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【958】背に腹代えられない先鋒反則技の有効ジャッジ [ビジネス]

 都心で『ルール破ってゴメンナサイ!』と謝る掲示を出して、通常営業に戻した呑み屋さんのことがネットニュースに出ていた。古電球や便所タワシの写真が載ったイカサマ記事と一緒くたに並んでいるんだけど、この呑み屋さんの記事の方はきっと事実なんだろうな。
 そう、このルールって何のため誰のために、どんな根拠で制定されたのだろう?

 ルールというのは、各自の幸福が無作為に衝突しないよう交通整理するための、公共の場における物事の処理プロセス標準書とも言うべき情報体系だ。だから同じ社会空間を棲み分ける者同士、みんなで納得し合って持ち合うのである。
 詰まるところそれが全てであり、例えばルール設定の手順を踏んだからといって、その内容のメリット性がみんなに理解されず誰もそれを納得して順守できないのなら、それはルールとして機能しない。そんなものルールではない。

 ひとつの大きな社会集団の中で、ふたつあるいはそれ以上の小集団たちの利害関係が対立してしまい、そのままでは無駄な内部衝突が多発し続けて収拾がつかなくなる場面は結構ある。だから各々がしっかり意見交換した上で『こう処理することに取り決めよう』とルールをもって、双方そこそこの折衷点で折り合おうとするのである。まあナニガシか決め事となる情報が共有される訳だ。
 だがここで『実地運用に移して、本当に納得し切れているのか』こそが組織運営の成否を分かつ決定ファクターであることを忘れてはならない。当事者一同文句ナシ全会一致のルール設定であっても、いざ現実に直面するとあれこれ事情も心象も違って来ることは普通にある。
 適性を備えた優れたリーダーはこれをよく解っており、結果論として『組織の幸福と納得』が実現しているかどうかを注視し検証する視点で、みんなの気持ちを必ず測定しにかかっているものだ。

 ふむふむなるほど、それって正論だよな…と思うところまでは、あんまり難しくない。ナニか決めたことにするまでは、どうしようもなく焦げ付くことはあんまりない。
 ちゃんと決めて、腹を収めて、その後ももし思いと違っていたら遠慮せずに修正を持ち掛ける。『お互い腹を割れているかどうか』が必要条件となる。そこが難しいのだ。

 ペットの動物たちをもって『家族の一員』と表現することは多い。まあワンコから金魚まで一律同じとはいかないが、一般的な犬猫に鳥あたりの動物系ペットを考えてみるとしよう。彼等は『そこんち一家』という家族組織を成すイチ構成員であり、キホン正直に、自分らが過ごしやすいように日々の生活を過ごす。
 『あ、それいいね』とか『ちょっとゴメンしてよ』とかその程度の日本語すら通じない間柄だが、普通に接していれば間違いなく意思疎通は可能だ。そのウラオモテの無いコミュニケーションをもって、飼い主の人間たちは心の支えとして生きている。
 単純に考えれば、人間同士のコミュニケーションから言語表現による情報精度を引き算したぶん、伝えたいことが伝わらずにもどかしさばかりが募るはずなのだが、そんな尺度で動物たちとの会話・対話を捉えている人はいないだろう。
 どうしても信用し切れない人間とのコミュニケーションには期待しようのない、『彼等は自分に対して腹を割り尽くしており、絶対にウソをつかない』という安心感が、動物たちとのコミュニケーションにはあるのだと思う。

 自分と相手の感情や思考が捻じ曲がらず率直に響き合う仲、みんなそれを求めて生きており、それは人間が持つ言語情報で表現し合う間柄よりも上位にあることが判る。裏返せば、少々手の込んだ情報形式に仕立て、大層な通信ツールで大袈裟に飾り立てたところで、所詮響かないものは響かない。
 初対面でも馴染みでも、疎遠でも親密でも、自分勝手な非現実を押し付ける動機を捨てない限り、どこの誰にも、どんな生き物にも、本気で関わることなど叶わない。いわんや共に組織を成すことなど不可能だ。

 いま我々日本人ひとりひとりは『コロナ死ぬ死ぬウィルス怖い怖い、かかって死んだらどうしよう、すぐ注射打ちたい、死ぬよりマシだから会社もお店も生活の全てを捨てて、もう大丈夫という宣言を待とう』などと思っているのだろうか?
 まずこの問いの回答に不正直が絡んでしまっては先の議論ができない。ナウ現時点で1億2千万人日本人の全員がお互いに胸ぐらをつかみあって、改めて各自に答を問い質す必要がある。
 そこで誠実な本心を正直な言葉で返せなければオワリだ。日本人やめちまえ。

 ではこの私から率先して、改めて真実のイメージを整理して語ろう。
 確か一昨年末『新型のウィルス感染症が拡がり始めたらしい』と海外から着信した時点で、現代国際社会の交通網に乗って日本国にもその危険が入り込んでくる可能性を想定しておく必要があった。だが自爆テロ非国民犯罪者政権は怠けて危機対応をさぼった上に、下民に支配力を誇示するテイで、昨年明けの早々に官房長官のポストから、古電球が国として対応には動かない旨を断言している。もう最初の段階から、無能の慢心で判断を誤ったのだ。
 程なくクルーズ船での感染が報じられたのだが、船は陸地に接岸する訳で、つまりこの時点でもう日本本土に感染源が上陸していたのは確定的であった。もう誰々の人物特定で、感染した本人個別に治療を施して解決する結末はなくなっていたことになる。

 自爆テロ非国民犯罪者政権は『自分らが怠けたために日本国内に感染症の侵入を許した』という事実関係が残らないよう攪乱工作を図ったのだ。クルーズ船の入港に目を付け、乗客・乗員の外出管理に意図的な抜け漏れを演じ、クルーズ船感染騒ぎの対応関係者と乗客・乗員に、感染源侵入の原因を押し付けようとしたのである。
 多少でも知識のある本物マトモの専門家なら、ここまで事実として疑いなく認識していたはずだ。違うか?

 ただ夏前にはもう『日本人は民族的に耐性が高そうだ』と十分に確信できるまでには見えており、だから私はほぼ1年前の5月24日にその話をここでしている【852】
 我等が日本列島は、日本人に特別な幸運を用意してくれていたのである。

 この続きは次回に送るが、少なくともこれ以降の丸々1年、全ては無駄であった。
 ルールというものを悪用し、どんなに酷いことになっても改心しない自爆テロ非国民犯罪者政権があって、それに対して日本社会の現場各々がルール順守のお行儀に徹するはいいとして、おんなじ土俵からおんなじタマばかり撃ち続けて、経済活動とまるで乖離した『言ってるだけの情報戦』をひきずっている状態が今である。
 1年ですよ1年。そりゃ1億2千万人の全員が隅々まで飽きるだろうよ。

 険悪に飽きた巨大な組織生命体・日本国は、たかが人間の決めた情報ごときに照らしてどれだけ正当性を主張しようが、憂さ晴らしの強大な社会潮流を作り出し、そうなったらもう誰も逆らえない。止められない。
 組織の不機嫌を甘く見てだらだら『お願い』ばかりしていると、どんなに真面目な正義のヒーローも『組織の自我と腹を割って対話できない勘違い野郎』として、大衆の大波に呑まれていく。善悪問わず、リーダーシップをよく理解している人間は、その行きがかりにならないよう気を付けているものである。

 この『ルール破ってゴメンナサイ!』には常識的に考えて十分な波及力があると思う。みんな賛同するぞと直感できるなら、その通りみるみる同調の輪は拡がっていくだろう。まあ見てましょうや。
 日本列島の森羅万象、物事の自然な流れに沿わない思惑や議論は無駄に終わるのだ。ちょうど良い学習機会なのかも知れない。では引き続きの御幸運を!
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【957】法治社会絶対支配者の救命換気術 [ビジネス]

 前回から引き続き、日本社会の現状ウォッチングに関する話題から。
 日本社会は、一部の自称・上級国民と圧倒的多数のなりゆき下民で構成されるワケだが、『上級国民の言った通りに全体が動く』という根本的な勘違いが双方にあるのだ。

 正解は『組織の自我が思った通りに全体が動く』のであり、あとはどこの誰・どんな部分集合の社会層であろうが、所詮は『組織の自我に抗えず、ただ言ってるだけ』にしかならない。
 以前にも述べたと思うが、『法治国家社会は法律文言に示された日本語内容に誰もが従う』のではなく、そもそも『国家組織が幸福であるためにああしよう、こうしよう』という概念がまず生まれ、それを手段としての法治社会で実現しようとするから、立法して法律ができあがる。この順番を間違えてはならない。

 何事も、現行の法律を大切に、きっちり守っていくことが前提。それはその通り。
 現行の法律も、組織の自我が以前『これでよし』と判断したからこそ現存する。
 これに徹するなら、日本国の法律に則って上級国民が『コロナ死ぬ死ぬ』と言い続ける限り、思考停止で日本国民の全員が『コロナ死ぬ死ぬ』と言い続けるのがスジである。その理屈は立つ。

 だが、その『コロナ死ぬ死ぬ』一斉服従により、飲食業界を始めとして全・経済活動が通常の採算稼働で維持する生活を失っているのだ。効力も安全性も保障できていない妙な注射を、国民ニーズをわざと確かめないまま手当たり次第に打って税金払いにツケる狂乱政策も野放しになっている。
 日本国憲法に定められた『健康で文化的な最低限の生活』が国じゅうで蹂躙されている訳だが、ここに『現行の法律の順守』という規範意識が、もっと上位の法律に抵触している位置関係が理解できるだろうか。

 いま何より我々日本人が考えなければならないのは、日本国組織の最大多数=組織生命体の本体が『コロナ死ぬ死ぬ』で致死性の重症を負っているという現実だ。
 日本国組織は『早く日常稼働を取り戻して、元気で幸せに暮らしたい』のであり、この組織の自我の思う方向に物事は展開していく。誰も逆らえない。
 ここで私なんぞがチンケな解説めいた言論をやろうがやるまいが関係なく、1億2千万人日本国組織は『コロナ死ぬ死ぬ』には険悪に飽き尽くしており、この超巨大生物に何を持ち掛ければどんな反応を返してくるのか、その心理状態は誰の手からも離れて、もうどうしようもなく決まっているのだ。

 さて、そんな日本社会の現場の現状としては、あっちからこっちから損得都合やくっだらないチカラ関係で『動くな』と禁じられたり『ちょっとぐらいなら構わない』とそそのかされたりして、要はどうでも良くなっている。相当キツくなっている日本人でも、さすがというか純粋にお行儀として規律に従う気持ちは残っているが、今それをやって幸せな社会生活が守れて納得しているとは到底思えない。
 そんな惨憺たる社会空間で、誰も信じていないのに自称・上級国民の稚拙な世論操作の情報だけが独り歩きし、でっち上げの大嘘を繕う三文芝居が現場の負荷に化けて、損害を出し続けているのだ。
 ここでのポイントは、日本社会の自我がゆめゆめ信頼しないような偽造ハリボテのクズ情報が、あたかも信憑性のある公共通信であるかのように、報道を装って流通してしまっていることにある。

 昨今『一酸化炭素中毒』という言葉を聞く機会が随分と減ったが、昭和の時代かなり身近な事故だったのを思い出す。
 ガスにせよ灯油にせよ木炭・石炭にせよ、絶えずふんだんに新鮮な空気を送り込んで、十分な酸素を燃料と一緒に燃焼反応させてやらないと『不完全燃焼』に陥るのは御存知だろう。まあちゃんとした普通の燃料が完全燃焼していれば、燃焼反応で発生するのは二酸化炭素CO2と水H2Oで済むのだが、これが不完全燃焼になると一酸化炭素COが発生してくる。

 小学校時代の担任の先生が授業からの脱線雑談で【458】、大学時代に学生仲間と閉め切ったアパートの一室でこたつ鍋パーティをやったところ、このCO中毒に見舞われたのだと話してくれたものだ。
 ふと気が付いた時には全員『はっきりしていたつもりの意識が実は朦朧としていて体が言うことを聞かず、既にいくら頑張ろうとしても力が入らず立てない歩けない』という状態に陥っており、死の恐怖に怯えつつ僅かにでも動いてくれたその身体に死に物狂いで鞭打って、文字通り這う這うの体で扉を開けて間に合ったのだという。飲んでいたにしても前触れがまるで無かったから、君たちも気を付けろよと。

 人間は呼吸により酸素O2を摂り込んで、食い物の栄養分を燃料にした燃焼反応によりエネルギーを得て生きている【849】
 血中のヘモグロビンが酸素O2と結びついて血流に乗り全身に行き渡るのだが、一酸化炭素COには酸素よりも優先的にヘモグロビンと結びついてしまう性質があり、つまり全身の諸機能が酸欠で停止してしまうのだ。だから痛くも苦しくもなく穏やかに機能停止が進んで、途中で気が付いたにしても動くに動けなくなって死に到るという事故モードが多発するのである。気を付けましょう。

 今の日本社会は、まさにこの状態なのではないかと思うのだ。
 いつも誠実な報道が流れて、社会組織が正確な現況を認知する。そんな社会稼働力となる『情報』の代わりに、社会の原動力の生成原理を狂わすような別のウソっぱち・クズ情報ばかり流通させてしまい、日本社会組織の隅々までが動くチカラを失っている。
 流通情報が腐ると組織が病む。このままでは冗談でなく死を待つばかりだ。

 冒頭のハナシに戻ろう。法律も所詮は『情報』に過ぎないと気付くべきだ。
 もちろん人類文明としての法治社会の機能的価値を御破算にしろとは言わない。『法律なる情報』が作られた、その生成原理の目的意識まで遡って、何よりもまず『生命活動の基本に忠実になる』という大上段の生存本能を普及させたいと思うのだ。

 そのための特別な眼力など必要ない。皆が支えて皆で棲み分ける日本社会なのだから、各自現有の視点と問題意識で、この社会運営を堂々と評価して大丈夫である。誰のせいだ?どいつが悪い?
 …ってことで続きは次回に送りましょうかね。ネズミたちもびっくりの謎の集団自殺の大行進【624】、いつまでやる気か知らんが、こんな群れ合いが御免な方は頑張って生き残りましょう。では引き続きグッドラック!
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【956】国民的ニッポン・ウォッチング会の参加資格 [ビジネス]

 何かガチ変わり映えのする公共情報が流れたら、視野に入ってくるんだろうよ。
 1億2千万人日本社会がまずあって、勝手に『コロナ死ぬ死ぬ』で永遠に時間を潰していたい特殊な非国民が一部混ざっているから、とりあえず硬直した光景だけ見えているワケだ。もうそれは解ったから、やりたい連中だけでやっててくれれば良いんだよな。

 結論から行こう。
 いや~まあ、国民全員で、もう緊急がどうたらは全部やめて、様子見ましょうや。

 ウィルス感染云々は既に二の次になっちゃってて、まずはナンタラ宣言にウンタラ措置といった行政操作から決まるのだが、そういうのってナニ根拠でどこ発信なのか。
 次に、それと辻褄が合うとも思えないのが悲しいが、新規感染者数がどうたら、重症者数がどうたら、死亡者数がどうたら、医療機関の逼迫度がどうたらの推移がどんな傾向を見せるかだよな。
 まだ飽きてない地方自治体を順番に…っつうか、もう1億2千万人が隅々まで全部飽きてるのは誤魔化し効かないとして、対応慣れしていないところを標的にすれば、そこから新鮮な聞こえやすい悲鳴が上がる効果は期待できるってとこなのかね。
 もう末期症状もイイところ、ウィルス感染の実情は、本当に見るべきものが見えたら、今の時代だしSNSでみんな共有できるっしょ。あんまり戦々恐々の身構えは要らないと思う。
 以上が日本社会の、喫緊とるべき、そして今すぐ可能な具体的アクションだ。

 ガチ真実のウィルス感染現象としては、さすがにまだ1億2千万人もの集団の中で、完全な終焉に向かうところまでのフェーズには到ってないと考えられる。それはそれとしてだ、落ち着いて考えよう。
 とある人間が感染してウィルスがその体内で増殖、これが飛び出して周囲の他人に感染しては行くんだが、これはコロナ騒ぎ勃発当初の感染過程とビタ一文変わらない。別に進化してテレポーテーション能力を手に入れた訳じゃないんだし、物理現象として以前も今も同じプロセスだからだ。
 とすると、もし感染履歴ナシのサラっぴん日本人集団を絶えず横から注ぎ足し続けているなら、かつて大騒ぎをしたあの頃と変わらないペースで今も新規感染者が増えるはず。これを思考の起点とする。

 さて、これまで公共空間で大衆が交錯する経済稼働に対して、社会的規模で強制的とされる抑止を何度か入れてきたにしても、日本人の大多数を完全気密の個室に閉じ込めてその期間中を暮らさせたのでもないし、感染経路の徹底遮断には程遠い実情で既に1年半である。もう『一周まわって』どころではなく日本社会全体にウィルスは行き渡り、日本人全員が複数回ウィルスとの遭遇を体験しているのは確実だろう。ウィルスくんが変異したらしたで、そいつらとももうお馴染み顔なじみもいいとこではないのか。

 こんな現実の作動点からウィルスの感染力や致死性が急増して、再び当初モード並の重大社会危機になるハナシがあったなら、もうそれは実際に『いっぺんそうなって、その現実に直面し新たな致死性の危険を思い知った上で、現実起点で的確な対応を選んで、最短時間で命中させる』という展開にするんだよ。
 いっぺんそうならない限り1億2千万人組織の自我が真剣にその気を起こさないし、組織の自我がその気にならない限りは何も起こらないからである。
 不真面目に絵空事を弄んで我を通そうとする腹づもりのヤツに限って、自分都合の勝手な妄想を独走で突走らせ、ありもしない仮定の構図に対応する必要性でもって根拠づける論法をすぐ持ち出す。『予測』には取り合うにしても『仮定』なら却下だ。

 さて、ここまで決まったら、逆にだ。
 今もって『変異株が感染力・致死性を格段にパワーアップ』『今日もまた何人かかった、何人死んだ、社会を止めないと死ぬ死ぬ』みたいな公共情報をタレ流している奴等は、このあと現実が大ゴトにもならず無事に済んじゃったら、お宅らが『シャレにならないウソを真顔でバラ撒いていた』というデマ煽動の事実記録が残る流れにもなるんだが、その自覚と納得は良いよな?

 必ずって訳ではないのだが、突発性のウィルスは理由がはっきりしないうちに姿を消してしまうことがあり【815】【833】、だから『エマージング・ウィルス』と呼ばれたりもする。
 それはそうなのだが、確かちょっと前に感染者数ではなく『死亡者』のカウント数だけ単独で、何故か大阪で急増して、累計死亡者数は大阪が全国トップに躍り出たとか言ってなかったっけ?私の認識違いだったらすまん。だがちょうど今、北海道だの沖縄だの地方の道府県が、新規感染者・死亡者とも目覚ましい追い上げで赤マル急上昇中ってのは間違いないよな。
 これさあ、少なくとも都道府県の相互『人流』が完全に遮断されていて、都道府県毎に誰が見てもすぐ気付くレベルの特徴的な生活パターンが地元個別に顕著に色分けされてることを意味するんだが。そんなコトあり得るのか?
 解りやすく裏返しの側から解説するなら、まず日本列島の『人流』および物流の現実からして、ウィルス拡散経路は日本全国で大差なくキホン一定の傾向の特性=『地域のクセ』を維持しているはずである。ならばウィルス感染の地域マップに、今頃こんな急に目立った地域差のある兆候があちこち顕れて来るはず無いんだよ。
 濃い所は濃い、薄い所は薄い、その他あらゆる傾向はそのままで、減衰するなら減衰する。それだけのハナシである。

 もちろん感染者数vs死亡者数の比率にしても、例えば『世界的に見て致死率バカ高のどこかの国から大阪に多数の密入国者があり、そいつらが地元住民と回し飲みしまくった』ぐらいの原因事実が必ず捕まるはずなのだ。

 そりゃ最低でも何万人単位の母数で、数百数千の検出数だから当然でしょうが。
 『たまたま意外な条件アイテムが見事偶然に揃っての万がひとつの確率問題で…』みたいな可能性はゼロだと断言してやろうじゃないか。統計数値マップにここまで明確に顕れる質と量の現象が、間違いなく対応してかっちり起こっている。
 数字を間違えたんじゃなければ、このあたり何としても解明しないと到底安心できない、分析が死ぬ程タイヘンな未知の現象が新たに報告されたってことなんだけどね。
 ま、立て看板ノーベル賞もいるし、超優秀な専門家分科会が現象メカニズムを解き明かして、理屈バッチリのウィルス撲滅作戦が発表されて日本中は胸を撫でおろし、あとはさすがの計画通り・予測的中で検証を進めながら全てが解決していくのかな。

 チラと見かけたが『IT機器に疎い高齢者を狙った、有料のワクチン優先接種をかたる詐欺』というのがあるらしい。ややこしいな、自爆テロ非国民犯罪者政権が勝手にやっている…というかそのつもりになっているだけの元々のワクチン接種の焚き付けがおかしくて、ここで詐欺呼ばわりされてる有料取引の方が正当性あるんだよな。
 問題は『こんな詐欺に遭わないように、別のヤツが代わりにワクチン申請して差し上げる』という何とも油断ならない高齢者支援?を普及させようとする不穏な空気が漂っていることである。本当に必要なら、これまでずっとやってきた通りに、紙面とハンコで窓口受付やりゃ済むハナシだろうが。受付会場で飛沫と相互接触の応酬を避ければ十分に現実解になるだろうがよ。
 なんで詐欺の発生だけ吹聴して『お年寄りになり代わって誰かが申請操作する』解決策に話が飛ぶんだ?なんか危ねえなあ。

 かなり以前から1億2千万人日本社会は一枚岩には乗っかっていない。
 『下民を利用して安泰に暮らそうとする自称・上級国民』が文字通り世間知らずに飽きず懲りずこんなことばかりをやりたがり、対する『ウソとデマで生活を奪われたまま険悪に飽きた下民』と二極分裂している。
 それらふたつの組織の数量差は、まあ誰もが普通に想像する通りだ。人類文明としての『法律』という社会規律のルールを守っておこうと、今のところ皆が思っているから、日本社会は今日も平和だ。立法・行政・司法を横断してウチワ結託した『上級国民意識』みたいなものが『平和に』横行する背景には、結局のところそれを咎めず存在してしょうがないと調子を合わせて従ってきた『下民』意識がある。

 冒頭の一言に尽きる。緊急ナンタラは一旦全部やめて、我々日本国民全員で『現状把握から慎重かつ丁寧に進めていく』必要があると思う。
 真実は個人の思惑ごときに従わない反面、突拍子もなく道理に逆らって転がる心配も無用だ。逃げも隠れもせず、消えてなくなることもなく、ただそこで現実を展開するのみである。
 日本列島の湛える森羅万象が向かう方角、まず腹を据えてこれを確かめるが吉だ。案ずるより産むが易し、御幸運を!
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【955】旧『ハダカの王様』視聴者層のスマホ接続先 [ビジネス]

 とうとう生理食塩水のお注射まで出て来ちゃったか。ひどいハナシだな。
 ワクチンとやらの薬物を、生理食塩水で薄める作業を間違えたんだとか。

 誰に『スカ』を打ったかは判らんしもう知らんって、オマエら税金仕事で国民に医療処置をやってそれで済むとでも思ってんのか?これ複数件出てるし、間違いなくその目的意図でわざわざに作って実行した『食塩水接種』だね。ナウこれから打とうかっていう薬剤をその場で希釈するって、どんな管理のボロいDIY注射なんだよまったく。
 さあさ皆さん、死病コロナ肺炎がどお~しても心配で夜も眠れないようなら、おうちで少々の食卓塩を水に溶いて飲んどきましょ。血液や汗が口に入ると塩分を感じるが、濃すぎず薄すぎずアレと釣り合う濃度の食塩水は人間の体液と相性が良く、医療作業の水分用途としてごく普通に使われる。
 自家製アバウトのワクチン飲料ってワケだが、そこらのスポーツドリンクの方が味が整ってるし、あとで喉乾かないかもね。まあこれなら副作用も心配ないし、お好きなだけ御自由に。

 もう今般のコロナ感染騒ぎになる遥か以前から急速に顕著になってきている傾向だが、世論操作を目論んで流される公共情報の質が底なしで低下の一途だ。もはやガセとかデマのレベルでは済まない。
 『コロナ死ぬ死ぬ、ワクチン打て打て』に飽きてしまった1億2千万人の超巨大組織に向かって、その組織の自我の心情に直面せず、まだ日本社会で居場所があると勘違いしている世間知らずが、この期に及んで尚も『誰かが真に受けてくれるはずのテイ』でやっているから…というのが直接の原因なのだが、このボロい構図にもまた、そんなことになる原因がある。
 なお一定数の取り巻きが、そのテイを受けて本当に調子を合わせ続けるからだ。

 物事の行方を決定づけるのは『組織の自我』である。
 何が正確であり真実と判断するかをまず『組織の自我』が決めて、それに応じて、その組織で生きていくために個々人が判断を決める。この順番だ。
 組織の自我がいったん腹を決めたら、その判断に従って組織の物事は動く。個々人や下位組織の声などまさに『言ってるだけ』で、日の目を見ないままぶつぶつ続くゴマメ雑音にしかならない。
 お、そうだ。ちょいと込み入った理屈ゴトの方は、何なら次回に押し出してしまうとして、先に判りやすい日常経験則の事例から入るか。何しろ日本人は、世にも特徴的な民族性のレベルで『調子を合わせて群れを成し、組織の自我にモノを言わせる』という行動パターンが好きだし得意なのだ。これが様々なスケールで顕れる。

 まず子供時代に誰もが必ず目にするじゃん。
 そこそこ目立つ『仲良し何人組』みたいなグループがすぐ自然発生して、自分らの流儀になびいて調子を合わせて来るか来ないかで、これ見よがしに優遇・冷遇の差をつけたチームワーク対応を繰り返す遊びだ。馬鹿な大人が使いたがる痴呆語『いじめ』の割と代表的なパターンのひとつだよな。
 子供たちがすぐこれをやりたがるのは確かで、学級など大枠集団の中で、自分が重視され自分がやりやすい特別な小集団ができると、優越感は満たされるし時としてトクもできたりすることに気付くからと思われる。
 少し悪知恵が付いてくると、作戦として周囲に働きかけ、まあそこそこ納得して収まる連中とウチワ組織を意図的に構築し、おとなしい標的を傷めつけることを覚えてくる。本来40人ほど集まってみんな思い思いに楽しく過ごす学級という大枠基礎社会の中で、そんな加害vs被害関係があるのは理不尽でしょってことで、まあ被害者を助け加害者を叱ってやめさせるという教育概念があるんだよな。

 実は『組織の自我』にとって、人の説く正しさ美しさなど知った話ではない。
 何人かが調子を合わせて過半数が方向性を一致させる集団ができたら、そこにその性根を持った組織が生まれる。上述の組織の中では、おとなしい標的を見つけては結託して加害し、皆で被害者をイジるのが『自然』なことなのである。
 子供たちは子供社会の中で、もう『人間の組織の生来特性』を学び始めているのに、馬鹿な大人どもが『倫理道徳で語られるタテマエ美学の順守義務』としてしか、子供に指導できていないのだ。

 そもそも子供時代にそんな是正操作の教育を受けた大人は、直ってるのか?
 答はもちろんNO、それどころか私の知る限り、学校のセン公業界こそ『閉鎖性サル山文化』の有名事例だったりする。
 教育委員会にしてもガッコひとつにしても、いわゆる『ドン』格と、ドンを取り巻く家来どもが箱庭小組織をガッチガチに固めており、例えば風土改革を狙って新進気鋭の元気者を投入したのに、手酷い嫌がらせでいびり出してしまったという話は複数聞いた。さすがに全部が全部そのパターンなのかどうかまでは確かめてないけれど、その方面の関係者なら似た話を知らない訳ではないんじゃなかろうか。
 初出勤してみたら朝の会議の席が無いなんてのは定番あるあるの洗礼、会議の資料は自分だけ届いてないし、もちろん出退勤記録に始まる事務処理も全て職務放棄式に拒否される。どこで何を言っても無視されるわ、会議は問題提起と無関係な議論しかやらないわ、もうその場にいる時間の全てがウチワ箱庭サル山帝国の鉄壁デモンストレーションなのだという。
 ポイントは、機能的組織において業務を分担している職員同士としての立場そっちのけで、『いいオトナ』というにも歳をとり過ぎたような連中が、子供時代と同じことをやっているところにある。いっそ子供回帰の『誰それちゃん好き嫌い』で済めば良いのだが、大人はサル山帝国の結託ツールとして業務アイテムを持ち出してくるから始末が悪い。
 ただの爪弾きとは異次元の徒労感・空虚感が常人の執務意識の限界を超え、だから教職員業界に特有の風土は、素材としての人間を苛酷に消耗させ、新風による浄化を締め出して腐っていくのだと。むむ、不祥事の起き方もその後の展開も見る限り確かに…

 よく考えたらガッコって凄いよな、そんなに歪んだ大人のコミュニティが清く正しくを決め込んで、上から目線で『いじめはいけません』とか言って来るんだからなあ。
 気付いてないのは馬鹿な大人だけで、子供たちはそのへん全部お見通しだから、まあ面倒臭くならないよう大人の目に触れる面だけ取り繕って、裏では『社会なんてこんなもの』として散々チカラ関係で暮らしながら卒業していく。
 役所組織に、法律も基準もお構いなしの非・生産的人治体質が根深く残り続けるのも無理はない【894】

 あーやっぱり本題の理屈に行く前に結構な分量を喰っちまったか。
 ガッコや役所を引き合いに出しちゃったけど何のことは無い、古い体質の会社で派閥闘争に暮らすサラリーマンはハイハイなるほどと頷いているはずだし、以前に田舎コミュニティの政治利用について扱った自治会のハナシ【931】なんかも含めて、ママ友の間で似たようなお付き合いが現在進行中になっている主婦だっていないとは思えない。
 そのくらい日本人の民族性、日本社会の組織体質として染み付いている現象なのだと理解しよう。ま、『組織の民』ですからね。みんな大好きウチワ箱庭、収まって安心のサル山フォーメーション。

 そして『組織』は性善でも厳格でもなく、物事の自然な流れとしての、その時その場の日本人個々人たちの心情を、ただ反映する。

 この期に及んで余談だが、いわゆるオタクちゃんや友達少な目のぼっち系などは、こういった閉鎖性の権力枠の場とは生存空間を区別して生きており、自分の人格意識を自由に好きなように遊ばせる楽しさが勝っているタイプだったりする。
 自分の時間をかけた是々非々の頑丈な自律基準で、むしろ外から『組織』と対等のスタンスで組み合う素質を備えた人材だとカウントしておくことを勧める。お仕着せに飽きるより先に、独り遊びで自らの行動規範をアップデート・アップグレードしていくので適応性・進化性の起爆点としても面白い。
 バブル期なんかには社交性の自己アピールとして携帯電話に登録した『友達』の数を競うような滑稽な意識文化も見られたが、いまスマホを相手に自分至福の情報空間への接点を個別に約束されたデジタル・ネイティブ世代には、いい意味で群れ合い・馴れ合いの日本人気質が廃れてきているように思う。

 まあいいや、続きは次回以降に。とにかくみんな、そろそろ気分転換しないとね。
 まずは飽きたからって投げちゃダメで、面白くしましょう。それではグッドラック!
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【954】放火魔になれなかった詐欺師の末路 [ビジネス]

 さて、結構ほったらかしていたが、コロナ感染状況および日本社会がそれに向ける意識には、予想通りこれといった有意の変化は無い。あれこれ変わっているのは『コロナ死ぬ死ぬ』の一部その目的のある架空言論域内だけの、人為的な騒ぎの方だけではないだろうか。あんまり知らんけど。
 私としては、この日本国で都市封鎖なんぞやらなくて良かったと思っている。
 必要なかったもん、結果論として。もちろんこれからも、金輪際やる必要は無い。

 記憶力を備えた生命体である以上、組織は飽きる。
 犬猫や鳥が飽きるのを見ている人は多いだろうし、何より我々人間が飽きる。
 あの精神状態も、それが行動に顕れ出る反応も、生き物みんな同じだ。

 何かに飽きるとは『関心に値しないと確認済』、この一言に尽きる。
 良いことも悪いことも、楽しいことも辛いことも、自分の身の振りの展開に影響があるかどうか、更には今は何でも無いが今後に影響する可能性があるかどうかまで含めて、最初それらは『気になる関心事』として意識に飛び込んでくる。これが時を経て『飽きる』という精神状態に移行するのだが。

 過去トピック『ジブン感という主観の概念の正体』を思い出していただこう【938】
 当人固有に書き溜めた記憶情報がまず意識の中に用意されている。
 次に、生きていて現実と向き合い、それをナウどうさばくか決める判断をする。
 そこでは『五感で認知した感覚入力vs過去の記憶情報』をリアルタイムで整合しつつ、おのれの身の振りの正否判定の処理フローが走っている訳だ。さらにそれら一連の情報処理過程もまた、ドラレコ式に常時記録されていると。
 この判定処理と記録書き込みこそ『ジブン感=主観』なのではないかと述べた。

 既に処置方策の確定した出来事が代わり映えもせず繰り返されると、この主観が現実をナメ始めるのだ。今やっている一連の作業をもうひとつ上の階層から俯瞰するスタンスで、『ああ、次に遭遇する現実もどうせ同じにしかならないよな』と類推予測するんだろうが、とにかく目前の直接作業に対して、素直な注意力をもっての情報処理フローで稼働することをやめてしまうのである。
 恐らくは、生物がひとつでも多彩な経験を積んでパターン性のある行動を広範囲に習得し、効率よく生存しながら進化の可能性を高めるには、この作動特性が強かったのだろうと思われる。
 つまり標準作業や定番業務での『見過ごし・見落とし』『うっかりミス』なんかは、気の緩みだとかタルんでるとか、疲弊や鍛錬の概念で扱うような『精神力』の不足によるものだけではなく、もっと生物学的・脳科学的原理ゾーンの情報処理精度に原因があるはずで、故に手強い。

 再度、社会組織も生物である以上は飽きる。
 本当にはずせない組織稼働があって、それを実現せねばならないのなら、『組織に飽きられないため』ただそれだけを目的にした工夫も必要となる。例えばだ。

 もはや『新型コロナ』という表現では指し示せないくらい、比類なき変異に変異を重ねて異質の未確認ウィルスに変貌しており、それが当初に比べて格段に致死性の高い凶悪な病原性を持ち、今なお日本社会で次々と新たな感染者を発生させていて、重症化病棟は息も絶え絶えの患者で溢れ返っており、医療崩壊により取りこぼされた自宅療養者には、20代30代で苦悶しつつ絶命する犠牲者も続出…とまあ、ガチそんな社会危機に陥っているならば、これは手段を選ばず感染経路を全て断絶せねばならない。
 今たまたま日本中どこを見渡してもそんな光景が微塵も視界に入っては来ないのだけれど、そりゃ簡単に誰もが想定して見に行けるようなところなら、とうの昔にもっと大勢が気付いているってことか。
 この日本列島の一角あるいは複数箇所で、恐怖の殺人ウィルスが死病パンデミックを起こしながら日本社会に牙を剝いている、その阿鼻叫喚の先にある国家破滅の真相に1億2千万人は気付きもしない。

 そんなハナシだよね、地方で次々『緊急事態宣言』とか抜かすシナリオだと。

 今いちいち何がどこまで正しいのかはともかく、日本国の運命の真相が上記の通りだとすると、日本国民の生命を守るための国政は、もう一刻を争う強権発動の局面にいるはずである。
 この1年半の国政の途中経緯が適切だったかどうかは一切不問に伏せるとして、とにかく1億2千万人日本国民が飽きた。飽きたがために、死病コロナ肺炎に対する恐怖感も、社会全体で協力してそれを撲滅する使命感も、もうガタガタのユルユルになっている。これを叩き直さないとナニも始まらない。

 いま国政が直面している問題の本質は『飽きた日本国に、手段を選ばず真相を正確に認識させ、本気を出させる』ことであり、もう随分前から飽き飽きになっているナントカ宣言だのウンタラ措置だのの御大層な発令なんかでどうこうなるもんではない。
 言ってしまえば『人流』とやらが多すぎて気になる休日の繁華街や、混雑が戻り始めた通勤時間帯の交通要所に自衛隊を立たせ、人々に銃を突き付けて『家に帰れ』と命ずるぐらいには徹底しないと、飽きてタルんだ精神薄弱者の現実を顧みない行動により、日本全国が死病コロナ肺炎で滅んでしまう。国家存亡の危機、まさに緊急事態なのだ。

 現代版『稲むらの火』でも考えますかね。
 大地震に見舞われた直後の海岸近くの村のこと、皆すっかり忘れていたなか津波来襲の言い伝えを憶えていた男が一人いて、山を上がったところにある自分ちの田んぼの刈りたての稲に放火した。他ならぬ大切な収穫物の火事のこと、村人たちは何もかも放り出し総出で消火のため山に駆け付けたのだが、すっかり留守になった村を津波が襲って来て村人たちは命拾い…という、割と有名な教訓含みの昔話である。
 以前にやった『クライシス・コミュニケーション』【909】【910】にも通ずるのだが、なかなか思い通りに制御の効かない社会組織の危機意識をいざという局面でうまく動かさないと、避けられたはずの大損害を喰らってしまうということだ。
 『稲むらの火』の例では、生命や生活を脅かす大損害のきっかけを敢えて意図的に山に放つことで、そちらにタルんでいた仲間たちの関心を集中させたのである。

 それこそ自衛隊が出動して、出勤や外出を強行しようとする連中に実弾で発砲でもしないとダメなんじゃないすかね、こんだけダレダレの危機感の甘い社会風潮では。せっかくの特殊設備も訓練も、希望者もロクにいないのに得体の知れない薬物注射の大型会場だけ設置するからそこに出て来いだなんて、無駄遣いもいいとこだろう。
 不特定多数の誰にでもワクチンとして接種できるようなウィルスの無毒化・弱毒化はゆめゆめ簡単ではない。日本国民は現状の国政を見て、こいつらが事後万一の健康被害に責任を取れるかどうか考えてから、何がどれだけ効くのか知らんが、面白そうなら御自身の腕に注射してみてはいかがだろうか。

 社会のルールなりに、いろいろ発言や行動に制約がかかってしまうとされる窮屈な社会的立場は多々あると思うが、たかがそんな『決め事』になんぞ一切関係なく『社会組織は飽きる』、これを忘れてはならない。
 やむなしの真面目に徹するとこうなる、それは最初みんな理解する。
 好意的に受け止められ、道理に適った物事の展開も約束される。
 だが事態が閉塞したまま頑なにそれだけを続けていると、無情にも飽きた組織は心象を変えてくるのだ。社会組織というのは、げに恐ろしい生物なのである。

 人生を賭けた大事な会社やお店を失うような目に直面している人たちが大勢いて、そんなつらい気持ちがたくさん混ざった日本社会の組織の自我が、いま険悪に飽きてきている空気感が心配だ。みんなして、できるところから気分転換を図らないと。
 この穏やかならぬ日本国の心に面と向かって腹を割って、現実的に会話する形で応えなければ、いずれ1億2千万人の集団が社会組織でなくなる日が訪れる。
 まずはしっかり生き残りましょう、御幸運を!
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【953】二輪版バックシート・ドライバーの相性診断テスト [ビジネス]

 いかん、単車ネタを畳もうと思ったら、大事なことをひとつ書き忘れていた。
 連休も終わった後だが、出前のバイトはまだまだ減っては来ないだろうし、いっそもう一回やってしまうかな。

 自動二輪・スクーター問わず、跨らずに二輪車のエンジンをかけてはならない。
 操作できないまま車体だけ思わぬ暴走をさせてしまう恐れがあるためで、一般的には手軽とされるスクーターの方がむしろその危険度は高い。

 走って来て停車したら、スタンドを出してキーOFFする。ここまでやって降りる。
 そして必ず跨ってから、キーONしてエンジンをかける。
 これについては、今は殆ど見ることの無くなった人力キックによるエンジン始動の方が安全確実であった。昨今じゃ単車もキーレスがあるそうだが、このあたりどういう制御になっているんだろう?

 自動二輪もスクーターも、右手グリップを手前に捻り下ろす動きにより加速操作を行うのは御存知かと思う。
 見るからに運転が危なっかしいヤツに限って、不用意に跨らずにエンジンをかけるし、エンジンのかかった二輪車を横から押し引きしたがるから怖い。これに関しては『死ぬぞ』と言うより『殺しちまうぞ』のシチュエーションの方が多いんだけどさ。

 中空ゴムタイヤで走るラジコンカーを知っている方なら、見たことがあるかも知れない。車体を地面から持ち上げて浮かせた状態でタイヤを空転させ、そのまま回転を上げてやるとタイヤの直径が遠心力で膨らむのだ。まあ当然っちゃ当然だよな。
 では鮭缶を空けて、その空き缶をタイヤに被せる位置で手に持ったとしよう。
 回転が上がると鮭缶の中でタイヤ径が膨らんで空き缶の内壁に圧着し、空き缶がタイヤに引きずられて回されることになるのは理解できるだろう。これが『遠心クラッチ』の原理だ。
 もちろん実際の遠心クラッチにはゴムタイヤなんかではなく、半・円筒状の摩擦シューふたつ一組が仕込まれており、エンジン軸の回転が上がると遠心力によりバネ反力にうち勝って、これらが直径を拡げる方向にせり出して外殻ドラムに内側から突張る構造になっている。スクーターは洩れなくこれだ。

 ポイントは右グリップを捻っただけでエンジン回転が上がり、自動的に後輪が駆動され走り出すというところにある。また左レバーを握る操作でクラッチを引き離して動力の接続を切る自動二輪であっても、左ペダル(=ギアチェンジ)に何か引掛けるとか間違えて蹴飛ばすとかすれば、入る時には簡単にニュートラルからギアが入ってしまうから、そうなったら事情は同じだ。
 二輪車に制動をかけて停車するのは、乗車姿勢からでないと無理だと肝に銘じておいて欲しい。横からでもブレーキレバーが引ければ、ブレーキペダルが踏めれば止められると思ったら大間違いである。車体が飛び出した途端に開放になる。

 これに対して右グリップを握ったその瞬間、人が乗っていようがいまいが二輪車としてはいつでもエンジン全開になり得るのだ。飛び出した車体がすぐ倒れるなり何かにぶつかるなりしてくれればまだ良いが、そもそも乗って普通に走るようにできている以上、条件さえ揃えば無人で突走ってしまう。
 だとすると三輪スクーターなんかは特に注意せねばならないのがよく解ると思う。むしろ簡単お手軽のイメージが強いだけに、思わぬ事故を起こしてしまわないよう重々注意されたい。

 あーもう、ここまでやっちまったついでだ、出前ビジネスとはあんまり関係ないのだが、怖い目危ない目をする前に知っといた方が良いハナシをまたひとつ思い出しちまったので、ダメ押しの一発を行っとこう。

 一般的に自動二輪は定員2名、つまり公道上で二人乗りが可能である。もちろん後席の乗員には免許も何も必要ない訳だが、実は後席乗員が二輪車の旋回特性を解っているかどうかで、運転する方にとっては乗りやすさが全然違うのである。
 端的に、自動二輪を知らない人が後ろに乗ると、思いのほか車体が旋回時に深く倒れることに驚くのだ。自転車とは完全に異質の感覚であり、深い角度で後輪を踏ん張らせて遠心力を受け止めるチカラの釣り合いの物理的体感に戸惑い、スリップダウンが怖くて身体を倒せずつい頑張ってしまう。
 だが後ろでこれをやられると、運転している方は車体が倒れないので後輪のキャンバースラストが発生せず【875】思った通りの旋回半径を取れずに大きく膨らんでしまうのである。これはこれで、運転者にとってかなり怖い。

 単車のシートには前席と後席の境目に頑丈なベルトが横一文字に張ってあり、また主にテールランプやターンシグナルを縁取るように金属製のバーグリップが走っているのが普通だ。後席乗員は片手でベルト、片手でグリップとして、自分の前後をしっかり握るのが基本である。もっとも昨今、後ろで持つところの無い単車が増えてる気がするんだが、何とかならんのかねメーカーさん?
 まあどっかを持つとして、これで最初の恐怖感を乗り越えてそのつもりで車体を倒す操作を何度か試せば、恐らくは誰でもそうそう時間をかけずに後席から旋回操作に同調する乗り方が身に付くはずだ。ちっとも怖くなくなる。
 いったん解ってしまえば何てことはなく、天井知らずに調子に乗るばかりのバカの権化の昭和高校生には、後席から運転者よりも身体を深く倒したりして喜んでいるうち限度を超えてしまい、ステップを地面に突っかけて転倒したりするヤツも出てくると。昔の単車はフレームに直接パイプを溶接しただけのガッチガチ剛結の素朴なステップで、今みたくバネ仕掛けのヒンジで可倒式になってたりはしなかったですからね。みんなバカで丈夫で身体の造りも雑な年頃だったし、大ゴトにもならんかったのだが。

 ま、お互い『ウマが合う』感覚さえ覚えてしまえば、運転をサボれるぶん後席はラクチンだし、私はどっちも楽しくてホント自動二輪は大好きである。

 くだらない笑い話の類はまだまだ無尽蔵にあるのだが、一般向けの単車ネタはこのへんで一段落にしておこうか。閲覧数が意外な勢いで伸びたのが思わぬ発見であった。
 きちんと心得て乗るぶんには危険でも何でもないが、逆にその心得が無ければただの危ないだけでは済まないくらいの失敗につながる。それが二輪車だ。
 基本操作を教わって試験課題をクリアし誰かに許可をもらっただけでは、一般交通が縦横無尽に交錯する空間を自由に飛び回れる『社会性』がまだ全然カラッポなのであり、乗って楽しいも配送バイトで稼ぎまくるもそこが人並になっている必要があるので、ちゃんと意識して習熟しましょうというハナシでした。

 この出前ビジネスの盛況が、いつまでも続くと思っている人は多くはいまい。今だけ一時的にお店で来客を待つ通常の業態の飲食店がたくさん滞っていて、その代替策として分は悪いにせよ出前形式で当座を何とか凌ぐため、こんなことになっているだけだ。注意一秒で一生モノの怪我をされませんよう。
 こんな世相になっている根拠がどの程度のモノかは御覧の通りだ。失敗すると後悔しますぞ。ではくれぐれも安全運転で、グッドラック!
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【952】車輪数別ウラ技交通安全の必修テキスト [ビジネス]

 おいおい特定の地域にせよ業域にせよ緊急事態宣言の一部緩和が可能だというなら、国民の生命の安全に引き換えるとして税金を注ぎ込むような全国一律の重大性は無いはずだが?
 まあいいや、せっかく始めた機会に単車ネタをもう一発やっておこうか。

 単車に乗って最初に気づくのは『四輪に比べていろいろ手間がかかる』ことだ。
 自家用車にしろバス・タクシーの公共交通にしろ、ドアから室内に入ったら立つも座るも非・乗り物と本質的な違いは無くそのままでいられる。居間でソファーに腰を沈めたり、ダイニングで食事に対面することさえ叶うなら、走行Gを喰らうだけで何の苦も無く世間の自動車に乗ることができてしまう。
 もっとも、運転する立場だとホントは違う気構えが良いんですけどね【494】

 初めてのヒトが自動二輪に乗っかって何も考えずにブレーキをかけると、車体は停まろうとするが自分は慣性に乗って前へ出るため、燃料タンクの後端が意外な勢いで股間に割り込んでくることに驚くはずだ。これを避けるため両膝でタンクを挟んで、下半身の運動系を車体の系に一体化させねばならない。これが『ニーグリップ』と呼ばれる操作技法である。
 ニーグリップしっ放しでも走れるし教習所はそう教えるけれど、それなりにチカラも使うし、乗り慣れてくると必要な場面だけ膝下を固めれば十分だと判ってくる。

 ここに自動二輪の運転の、四輪の運転との決定的な違いが顕れているのだ。
 四輪は乗った瞬間から特別に意識もせず、乗員と車体の運動系が一体化する。いっぽう二輪では運転者の運動系は身ひとつ単独で空中をかっ飛んでおり、自分がどっちへどう飛ぶかを決めるために、自分とは別系統にある車体を股の間であれこれ切り回して操作し、結果的に自分自身の加減速や旋回を『車体を介した対地の相対運動として』実現するのである。
 だから制動時は膝下を単車に固定し体重を目いっぱい後ろに退いて、全荷重を前輪の接地点に集中させて突き刺すのだし、旋回したければ体重を前後輪の通過軌跡よりインコース側に落とさないとダメなのだ。
 昨今そこらの路上で見ていても、エンジンで走行する無人の単車にぬいぐるみをポン置きしたかのように、頭の動きが路面の凹凸を正直に拾ってしまっている光景をよく見かける。『単車の運転原理を心得ずにぼんやり身を預けてしまっている』乗り方なので危なっかしくてしょうがない。死ぬぞ、ホンマに。

 ちょっとややこしいのがスクーターで、二輪でありながら両足を揃えた食卓着座で済んでしまい、ニーグリップをしようにも股の間に車体が無い。これはぱっと見いエンジン駆動の二輪車でこそあるが、自動二輪の運動性からは単純な引き算勘定で、乗る方も出遭う方も理解しておく必要がある。おまけに原付サイズだと重心位置が高く、小径タイヤの接地面積で受け止められる制動力も微々たるものだ。
 ついこないだ還暦まであと数年となり、ずっと乗り損ねていた大型車に乗りたいと、まさにシニア大型教習を敢行した友達がいるのだが、その教習課程で少しだが原付スクーターに乗せられたそうなのだ。高校生の乗り始めから普通の単車ばかりだった彼にとってスクーターは初体験だったそうなのだが、何しろ下半身で車体姿勢を操作する手段が無いので、恐ろしくてしょうがないと嘆いていた。私も含めて、スクーターを怖がる単車乗りは結構いると思う。

 原付スクーターは自他共々『自動二輪と物理的に別物』と認識を切り換え、道路の左端に張り付いて『いかに安全に速やかに、他の交通を先に行かせるか』に徹するのが基本だ。再スタート後に抜き返されるのが確実ならば、繰り返し四輪と無駄に絡んであらぬ反感を買うリスクを避けるため、交差点や踏切ではむしろ前に出ないことである。
 路上ではいろんな事情によりいろんなペースで走る走行体がいるので、少々大袈裟だが社会組織の動向を窺いつつさばく気分で、お互いに相手をよく見て一期一会のチームワークを成立させるような頭の体操式のコンセプトを持っておくのが良い。わざわざに品行方正の精神規範に磨きをかけずとも、よく言われる『譲り合いの精神』が自然に身に付くのではないかと思う。

 ともあれ『単車は他と異なる走行原理の自動車である』という事実を認識されたい。
 『二輪は危険だ』という通説は、何かあったら自動車級の走行速度に身ひとつで立ち向かわねばならないという点でまず正解。だからそんなことにならないよう一般交通を安全に貫く速度を保たねばならないのであり、そのための知識と技量が叶うなら、あながち危険なものでもない。これが総合的な正解だ。
 渋滞に巻かれる心配も無ければ駐車スペースも圧倒的に小さくて済むし、四輪より安全・便利に運行できる状況は多々ある。活用しない手はないし、そもそも走ること自体に特有の楽しさがある。

 ただ交通事故は軽微な物損で済んでも処理には時間が掛かるし、万が一にでも絡んでしまって出費が発生した場合は、もちろん諭吉さんが何枚・何十枚という単位になるから、日常生活面では被害甚大の特別損失になる。これさえ頭の片隅にあるならば絶対に起こり得ない不注意ミスや暴発型ロードレイジが、今は本当に珍しくなくなった。
 交通事故の場合、ほぼ確実に『あの瞬間に判断を誤った』というコトの経緯と因果がはっきりする。それはつまり、やってしまうと『後悔先に立たず』のパターンが例外なく待っているということだ。どうか割の合わない不運をひっかぶって後悔することの無いよう気を付けましょう、お互いに…ですな。

 因みに、自動運転の交通事故の場合、この『判断を誤った経緯』が事故の当事者の誰にも無いケースが存在する…というか、むしろ多数派になると考えられ、どんな理屈でどう処理しようが未完結感を引きずる事例が社会に蓄積し、これが案外と普及を阻む最大の問題になる可能性がありそうに思う。また回を改めて、いつかやりましょうか。

 う~ん、2回このトピックを続けてきて思うのは、社会組織が成す一般空間には本当にいろんなヤツがいるということだ。その自然な全体作動に従えるかどうかが暮らしの幸福のポイントとなる。
 いろんなヤツがいるだけに、『規則でそうなっているから』という程度の根拠でどうにかなる行動規範の限界はあっけなくも低い。物理法則に従う原理レベルの共有概念を、よく理解して自然にこなせる者が生き残る。そんなハナシでした。

 今日までゴールデンウィークだった方も結構おられたろうが、この経済緊縮態勢で相応の因果が顕れてくるかどうか正確なところの情報を待ちましょうぜ。判断をグズっている東京五輪も大概どうしようもなくなっているが、そのへん含めて議論は確認した現実が起点である。
 率直な現状把握と対応を、現実は決して裏切らない。では腹を括ってグッドラック!
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【951】大遅刻に急ぐ出前ライダーの昭和交通サバイバル心得帖 [ビジネス]

 ホント言うとゴールデンウィークの前が良かったんだけど、気が付いたら過ぎちゃっていたのでしょうがない。まあ季節としてはまだまだこれからのタイムリーな話題だから大丈夫だろう。いや怖いんだって。
 単車の乗り方解説の第二弾である。今からでも出前ビジネスに首を突込んで新米ライダーになる人は少なくないと思われるし、ぜひ気を付けて乗ってください【875】

 『いいがぁーおんめぇら!単車てなぁな、ナナハンでも小さくてナメられんだよ!』
 昭和の終わり頃、大学生協にはツアー会社よろしく夏休み期間中の合宿免許取得プランがずらりとラインアップ掲示されていた。私は自分ちの大学で、東北のとある温泉地にある教習所のコースを選び、3週間の山籠もりで普通乗用車と中型自動二輪の実技を一括で終わらせることにしたのである。
 いま思えばこの選択は大正解であり、都会っ子サラリーマン式に品行方正を自分都合のディベート手段に読み換えたような『ルールを傘に着た傍若無人、社会性そっちのけの俺さま正当性主張』ではない実用交通安全コンセプトに基づいた乗り方を、しっかり体育会系のスパルタ式に仕込んでもらうことができた。
 『中型ならもう路上で一番速いんだから、どんどん前へ出ろ、きびきび走れ!』

 我々教習生のホンダCBX400Fを5台連ねて『いいからまずは付いてこい!外周路では絶対5速まで上げろ!』の一言で、CBXは全5速だからつまり最高ギアまで上げろという指示なのだが、冗談抜きに実にいきなりのスタート、急加速である。単車なんか今日乗るのが初めてだという教習仲間がビビって車体を倒けられず、私の目前でみるみる外側に膨らんでフェンスに吸い付いていった。あーそうそう、確かにこの重さの車体をエイヤと倒すのって最初コワいんだよな~なんて思いつつ、停まって救援を手伝う。
 因みにこの男、数日後に今度は時速40キロから確か11メートルで停まれの急制動で、いきなり後輪をロックさせタイヤの白煙を上げながら大転倒した。こんなの急制動でも何でもねえじゃん、やれやれ教習所でやるぶんにゃ好きなだけやって構わないんだろうけど。

 我々世代にとって中型二輪の教習車といえばホンダ400ccのホークⅡかこのCBXだったのだが、いずれもエンジン表面に細かいフィンを立てた空冷式で、これって構造が軽量シンプルで整備性が良かったりするメリットがある反面、真夏にもたもたよちよち走っているとエンジンに十分な走行風が当たらず割と簡単にオーバーヒートしたものである。『カリカリカリカリカリ…』と異音を立てながらチカラなくへたったエンジンを止めると、『チンタラ走ってるからだ、バガァー!』とか怒鳴られたりもするワケです。
 因みにホークⅡにしてもCBXにしても、その後ひと時代おいてロクでもない改造のカスタムベースとして異常なまでの人気を拍しているのが面白い。あんなもんのナニが好適条件なんだろう?

 教官じきじきに『ここで思いっきり走っとけ、一生ぶんコケとけ!』と散々けしかける始末で、しかし後に一般交通に飛び込んでいく準備段階としては、実に理に適った環境だったと思う。当時、免許取りたて直後の死亡事故数が激増していたとかいう話だったから、その対策が叫ばれ、時代なりにあちこちの現場任せになった結果だったのかも知れない。
 街ナカの教習所に通った大学同期の友達によれば、急制動は30キロ8メートルだし、そもそも教習コース上で3速30キロ以上は出すなとか当時にして言われていたそうだから、逆にそんな『失敗させない』だけの習熟レベルで、よく卒業させて路上に送り出していたものである。死ぬぞ、ホンマに。

 そう、交差点でも踏切でも、単車はとっとこすり抜けて先頭まで出るんだよ。
 よーいドン!でダッシュしたら、もう後続車とは二度と遭わないし遭ってはならない。危険な背後からの絡みを一切なくすため、周囲の交通を常に前から後への一方通行で流し続けることにより自分の身を守るのである。

 いや、ここ最近『単車のすり抜けは交通規則に違反する』とでも言いたげな、それこそ危険極まりない稚拙ちびっこ交通トークを見かけるので、かねてから気になってしょうがなかったのだ。これからの暑い季節なんか、エアコンの効く四輪ならともかく、炎天下に二輪に跨ったまま渋滞に付き合う意味などどこにある?二輪はどんどん先へ行くべきだし、四輪はどんどん先へ行かせてやるべきだろう。
 ただ、確か葉山あたりの海岸沿い134号線がすり抜けできないくらい道幅が狭くて中央分離帯もややこしかったのを思い出す。ああいう道は一旦ハマり込んでしまうと正直どうしようもないので、渋滞しそうな暑い季節に二輪は寄り付かないのが賢い。つらい気候の時期は、そういう苦難に遭わない道にしておく心掛けは必要だ。

 昔は中型二輪=排気量400ccの限定付までは教習所の習得プログラムを消化してクリアすれば取得できたが、それ以上の大型二輪は、単純に技能見極めの一発試験で勝負する『飛び込み』でしか取れなかった。だから私のように、学生時代に限定解除しておかなかったハンパ者には、その後に忙しくなりその機会を失い、400あれば高速は不自由しないし大型車は維持費もかかるし…ってことでそこで止まってしまい、結局大型に乗りたかったが乗れないまま終わっている不完全燃焼の単車乗りが大勢いる。
 後に単車業界のビジネス活性化という社会的な目的もあってか、大型二輪まで教習所通いで取れるようにはなったのだけれど、いま目を疑うのはそこで保証されている運転技能の低さである。

 原付なんかは自転車と同様、右レバー=前ブレーキ、左レバー=後ブレーキなのだが、通常の自動二輪は右レバーが前ブレーキは同じとして『後ブレーキは右ペダル』なのである。つまり右足は右ステップ定位置から離れることは無いはずなのだ。
 だがエンジンのかかっている自動二輪に跨って、両足をブラブラさせながら走る欠格バカの多いことには呆れ返るばかりである。前しかブレーキがかからない以上、運よく直立直進が成立している状態でもない限り、ブレーキレバーを引いた瞬間にフォークが縮み、その揺り返しでキホン左右のいずれかにハンドルが切れて転倒する。決まっとるだろ、この操作原理の体感理解がなぜ身についていないのかが解らない。

 通常の舗装路面の走行速度からは前輪の制動力が主体として『前一点では不安定なので、後ろからもちょいと引張って直進を保つため前8:後2~前7:後3』と言われるのだが、不整地路面や低速域での制動についてはキホン後ろから引張って停めないと、沈んで戻るフォーク反力の挙動が車体操縦の敵になってしまう。いわゆる『立ちごけ』という未熟然とした失態で転倒するタイプであり、当然こんな危険な技量ではすり抜けて交差点で最前列に出ることなど到底ムリだ。自車に接触でもされたら迷惑千万である。

 右足が遊んでいて右側に転倒する危険な失敗モードが自虐公開動画に多すぎて驚く。今の教習所って、二輪免許の取得者予備軍に一体ナニを教えている?
 こんな運転技能レベルの蔓延に合わせ込む形で『すり抜けは違法』なんてことにでもなったら、普通に単車を知っていて自由に乗れている連中が大迷惑もいいところだ。ちゃんと運転できることを前提に、自動二輪はどんどんすり抜けて、路上最速の走行体として、きびきび走るべきである。四輪としては、トロトロウロウロ絡まれると怖くてウザくてしょうがない。

 この御時世だから、生活の必要にかられて二輪の運転を始めた方もおられると思う。もちろん免許があれば乗って処罰されることはないが、ああいう乗り物をきちんと一般交通でさばける技量が自分にあるのかどうかは考えた方が良いと思う。注意一秒ケガ一生、万一の場合『コロナ死ぬ死ぬ』どころでは済まない。
 のっぴきならない事情の運転が四六時中交錯する一般交通の時空間において、幼稚園児のように純粋な安全意識を教科書棒読みで叫んでも、自分の身は守れないのだ。

 この程度の理解すら危うくするような不用意な公共言論こそ、日本社会の劣化を進行させる腐食性の情報公害なのではないだろうか。ともあれ走る皆さんは、この逆境を無事に安全に逞しく切り抜けてください。では交通安全をお祈りして、グッドラック!
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【950】忠犬密会企画のパーティ招集暗号 [ビジネス]

 うん、まあ日本国民の総意で日本社会組織が動き、それに呼応した現象が起こって検知され確認されるんだよ。その現象が時に直接の現実、時に仕立てられた情報として我々日本国民の目に触れる。それらを測るひとつの尺度として、コロナ新規感染者確認数だとか死亡者数だとかがあるワケだ。

 まあいいじゃん。まずはみんなで見てようよ。それ以上、言うことは無い。
 何だかんだで結構みんな自粛してくれてるんじゃねえの?これなら上々だろう。
 『法的拘束力はともかく、仲間がそう決めたから』と積極的に同調してくれる連中がいて、一方『皆がそうしてるから』と日本式思考停止的に同調してくれる連中もいて、そして昨年のうちはまだ本当に病理リスクを認識していたものの、今年は『明らかにガチの病理リスクなど無いのが明らかなもとで、この政策にどんな反応が出るのか』を試しにかかっている連中がちゃんといる。それで結構だと思う。
 もう昨年の今ごろ並に『未知の致死性病原体』としての病理リスクに心底怯えて、それを根拠に社会動向をハラハラ切々と見ている日本人など一人もいないだろう。

 ちょっと前に『役所の職員が、大勢で深夜まで飲み食いしたのがバレる』という事態がやたら連続した時期があったのを、皆さん憶えておいでだと思う。
 全く現実性の無い未完成の行動指示としてだけの国政方針が二転三転して放たれ、そのデタラメっぷりにより社会生活の現場を前に次々と発生する混乱や軋轢を、もう確信犯として『窓口のザコ責任で何とかしろや』と押し付けられ続けた実務層の連中が、遂にキレたのではないかと思ったものだ。

 たんびにその飲み食いの場にいた管理職なんかが主犯格扱いされ『更迭』などと、わざわざの仰々しい処分もされていたけれど、真相は知らない。
 そう言えばこれらに先立って、いっくらクチ酸っぱく注意喚起してもあほの国会議員どもが、都心で飲み歩いて遊んでいる現場を雑誌屋に写真撮られて抑えられていたものだ【923】【927】【932】
 まず最初にこれはこれで、社会の運営側が『自分らで布いた規制を自分らで破っている』という心掛け及びお行儀系の常識の無いこととして、まあ非難もされて当然ではある。ああ、なってないねと。

 当時、既に公共情報なるモノが到底見るに堪えなくなってきていた時期なので、もしかすると私の個人的な認識不足もあるのかも知れないと断るが、それにしてもそんな『柔らか系の非難』に終始するばかりで、すべからく本来的な理系視点の追及議論がスルーされていたように見受けていた。肝心の感染対策の事後処置が何もない。
 どこまで当事者どもが自覚していたのかは怪しいが、あのあたりで『コロナ死ぬ死ぬ』国政構想は、自滅の引金を完全に引き切っていたのではないかと思う。

 いやさあ、ホントに『コロナ死ぬ死ぬ』で医療現場が破綻の危機に瀕したり、効くか効かんかも判らん間に合わせの薬物注射をメクラ滅法で打たねばならなかったりするくらいなら、出席者の感染有無の確認管理もせずに都心の一角で秘密裏に行われた『死の宴会』の事後対応が、たかが叱責や降格ごときで済むワケがないのである。

 事実確認まで含め捕捉された『死の宴会』の現場同席者は一人残らず、そしてそいつら全員の行動履歴を徹底追跡して、まあどこまでが軽微でどこからが濃厚かは知らんが、とにかく接触者もすべからく専用調査棟に数週間は監禁・隔離して、これでもかというくらいまで未感染を確認した上で、事後発症の可能性まで考慮して完全ひも付きで、元の職場に戻す。もちろん毎日何回かは体調の報告を課す。
 致死性の凶悪な感染性病原体が蔓延する社会において、明らかに感染促進の機会を持った者たちが発生してしまったとして、そこからの感染拡大を食い止める手段はこれしかない。去年クルーズ船でやった、まさにアレだよ。知らねえ訳じゃねえだろ?
 別に謝ってもらわなくたって構わないハナシだし、逆に謝ったり反省したりで済むハナシでもない。そんなママゴト関係ねえんだよ、どあほ。
 何にも影響ないことをきっちり確認した上で、今ごろ蒸し返してスマンね。

 『死の宴会』に興じた国会議員や公務員どもが、次々と高熱にうなされ激しく咳き込みながら順に絶命していき、それに続いてそいつらとの接触由来と疑われる都心発の重篤患者の散発が報じられ始めたなら、自爆テロ非国民犯罪者政権にとって言い逃れのできない『不見識と油断の殺人的不祥事』ということになる。ならば。
 『現・与党政権は、もうオシマイだ…』
 そんな殺気立った恐怖感と引責の課題意識が国会と中央役所を席巻し、それこそみっともない限りの『卑怯卑劣な責任逃れ』がバレバレであっても、国民目線で見て明らかな実効対応策があの時ナニか動いていたなら、実は1億2千万人日本社会の見る目は多少なりとも違っていたはずなのだ。
 だが現実は、人事的な処分と通り一遍の謝罪劇だけで、本当に済ませてしまった。

 この程度の先読みが、理屈として関係者の誰の頭の中にも無かったとは思えない。国会議員は票集めを絶対に失敗できない人気商売だし、公務員は自分の人事評価に人畜無害の注記コメントでさえ一文字もつけたくない世界に暮らしている【942】
 つまり自粛期間とやらのストイック生活宣言が何か腹積もりのあるタテマエならタテマエであったとして、『正しいワタシは、心からそのつもり』を演じ切る忠誠心を、せめて自分らウチワ箱庭に向かってだけでも最低限保証しないと、社会的生命線を失うことになるのだ。
 どんな持ちネタであれ自分ピン勝負の生存スキルとして、一般社会に応えられる腕自慢を何か持っているタイプなら良いんだが、大抵はそうでないから『票集めイノチ』や『なりゆき人事評価イノチ』で生きているワケで、故に『自分都合を通用させてもらえる世界で、決め込んだタテマエ演劇に全精力を賭け執着する』というパターンが、このテの人種の指向性の基本形となる。
 そこに生きる人種の基本形がそうならば、その人種が成す組織の過半数がその特性を有することになり、つまりそこに顕れる『組織の自我』もその傾向を持つ。まあ旧来政党の数々も名だたる役所も、まさに御覧の通りと言ったところか。

 だが、バレるバレないはともかく『死の宴会』なんぞの開催を決行している段階で、最初から『コロナ死ぬ死ぬによる日本社会の全停止』の操作コマンドを出している発信元に対して、アピールMAXの忠誠で一番乗りに応えて生き延びようとする動機が微塵も認められない。
 さしずめ国会議員なら『あーあ、この政権体制、完全にダメだわ』、役所なら『こんな国政の実務措置なんぞ請けられるワケねーだろが』みたいな、尽々やってられない現状放棄の空気の蔓延が感じられる。だからこそ、その後かなり締め上げたり揉み消したりに念を入れたと見えて、割かしぴたりと収まった雰囲気なんだよな。
 だが一連の出来事を眺めていた1億2千万人日本社会の自我は、もうこの空気を十二分に吸った。

 例年行楽で賑わうゴールデンウィークが、日本社会の我慢の示し合わせで静かなものになっているのは去年も今年も同じ。しかし去年は『本当に死ぬかも知れない』という切迫した恐怖感が大きな要因であったのに対して、今年はそうではない。

 まあ来週が明けてナニガシかの事態が明らかになったら、その原因がどんなもので、だからその先をどうするのかよく検証することにして、今は妙な吹き込みの無い『素の日本列島の空気』を、胸一杯に吸っておくのがよろしかろう。そもそも、こんなことにでもならなきゃ『何もしない』時間を心穏やかに過ごせる空気でもなかったのが、不況に低迷を続ける日本社会だったのだから。
 ゆっくり待つのが最短最速の作戦だったりする時もある。力を抜いてグッドラック!
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