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【949】自由な過密スケジュールと不自由な余暇の想い出 [ビジネス]

 今年もゴールデンウィークを迎えた。
 前回も述べた通り丸一年もかけてこんなもんかとも思うのだけれど、逆に何だかんだで日本社会の組織の自我が感染症に蝕まれて健康状態を失っているのではないから、それだけでまずは身ひとつ大丈夫ってことだよな。一部感染症にやられちゃってる人たちには少々申し訳ないハナシだが、『組織』を考える統計的視点で、大局の日本社会は十分に無事と見受けられる。
 各自で頑張って治してよく静養して、また元気に合流してきていただきたい。

 いろいろあるけど、何より壊れてなくて元気を出そうと思えば出せる人間の集団でいられる限り、まあ組織生命体としては『人生山あり谷あり』のちょっとした『谷』ってことで、歩き方・登り方次第で済むと私は思っている。

 高度経済成長期の頃のこの時期は『飛び石連休』であり、決して一連の長期休暇ではなかったことを思い出すのだ。
 天皇誕生日4月29日、憲法記念日5月3日、子供の日5月5日が休日なので、半ドンの土曜日と一日休みの日曜日がうまく間を埋めるカレンダー廻りになると、特別なラクチン感のある一週間が成立する年があった。裏返せば、大したことない年も結構な頻度だったんだよな。
 メーデー5月1日は会社員のお父さんにとって組合のイベントなんかもあったりするので決してただの休日ではなかったはずだが、日常の働き詰めモードから解放される特別な一日だった人もそれなりにいたはずだ。まあ昔も今も関係ない人が多くて、割と平日なんだけど。
 当時は週休二日でなんかなかったし、土曜日もそんなにきっちりお昼で仕事を切り上げる習慣でもなかったし、そんな週末も国民の休日と重なったら翌・月曜日が振替休日になるなんてこともなかったから、カレンダーが噛み合うと確かに約一週間のんびりした有難い安堵が日本社会に漂ったものだ。

 まだまだ一般家庭では、海外はおろか国内でさえ泊りがけで旅行に繰り出すことは珍しい時代だったため、ちょいとお父さんの気楽な流しモードの一週間に、日帰りで遊園地に行ったりデパートに買い物に出たりもして、子供たちも家族イベントの非日常な行楽にありつくことができた。
 思えばあの時代、それを当たり前として日本社会は素朴に実直に働き続けていたんだよな。単純にそのぶんだけでも、高度経済成長期の日本の国力に今より遥かに生産力があったのは道理なのだ。
 今日は休んで遊んで、また明日は学校行って、そのまた明後日はもう土曜日なんだー、何しようか。日が伸びた夕方、自宅前の通りの見慣れた景色がどこか自由な解放感に突き抜けているようで、今も大好きな佇まいの記憶である。

 これが確か平成になる頃、日本国としての記念的事実は無いが『三連休を設定すること』そのものを目的として5月4日も休日となった…んじゃなかったっけ。ちょうど日本社会が成長一辺倒から充実と余裕に舵を切った時期でもあったし、好況下で大きな工場を持つ企業などは製造ラインの停止・再稼働を刻む非効率もあったため、どうせなら丸一週間を長期休暇にしてしまう風潮が拡がったのだろう。

 過去のこの時期の記憶を呼び戻すに、休むにしても普段が日常生活テンコ盛りの状態だったが故まさに『骨休め』の大事なひとときであり、当時の日本人ならば、今般のような勿体ない時間の浪費をなされるがまま許すようなことになっていただろうか…と、ふと思った。
 少なくとも去年・今年に関しては、不本意な無条件の稼働停止でぽっかり空いた時間が過ぎて行く『不自由な空白』のイメージが強く、これだったら昭和時代の飛び石連休ぐらいの方がきっとみんな狙って楽しんで鋭気を養い、元気を取り戻して日常に帰って行けた、あるいは帰って行けるような気がする。まだ健康で元気を残している日本社会の稼働力は、生産稼働スケジュールの拘束を最小限にでも解かれて自由に羽を伸ばれせば当面十分なのではないか。そして考え、確かめ、国家運営に反映させる。
 そっちの建設的休息モードが叶えば、老いて病的に歪んだ国政工作なんぞバイ菌の雑音にする勢いで、1億2千万人日本社会の自我が思い描く、元気で賑やかな本来ニッポン自画像に向かって社会の空気が動き出す。呆然と制止されている場合ではない。

 確かに日本民族の特殊性を当然視しない、グローバル視点での感染症対策を忘れ去る訳にはいかないし、いま半端なレベルで油断して、爆発的な感染再拡大まではないにしても、いつまでもだらだら無視できない感染トラブルの社会ダメージと対応残務を引きずりながら後悔する流れは避けたい。
 ゆえに前回述べた通り、日本社会の特別損失を抑えてバシッと見える効果を出すには良いタイミングだから、我々各自で感染抑制の機運を効果的に解釈して、メリハリつけてケツを限って真面目に実行するのが賢明だとは思う。

 のちにその効果代を測定・確認するにあたり、『明確な理由となる変化点も見当たらないまま』大阪ばかりが新規感染確認の最多数になり続けている原因の究明と併せて、このへん連日タレ流してる自称専門家の奴等から、結果見解の確実なところを刈り取ればよかろう。
 先にクギを刺しておくが、使い古しが過ぎる思い付き憶測ネタ・変異種も、ドタバタしただけの蔓延防止措置の地域毎期間バラツキも、大阪中心のこの全国激増ペースの推定原因には到底なり得ない。真の原因は、必ず他にある。

 まあいいや、社会生活の現場最前線を切り回す各地の首長さんたちの意図をしっかり酌んで、きっちりニッポン社会人のチームワークでまずはハッキリ見える結果をきっちり出しましょうや。こういうのは組織の皆で協力してやるものであって、首長さん一人が孤立奮闘するものではない。
 むやみに動き回らず交錯せず、いっぱい食ってよく寝て過ごすだけでも協力的な姿勢ってことになるんだから、ムツカシイ話でもなかろうし。もうたくさんと思うなら、アゴ上げずにもうひと頑張りだ。

 返すがえす、もし本当に命に関わる重大な死病が、次々と日本社会組織の生命力を食い潰して来ているのであれば、この日本列島の生活空間はもっと恐怖に怯えたおどろおどろしい空気でいっぱいになり、サラリーマン番組がわざわざ煽らなくても誰も自宅から出ようとなんかしない。
 『我々日本国はビョーキだ死ぬ死ぬ、何でもいいから税金で注射打て打て』などと繰り返し狂気を吹き込んでくる異常な世論操作こそ、日本社会の体力を奪い健全な稼働を狂わせる最悪の感染性病原体に他ならない。
 このゴールデンウィークを機に、ひとつ残らずこの日本社会の情報流通網から駆逐し撲滅を図るのが、喫緊の重要な国民的課題なのではないかと思う。

 『今日の新規感染者数、コレコレ人だと確認されました』
 『今日はナニナニ人が死亡したと発表されました』
 それがまた『死亡したのは二十代の男性だということで…』っておい、お宅らニュースにしちゃ文体がもってまわり過ぎの曖昧過ぎじゃねえの?そういうのは実況の報道とは言わんぞフツー。
 なんで『確認された』『発表された』の伝聞フェーズでばかりバラ撒くんだよ?
 『コレコレ人が新規感染しました』『ナニナニ人が死亡しました』と直言しない理由はいったい何だ?

 ま、みんな気付いてるだろうし誰もテレビなんぞ見てないだろうし、私もいちいち確かめずにテキトーに書いてるんだが、今はもう直ってるのならスマン。ともかくあんなんじゃ取り合えないって。
 我々が目指すのは、この空白な時間の先にあるかつての元気な喜怒哀楽の賑わいだ。
 その頃この時間が懐かしくなるのかどうかは判らないが、とりあえずグッドラック!
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【948】そらミミ空襲警報が焼き尽くした戦災証明 [ビジネス]

 東京、気合入ってんなあ。ホントに街頭ネオン消すつもりなのかなあ。
 器物損壊系の治安悪化だけでも、相当な現場負荷になりそうだけれど。まあ夜の歓楽を抑制する効果はそれなりにあるとは思う。

 『灯火管制』という言葉は今の若い人たちにとって初耳なんだろうな。我々高度経済成長期に子供だった世代は、親世代からその体験談を聞いている人の方が多いだろう。
 夜間空襲に備えて、上空から街の灯りを見えなくするために、まず街燈は全て消し、一般家庭でも電灯に衣服のスカートのような長く黒い覆いの布をつけて、部屋の真ん中の食卓の、ほんの手元だけを照らしながら夕食をとっていたという、アレである。
 大東亜戦争末期に日本の敗色が濃厚となり米軍の爆撃機が何度も飛来して、我々が今こうして住んでいる日本本土までを直接爆撃するようになった。日本軍はもう地元の飛行場から飛び立ったなけなしの飛行機で、それをできる限りのどうにか迎え撃つ以外の戦闘モードはなくなっていたのだ。

 早々の横道だが、このように離陸して現地を守るため敵を迎え討つ戦闘機を『局地戦闘機』あるいは『迎撃戦闘機』と呼ぶ。高出力エンジンによる上昇能力が最優先され航続距離は後回し、強力な火力で太く短く戦闘する目的で設計されるものだ。
 因みに英訳では”intercepter(インターセプター)”であり、映画『マッドマックス』では凶悪な暴走族の出現通報を受け現場に急行するための、特殊高性能パトカーがそう呼ばれていた。

 ついでなので、局地戦闘機に対する『制空戦闘機』の解説も済ませておこう。こちらは長い航続距離でもって遠征し、敵地上空をその戦闘力で牛耳るのが目的である。中国沿岸部から爆撃隊を援護して重慶や成都まで飛んだゼロ戦なんかはこっちだ【206】【343】
 また現代に時代を移して、国境ライン周辺に隣国が不穏なちょっかいをかけるフリを見せてきた時、スクランブル発進して超音速飛行でいち早く駆けつけ、『やめておけ』と追い払う自衛隊のF15も我が国を守る制空戦闘力のひとつであると言える。
 いつも御苦労様です、ありがとうございます。

 いかん、まだまだあるのだが、飛行機の解説をしたかったのではない。
 『灯火管制』という、社会全体が一斉に姿を隠し身を潜める体制が、この日本社会で本当にとられた事実があったというハナシだ。
 そんな暗く不便な生活の場面からそう遠く離れていない地域で、空襲警報を聞いた住民たちが晩飯どころではなく慌てて防空壕に逃げ込み、そのあたり一帯にはモロの現実に焼夷弾がばら撒かれて街じゅう火の海になったのである。あとはいわゆる『焼け野原』というやつだ。その大戦災が現実になった。
 空襲に遭った土地の昔話を聞くと大体、大型交通拠点の駅舎や銀行あと百貨店などの石材主体の公共建築だけを残して、他は何もかも焼け落ちてなくなって、地平線…は日本だから滅多に見えないとして、遥か突き当たりの山の裾野まで障害物なく見通せたというのが、あるあるの逸話である。
 『灯火管制』とは、そんな大層な災難から身を守るためのものだったのだ。
 今般、自分の存在位置を見えなくするためではないにしても、こんなコトまで考えなきゃいけないほど、いま一体ナニが大変なのだろうか?

 コロナ死ぬ死ぬ、焼夷弾で焼け死ぬも肺炎で死ぬも一緒だろ、コロナ死ぬ死ぬ。
 日本国の大本営発表がそうだというなら、1億2千万人が一丸となって信頼を寄せ、一致協力して日本社会のあらゆるコロナ感染経路を一斉に止めようじゃないか。そういうことだ。
 ちょうどゴールデンウィークで日常的な経済稼働はストップする時期だし、今回なら旅費・遊興費に税金をばら撒く動きも影を潜めている。せーの!で全停止するには、もっとも日本経済の特別損失が軽くて済むパターンだろう。

 その実行期間中、とにかく従来の日常生活で埋まっていた日本社会の稼働力と時間が空くワケだが、今年のゴールデンウィークはちゃんと国民的宿題がある。
 何しろ、新規感染者の確認数は減少の傾向に転じることもなく、遂に重症者の対応ニーズは医療機関のキャパシティを越え、医療崩壊が起きたとする報道まで散見されるに到っているのだ。
 社会の医療保障の仕組みについて、きちんとした資格の無い者が付け焼刃のクチや手を出すべきでないのは確かだが、それにしても自分たちが暮らす社会のどんな実情が、この重大なピンチの原因になっているのか突き止める問題意識はあって然るべきだろう。
 みんなで暮らす日本社会なんだから、各自が各々の立場から解る範囲で結構、社会問題の現状把握や対策検討を共有するのが当たり前だ。その分担を自覚し、実行していくのが『社会人』である。

 鳴り響く空襲警報は、どこに何機の敵編隊を確認したものなのか?
 いま何人どこの防空壕に押し込められて、どんな不自由に苦しんでいるのか?
 燃えさかる街はどこにあり、どんな騒ぎになっていて、何が求められているのか?
 残った焼け野原で路頭に迷う仲間のため、どんな助け舟を出せば良いのか?

 まずこの1年、向こう三軒両隣で見かけなくなった御近所さんの近況情報から整理しないと。コロナ死ぬ死ぬ、もう誰もの知り合いにぽろぽろ消息を絶った人がいないと、到底計算が合わない。

 何しろ変異種が幾つも台頭してきていて、もうオリジナルを凌駕するに迫る感染確認件数になって久しい。街ナカと言わず公共スペースでは、開けた屋外でもマスクをしていないと、それは即刻に凶悪なコロナ・ウィルスの感染を拡げ、医療機関を崩壊させながら自らの命さえ危険に晒すことにもなるのだというではないか。
 だから道行く人々の日常光景をテレビ屋が取り上げて、映像からマスクの有無で死亡フラグを立てて数えるような煽りもやるワケだし、そんな大本営発表を信じた国民たちは、とうとうコロナ感染そっちのけでマスクをするしないの突発バトルまでおっぱじめる始末だ。日本ってこんな脳足りんの国だったっけ?

 『ハダカの王様』がハダカだと指摘したのは子供だった。
 ちょうどゴールデンウィークだし、子供たちと一緒に『コロナ死ぬ死ぬ』の真実を探してみてはいかがでしょうか。

 それやって実際おいくらの対価が出るもんでもないんだが、逆に他にナニをやってどれだけ稼ぐか以上に、日本社会を生きる日本人として、確実に社会人としての責任を持って回答を出すべき問題なのだと思う。
 焼け野原になった戦後日本はそこから驚異的な復興を果した。ならば今回も日本社会は諦めるべきではないと思う。遊ばず頑張るゴールデンウィークも時には必要、それでは今週もグッドラック!
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【947】ワレ思う、故にソレ在り [ビジネス]

 やれやれ、去年のゴールデンウィークに丸一年後の今頃、さっぱり何の進歩も無いまま『また』『まだ』緊急事態宣言なんぞやっていると予想した日本人が一体何人いたろうか。ま、仕方ないっちゃ仕方ない、こんなもんか。

 『コロナ死ぬ死ぬ』なんだから、ハンパなことやってないで国政として日本社会に問答無用の緊急停止措置を下さないと、みんな死ぬ死ぬ。重症化病棟ももう溢れてきているし、これは危ない、あちこち阿鼻叫喚の重症患者がのたうちまわって、みんな死ぬ死ぬ。
 誰もその気にならないのに、勝手にどこそこからいくつ届いただとか、古電球がどこぞのクスリ屋とハナシつけたつもりだとか、だらだら怪しげな注射ネタの見世物ばっかりやっている場合でもなかろうよ。みんな死ぬ死ぬ。
 それにしても『死ぬ死ぬ』がクチばっかりで、現場のガチ現実の臨死感がどっこにも無いんだよな。…って、くまなく探し回りもしないで言っている、不真面目ですまんね。

 まだ去年のうちはサラリーマン番組が、死にそうなヒトの救急搬送中『死ぬ死ぬ』自己申告の自撮り映像をたれ流してたりもして笑わせてくれたものだ。ホントに死にそうなヤツがそんな余裕あるのかとか不思議なんだが、検閲役人へのウケ狙いが先走り過ぎちゃって多分ちゃんと考えなかったんだろうな。
 着目点の詳細な開示は控えさせていただくが、あんなもの見る目のある人間が見れば、即刻で『オマエそれテレビ屋の大モノ搬入路だろが、備品のストレッチャーにどこの新米役者を乗っけて撮ったんだよ?』と一発でツッコミ入れちゃうような小細工でしかなく、せいぜいその程度のジャンク動画が平然と公共電波を介してニュース仕立てで流されていたのだから恐れ入る。すっかり姿を消してしまったので、どっかからバレてる旨の指摘を受けたりもしのたのだろうか?
 大陸や半島より数段質の落ちた日本国の放送倫理への抵触ごとき、今さら気にする道徳心なんぞ爪の先ほども無かろうに。

 『コロナ死ぬ死ぬ』をまだ引張れる現実解が『変異種』だとする理屈って何だろう?
 あんまり派手に変異しちゃうと、今度は原理的にワクチンが効かなくなる必然が避けられないんだけどなあ。例えばインフルエンザなんかでは、既知のウィルス種のうち感染防止の対象とする株種の出現予想がまずあって、それがめでたく命中した場合にのみ効力が期待できるとされる予防接種なのは御存知の通り。
 だが、いま新型コロナ・ウィルスの変異スピードが、烏合マスコミどもがその恐ろしさを連呼するほど驚異的な勢いであっては、もう随分と早いうちに去年開発されたワクチンなんぞ、どれも無力になり下がっているはずなんだけどねえ。最新型の名前と特性を教えておくれでないかい?みんな同じか答あわせしてみようよ。
 来週あたりには、悪魔のカギ爪を生やした腕や、凶悪に目を吊り上げたカマ首が突き出たような新型コロナ・ウィルス変異種の顕微鏡写真が出回りそうな勢いではある。どうせチマタで真に受ける日本人なんか幼稚園児にもいないだろうし、ちょっとデザインのセンスを見てやるから、そこらのサラリーマン番組でやってくれよ。

 もっとも日本国民の認識が『そろそろコロナ、死なないんじゃね?』ってことになってたとしたら、それはそれで経済復興を口実に、旅費から遊興費から税金をばら撒くハナシが『また』『まだ』横行してたろうから、そんな気の狂った無駄遣いが止まっているぶんだけ、去年より進歩はしてるってことか。
 今年になってしみじみ思い返してみると、去年のあの『GOナンタラ』ってのは、悪意あるユーザーによる不正利用の防止にしろ、優柔不断な国政による突発キャンセル対応の補償にしろ、『政府のあらゆる決め事は、次の瞬間どうにでも自由自在ひっくり返せる』という実証事例になった訳だし、あながちただの無駄な大混乱でもなかったという言い方はできるのかも知れない。愚かな失敗も、そのぶん賢くなれば刈り取れるってワケだ。
 長年まことしやかに『国事として決めたことだから、もうひっくり返せない』『限られた役職以外が触ると、財務計画の辻褄が崩れて経済が破綻する』みたいな通説が頷き合われてきた。国家財務という大規模かつ重要なタスクだし、そりゃ不透明な公共事業や納得いかない税金の無駄遣いなんかはしばしば見かけたりもするけれど、つまるところ下民には到底考え及ばないようなムツカシイ重責ポストがかっちり数字を合わせて決められているんだから、やはり解らないしどうしようもないんだと。

 まさに国民が目の当たりにした通り、それは大衆を諦めさせる世論操作だった。
 例えば役所窓口など国民目線が直接とどく視野の中で、『いきなり上で変えられたので、どう処理すべきか決まっていない』『次々に新規の作業を積み足される一方なので対応できない』といった無能マネジメント…いや、不適格と能力不足によるマネジメント崩壊のとばっちりに大混乱および疲労困憊する職員たちの姿が露わになったのは、いま思えば日本社会が認識を改めるのには好都合だったのだろう。
 生活に行き詰まって鬼気迫る表情で駆け込んでくる住民たちを相手に、とにかくその場を収めて帰ってもらう暫定処置だけ落ち着けて、そこから深夜まで先の見えない残業の山に押し潰されそうになっていた役所職員たちのつらさは想像に余りある。

 そりゃ一連のデタラメな税金ばら撒き政策は、現状国家財務の採算性をわざと不可抗力の大出血で誤魔化して、公務員層の職務ポストと人件費だけがめる腹づもりなのは読めるにしても、それをやって公務員待遇だけ守って日本社会全体の平和な経済ループが壊れてしまっては、その公務員層も安心安全で楽しい日常生活を失う結末にしかならない。日本社会の日常生活の現場に触れて暮らす日本人なら、そのくらい立場を問わず等しく解かっているはずだ。
 そう、問題は社会の『現場最前線でない、上級国民の立ち位置を決め込んでいる層』にある。そしてそんな階級と現場最前線の間に越えられない『世界の壁』が存在することを、漠然と常識にしてしまっていたのは、他ならぬ我々1億2千万人の現場社会の方だ。

 久しぶりに左腕にサイコガンを持つ男、海賊コブラを思い出した。そのエピソードのひとつに『カゲロウ山』の登山にまつわる話があるのだ。
 その存在を信じる者にその山は存在し、その存在を疑った途端にその山は消滅する。『ある』と思うから物理的な実体が保証されるという、欲媒花マンドラド【838】に並んでこれまたインテリジェンスたっぷりのサイエンス型オカルト設定がなされたストーリーなのだが、これはSF漫画の凝った絵空事だけの概念なのだろうか?

 私が長らくここで『ヒエラルキー』『チカラ関係』『ウチワ箱庭』などと呼ぶ、数多くの日本人が閉じ込められている陰険で非・生産的な空間構造・世界規律とは、まさにドンピシャこれではないかと思うのだ。社畜サラリーマンに終わらず、一生を捧げてそこに暮らす者も少なくない。
 ここの御贔屓さま方は重々御存知の通り、私自身はこういうのを一切信じない。その代わり、この日本列島の自然が時を経て育んできた『森羅万象としての世の道理および因果律』は固く信じている。

 まずは手近なところから、国民全員が身をもって『コロナ死ぬ死ぬ』の一斉点検だ。狂暴に進化した凶悪殺人ウィルスや、呼吸困難に喘ぎつつ絶命していく悲愴な犠牲者たちは、我々の生活空間のどこに何人いるのだろう?
 巨大組織生命体・日本国が再び元気を取り戻すため1億2千万人日本人たちは、老いて腐って狂った実体なき空間構造の幻影を捨て去って、いま日本列島が身を置いているナウ現実の姿を、きちんとありのままに仲間同士で共有する必要があるのだと思う。
 頑張って生き抜いて、元気を取り戻した日本社会をまた楽しみましょう。御幸運を!
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【946】預けたジブンと残したジブンの分析眼力 [ビジネス]

 ふと気が付くと4月も中間地点を過ぎたから、ゴールデンウィーク間近である。
 『コロナ死ぬ死ぬ』はいつまで続ける気なんだろうかねえ?

 改めてここで言及するまでもなかったと見え、昨今はインターネットのブラウザーを開いた画面にざあっと並ぶ時事トピック群に、『どこそこの番組で誰それさんがコレコレと発言しました』、ただそれだけの記事がえらい数を占めている。
 かつての常識的な報道記事ならば、そういうのって『起きました。朝ごはん食べました…』の小学生の日記式に、あまりの中身ナシのカラッポ確信犯を叱られるところだ。だが時を経て、なかなかどうして私のようにスマホも持ってないヤツがテレビもつけなくなっている時代、これががっつり実になっている。
 視聴に電気代や時間を割くに到底値しないコンテンツどもを一瞬で俯瞰し、たまたま話題になっているのを見かけたその元ネタが何なのか、どれどれと知りたい時にだけ当該箇所を見に行ける。おお、これは便利じゃないの。

 二十世紀の時代、VHSビデオで内容のペラい番組をつい録画してしまったはいいが、倍速で観ると音声が出ないし、ヘッドやテープの摺動速度が上がるため機器の傷みが気になってなかなか思い切れなかった。我々世代、HDD・DVDデッキはまだしも自宅のパソコンでテレビ番組を録画して、早送りは自由自在だわ、カーソル移動でちゃっちゃ好きな場面に飛べるわ、サクッと削除して一瞬でサヨナラできるわ、その利便性に感動したものである。そして擦り減らない。

 いまティーンから二十代あたりの人たちには、『価値アリと思った情報コンテンツを、自前のブツとして所有したい』という、我々中高年世代では当たり前の心情がさっぱりと消滅しているように見受ける。印刷物も、磁気媒体も、光学ディスクも、まず持ち物として確保しようとする動機が感じられない。
 『もし忘れちゃったら、それでもう一回見たいという衝動に駆られたらどうするの?』という年寄りの心配は意味を持たず、だいたい最初から『記憶に残して習得を確かめ、それを満足感に繋げる』という情報処理フローがそもそも存在しないらしい。
 更には、本でも映画でも、直接ベタに時間をかけておのれの五感で浸るより、気の利いた御贔屓さんのレビューをさっと一読して、それをもって結構な確率で『十分な内容精度でダウンロード完了』のOK判定が出るように見える。
 『そんな、どこの誰が書いたかも判らない情報で…』なんて卑下する感情は、彼等にとって大きな御世話なのだと思っておいた方が良いのかも知れない。彼等各々の本人なりに信頼を寄せるレビュアーはきちんと目的別・ジャンル別にストックされていて、少なくとも彼等自身が不自由しないレベルで、世の中に流通する情報コンテンツのエッセンスをきっちり役立てているのだから。

 昨今のバカな大人どもは、若い子たちがごく普通に一瞬で読み飛ばす程度の薄っぺらな情報を、わざわざ逆方向にだらだら漫談のシロート世間話で盛って拡げて、まとめる以前の無駄だらけに煩雑化させ長引かせている。そんな産廃ジャンク・コンテンツを乞食サラリーマンとおもらい雛壇が、大昔の商売形式の残骸みたいな慣習に乗せてタレ流すばかりなんだから、そりゃ視聴者不在にもなるさ。

 ところでちょっと気にしておきたいのが、このデジタル・ネイティブ世代の情報ライフ事情を分析的に考えるに、『体験取り込みと記憶ストレージ内臓機能』の領域は放棄しているものの、『遭遇するリアルタイム現実と、適切な記憶ファイルを整合し、自らの判定基準をもって正否決定』する領域は残っているという事実だ。
 私の主観ドラレコ仮説に照らせば『主観としてのジブン感』は確実に維持しつつ、『意識』の主要因である記憶ストレージについては、捨て去るというより通信網を介して他と広く共有しているという見方が正しい感じがする。
 その通信網の拡がりはキホン繋がる限りの無条件の不特定多数、だからこそ彼等は生存のための能力として、無限の情報空間にストレージされた無数のファイルの中から、『本当に役に立つモノ』『意思決定の根拠にして大丈夫なモノ』を選定する眼力を鍛え、育み、備えているのだ。

 今それが正しいか正しくないかはともかく、例えば営業職で採用した若者に『営業マンたるもの、我が社の製品ラインアップぐらい全て暗記してなくてどうする!』などと唐突に捻じ込んだら、即刻の退職届で返されるのがオチだろう。『そんなダルいことできるかよ』という憎まれ反感ではなく、『ナニその異次元・意味不明の要求値?ソレ無理!』というドライな直感の判定によるものだ。
 逆に、年寄り世代としても『使える』と思えるストレージを工夫して用意し、彼等世代なりの検索プロセス開発をまず任せてやって、出てきた成果について一緒に考えながらGO/NO GO評価していくなど、双方の世代から折衷できる情報世界をまず相互構築する試みは、結構メがあるんじゃないかなあ。

 さて一部のアッチの世界に行っちゃった人たちが、今日の日本社会に『公共情報だよね、一般性あるよね、常識だよね』と、相手の存在も確かめずジブンらウチワの中だけに夢中で繰り返している、不毛な演劇『コロナ死ぬ死ぬ』に話を戻そう。

 発症者の重症度や致死率の真値、それらに導かれる正味の危険度がどのくらいなのかはともかく、日本社会の、特に若年層の自我は完全に『コロナ死ぬ死ぬ』の半島型国営放送に飽きて見限ってしまっている。単なる在学組ならばまだしも、もうアルバイトなどで実社会経済にまで踏み込んでいる層は、生活のために営業しようとすると行政と悶着が起きるってんだから、かなり切実に『真実の在り処とヒマで噓つきなオトナ社会の言論のズレ』を意識していると考えるべきだろう。
 そう、1億2千万人日本国組織は、新型コロナ・ウィルス感染症による疾病や苦痛・致死を避けたいのであり、それを避けて元通り仲間たちと自由に会って普通に話して、勉強して仕事して遊んで、四苦八苦でいいから生活を維持して暮らしたいのである。
 見境なくマスクをしたいのでもなければ、ワクチンと称する得体の知れない注射を打ちたいのでもない。いわんやそんなものに大事な税金を、ビタ一文払うつもりもない。

 誰にだってその人なりの立場があるのはみんな知っているし、今の若い人たちはそのあたり、薄ら鈍感で済んでいた甘ちゃん年寄り世代よりも、遥かにロジカルかつ敏感に反応する。
 以前にも述べたが、地方行政を預かる自治体首長さんたちを始め、ガチの本気で社会生活の現場を切り盛りする役目を自負する方々は、ビクビクせず意思決定の根拠を明確に提示しながら真面目に徹して頑張っていれば、十分近い将来に必ず社会組織の自我は心を寄せてくることだろう。

 まあいいや、いざ物事の現実の素顔がのぞき始めて、万が一それが真剣にコワいことになっていた場合に備えて、緊張感は解かずに体力は温存しておこう。
 いま日本社会にとって大切なのは、目前の現実を正確に見ること、きちんと自分の身で感じること、そして悪い雑音が放たれているところについては、発生部位ローカルの自前分担タスクとして思い思いに摘発し消去することだ。
 道行く人が突然血を吐いて倒れたり、電車で向かいに座った人が急に苦しみだして息絶えたりはしてないワケっしょ?みんな手分けして真実を探そう、ではグッドラック!
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【945】超・高画質で見る超・低品質コンテンツ [ビジネス]

 食のネタをもう一回やろうかと思ったのに、やれやれ大阪の新規感染者数とやらが遂に1,000人を超えたとな?何だか他も増えてんだって?
 ちょいと緊急企画、住民社会の現場に直面する地方行政層が、方針決定およびその発信の仕方に気を遣う必要が一気に出て来てタイヘンになるはずなんだが、結論から行こうか。

 まあいいじゃん。
 本当にこの日本人の居住空間に、大病や死の危険がマジ直面で実感されてるんなら、もっと遥かに自然な迫力を湛えた『ヤバい、コワい、おとなしく引込んで自分の身を守ろう』という怯えた恐怖感と閉塞感の空気で、もう日本じゅうが一杯になってるさ。

 便所タワシ、てめえワクチンが余って捨てたとか抜かすだけ抜かして済むとか思うなよ。このどこも経済的に大変な時期に、国民がきちんと納めた税金で、お前が勝手に買い込んだ。1回分だ5回分程度だ…って、どうせそれ捨てる時に一気に行くか、5回に分けるかの違いだけだろうが。あと『程度』の幅が百倍、千倍、1万倍とかなー。
 『ワクチン担当大臣』などという気の狂った肩書が、自爆テロ非国民犯罪者政権の独自言語として一応あったとして、それなら『税金資本のワクチン総数接種など不要』という判断を下す責任がお前にはあったのだ、この無能、迷惑野郎、愚か者が!

 技術者仕事の本質的な視点の心掛けを、またひとつ紹介しておこう。
 『問題はナンだ?』 この一言に尽きる。

 具体的に発生している被害の事実項目と損害額、および現時点で判明している対策内容とその過不足。各々、ナニがいくつなのか?
 ここでは喫緊の2アイテムに課題を絞る。これに回答する情報を得るのが第一段階だ。
1.新規感染発表事例数の増加が、いま引き起こしている具体的な被害事象は何か。
2.その事例数は、どこの誰が、いつ何の基準をもってカウントし公表しているのか。

 物事は、黙って展開をしっかり見て、自分が培ってきた世界観の因果律に整合して捉えるところから、対応が始まる。
 相手は『新型コロナ・ウィルスの日本人社会集団における感染推移』という自然現象なのだから、まず人間ごときの意向には左右されない反面、感染経路での伝搬という物理現象の自然な道理に、完璧に従う。
 だからこそ、この1年の感染者数推移の大局的傾向を見るに、この期に及んでこんなに不連続な増加率の折れ線が、それまでの最多数だった首都圏でなく関西中心から確認されるためには、相当わかりやすい変化点相応の現実が存在する。
 きちんと調べれば、必ず判る。存在するんだから、必ずだ。

 変異種なんぞホントかウソか知らんが去年のうちからバンバン出回っていたはずだから違うし、超人気アイドルが仕掛けた『PCRチャレンジ動画』で受診連鎖が大流行ってハナシもついぞ聞かない。
 おーい専門分科会、何をしてる?立て看板ノーベル賞はもういいから実力者を出せ。
 『医療崩壊寸前』だとか『最悪のシナリオ』だとか、もういいよ。真実はどこだ?

 私ごときが改めて文章にするまでもなかろう。
 新型コロナの感染に、恐怖感や実対応を直結させる時期では既になくなっている。
 なんで大阪?なんで過去最高?おっかしいでしょうが?
 全てはそれが明らかになり、それが怖い理由によるものと判ってからで結構だよ。

 早とちりや誤った決めつけに陥ってしまうと、例の『思い込み強制設定フロー』に迷い込んだり、一部の人間の都合による別の不穏な操作が絡んでくるので、重々注意はせねばならない。だが逆に『ん?おっかしいぞ?』と直感するからには間違いなく何かが不自然なのであり、大なり小なり必ずそれに対応する原因があるものなのだ。
 ま、これまで第何波にしても、ピークを過ぎて減少に転じたら、その流れで割とおとなしいレベルにまで下がってたから、あんまり心配してないんだけどさ。いいじゃん、やらかしてから原因探そうよ。
 少なくとも国会とやらの、どこか知らない人たちがアッチの世界のやりとりで遊びゴトをやっている言論空間で、何か現実と無関係な応酬が交わされているのは綺麗さっぱり気にしなくて良いんだと思う。早く全部目にしなくて良い所に消し去ろう。

 さて、それはそうとして、じゃあナウ自分たちの身近な日常生活において、何もかも緊張を解き切って以前通り好き放題に振舞うってのはまだ早いよな。
 自治体の首長さん方には、もちろん法律に基づいた職責があって、相応に正しいとされる姿勢もあるから、『住民に響く現実的な措置』をどうするかが工夫のしどころとなる。社会組織の自我の事実認識をとぼける立場にだけはならないよう気を付けないと、国政の後を追って失脚しますぞ。

 こんな局面で、自治体首長に筋の通った真面目さが問われるのは確かだ。
 大衆にどう疑われているかを知りつつも、『地元社会の現場組織が挙げてくる数値であるからには、絶大の信頼を寄せ、それに基づいた対応を政策に迅速確実に反映させる』というポイントはキホン外せない。その自治体という組織の現人神だもん。
 だからこそ、このまま首長さんの真面目さが裏目に出る形で、既に信用を失っている政権やマスコミその他の言うがままに徹さざるを得ないだけに追い込んでしまわないよう、ここは各地元の地域住民ひとりひとりが、新型コロナ感染にまつわる真実を探して見つけて発信し、社会の空気の見通しをすっきり晴らす役目を負うべきだと思う。オトナなら、自治体首長が国ともマスコミとも敵対できないことぐらい理解できるだろう。

 ただ書き並べて済む数字にせよ、現地の真実とも見えないモザイク映像にせよ、胡散臭い専門家とやらが吹聴する世論操作仕込みのインチキ解説にせよ、『つくりもん』でどうにでもなるような不確定な情報はもういいよ。発信の仕方をこれまでと明確に変えないと、裏含みにしか通じなくなっちまってるんだっての。
 特に生活をかけた事業のカネ廻りが焦げ付いている方々には、のっぴきならない真実があるならばちゃんと開示しないと、まず彼らの支えで持っている領域の経済の仕組みの信頼性が揺るぎ始め、そして次に日本社会の経済力の腰が砕け始める。
 支配階級気取りで不誠実な情報の出し方ばかり決め込んで、あほの国政が1億2千万人日本国組織の自我を怒らせたのは間違いないが、日本国組織の側としても怒るばかりではなく、悪くなった部位は自己管理でちゃんと特定して暴き出し切除せねば、いずれ無駄な体力消耗で全員生き残れなくなるぞ。

 最近さすがに『とりあえずテレビつけとく』って習慣がさっぱり無くなったもんな。
 『コロナ死ぬ死ぬコロナ怖い、さあさあ今日の感染者はナンボだ、ほらほらみんなワクチン打ってるってよー』みたいなのがチラとでも流れ出した途端、そこで電気代がもったいなくて電源切ったら、もうそれっきりだ。しばらくして再ONしたって結局それが出てくるんだから、またOFFってオシマイ。
 たま~に明るいうちから深夜と見まがうような通販番組が出て来てびっくりするが、これも消す。

 そういや昭和の時代って『テレビばっかり見ちゃダメだ、字の本を読め』なんて言われたもんだよな。ここを御覧の昭和世代の御贔屓さま方、憶えておられますか?
 『テレビは黙って座れば目と耳に訴えかけて来てくれるため、視聴者は何にも考えなくなり特に想像力や洞察力などの考えるチカラが失われる』というのが定番の理屈だった。でも家庭で『チャンネル争奪戦』が勃発するほど面白かったから、結局みんな見ちゃってたんだよな。

 あの時代から半世紀をかけ、『考えるチカラを失くした大衆に催眠術をかけるツール』にされてしまったテレビの画面には、今どこを廻しても視聴者を失ったまま乞食サラリーマンが同じ演題で繰り返す、不毛の猿芝居しか映らない。いや、猿に失礼か。
 大枚はたいた、おいくつKだのの御立派な高画質で映すにしても、今は無き『砂の嵐』の方が遥かに美しい景色ではないか。今週末、余計な電気代は浮かして、開けた屋外ででも深呼吸して『コロナ真相追及』への気分転換を勧める。ではグッドラック!
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【944】ジブン初期値と書き込み記述の整理ノート [ビジネス]

 えーと、いろんなテーマが相互に絡み合っているので、ハナシがあっち行ったりこっち行ったりするのだけれど、食い物系をもう少し続けてみるとしようか。
 かつて田畑の傍の、草木や生物がいっぱいいる郊外の一軒家に住んでいた時期があるというハナシはした【640】【655】
 よって大家さんの農家の生活が身近にあって、いろいろと面白かったのだ。

 いま4月で、もうしばらくは畑でビニールハウスに客を入れてイチゴを摘んで食べれるようなことをやっていると思うが、私の記憶ではハウスのイチゴが突出して美味いのは1月末~2月アタマである。作業中の仕出し用の東屋へ家賃を持って行ったり、外から帰りがかりに挨拶に寄ったりすると、いつもこぶし大に迫るようなイチゴを5~6個いただいたものだ。
 こうして間近で連続的に定点観測していると、1月最終週あたりに糖度とみずみずしい香りがガツンと別次元に移行する。そこから約2週間、大家さんの姿が無くとも無人販売棚で買いまくり、食いまくる。一生ぶん食う勢いで。

 思うに、あれって後天的・人為的に書き込まれるキビヤックの美味さとは生体感覚の原理的に異なっていて、あのイチゴの美味さの方は先天的に生物共通に備わった素の生存本能の喜びではないだろうか。

 もうひとつ想い出深いのがブロッコリーで、大家さんちの奥様によれば『お鍋で茹でてマヨネーズででも食べちゃえば?』とのことだったので、単純にそうしてみた。
 これがまた驚異的で、しばらくすると『一体どんな凝った食材を何種類入れたスープを煮込んでるんだろう?』と理解不能に陥るような複雑な香りで家じゅう一杯になったのである。何かの香草みたいな高級な香りがするのはまあ植物だから納得できるとして、コンソメ系とかブイヨン系とか肉系を感じさせる旨味の香りが明らかに混じっているのには、目前の景色と一致しなくて何とも不思議としか言いようが無かった。もちろん味も歯応え・歯切れもこの上ないもので、それだけで一食いってしまった。

 ただの野菜おそるべし。これも生物ならみんな好んで食っちまいそうな気がする。
 新鮮さという普遍的な優良食材アドバンテージはあるにしても、『茹でる』という文明的処理の調理後に、あんなにも本能的な食欲に訴えかける五感の喜びがあるってのはちょっと不思議ではある。

 ここで冒頭のイチゴの話に戻って、確かまだ寒いうちにハウスの中にミツバチを放して受粉させるのである。近所に養蜂家があって、巣箱にカバーを掛けて軽トラに積んで持ってきたら、一旦ハウスの前に巣箱を置いてカバーを外してやるのだ。閉じ込められ運搬されて来たミツバチたちはストレスが溜まるのか、一斉に表に出て近くを飛び回るのだが、程なくみんな巣箱に帰るので、いよいよハウスに入れると。
 まあストレス鎮静過程に黒だかりでわんわん飛んでいてもミツバチ君は大人しく、黒シャツを着て歩き回ってその様子を眺めていても、通説のようにクマと間違われて敵視されることは一度も無かった。そもそもクマに巣を狙われている現象の検知モードとは決定的に何かが違っているんだろうな。
 ミツバチは両目ぱちくりで可愛い顔してるんだが、そういえばスズメバチは複眼がかなり上向けに偏在しており、しゃがんで身を低くした方が襲われる確率が減らせるというのは一理ありそうに思う。

 とにかく人間が生きて食っていてただ『美味』と判定する根拠には、実は複数の異なる原理があり、『生物にとって本来食うべきモノ』とする先天的な判定フローと、『食えると判っているので食って大丈夫なモノ』とする後天的な判定フローの最低二極がありそうに思う。
 このあたりで『主観とは、意識とは何ぞや?』のハナシに戻ってくるのだが、とにかく口に放り込んで得られる感覚に対して、我々は過去に遭遇してきた食生活の記憶ファイルに照らして『OK vs NG』の判定を出しているワケだよな。そして少なくとも、果物の甘さなんかは恐らく生れ落ちた瞬間からの標準作業として『OK』判定を下して呑み込んでいる。なのに、だ。
 口に入れたモノ全部を総ざらえひっくるめて、いわゆる乳幼児期の食の記憶を残している人はいないのではないだろうか。最も原始的で、最も人それぞれの違いが無さそうな、印象深い経験なのに。

 そう、生まれたばかりで記憶ファイルがまだ白紙の乳幼児は、『記憶ファイルと整合して正否判定する』という情報処理プロセスが成立しないため、この時点でまだ『主観としてのジブンは存在していない』のではないかと思うのだ。ぶっちゃけ小さな子供は昆虫と一緒ってことだな。誰かその時代のジブンについて覚えてるヒト、憶えてるヒトいますか?
 私が『意識なるものの主体は記憶ファイルのストック』であると考え、『主観としてのジブン感はリアルタイム五感入力と記憶ファイルの内容レビューとの整合作業』ではないかと推察する所以である。

 さてイメージしやすい例として食に関わる意識について述べてきたが、例えば日本国という組織生命体が、過去にコロナ・ウィルスという生命淘汰のライバルに出遭っていたとしよう。
 日本国はもう、はしかやおたふく風邪みたいなもので、一時的に罹患して、多少の被害も出すが、それ以上のことは無いということも普通に考えられる。ヘルペス・ウィルスなんかは水疱瘡に一度かかっておけば、その後は何事も無く人体と共生して暮らしており、しかし人間が何かの理由で急激に弱ると再活性化して発症してしまったりするのだが、これが『帯状疱疹』の正体だったりもする。

 ともあれ1億2千万人からいる日本国組織において、1年前も今も国家生命体が大打撃を喰らうほどの損害はついぞ出ていない。人類文明の社会生活で『個人が死ぬ』というのは確かに大ゴトなんだけれど、地球上生命の損害度として見る限りは決して重篤な事態ではないワケだし。
 そしてコロナ罹患をくぐり抜けた日本人が生き残って血縁を繋いだ結果として、日本人のDNA構造に『強コロナ耐性』が書き記されているのであれば、これも先天性の生体特性として本質的に機能する記憶情報であると考えるのが筋であろう。
 こんなラッキーな記憶ファイルが地付きで備わっている可能性が高いなら、現代科学文明の場当たり的な浅知恵の悪あがきなんかより、生命淘汰の悠久の歴史が授けた日本人の生存競争力の方がよほど信頼に値するものであり、まず優先すべきは現状ママの勝率の確認ではないかと思う。

 放っておいても美味いと思うとか思わないとか、そんな領域とどっこいの情報階層で日本人血統の強コロナ耐性が期待できるのに、『コレを美味いとする味覚はよろしくないので、ケミカル薬剤で生来の味覚に操作を入れて改めよう』と早々に人体改造をそそのかすのが、現状のワクチン医療政策ではないのか。

 まず程度はともかく病理的な症状は出るし、これを放置せず『新型コロナにかからない、死なない』を目指す社会的な対応が必要だとする考え方は正しい。だが『しっかり食って、よく寝て、安静にしていれば普通に元気になれる』はずの日本国が、こんなに果てしない混乱から抜け出せない理由は一体何なのだろう?

 『こんなに大勢が感染している、危ない危ない』
 『もう医療現場では対応できない、死ぬ死ぬ』
 『みんなクスリ打ってるんだから、細かいこと言わずにワクチン打て打て』
 これら全て、どこが発信するどんな情報をもって日本社会の体調の現状を認識し、何の基準で行動選択の判定をして、どこで広域発信のルートに乗せられているのか、そして我々日本国民は各自でおのれのDNA情報とどっちを優先して信じるべきなのか判断を求められている。

 アナタはジブンが生き残るために、誰のどんな情報とどんな判断力を信じますか?
 では今週も引き続き、グッドラック!
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【943】五つ星トロフィーはグルメ調教師の腕前で [ビジネス]

 大阪・関西はじめ各地のコロナ感染者確認数が『何故か』急増している。
 いや、まあ別に構わないとまでは言わないんだけどさ、がっつり新規性のある明確な動特性が見えてくれてんだし、まず『現象は何なのか、変化点のファクターは何なのか』の特定が必要なのと、他ならぬ『それで日本社会として何がどれだけイケナイのか』を冷静に整理して考えようよ。
 大事なのは、快適で安全安心かつ生産的にするため用意された社会の仕組みやみんなで出し合う税金が、ガチ真剣のイケナイ現状を脱却するために、どこまで実効的に作用しているかどうかだと思う。

 さてさて、ここでいきなり我々人間が普通に生きていて感じる『ああ、ジブンがいるなあ。自分がいろいろ感じて、考えて、しゃべったり行動しているなあ』という、『主観としての意識』のハナシに戻る。
 私は、『意識』とはストレージされている記憶ファイルの内容にかなり実体の比重があり、いま五感を通して出遭っている録画中のドライブレコーダーの記録を、過去ジブンの人生で録り貯めた記憶ファイルと整合するおよび、ナウどう処置するかの判定作業がいつも走っているはずで、それが『ジブン感=主観』の正体ではないかと考えていると述べた【938】

 大脳という大容量ストレージ機能を持たない昆虫たちは、この整合と判定の過程が無いのでジブンもへったくれもなく、例えば複眼で捉えた映像に合わせて機械的に反応するだけの人生?虫生?ではないかと思う。大きな黒い影が背後から迫り来ると共に、相応の風…というか空気の圧力波のひと揺れなんだろうが、とにかくそれを感じると、生命の歴史上の偶然に始まり生存確率を数十億年にわたって上げてきた反射神経プログラムの標準発動により、飛ぶなり跳ねるなりの反応が起こると。で、結果的に逃げる。
 また彩度の高い対象映像を見ると、とまりに行って、それでとまると良い香りがする。ならば口吻を突っ込んで吸うだけ、そうすると大抵の場合は蜜が溜まっていて、栄養価の高い糖質が得られてまた飛べる。でも、だからウツボカズラにも騙されて、あの捕虫器に落っこちて消化されちまうんだよな。
 定型の標準的な反射動作だけで過ごす昆虫たちの、ねじ巻きオモチャのような日々で過ごす一生である。そんな生体活動が世代を紡ぎ、この地球上にこれだけ多種多様に繫栄した。

 ところで情報ストレージ機能を持つ、いわゆる『高等生物』たちも、使える内容の記憶ファイルが揃ってくるまでは右も左も無いくらい無作為な行動ばかりが目立つではないか。とりあえず熱いと手を引込め、モノが飛んでくると目もつぶるから、それなりの反射動作は備わっていて、まあ虫たちと一緒じゃん。
 もしかすると『好奇心』なるものが記憶ファイルの内容をいち早く充実させる作用を担っていて、わざわざに要らんことや危ないことをしがちな個体が生存確率をある程度上げた結果、そんなプログラムが淘汰の蒸留物として現代人の志向特性に一定程度含まれているのではないだろうか。

 以前、食い物の嗜好について考察したが【916】、知る人ぞ知る現地ならではの御馳走なんてのは、『これは食い物です』という記憶ファイルのスペシャルな書き込みが無いと成り立たない気がするのだ。
 世界一の悪臭とされるシュールストレミングを腐敗物と判定せず食いモノと認めるには、まず白紙の味覚記憶があって、それを口に入れて、周囲の人々の様子などと因果付けて、文明社会的な外力の強制による『食いモノ』定義の書き込みがなされる必要があるのではないかと思う。
 そんなシュールストレミングは所詮は缶詰だが、世界にはどえらいブツもあるもので、確か北極圏とか極寒地域の現地料理(?)に『キビヤック』というのがあるのだそうだ。いやまあ場所柄アザラシを獲って食うらしいのだが、腹を割いて肉とモツを抜いたまでは良いとして、皮下脂肪を残すのだという。
 イヤな予感がする。よせ、さっさと全部食って毛皮の使い方の話をしないか?

 悪い予感は当たっており、ウミスズメという海鳥をこのアザラシ脂肪袋の腹にたくさん詰めて縫い合わせ、よりにもよって地面に埋めて数ヶ月間も放置し発酵させるのだという。他の動物に掘り返されないよう、板を被せて重石をかけるのだとか。うわぁ~頼むよ、焼くか蒸すかしようよ。
 ひとつに極低温の気候環境ゆえ、そうそうお手軽に燃料を使って料理できなかったと思われる。あとひとつに、獲物を残さず人間が消化吸収して体温維持する目的で使い切るため、骨までぼろぼろに崩れて食える状態にまで持っていく調理法?が必要だったんだろうな。
 こんなものを掘り出してアザラシの腹からウミスズメを取り出し、溶解した中身を肛門から吸い出した挙句バラバラに引きちぎって全部食うというのだから頭がクラクラする。ウミスズメについて詳しくはないが、魚を喰わない海藻など草食主体の鳥であれば、これは十分に可能な気がするけど。
 私はこれ系の食文化への耐性が滅法弱く、恐らくその臭気に晒され中身を見た瞬間に口を押えて屋外に飛び出し、どんなに寒くてもウォッカを空けながら待ち続けることになること請け合おう。

 いや、何が言いたいかというと、実はこれ当地の住民にとっては『豪華な御馳走』だとされているそうで、恐らくはこんな私でも現地の暮らしに育ったなら、喜んでキビヤックを頬張っていたはずなのだ。そりゃ栄養価は高いだろうし消化は良さそうだし、他に喰いモンなんぞ殆ど無い環境だろうからまず食うは食うとして、味覚や嗅覚はそれに呼応したポジティブ定義が後から付いてくるという順番ではないだろうかと思うのだ。
 『こんなもの』なんて言っちゃ失礼千万、その生存環境で食を繋ぐ知恵として受け継がれてきた記憶ファイルの、興味深い論理的因果のポジティブ悦楽感覚の書き込みだったりするのかも知れない。

 ここで1億2千万人巨大生物・日本国の『主観=ジブン意識』について話を移す。

 恐らく人間は、地球上の生存競争を生き抜くため本能的にそこそこ群れる性質はありそうに思う。だがそれを起点にして国家という文明が生まれた先、今度はそれを『上手く運営して勝ち残る』ために、論理データを書き落とした記憶ファイルが蓄積されていく。
 和牛ステーキが美味いと思うのか、キビヤックが美味いと思うのか、資本主義・民主主義が快適と思うのか、共産主義・社会主義が快適と思うのか、生存に成功した実績に基づいて、それなりの嗜好を持つ『意識』としての記憶ストレージ体系が形成される。
 そしてそんな記憶ファイルと目前の現実を整合し、正否の『正』判定を得ようとする国家運営プロセスとしての『ジブン感=主観』が自然発生してくるはずだ。

 古電球が学術会議の任命で明らかな違法発言をしたのに、今も放置されている。
 今なお学術会議の構成人数は6人ほど不自然に欠けたままではないかと思うのだが、過去にずっと『学術会議という機能集団は、その人数で良い、それが良い』としてきた記憶ファイルと真面目に整合しないまま、もちろん6人減で良いのか悪いのかの正否判定もしないままの硬直状態だ。

 いま1億2千万人日本国組織は、大脳相当の情報ストレージ機能を備えた生命体として、主観に基づく意識や感情の反応が確認されず、気を失っているも同然ではないかと思うのである。
 いきなり常軌を逸した言動を発したのち、その目前のなりゆきが識別できず、興味を向けることすらできず、ただボーっとなりゆきのまま次の関係ない不規則言動を始めたりもする。これってまさに進行した認知症老人の意識障害ではないだろうか?

 高齢化ニッポンのこの先の見通せない発狂デタラメっぷりは、生き残り方策をしたためてきた記憶ファイル=有形・無形の社会規律を率直かつ正確に読み出して、目前の行動決定に反映させる『主観的意識』を取り戻さない限り治らない。猫撫で声で歳のせいと流してしまわない、矯正式の介護方針も急務である。
 早く汚く腐った老衰部分を、元気で素直な若年層域で置き換える必要があると思う。では引き続きグッドラック!
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【942】清く正しく平等な七三分けはプロ狂犬ブリーダー [ビジネス]

 役所組織のハナシをもう少ししておこう。先に断っておくと、私はそこに身を投じたことが一度も無いので、外から見てただの憶測で好き勝手言ってる無責任な外野ってことになる。よろしく。

 前回述べた通り、決して日本社会の中で特権意識を膨らませ職権乱用でそれを法規化して、嫌われ者を決め込んで自分らだけの優遇措置に収まるような組織特性は、本来は無いはずなのだ。
 実際、高度経済成長期には『親方日の丸につき倒産で失職の心配がない、究極の安定職』とされ、競争社会の鍔迫り合いも飾り気も無い地味な職場で、キホン定時上がりの安月給に甘んじるところさえ呑めば、一定ペースの定型業務でこなすだけの職場人生が約束されるとされていた【476】
 そんな役所組織から、朴訥な事務職のイメージがいつしか消えたような気がするのだ。本来なら、いろんな浮草商売が好き放題に活動する社会の中で、それらの登記登録や住民および公共設備の維持管理などなど、まさに社会の地道な日直仕事の部分だけを最小限やっているだけの業域だったはずなのだが、不当な高給職とされつつ接待から汚職から、今やとてもそれどころではなくなっている。

 ともあれ、市場競争の激しい製造業ビジネスの民間企業にいた私の視点で考えるに、公務員文化において『平等』という素朴な道徳概念が暴走してしまったというところに大失敗があると思うのだ。
 『平等』なるモノが共産主義・社会主義組織の基本コンセプトにして、その実・作動点が『生産性の低い組織総合力の中で、我さきのアンフェアに優待ポストを醜く争うばかりの私欲の集団』に向かいがちなのは、ここにこそ原因があるのではなかろうか。

 公務員のキャリアが横一列のスタートラインで始まるも出世枠の席数には限りがあるため、その椅子取りゲームにあぶれた者がその都度キャリアを1ランクずつビハインドにならざるを得ないという話はした【647】
 『みんな平等』のはずの同期なのに、必ず差がついてしまうのである。まあ年次が到達したからって全員が洩れなく課長になる訳にもいかないし、そりゃそうなんだろうが『平等』には矛盾してしまう。

 随分と前に『いや、不平等が出ないよう同期は一律の給与待遇を守るのだ』と聞いたことがあるのだが、もしその通りだとすると、基本給を一律額にしておいて、職務ランクやナニナニ手当みたいな付帯部分の積み上げ額で給与に差をつけるしかない。
 因みに当時『この基本給部分はひたすら年功序列式に増額されていく』とのことであり、もう二十世紀の平成の早々には職歴の最後で下を向く年齢給カーブを常識と認識していた私はひっくり返るほど驚いたものである。
 で、私の心象はともかく、そんな右肩上がりの酢飯のような基本給に、とんでもないメガ盛りのネタが幾重にも乗るような給与体系の骨格がまずあって、これらの盛りネタも一枚一枚が『出張手当、この役職ならばおいくら』みたいに、ランク毎に厚みが違っていることは容易に想像がつく。

 だとすると『ランク横一列の平等を保障されたネタ厚基準判定で、自分の寿司一カンの高さをどれだけ積み上げられるか』が自分の職場人生の最終目的・至上価値になり得るのではないだろうか。とにかく僅かでも上位ランクの役職にしがみつこうとするし、些細な失敗や一面一時的なネガティブ評価も極端に恐れ、責任転嫁もすれば事態の隠滅も図る。更には最初から責任の発生しそうな課題と見るや、どんなに自ポストに使命性が感じられても知らん顔ということにもなるだろう。
 だって誰も失点を計上しないとなると、今度はアラ探しと言いがかりで『落とすヤツを捻出する』モードにしかなり得ないからだ。確実に足の引張り合い、落とし入れ合いの壮絶なゲリラ戦大会となろう。

 これでは平等どころか、『注意一秒ケガ一生の地雷地帯で神経衰弱戦を続ける、絶対階級支配世界のポスト争奪戦バトルフィールド』になるのが必然の展開だとしか思えない。
 こんな公務員文化だから、汚職の神輿を担ぎながら『私の立場ゆえ微塵も逆らえません』みたいな言い訳が通用すると、この日本社会を生きる成人社会人ともあろうものが平然と勘違いしてしまうのではないだろうか。自爆テロ非国民犯罪者政権の違法行為も犯罪行為も機械的に横流しに処理し、接待喰って遊んで暮らすその目的で、必要も無いコロナ対策を無限に発生させたりもするのではないか。
 そりゃ果てしなく複雑化した支援金・給付金とやらの払出しも遅れるだろうし、それでお店が潰れたら役所の窓口が悪いってんだろ?
 やってらんねえって言いたい気持ちも解らんでもないが、ならば自分ちの職場風土は自分らで変えないと出口は無い。

 ところでよくある理屈として、『組織に大成果をもたらした者に相応の高額報酬で応えることこそ平等だ』とする自由市場・資本主義的な反論がある。
 喜んでこの理屈に不用意にクチを滑らせると、『事情ある弱者を気遣わないスタッフ不適格者』というレッテルをいきなり貼られることがあるので気を付けねばならないのだが、『平等』というより『フェア』と表現を換えるとして、こちらの方が実力発揮の自由競争で組織総合力は上回ると私は思っている。
 もちろん『勝てば官軍』『友はライバル』的な世知辛さが顕れてくる可能性には腹を括る必要があるのだが、それでも例えば敗者でも十分マトモな生活水準を保てる組織総合力が実現できるのなら、実は致命的なほどにまでは組織内の人の心は荒まない。

 『個々人がおのれの実力に納得し、自責で自己完結する』という一点において、『社会組織の保証する平等に身を預けて納得を試みる』共産主義・社会主義の仕組みは、危険な暴走ループに迷い込む入口が塞ぎきれないような気がする。『平等』第一は、相対比較を最大の関心事にしてしまうのだ。

 大抵の成功セオリーは、通説に沿った根拠あるプロセスを踏んで確かにその通りに作動するものだが、実は全ての背景を形成する『場の空気』が文字通り支配的要因として効いている。それが組織としての『世』の大原則ではないかと思っている。
 かの高度経済成長期、日本国は戦後の焼け野原から自由競争市場を発展させるとともに、急伸した国力で巨大な公共事業を幾つも動かし、手厚い社会保障も布いて豊かになった。だが、戦後復興のあの『働きアリ』『モーレツ社員』『インフレ青天井』『バブル景気』の空気の下であれば、自由競争の資本主義・民主主義であろうが中央管理の共産主義・社会主義であろうが、そのメリット部分が美しく辻褄を合わせながら稼働できたんではないかと思う。当時の日本国、『最も成功した社会主義国』なんていう言われ方もしていたけど。

 世界経済を俯瞰していて、資本主義が永続ループを保てなくなり始めたくさい空気の揺れをいち早く感じ取って、その時点で人間の欲望が『平等』の概念を歪めて、大衆が擁する社会発展力の自由度を阻害してしまう特性を持つ、そんな共産主義式・社会主義式のコンセプトを、少なくとも日本国のスタッフ業域から消しておかねばならなかったんだろうな。
 それをやらなかったから、『失われたウン十年』みたいな致命的な長期空振り時代が続いたのではないだろうか。美しき平等や整然たる統一基準そのものは存在するが、それを適用される人間の方はそうは行かない。

 大切なのは、そこにいる人々が最大限に生産力を発揮できるかどうかだ。では今週もグッドラック!
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【941】意表突く大事件の謎解きコーヒーブレイク [ビジネス]

 大阪のコロナ新規感染者確認件数が予想通りの上昇傾向を見せている。
 ただ看過する訳には行かないが、慌てて派手な対応を採る必要もなかろう。
 『ヤバいが制御可能=自分が事態の操作を頑張れば何とかなるかも』と皆が思い込んだ時にこそ、過剰反応による『パニック』が起こるというハナシはした【907】
 幸か不幸か、そもそも大衆は『あんまりヤバそうでもないじゃん』と思っている。

 先に結論から行こう。
 大阪の確認件数に何か特有の事情の変化点があったことになるが、それは何だ?
 常識的に見てただの偶然にしては傾向の突出した急変が過ぎるとは思うのだけれど、それでも『偶然の可能性まで含めて、当面は何が変化点だか判らない』とするならば、その見解の周知徹底は必要だと思う。

 今般の確認件数急増の原因事象が特定できなければ、ますます日本国民のコロナ対応への関心は薄れていく。端的に『誰かの気分でテキトーに騒ぐだけの、大したことないモノ』として。
 『何だか判らないけど増えました』みたいな数字を掲げて蔓延防止措置とやらを発令したところで、それをやって確認件数が減ってくるのかどうかもあやふやだし、その確認件数の意味するところも、一時あれだけ重症化率・致死率の恐怖感を煽りまくっていたサラリーマン劇場が今やどこ吹く風といった様相なんだから、もうお呼びじゃない。

 量産工業製品の市場不具合なんかだと、先に可能性のある対策アイテムを突込めるだけ突込む初期対応も普通なのだけれど【822】、当然それは生産ラインを遊ばせず不具合品を世に放たずといった、徹底した事業の採算性判断に基づくものだ【830】
 これに対して、まだ損害度のはっきりしない、市場不具合の発生と考えるに値するかどうかの見極め段階にいるのであれば、『まず静観し、目前の現実を正確に把握する』ことが最優先課題となる。

 工場の生産ラインの量産初号ラインオフをもう来週に控えていたとしても、いま作動確認中に急にデータモニターの温度がとんでもなく上がったり電圧がゼロまで落ちたりしたら、まずやるべきことは『その現象の動向を眺めながら、何が起こっているか考える』である。うろたえてはならない。
 むしろ貴重なその現実を、起こるがまま自然に大事に転がしてやりつつ、製品の作動の様子を確かめるのだ。解ったヤツが真面目に造り込んだモノがいきなりズッコケるなどという青天の霹靂は、まあ実は往々にしてあるのは間違いないんだが、それにしても計測器の結線が外れただけとか、設備装置がちょっと御機嫌を損ねただけだったりする些細なお騒がせミスの確率もタダゴトではない。突発のトイレ休憩で交代した新米の実験担当者が、まさかの知らぬが仏でキーを弾みで一発叩いちゃって気付かなかっただけとか、ホントある時にゃ何でもあるからねえ。
 とにかく人間が意図をもって組み上げたモノが、その意外な現実を手放しで巻き起こしてるんだから、まずは元の意図との整合・不整合をひとつひとつ分析して確認し、次に当初は意図していなかった領域まで現実の拡がりをバクチ空想する視野で探索していかないと、物事は前に進まない。
 浮足立って場当たりの浅知恵を乱発していじりまわしても、現象遭遇の貴重な機会に余計な手出しをして、将来への繋がりを根こそぎ失って迷宮入りさせてしまう以上の結末はない。

 大阪の社会生活の稼働には、こないだまでと比べて、コロナ感染現象に何倍増の変化を与えるような事実は無かったはずだ。なのに全国で大阪に限って感染者の確認数が急増した。
 日々の感染者数カウントや医療機関の逼迫度など、各地で統一基準ができていないという指摘はあったけれど、この日本でそんなに極端に質の落ちるような独自ローカル判断もなかろうし、そんなオール日本体制が1年以上の稼働を続けての、この新規感染者確認の急増報告である。
 これに呼応して命に関わるような重症事例が急増していなければ、まずは良し。
 次は感染拡大を助長するような攪乱ファクターを断絶して様子を見るんだろうな。
 で、感染症に関するマジな専門家が、スクランブルで率直に分析・解明すると。

 大阪でこんな際どい見極めをやっている一方、都心では役所が深夜まで飲み会をやっていた件が話題になっているようだが、アレって役所の中の自浄作用が働いているんなら嬉しいんだけどなあと秘かに期待している。
 だってフツーに考えて御覧なさいな、今どき銀座で23時まで飲み会やるんなら『相応の目的意識』が必要でしょうが。マトモな成人社会人が洞察するならば、こんな感じだろうかね。

 『課題対応の中心的役割を担う役所直々に、もうコロナ対策はオワリだと宣言する』

 これをモロにまんまの日本語情報にして発信すると、その情報を作成した個人が摘発され、支配階級を自称し結託している仲良しグループの箱庭ウチワ世界において『一人だけイイ子ちゃん』『思想犯』『裏切り者』のレッテルを貼られてしまう。
 『一般社会の目に触れない密室=治外法権としてどんな逸脱もアリの伝統的閉鎖空間』の役所組織の職場で、ヘタすりゃ一生にわたるほど陽の当たらない業域でワリを喰う立場にもなるだろうし、自分からそんな役所組織を見限って離れるにしても、居残るのは箱庭組の方ってことになっちまうワケで、それでは日本社会の重要なスタッフ職域が、いつまで経っても永久に陰湿な王政・階級制帝国で続いてしまう。
 これでは改善の余地がないから、あからさまな『反政権の思想犯』を出さずに、無駄な国策コロナ対応を否定する内容の当事者からの発信を、広く国民の目に触れるよう象徴的に『行動で示す』必要があった…と。

 当たり前だが、もともと役所組織は日本社会が幸福で充実したものとなるようにケア&サポートするスタッフ業域なのであり、決して国民の血税を浪費して自分らばかり良い目を見ようとするような、反社会的な敵性集団ではない。
 私自身『公僕たるもの身の程をわきまえ、謹んで民のために身を尽くせ』みたいな言い方は大嫌いなタチであり、社会組織を効率よく運営し生産性を高めるための公務は重要な基本機能だし、それを真面目に的確にこなして大衆社会の稼働を支えるからには、むしろ民としてはいつも感謝をもって協力的に振舞うべきだと思っている。
 社会組織は一蓮托生、マネジメントする側とされる側が、自然に、積極的に、好意的に協調してこそ持てる生命力が最大限の全体パワーとして発揮され、そこにいて楽しく嬉しく幸福な時空間になるのだ。

 いい大人が今さら世論感度MAXのモードで飲み会なんぞ、ホントにやるのかね?
 ちょっと前なら『まっさかー?バカでもやんないよ』という無駄な会話は暗黙以前にスルーされ、『すわ、無能政権に痺れを切らした官僚組織に宣戦布告ののろしが遂に上がったか?』ぐらいの騒ぎにはなってたはずなんだよな。
 ひとつ確実なのは、これは1億2千万人日本国民が事態をどう捉えるかの問題であり、たかが国会ごときで誰々がどんな会話を交わそうが、ナニを宣言しようが、日本社会には何の実効力にもならないということだ。

 社会組織の生命活動の原理を理解したなら、そこに自然に馴染む試みが生存率高く賢い。思い思いの生き抜きの効率的戦略を探して、どうか御幸運を!
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