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【924】万国一斉ブーイングの強欲アスリート育成計画 [ビジネス]

 今日で1月が終わる訳だが、まだ東京五輪を中止する決断が出ていない。
 ひと頃あほな政治家どもの間で『決められないナンタラ』のレッテルを相手に貼り付ける戦法が流行したものだが、いわゆる『目クソが鼻クソを笑う』もいいところで、結局は『決められないニッポン』の中での似た者同士、ウチワ揉めだったというワケだ。

 『やると言ったらやる』と言わんばかりのえらい勢いで、日本国民の声も手も届かない所でメチャクチャに大風呂敷を拡げ、誘致を取り付けた時点では、まあ計算に使う値と計算式にもよるが、せいぜい500億円レベルの経費に収めるとした約束【384】をあっさり無視、結局この不景気だというのに何兆円か使い捨ててしまいました…でコトが許されると思ってるのが現・自爆テロ非国民犯罪者政権だろ?
 その割には、この期に及んで開催国としての方針を自分らから一切提示せず『五輪国際事務局が今年7月開催から変えることはないと発言しました』だとか、決裁を他人任せにするスタンスで風の噂みたいなものばかりが浮いては消えて行く。遂には他国発で『五輪4年定期の何周か先ってことで仕切り直し』の怪情報、いや現実的善後策までが報じられる始末だ。

 日本国内と言わず世界中のどこにしても、今夏に五輪大会を開催できる可能性は無かろう。とにかく『日本国としては、今夏五輪の東京開催は中止を提案したい』と主催者としての意思表示をして、五輪にまつわる諸事万事の方向を固定しないと、選手も施設もスタッフも、明らかにメの無い無駄準備にスケジュール拘束され、人生の大事な時間を浪費させられるばかりである。

 これまでの様子を見る限り、五輪の国際運営組織体がかなり実直な実務から乖離した名誉職になってしまっている感が強く、こいつらガイジン少々の名札ぶら下げてても、本気で幸福な五輪企画に責任持った決断なんか到底しそうにない雰囲気がありありではないか。
 こんな連中から『五輪開催の決断』と取れる日本語訳文が充てられる発言がこぼれ出るのを飢えて待つ日本国というのは、国際社会にあって独立国として成立しているのだろうか?

 もう一昨年だかのコロナ禍以前に、恐らくはウチワの利権しか眼中に無い、落ちこぼれ国家ニッポンの汚職まみれのグダグダ準備がたかられたか嫌われたか、一部を遠隔地と分離してやれやとか、遊び半分の妨害工作とも見える揉め事があったもんだよなあ。情けない限りだ。

 立候補国として名乗りを上げ表明した通り、正直に『史上最もコンパクト』にしておいて、あの昔の国立競技場を歴史的建造物のまま改装して準備していたなら、逆説的だがもっと迅速に『中止』を決心して、今頃はもっとラクに選手たちの競技キャリアの再計画を心配していられたのかも知れない。
 まあ五輪の一回休みはこの状況だし誰が悪い訳でもないししょうがない、先に世界的にコロナ禍解決の道筋を付けたところで、ちゃんと五輪相当のバリューを持たせた特別回を企画しようじゃないか。
 その開催にあたって、当然2020五輪大会を開催する予定だった日本国・東京都が何らかの優先権・発言権で振舞うのは認めてよ…って感じで、恐らくはどこからも真向否定的な意見は出なかったろう。
 いつも地道の真面目で誠実に徹していれば、ちょいと時間遅れはあっても、正真正銘いいコトとしての質を完全に保って、国際祭典が再計画できたはずなのである。

 初回オリジナル素っぴんの進め方からして、開催権を手にした途端カネ目当ての好き放題、国際運営ポストのガイジン言質を取りたくなった時だけ呼びつけて、接待漬けでバカバカしい決め台詞のアナウンスを吐かされる。そりゃ同じ人間である以上、欧米社会にも利権でアンフェアな損得が動いてしまう文化的余地はあるけれど、これだけ恥知らずに国際共有のタテマエ後光を利用するニッポン五輪には、世界中の嫌気がさしていたというのが現実ではなかろうか。
 そしてこの不機嫌な現実は『一部の粗悪な日本人の仕業ではなく、それを平然と見過ごしている日本人全体=日本国そのもの』というくくりで、国際社会に認識されていると考えねばならない。

 昭和の時代、スポーツと言えば今より無条件に好感度が高かったように思う。身体能力を鍛え上げるという健康的な取り組みを経て、成果発表の場では競技ルールのもと公平に評価を受け、勝敗や新記録など解りやすく見える形で結果が出る。う~ん、爽やかだなあ。
 運動神経に恵まれた中高生にとっては、教科としてのお勉強ゴトだけに学園生活を終わらせないための重要な学内コミュニケーション・人格形成の場であったし、その先の学校にせよ会社にせよ今でいう就職面接での『ガクチカ=学生時代にチカラを入れたコト』として、安定したプラス勘定がつく実利もあった。
 100mを9秒切って走ろうが、野球やバスケのリーグで全戦全勝しようが、それで農作物が例年の2倍穫れたり、時間あたり発電量が10倍に増えたりは絶対しないんだけど、『並以上の体力を備えて規律正しく行動できる』、スポーツはその素性を保証する信頼の経歴アイテムだったのだ。
 確かに、一定それなりに当たってると思う。もちろん私はスポーツマンではない。

 昔ちょっとスケートが速かっただけのスカート履いた昭和ダメオヤジ、東京五輪の行方を真面目に考えるでもなく、夜の東京で飲み歩いて遊んでいる。これが税金資本の役職ポストかよ、まったく。
 この程度のボロい不祥事がどれだけ広まるのかは知らないが、もちろん国際的に心象が良い訳もないだろうし、何より国内外を問わずスポーツそのものへの興味や情熱が削がれるであろうことが気になってしまう。
 今スポーツに打ち込む若い人は、こんなみっともない天狗に身を堕とさないよう、よく見ておいて欲しい。せっかく注ぎ込んだ努力と時間が、人さまに、社会に、国に、見下され嫌われ地に堕ちる瞬間である。

 『宣誓!我々はスポーツマンシップに則り、正々堂々、戦うことを誓います!』
 満場の観客に囲まれての定番パターンでやれないんなら、一回諦めたら?

 以前にもお伝えした連絡事項の通り、当サイトは次回2月4日木曜日に定期更新する予定です【921】
 では来月以降も引き続き、グッドラック!
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【923】販促トーク百花繚乱の受付タイムリミット [ビジネス]

 改めてだが、こちらにおいでの御贔屓さま方は、知性も品性も社会のトップレベルにあって、十分な理解のもと良識ある行動が期待できることと確信してのお話である。
 いきなり結論から。

 個人的には、もうこの新型コロナ・ウィルスは、少なくともこれ単独の持つ病原リスクに関しては、あげつらうべき新規性は無いとして良かろうと思っている。
 もともと珍しくはなかったコロナ・ウィルス一派、つまりヒト感染&ヒト発症の基本特性がだいたいにでも判っている奴等なんだから、『わからない』にしても攻略ガイドラインまではそれなりにあるという捉え方で立ち向かって、日本社会の滅亡につながるような大失敗はないと考える。

 わかりやすく言い換えるなら、もう今さら取り立てて『怖い、死ぬ、治らない、危険だ』みたいな議論を交わすようなものではなくなっている。

 ただし『これ単独の持つ病原リスクに関しては』の限りであって、だからこそ従来からある傷病への対応を担う既存の医療機関からは、まだしっかりと分離しておく必要がある。
 誤解を恐れず少々乱暴な断言でいくなら『かかる病気としては、社会問題として怯えるような怖いものではないが、主に感染性などの正体が詳細まで掴み切れていないので、しっかり特別扱いして一刻も早く分析を急ごう』といったところか。

 感染症としての統計データを見る限り、例年の深刻な悩みではあったにせよインフルエンザに比べて『2倍危ない』と表現する人はいないだろう。
 死亡者数は前回御覧の通りだし、例えばもし毎年のインフルエンザ感染者数を新型コロナ同様にデイリーカウントしていたら、ケタ違いの長さの数字の列になってしまいテレビ屋得意の付箋ボードに収まらず苦労するはずだ。つまり感染力も常識外れという訳ではない。

 ただ、一昨年末から急激な感染拡大のニュースが海外発で報告され始めた事実から、まずはエマージング・ウィルスとしての性質を持つとして間違いは無く、だからこそ感染拡大初期においては未知ゆえに適切な対症療法が判らず致死率も高かった。
 この人的被害は、新型コロナ・ウィルスの素性がある程度見えてきて従来の知見が活かせるようになるまでの模索期間に、不幸にも致命的な症状に達してしまった人々において、やむなく発生してしまったぶんである。
 完全未知の病原体感染症の流行が疑われた当初は、迂闊な遺体の処理もできず、特に海外では埋葬待ちの棺が並ぶショッキングな光景となり、日本でもお別れの対面ができないケースが散発した。今もかな。

 医療機関では、素性の割り切れていない新型コロナ・ウィルスが既存機能に紛れ込まないよう隔絶しておかないと、後々まで含めて医療全域に及ぶ大変な感染リスクとなる。だから現有の総合力を新型コロナ対応に丸ごと振り向けることができず、まず数と場所を限った特別体制を作って対応しており、新規重症者の増数と残キャパシティの拮抗が話題になるのは、この特別体制領域においての話だ。
 世界的に見て随分と少ないはずの日本国内の重症患者数なのに、世界的に見てそもそもから充実しているはずの日本の医療機関が、やたらギリっぽく語られるのはこのためである。少なくともこの日本社会で『医療崩壊』という表現を、さも現実に直結するかのような論調で使う理由など無い【913】
 いま日本国は余計な新規感染者を出さないよう社会活動を控え、この特命チームをもって重症者を無事にさばき切ってもらわねばならない。

 地元の医療機関の窓口事情や企業・商店の決算事情が、鬼気迫るナマの処理待ち課題になって目前に並ぶのは、自治体の行政現場である。
 その自治体の首長たちが社会生活全体の最前線を俯瞰して、地元社会の組織総合的な一斉活動方針として『感染拡大機会を減らすため、緊急事態宣言を発するべき』と判断した。それが今であると理解しよう。

 以上の経緯を再確認するに、この期に及んでわざわざに個々人がワクチン接種で感染を防がねばならない必然性など無い。
 どうしても気になる人が、副作用リスクも恐れず効果確認がせいぜい数ヶ月のシロモノを自費で打つのは自由だが、こんなものが勝手に国務として何千万人ぶん、1億2千万人全員ぶん、ヘタすりゃ複数回ぶん、税金資本の商売になって、あっちこっちでニュース仕立ての不確定情報としてバラ撒かれているところが最大の問題である。副作用が『副反応』などと聞き慣れない用語で画一的に語られるのも不自然きわまりない。

 多くの日本国民が、少なくとも今のところ『ワクチンなんか要らない、様子を見たい』と思っているのに、国民が納める税金で勝手にこんなものを買い込むような話がなんでマコトしやかに出回るのか、そっちの経済被害の方が、新型コロナ・ウィルスの健康被害よりよっぽど社会的不安ではないか。
 いやさあ、日本国内でそれなりの結構な数量が作れるんなら、ワクチンなど特段に必要ない我等が日本国は、世界のために率先して輸出にまわすのが国際貢献のスジってもんじゃないの?
 こんな時おかしな儲け方をしちゃいかんけど、外貨収入の方策にもなるんだし。

 いっぽう一般国民とは文字通りケタ違いの感染率を記録している国会議員どもが、時短営業で多くが閉店しているはずの銀座で飲み歩いて遊んでいる。揃って与党議員なのは偶然かね、まあいいや。
 古電球が、誰相手のつもりか知らんが謝ったフリで誤魔化そうとしているが、そう、コイツらにとって『謝って済む不祥事』に過ぎないということがよく判る。
 新型コロナ・ウィルス感染が、生命や健康を脅かすものではないのである。感染して、重症化して、命にまで関わるとなると、誰にどう謝るも役職にどう響くも、人間まず自分が感染する可能性からマジ物理的に徹底排除するはずだもんな。
 しっかし、こうなるのはどんなに悪い頭でも判るだろうに、よっぽどハズせないオイシイ契約とか接待でもあったのかねえ?

 いま日本社会としては、医療保障システムを守るため厳しい経済緊縮に徹する必要があるが、ワクチンなんぞは希望者個別の発生都度対応までで十分であり、国会議員どもも実はそう思っている。ここを一旦整理しておこうと思った。

 日本国民全員にワクチンの強制接種なんてことにはならないんだろうけど、弁護士資格もってる人たちなんかは、今のうちワクチン礼賛のいい加減な推奨煽動の記録をしっかりコレクションしときなよ。発信元・発信内容、日時の特定も忘れんなよ。
 緊急事態宣言に服している事業者さん方、お疲れさまです。引き続きグッドラック!
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【922】迂闊な高額商談のメディカル精査 [ビジネス]

 このところ特措法・感染症法の行方が取り沙汰されることが多いが、いま違法状態を放置している学術会議の方を先に集中して、とりあえずは古電球の違法発言を取り消させろよ、こんなもの一瞬で済むだろうが。これをやらずして、別の法律を新たにどう決めるかなど議論できないぞ。
 学術会議の件で最初のころ威勢の良かった人たち、どこ行っちゃったの?
 こういうところがだらしなくて、結局は時間を引き延ばせば違法な犯罪行為がなし崩しに見過ごされちゃう日本社会だから、今こんな混乱に陥ってるんじゃないの?

 で、その特措法なんだけれど、当面のところ
 『政府から法的拘束力の無いお願いばかりしているのがいけない』
という問題意識のもと、
 『一定の条件下で、法的拘束力を持った経済活動の停止を発令できるようにせねばならない。ただし、法的拘束力の行使で停止させる以上は、その経済活動相当の補償がなされなればならない』
とする修正方針が提示されていることが多いと思う。
 それはそれで命中しているので任せておくことにして、ここでは感染症法の個人行動制限の方を。

 『検査拒否や入院拒否に対して、罰則を科す』というやつ、あれ正気なのか?
 本件、新型コロナ肺炎による国民の健康被害の拡散防止が目的なのだから、確かに感染あるいはその可能性を十分に自覚しながら社会の一般空間を出歩いて、不特定多数の人々を新規感染の危険に晒す行為を喰いとめる必要があるのは理解できる。だがこんな罰則の新設で、その目的通りの機能が得られるかどうかを検証してみよう。

 まず感染検査だが、法律で規定する以上は徹底して具体的詳細まで確定されてないと、それこそそこらへんを歩いている人を気紛れに『お前コロナっぽいから見てやる、ちょっと来い』としょっぴいて、テキトー判定で『ああ、お前コロナだよ』と隔離病棟に拘束するという、現代版・魔女狩り社会を描くSFホラーばりのトンデモ人質司法が現実になる…はあり得ないんだが、まあそういうことだ。

 日本国民は等しく基本的人権として『健康で文化的な最低限度の生活を営む権利』を有する。

 とりあえず細かいハナシはちょいと置いといて、じゃあ例えば今やよく聞くPCR検査で作業標準化を進めるのかというと、これまた被験者から採取した体組織サンプルをまずウィルス培養工程にかけねばならない。判別操作に確実に反応させるため、もしそこにウィルスが含まれていたならば…の可能性を見込んで、十分な数まで増殖してもらう準備を施すワケですな。いわゆる最長の潜伏期間を見積もった相当の時間が必要なのはすぐ判る。

 ここまでやって、がっつりウィルス検知で陽性が出てこその『行動制限対象・感染リスク人種』ということになるのだが、以前からここで繰り返している通り、サンプル採取検査は『釣り堀のサカナ』であり、釣れれば『いる』が判明するが、釣れないからといって『いない』は永久に断言できないのだ。
 不当拘束を訴えられると困るので、意地になって何週間・何ヶ月間と恒温槽で培養操作に執着するだけならまだ良いが、架空の陽性判定をでっちあげる不正まで横行し始めて…これでは本来の法規適用の対象者をガチで捕捉することからしてままならない。
 そんな一方で、『ちょっとぐらい反応しても即陽性ではありません』【865】とかびっくり仰天の解説を平然と口走る正体不明の怪しいオバチャン専門家なんかが、世に野放しにされてるんだろ?

 これ日本じゅうで、根拠不十分の強制拘束とそれに抵抗する一般国民のモメ事に始まり、永久に結論の出ない正当性論争が同時多発し、医療機関や検査機関の現場に不毛な負荷を無限に発生させるだけじゃないのか。むしろ新型コロナ・ウィルスはそんなあほ悶着を尻目に感染拡大、気が付けば生死の境にいたはずの欧米諸国が回復に反転する中、我等がニッポンだけ独り負けで取り残されるのが確実である。

 つくづくこの自爆テロ非国民犯罪者政権、日本国が世界に誇る医療の社会保障システムを、いったい何だと思っているのか。

 ついでなので、もう少し冷静な観察視点で現状を見ておこう。
 1年強を経た現時点の感染者数7万足らずをまあ7万人として、1億2千万人の母数で割ると約0.06%だ。これまでの累計感染者総数36万人でさえ、0.3%なんだよな。
 このところ有名人の立場で感染して復帰している顔ぶれも散見されるが、完治しているかどうかはともかく退院者数が28万超。なお不幸にも亡くなった方は、約5千人なので0.004%ということになる。

 例年のインフルエンザが何人ぐらい感染しているのかは、統計データとしての数値はあるんだろうけど、そもそも我々どこまでインフル罹患だと認識して数えているか定かではないのでパス。単純な感染数の真値としては凄いんだろうな。
 当然それなりに確率問題で毎年変異もしてるはずだし、『予想が外れて今年決め打ちの予防接種はあんまり効きません』とかよく言ってたっしょ?直近のデータを年齢層別に細分化して『変異種は致死率が上がってる』なんてのも、別に新型コロナ・ウィルスに限った恐怖の現象じゃなかろうがよ。
 明確なのはやはり不運にもインフルエンザで亡くなった人数になるのだけど、これが3年前のカウント数で3千人余りである。

 えっ、そんなもんなの?などとおっしゃるなかれ。その目的で述べたのではない。
 かかっちゃった人は本当に苦しいし、健康被害はいざ自分がその当事者になった時、どうしようもなく逃げようのないその現実を心底果てしなく悲しみ悔やみながら過ごすことになる。よもや命を落としたりするとなると、周囲の人々まで含めて悔やんでも悔やみきれない。どんなに泣いても、本人は帰って来ない。
 だから万人に安心安全のこの医療保障システムは、新型コロナにもインフルエンザにも機能するよう、日本国民全員で何があっても完璧に守り切らねばならないのだ。

 話を元に戻して、それにしても新型コロナはインフルエンザなど類似の感染症に対してまだ明らかに致死率は高く、ゆえに国も自治体も、主権者・納税者としての社会組織を前に『このぐらいの数値ならまあいいじゃん』とは絶対に言えない。だからこれだけ経済事情が悪化していても時短営業など必要だとして、暮らしの最前線に接する自治体の首長たちは断腸の思いでその指示を出している。
 病原体は一旦拡散すると元には戻せない。まだ特性をちらとも掴み切っていないウィルスをあなどってはならない。今しばらく我慢、まだ『わからない』のだ。

 問題は、経済停滞の弊害が重篤化の一途を辿っており、上記のような社会理念を維持するにも、いずれ限界が来てしまうという懸念だ。その手前で、とにかく大勢で力を合わせた経済活動の制限措置で一気に効果を出して、元々が他国より遥かに対処しやすいレベルの国内コロナ感染事情なのだから、諦めず次の手を考えようと言っている。

 冒頭に立ち戻って、質問。現状の特措法論議で何か事態は好転するのだろうか?
 高負荷の医療機関も時短営業の事業者さんたちも、どうか御幸運を!
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【921】安心安全お医者さんごっこの国民的アルバイト時給 [ビジネス]

 ふと思い立って、ここにおいでの御贔屓さま方にひとつ連絡事項を。
 元々ここはso-netブログとして始まり、現在はSSブログとして定期的に発信している訳だけれど、そのブログ管理事業の移行措置期間が今月末1月31日をもって終了するそうだ【783】
 もちろんこのサイトは随分前の2019年12月までにSSブログへの移行手続きを済ませてあり、無事に完了している旨まで管理元に確認済となっている【798】【805】
 万が一にも何かの手違いや通信事故が起こって、大事なお客さま方を黙ってお待たせしてしまうことになるといけないので、一応お知らせしておくことにしました。もちろん2月以降も更新ペースを変える予定はありませんので、今後ともどうぞ御贔屓によろしくお願い申し上げます。

 …ということで、本題。
 昨年末のボーナスを普通にもらって、選挙対策とやらで散々群れて飲み食いして、ようやく国会に戻って来て『初めての全休でした』ってか。まったく呑気な商売だよな。

 常識として物事の運営会議というのは、継続事項から入って片付くモノは先に片付けてしまうのだが、まず学術会議での古電球の違法行為はどう処置するんだ?決めろよ。
 制定した法律に従って学術会議の参加メンバーを誰々任命する、まさにその業務処理について、ドンピシャ同ケースの過去実績記録まであるのだから、とにかく古電球が勝手に口走った違法な不規則的独断の内容を取り下げない限り、永遠に解決に向かわないハナシではないのか。

 これ、『法治国家の運営が違法状態のまま放置されている』という極めて重大な社会問題なのだから、まず何をさておいても合法的な決着に修正して、日本社会全体で承認する必要がある。
 発狂戯言の攪乱操作で便所タワシをワクチン担当相に任命している場合ではない。

 我々日本人が他国をあんまり羨むことなく日本社会に腰を落ち着けている理由のひとつに、やはり医療体制の高度な普及があると思う。普通に日本人として暮らしている限り、それこそ路上生活者であっても、行き倒れたら誰かが救急車を呼んでくれて、呼ばれた救急車はとにかく手を施してくれる。
 何だかんだで日本社会では一般教養が行き届いており識字率も高いため、この瞬間の初対面からでも十分な意思疎通のもと『自分の健康と生命を守る、安心安全の保証付きプロフェッショナル』として身を預けられる、それが日本の医療システムだ。
 国民の健康トラブルを個々人の発生都度対応として割り切ってしまうと、その質も発生ペースも読めないまま、個別事例に個人判断で、命中率の悪い高額治療アイテムを模索試行するパターンに陥りがちなのはすぐ解るだろう。結構な先進国でも、健康保険制度を持たない国の医療はキホンそれだ。

 昭和のある日、都会の下町に古くからある外科医院の待合室でのこと。
 ぱっと見いかにも、のカッコをしたその道の稼業のお兄さんが、血染めのタオルで小指を包みながら我慢しきれない様子で、
 『あああ~ッツううう~、痛ったいわあ。な、なんか早よクスリない?』
 声を掛けられた看護婦さんから、けたたましい叱咤の返答が飛ぶ。
 『自分で指切ったりしたら痛いの当たり前やないの!忙しいねん、待っときッ!』
 さしもの若い衆も激痛の前にはグウの音も出ず、結局は痛み止めをくれて包帯してくれることになる白衣のお嬢さんの剣幕に説き伏せられるがまま、すごすごと待合室の椅子でうずくまるしかなかった。

 そう、昔も今も日本の医療は、あらゆる社会層のあらゆる傷病に対して、誠意も親切もビタ一文ケチらない損得抜きの手当てを施してくれる、本当に特別な社会インフラなのである。
 因みに私自身が間違えて膝の内側に少々でかい切り傷を作ってしまった時は、局所麻酔をかけて縫合してくれたのだけれど、『あいたたたセンセ、まだ深いとこ麻酔が効いてないような…』と訴えたところ、『あー痛いのはキミやろ、ボクは大丈夫!』と手を止めず速やかに縫い切ってくださったものよ。
 ええ、ちゃんとつながって綺麗に治りました。ありがとうございました♪

 これが医療と人との接点であり、社会が医療保障する目的の現場の光景だ。
 お判りだろうか。だから日本の医療システムには絶大の信頼が置けるのである。
 この人は反社会的勢力の身分だろうから助けて良いのかだとか、この子がヤブ医者に酷いことされたなんて噂しないだろうかとか、その他一切あと回しのまさに問答無用で、分け隔てなく安心安全かつ迅速に機能する。
 日本社会はその持てるキャパシティをコロナ禍の国民に等しく分配するため、大事なお店や会社が倒産するほどの辛い目を見ている国民も他に少なからずいることを知りながら、今は時短営業などウィルス感染拡大機会を縮小するほうに全力を投じているのである。
 この日本の暮らしを守りたいのなら、日本の医療システムに『そこで苦しんでいる傷病患者に、まず健康を取り戻させる』という至上目的以外の余計な価値概念を、我々日本国民全員が力を合わせて、どこのどいつからも絶対に持ち込ませないよう喰い止めることだ。医療が身を預けるに信頼できないような社会、恐ろし過ぎて考えたくもない。

 何だか五輪経費の時と同じく、ワクチンの買い入れ本数とやらが見るたんび勝手にえらい勢いで積み上がっていくんだが、まあこういうのは発信源を日本国民全員でよく見て考えておくのがよろしい。
 無毒化・弱毒化した新型コロナ・ウィルスが都合よく手に入ったとして、これを量産するためには、インフルエンザ・ワクチンの例がよく知られているが、鶏卵など生体系の培養床が必要だ。工業生産品でない以上、ウィルスくんの増殖活動のスピードで生産工程の全てが決まるので、人間ごときがどんな数字を口走っても無意味である。
 この無毒化・弱毒化ウィルスへの意図的な先行感染でない方式を採るのだとしたら、それは対症効力を期待した化学薬品の調合物になるはずで、それをワクチンと呼ぶかどうかはともかく、たかが数ヶ月や1年でまともな安全性の確認など到底不可能である。

 なんでも国会議員にもう7、8人の感染者が確認されているそうで、衆議院465+参議院245=合計710だとすると、感染率は1%超えにかかっている。おいおい、えらいことじゃないか。
 ならば、いまワクチン何千万本・何億本とか言わず、予備まで含めて1,000本も用意すりゃ十分足りるんだろうし、国会議員の全員接種で経過観察するところから検討を始めるんだろ?
 何しろ日本国民の代表なんだし、日本じゅうがこんなに大変な時も、しっかり税金で報酬もらってボーナスまで出てるんだし。しかもかなりの高齢層となると、うってつけのサンプル集団である。
 便所タワシ、てめえ一番で袖まくっとけよ。

 日本国民の誰からどう見てもイカサマの余地など無く、正真正銘コロナ・ワクチンの量産引き抜き品の現物を注射していると保証するために、製造ラインもしくは販社倉庫のどこからどう持ってくるべきか、どんな接種現場でどんな作業手順でやるのか、その一連をどう物証記録で監視・管理し切るのかは、この私がここで、コンセプト完全解説のもとタタキ台ぐらい作ってやろうじゃないか。悪い話じゃないだろう。

 偏差値が足りなくて医者になる道にはかすりもしかった私だが【377】、日本の医療システムを尊重し敬愛し、正しく維持管理しようとする目的意識は人一倍強いつもりだ。いま不運にも御世話になっている方も、大変な思いで御世話している方も、グッドラック!
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【920】日本のイノチが淘汰すべきものの向こう [ビジネス]

 ワクチン、ワクチンと軽々しい情報の横行が目立つので、少し込み入った話を。
 もちろん日本社会の医療は世界トップクラスの技術を健康保険で普及させるという、類まれなる行き届いた仕組みを備えている事実をまず念頭に置いて。

 十年ちょっと前に、私の姉が肺癌で命を落とした一件については、ここで何度か話題にした。発覚時点のショックが今も思い出される【196】
 まだ四十路中盤の生物学系の研究所員で、環境に人並以上の管理意識を持っており、遠方からタバコの煙が見えただけで寄り付かないし、もう好みのゾーンだが新聞紙の臭いすらとても嫌っていて、積んであって見えないところにあっても、いち早く気付いて他人に頼んで遠ざけるほどであった。
 だから本人はもちろん、馴染みの町医者の目までもあっさりとすり抜けてしまい、改めてかかった地元の中央病院で真相が判明した時点では、肺癌が相当に進行してしまっていたのである。

 当時も新型インフルエンザの流行が騒ぎになっていて院内感染を防ぐための非常態勢が張られており、姉は呼吸がままならないまま隔離病棟の一室で、手薄な対処で一週間以上にわたって苦しみ続ける不運に見舞われる。後に私が転院の手続きを済ませ、ようやく手厚く行き届いた医療技術の御世話になることができて有難い限りではあったのだけれど、ちょうどその大変な思いをしていた最中の話だ。

 結果論で言えば、重度の肺癌を見逃してしまった行きがかりになる町医者の先生が、入院中の姉の病室に、わざわざ謝罪しにいらしたのだという。
 聞くからにつらい御心境が察せられたものだが、それを自身の口で語る姉はもっとつらそうであった。私と『こういうの、場合によっては訴えちゃうヒトもいるんだろうね』という会話もしたけれど、もちろんそんな検討などしたことは無い。

 病気を患うのは本人であり、それが本人に判らないから医療に見つけてもらう。
 そこで洩れてしまった自分のケースにおいて、誰かを責める立場にはない。
 ここから自分は自分で次の処置をする、先生も大変だが今後どうされるのだろうか。

 そう、仮に訴えを起こして、どこかの誰かからおいくらかふんだくったところで、自分の身体が元に戻る訳ではない。むしろ地元住民の方々の馴染みの医療機関に、この一件が負担にならないようにしないと。
 おお、さすがは私の姉じゃないか、正しい判断だよ…とは思ったものの、やはり命の危機に晒された当事者の姉が、とてもやりきれない現実を受け入れられず四苦八苦しながら、ようやくその言葉を選んでいた姿が思い出される。

 社会に普及する医療システムは、いつ自分の身に降りかかるかも知れない傷病の不安を取り除いてくれる、大変に有難いものだ。だから診療代や健康保険料の支払いを始め、いま医療に直接かかる人も、医療にかかる可能性に備えて先手を打つ人も、お金を出し合って皆で敬意を払いつつ大事に維持するのである。支払額と引き換えに、抜け洩れなく受診者の健康を管理する売買契約では決してない。
 この恵まれた日本社会に暮らす我々日本人が肝に銘じるべきは、ただの売り買いではないがゆえ、工数・コストの無駄を、国民の幸福を賭けて取り除いた、商売抜きの良識スピリットの業域として、現有医療システムを維持する心掛けではなかろうか。こんなに恵まれた社会は、世界にそうそう無い。
 これは一歩間違うと、医師を始めとする医療現場の職員さんたちに、精神論根拠で無限の高負荷を期待し続けるだらしない社会意識にもつながるため、くれぐれも注意せねばならない。医療業務の信頼性のぐらつきを防ぐためにも、医療システムの負荷状態は社会全体で気にしておきたい。

 いま新型コロナ肺炎という感染症が、社会的な規模で流行しているのは事実だ。
 これにより、日本国民の大勢が重度の呼吸器疾患に苦しめられたり落命したりしていて、また強い感染力により次々と健康な国民が手酷い症状に陥って、日本国内の社会生活がみるみる焦げ付いて止まってしまっていたとしたら、これは全・国家社会的な特別緊急対策を取らねばならない。
 現実としてそこまでは行っておらず、感染が拡大するなりに一定確率で発生してしまう重症者を受け洩らさないため、社会全体で協力して経済活動を控えましょうということで、この現況となっている。

 ふと、この現状から逆算して考えるに、今まで毎年かなりの不便と対応コストを被りながら、あともちろん少数ながらではあるが同じく重症・死亡事例まで被りつつ、インフルエンザに対しては『発生都度対応』で割り切ってたってことなんだよな。そのインフルエンザ、今年は随分と減っているそうだが。

 自動工作機械を使った部品の切削加工において、大きくふたつのタイプがある。
 ひとつは『インクリメンタル方式』と呼ばれ、切削開始点からX軸方向にいくつ削って工程1、Y軸方向にいくつ削って工程2、再びX軸方向でいくつ削って工程3、今度はZ軸方向にいくつで工程4…という流れでプログラムを設定するもの。1ステップ毎ラクチンに打ち込めてプログラムが簡単だが、工程数が嵩むたび開始点からの誤差が蓄積していく。
 もうひとつは『アブソリュート方式』と呼ばれ、原点から見て座標1(X1,Y1,Z1)から座標2(X2,Y2,Z2)まで削って工程A、次は座標3(X3,Y3,Z3)から座標4(X4,Y4,Z4)まで削って工程B…という流れでプログラムを設定するものである。原点からの相対位置をいちいち計算してプログラムする必要があり面倒だが、原点から切削刃先を位置決めする一次的な誤差で工作が完結する利点を持つ。

 物事インクリメンタルに進めてくると、過去に積算してきた過程のことが自然と思考判断のベースになるものだが、ふと気づいてそれがアブソリュートな観点で見て非効率だったりすることはままある。
 無責任な発言をするつもりは無いのだが、そろそろインフルエンザなど定番の処置が確立している感染症と素朴に比較する視点で整理しても良いのではないか。どちらも同じウィルス感染症なのだし。

 何よりも『政治家は人に会う仕事だから、群れて飲み食いするのもしょうがない』とかいう程度の対応意識が、弾みでひけらかされるような危機感レベルだろ?
 もし『所詮その程度のモノ』だったなら、何千万件ぶんのワクチンを、税金資本でどこぞの製薬会社と売買契約なんぞ、とんでもない現代医療技術の冒涜である。一応常識的にデマカセだったとして、ならばその質の悪すぎる発信源を特定し処分すべきだ。
 仮にもうしばらく経って、急造ワクチンの効力と安全性が見えてきたとして、重症化率・致死率の高い他国を優先する形で、当方は必要最小限に留めておくのが日本国の医療政策が採るべき措置なのではないか。

 以前にも述べたが、日本社会でまわっている経済単位もひとつひとつ組織生命体なのであり、瀕死に追い込まれれば生存を賭け思い切った行動の選択に出る。これらが現状のだらだら国政にキレ始めた場合、収拾のつかない事態になることを、そろそろ想定の範疇に入れておかねばならない。
 既に日本国民の意識は『アフター・コロナ』ならぬ『アフター・現政権』に移行している訳だが、どうか壊れずに建設的に方針転換したいところだ。我々は規律正しく、おとなしいとされる日本人なのである。では引き続き、グッドラック!
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【919】忘れたい、忘れちゃいけない国語力の黒歴史 [ビジネス]

 真顔でこんな単語を取り上げねばならない時代なんぞ、遥か昔のうちに現代社会文明史が後にしてきたんだからってことで、肩の力を抜いた組織むかし話から。
 『特高警察』というコトバ、今の若い人たちはそもそも御存知ないだろうし、聞いたことがある昭和世代にしても、既に忘却の彼方になっているのが普通だろう。それで正常なのだが、昔そんなモノがこの日本社会にあったのだそうだ。

 フルネームで『特別高等警察』という。明治時代に日本社会の近代国家式統治の構築が進むワケだが、全国統一規模の新・組織枠が稼働するには、それに反対し抵抗する社会勢力を摘発し封殺する必要があった。
 このため国家組織の正式な業域として、検閲を始め国民生活の徹底的な監視を行い、国政方針に不都合と見るや、うむを言わさず標的に仕立てて身柄拘束する執行権力まで備えた役所が存在したのである。治安や司法という表現は使いたくない。
 いわゆる『思想犯』『国家反逆罪』みたいなアッチの世界の狂気的な概念が飛び交う時代のことであり、もちろん大東亜戦争の頃は日本国内で普通に運用されていて、これが終戦とともにGHQ連合国統治により解体された。

 特高警察の実業態は、少なくとも一般庶民との接点において『迂闊な言動をして滅多なところを見つかると、即しょっぴかれて拘束され、元の人格を放棄し改心の言質が採れるまで激しい刑罰を繰り返す』という、今なら信じられない恐怖政治式の言論統制だったようだ。
 このあたり、我々高度経済成長期の生まれや、その一時代前のいわゆる団塊の世代が学童期・成長期だった昭和の終わり近く、体験談として語られる昔話にしてもノンフィクションを謳う出版物にしても、やたら凶悪なイメージで若年層世代に刷り込もうとしていた空気が思い出される。
 ちょうど敗戦の史実を深く考えない『反戦ファッション』が若者に流行していた時代でもあり、当時の平和ニッポン名目を掲げた諸政策の基盤醸成に、テイ良く利用されていたのかも知れない。

 さて戦中のエピソードだが、例えばアナタが『なぜ日本は戦争なんかやってるんだ、すぐにやめさせろ』だとか、『負けるに決まってんだろ、うちは出征なんかしないぞ』などと公言しようものなら、すぐに特高警察が押し入ってきて家族全員ひっとらえられ、『鬼畜米英の殲滅のため、明日にでも爆弾をくくりつけた片道燃料の飛行機に乗りたくてたまりません』とでも言い直さない限り、死ぬまで凄絶な拷問が繰り返されるというものだ。実際に刑死者まで出していたという話もある。
 手指の間に鉛筆を挟んで、骨が折れるまで一本に握りしめるなんてのは序の口、この下3行グロ閲覧注意である。痛い話、気持ち悪い話が苦手な方は飛ばしてください。

 後ろ手に縛って足首で逆さ吊りにする。血が頭に落ちて赤黒いスイカのようになる。
 手足の爪に指先から爪楊枝やキリを刺し通し、結局は一枚ずつ全部剥いでしまう。
 畳の縫製につかう極太のタタミ針を逆手に持って所かまわずメッタ刺しにする。

 こんなの本当にやったとしたら、やっちまった側の奴も激しく嘔吐して動けなくなる気もするのだが、後のベトナム戦争の記録なんかを見てしまうと、状況次第で人間という生物はとんでもない作動で暴走するのも現実らしい。
 おっとベトナム戦争の話はあまりに一般向きでなさすぎるというのもあるし、またどこかで機会があったらにしておこうか。とにかくこの勢いで、現に日本社会が『思想狩り』『言論狩り』を実行したとされる記録は、割と珍しくない。ドキュメンタリーにしてもドラマにしても、戦争を題材にした内容から、こういった言論統制や大衆情報操作のことが年々抜け落ちてきているのが気にはなっている。

 ポイントは、不特定個人としての国民に絶対服従を要求する権力体系の存在および、現場作業として個人を狙い撃ちで糾弾する行政決定プロセスが、正式な国家活動の一環=社会組織の自我になってしまっていたことである。ありていに言えば『組織の支配に逆らうことを許さない』とする仕組みだ。
 だから戦後の日本国は、戦争放棄の実効手段という位置づけで『思想信条の自由』や『言論の自由』を判りやすく個別に設定し、日本語文章の情報として改まってしたためているのだとして過言ではない。
 これもありていに言えば『待て、みんな何かおかしくないか?』『そんな理不尽な世風に同調するのはやめようよ』と気付いた誰もが声を上げ、見解の共鳴や事態の検証を求めて、組織の内向きに有効発信できるようにするための仕組みだ。

 このコンセプトのもと『誰かを一方的に標的として決めつけ、言論や行動の自由を強制的に拘束する仕組み』は、日本人がこれまで学んで積み上げてきた国家種族文明としての『基本的人権』に反するとされる。それこそ『粛清』さえ辞さないとされる隣国を指さして、偉そうに批判したりもするワケだ。
 ここまで判っているはずの日本国で、今さらながらに『人質司法』【905】が強行されるたび国際的に非難されるのはそのためである。

 いま時短営業にしてもPCR検査や入院治療にしても、『従わなければ厳しい罰則を科す』という法律を新設することに、日本の国家運営が二の足を踏むのは、ある意味正しい。
 ここが法治式統治の難しいところであり、一歩間違えれば『法律文言に逆らう行動をした国民を弾圧する』という目的で社会の仕組みが作動してしまうリスクが避けられない。それは過去に積み上げてきた日本文明史すべてに照らして、絶対に出戻ってはならない愚かな誤作動ロジックなのである。
 ただこれを逆手に取る形で、医療機関や社会風土を攪乱する目的を腹に持って、劇場型で社会統治パワーを蹂躙するようなデモンストレーションが横行してしまうと、それはそれで国民生活を支えている社会保障制度が機能できなくなり破綻する。

 つまるところ、どんなに法律を整備しても、主権を持って国家を成す国民が、どう規律として認めて運用するかに全てかかっているということだ。では『ナニ』が法律なる文章情報の裏打ちを得て、日本国組織の行動規範として実行に直結されるべきなのか?

 日本国組織の自我=1億2千万人日本社会の過半数が『これが妥当、これで納得』を確信する組織的行動である。日本国組織の自我が向かうがまま、それが答だ。
 まずこの組織的行動パターンのイメージが自然と日本社会に共有される姿があり、それを正確な表現で日本語文章に書き落とすことで法律が設定される。この順番ではないかと思う。
 過去の世界史には、ウソや隠し事でまわしていた社会運営のアンフェア感に不満を募らせた大衆=社会組織の自我がキレて、個々人の非社会的・原始的な実力行使を動力源にし、同時多発的に振舞った一斉大混乱の事例が散見される。
 もちろんそこで社会文明は1フェーズを刻むのだけれど、必ず壊してしまったもの、失くしてしまったものを惜しむ長くつらい後悔が待っている。過去に人類は何度これを繰り返してきたことか。

 だからそんなことにならないよう、我々どんな難課題に立ち向かうにあたっても、既存のルールも、情操として身に着けた精神衛生も、一切無碍にせず徹底的に維持して公明正大かつ正々堂々を貫くべきだと言っている。
 そろそろ医療的にも経済的にも崖っぷちになっている仲間たちの実情について情報共有したい。正直=正確な情報伝達で繋がるみんなに、どうか引き続きグッドラック!
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【918】生命の淘汰に学ぶ、組織と個人のフラクタル同調 [ビジネス]

 さて、いよいよ今年もセチガラ系の話題を始めるとしますか。
 去年一年かけて、ひとつ明確になったことを年頭に確かめておきたい。

 この新型コロナ・ウィルス、人類みんなが一生一回はひっかぶることになるだろう。
 地球上で過ごす限りは確実にどこかで遭遇して、体内に侵入してくることだろう。
 各自、一人ひとりの自由な未来はその先に拡がっているとして過言ではないと思う。

 ある感染力を持つウィルスが未感染者の大規模集団の中に現れたのだから、感染が拡がり感染者が増えていくのは当然だ。新規感染者の確認数が日々単純増加するのは当面のところ不可解でも何でもなく、これを必要以上に深刻視するような論調は厳に慎むべきである。
 そりゃこんな御時世でも正月を挟んだ以上、日常とは違う質のスクランブル対人接触があちこち発生するワケで、だとすると新規感染者の確認件数が段付きで増えるのも自然なことであろう。

 今はまだ医療機関の負荷が大変な時期であり、とにかく呼吸器系の機能不全に苦しみ命まで落としてしまう人を少しでも減らすため、他を合わせ込んで最前線に全力を投じていただくしかないとは思う。
 だが一旦ウィルス感染して陽性となり、あからさまな肺炎症状の有無はともかく、無事に済んでいる人たちの事後経緯はどうなっているのだろうか?可及的速やかで構わないので、現状の実態を把握したい。
 日本人の重症化率・致死率が世界的に見て桁違いに低い話は何度もしているが、それはつまり、軽症解決率・無自覚無症状率が極めて高いことを意味している。連日、新規感染者のヒストグラムが鰻登りになるのは道理だとして、大事に到らずどうにかなっている人のヒストグラムもほぼ同じ概形で伸びているはずなのだ。

 くれぐれも重篤化している罹患者への対応措置が最優先であることを繰り返しておくが、反面そんな重症例にしたって、たかが数年、嗅覚や味覚に異常をひきずる程度なら、それを本職とする鑑定士でもない限り大した後遺症ではない。ナニをおどろおどろしく不治の病みたいな言い方してんだよ?
 むしろ人体の系外に由来する敵性外乱としての症状をそのままストレートに喰らっておいた方が、中途半端に人体への親和性を持たせた薬品がもたらす副作用よりも、諸症状を単純キャンセルする形でよっぽど素直に解決する。年単位の回復期間がかかるんならかけろ、それが最適解であり一番ラクで早い。

 こんな状況だからこそ大切なのは、恐らく日本人の人種特性として高い感染症耐性の幸運がいま現にあるのだから、最大限に有難く利用する謙虚で素直な心である。海外の厳しい感染事情を脈絡もなく日本国内でたれ流して、税金資本によるワクチン総投与の必要性の話などしないこと、させないこと、そのいずれも相手にしないことだ。

 この度いよいよ自分がその当事者になる番を避けたいのなら、まず立ち止まって、社会をよく見て、御自身でよ~く考えて、自覚と責任のある行動選択をしよう。
 『B型肝炎もエイズも、過去の薬害問題はこうして起こったのではなかろうか』
 健康被害はやっちまったが最後、誰の胸倉を掴もうが、誰からおいくらふんだくろうが、この世のどこから何の飛び道具を持ってこようが、微塵の改善も期待できない。自分の身体が自分の味方でなくなるのである。つらいですぞ。

 昭和30年代後半=1960年代前半の『梅田熱』【823】なんかは、まず当時は通勤以外で電車に乗ることなどあんまり無かったはずだし、更にそんなモビリティ事情のもとで、大阪梅田のドヤ街に接点のある人種でふるいにかけるとなると相当に限られ、だから5年かかって感染者数が百人あまり・犠牲者2人に収まったのだと思う。
 こんな地域限定型の感染症なら『封じ込めて撲滅する』という対応コンセプトに現実味があり、発生都度の投薬対症治療も当事者個人めがけて施して事後を手厚く追いかければ良い。だが今般の新型コロナは、それでは到底収まり切らない。
 子供の頃を振り返って、遠方のモノがせいぜい2、3日のうち…というか、どうかすると翌日や当日のうちに、個人宅の玄関先にまで届いてしまうなんて考えもつかなかった。この人間以上のウィルス感染媒体となり得る超高速の物流も、今や社会全体のビジネスに不可欠なインフラとなっている。これを止めたら、その代替案が次の新たな感染経路となって…で問題が無駄に複雑化するばかりなのはすぐ判る。

 あちこちで『コロナ禍の出口』『アフター・コロナ』『ウィズ・コロナ』などなどと、もっともらしい標語ばかりが飛び交っているが、大事なのはまず『日本社会における病原性感染症の拡大現象』の現実を率直に把握することではないのか。
 日本人の元気で幸福な暮らしを、病原体の来襲ダメージをものともせず平常相当に保てるよう、有利なファクターをくまなく組み合わせて、弊害事象を解決していくことではないのか。

 医療体制のキャパシティを超えない制御を最優先しようとする自治体の行政コンセプトは正しい。
 その社会操作の判断をぐずぐず躊躇する国政が何より問題なのだが、どこからどう発せられたかはともかくとして、『自治体に言われて、ようやく国政が動くカタチに見せようとしていて、ずるい』という日本語が目耳に留まってしまったのには唖然茫然である。
 『ずるい』のだそうだ、この日本社会の、この現況を前にして。
 こういう日本語を放つヤツも、受け流すだけにしても平然と人目に晒すヤツも、こんなのが日本国の成人社会人として紛れ込んでいるから、現状こんなことになっている。
 議員は選挙で落とせるから良い。そうでない社会層の処置を考えねばならない。

 ともあれ全部これまで我々日本国民が『これで良い』としてきた社会運営の結果だ。
 このまま行くと、日本国民全員が各自の自分の身体の処置に困る危険があるのだが。

 言うにコト欠いてだが、新型コロナ・ウィルスはこの日本列島の生命の歴史において『老いさらばえて自滅しようとしていた日本人組織に、生き残るための社会組織性』を感染(?)させる進化の一面をもたらしているのかも知れないとさえ思えてしまう。
 ならば豊かなる我等が君が代の島の命ずるままに。引き続き、どうか御幸運を!
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【917】二次元画面上で受ける非オンライン講義の及第点 [ビジネス]

 パソコンが他用で塞がりながら緊急事態宣言がぶつかってくる流れを避けて、今朝のうちに。せっかく世知辛い話題がお休みになっているし、ステイホーム系でもう一回。

 公開当初かなり話題になっていたアニメ映画『天気の子』が地上波で流れたので観たんだけれど、もっと高校生の日常青春ストーリーかと思っていた。昭和のオッサン的には…すまん、イマイチ理解できんかった。
 もっとも、一面に無数の雨滴が落ちるとか、波紋の輪っかが拡がっては消えるとか、手作業で作画するには手が掛かり過ぎるシーンが、恐らくは3D立体データから動画ビューを起こす新技術により、緻密に描かれている。これはむしろ圧巻であった。
 こういうのが『ルパン三世 The First』やジブリ最新作『アーヤと魔女』なんかになってくると、もう『現実の描写』ではない創作バーチャル物理学が巻き起こす空間世界を現実と同じ勢いで視覚化する段階にまで到達していて、かなり驚かされる。だがそっちは今回ちょっと置いといて…

 2014年制作なので内容が古くなり過ぎないうちに紹介しようと随分前から思いつつ、”THE REWRITE”(=書き直し)という映画のハナシがお流れになり続けていた。
 本作の邦題が『RE:LIFE』と書いて『リライフ』とカタカナ書きで読ませており、このカタカナ邦題と全く同じタイトルの邦画が別にあるのでややこしい。申し訳ないが、邦画の方は観たことが無い。

 日本国内だと気にも留められず見過ごされていることが多いのだけれど、ハリウッド映画で『現地の気候』が舞台背景の伏線として象徴的に語られているケースは結構目に付く。
 近年日本人の知能レベルの低下にシンクロする形で『あおり運転』という痴呆語が普及してしまい、元来の問題事象が霞んだ感じもあるロードレイジだが、その映画化の原点にして代表作でもある”Duel”(邦題『激突!』、S.スピルバーグ出世作と言われるTV放映用映画)なんかは、『ターミネーター』シリーズの舞台でもあるLAからアリゾナ、ニューメキシコあたりの中西部砂漠地帯での出来事であり、要は『果てしない岩石砂漠の地で、誰も助けに来てくれない』という孤立不毛の世界観がベースになっている。まあ特段それが無くともストーリーとしては歯抜け感なく成立するから、そのまま深く考えることなく楽しまれているだけのことだ。

 さてヒュー・グラント主演の”THE REWRITE”『リライフ』だが、ハリウッド=殆ど雨の降らない晴れ続きで西海岸南部の明るく垢抜けたLA…から都落ちした脚本家が、北米大陸の真反対側の北東部ビンガムトン=NYから北西280キロの曇天の田舎町…にて、不満たらたら教職に就くところから始まる。
 曇り空のもと車に乗り込んで、寒そうに空調パネルの温度調節と送風量をぐるりとダイヤルアップするシーン、実は意外とそのあたりの土地柄の描写を含んでいるのだ。そうそう、私も5月半ばの30℃近いLAジョンウェイン空港から飛び、初めてNYニューアーク空港に降り立った時の第一印象は、曇天の薄暗さと肌寒さであったことよ。

 『大昔にイギリスを出てから傘なんて一度も持ったことなかった』
 劇中の、傘を買おうとするこの台詞で主人公の出身地と新天地での成功、そこからの転落が気候とのダブルイメージで語られている。その後の本編を通して、教室の窓の外に見える雨降りの景色なども『場の空気』のさりげない背景として、意図的に割り込ませて語らせられているのが印象深い。
 日本人は社会丸ごとの規模で千変万化の豊かな日本列島の気候【404】に暮らす世界観が当たり前として普及しているため、逆にこうした気象や天候に対するメンタリティ感度が、世界標準より鈍い一面があるのかも知れない。

 ”Whiplash”『セッション』【567】の鬼教官だったJ.K.シモンズが、この赴任先の涙もろい先輩教師として登場するのが個人的にはちょっとツボだったりするのだが、一般向けには、とにかくこの”THE REWRITE”『リライフ』は、登場人物のキャスティング・服飾・演出の行き届いた完成度のほうを強調してオススメしておきたい。
 ヒュー・グラントに絡んで人生書き直しの機を同じくするシングルマザー役マリサ・トメイ、登場シーンからラストまで、シーン毎の生活シチュエーションに応じた髪型とファッション、およびちょっとした仕草が、わざわざに飾らないなりに颯爽とキマっていてカッコ良いのだ。
 学生ちゃんたちも、一人ひとりキャラ設定と相応しい服飾による丁寧な演出が尽くされており、ヒュー・グラントを始め古株セン公のシケ親父どもも『イイ線をついた地味系よれ具合』でセンス良くユルいダサさが面白い。手のかかったトリックも大掛かりなアクションも無いが、人物描写に全面的にウェイトをかけた大人向きの造りの一本である。

 大学購買部のカウンターを挟んだ教職員と店員の会話として、人生の先輩方が目前でぶきっちょなコクり合いを始めてしまったバッド・タイミングに遭遇し、でも野暮な中断も入れず後ろで延々と列になって待たされてくれるエキストラ学生ちゃんたちのいでたちと表情まで、手抜かりは一切無い。そこからドアを開けた先に開ける、レアだが最高だというビンガムトンの晴天が景気よく気候バナシの伏線を刈り取ってくれて、スカッと爽快な気分になれる。
 某ブランド品をまとった悪魔バーサンを題材にした直球ファッション業界ネタの映画より、私としては断然こっちを推す。落ち着いたBGMやいかした会話の応酬まで含めて、お洒落な映画だと思う。

 あ、因みに私自身はいつも無頓着とかいうレベルではなくハチャメチャ然とした恰好しかしません。手近にそれしかなかったら、ピンク色のキティちゃんのTシャツにポケモンの帽子かぶって渋谷スクランブル歩いてやろうじゃないか。指差して笑われたところで、こんなオッサン誰も5分も覚えちゃいねえよ。

 で、今この御時世に改めて思うのは、学校の授業というものが、決して教師から生徒への知識情報の一方通行ではないという、本作のメインテーマのことだ。
 この実情、いざこんな事態にやむなし対応してみたら、実は通信回線を介して『情報』のやりとりだけで片付くコトが案外と多く、今やオンライン・ビジネス業界が賑々しい限りである。しかしこの”THE REWRITE”『リライフ』において、授業という目的項目を掲げて始まった対面コミュニケーションが次々と呼び起こす登場人物たちの人生の展開は、決して卓上ディスプレイ映像とマイク&スピーカー音声で置換・代用できるものではないことが解ると思う。
 この領域を実感ある有効策で埋め合わせずに社会活動が成立するものなのか、それとも成立しなくなりながらも埋めるに埋められず違った新社会形態に移行するのか、それともコロナ禍が収まってきて徐々に元通りに収まっていくのか、中長期的な展開になるんだろうが、非常に重要な問題だと思うし、私は慎重に観察している。

 人間は個人占有の情報を組み合わせて単独で思考し意思決定し、心身の振りを選択するのではない。故に現時点の『知っていること、経験していること』は『知らないこと、まだ経験していないこと』よりも優位でも何でもない。答はキホン他にある。
 手を尽くして生き抜いて次の展開に繋ぎ続ける限り、物事はまだ見聞きしない、新しいどこかに進んでいく。では引き続き、本日もグッドラック!
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【916】新春ランダム初夢展開の超越ストーリー [ビジネス]

 新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
 皆さま初夢はいかがでしたでしょうか…ということで、前回からの続きを。

 『意識』というのは、生物ならではのナニガシか一定の傾向を感じさせる情報処理プロセスのことではないかと考えている。何か食って美味いとか冷たい外気に当たって寒いとかの受動的な感覚反応に始まり、文字を読んで指示通りに歩くとか、欲しいと思う物に手を伸ばすとか、目的が設定されその実現という関係が成立する、能動的な心身アクションまでいろいろある。
 そこに見出されるインプット&アウトプット図式あるいはスタート&ゴール図式のような一定の共通項目をもって、我々は『お、生きてる』『あー解る解る』『こんなの人間にできるコトじゃねえ』などの判定をやっているのだ。もちろんこの判定も意識活動のひとつだな。

 面白いのが、いわゆる嗜好や好き嫌いというやつで、そこに理屈は無い。
 『つぶつぶが気持ち悪くてイチゴが嫌い』というヒトに、あんなに美味しい果物なのにどうして嫌いなんだ、口に入れてしまえば粒なんて感じないし、むしろうっとりするほどみずみずしいし、何より人間にとって疑いなく食い物なんだから食えない理屈など無かろう、ほれ食えやれ食えと押し付けたところで、当人がイチゴ好きに転じる可能性はまず無い。

 例えば案外と多い『鳥が嫌いで触れないヒト』の理由としては、『どのくらいの強さで持っていいのか判らないから』『足が怪獣みたいだから』などなど結局のところ理由でも何でもなく、質問文の内容を否定するための作文しか返って来ない。もちろん当人に犬猫をほいっと渡すと大喜びで抱き上げ、頼んでもないのに頬ずりまでするのだから不思議なものである。ふかふかのぬくぬくでココロ通うのは同じなのに。
 食い物の好き嫌いは食感や味覚だけを理由にするものではなく、動物の好き嫌いは触感や温熱感だけを理由にするものではない、非常にややこしい…というか、本人なり客観性皆無の独立普遍的な拒絶反応をもって『イヤなものはイヤ』なのだ。逆に『好きなものは好き』もそうだよな。

 新年早々に横道に脱線するのだが、メシの定番として茶碗盛りなり、カレーライスや天丼の土台なりとして白御飯が存在するのは、げに日本特有の食文化である。最近でこそ日本食が有名になり、そこらの日本人よりも達者な箸使いでちゃんと食事するヤツも増えたが、キホン外人は白飯を食わない。
 スシを普通に知っているアメリカ人でさえ、豚カツ定食を出されて、豚カツとキャベツ、味噌汁にお新香までは良いとして、白御飯をどう食うかに迷うのだった。

 『味がはっきりしないし、食いモンなのは判るんだけど、あれだけ口に入れて美味いと思えないんだよね。要らないって言いたいんだけど、ナニ頼んでも絶対ついてくるんだよな』と社員食堂で真剣に打ち明けられた時には、申し訳ないが腹を抱えて笑ったものだ。ハイ、手びいて差し上げましたとも。
 これが本国に寿司屋もあまり無いような世界の人間だったりすると、白御飯の上からサザンアイランドのドレッシングをぐる~りひと回り…も珍しくない。
 もっとも自分らも豚カツ定食を頬張りながらドレッシングのかかったキャベツと白御飯が一緒になるのは普通だし、御飯の端っこで同じことを試すぶんには十分美味い。そりゃ御飯だし当たり前か。
 後に日本でも若者世代からマヨネーズ御飯が有名になってきて、私自身は栄養・味ともにバランス的にイマイチ落ち着けないので少し試した以上はやってないけれど、先入観を捨ててしまえば確かにあれはあれで、昭和世代が脊椎反射で顔をしかめるような味覚ではなく美味いと思う。

 『個人的な好き嫌い』も『オオヤケ的な食の常識』も、我々人間が自覚するほど絶対的な根拠なんか無いのだろう。人間ひとり、たまたまのひょいっとポジティブあるいはネガティブ印象のスイッチが入ったら、一連の『好き』あるいは『嫌い』の判定フローが瞬間的に高い完成度で構築されるのではないか。
 何らかの事情で、そのスイッチが皆さん同じ側に入りやすい対象事物に関しては、大勢がお互い同調し合うので、結果として『世間一般の常識』として扱われるだけだと。
 つまり根拠も因果も何も無い、思いっきり自分勝手な偶然にこそ、人間が思い込んでいる『理屈』『理論』の原点があり正体があり、おんなじ人間同士だからそれが似たようなところで共感できるケースが多いもんで、ようやく『ロジック』『常識』『社会通念』みたいなものが成立しているのではないだろうか。

 特に他の動物たちと違って、人間は高度な言語で複雑な事態も情報として伝えられるから、『多くの人はイチゴを美味いと感じるし好きなのだが、自分は違う』みたいな、自分だけ大勢とちょっと傾向が違う事実に気づきながら、社会生活を送る上で特段の障害も無いんならまあいいや的な態度を決め込むことだって可能だったりする。『世間の常識』が情報として、社会組織の空気に存在できる。そこで自分の嗜好にこだわれる。

 誰がどう見たっておかしい、理由になり得ないデタラメを理由仕立てで一方的に言い放ち、みっともない責任逃れの魂胆も明け透けにバレバレ。
 組織の過半数から強烈な反感を買い、非難轟々の険悪な状況にまで陥っても、頑として組織の自我への屈服を認めず何もかも道連れにして自滅しようとする昭和ダメオヤジ裸劇の迷惑な誤作動も、実は人間が、いや生物が、『意識』なる情報処理体系フローを無から構築しようとする生命活動の残骸ではないかと思うのだ。

 若い人たちは活力に溢れていて、未来に拡がる時間をみんなで分け合って楽しく暮らす志向が働くから、好きというよりは正しいと信じる道を選んで、素直に現有ジブンの優先度を落としジブンを修正する。
 人生経験が少ないから未熟で自信も無く、また自分が学習中の身であることを自覚しているから…とする因果は確かにその通りだが、そんな精神地盤を支えるのは元気で素直な生命力なのだよ、きっと。それこそが適応力であり、生存確率なのだ。

 やれウィルスが変異した、感染力も致死性も未知数だ、そんなハナシは本当にあったとして将来性のある地球上の生命活動として自然な事なのであり、問題はどこまで何の行動選択の理由にして良いのかも判らない、そんな日本語情報をだらだらとばら撒いているモーロク日本社会の無様な老い方のほうである。
 少々無茶な表現だが、少なくとも日本人は、この新型コロナ・ウィルスをただ闇雲に嫌って遠ざけていても何ら解決にはならないと腹を括るべきだ。我々現代人類は地球生命の完成品でも最終仕様でもない、この地球上の環境に適応して生き延びていくんだっての。ナニがSDGsだよ。

 世界人類が結構ヤラレた旧年だったが、今年は脱・ヤラレっぱできるかな。
 まずは皆さま、年明けのスタートから、どうかこの一年の御幸運を!
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