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【675】カリスマ教官は免トリ資格失効者 [ビジネス]

 お、世襲のガキが勝負に出た!…つもりなんだろうかね。
 改憲の名誉が自分の手に入りさえするなら、他はどうなろうが一切を放り出す腹を決めたらしい。
 というか、今の立場からはアレもコレももう思惑通りにならないと今さらながらに見限ったらしく、ならばこの犯罪者政権組織が幾分でも機能するうちに、やることやっちまって逃げ切るのが一番トクだと決心した感じである。

 改憲できればいいや。いや自分が改憲できたことになって記録に残れば、どうでもいいや。
 九条第二項が残ってても、いや一言一句が手つかずのママ流用でも、自分が改憲したと映る事実さえ残るなら構わない。そういうことだろう。

 馬鹿馬鹿しすぎて開いた口が塞がらないが、まずは考えてみよう。
 日本国憲法が抱える問題の本質は、条文に記載された日本語情報が、多くの日本人にとって実態と食い違った意味に受け取られるところにある。
 どんな解釈のどんな議論を日本国内で繰り広げようとも、この日本列島に価値を見出して武力侵攻してくる他国の存在の可能性を否定できるものではない。ならば望むと望まざると、日本人は対抗手段として軍事力を備える必要が避けられない。だから備えている。
 この揺るがない事実に対して、『陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない』という日本語が合致しないのはすぐ判る。
 よって九条第二項は削除するか、少なくとも改変する対象として、どうしても外せないのだ。そうしないと『日本国は法治国家なのに、憲法を順守できていないから、そこが国家運営として間違っている』という理屈で発生する指摘が、いつまでも不毛に現状を否定するだけの言論を呼び起こしてしまう。
 これは日本の国力の無駄遣いである。だから解消したい。

 世襲のガキはこの九条第二項を据え置いたまま、改憲の作業だけするというのだ。
 もう『改憲』の二文字が自分の手に入りさえすれば、憲法に関わる論争など解決する気は毛頭ないと宣言しているようなものである。
 もちろん九条第二項に手を付けないのは、九条フェチが売りのナントカ学会ゲタ与党との取引を最短時間で終わらせるためだ。時間がかかればかかるほど、自分らのやってきた犯罪行為への追及が深まり、まだまだいくらでも他の犯罪が摘発されてくるのも確定的なため、もう手段を選ばず取引の交換条件成立を目掛けて突っ走るつもりだろう【653】

 何しろ先日の総裁選の立候補表明、自分のせいで政府与党の国民支持が地に落ちた事実はきれいさっぱり無いことになっていて、実に力強くダメノミクスの功績とやらを謳い上げ、お得意の『シンシでテーネー』を改めて国民世論に当てつけるかのように復活させて、喝采を浴びたのは御存知の通り。
 『議決の儀式』の強行で民主主義議会の合意が得られたことに代えるという、日本国の法律のどこにも記載されていない違法プロセスを一方的に主張し、日本国の支配階級を自称する政党のウチワ会合だと、こんな異常事態が現実となる。
 ここでこれまでのお約束文言を強気ルックで演じれば、まだ今ならこの儀式制独裁主義政党の過半数から支持を得られる公算は十分にあるというワケだ。日本国民が暮らす日本社会からは隔離された、『議会という雲上の空間』は意のままになる。

 この空間、人を殺しても褒美を5千万出してオシマイにするくらいの別世界だから、贈収賄めおと犯罪の有罪確定待ちに改憲の栄誉を与えるくらい余裕で現実のうちってとこだろうか。
 『ワタシがリーダーです♪ワタシが責任者です♪』と調子が良かった先にいるはずの一般国民は、今や綺麗さっぱり裏切られる運命にある。
 『シンシでテーネー、おら判ってんだろ?いつもやってる、あのシンシでテーネーだよ、文句あんのか?』
 日本人を自覚するなら、天地が逆転しようとも日本国憲法の維持・整備を犯罪者にやらせてはならない。人類文明史に汚点を残すような失態は、日本国民として死力を尽くして避けるべきである。

 昨今スポーツ界で水面下の慣習として関係者内々の風土にこびりついていた、人治采配の支配階級文化が明るみに出されてきたのは良いことだと思う。
 本来なら個々人がおのれの才能に可能性を見い出し、努力してその最高到達点に手を伸ばすにあたり、みんなが見て納得する自由で平等なチャレンジの機会が約束されていて然るべき。ちょっと美しすぎる気もするが、一応これが原則だろう。

 音楽などでもそうだが、まず後進の憧れの的となる達人が現れ、その道を志す若きフォロワーたちが弟子に付いて、そこで技能の伝授が行われ始める。だがこの手の身体コントロール能力は習得しようにも、何の因子がどこまで効いているのか、本人に乗り移りでもしない限りは判別できない【95】
 結局、人物総合スケールの結果系である振舞い全般を、不可解かつ神秘的なイメージの完成品として捉えるしかないというなりゆきになり、達人たる師匠は弟子たちにとって逆らうことが許されない絶対的なお手本となるのだ。
 そもそもは、若きフォロワーたちが自由意思で達人の絶対支配下に飛込んで来て、自らの能力開発を模索するのが自然な行きがかりであった。若きフォロワーを受け入れた達人たちは、その志を引き取った責任を背負い込み、自分の技法の将来展開を一任すべく惜しみなく全てを引き継いだものだ。よく言われる『上下関係が厳しい』の真意はこれだと思う。

 おっと半端な分量で切れが悪くなるので、今回はここまで。
 日本社会は、体罰だ何だとアタマのおかしい痴呆論争を弄ぶようになって以来、能力の世代間伝授がまともにできなくなってしまったのではないだろうか。同時に、次世代を本気で育てて一人前にしていく責任を自覚できない、先人と呼ぶに値しない迷惑で無駄な老人が増殖し過ぎているように思う。
 今日まっさらな子供世代の方が素直に自立した心で、能力開発と指示命令系について的確に理解していると感じるのは、この私だけだろうか?
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