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【860】憧れの英雄のトラウマ [ビジネス]

 人種のハナシに戻ろう。北米のデモはその後どうなっているのだろうか。
 警察組織の解体ってのは、誰かが目立つ形で発言したのが、どっかのメディアに大袈裟に取り上げられただけなんじゃないかなあ。いろいろ問題もあるのだろうけど、例の一件を発端に北米警察組織の解体というのは、いくらなんでも現実的で無い気がする。

 特に海外にも出ず、生まれてこの方ずっと日本社会に身を預けっぱで暮らしてきた日本人は、『国という社会組織は、自分の暮らしに関わる全てについて良いコト悪いコトを判別し管理してくれている。だから悪いコトはしてはいけない、良いコトをたくさんしましょう、それで真面目、それで幸せ』という判定基準を何となく思い描きながら、大抵はそれ以上気にもせず一生を終える。
 この人生観は『法治国家』『法治社会』なる単語の響きとも折り合いが良いので、ナウその時点で法律という名の文面情報さえあれば、ああ日本って法治国家なんだなあ安心安心、ということにもなる。
 だが国民の過半数が、よく考えもせずさっさと安心にイチ抜けしようとして、法律の内容に意識を及ぼさなくなったなら、その法律に書き記された情報がどうであろうと、国家社会の現場はそんなものとは無関係のなりゆき任せにしかならない。
 今その法治国家でも何でもない『なりゆき』の姿に、日本人の国民性が顕れているのだ。不正、汚職、不健全財務。

 とりあえず組織の1ピースになっておけばラク、あたりを見回して反感を持たれなければ勝ち、組織の機械的な仲間意識のしきたりが当面の衣食住を工面してくれる。それが集団自殺の神輿担ぎでも。
 沈没船のジョークで言われる『みんな飛び込んでいるから、とりあえず合わせて飛び込んでおけ』というのは、真理を突いているんだろうな。ただ調子を合わすだけのバカは、死んでも治らないというワケだ。
 …あ、沈没船のジョークは有名だけど、若い人たちには隅々いきわたってないか。

 まあ海で船が沈みかけたと思いなさい。少しでも重い積載物を減らさねばならず、海に捨てられるモノは全部捨てたが、まだ間に合わない。もう乗員乗客が海に飛び込むしかない。
 ここで自ら進んで飛び込む役を買って出させるため、どう声掛けすれば良いかを、お国柄に応じて台詞ひとことで列挙していくというものだ。例えば、
  イタリアなら『飛び込んだらオンナにもてるぞ!』
  ドイツなら『飛び込むのが規則だから飛び込め!』
  アメリカなら『飛び込んだら英雄になれるぞ!』
 そして我が日本は『みんな飛び込んでるから、とりあえず従え』とされている。
 そう、日本人は自分主体でこの世を生き抜くイメージを確立し、そのために物事を、自分や仲間や社会組織を、おのれの判断で決めていくメンタリティが弱々しく、何をするにも徒党を組んで『誰が決めたか判らない』の隠れ蓑をもって行動力のスイッチが入る傾向があると思う。

 “OK, that’s it!” 『よし、それで行こう!』と結論を出すや否や、私が背を向け
 “…Probably OK. Perhaps OK. maybe OK.…might be…say, if it was OK…”
 『まずはOKさ。多分OKだ。よく判らんが…もしかして…ま、OKだったとして…』
と指でうじうじ宙に渦を描きながら声をか細くしていく。すると現地スタッフがすかさず相方役に立って、
 “He-e-e-y, you! Don’t be a JAPANESE!!” 『おーい、日本人はやめてくれ~!』
と突込んでくれて、私が大袈裟にキョロキョロあたりを見回す芝居をしたところでカーット!、しばし笑い合ってオシマイ。北米のあっちこっちで仕事しながら、よくふざけたものである。あはは、わたしゃフツーの日本人とは違うのだ【313】

 情報処理フローチャートの中にあって、いま自分がどこのどんなステップにいるのかが自他ともに明確であり、そこで下した情報処理に自分のサインを入れて根拠を保証し、次工程にコトを進める。北米社会では、このスタンスが自然に共有されている感じがする。
 まあ未開の原野で出遭う『素の人間』など目的意識もへったくれも無いイチ生物に過ぎない訳だし【501】【502】、そこまで立ち戻らなくとも、自分たちが描く生産性の概念にぴたり噛み合って協力できる人間との遭遇は、あの広大な北米社会においてタイヘンに貴重なのだろう。
 個別に自我を完結する個々人が要素となり、社会組織を成して『組織の自我』を完結し、その上位スケールのパワーを得て、世を勝ち抜いて生きていくために、『個人の誰ひとりのためでもない合理性』という概念がわざわざ大切に意識されているのだと思う。
 沈没船のジョークでも、個人の判断でみんなの利を率先する行いが『英雄』として讃えられている所以である。せいぜいハリウッド映画やアクション・コミックを見憶えて、派手に判りやすい正義の活躍でもってアメリカン・ヒーローとする理解にしか及ばない日本人が多いのではなかろうか。

 かつて北米への移住を誘われるにあたって【280】、『キミがこっちへ移住してくるなら真っ先に連絡をくれ。家も仕事も、ひと通りの生活を心配ないとこまで用意するぜ』と何度か言われたのを思い出す。
 確か女優の工藤夕貴さんだったかなあ、ハリウッドで活動されていた頃、英語習得が必要となるや、そのための学校から通学用の車から、全てがお膳立てで揃ってしまって驚いたというエピソードを読んだ記憶がある。『コイツと一緒なら生き抜ける、成功できる』と判断したら、そのための必要条件は即刻の現実ベースで整え、その効果を得て生き残り、頭角を現わし、栄華を極める文化なのだ。
 だからこそ『成功者』の社会への寄付行為や無償ボランティア活動が、特別な善行のイメージも無く一介の出来事として起こるのだとも思う。北米を『世界の警察』ならしめた国力も国際意識も、こんなお国柄ゆえ成せる業だったのではなかろうか。

 そんな北米社会で『できる』『やれる』条件が全く同じなのに、何かと扱いに差がついてしまうのだ。社会の正式ルールとして平等が保障されているはずなのだが、日常生活のそこここで合理的な理由も無いのに差がついてしまう。
 合理性コンセプトのもと最適解を尽くす北米社会は、確かにその通りなのだが、人類の理知で組み上げてきた合理性の、その組み上げる前段階の地盤の深みに、よく解らない、どうしようもない軋轢が染み込んでいる感じだ。
 その軋轢が『壊れやすく危うい社会層』となって潜在しており、きっかけがあるたび今般のような暴発事故を起こしているように見受ける。

 これを外野の我々日本人があげつらって、したり顔で解説することに意味は無い。
 日本にもアイヌや琉球など民族問題は存在するのだが、それにしても奇跡の日本列島に育まれた平和な日本社会のはずなのに、そしてその平和な歴史の象徴が今も天皇陛下や皇室として完璧に維持されているのに、その傘下の日本人たちが、何故こんな卑しく醜いチカラ関係や悪意の階級差別意識で、不正や背徳ばかり繰り返すような下等生物にまで堕ちたのだろう?

 手の打てそうなところに焦点を合わせるなら、やはり合理性に向かう目的意識が生来ひ弱すぎるところに日本人の弱点がある。高度経済成長期、それを日本社会の現役大人世代は『政治文化の遅れ』として自覚できていたのだが【734】、追いつくどころか水をあけられてしまっている。
 だが前々回述べた通り、大阪府市政がウィルス対策にその弱点を打開するきっかけを見せ、遂にこの度、いよいよ合理性基軸の行政構造の実現=『大阪都構想』が住民投票に向けて動き始めた。
 個人都合に囚われない合理性は自分たちの手で組もう。ではグッドラック!
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