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【866】『奇跡の島』滝行の正気回顧タイム [ビジネス]

 相変わらず大雨の被害が続いており、現時点の日本の経済シーンのみならず社会総観規模の長期ダメージが心配だ。
 私自身、これまでの人生で特段に風水害の厳しい地域に住んだ経験は無く、実際家屋の浸水被害や自家用車の水没など喰らったことも一度として無い。所詮はそんな立場の感覚でしかないのだが、10年ちょっと前あたりから『台風でもないのに』『ただの(?)集中豪雨で』甚大な被害が出るニュースが段付きで急増し、それがそのまま常態化してしまったような、そんな直感的な記憶のイメージがある。

 これがイメージ通りの災害記録でぴたり裏付けられるかどうかは置いといて、その10年ちょっと前に私の頭の中で象徴的になっている本州西端付近の事例においては、割と新しい高齢者福祉施設が土石流に襲われ、そのあと何件か同様の施設が類似の被災をするケースが続いたのである。
 高齢者福祉施設の受け入れ枠が絶対的に不足して問題になっていた時期であり、シルバープランだったかシルバープロジェクトだったかいう福祉政策のもと、その手の施設を新設するにあたり確か経費の半額を国が補助して、残り半額のその半分を都道府県だっけか自治体が補助して、まだ他にもいくつか補助が出たとかで、最終的には総経費に対してごく少額の手持ち資金でスタートアップできたという話だった。
 この資本調達環境下で、当時すでにニッポン終身雇用に見切りをつけ潤沢な市場に活路を見出そうとしたチャレンジャーたちがもちろん現れており、彼等がそこそこまとまった広さの用地をお手頃価格で準備するとなると、土石流災害に関わる地元経験知が避けがちな扇状地=裏山を控えた周縁斜面ゾーンが、必然的に多くなっていたという背景があったとか。
 ここに、地元の災害特性は昔から変わっていないのに、日本社会の文明領域での運営の失敗=高齢化および市場の経済力不足により、当のしくじった日本人が勝手にうろたえて自分らで長らく育んできた判断基準を度外視し、その必然のなりゆきとして被災した…という残念な構図が見えてくる。

 いつもの横道に入り込むと、そういえばこのころ行き場のない高齢者の介護や孤独死にまつわる話題が盛んにマスコミで特集されていたんじゃなかったっけ。当時の世相でも税金ばらまき体質は相変わらずという感じだが、それにしても発生している問題にシンプルかつダイレクトに、つまり汚職や無駄な付帯公務の余地をあまり感じさせない、こんな高齢化対応の政策が採られていた事実が懐かしい。
 漠然とした印象として『急増した高齢者をどうしよう?と浮足立った現役世代の姿』が記憶に残っている。日本社会組織の自我がまだ『自分は現役世代』『高齢者層を何とかする』というスタンスで国家運営の諸業務に取り組めていた時代であり、今はそのへんが丸々老いて腐って『自分は高齢者世代』『先を考えず我を通してやり散らかし、他人に処置させる』に変質してしまっていると思う。

 さてハナシを戻して、上記事例と相前後して東海地方も甚大な洪水被害に見舞われた。こちらについては、私は現地に行ったことも現物を見たこともないのだけれど、小学校のころ社会で習った『輪中(わじゅう)』という言葉が出てきたので強く印象に残っている。
 そう、頻発する水害から生活を守るため堤防で囲った集落=輪中が地域固有の社会形態として定着している…という、アレである。ずっと木曽川・長良川などの中州に形成される特例と思い込んでいたのだが、もっと広域的に他の場所にも、河川の中州以外にも輪中が存在するらしい。
 小学生の私はコトバだけ覚えてテストの解答欄に『輪中』と書いてマルもらって終わっているはずだが、実はひとつひとつの輪中別に農地・居住地その他を揃えて輪中堤で囲い、このコロニーがイチ社会組織の単位となる暮らしがあったことを聞いて、改めて組織論的な観点で認識し直したのだ。そうか、そっちが社会科で取り上げる本質なんだよな。
 島国根性ならぬ『輪中根性』というコトバもあり、つまり小さく限られた輪中での集団文化の維持および結束力が強固な反面、よそ者に対して排他的になりがちな精神文化を指す。

 堤防が切れて大きな浸水被害を出した地域について調べてみると、頃合をよく見切った昔の住民の知恵というか、実は『何年かに一度は堤防が切れてもやむなし』を前提にした低湿地向きの土地利用がなされていたことが判明した…みたいな、こちらもやはり利便性なり地価なり昨今ならではの都合で、地元の歴史が受け継いできた防災意識が風化して失敗した事例があったそうだ。古くからの住民がいる地域は、なるほど水に浸からなかったのだという。

 古い輪中堤は交通網の急発達により邪魔者扱いされ、殆どが取り払われて新しい堤防に造り替えられているらしいのだが、たまたま一部残っていた輪中堤が当該地域を水害から守っている事例も確認されている。そこに時代の流れに逆らって古い輪中堤が残されたのは、単なる輪中根性によるものなのか、現地の被災特性を見抜いて敢えて残したものなのか…今の時代となっては確定できなかったとのこと。
 最後の最後、肝心な詰めがはっきりせず可能性までで終わっているのだが、これは本来目的もあやふやなまま理屈抜きに小集団のウチワ慣習に固執する日本人DNAが輪中根性となり、この日本列島のその地で平和に暮らしを紡いできた『日本の暮らし』の実証例として、私の心に刻まれている。
 皮肉なことにニッポン同調気質がフル回転し、全国狂乱モードでカネだ儲けだ土地開発だと誰も止められないまま物理的にも経済的にも日本社会の辻褄を崩壊させてしまう中、偏屈で依怙地な『小集団社会の矮小な慣習』が、ある意味その地の守り神として働いたのだ。

 交通網の機能向上や経済生活の改善という目的で合理性を追求するなら、古く時代に合わなくなった社会構造は未練なく捨てて刷新するのが正解となる。だが悠久の歴史を紡ぐ日本列島の時空間を動かぬ前提にして、被災せず真に安心安全な日常を送るという目的で合理性を追求するなら、古来の構造の起源的メリットをよく研究し理解して尊重し、他を潔く二の次にまわす判断力が必要だ。
 もっとも近年、何十年にもわたる旧来からの住民までが被災するシーンは増えているように見受け、これについては、たかが数百年程度の時間スケールでは、まだまだ日本人の文明生活が日本列島の自然に関する知見を十分蓄え切れていないと考えるべきなのかも知れない。
 いずれにせよ『絶対に失いたくないモノ』『最悪あきらめがつくモノ』の線引きをびしっと決めて、その目的を冷徹に追求する心掛けが必要になっているのだと思う【825】

 どこまで知ってのコトだったかは別にして、少なくとも事実として庶民生活も政治もリスクを冒して利便・利潤を優先してしまった以上、もう闇雲に『イノチが大事、イノチが絶対』の勝手都合は通らないと腹をくくるべきなのだ。
 とにかく今は疲弊した被災地がどうにか危険な時間をやり過ごすのが最優先であり、そのために本当に必要な実行動の要件を、公共通信網が真面目に社会に情報共有させる心掛けが大切だと思う。

 生きて暮らすうちには山あり谷ありいろいろある。旗色悪い時にゃやられるし、やられるからには傷も負うし痛いさ。だからどうした、死んでコト切れなければ良い。
 そこを乗り切って巻き返すから違う展開が来るのだ。では引き続き、御幸運を!
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