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【916】新春ランダム初夢展開の超越ストーリー [ビジネス]

 新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
 皆さま初夢はいかがでしたでしょうか…ということで、前回からの続きを。

 『意識』というのは、生物ならではのナニガシか一定の傾向を感じさせる情報処理プロセスのことではないかと考えている。何か食って美味いとか冷たい外気に当たって寒いとかの受動的な感覚反応に始まり、文字を読んで指示通りに歩くとか、欲しいと思う物に手を伸ばすとか、目的が設定されその実現という関係が成立する、能動的な心身アクションまでいろいろある。
 そこに見出されるインプット&アウトプット図式あるいはスタート&ゴール図式のような一定の共通項目をもって、我々は『お、生きてる』『あー解る解る』『こんなの人間にできるコトじゃねえ』などの判定をやっているのだ。もちろんこの判定も意識活動のひとつだな。

 面白いのが、いわゆる嗜好や好き嫌いというやつで、そこに理屈は無い。
 『つぶつぶが気持ち悪くてイチゴが嫌い』というヒトに、あんなに美味しい果物なのにどうして嫌いなんだ、口に入れてしまえば粒なんて感じないし、むしろうっとりするほどみずみずしいし、何より人間にとって疑いなく食い物なんだから食えない理屈など無かろう、ほれ食えやれ食えと押し付けたところで、当人がイチゴ好きに転じる可能性はまず無い。

 例えば案外と多い『鳥が嫌いで触れないヒト』の理由としては、『どのくらいの強さで持っていいのか判らないから』『足が怪獣みたいだから』などなど結局のところ理由でも何でもなく、質問文の内容を否定するための作文しか返って来ない。もちろん当人に犬猫をほいっと渡すと大喜びで抱き上げ、頼んでもないのに頬ずりまでするのだから不思議なものである。ふかふかのぬくぬくでココロ通うのは同じなのに。
 食い物の好き嫌いは食感や味覚だけを理由にするものではなく、動物の好き嫌いは触感や温熱感だけを理由にするものではない、非常にややこしい…というか、本人なり客観性皆無の独立普遍的な拒絶反応をもって『イヤなものはイヤ』なのだ。逆に『好きなものは好き』もそうだよな。

 新年早々に横道に脱線するのだが、メシの定番として茶碗盛りなり、カレーライスや天丼の土台なりとして白御飯が存在するのは、げに日本特有の食文化である。最近でこそ日本食が有名になり、そこらの日本人よりも達者な箸使いでちゃんと食事するヤツも増えたが、キホン外人は白飯を食わない。
 スシを普通に知っているアメリカ人でさえ、豚カツ定食を出されて、豚カツとキャベツ、味噌汁にお新香までは良いとして、白御飯をどう食うかに迷うのだった。

 『味がはっきりしないし、食いモンなのは判るんだけど、あれだけ口に入れて美味いと思えないんだよね。要らないって言いたいんだけど、ナニ頼んでも絶対ついてくるんだよな』と社員食堂で真剣に打ち明けられた時には、申し訳ないが腹を抱えて笑ったものだ。ハイ、手びいて差し上げましたとも。
 これが本国に寿司屋もあまり無いような世界の人間だったりすると、白御飯の上からサザンアイランドのドレッシングをぐる~りひと回り…も珍しくない。
 もっとも自分らも豚カツ定食を頬張りながらドレッシングのかかったキャベツと白御飯が一緒になるのは普通だし、御飯の端っこで同じことを試すぶんには十分美味い。そりゃ御飯だし当たり前か。
 後に日本でも若者世代からマヨネーズ御飯が有名になってきて、私自身は栄養・味ともにバランス的にイマイチ落ち着けないので少し試した以上はやってないけれど、先入観を捨ててしまえば確かにあれはあれで、昭和世代が脊椎反射で顔をしかめるような味覚ではなく美味いと思う。

 『個人的な好き嫌い』も『オオヤケ的な食の常識』も、我々人間が自覚するほど絶対的な根拠なんか無いのだろう。人間ひとり、たまたまのひょいっとポジティブあるいはネガティブ印象のスイッチが入ったら、一連の『好き』あるいは『嫌い』の判定フローが瞬間的に高い完成度で構築されるのではないか。
 何らかの事情で、そのスイッチが皆さん同じ側に入りやすい対象事物に関しては、大勢がお互い同調し合うので、結果として『世間一般の常識』として扱われるだけだと。
 つまり根拠も因果も何も無い、思いっきり自分勝手な偶然にこそ、人間が思い込んでいる『理屈』『理論』の原点があり正体があり、おんなじ人間同士だからそれが似たようなところで共感できるケースが多いもんで、ようやく『ロジック』『常識』『社会通念』みたいなものが成立しているのではないだろうか。

 特に他の動物たちと違って、人間は高度な言語で複雑な事態も情報として伝えられるから、『多くの人はイチゴを美味いと感じるし好きなのだが、自分は違う』みたいな、自分だけ大勢とちょっと傾向が違う事実に気づきながら、社会生活を送る上で特段の障害も無いんならまあいいや的な態度を決め込むことだって可能だったりする。『世間の常識』が情報として、社会組織の空気に存在できる。そこで自分の嗜好にこだわれる。

 誰がどう見たっておかしい、理由になり得ないデタラメを理由仕立てで一方的に言い放ち、みっともない責任逃れの魂胆も明け透けにバレバレ。
 組織の過半数から強烈な反感を買い、非難轟々の険悪な状況にまで陥っても、頑として組織の自我への屈服を認めず何もかも道連れにして自滅しようとする昭和ダメオヤジ裸劇の迷惑な誤作動も、実は人間が、いや生物が、『意識』なる情報処理体系フローを無から構築しようとする生命活動の残骸ではないかと思うのだ。

 若い人たちは活力に溢れていて、未来に拡がる時間をみんなで分け合って楽しく暮らす志向が働くから、好きというよりは正しいと信じる道を選んで、素直に現有ジブンの優先度を落としジブンを修正する。
 人生経験が少ないから未熟で自信も無く、また自分が学習中の身であることを自覚しているから…とする因果は確かにその通りだが、そんな精神地盤を支えるのは元気で素直な生命力なのだよ、きっと。それこそが適応力であり、生存確率なのだ。

 やれウィルスが変異した、感染力も致死性も未知数だ、そんなハナシは本当にあったとして将来性のある地球上の生命活動として自然な事なのであり、問題はどこまで何の行動選択の理由にして良いのかも判らない、そんな日本語情報をだらだらとばら撒いているモーロク日本社会の無様な老い方のほうである。
 少々無茶な表現だが、少なくとも日本人は、この新型コロナ・ウィルスをただ闇雲に嫌って遠ざけていても何ら解決にはならないと腹を括るべきだ。我々現代人類は地球生命の完成品でも最終仕様でもない、この地球上の環境に適応して生き延びていくんだっての。ナニがSDGsだよ。

 世界人類が結構ヤラレた旧年だったが、今年は脱・ヤラレっぱできるかな。
 まずは皆さま、年明けのスタートから、どうかこの一年の御幸運を!
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