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【880】見飽きた定石演目の気分転換残務 [ビジネス]

 『あーやっぱり』の週末を迎えることとなった。ま、明らかだったもんなあ。
 もっとも御覧の通りで、烏合マスコミの出し物に白々しい特大フォントが目立つだけで、誰も意表を突かれていないし、慌ててもいない。
 とりあえず『改憲の御家柄』というおうちの中の意味不明の世代間つながりで、その必要性とまるで無関係に改憲に粘着する茶番劇が打ち止めになるなら、国政の業務効率向上が多少なり期待はできるのか。
 コイツが辞めるのは勝手だが、やり散らかした不始末を『誰にとっても他人事』の扱いにして、もう終わったこと、振り返らないこと、反省しないことにして済ます日本国政の慣習は、またしてものこの機会を捉えて国民全員で厳しく指摘し追及し、国家組織の自我の性格として、組織一同で変わっていかねばならないものだと思っている。

 まず卑近もいいところだが、ダメノマスクから。
 田舎のプレハブ会社にいきなり商権もたして、くっだらねえ汚物入りのゴミみたいな布マスクを勝手に税金資本460億円事業にして、国民全員に押し売りしようとしたんだよな。で、その法外に高すぎる価格を始めあちこちから非難されつつ結局は国民全員に押し売りし切ったことになったまでは良いとして、その時点での実績消化額は公称270億円まで縮小した【856】
 ところが少し間を空けては、追加で8千万枚を医療機関に配るだの、これにも指摘が及ぶとウヤムヤに立ち消えしたかのように見せかけて、今度はどこぞにそれを何倍掛けするような数で配布して備蓄がどうたらこうたら、これ一体現時点で何枚作ってしまって、税金おいくらをどこに動かしたのか。

 昭和の時代、漫画に出てくる泥棒の定番のいでたちといえば、ほおかむり…って今の子にはわからんか、まあスカーフを対角に折って二等辺三角形にして頭に被り、両側の底角部分を鼻の下で結わえた姿だったものだよ。正方形の布一枚で可能な限り顔を隠そうとした知恵(?)のファッションですな。
 ひとん家に忍び込んでカネメの物品を盗み、これまた深緑色の地に白抜きの渦巻き柄が定番の大風呂敷に包んで、その四隅をまとめて袋状にし肩越しに背負って逃走する。

 世襲のガキのあの寸足らずのダメノマスク姿が遊び半分にふざけたドロボーの仮装コントを連想させ、目につくたび癇に障っていた昭和世代も多いのではなかろうか。まあ本人にも不本意なルックスであったことは想像に難くないのだが、だからって4ヵ月の『昭和ドロボー仮装の刑』ごときで血税の不正流用容疑が不問に終わると思ったら大間違いである。
 恐らくはまだまだ火種アイテムが残存しており、だからこの期に及んでなおマスク礼賛の怪情報がいつまで経っても日本社会に流され続けているのではないかと察する。そういえば例の謎の飛沫感染CFD画像【863】、何故かバージョンだけすっとぼけで差換えられて、見栄えとして大して違わない別の平凡アニメが出回るようになったんだよな。初期版のままでいいからさ、今般のウィルス感染現象のどんな経路プロセスに対応した、どんな条件設定の計算結果なのか専門的な解説を聞きたいんだけどなあ。

 端的に、布マスクというものに政府が必要性を主張できると思い込んでいた初期段階で460億円と公表されていたあの事業だが、『世論の反発を受けて270億円で中止となり、差額190億円は使われずに済んだ』という完結の事実まで、我々日本国民は今もって確認できずにいる。
 どこから調達したんだか、虫の死骸など低レベルの異物混入の不具合が早々に発生し、何故か製造元にクレーム処理で全品を無償交換させる当然の処置も取らず、どういう訳か税金仕事の品検が追加されたとかで、その後の不良品発生時の費用負担その他についてどう処置するのかも一切知らされないまま、日本の全世帯にダメノマスクが一方的に強制配布された。
 これだけでも日本社会の感染症予防策として到底理解できる税金使途ではないが、それにしても『当面ここまで、270億円の損失で止まった』のではないのか。

 その事実確認が必要だ。採算を合わせるとはそういうことだろう。
 額が額だし、組織の総意で運用される大切な税金資本が、いま現実としてどうなっているのか。
 ビョーキも辞意も無い。血を吐いて伸びていても公衆の面前に引きずり出して、洗いざらい日本国民に解説させるべきであろう。そして無駄に使われていない必要がある。

  『私はもう当事者でないので、発言は差し控えます』
  『もう辞めたヒトなんだし、責任は現職に問うべきでしょう』
 世襲のガキも取り巻きどもも、これを逃げ口上に使ってくるのが確実である。
  『確かにオマエは現時点の当事者じゃない、だが経緯と履歴の当事者だ』
 これがコイツらへの回答であり、現状を起点とする現務は全面的に現職に任せるとして、ここまでやらかして今みんなが困っている失政や不正が疑われる不透明事業に関しては、余生をかけ取り消しおよび修復をする残務がある。

 邪心を起こした役人組織に『迎合し従えば厚遇 or 従わなければ徹底妨害の嫌がらせ』で調教されたポンコツ国会議員は、かくしてよこしまな議会操作の1ステップに都合よく利用されては使い捨てられていく。今回も、あちこち軋んできたし耳から煙も出てきたから、一番ピエロは廃棄処分で次の交換品を持って来い、というワケだ【691】
 年々その構図が顕著になり、現政権に到って『自爆テロ非国民犯罪者政権』と呼んだ訳だが、こんな歪んだ国政混乱が繰り返される裏には、物事の採算を合わせず放置する日本社会のだらしなさが根源にあるのだと思っている。利用されるがまま悪事に手を染め、賞味期限をかじり尽くされた産廃議員が、『ポクちゃんビョーキです』と泣きマネすれば、哀れを誘うテイが演じて演じられてしまうのだ。

 ありゃ、卑近なところから始めたダメノマスクだけで、ここまで埋まっちゃったか。
 このガキ人殺しの責任もとぼけて逃げようとしているし、『とぼけ通せば通る』で行けると決め込んでいる毎度の悪習に『また』惑わされないよう、絶対に終わらせない・許さない・逃がさない世論の形成が必要だと思う。

 『私は、なぜ日本国民となったのか』の著者で台湾出身の金 美齢さん曰く、『日本人はカワイソウに弱い』のだそうである。
 世襲のガキは、激務でビョーキしてカワイソウなのだろうか?こんな不透明な仕事っぷりで稼働ペースも不明、でも平然と結構なボーナスもらってるはずなんですがね。
 ともあれコロナで死ににくい強運が守るこの日本列島にて、引き続きグッドラック!
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【879】我等が住処の実力再検証 [ビジネス]

 御幸運を!だのグッドラック!だの毎回抜かしておいて、苦境をどうにか乗り切っている立場の皆さまには殴られそうなハナシだが、私にとって今夏は従来にない『いい夏』だったりする。
 恐らくだがこの苦節7年半あまりを経て、遂にピリ辛アイテムから逃げ回る人生が終焉を迎えたようだ。辛味を普通の味覚として食えるようになってきた【638】
 『食』というのは人間にとって、精神を癒し支えるこの世の重要な楽しみのひとつだ。そこに『発汗痛』ともいうべき険悪な、嫌な嫌なあせも痛と、真冬でも容赦なしの噴出汗の不快がついてまわるというのは、つくづく耐え難い試練であった。ようやくの大きなワンステップのクリアでありますように…っと♪

 さて、まだ暑いので頭脳不要の(?)アタマの体操的リラックス漫談から。
 仮に日本中をまるまる農業の時代にまで戻したとしよう。そんなことをしてこの国土面積は足りるのだろうか?
 それを算出する真面目な計算には程遠いが、子供のころ読んだ本に『日本人が淡路島にタタミ一畳ずつ敷いて座っていったとすると、座り切れるでしょうか?』と問うクイズが載っていたのを思い出す。

 もったいつけずに答を明かすとYESである。
 確か半分も要らないくらいとのことであり、当時の世界人口が座っても四国があれば足りるだとか、そんな解説がついていたと記憶している。

 淡路島の想定なので京間計算するとして、いま調べたら一畳は1.82平方メートル。
 これに1億2千万を掛け算すると約218平方キロとなり、淡路島の面積が590平方キロらしいので、なるほど半分以下である。あらら意外と小さく収まるもんなのですね。
 まあ日本国民をタタミ一畳で淡路島の面積に押し込んで喜んでもしょうがないのだけれど、まあ普通に工夫すれば日本列島で居場所がなくなるようなことはなさそうかな。場所としてどこが良い悪いの議論は出てくるんだろうけどさ。
 あと『日本の国土は8割が山地で、平地は2割しかない』とも教わったものだが、特にバブル期にはとんでもない山地まで宅地にしてしまったりもしているので【570】、『人が住める平らな場所がたった2割』という感覚の妥当性もないワケで、まあ日本人の生活用地としてはそれほど窮屈ではないのだ。
 因みに当時の世界人口を70億人とするとタタミ占有計算では12,740平方キロで、四国19,000平方キロにてちゃんと収まる。

 もちろん日本人口1億2千万人全員が日本列島を棲み分けるのではなく、漁業従事者は主な行動範囲が海の方へ拡がるのだけれど、案外この日本国の領海というのが馬鹿にしたものでは無く、確か排他的経済水域EEZ=国家資源として活用する権利を主張して良いとされる海域の占有面積では、日本は世界第6位だったんじゃなかろうか。日本は世界有数の一大海洋国なのである。
 そんな日本国で漁業人口が減少し、後先考えずに獲りたいだけ底浚えするかのような他国の暴力的な漁法にやられた結果なのだろう、今年も秋刀魚が希少品になっているというのは残念なニュースだ。

 日本列島って、カネなんぞの『情報あそび』にふけって失敗しちまって、返済の現実解を見失いそうになるほど負債を抱えているのだが、こんなことにしてしまう以前の暮らしに時代を巻き戻して目を向けるなら、まずは日本人がうろたえず衣食住を確保するだけの包容力は悠々と備えているのである。
 世界的な資本主義=カネ主導経済の低迷状態が、いま決してカネ流通の原理的システム作動に則った回復方策の有効解を持てていない以上、いま日本人が地球上で生活の安定を求めるなら、この日本列島の悠久の恵みをアテにするのが最も確実な頼みの綱だったりはしないだろうか。

 そそのかされて乗っかったのが最初は100万人程度、後に400万人強と公表値がおかしな推移をしているが所詮その程度、税金ばら撒きのコロナ疎開キャンペーンなんぞに、日本社会の自我が喰いつかなかったのは救いの事実である。
 他の日本国民から讃えられるような特定の国務的な善行に勤しんだ訳でもないのに、ただお得な無償の施しとして遊興のもてなしなんぞが降り落ちてくるはずもない。おかしいだろうが。
 端的に『いずれ自分自身が納める税金で埋め合わすこと前提でツケとくから、行ったもん勝ちで我先にとコロナ疎開しろや』という、まさにボロい借用書の書面情報だけその場都合で積み足しながら、相も変わらず反省も学習もしない『情報あそび』以外にやることのない自爆テロ非国民犯罪者政権があって、今それに日本社会の自我が、事情を正しく理解した上でそっぽを向いている。正しい構図である。

 国家運営の施策として、どこまで独裁的か民主的か、どれだけ的確だったか空振りだったか等いろいろ論点はあるが、北米にしても中国にしても、ブラジルなどそれ以外の他国にしても【850】、思い思いの一生懸命に、新型コロナ・ウィルス感染拡大への対策は打ってきた。
 我が日本国の国策対応はどうだ。
  『この国を守る気があるのか』
 これ以外のコトバを、私は思いつかない。

 ともあれ、明日夕方に世襲のガキが何かしゃべるのだそうだ。日本社会からマトモに聞く耳を持ってもらえなくなったこの事態で、何を抜かすかまず確認しようと思う。
 『ワタシがリーダーです』『ワタシが責任者です』とか調子良かったよなコイツ。
 その導いた先が現状なのであり、どう責任を取るのか我々国民は聞けるだろうか。

 マトモに機能もしていない欠陥税制の軽減税率制度はほったらかしにしておいて、これで本当に10月から酒税を上げたら、満身創痍の飲食店業界にはトドメを指すことになるだろう。
 頑張って今日を持ち堪えて、明日どんな新展開のハナシに気分一新できるのか、待ってみようではありませんか。それでは引き続き、グッドラック!
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【878】情報ゴージャス生活のオンライン満足度カタログ [ビジネス]

 まだあっつい暑いので続きを。日本の第一次産業回帰を試せるかという話だ。
 経済学的・情報学的に、割と真面目な裏付けがあるつもりの思い付きなのである。

 今春以降、何かにつけオンライン化が促進されたは良いが、何となく『これってホントにリアル事象に置き換わり切って解決してるんだっけ?後から種明かしで致命的なツケ払いが来て途方に暮れたりはしないんだっけ?』的な雲と組み合うような不安な空転感に苛まれる毎日が続いている。
 もう何年も前の元々から『いちいち職場に人が集結して、わざわざやってることってナンなのだろう』という視点の効率向上意識はあり、そのうち一定数が、実は業務処理にあたっての会話や会議ぐらいしかないんじゃなかろうかという結論に達して、その気のあるところはテレワークの実用トライアルを始めていた。
 職場という空間は、つまるところ組織員同士の情報伝達の場であって、そりゃ一緒にいる・いないで良いコト悪いコト列挙していけばキリはないけれど、作業プロセスの進捗が成立するだけの情報処理さえ叶うなら検討開始はそれで必要十分、これを強行し他を合わせ込むコンセプトで業務改革をやって勝ち目はあるはず。この理屈は確かにその通りであり、だからこそ少なくとも現時点では、それなりに成功例も散見されるということなのだろう。

 白状してしまうと、どの業域・業態・作業項目に対して、何をもって業務オンライン化・テレワーク推進をやって良いのかの適用要件は、私自身さっぱり方法論化できていない。
 一応オンラインでもリアル対面でも等価に作用するモノといえば、真っ先に『情報』というキーワードが思い当たる。音声でも画像でも、言語でも静止画・動画でも構わない、通信機器を介して受け取った人間たちに狙いの反応動作が起こせるなら、その業務フェーズはオンライン化OKのはずである。みんなイマイチ心もとないのは、仕事を始めとする普段の日常生活モロモロにおいて、書面や会話でさらっと交わして深く考えもせずヨシとしている情報以外に、潜在的な深さでの通信や無形の記録がバカにならないレベルで効いてそうな雰囲気が強すぎるってことなのだろう。

 いざこんなことにでもならなければ現状踏襲で続いていたものを、こんなことになってしまったので結構なリスクや不都合には目をつぶって、エイヤとトライアル強行から入るより他なかった。で、一旦やっちまったら、とりあえずテレワーク化を織り込んだ作業で勤務時間が埋まってはしまったものの、決してそれで従来相当の業務が自然に流れる訳でもなくギクシャクするし、その当面緊急導入のテレワークで片付かない積み置きがどんどん溜まるばかりだし…
 飲食・宿泊関連などいきなり営業活動そのものが阻害されている業域でなくとも、このあたりが皆さんあるあるヤバヤバの実情なのではないかと察する。

 ならばコロナ騒ぎの動向に目を光らせ、いち早く以前のまんまにすかさず戻すのかというと、やはりオンラインで節約できる交通費と移動のための拘束時間の凄さは魅力的過ぎるのだ。通勤も出張も、蓋を開けてみれば全て膨大なムダ習慣だった…と結論付けるのはちょっと違うんだろうけれど、今般のコロナ騒ぎのビフォーvsアフターで交通費支出の費用対効果に関しては、間違いなく判定基準がドラスティックに変わるんだろうなあ。移動時空間好きとしては心穏やかでなかったりして。

 ポイントとなるのは、『必然リアル』なのではなかろうか。
 現物現場のリアルでなければ無いも同然。リアルでこそなけなしの価値があるモノ、リアルでないとマジどうしようもないモノ、他ではガチに代用が効かないモノって何だろう?

 これがまあ、おのれを生かす衣食住だというのが前回のハナシなのだが、思い出してみれば高度経済成長期の子供時代、『モノを買う』という行為はかなり特別なイベントであった。
 恐らくどの家庭も日々の食事の支度で商店街や市場に買い出しに行くのがせいぜい【104】、我々子供はいま手元にある物品を徹底的に使い倒し、そこらへんに落ちている物体を道具に転用し、まさに原始人テイストの人類文明起源っぷりで生活時間を過ごしていたものである。楽しかったんだけどさ。
 そんな大都会のど真ん中での暮らしって、直接の自給でどうしても手に入らない食材を、必要にかられてカネ流通を交えて調達する暮らしだったのだ【246】
 カネ経済の素朴な原理が日本全国の家庭生活を支えていたのであり、外食なんぞ世界の外側の『あってはならない非日常的な理不尽』の出来事であった。

 カネとはつまり、社会での流通価値をナニガシか金額に換算して、その金額相当に作用するものと情報化しただけの紙切れと金属片である【38】
 これで済んでいるうちは、人間が生きて暮らすための必然リアル生活アイテムの総量に、キホン国内市場の日本円総額が釣り合って出回って、流通していたワケだ。だが必然リアル生活アイテムを直接生産する第一次産業から、第二次以降の産業領域のボリュームが増すにつれ、その増分としての生産力に釣り合わせる形で、日本社会に日本円が追加投入されていった。
 この第二次以降の産業の生産品は煮ても焼いても食えないから、そこの従事者はまずカネ=価値情報としての収穫を刈り取って、経済市場の仕組みを通して第一次産業の生産品を買って来て、煮て食うことになっていたと。ここまではまあよかった。
 
 だが所詮『カネは情報でしかない』ため、遂には何と釣り合わせるでもなく、どこで採算を合致させるでもなく、思いつくままの無節操に社会に放つことができてしまう。
 だからこんな感染症の流行で社会組織が丸ごと動けなくなっている真最中なのに、議員・公務員のボーナス支給だとか、世間一般の遊興旅費のバラ撒き政策だとか、明らかに勘定の合わない国家政策が横行するような日本国になってしまったのだ。
 人間の経済社会を『必然リアルを忘れたカネ事象主体の情報あそび』にした結果の、この日本経済の体たらくがあるのだから、この機会に日本列島の生来生産力をできるだけ『情報あそび』から引き離して必然リアルの第一次産業に回帰させれば、何か良いコトありそうな未来のきっかけが見えてくるんじゃないか。そう思ったのである。

 で、『情報あそび』でやらかした後始末は『情報あそび』で埋めるんだよ。
 そう、カジノIRだ。これはこれで面白い知恵の使いどころがわんさか待ってるぞ。

 田舎に住むと、あっちからこっちから、何だかしらいっぱいモノもらうんだよな。友好的で善良な人間でいることさえ心掛ければ、カネなんか大して無くても意外と行けるんじゃないだろうか。そういう必然リアル基軸の感覚を、日本国内に社会的規模で起こせないかと思った。
 この先を生き抜くなら、今般喰らってやられた流儀とは違えた方向性で生存空間を探す。一応、常套コンセプトだと思うので御一考を。では引き続き、グッドラック!
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【877】成長前夜の想い出ふるさと収穫祭 [ビジネス]

 盆休みも過ぎて終夏となりつつあるが、いや~あっつい暑い!
 梅雨が長かったがその後かなりハッキリした夏の気候が続いて、これコロナ騒ぎが無ければ盛夏に絡んだ経済は随分と潤っていたろうに。
 残念だがどうしようもない、思いっきり大ジョッキ空けたいな~。

 その新型コロナ・ウィルス、今まさに重症者数の増加に警戒せねばならないのは確かだが、それでも日本は致死率が低くて幸いだと思う。
 ウィルスはひたすら感染経路を介してヒトからヒトへと乗り移るだけだし、感染者がいつ未感染者相当に復活カウント(?)される状態になって社会復帰しているのかも不明なはずだから、チマタで言われる第1波・第2波のような波状現象のイメージで捉えて良いとも一概には考えられない。
 だからメクラ滅法でもどうせ何も変わらないというハナシではなく、徐々にでも現実的なセンで視野に入れていける限りの現状を探りつつ、とにかく社会生活を回すための経済操作を加減しながら、最終的には無駄に怯えず打てる手を打って完結させることとし、通常稼働への軌道復帰を諦めずに目指すしかない。
 GDPが一気に3割近く落ちた報道もあったばかりだし、これは前例の無い長期戦を覚悟しておいて間違い無いんだろうな。全世界的にしんどくなってるから、どこかの活力を頼る作戦は立てられない。

 ま、どうにかするしかないのだけれど、そのとっかかりのひとつの方向性として、第一次産業=農林水産業の独自強化がどのあたりまで叶うのか試してみたいものだ。
 我々世代が子供だった時代の高度経済成長期、御存知の通り我が国は加工貿易により工業製造技術が急発達したのだが、このころ日本国民が一斉に第一次産業を離れて、第二次・第三次=製造業・サービス業に転向した『社会構造の民族大移動』的な肌感覚の記憶がある。

 裏返せば、そもそも日本列島は1億2千万人日本国民の第一次産業操業ゾーンに受け皿を持つ土地のはずであり、高度経済成長期かなり無理をしてまで農地を宅地に変えたり、原野を宅地開発したりしたぶん【866】を元に戻せば、単純計算として事業地はそこそこ確保できるのではなかろうか。
 いま経済の停滞で困っている大勢がごっそり第一次産業に転身できて、その全員が難なく農・林・水産に分散配置されて収まるとはゆめゆめ思わないんだが、それにしてもまずどこまで収まるものなのか確認してみたい気がする。

 国民各自の生活現場レベルで自給自足率が上がることにより狙えそうなメリットもいろいろ思いつくのだけれど、特に古くからの土地利用の知恵に反してまであまりに無理な宅地開発をやり、最近になって繰り返し風水害に遭っては、無駄な経済損失を出している場所がちょくちょくありそうに思うのだ。
 近年の自然災害の被災地を分析して、宅地から農地に戻すをことをテーマにした産業回帰プロジェクトが成立しそうな場所をモデルケースに据え、とりあえずやることやって、ナニが良いコトあってナニが悪いコトあったのか実験確認する。
 ヒトの暮らしの問題ゆえ、せいぜい数年のプロジェクト終了時点だけで結果判定をするのは原則的に浅はかだが、そこはそこ、地元古来の土地利用コンセプトに忠実に戻す限りは、総観的・最終的には成功率は悪くならないはず…という理屈である。自然災害相手の防災は、ちょろい行政アイテムごときでは限界が知れていると思うのだ【825】

 今の若い人たちはもう学校で習ってないかも知れなくて御存知ないかも知れないが、我々世代は小学校の授業で『3ちゃん農業』というコトバを習っている。爺ちゃん、婆ちゃん、母ちゃんが農業の担い手であり、各家庭で労働力の中心だった父ちゃんは、単身都会に住んででも第二次・第三次産業に就くというのが社会の定番パターンになっていたのだ。
 平成初期のバブル期過ぎまでこの社会風潮は続いており、日本社会あちこちの製造工場で『期間工』と呼ばれる出稼ぎ労働者も普通に見られたものである。元来は農林水産業の従事者なのだが、本業のオフ・シーズンに短期契約でやってきて働く工員のことだ。まあ体力は文句なしの人一倍だし、軒並み日本の製造業は重宝していた。
 だがその日本国内の製造工場で、いま日本人男性の労働力がどのくらい稼働しているというのだ。日本国内の工場の生産力の落ち込みがそもそも問題は問題なのだが、そこからいなくなっている日本人男性を第一次産業に押し戻してどのくらいコトが収まるものなのか、とふと気になって書き留めた。

 日本列島って、美味い米が実って、美味い魚が獲れて、立派な木材も採れて、そして何より綺麗な真水が潤沢に手に入る豊かな島であるはずなのである。
 今般、これだけ世界的に経済=カネ巡りが大打撃を受けたとなると、まず自分ちは目いっぱい頑張ってどこまで衣食住を自前調達できるのかの基本をきっちり押さえておく必要がある。長らく成長してきた結果の御立派な経済規模で痛い目を見たのなら、いったん成長前に戻ればその回復仕事のハードルを下げる現実解にもなるのではないかと考えてみた。
 あと隣国の軍艦相手にケンカ腰で当てつける必要までは無いにしても、国境近海の漁業なんか、少しでも盛んであるに越したことはない。

 いまコロナ騒ぎは圧倒的に都会でダメージが大きいし、もちろんまだ迂闊に人々の動きを掻きまわすようなことはしてはいけない。だが、いわゆる『田舎』は重要な日本列島の財産であり、この世を生き抜く強力な武器であり、故に地元の思い思いの工夫で『日本列島の自然な暮らしの国力ポテンシャル』を測ろうとする動きが出ると、少しは面白くなりそうに思う。

 今日はあまりに暑すぎて、標的目掛けて世知辛い話題を展開する頭脳が回らない。
 危険な暑さには逆らわず従って、この地で食って暮らせば次がある。御幸運を!
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【876】大事な想い出と重大な不始末の処置プラン [ビジネス]

 今年も終戦記念日を迎えた。昭和20(1945)年から数えて75年も経つのか。
 あと数年で戦中生まれの年齢が日本人の平均寿命に到達する。『ここまで調べ上げて記録を残したんだから、もう十分な節目でしょ』なんてことには決してならない訳だが、それでも大東亜戦争の日本国の記憶はギリのギリ、できる限りの目いっぱいまで浚えておくべきなのだ。『正しい情報』として。

 誤解を恐れずに述べるなら、私は犠牲が出てしまった結果事象を指して『失敗』『過ち』とは判定しない人間である。避けられない犠牲というのは必ず存在するものだと思っている。
 個人も組織も、まず生きていて遭遇する現実は、全て新規性のある初体験と私は腹を括っているのだ。痛い目を見た辛い記憶があったとして、初回には無かった『痛い目を見てまで見知っている』という先入観をもって次の現実に立ち向かわねばならない。新たな対局モードとして作用するだけ、だから賢くなっておかねばならない。

 先に少々バチあたりな(?)横道をやっておくなら、我々世代は親やセン公の世代から、結構な頻度で『所詮オマエらは戦争を知らないから』とデカい顔をされて辟易している。どんな形ででも、やはり戦争というのは辛く厳しい体験として、問答無用で我々認識しているので、特に子供の年齢では漠然と理不尽な思いをしながらも、その時点で言い返す言葉を失ったものだ。同年代の皆さんあるあるだろう。
 だが私は成長し知識を重ねるにつれ考えを変え、他人を説得する筋道にちょっと行き詰まるたんび、水戸黄門の印籠代わりに軽々しくこんな言い草を被せてくるような連中は、逆に一発黙らせてやらないとためにならないと思うようになった。
 『戦争体験がタイヘンだったことは理解する。だが今はそれを根拠に持ち出すような会話ではない。戦争体験は重要だが未来永劫にわたる人類万能の知見でもないし、よもや自己鍛錬の目的をもってアナタから進んで戦争に身を投じ、その逆境に堪え抜いたものでもないだろう』
 まあ調子に乗ってイイ大人が物事きちんと筋を通さずに済まそうとするような場面では、結構ガツンと鼻っ柱をへし折ってやるのに有効な説諭である。あ、戦争体験が人類として貴重な記憶であることは間違いないので、濫用や悪用はしないように。

 産業革命により、大衆を一斉に手なずけ得る先進文明の利器がいち早くこの世に出現したことをもって、欧米列強が競って世界中を自国の統治下に収めようと競う国際世相が広まった。そしてそこで、まず収められる側でなく収める側でいるために、近代産業を輸入し模倣し独自に急発達させる必要があった。収める側グループのお尻の先にでもどうにかしがみついたなら、今度は近隣の極東諸国を従えて、独自の一大勢力圏を確立する必要があった。
 人権の概念の完成度がまだまだ低かった時代、欧米列強の傘下に収まるということは、日本国組織の国家単位としての主体性・独自性が失われ、どこか他国に支配され利用される立場に甘んじることを意味する。当時の日本国はこれをよしとせず、普通めにはどう見ても貧弱だったはずの国力を振り絞って結集し、見かけカマかけまで総動員し、その国際的効力を盛り盛りに膨らます工夫をして、生き残りをかけ欧米列強に対抗したのである。

 この『国力結集』という至上目的に対して、まるで夢物語のような架空の大本営ポジティブ情報を日本社会に暴走させ、それで盛れて効果まで実際刈り取れたぶんまでは良かったが、特に大戦末期には、率直な敗色の現状把握と冷徹な判断から逃避する方向性のデメリットが圧倒的となっていった【458】

 私の子供時代あの偉そうだった大人たちは、今日チマタに放たれる情報が描くバーチャル日本社会を毎日見聞きしながら、いま自分らが戦時中に喰らったどんな勇ましい苦労話に自慢げに涙しているのだろうか。戦争は体験者毎に様々な視点から語られるものだとは思うが、単に自身の個人的記憶の御苦労カウント得点数で博識を主張するようなメンタリティは百害あって一利なし。黙ってもらって結構である。

 さてこのあたりから本題に戻ってくるのだけれど、御存知の通り大東亜戦争は甚大な多数の犠牲者を出して、日本国の無条件降伏で幕を下ろした。日本人個々人も、その過半数が成す日本国組織の自我も、『これでは勝てない。降伏するしかない』と決心したから、そうなったのだ。

 何故そんな決心をしたかというと、『とても勝ち目が無い』と他ならぬ自分自身の本心が認識するだけの情報を受信し納得したためである。何もなければ勝ちを求めていつまでも戦い続ける。
 ナニガシか情報が流れ、それを受信し、真実として理解し、『勝てないので負けよう』と観念し納得して、初めて日本国の無条件降伏による終戦が現実のものとなった。このプロセスを忘れてはならない。

 どんな情報をどこから受信したのかは人それぞれだろうが、当時の記録をいま見る限り、かなりあれこれと複数多数の回路があったようだ。
 御贔屓さま方の相当数の反感を買うことまで覚悟で述べるなら、私は、東京大空襲も広島・長崎の原爆も、連合国が『戦争を終わらせるためにやった』とする理屈には一理あると認めている。事前に空襲を予告するビラが撒かれている事実などもあり、彼等に無駄に余計な犠牲者を出さない配慮は、それなりにはあったと思われる。
 戦争被災者御本人の苦痛や無念は他人には計り知れないものゆえ、仕方なかったなどとはゆめゆめ言えないが、そんな数々の被災の事実なくして、いつ日本国は無条件降伏を決心できたろうか。

 個々人の理解力や認識が幅広くばらつく大規模組織において、『結局のところ現実を喰らわないと、実感をもって現状認識できないケース』というのは意外と多い。
 被害を未然に回避しようとして、必死に自組織内に情報発信し周知を図ったところで、それが過半数に響かず無駄な内部損失となるばかりなら、エイヤと一蓮托生に腹を括って現実との衝突に向き合う方が最適解。世の中そんなものだと思う。そこに必ず犠牲は出るし、必要なことなのである。

 組織レベルで起こった後の出来事に『失敗』『過ち』のレッテルを貼り、上手くやれば避けられたはずだが、それをできなかった誰それが悪い…みたいな論法で、謝罪行為での処置をいじりまわすコンセプトには全く賛同できない。
 『上手くやれば』というのなら、事前にどんな情報発信をして、何人の受信者がどれだけそれを発信意図通りに理解し、各々どんな行動を採れば上手くいったというのだ。現実には絶対にあり得ない仮想のタラレバ論理の、永久に答の出ないムダ議論である。

 そんな日本国組織が当時を意思決定して進んだ先に、我々が生きる今の日本がある。
 戦没者の方々には果てしない感謝あるのみ、ビタ一文の失礼があってはならない。
 だが広島と長崎の原爆式典の挨拶文が、あろうことかコピペ共用の使い回しだった。
 私は現代に生きる一人の日本国民として、どうしても許す気になれない。
 お盆だし烈火を抑え込んで、今回はこれにて。
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【875】真夏の交通安全、緊急技術トピック! [ビジネス]

 長い梅雨が明けたと思ったら、暑い暑い。まあ夏なんだから当たり前か。
 ちょっと緊急で、特にアルバイトに精出す若い人向けの話題を。御本人らはもちろん、そんな彼等を路上で目にする皆さんにも知っておいていただきたい、交通事故にまつわる大事なハナシである。

 なかなか外食のままならないこの御時世、料理の宅配ビジネスが盛んなようだ。自由に来客を呼び込めない外食産業にとって、生き残りのための命綱になっているケースも少なくないと思われる。
 で、その宅配には、二輪車=自転車・スクーター・自動二輪がよく使われている。運転者と配送物が乗っかれば良いのだから、車体も小さく狭い道にも入っていけるこんなモビリティが重宝されるというワケなのだが。

 この手の車輌を『ひらりひらりと、すばしっこい』とする社会通念を払拭しておきたい。
 二輪車はガタイが小さいだけなのであって、その機動性は決して高くない。というか四輪に対して遥かに劣るとして過言ではなく、まったくもって急に止まれないし、曲がれないのである。

 本件、まず『クルマはキホン前輪で止まる』という事実がネックとなる。
 みんな子供時代に自転車に乗り始めて『後ブレーキで止まる』という習慣を身につけてしまうため、単車に乗らない人は、どうかすると一生その理解のままオシマイだったりするのだが、それは誤解だ。
 二輪も四輪も、ブレーキをかけると車体の重心が慣性により前方に出ようとするため、前につんのめるような挙動になるのは御存知だろう。こうして前輪を地面に押し付ける垂直荷重がかかってタイヤの摩擦力が発揮され、車体が止まる。

 自転車も単車も、ハンドルの操舵軸が後傾しているのは普段から見慣れていると思う。この操舵軸を下方向に延長し、その仮想軸が地面に突き刺さる位置について考えよう。前タイヤの接地点よりも、かなり前方に離れた地点に刺さるのがお解りかと思う。この仮想軸の着地点と前タイヤの接地点の距離のことをキャスタートレールという。
 ブレーキをかけた時に突っ走ろうとする車体重量の慣性力は操舵軸にかかり、それを前タイヤの摩擦力がキャスタートレールぶんだけ後方から引張って止めるのである。だから前タイヤが最前端に付いていながら、ハンドルが左右に振られてしまわないのだ。
 裏返せば、二輪車は直進状態で、仮想軸の着地点~前タイヤ接地点~車体まで正中一直線に揃っていない限りブレーキをかけられない。左右どちらかに舵が切れていると、バランスが崩れて即転倒である。

 では後ブレーキで止まろうとするとどうなるかというと、制動Gで前につんのめって後タイヤの接地荷重が抜けるため、実にあっさり後輪がロックしてしまい、すぐブレーキを解放して後輪を転がしてやらないと、これまた即転倒する。チカラずくでどうにでもさばける重さしかない自転車の後輪ロックとは事情がまるっきり違うのである。
 なお自転車は単車に比べて圧倒的に重心が高いため前転事故が起きやすく、だから後ブレーキで後ろから引張って止まるように教えられるのだし、実際その方が安定するという理屈を知っておこう。制動距離だけで言えば、前転しないギリで前タイヤに思いっきり接地荷重をかけながら前メインで止まった方が短くて済むのだけれど、危ないので試してはいけません。
 だいたいあのほっそいタイヤが受け止められる制動力など微々たるものなのだ。

 さて次は操舵のハナシである。
 基本的にタイヤ幅いっぱいに接地面を取り、そのタイヤを地面に直立させて最大限の摩擦力を得ようとする四輪車のタイヤと違って、二輪車のタイヤ接地面は丸断面のロープを輪に繋いだような曲面構成の形状になっている。これは、車体を傾けタイヤを地面に対して寝かせた時に、接地点がタイヤ正中の周上から寝かせた側に移動するように意図して設計されたものだ。
 車体を左に傾けると、後タイヤの接地点は正中ど真ん中よりも左肩側に移動する。
 この左肩接地面がタイヤ一周分に成すのは、円錐面の一部だと御理解いただけるだろうか。後車軸の左遠方の延長上にその頂点が来るはずだから、この寝かせた仮想円錐が転がるように、理論的には円錐の頂点を旋回中心にして、単車はコーナリングする。
 このタイヤ接地面の形状で発生する旋回力のことをキャンバースラストと呼ぶのだが、後輪で発生するキャンバースラストに逆らわないよう、前輪がキャスタートレールに先導されながら、必要ぶん舵が切れることを許す構造になっている。これが二輪車の操舵原理だ。

 これも自転車の場合はタイヤがか細く車体が軽いため、まず体重を乗っけるために車体そのものを直立させておいて、前・後輪は各々ただ見た目のまんま転がる方向に任せて、大したチカラも必要なくどうにでもバランスが保ててしまうのである。だが単車の車重とタイヤのグリップではそうは行かず、きちんと車体を傾けて操舵原理に従わないと絶対に曲がらないのだ。目前にどんな絶体絶命の危険が迫ろうとも。

 このあたり、こわごわのそろ~りそろりから、時に危ない思いや少々痛い思いもして、みんな乗り方を覚えていったものなのだが、今般のコロナ騒ぎでは、二輪車の運転技術が未熟のままいきなりバイトで乗り始め、多忙の激務に追われて飛ばしまくったための事故と思われるケースが激増していると見受ける。いっぽう四輪車の方もすっかり二輪車の走行特性に対する認識が廃れてしまっており、二輪車が視界に入った時の危険予知がまるでなっていない。
 どっちの誰々がどう悪いのかはともかく、二輪絡みで交通事故を起こすと、衝突安全ボディも無ければエアバッグも無い二輪車の乗員は、かなりの確率でタダでは済まない。生活費の捻出は確かに死活問題なのだが、後悔先に立たない交通事故のリスクも冷静に量っておかないと、残りの人生が取り返しのつかないことになってしまう。

 今はもう降りてしまったとはいえ、私も単車は永遠に乗り続けていたいくらい本当に大好きだし、知って解って乗るぶんには、チマタで短絡的に叫ばれるような危険性の心配など要らないとする人間ではある。ただもらい事故の回避方策なんかは、どうにも手の打ちようがないところで随分とハードルが上がっているように思う。
 まずエンジン付きの二輪車は免許があるからといって思い通りには乗れないと憶えておくこと、そして自転車の軽快さ機敏さは平常時の乗員の気分だけのものに過ぎず、走行機械の機動性としては最低ランクレベルだと憶えておくこと。

 とりあえず今回は、路上の宅配二輪車に対して、本人も傍観者も重々気を付けていただきたい、その一点だけである。では引き続き、どなたもグッドラック!
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【874】経済効果一本勝負、稼げるサブカルvs稼げないサブカル [ビジネス]

 今日8月9日は長崎の原爆記念日である。広島は訪れたことがあるが、長崎はまだ一度も見たことが無く、いつか行ってみたい。
 同じ原爆だが、ウランを用いた広島『リトルボーイ』とプルトニウムを用いた長崎『ファットマン』の違いがあり、また犠牲者数に代表される被爆被害の規模にかなり差があるためか、出回っている情報量として長崎の方が随分と控え目な感じである。何か特別な真相でもあるのだろうか?

 さて、日本の組織は効率が悪いハナシにちょっと戻る。つい自分個人や自組織の本来目的がお留守になりがちな反面、自然発生するウチワ寄合意識のダラダラ申し合わせに引きずられて、意味のない無駄なママゴト式の立ち回りばかりに執心してしまうというアレだ。

 先に、いきなりの予言…は言い過ぎか、推測でいいや、そこから始めてみよう。
 数年後、今を振り返って『コロナ・バブル』なる新語が普及しているのではないか。

 昭和終焉~平成初期の元祖バブル期にカネ循環ループの消費面を暴走させ、行きつくところまで行きついた結果、一旦は『その時代の常識感覚での破綻に打ちひしがれた』日本経済であった。
 これをもって日本国の主幹産業力のメイン・エンジンは停止し、二度と火が入ることなく遊休設備のまま老朽化の一途を辿って今がある。その周辺で、止まった国力のメンテがてら再始動の可能性を軽く探ろうとしたり、使える部位だけ切り出して他に転用しようとする試みはちょくちょくあったが、現れては消え現れては消えで結局それらもひとつとしてモノにならなかった。
 高度経済成長期、憧れだった舶来技術に追い付き追い越し、世界中からその先進性と高品質で讃えられるまでに磨き上げられたメイド・イン・ジャパンの生産力は、その挫折感から立ち直れず復活を志す気力も奮い起こせず、自己保存のための動力源の手入れを諦めて放棄してしまったのだと思う。
 そのうちアジア新興国の成長期が訪れ、強力な勤労モチベーションを備えた破格の労働力が世界を席巻し、先進国家間が自由市場を互いに開放し合う基本趣向の、いわゆる資本主義経済の富の辻褄が世界一斉に破綻した。バブル崩壊後の我が日本は、国力としての産業力を再開発しようにも、その土壌となる経済空間から全面的に干上がってしまい、改善の希望がすっかり失われたのである。

 もう20年近く前、『日本は観光立国で行くしか道が無い』という議論を交わした記憶がある。かつての『働きすぎエコノミック・アニマル』の称号を再び手にするには、そもそも質も量も人材不足が絶望的なレベルにまで落ちている一方、当時すでに漫画・アニメ・服飾ティーン文化から”Cool Japan””KAWAII”のようなバーチャル領域の価値概念に、国際イメージとしての日本の国家像が移行しつつあった。
 『国営漫画喫茶』の超絶どあほ痴呆プランが懐かしいが、時代がズレていて今じゃなくて本当に良かったと思う。まだ日本社会の『オトナ度』がどうにか間に合っていたんだろうな。
 海外に面白がられてこのサブカル文化領域の認知度も上がって、確かに関連ビジネスで動くカネの額=経済効果も予想外の規模で顕れてきていた時代ではある。だが、だからってこんな一般性の無いもん国家事業でやるとか抜かすなっての。小学生の夏休み企画発想コンテストじゃあるまいし。

 ここで恒例の横道に入り込んでしまうのだけれど、世を生きる人間ひとりとしての独立完結性の自覚にDNAレベルでハンディキャップを負う日本人は、個々人なりの渡世スキルの自己開発モチベーションが根本的に甘いため、ある意味大人げない現実逃避とも言えるバーチャル志向が、いち早く成年層に向かって拡がっていったのではないかと考えている。
 グローバル高度情報化の大波がこの後から世界を覆っていく順番となったため、むしろ現実とかけ離れることを目的とした、現実感の無い日本製バーチャル・コンテンツが一歩先に完成度を上げて待っていたところへ、その受容メンタリティ時空間が急拡大してついてくる形で、とにもかくにも21世紀ニッポン文化がポピュラーになったという因果も見出せるように思う。震源地・日本社会にとっての”Cool Japan”も”KAWAII”も、それらに向けられる海外からの興味の動機に対して、元祖に宿る次元違いの幼さ未熟さを感じてしまうのだ。
 海外の成人社会人は、リアル社会運営を生きる実生活意識で覗きに来る。サブカルチャーつまり副生活としてのバーチャル文化を、面白がって覗きに来る。これを迎える当の日本人は、実はリアル社会運営に早々に行き詰まっていて、こんなものばかりが雑草繁茂の如く充実した結果、なりゆきで海外目線から見て本気モードのレベルにまでなってたんです…みたいな。  
 だからこそ、こんなサブカルを歴史回顧や伝統様式が重んじられる空間に場違いに持ち込んで文化価値を主張したり、いわんや計画的な国家事業として税金資本で取り組むようなものでは無いと思う。

 いかん、また失敗した。横道が長すぎである。
 ともあれ、そんなこんなで飾り気無く働いて腕を磨き、世界中の人々の実生活を支え発展させる物品をこの世の一番に仕立てて自由市場に送り出そうという目的意識が、今世紀に入って日本社会からすっかりと消え失せてしまったのだ。
 かくして、日本国内で何かあるたびに『タイヘンな事態なのだから税金を投じた国家事業で対応しよう』と騒ぐのが国政の定番になってしまっている。
 だが前世紀に衰弱し切ってしまったこの日本国の生産力が抱えているのは、『人間の理性が構築した経済の概念』の範疇では到底あり得ない、人知を超えた莫大な負債だけだ。最初から資金など無く借金しかないのに『税金を投じた国家事業』もナニもあったものではない。
 だがカネは、物理的に刷れば現実の紙切れとして手に入る。目前の、物理的には。

 冒頭の未来経済ワードを再確認しておこう。いずれ『コロナ・バブル』が語られる。

 半ば言いがかり風に集中攻撃になって心苦しいのだが、ここでまた文系の『経済学』なる学術領域が一体ナンの役に立っているのか考えてしまうのだ。
 『資本主義』『共産主義』なんかの基礎概念を、せいぜい高校までに習う範囲で理解した、それ以上のマトモな学術体系を見た記憶があんまり無い。なんでこんなもん、使えもしないのに国公立大学の学部に置いてたりするんだっけ?
 資本主義も共産主義も、今や素のスッピン基礎概念のまま一目瞭然に現実作動している事例が無いのは納得するが、チマタの経済番組やビジネス書で浮いては消える当代流の経済学って、どれも浮世離れした勝手な絵空事コンセプトを『口先語ってるだけ』で、すべからく最初から現実との整合性論議も現実諸問題への適用検討も無策カラッポの、ただの空論遊びにしか見えないと言ったら怒られるだろうか。
 いや偉そうに腹立てるほど人並み以上の知恵があるなら、そして文系・経済学を究める社会層が実在するなら、いいからまず自爆テロ非国民犯罪者政権が『また』1兆何千億負債を積み足すだとかいう閣議決定とやらを、強制停止させられない理由が判らない。何の抵抗もしない性根が理解できない。

 子供たち若者たちには盛大勉強して人生で使える『チカラ』を身に付けて欲しい。
 だが多少マシなガッコ出たとか、見てくれ仰々しいだけの学者の看板ぶら下げたとか、その程度ではリアル生存競争でクズの役にも立たないという事実もよく見憶えておいて欲しい。知識という情報は大切だが、それだけで終わっては、現実に作用するチカラにならない。
 そこまで判って効くチカラまで手に入れて、世のため人のため存在意義のある『学力』なのだ。バカで無能な大人どもの惨めな失敗を見抜いて超えて、直していくんですぞ。では引き続き、御幸運を!
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【873】御伽噺で語り継ぐ絶頂至福の独裁帝国 [ビジネス]

 今年も8月6日の広島原爆記念日を迎えたが、やはり今年はコロナ感染症の話題を。

 吉村大阪府知事によれば、市販もされているある種のうがい薬に新型コロナの陰性化効果があるかも知れないとのこと。本人から先回りで自己申告があったけれど、ホ、ホントかよ…?
 ウィルスという非生物・ただの遺伝子レベルの情報メディア相手に殺菌効果の薬品という、単純な理屈としては行き違えるはずの位置関係なのだが、まあ試して危険な副作用が心配されるものでもなし、一般社会に情報を投じて感染確認数への反応の出方を見るという手はアリだと思う。
 そう、日本社会が阻止すべきは『医療体制の不足による不当な重症・死亡』なのだ。

 もう新たな感染そのものを絶対阻止しようなどと考えても無駄だし、少なくともこの日本では、幸運にも感染して打つ手なしでただただ重い症状に苦しみ、命まで落とすなどという心配はしなくて良い。もちろん感染拡大に伴って、確率問題として重症化例・死亡例は出てくるはずだが、それは地球上を生きる人類として必然のなりゆきであり、何かが行き届かなかった手落ちとしてネガティブにカウントすべきものではない。

 そしてもうひとつ、我々は国民生活を維持するための社会のシステム稼働を破綻させてはならないのだ。こっちは待ったなしというか大量出血の真っ最中であり、失血死を食い止めねばならない。
 現時点でこのウィルス疾病は、まだ『どうせみんな感染するんだし、感染してもどうってことないモノ』として構えを解くまでには到っておらず、社会のどこかで感染拡大が進んだとなると事実確認と対策が必要な段階にある。人命が失われるほどの凶悪性はほぼ解消しているものの、感染現象が発生した現地とその直接関係者の行動範囲では社会的な活動を緊急停止せざるを得ない。
 飲食店ならまず営業停止せねばならないし、個人間の会合でも当事者を一旦は拘束して調査することになる。その間、そこで動いていた経済活動も情報処理も凍結し、時間だけが過ぎてしまう。

 だから店員さんにしても集会場の職員さんにしても、感染ハブのセンター役になってしまわないよう、職場主導で検査を受け陰性であることを確認したりもするということだろう。これはこれでその時点での未感染を確認する意味は間違いなくあるのだけれど、その検査直後に感染してしまう可能性についてはどうしようもないワケで、正直そこまでやったら後は運任せに甘んじるしかないのだ。つまり。

 体内の新型コロナ・ウィルスを減少させる実効力が僅かでもあるならもちろんのこと、『検査して陰性』の結果事実が稼げるなら、それも『十分な無症状者の社会参画GO判定』とプラス勘定することにして、とにかく『問題なく動ける連中には社会を稼働させる』という考え方はひとつの正攻法である。
 これだけ情報も出回っていることだし、本当にヤバい雰囲気で体調悪化しているヤツがいたなら、速やかに医療機関の網にかかってくるはずと割り切って良いんではないかなあ。

 さて前置きが長くなったが、前回の続きである。敢えて挑発的に切り出そう。
 言っちゃ悪いけどさ、日本社会の文系の勉強って社会の役に立ってなくね?

 文系というからにはまずベタに文学部を例に採ると、そりゃ世の中のありとあらゆる文章表現について研究してくれるのは良いとして、無論そこには人それぞれ同一単語に抱く語感のばらつきや、同一意思表示に使う言い回しの好き嫌いみたいな調査対象はいっぱい出てくるんだろうさ。そういうのを公共言論に求められる機能性や、文芸で競われる芸術的訴求力みたいな『コミュニケーションの目的』に関連付けて整理し、日本語の用法体系を完成させようとする学術意識が見えないのは何故だ?

 特に法学部ともなると、人間社会がどんな管理コンセプトを狙ってどんな条文を書き落とし、その結果の実社会においてその条文が巻き起こした現実はどうだったのかが片っ端から列挙され、個々の事例について経緯が詳細まで分析され、『日本人の社会学的特性に照らして、日本語の法律条文はどう文字情報として具現化されるべきか』が追究され、現時点の正解がある程度でも方法論化されていて然るべきだ。
 シロート眼にもあからさまな『犯罪性文系工作』など最初から冗談にも出てこない『日本語コミュニケーション倫理観の常識』が、日本社会の知性として保証される。そのための文系学術域だと思うのだが。
 前回言及した、社会運営で人間が通過する『情報機能3フェーズの観点』について

1.真実から日本語情報への、表現過程での変換
 『日本社会の過半数が真実と認識している現実に対して、政府やマスコミの日本語情報は適切な表現と判定されるのか』、例えば直近の経済事情をもって
 『消費税率を下げるのは適切でない、一度下げると再引き上げが極めて困難だからだ』と解説するのは妥当なのか。

2.日本語情報から現実行動への、解釈過程での変換
 『日本社会の法律条文に書き記された日本語情報に対して、立法・行政・司法の具体作業は適切な現実行動と判定されるのか』、例えば国民の健康で文化的な最低限の生活を維持するため
 『税金資本のコロナ疎開を手段にして経済困窮者を救おうとする』ような操作を強行するのは妥当なのか。

3.日本語情報から日本語情報への、伝達過程での変換
 『日本社会に向け発信された日本語情報に対して、それを傍受した政府やマスコミの情報付加および追加発信は、自然で無理のない論理フローに基づく伝達なのか』、例えば今般のうがい薬に関する一連の論説に対して
 『吉村大阪府知事の説明が一転』『うがい薬の売り切れ続出を受けて迷走』などと報じるのは妥当なのか。

 これら各々の問題を前に、いま日本中の文系エキスパート層にいる奴等は、社会組織における自らの責務を放棄しているのではないか。日本語でメシ喰ってるクセに、日本語の悪用・濫用を不真面目にとぼけて放置しているのではないか。

 実は『表現すべき事象vs日本語文章の表記』の一致性・一義性を扱う『論理数学』あるいは『数理論理学』と呼ばれる学域が存在する。いろいろな対象事物に対して、それを語る言語規則をメカニカル的正確に機能させるための文明を、人間は、日本人は、ちゃんと開発して研究しているのだ。
 このソリッドな基礎概念に対して、文芸では個性的な奥行きある情報要素を含ませるために、さまざまな日本語の芸術的技法でアレンジを工夫している…という理解の仕方が成り立つと思う。
 日本社会で政治だ社会学だというと知らず知らず『文系』のレッテルがくっついてしまい、先入観で理系アタマの是々非々論議と別扱いする空気ができてしまっていることが、文系ニッポン国家運営が荒れ放題になっている一大要因なのかも知れない。

 龍宮城という安楽の架空情報に身を預けているうち、浦島太郎は衰えた老人になっていた。浜で虐められていた亀を助けたのは確かに善行だが、恵まれた安楽をその見返りに読み換え勘定する油断があったのではないだろうか。
 人間の都合などとは無関係に容赦なく展開する現実を忘れ、架空情報の口裏に調子を合わしてばかりいると、何もできず無駄にトシだけ喰って終わるという、案外コワい教訓だったりして。
 そう、嘘は時間の無駄、おかしいコトは指摘して修正しないと。ではグッドラック!
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【872】文系ニッポン殿さま気分の有罪判決 [ビジネス]

 長い梅雨がようやく明け、ふと気づけば8月になっているので、間もなくお盆の時期ってことか。例年なら夏休みに合わせて巷に溢れるレジャー企画がすっかりなくなっているので季節感が無い。
 子供たち若者たちにしても夏休みが大幅に短縮されている上、直後に上半期終了の節目を迎えるのだから、嬉しくない行事もいろいろ気になって一斉に遊びに飛び出そうにも飛び出せないか。こんな夏もあるさ、まあ大人しくしとくしかないかな。

 検査件数増による母数底上げ分はあるにしても、特に地方での感染確認数が急増した原因は、やはり少なからず税金ばら撒いてコロナ疎開を奨励したせいがあるのだろう。万遍なく地方全域とならず大都市近郊+沖縄というあたり、『いかにも』感が漂う。
 大都市と特定の疎開先の間で感染者が増えるぶんには、途中の交通機関で乗り合わせて感染拡大するのも概ねその範囲内に留まるものと推察される。ということは、盆休みの帰省がここに加わると、まだ新たに感染が急増する余地が、辺境地およびそこへの交通網に残っているということだ。
 今年は動かず節約に徹するのが吉だろう。返すがえす、初期のうちに外来入港のクルーズ船で感染者を確認できていて、その後もこれだけ致死率・重症化率の低い幸運に恵まれながら、一体この国は国際相場の何周遅れまで落ちれば下げ止まるのだろうか。

 これまで何度か述べている通り、私は少なくとも日本国内において、もう『感染経路を断絶して、未感染者を未感染のまま守り抜く』コンセプトの対処は意味が無くなっていると考えている。特段の後遺症や命に関わるような重症化を食い止めるための医療体制を整えたら、そこがオーバーフローしないよう加減を探りながら、経済破綻を避けるため社会稼働を以前に戻していく。それが現実解だ。

 こんな状況下で、大阪が『5人以上が集まる規模の飲み会を控えて欲しい』という初見で少々理解されにくい要請を出しているので、補足を入れてお手伝いさせていただこう。確かに『5人』の前後に何か感染確率の変化点があるというものではないと思う。

 だからといって人数を明確に指定して線引きしないと『あと一人ぐらい大丈夫』を起点にみるみる際限がなくなってしまい、具体的な行動規範として機能しなくなる…というのはまずひとつ一般論として、確かにある。だがそれだけではない。 
 この大阪のケースでは『ナウ確定的に詳細を掴んだ感染事例をもとに、効きそうな対策手段の可能性を狙って撃っている』というのが、最大のポイントなのだ。

 大阪では、最新の新規感染者の全確認数のうち大半が、ミナミの繁華街のごく限られた一角に集中しているところに着目し、まず当該ブロックにある店には営業を控えるよう要請を出すとともに生活保障策を施した。いっぽう広域に向けては、そこで発生したと思われる感染モードの発生を避けるため、飲食物や食器の交錯する会食を、一桁人数レベルに細分化する操作を入れてみたということだろう。
 現象の検出作業は釣り堀のサカナ、釣れないからといって『サカナがいない』とは断定できないのだが、逆に『ここに釣り糸を垂らして結構釣れた』という事実が掴めたなら、それを基準に現実的な拡大解釈をして、全域に効きそうな攻略法を決める戦術に勝ち目はある。
 釣り針にかかったその場所・その会合モードから今のうち考えられる限りの手を打って、釣果への感度の出方を観察するワケだ。

 死守すべきは『コロナ感染症向けの医療体制をパンクさせずに、発生都度対応でコトを落ち着ける』というところにあるのだから、コロナ感染症専門に指定した病院のキャパシティに余裕があるうち、メのありそうな操作を試していく。これは理に適っている。
 国政がだらだらコロナ疎開に税金を垂れ流す今の流れのままでは、周辺地域の感染者を大阪市の指定専門病院に受け入れざるを得ない展開も予想されるし、盆休み前に間に合う限りの実効策を確保しておく意義は大きい。というか、必須というのが普通の感覚だろう。

 社会生活の現場最前線を抱えて四苦八苦するのは他の自治体も同じだが、現状の大阪府市と比べると、総じて『出来の悪い文系アタマでもがく』イメージが目立つ。そもそもこの日本国内で政治というと、最初から『理屈はデタラメ』『善悪もデタラメ』『採算もデタラメ』が当たり前とされる、おかしな別世界観が常識になっているところに、いま日本国民全員で気付いておこう。
  『真実から日本語情報への、表現過程での変換』
  『日本語情報から現実行動への、解釈過程での変換』
  『日本語情報から日本語情報への、伝達過程での変換』
 これら全てに、恣意の曲解や歪曲で自称支配階級の勝手都合を捻じ込む一方、法律順守に籠められた絶対効力性を傘に着て金科玉条の支配権として悪用する。
 この『情報化社会における犯罪性文系工作』が横行してしまい、馬鹿馬鹿しくなった日本社会組織の自我がそれを指摘したり、それに対して抵抗することを諦めてしまった結果が、この日本社会の惨憺たる現状ということだ。

 こんな日本政治の長らくの慣習が、病原体感染症という極めて理系な問題に直面したのだから、どうしようもなくなって発散するというのも自然ななりゆきだろう。
 『犯罪性文系工作』は、日本語で交信しながら生きるヒトを相手にする限り、通用・強要を当て込めるものだが、そんなものは病原体にも感染拡大にも全く通用しない。
 日本社会全域に向けた劇場型デモンストレーションとして、『国政=所詮は文系工作なんぞ、前日どころか当日になっても根底から簡単に二転三転ひっくり返る』という事実が、言い訳なしの現実直視で周知徹底された。『いったん決めてしまったことが変えられないところに、日本国政の欠点がある』なんて、まことしやかに言われていたものだが、その実態はこの程度のものだ。

 ここまで明らかになっただけでも、日本国がこの新型コロナ・ウィルスのパンデミック騒動を経験した価値はあったと思っている。実際こんなことにでもならない限り、人間とは『とりあえず何とかなっているんだから、まあいいじゃん。仕方ないじゃん』という現状容認の呪縛から離れられないということなんだろうな。
 だから、この機会に学習して直さないと。そのためにはまず生存、どうか御幸運を!
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