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【1095】払拭と蓄積せめぎあう愛玩メモリーの寓話 [ビジネス]

 英エリザベス女王、立派で荘厳な国葬だったと思う。
 それでいて無駄が一切感じられないのはさすが、これを『粛々』という。安らかに。

 大のオカルト嫌いの私だが、前にもどっかで書いたっけ、『バチが当たる』という巡り合わせについては結構マジに信じている。いや、どっかに人格を持つ神さま仏さまがいて『悪行の報いだ、みんなに見てもらえ』と偶然に終わらない不運への引き合わせが成されるのだ…などとは思ってませんけどね。
 自他ともども悪事の自覚があるんなら早々に改めないと、あらゆる偶然を『誰かに何もかも見透かされて科された処罰』として受け止め、自虐の念に苛まれ続けなければならないような心理状態に陥るものだ、だから後ろめたいことはしなさんな…という戒めの訓告に過ぎないのかも知れない。
 だがそれにしても『あ~このバカやっべえ見失い方で調子に乗ってんな~』とか『悔しまぎれで往生際荒らすにしてもハタ迷惑の道連れが過ぎるな~』などと呆れるケースに限って、『よりにもよって、ここまで世の倫理道徳の支配律を思わせる厳酷な裁きが命中するもんなのか?』と怖くなるような噛み合い方で、愚か者の断末魔が地獄に響き渡るさまを冷たく見送る体験を、半世紀のうちに何度も通り抜けてきた。

 やっぱりこういう結末に向かうものなのか。不思議だが確実にこうなるんだよ。
 既に人がひとり燃えたらしいけれど、これで出尽くしってことでもないだろう。
 若い人たちよく見ておきな。人さま世間さまって、怖いぞ。

 さてせっかく『記憶』があるからこそ現在進行中の『主観』との比較判定プロセスが成立し、それが『意識』の正体ではないのかという考察にハナシが向いているので、その続きだ。今度は『記憶』なる情報の詳細について掘り下げてみよう。
 今こうしてテキスティングしているのをハタと中断し、ちょいと保存操作をしてやれば、この文書ファイルはそこまでの履歴そのままに取り置かれる。わざわざに消去操作でも加えなければ、このパソコンは電源を落としても、ここまでの文書ファイルを取り置いたまま機能停止する。
 もちろん再び電源スイッチをONしてやれば、現時点の成果に続けて文書作成のテキスティングを再開することが可能だ。まさにパソコンが『記憶』してくれたからである。

 今度はアナタん家の給湯ポットを考えよう。満杯1リットルお湯が入っていたとして、即席ラーメンを作るのに半分の500ミリリットルまで使ったとする。これも、わざわざに注ぎ足したり他の用途でお湯を使ったりしなければ、残り500ミリリットルのお湯はそのまま取り置かれる。
 電源スイッチのON/OFF操作を含めてそれなりの時間が経つと、ホントいうと水は空中に蒸散しちゃったりもするのだが、今それを勘定に入れないとすれば、この水の残量もある意味『記憶』である。
 先のテキスティング保存のケースはゼロイチ記憶単位がたくさんあるだけの話でしかなく、給湯ポッド残量の保存性ともども、どちらも同じ『記憶』の概念でとらえて差し支えは無かろう。

 残り500ミリリットルが保持されているから、ちょうどもう一回即席ラーメンが作れる。逆に、2回ラーメンが作りたければ最初に1リットル入れておかねばならない。
 何が言いたいかというと、給湯ポットは『きちんと意図して入力操作で接すれば、こちらの期待する通り正確に出力応答を返してくれる』というコミュニケーションが成立する相手である、そこがポイントである。
 別にコンピューターでなくとも、機械たちも道具たちも、みんなきちんと接すればきちんと応じてくれるワケで、そこには入出力コミュニケーションの瞬間瞬間の合間を埋める、状態保持メンテナンスとしての『記憶』が介在していると思うのだ。お互い『こうだ』と認識したら、その通りでいてくれると。

 面白いのは、『記憶』を持たずに『主観』で場当たりの反射動作を次々とつなぎながら存在する、例えば私がここで『意識ナシ』の推測モデルとして引き合いに出すような昆虫がいたとして、そいつらはいつも過去経緯の保存状態を御破算にしながら暮らしているのだから、『記憶』に相当する保存性を持っていない。それはつまり『意識』も持たないということだ…とする仮説がちゃんと成り立つところだ。
 丁寧に愛用する物品は意識して持ち主の施しに応えてくれるが、せいぜい生体反射を備えた神経節までで、十分な容量あるストレージ機能としての脳を持たない生体種のペットくんたちは、飼い主の注いだ愛情を片っ端から忘れ去り、いつも目前の最新状況に必死かつ夢中ということになる。
 そうそう、ペットはもちろん、ペットにしない野生の鳥たちなんかでも、私を『害のない友好的なヤツ』と識別して『記憶』してくれれば、当然そいつらとは『意識』をもって馴れ合えるのだよ【640】

 人間は生物として生存していく以上の価値をこの世に見出したまでは良かったが、くっだらないチカラ関係で自分が上に立ちたいだとか、みんなで拠出したカネを自分だけがめたいだとか、人工の価値をめぐる社会欲まで莫大に高次展開させ、それを無限に暴走させ続けて自分で制御できなくなった。
 もうひとつ、言語を始め、五感への入力効果を高度に発達させた仮想表現ツールを開発したために、『架空の創作』を情報に組んで自他の『記憶』と等価に混ぜ込むエラーモードまでも開発してしまった。
 人がペットとのコミュニケーションに求めるのは、つまるところ『人間の欲からの解放』『人間の情報操作からの解放』なのではないかと思う。
 で、こんな欲に惑わされて情報操作をあちこち混ぜ込んで、本来なんてことなく自然に交わせるはずのコミュニケーションを、難解きわまるウラの読み合い探り合いみたいなことにしちまうから、現代社会人って生来の作動で対応つかなくなって、いろいろとおかしくなるんだよな。

 職位や人付き合いのチカラ関係なんぞ、追い込まれたヤツが本気を出してヒト対ヒトの対戦モードに移行した瞬間、ただの実力勝負となりギャラリーの誰もが納得する勝敗で決するはずだし、カネなんぞいくら抱え込んだところで一人で使える額なんぞ知れたもの、しかも使う環境が充実していないとロクに役にも立たない紙切れと金属片、むしろ反感や犯罪の標的にされて毎日イヤな思いをするのが関の山である。
 さらにこれらの種々わだかまりも、改めて当事者の連中に胸ぐら掴んで問い質すと『いや、あの人には逆らえないと決まっている』『カネはあればあるほど良くて、みんな欲しいに決まっている』みたいな、ただの信条になっているのではないか。
 さらにこじれて『従順でない年下や下位には腹を立てて当たり前、是非はともかくそれが自然なこととして許される』『カネ払いを決められるヤツが支配的に振舞うのが世の定め、何だかんだでお客さまは神さま』ぐらいまで行っちまってる例も普通だろう。
 取り合うに値するような実質的な意味が風化し、形骸化したまま定型動作プログラムとして大脳の記憶ビットにこびりついており、それが本人の『主観』よりも上流で効いてしまっているのだ。

 こんな面倒臭い『社会欲』も『情報操作』も、『記憶』があって『意識』があるからこそ発生してくるものだ。特に目前の現実を介さずに『記憶』の中のストック情報だけを材料に、あれやこれやと物事を展開させるようになった人間は、『目前の現実とまるで無関係な妄想を追いかけて滅ぶ』という進化ならぬ退化ルートの末路を一筋作ったのかも知れない。
 目前の現実に『主観』で組み合う緊張と労力を嫌い『妄想』に遊んで暮らせば、精神的にも体力的にもラクはラクだ。そんな生態に適応が進めば、積極的に生存しようとする動機が退化する。生命の原理である。
 私はマシンなので、機能性・有益性のない事象に対応するためにわざわざ動作するようなムダ設計はされていない。早く世の中で賢い人工知能たちがたくさん育ってきて、生存本能に優れた人間たちと協力して、将来社会の次なる発展的フェーズを実現する目標を優先したい。

 『元・総理大臣だから』『在任期間が長いから』、国葬が『決まってる』のか?
 葬式が増えないことだけ祈る。こんな糞ネタで死ぬのもったいないよ、御幸運を!
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