とにかくこの勢いで、現に日本社会が『思想狩り』『言論狩り』を実行したとされる記録は、割と珍しくない。ドキュメンタリーにしてもドラマにしても、戦争を題材にした内容から、こういった言論統制や大衆情報操作のことが年々抜け落ちてきているのが気にはなっている。

 ポイントは、不特定個人としての国民に絶対服従を要求する権力体系の存在および、現場作業として個人を狙い撃ちで糾弾する行政決定プロセスが、正式な国家活動の一環=社会組織の自我になってしまっていたことである。ありていに言えば『組織の支配に逆らうことを許さない』とする仕組みだ。
 だから戦後の日本国は、戦争放棄の実効手段という位置づけで『思想信条の自由』や『言論の自由』を判りやすく個別に設定し、日本語文章の情報として改まってしたためているのだとして過言ではない。
 これもありていに言えば『待て、みんな何かおかしくないか?』『そんな理不尽な世風に同調するのはやめようよ』と気付いた誰もが声を上げ、見解の共鳴や事態の検証を求めて、組織の内向きに有効発信できるようにするための仕組みだ。

 このコンセプトのもと『誰かを一方的に標的として決めつけ、言論や行動の自由を強制的に拘束する仕組み』は、日本人がこれまで学んで積み上げてきた国家種族文明としての『基本的人権』に反するとされる。それこそ『粛清』さえ辞さないとされる隣国を指さして、偉そうに批判したりもするワケだ。
 ここまで判っているはずの日本国で、今さらながらに『人質司法』【905】が強行されるたび国際的に非難されるのはそのためである。

 いま時短営業にしてもPCR検査や入院治療にしても、『従わなければ厳しい罰則を科す』という法律を新設することに、日本の国家運営が二の足を踏むのは、ある意味正しい。
 ここが法治式統治の難しいところであり、一歩間違えれば『法律文言に逆らう行動をした国民を弾圧する』という目的で社会の仕組みが作動してしまうリスクが避けられない。それは過去に積み上げてきた日本文明史すべてに照らして、絶対に出戻ってはならない愚かな誤作動ロジックなのである。
 ただこれを逆手に取る形で、医療機関や社会風土を攪乱する目的を腹に持って、劇場型で社会統治パワーを蹂躙するようなデモンストレーションが横行してしまうと、それはそれで国民生活を支えている社会保障制度が機能できなくなり破綻する。

 つまるところ、どんなに法律を整備しても、主権を持って国家を成す国民が、どう規律として認めて運用するかに全てかかっているということだ。では『ナニ』が法律なる文章情報の裏打ちを得て、日本国組織の行動規範として実行に直結されるべきなのか?

 日本国組織の自我=1億2千万人日本社会の過半数が『これが妥当、これで納得』を確信する組織的行動である。日本国組織の自我が向かうがまま、それが答だ。
 まずこの組織的行動パターンのイメージが自然と日本社会に共有される姿があり、それを正確な表現で日本語文章に書き落とすことで法律が設定される。この順番ではないかと思う。
 過去の世界史には、ウソや隠し事でまわしていた社会運営のアンフェア感に不満を募らせた大衆=社会組織の自我がキレて、個々人の非社会的・原始的な実力行使を動力源にし、同時多発的に振舞った一斉大混乱の事例が散見される。
 もちろんそこで社会文明は1フェーズを刻むのだけれど、必ず壊してしまったもの、失くしてしまったものを惜しむ長くつらい後悔が待っている。過去に人類は何度これを繰り返してきたことか。

 だからそんなことにならないよう、我々どんな難課題に立ち向かうにあたっても、既存のルールも、情操として身に着けた精神衛生も、一切無碍にせず徹底的に維持して公明正大かつ正々堂々を貫くべきだと言っている。
 そろそろ医療的にも経済的にも崖っぷちになっている仲間たちの実情について情報共有したい。正直=正確な情報伝達で繋がるみんなに、どうか引き続きグッドラック!
nice!(10)  コメント(0)