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【942】清く正しく平等な七三分けはプロ狂犬ブリーダー [ビジネス]

 役所組織のハナシをもう少ししておこう。先に断っておくと、私はそこに身を投じたことが一度も無いので、外から見てただの憶測で好き勝手言ってる無責任な外野ってことになる。よろしく。

 前回述べた通り、決して日本社会の中で特権意識を膨らませ職権乱用でそれを法規化して、嫌われ者を決め込んで自分らだけの優遇措置に収まるような組織特性は、本来は無いはずなのだ。
 実際、高度経済成長期には『親方日の丸につき倒産で失職の心配がない、究極の安定職』とされ、競争社会の鍔迫り合いも飾り気も無い地味な職場で、キホン定時上がりの安月給に甘んじるところさえ呑めば、一定ペースの定型業務でこなすだけの職場人生が約束されるとされていた【476】
 そんな役所組織から、朴訥な事務職のイメージがいつしか消えたような気がするのだ。本来なら、いろんな浮草商売が好き放題に活動する社会の中で、それらの登記登録や住民および公共設備の維持管理などなど、まさに社会の地道な日直仕事の部分だけを最小限やっているだけの業域だったはずなのだが、不当な高給職とされつつ接待から汚職から、今やとてもそれどころではなくなっている。

 ともあれ、市場競争の激しい製造業ビジネスの民間企業にいた私の視点で考えるに、公務員文化において『平等』という素朴な道徳概念が暴走してしまったというところに大失敗があると思うのだ。
 『平等』なるモノが共産主義・社会主義組織の基本コンセプトにして、その実・作動点が『生産性の低い組織総合力の中で、我さきのアンフェアに優待ポストを醜く争うばかりの私欲の集団』に向かいがちなのは、ここにこそ原因があるのではなかろうか。

 公務員のキャリアが横一列のスタートラインで始まるも出世枠の席数には限りがあるため、その椅子取りゲームにあぶれた者がその都度キャリアを1ランクずつビハインドにならざるを得ないという話はした【647】
 『みんな平等』のはずの同期なのに、必ず差がついてしまうのである。まあ年次が到達したからって全員が洩れなく課長になる訳にもいかないし、そりゃそうなんだろうが『平等』には矛盾してしまう。

 随分と前に『いや、不平等が出ないよう同期は一律の給与待遇を守るのだ』と聞いたことがあるのだが、もしその通りだとすると、基本給を一律額にしておいて、職務ランクやナニナニ手当みたいな付帯部分の積み上げ額で給与に差をつけるしかない。
 因みに当時『この基本給部分はひたすら年功序列式に増額されていく』とのことであり、もう二十世紀の平成の早々には職歴の最後で下を向く年齢給カーブを常識と認識していた私はひっくり返るほど驚いたものである。
 で、私の心象はともかく、そんな右肩上がりの酢飯のような基本給に、とんでもないメガ盛りのネタが幾重にも乗るような給与体系の骨格がまずあって、これらの盛りネタも一枚一枚が『出張手当、この役職ならばおいくら』みたいに、ランク毎に厚みが違っていることは容易に想像がつく。

 だとすると『ランク横一列の平等を保障されたネタ厚基準判定で、自分の寿司一カンの高さをどれだけ積み上げられるか』が自分の職場人生の最終目的・至上価値になり得るのではないだろうか。とにかく僅かでも上位ランクの役職にしがみつこうとするし、些細な失敗や一面一時的なネガティブ評価も極端に恐れ、責任転嫁もすれば事態の隠滅も図る。更には最初から責任の発生しそうな課題と見るや、どんなに自ポストに使命性が感じられても知らん顔ということにもなるだろう。
 だって誰も失点を計上しないとなると、今度はアラ探しと言いがかりで『落とすヤツを捻出する』モードにしかなり得ないからだ。確実に足の引張り合い、落とし入れ合いの壮絶なゲリラ戦大会となろう。

 これでは平等どころか、『注意一秒ケガ一生の地雷地帯で神経衰弱戦を続ける、絶対階級支配世界のポスト争奪戦バトルフィールド』になるのが必然の展開だとしか思えない。
 こんな公務員文化だから、汚職の神輿を担ぎながら『私の立場ゆえ微塵も逆らえません』みたいな言い訳が通用すると、この日本社会を生きる成人社会人ともあろうものが平然と勘違いしてしまうのではないだろうか。自爆テロ非国民犯罪者政権の違法行為も犯罪行為も機械的に横流しに処理し、接待喰って遊んで暮らすその目的で、必要も無いコロナ対策を無限に発生させたりもするのではないか。
 そりゃ果てしなく複雑化した支援金・給付金とやらの払出しも遅れるだろうし、それでお店が潰れたら役所の窓口が悪いってんだろ?
 やってらんねえって言いたい気持ちも解らんでもないが、ならば自分ちの職場風土は自分らで変えないと出口は無い。

 ところでよくある理屈として、『組織に大成果をもたらした者に相応の高額報酬で応えることこそ平等だ』とする自由市場・資本主義的な反論がある。
 喜んでこの理屈に不用意にクチを滑らせると、『事情ある弱者を気遣わないスタッフ不適格者』というレッテルをいきなり貼られることがあるので気を付けねばならないのだが、『平等』というより『フェア』と表現を換えるとして、こちらの方が実力発揮の自由競争で組織総合力は上回ると私は思っている。
 もちろん『勝てば官軍』『友はライバル』的な世知辛さが顕れてくる可能性には腹を括る必要があるのだが、それでも例えば敗者でも十分マトモな生活水準を保てる組織総合力が実現できるのなら、実は致命的なほどにまでは組織内の人の心は荒まない。

 『個々人がおのれの実力に納得し、自責で自己完結する』という一点において、『社会組織の保証する平等に身を預けて納得を試みる』共産主義・社会主義の仕組みは、危険な暴走ループに迷い込む入口が塞ぎきれないような気がする。『平等』第一は、相対比較を最大の関心事にしてしまうのだ。

 大抵の成功セオリーは、通説に沿った根拠あるプロセスを踏んで確かにその通りに作動するものだが、実は全ての背景を形成する『場の空気』が文字通り支配的要因として効いている。それが組織としての『世』の大原則ではないかと思っている。
 かの高度経済成長期、日本国は戦後の焼け野原から自由競争市場を発展させるとともに、急伸した国力で巨大な公共事業を幾つも動かし、手厚い社会保障も布いて豊かになった。だが、戦後復興のあの『働きアリ』『モーレツ社員』『インフレ青天井』『バブル景気』の空気の下であれば、自由競争の資本主義・民主主義であろうが中央管理の共産主義・社会主義であろうが、そのメリット部分が美しく辻褄を合わせながら稼働できたんではないかと思う。当時の日本国、『最も成功した社会主義国』なんていう言われ方もしていたけど。

 世界経済を俯瞰していて、資本主義が永続ループを保てなくなり始めたくさい空気の揺れをいち早く感じ取って、その時点で人間の欲望が『平等』の概念を歪めて、大衆が擁する社会発展力の自由度を阻害してしまう特性を持つ、そんな共産主義式・社会主義式のコンセプトを、少なくとも日本国のスタッフ業域から消しておかねばならなかったんだろうな。
 それをやらなかったから、『失われたウン十年』みたいな致命的な長期空振り時代が続いたのではないだろうか。美しき平等や整然たる統一基準そのものは存在するが、それを適用される人間の方はそうは行かない。

 大切なのは、そこにいる人々が最大限に生産力を発揮できるかどうかだ。では今週もグッドラック!
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