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【858】チップ社会メニューの0円スマイル [ビジネス]

 前回に続いて、少し北米社会で私が感じた『空気』のハナシを。
 ロスで長く寿司屋をやっているという大将の言葉を思い出したのだ。

 『こっちの方がダンゼン人情に厚い。こっちの方が絶対イイっすよ。
  路肩に停車して故障車を一緒に押してやっていたりするのは、こっちだけだ』

 う~ん、一概に脊椎反射で賛成はできないが、解る気はするんだよな。確かに北米社会では『協力して問題解決する』『できることは進んで手を貸す』という社会通念が、『人として備えるべきメンタリティ』として普及している気がする。
 何しろ小学校の教科書で習った通り、世界中から人が集まる『人種のるつぼ』であり、それこそ着の身着のまま無一文のナウここから今後の全てが始まるヤツだって大勢いる。まず本人の意識にある出生地の社会性概念の完成度からしてバラッバラだし、仮にどんなに高尚な社会の出身で不自由なく育っていても、いま衣食住が足りなければ積極的な協力や申し出の動機が起こるはずもない。
 そんなのが社会のどこにでも大勢いる中で、生活がある一定水準に達している社会層の間では、その幸運をしっかり分かち合って『社会性』なるものをお互い正常に保っていこう…とする気遣いが『空気』となって普及している感じがするのだ。

 オフィスやホテル、ショッピングモールなんかで押し引きのドアに両方から近づいた時、特に向こうが引き側になると、確実に少し歩を速めて一足先にドアを引き開け『さあ、どうぞ』と手で軽く道を開くジェスチャーで待ってくれるのが北米流だ。
 そうなったらドタバタせず、しかし相手を無駄に扉を開けたままにさせない迅速さで“Wow, thank you!!”なんて愛想を振りまきながら通過するのだが、向こうもその時ほっぺを持ち上げてにっこりと返してくれる。
 何気な定型作法に判りやすくマジの感情を籠める文化が定着しているのだと思う。

 『文明社会を求めて世界中から集まった人間たち』の膨大なバラツキが新天地で異種交錯する社会空間で、『自分への本気度』に対する米人の感度は非常に高いと感じる。恐らく北米に限ったことではなく、私が外国語習得のコツの第一番目に『相手への好意を維持し、言いたいことを諦めず誠意を持って正直に伝えること』と断言する所以だ【82】
 世渡りのテクニックとしてではなく、手を抜かずしっかりガチの親身にまでなるところがポイントで、これが通じれば、少々大袈裟だがお伽噺でくるくると何でも魔法の如く片付けてくれる妖精たち召使いたちでもいるのかのような出来事にしょっちゅう遭遇する。寿司屋の大将の言う通り、日本社会では一瞬ぎょっとするくらいに腹を割って、何かにつけ心揺さぶるような手を焼いてくれるのだ。
 こんな文化背景があるから、特に飲食店やホテルなどのサービス業では末端の個々人にまで随分と裁量が与えられていて、本人が認めた客には自由に待遇ランク?を上げられるんじゃないかなあ。
 『欧米は個人主義』という決まり文句はあながち外れてはおらず、個人の客商売としてのビジネス完結度は、底辺層までなるほど高いと感じる。組織のフロントリーディング度が高いのだ【188】【380】

 もっともソリの合わない相手とは当然そんな関係にはならない訳で、つまり『相手と信頼を構築して協力的に暮らす』という幸運な共生形態が、明確にそれと目的意識をもって維持される精神風土なのだろう。
 いっぽう日本社会は、相手との信頼の証が『社会の常識』という定型作業パッケージになっていて、まず『社会の決まり事だから、信頼している相手に施すものとされるルーチンワークを機械的に実行する』という行動原理が上位にあるように感じる。それはとても優れた社会規範なのだけれど【403】、時として相手に照準を合わせた好意と信頼が欠け落ちる『疑いの余地』ともなる。
 『社会の常識だからそうしておく』『決まり事だからそうしておく』という社会空間相手の慣習と、『お陰さま、お互いさま』『ギブ・アンド・テイク』で相手の人格を認め共生する概念が、境目なく等価に流通するとでも言うのだろうか。その場の都合として受け手側で適宜に解釈を選んで、受け手側で納得して納めておきましょうや…みたいなのは、他所者がいない前提が通用したが故の、日本特有の文化だ。

 御存知の通り『日本の職場は効率が悪い』とちょくちょく言われる。だが少なくとも私の記憶では、昔はそれほどでもなかった。
 まだ日本が世界第二の経済大国と言われていた時代、見境なしの限度知らずで職場の時間を過ごし、家族の事情も自分の健康もないがしろになってしまっている結果から、『もうちょっと仕事を早く終わらせられないのかよ』という理屈で、日本式は非効率だと語られることはあったかも知れない。
 だが今日語られるそれは、『日本人は、自組織のために採算性・生産性を自己管理する精神構造に乏しい』という意味に変わってきているように思う。さらに困ったことに、この批判フレーズをしかめっ面で取り上げる自称識者の日本人が、すべからくこのスタンスで真意を理解できていない。

 元々は豊かな日本列島の思い思いの地に根差し、変化に富んだ日本固有の自然を相手に、第一次産業の小集団的な運営を基軸にして育まれてきた組織観DNA特性なのだと思われ、個々人いろんなヤツがいるにしても、『社会の常識』の規格に合わせた生産性の高い出力作動が得られるのは大きなメリットであった。平和な組織の土壌は、コンパクトで豊かな島国の恵みだったのである。
 だが困ったことに、かつての農村・漁村集落の御近所付き合いで守られていた『社会の常識』は、超速進化を続ける現代社会にアップデートが追い付いていない。当代の高速社会システムがきちんとまわるだけの合理性志向に先立って、慣習や気分など全く実質機能として効かないムダな価値基準で、物事が意味不明の損害方向に進んでしまうのを見兼ねて、『日本の職場は効率が悪い』と言われているのだ。
 欧米式では、異質の人間同士がどんなに情操領域をたがえていても、それは別として、正しく生産的な組織稼働がドライに実行されるための申し合わせとして『契約』が存在する。これが『契約社会』の真理であると思われ、何でもかんでも書面化で物証を残すだけの幼稚な意義などではないのだろう。

 もしかすると、カネという情報媒体、通信技術の進化のままに無限の高速大容量化を遂げるこの人工文明アイテムを、大企業組織という形態をもって健康な生命体として切り回すのは、二十世紀日本人の民族性では無理だったのではないかという気もしている。
 かつてのホリエモン氏も【264】舶来の社長さんも【813】、当時の日本人が成し得なかった経済的な大成果を実現したにも関わらず、日本社会は彼等に学ぶどころか嫌がらせと爪弾きでしか反応できなかった。これを『出る杭は打たれる』程度の理屈でしか理解できないうちは、日本経済の強化など口走ったところで所詮は寝言の域を出ない。

 おっと良い分量になってしまった。このハナシはまだもうちょっと続く。
 効率の悪い日本社会は、早々にウィルス流行を検知できていたのにみすみす感染を拡大させ、誰も要らないごみ屑ダメノマスクをばら撒く一方で困窮者への支援金はさっぱり届けられず、あれからこれから無駄な論争だらけでひとつも物事が片付かない。
 効率の悪さが、遂に国家組織の死活問題にまで達している。このまま放っておくと、端っこから死に始めるんだろうな。

 ちょっと先走ると、今般日本じゅうから羨望の眼差しを浴びた大阪府市政は、このポイントに命中した改善が進んでいるのだ。橋下大阪維新改革に始まり、相当の荒療治を経てここまで変わったと気付こう。
 ニッポンお先真っ暗ではないので、今を生き抜きましょうや。引き続き御幸運を!
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