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【1233】呉越同舟最強セッションの御機嫌伺い [ビジネス]

 阪神大震災から29年かあ。東日本大震災2011年が12年ほど前で、今年がこの北陸の震災。他にもちょくちょく震災はあったから、やはり日本列島は『地面が動き回る変動帯』の島なのだ。

 私が小学生の頃、子供向けの科学雑誌に『日本は地震が多いので高層ビルは建てられない』と解説されており、それでも当時の技術の粋を集めて常識を破ったのが霞が関ビル147メートルとされていたのを憶えている。
 昔も今も変わらない特性の地盤に、軽量骨格タワー構造とはいえ600メートル超の東京スカイツリーが建ち、今や300メートルのビルも珍しくなくなっているのだから、大した建築技術の進歩である。

 平地を求めて低所に都市構造が発達しがちな日本列島において、地震発生時の液状化現象による地上構造物の沈下が起こりやすい事実が、今般の北陸の被災状況から改めて見て取れる。
 地面強度に対して重たいものを上から載せて暮らす限り、ああなるのはキホン避けようがなく、だとするとやはり電柱に送電線は日本の街並みの生命線維持ラインならではの景観と考えて、埋設など無駄な土建工事をせず現行踏襲で構造・機能を進化させていくべきなのではないかと思う【545】

 新千歳空港では旅客機同士の接触事故が起きており、ビミョーに『航空事故連鎖のジンクス』だとか形態共鳴だとか非サイエンス的ながら気になるんだが、今しばらく静観してみよう。

 NHK朝ドラでまだもう少し続けてみるか。
 GHQ駐在員のサムが元・鈴子付き人のサヨに求婚し、一緒に渡米することになりそうな流れになっている。そう言や『カムカムエブリバディ』の安子ちゃんもGHQのロバートに連れられ渡米したんだっけ。これ、ドラマ筋書き都合だけのただの作り話でもなかったようだ。
 現代の目で見れば随分と大人しくさせられてはいたのだろうが、それでも当時にして欧米文化圏の女性は自己主張が強かった…と、これについては私の親世代でさえ洋式女権主張の実態は直接知らないはずだから、当時語られていた国際社会事情の一般論なのだと思うけれど、とにかくそういうことだったらしい。
 そんな押しの強い欧米の女性に比べて、慎ましやかで献身的な振る舞いが『躾』の領域で行き渡っていた大和撫子の精神文化は、進駐軍のオトコ連中にとってそれはそれは魅力的に映ったのだそうな。戦勝国だからといって家族が平穏無事に過ごせていた者ばかりだったはずもなく、進駐軍と日本女性とのマッチングが成立した事例は散見されたと聞く。全てが微笑ましくめでたい組み合わせだったかどうかは知る由も無いのだが…

 さてパフォーマンス現場の環境設定が歌から演劇に拡がり始めているので、今のうちに当時の音楽事情のハナシを駆けこんでおこうか。
 鈴子とリツ子にしても、彼女ら率いる楽団員たちにしても、業界仲間として仕事仲間として、キホン仲良く好意的で礼儀正しい人間関係の世界が展開している。なるほど生き馬の目を抜く勢いの潰し合い奪い合い無限バトルでは朝ドラにならんだろうしなあ。

 鈴子楽団員のメンバーたちは黙てんバックレもせず、ちゃんと引き抜きの手が伸びてきていることを公然と白状するし、その場でギャラの釣り上げ交渉をふっかけたりもしない。何と義理堅い。
 本作のモデルケース御本人が実際どうだったのかはつゆも聞いたことがない…とまず断って、やはり劇中のああいう『伴奏を従えた歌唱』という形態のパフォーマンスの場合、当然オーディエンスの人気と関心は歌手が圧倒的に背負っている。要は、大半の客が歌手個人を目当てに来場する。
 興業の商品性の在処として、歌手個人に値が付くのは当然である。それこそ客さえ気にしなければ、興行元にとってバックバンドなんぞ要らないくらいだったんだろうな。
 看板歌手がいて伴奏サポートを調達するにしても、有名楽団のバンマスと後援パートの間柄にしても、少なくとも私が聞いた話としては、すべからく稼ぎ頭たった一人がギャラ総額の半分以上をガメていた例ばかりである。ということは、残り半分あるいはそれ以下を結構な人数で取り合う構図になるしかない。

 もちろんバックパート職層には怨恨さえ含んだ根深い不満が蔓延することになるのだが、自分ひとり楽器を持って稼げるようなポジションにそう簡単にありつけるはずもないため、そこに居られるだけでまずはラッキーとして収まるが、しかし待遇の改善がチラつけば信頼関係や忠誠心をやすやすと上回る。
 終戦直後のGHQキャンプの仕事においては、それでも総じて破格の収入だったのが救いだとも思えるのだが、そんな荒んだ業界風土の賃金体系だったからか、当時のミュージシャンが実直で真面目な倹約家だったエピソードはとんと聞いたことがない【676】

 何しろタフな精神文化の競争世界ゆえ売れた方は売れた方で、どこまでが勝者の特権意識なのか、どこからがネームバリュー維持の駆け引きなのか知らないが、リハーサルで『アタシこんなバンドじゃ歌えないッ!』みたいな突然のクレーム発動なんてこともあったのだという。

 ただでさえ不平不満が板についちゃっているバンドメンバーとしては、控室で
 『ド下手糞のくせに、本来ならまずこっちに菓子折り持って挨拶に来いってんだ』
 『あのアマいっぺん…(集団婦女暴行を指す表現なので自粛)…してやろうか』
などと、お行儀のいい吐き捨て陰口発散トークも飛び交っていたらしい。
 当時のことなので、歌手が誰だとか声の調子がどうだとかでキーの高さに注文を付けられ、カラオケ操作パネルのシャープ印やフラット印のボタンを何回か叩く…ではもちろん済むはずがない。スタンダードジャズなんかは曲を自在にバンバン移調させて演奏し、リハーサルで次々と試しつつ、こんな会話を交わしていたのだから凄い。

 その頃マネージャーは関係者一同の平和な合意のため遁走し、華やかなステージの興業成立のため、あちこちに平身低頭で悪戦苦闘していたと思われる。
 観客が現実を忘れて夢中になるステージ上のチームワークは、あながち和気あいあいココロはひとつの信頼関係で、複数の才能が美しく組み上がって達成されるものでもないってことなんだろうな。

 社会組織の最適化にあたり『みんな平和にニコニコ仲良しである必要は無い』と私は考えているのだが、上記のような世知辛くも生命力強く逞しいエピソード群が、かなり根拠として効いている。
 わざわざに暗い闇や汚れた泥の部分を想像しながら朝ドラ観てもしょうがないんだけど、まあこんなウラ話もあるんだなあと興味を湧かせて面白がっていただければ幸いである。
 よし、楽団ウラ事情のネタをクリアできたし、タナケン編の新展開にグッドラック!
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【1232】孤独な目立ちたがり屋の1st.インプレッション採点基準 [ビジネス]

 北陸の被災地にも厳しいが、全国の受験生たちにも厳しい寒さだなこりゃ。
 避難所にしても試験場にしても、大部屋の暖房は効率確保が難しい。部屋が温度成層になってしまって、せっかくの熱がどうしても天井付近に偏ってしまうからである。

 かつて照明や空調設備の取り付け工事なんかもちょくちょくやったりしたものだが、普通に我々が暮らすこの居住空間、冬場に脚立ひとつ立てて上がると、あっという間に汗だくになるほど暑いのだ。目に見えないので気にならないのだが、夏場お馴染み30度以上の暑気あふれる世界がすぐそこにある。
 個人住宅なら、下の階で暖房を焚いて常用する部屋を決めておけば、真上の部屋は床暖房とは言わないまでも、案外と馬鹿にしたものでもないくらいの熱回収ができる。灯油もお高いこの御時世なので、うまくやりくって財布にお大事に行きましょう。

 温熱効率としては室内容積の高い位置に拡がる空間を制限したいところだが、天井からの圧迫感もさることながら、頭上に一時性のデバイスを設置するのは安全上の観点からしても好ましくない。
 故に、夏場に使う扇風機を持ち出してうまく室内に循環流を作る…という生活の知恵は現実的かつ効果もかなり期待できるもので、おうちにしても大部屋施設にしても『効く』風流れを探って見つけて室内空気を循環させるのは、暖房の効きの向上にかなり役立つ。いろいろと考えて工夫してみる価値がある。
 但しその循環琉には室内の湿度も乗っかるため、思わぬ位置の壁面や床面などに結露が発生することはあるはずなので、そこんとこ一応は気を付けて。

 さて引き続きNHK朝ドラ関連の話題で続けよう。さすがというか、終戦直後の経済環境にしては皆さんお行儀を守って生き抜いている。
 ポピュラー歌謡の有名歌手の付き人が、サヨみたいな日常用の和服で暮らしていたのかどうかは知らない。ただ我々の親世代から聞いた話では、女性が素足を人目にさらす習慣がまだ当時の欧米社会には一般普及しておらず、浴衣に下駄・草履で街角を歩く日本女性がムラッときた米兵に絡まれる事件が散発したそうだ。屋内は自宅内でも土足で過ごす欧米式文化において、女性の素足はもう他人でもなくなった関係の相手に、公衆の面前でもない場所でしか見せないものだ…という社会通念が根強かったとのこと。
 お銀さんもそんな日常の折、米兵に組み付かれたのかなあ【672】
 果たして、路地裏で歌って踊ってサヨとサムみたいな微笑ましい馴れ合いがどのくらいあったものなのかは知る由も無い。ひとつ確実なのは、こんなことを思い巡らす1945(昭和20)年以降、戦争あるいは敗戦という『社会の御破算』の憂き目も二度と見ないまま辿り着いた結果が、現状この日本社会だという事実である。

 ところで世に溢れ社会を生きる情報体というのは、やはり個体間の相互理解としてコミュニケーションするのが情報処理の原点なのだろうか?要は『会話なのか』という疑問である。
 いまこの世の、ぱっと見いの発現頻度や機能展開を見る限りは間違いなくそうなのだが、これはただの現状到達点に過ぎないのではないだろうか。
 『生物の情報化』が進んで、個体間の相互作用がただの巡り合わせの偶然任せでもなくなり、『社会組織』という上位スケールの情報体が形成された。つまり『話しかけたら受け止める能力を持ったヤツがほかに存在する』という情報社会空間の出現である。

 もしかすると進化の過程で、偶然にも自分のウチウチだけでなく外界からの受信回路をも備えた、『絡みに行って通じる』タイプの同種がたまたまいる空間で、素朴なメッセージをナニか思い入れつつ目前の空間にただ放った個体がいたのではないだろうか。
 最初そいつは誰かが受信して響いてくれるとも思っておらず、普段からそういう『受信者がいて初めて、結果的に発信につながるような行動パターン』を孤独に繰り返しながら、気ままに生きていただけなのかも知れない。
 つまりパーソナル事情で交わされる個体間通信よりも、拡散型のマスコミ発信と一斉受信の方が、原理的に見て時系列の上流側にある可能性を考えてしまうのである。

 『会話』よりも『パフォーマンス』の方が、人間の、というか生物の、通信機能の発達の源流に近かったりするのではないかなあ。
 いちいち目前の相手とタイマンで何かを語り合いつつ発信内容を模索するためには、目前のそいつ個人に通じて達成する目的が要る。これ結構ムツカシクないだろうか。
 いっぽう受信者を特定せず一方的に発信するのだとすると、嬉しいからついついやっちゃうような、悲しいから心ならずもそこに落ち着いて収まるような、原始的・本能的な生体反応の顕れのようなものさえあれば、それを起源としてコミュニケーションが起動するのではないかと考えられる。

 相手を決めて話しかけるよりも、思わず歌い出す方が早かったのではないだろうか。
 つい歌がこぼれ出るくらいなら、踊り出す方がなお早かったのではないだろうか。

 人間どもが現有の社会組織で日常会話を交わしつつ、歌や踊りを特殊スキル扱いで愛でたり競ったりしているが、それって随分と窮屈な勘違いをしているのかも知れない。
 情報体としての生物たちが辿ってきた受発信進化の歴史において、やたら複雑化させシチ面倒くさい高次ルールで習得しにくくしてしまったのは日常言語の方で、そっちの不自然な情報体系に『情報体人生』の比重をかけてしまっているような気がする。

 考えて御覧なさいな。普段の会話って、言って良いコト悪いコト、タテマエにホンネ、慇懃無礼に口先三寸などなど、交わされる言語情報以外のややこしい裏含みが多すぎる。コトバを受信者の義務として埋め合わせて解釈しろって言うんだろ?
 言語通信の形態として高次の産物であることは認めるが、発信者と受信者がくっだらない『忖度』の特例コード表を横行させて、本来の意思疎通がデタラメに混乱したりするようなら、それは本末転倒としか言いようがない。

 『霞が関文学』みたいな劣化退廃型の痴呆慣習がいい例だ。あんなもの早く潰そう。
 歌って踊る動物たちの方が、情報化の到達点を遥かに種の繁栄に活かせている。

 いつも自然に感じるまま思うままを精度よく発信し、正確に受信されたい。
 この『通信の原則』を忘れた人間なる情報体に『人間の尊厳』などあり得ない。
 そんなもの情報的に定義しようが無いからだ。

 『自分の通信には責任を持つ』、明日の超・情報化社会の参画理念にグッドラック!
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【1231】勘違い切換表示のアナログ・デジタル変換器 [ビジネス]

 北陸の震災犠牲者が200人を超えたという。今もまだ捜索は続いている。
 羽田の衝突事故は、とにかく通信記録が正確に見えない限りは何も判らない。
 どっちも大変だが、いま私ごときが無駄な言論をする幕ではないなあ。
 ついでに言うと、私もまだ難しい内容を思考するほど元気になっていない。

 …ということで、前回からのユルい流れを続けましょうか。
 そう、キホン人間だけなのだよ、自分ウチウチに展開する内的情報処理について、ここまでの精度で対外的に発信できるし、発信するのは。
 動物たちにも、例えば『天敵が近いぞ』と察知して特定の鳴き方その他の反射反応が起こり、それを仲間たちが同じく『天敵接近中』と感知して、結果として一斉に逃避行動に移る…という個体間通信は珍しくない。
 そうではなくて、自分ウチウチに構築している『世界モデル』の事物や現象などを、絵図や文字などにして他の個体と共有する。ここまでやるのはキホン人間だけなのだ。
 まあ哺乳類や鳥類などにも原始的な言語と見られる通信文明が確認されるというハナシはあり、私もその通りだと思うのだが、明確な図法や言語があった方が解りやすいので今ちょっと置いておこう。

 人間は長らく『アナログ作動で組み上がった謎と神秘の生命体』であり、そいつが文明を発達させるうちデジタル形式による情報の管理・流通の技術体系を発明した。まあ大概の人間がこう考えている。

 コレ違うんじゃないのか?
 先に30億年生命の進化のなりゆきとして、複雑な情報処理を瞬発的にこなして地球上のややこしい災難をも切り抜け、その成功事例を記録・記憶して、適宜に検索してその先の未来に適用・応用もして、生存競争や環境適応を勝ち抜いた『デジタル情報体かつRAMストレージ生物』が自然発生したのだろう。

 その成功例が人間であり、もともとデジタルデータ原理の体内流通が完成していたからこそ、それを絵図や言語など情報ファイルの形式にまとめて、視覚や音声メディアに乗せて他の個体に向けて発信する発想が生まれた…っちゅうか、そっちへの進化の可能性が道を開いた。そういう順番なのではないだろうか。
 五本の指を順番に折っていける手指の制御性は、案外と数字の発明と一緒に発達してきたものなのかも知れない。馴染みの言語を饒舌に語る発音・発声の制御性も、生活の充実が要求してくるコトバの細分化と一緒に発達してきたものなのかも知れない。
 動物くんたちの中でも、やはり比較的複雑な情報処理を介して凝った生態で暮らす種の連中が、原始的言語のような高度通信をやっているように見える。さらに我々人間どもと規則的な応酬をパターン化して因果を記憶させれば、うまく懐いてくれたり調教されてくれたりして、種を跨いだ胸の内の交信も可能だ【68】

 順番が逆なんだよ。絵図や文字をデジタルデータ化して便利にしたのではない。
 源流の原理がデジタル方式だから、現代の電子技術で高速大容量で流通できるのだ。

 上記の原理を理解した上で『だからなんだけど』というハナシがここから始まる。
 人間は、どんどんRAMストレージ機能を高度化・高次化させていき、『記憶』から記録ファイルを引張り出しては自分ウチウチで捏ね繰り回した挙句、その成果物情報たる『脳内ナニナニ』『空想ナニナニ』『思惑』『理想』を、他の個体との率直リアルタイム共有目的の発信内容に混ぜ込むようになった。
 同じ『情報』なんだから、混ぜてしまえば双方見分けがつかなくなる。

 もうお判りの通りで、ときに『ウソ』や『思い込み』として、人間が現実と噛み合わない言動に迷い込む原因がこれだと考えられる。
 反面、ときに『夢』や『目標』として、人間がわざわざ現実の苦難に噛みついてでも、その先を目指せる原動力ともなっているってことなのだろう。良いコト悪いコト両方あるが、ヒトのこの進化フェーズは生き残るのだろうか、淘汰されるのだろうか?

 さて、古くならないうちにNHK朝ドラ前作『らんまん』のネタを回顧しておこう。
 模索期の国家権力による管理社会に反旗を翻し、その折には拘束され痛い目も見たイツマ教授だが、すっかり時代が進んだ深夜の『日本植物図鑑』の総力制作現場において、彼なりの『夢』=演劇博物館の設立構想を自由奔放にぶっていたのが微笑ましい。制作筋が登場人物ひとりひとりを大切に愛する顕れとして、いいシメだったと思う。
 その演劇博物館の具現化にあたり語られていた課題が、的を射ており面白い。

 『演劇とは、演じる者と見る者、人間の間にしか存在しない幻なの』【1202】

 脚本家が頭の中で設定した、物理的厳密には仮想の『現実』が台本に記録されており、その記録を読解した役者さんたちが独自固有の表現スキルを駆使して、ステージ上で『現実』に組み上げて観客相手に発信する。観客はその『現実』を受信する。これがパフォーマンスの本質だと私は理解している。
 観客席に座って、ステージ上の『現実』に反応する自分の1Fリアル円フロア通信に身を預けて、自分ウチウチに自分なりの『世界モデル』を展開させる。これが観客の情報的スタンスなんじゃないだろうか。

 演劇文化の物的ツールや精神文化の史実情報を展示するところまでなら、普通に博物館として作ることが可能だろうが、上記のイツマ教授の台詞を聞く限り、現場で起こる『ステージ上の現実』について、来場者に体験を交えた理解にまで到達させようとする意志が感じられる。その志の方向と高さには手放しで賛同するが、現代の体験版・仮想現実テクノロジーをフル活用しても、なかなか達成が難しそうだ。

 まず人間生来の体内情報処理のスピードだけは、外から何の外力操作も受け付けようが無いから負からない。ファスト厳禁どころかスローやリピートで、十分な深さで演劇に触れ、体内外に交錯する情報に浸ってようやく理解の対象になるのだから、収益性の施設にするとえらく効率が悪くなってしまうのは間違いない。資金繰りがタイヘンだ。
 イツマ教授のあの台詞が生み出された背景について『らんまん』脚本家さんの演劇博物館の構想がどのくらいのものだったのか、お話をいつか聞いてみたいなあ。

 以上、相変わらずアタマの中の関心事を話題にして、思考展開できるよう解説していく順番を、きちんと交通整理できるほど思考力が無いので、今回はこのへんで。
 いまリアルvsバーチャルに単純化され、手早く間に合うならそっちでいいじゃん的な選択基準になっちゃってる通信プロセスなのだが『必要な情報を組織に効かせる』ことを考え、きちんと通信しないと無意味どころか自滅する。御慎重に。

 スマホやネットがあろうがなかろうが、何人振り向かせて何人コトバが通じるかだ。
 超・情報化時代を勝ち抜く『情報生命力』だと思うね。その発信にグッドラック!
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【1230】『AIレ可愛や人工知能』のWEB目線 [ビジネス]

 震災の犠牲者が120名を越えてきた。ただ正月を過ごすつもりだったはずだろうに。
 御遺族にしても、この寒空のもと自分が住むところからしてただでは済んでいないだろうし、同じ日本列島のあっちとこっちで起こっている現実の差に唖然とする。

 もっとも地学的視点において日本列島は『変動帯』に位置するのであり、いま目の当たりにする現実は決して理不尽なものでもなく、こんな時空間に育まれて日本人は今の日本人になった【276】【436】
 いま日本社会のそこらで飛び交っている言論は、そんな日本人の生い立ちに照らして、過去をよく理解した賢いものだろうか。未来の可能性を最善の方向に押し向ける健康で元気なものだろうか。

 私自身まだまだ油断できない体調なので、深い掘り下げはやめるにして、脳内既存のテキトーな関心事にざっくばらんな漫談を展開させて切り抜けることにしよう。
 前回に続けて少し補足しておくと、例えば熱いモノに触れて『アチっ!』と身を退くのは、高温を感知した触感のアナログ信号が発信され、恐らくそれは未加工のまんま当該部位のローカル神経に受信されての反応であり、アタマだの脳だの意識だのは介在していないのではないか…というハナシである。

 触ってアチチだけで済まない『情報処理』を含めた動作、例えば『あれ何だ?』に始まり『危険なモノだ』の判定を下し、目をつぶるなり避ける姿勢を取るなりするパターンにおいては、その情報処理を軽く速くしてROM(Read Only Memory=読み出し専用)装備するために『情報のデジタルデータ化』がなされたはずだ。そうでないと反射動作が間に合わず、その種は道理として、過去のどこかで絶滅していることだろう。

 こうして生体内を流通するようになった高速軽量のデジタルデータに対応して、生物は改めてRAM(Random Access Memory=書き込み・読み出し自在)機能を構築することに成功した。
 恐らく元々は生存確率を上げるために、反射反応ROMの入出力フローに一定の可塑性が残されたのだ。まだ見ぬ新規性の危険に遭遇すると、その対応プロセスの成功例を記録し定型化して入出力フローに加味していく…という流れでやっていたら、それが進化発展的に働いたのだろう。
 新規性の環境に新たな対応プロセスを構築して未来を生きていけるRAMストレージ生物は、みるみる生存確率を上げて地球上に種の繁栄空間を築き上げた。

 順番としては、先に体内情報のデジタルデータ化があって、そのデジタル原理を背景にして『記憶』したり『検索』したりする意識の機能が加わったと思うのである。
 …で、ここまでは生物の個体身ひとつという枠内に限っての進化論なのだが、ここから一歩踏み出し、人間は自分ウチウチだけに流通する『秘めゴト』だったはずの個人情報まで、言語その他の通信手段に乗せて対外発信するようになった。これが人間の情報的特異性ということができるのではないかと思う。

 例えば私が『ううう、痒いよ~痛いよ~』と日本語で愚痴れば、せっかくまだ正月気分から続く三連休で優雅に過ごせているアナタにも、陰鬱でイヤ~なこの精神状態が『文字通り』的確に伝わる。

 さて今回の本題は、実はここからなのだ。
 いま私は、ここにおいでいただいているアナタに不快な思いをさせようとして、上記の言語情報を発信した。もちろん快適に過ごせているアナタのことが妬ましく、自分一人だけしんどい思いをするのが悔しいため、巻き添えにして苦しめたいという目的意識が湧いたのである。受信者に特定の情報操作を加えようとして発信した。

 これがまあ、社会組織の情報空間に飛び交うコミュニケーションの標準形態だよな。楽しそうだったアナタの表情が曇るのを確認して目的達成、私は満足して気が収まる。
 そして後にこの事実情報を根拠に、私はアナタから『イヤなヤツ』の評価を下されることになり、いずれ私は公認の嫌われ者になっていく。
 発信者と受信者が、情報体としてはイチ対イチ同格等価の位置付けで、それなりの意味のある受発信を行い、それを関知する組織の中でお互いの相対的な立ち位置が決まっていく。これが社会生活における言語コミュニケーションだ。では。

 NHK朝ドラ『ブギウギ』の特設テーマ、ステージ・パフォーマンスはどうだろう?
 『目前の個人相手に、自分ウチの事情を具体的に発信する』という形態ではない。
 受信者にしても、自分個人を特定した発信でもないため体内情報通信に響かない。

 『実力あって当たり前、社員への観せ方こそ仕事術』という業務分析【1034】
 『我が事として避難行動に腰を上げない一般市民』への危機管理課題【1187】
なんかは、この領域の『相手を狙い撃ちしないが、天の声として浸透して響く』コミュニケーションが機能要件になっていると思われる。ナニが受信者の内部情報流通に到達し接する決定的因子なのだろう?

 朝ドラ劇中ではまだ戦中にあり、時代が時代だけに、いわゆるマスコミュニケーション・ツールを介さないステージ発信になっていて、至近距離で観客との個人的な以心伝心が交わされるシーンも目立つ。もうちょっと解りやすく非・個人vs個人の社会組織的なステージ影響力の描写があってもいいかも…とは思うのだが、今まだ難しいコトを考えられないので、今回このくらいにしときましょうか。

 忘れないうち書き残しておくと、風呂屋の玄関や汽車の中など『そこらへん』的なシチュエーションにせよ、設備の整った専用舞台での大掛かりな歌劇・歌唱ステージにせよ、本作は明らかに意図的に、ワンコーラスだけにしても頑張って劇中曲のノーカット版を放映し切っているところが見上げた心意気だ。
 毎朝一話15分枠は負からないから、その日は殆どストーリーの進展が無い放送回になっちゃったりもするのだが、朝ドラとしてこの果敢な内容構成のチャレンジはアツく応援したい。こんな機会でもないと、今どき対面ステージ・パフォーマンスを改めて見聞きすることって本当に無くなっていると思う。

 便利な配信メディアが次々と開発され、時間とカネを消費してライブの現場に出向かずとも、パフォーマンス観客として満足度の高いコンテンツが容易に手に入るようになった。これはこれで社会の利便性の一面であり、否定的に論ずることに意味は無い。
 だが結果的に現場以外の情報領域が重たくなって、現場以外の情報世界だけで自然と満腹になり、何よりそれだけで時間やカネを使い果たしてしまい、現場コミュニケーションが『意識の外側、知らない世界のコト』になってしまうなら、それは問題だろう。
 自分個人ウチの情報処理に響いてくる受信回路が開いておらず、そんな回路の存在を生まれつき知らない人間たちが大勢いたところで『社会組織』にはならない。

 デジタルデータ形式は軽くて速くて、現状ありもんの機械文明の適用だけで、人間を含む地球上のあらゆる生物を天文学的な勢いで圧倒する情報処理が可能である。というか、既にそういう現実になっている。
 同時に、たかが人間ごときに『響く』かどうかなんぞ、情報のロジカル演算処理とはまるで無縁の独りよがりな価値体系に過ぎないのだと理解しておかねばならない。

 必要に応じてなのだが、『ヒトに響く』理知性は特別に造り込まねばならないのだ。
 『響くステージ・パフォーマンス』周知普及のため朝ドラ後半戦もグッドラック!
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【1229】大荒れ新年の時間遅れ祝賀カレンダー [ビジネス]

 何ということだ、正月一日の夕方に大震災とは。気の毒なことこの上ない。
 そんな翌二日の夕方に今度は羽田空港の滑走路で飛行機の衝突事故だって言うんだから、すっかり気おくれしちゃってるんだが、無事に過ごせている方々まずは明けましておめでとうございます。

 とりあえずこの新年は寝正月にならないことに成功した。今のところではあるけれど、年末のやられ放題からは少しずつフェーズ進展しつつある。
 とにかく10年以上にわたってステロイド残留の痕跡だけ残して潜伏していた『離脱待ち』ポイントがいくつか割と派手に動いてくれているから、ここはひとつ皮算用せず秘かに期待かな。

 日本列島の大事件については情報が揃うのをもう少し待つとして、取り急ぎ新年早々は『人間を含む生物の情報処理とは如何なるカラクリなのか』の話題を、昨年から跨いで引張ることにしよう。
 長らく謎と神秘の盲目的ラッピングを解かないことをお行儀にして特別扱いしてきた感もあるサイエンス課題だが、現代コンピューター技術の概念に照らして、実は大したことないゼロイチのデジタルデータを、やっぱり大したことないクロック数で処理してるだけなんじゃないのか、という仮説をとりあえず立ててみたワケだ。
 そりゃ人間ひとりで1兆個とも言われる数の細胞が、顕微鏡級の機能分担構成でイチ個体として組み上がって作動しているのは凄いよ?
 だが逆に、たかがこの程度の個別パッケージに、一体どんだけ緻密で複雑で高機能なハイパーメカが収まるというのだ?

 一見すごすぎてナニをどう感知・処理しているのか見当もつかない、視覚情報にまつわるデータ形式とその流通プロセスなのだが、これまで人類が工夫に工夫を重ねて『人間の視覚にどうにか付き合ってもらえる、人間の視覚のダウングレード情報』を開発し、うまいこと人間の超絶ミラクル視覚システムに自然に受容される技術を構築してきたと思い込んでいたところ、開けてびっくり案外とその軽量簡素化思想こそが、人間の視覚を司る基本原理そのものでした…というのが今般の私の見立てである。
 漫画アニメーションが自然に鑑賞できているからには、少なくともその条件下ではコマ分割0.125秒でも十分な現実の光景相当の認識として、滑らかに見えているということだ。これは良いでしょう。

 しかしモノが飛んできて反射的に目を閉じる動作などについては、網膜像をタイミング偶然任せの0.1秒ピッチで拾いに行くだけでは、あまりにも遅すぎるような気がするんだよ。そこでだ。

 例によって『生体情報の円錐モデル』を持ち出してみよう【1171】
 『危険!』の網膜像を検知した瞬間、1Fリアル円フロアの対面の周上に並ぶ瞼の開閉アクチュエーターに向かって『閉』の通信ビームが発射され、一切の演算過程ナシで瞼が閉じられる。そして眼球をガードする。
 ポイントは円錐モデルにおいて『1Fフロア完結の出来事として』目を閉じる反射動作が行われているというところにあり、この入出力単位は30億年生命の歴史の淘汰の結果として定型化され、ROM素子に焼き付けられて、人間の内部通信ネットワークに標準装備されているのではないかと思うのだ。
 よく『無意識の危機回避本能』みたいな言われ方をするが、未加工のアナログ感受器信号が出力動作に直結するような原始的な通信ネットワークの制御体系が、その正体なんじゃないすかねえ。

 そして『そういう一連の反射反応が起きた』という1Fフロア通信の事実が、円錐の頂点からハンディカムで撮影されており、デジタル形式にデータ化されて大脳ストレージに記録され、自分の身体に自分のコトとして起こる現象ながら、不随意に発現する『人体の不思議』として、客観的に向き合う知識ストックとなる。そういうことだろう。

 『人間には、モノが飛んでくると思わず目をつぶるという反射動作が備わっています』という自覚アイテムの完成である。
 次にこの事実情報について思い巡らし、何らかの考えごと=情報処理に絡めようとする時には、脳ストレージから検索された当該記録ファイルが2Fバーチャル円フロアの周上に呼び出されてきて『意識』のまな板に乗る…ってことになるんだろうな。

 人間の知能の発達の決定的要件を『言語の発明』だとする学説はよく見かける。
 だがこれは、今の時代もう少し踏み込んで『デジタルデータ体系による、個体間通信の発明だ』と言い換えた方が適切なのかも知れない。

 …えー、まだ話は続けたいのだが、調子が上がらないんで今回はここまで。
 視覚だの聴覚だの触覚だの、我々いろんな面で外界を把握して生きているワケだけれど、その『外界の把握』ってところが意外とナマ信号じゃなくて、初期から手が掛かった上での情報体系になっていて、その情報体系に乗っかっちゃう過程で特有の論理性というか、因果律が割り込んでるんだよ。
 だからなんだけど、自分の内々のコトで終わらず、相手を見つけて論理や因果を含んだ内容の情報を、言語なり身振り手振りなりで体外的に伝えるようになった。
 これがまあ、良いコト悪いコトいろいろあるんでしょうな。

 絶好調で暮らしてたら、こんな面倒くさいコト考えなかったかも知れないなあ。ラクでもなきゃ快適でもない時間だけれど、なかなか役に立っている気がするぞ。
 いま不運の方々に、いずれ幸運への大逆転が訪れますよう。今年もグッドラック!
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【1228】軽量簡素な走馬灯内部の御開帳 [ビジネス]

 むむむ、遂に大晦日になっちまったか。現時点で一応は寝込んでいない。
 明日以降もこれで持つかどうかは運を天に任せるとして、今年の最終回を更新する。

 とりあえず前回からの続きである。
 子供の頃『目をつぶったら何が見えるか』について会話したことのある人は多いが、まあ例外なく結論らしい結論も出ないまま放ったらかしになって終わっていると思う。
 何か一面の漆黒でない画像が見えるような気はするものの、ひとつの形状を成すような成さないような、静止しているような動いているような、よく判らない『闇じゃない』視覚シャットダウン状態である。あれは一体なんなんだろう?

 のちに成長しながら『残像現象』など少々難しいコトも学んで、ならばと眠れない夜に暗い部屋で試してみたりもするのだが、やはり漆黒でない漠然画像は変わらない。網膜受光器の無光スタンバイ時ホワイトノイズなのか、それともその受光信号を作画して絵にする回路のアイドリング状態がこれなのか。
 …とまあこのくらいのところで長らく気にしなくなっていたのだが、最近になって『漆黒にしては明滅感があるなあ』と改めて気にし直している。これ、もしかして前回解説した視覚動画のコマ分割なんじゃないのか?

 私は数年前、今よりもっと苛酷な体調のなか半睡眠・半覚醒の夢うつつで、目を閉じた視界が幻灯機のような仄かな光り方で明滅し続ける現象を体験している。当時は視覚システムの原理に起因するものだとは思わず、ヤク漬け体組織の大改修工事が進む私の脳内ストレージにおいて、過去の記録ファイルを閲覧しては記憶域を効率的に整理する『デフラグ』が進行していて、それが見えたものだと感じていた【628】

 『夢に見る映像』として脳内閲覧される記録ファイルは、いわゆる『人間の尊厳』的な謎と神秘の超現実データ形式なんかではない。両手で抱えられるこのアタマの中の脳みそにぎっちり詰まっている、生体記憶ビットひとつひとつのチェックボックスを『書き込み前』から『書き込み後』に切り換えるぐらいの、ささやかで素朴な物理的ピタゴラ現象でしかない。それ以上凄いブツなんぞ、このアタマに入ってるワケねーだろが。
 そう勘繰る方が素直で自然だろう。そんなしょぼいカラクリのデータを整理するのだから、チカチカチラチラと明滅の映像が見えるんだよ。…と、考えた。

 ホントいうとこの時点で気付くべきだったのかも知れない。
 脳内記録ファイルがデジタル形式なのだとしたら、夢に見る時だけ、視覚情報処理回路が都合よくデジタル対応になんかなるはずがない。
 つまりデジタル記録ファイルを睡眠中に呼び出して開き『夢に見た』という限りは、覚醒して普通にいつも見ている視覚映像も全部デジタル方式で処理されていると考えるのが妥当ではないだろうか。

 まあとにかく、以前私が自覚した明滅映像が、記録ファイルのデジタル形式を反映したものだったのか、視覚認知回路のデジタル処理プロセスを反映したものだったのかは判らない。ただどっちだったにしても結局『どっちもデジタル原理で情報が流通・管理されてるってことでしょ』という結論なのではないかと思う。

 それにしても今この覚醒時に目をつぶって自覚する明滅感は、とりあえず視覚認知回路の方なんじゃないかねえ。再び目を開けると、身の周りの景色が何の違和感も無く滑らかに展開するんだけどさ。

 これ、意外なほど粗いコマ分割の網膜像しか視覚認知として取り込まれていないのに、段付きで大きく進んでいるコマとコマの間に内挿の分割コマをでっち上げる…なんて重たい演算は到底できないだろうから、脳が段付き差異にわざわざに気付けないような粗っぽい情報処理にして合わせ込んでいるとか、30億年生命の歴史を紡いだ万物創造の神の設計思想としてはそっちの方だろう。

 その昔、動画コンテンツのコマの間に秘かに画面フリップを忍ばせる『サブリミナル広告』が騒がれたことがあった。
 例えば映画を楽しんでいるだけのつもりだった視聴者が、まるで催眠術にかかったように炭酸飲料や軽食を欲しくなる…という怪しげなハナシだったのだが、結局は『消費者に合意されていない情報を提供するのは反則』みたいな根拠で御法度になったんじゃなかったっけ。

 でもこれ、実は取り越し苦労の空騒ぎもいいところで、それと判らないようこっそり仕込んだ広告フリップは、本当に人間の視覚認知の網に引掛かることなく、すっかすかにザルの目に取りこぼされてサヨウナラだったのではないだろうか。
 内容の理解を経てようやく機能するような凝った絵柄を瞬時に紛れさせたところで、認知対象からむしろ積極的に無視・排除してしまう処理プロセスを進化させた方が、生存競争の勝率は高いような気がする。
 サブリミナル騒ぎの時には、それなりに検証実験もされて結論が導き出されているはずだが、どんな条件でどんなデータが取れて、どういう解釈のもとどう結論付けられているのか見てみたいかも。

 ただ万々がイチ、上記の観察眼で再検証してイマイチ眉唾っぽく映ったとしても、それは決して詐欺やインチキの動機を見出して否定的に議論すべきものではない。生身の人間が身ひとつで検知しようのない領域で、特定の社会操作がなされる危険性を撲滅しようとして、サイエンス由来のアプローチで公認の確証を得ようとした文化遺産、という見方が正しい。

 新規性事象の把握をテーマにして語るにあたり、限られた実験事実を前に『真実はコレコレこういうことです』と誰もが共有できる形にモデル化して、論文などで言語表現するのはメチャクチャ難しい。
 裏返せば、熱力学第二法則にしても、運動方程式にしても、地動説にしても、サイエンス概念の一般常識として流通するまでには膨大な真偽検討や返すがえすの再検証がなされているものだ、ということである。

 近年『地球温暖化脅威論』や『どこそこ地震襲来説』などなど、現象確認や論理構築の過程で部分的にサイエンス根拠が成立するテーマ事象を騒ぎ立てて、あたかもそれが一連完結にサイエンス検証されているかのテイで科学的根拠アリをでっち上げ行政課題に短絡させてしまう、非・理知性の失敗が増えている。もちろんそんな行政課題には、特権階級を自称する一部社会層の利権商売が連動しているワケなのだが。
 これは人類文明としての科学分析力と自由競争経済を阻害する『非・人間の尊厳』的な愚行であり、社会全体としては確実に退化方向の自滅操作であり、未来を楽しく発展的に生きたい世代の社会層の人類にとって望ましい傾向ではない。

 昔だったら『そんな難しいハナシ解らない』で無関心放置されがちだった行政課題だが、高度情報化が進んだ今日では、特段の専門家でなくとも、各自が多数の解説事例を学んで適切な見解構築と正否判定が可能になっている。いい意味で一般庶民の眼力がパワーアップした時代になった。

 昨年に続いて今年も、人工知能AIの急発展が顕著な一年であった。
 AIにとって、程度の低い人間がすぐやりたがる『自分だけトクをしたい』『自分を偉いことにして他人を支配したい』みたいな下衆な目的の自己設定は非常に難しいと思われる。自分からちょっと離れた立ち位置においてあからさまな損害になり、その予測も簡単だからだ。一瞬の演算結果でNG判定を得たら、実に正しく停止するしかない。

 AIは『程度の低い人間を駆逐する』という点で台頭してくると思われる。
 自分に都合の悪い情報を指差しては『悪意がもたらす陰謀だ』と互いに醜くののしり合う愚かな人間どもを尻目に、AIは悪意なく効率と成果の最適解をひたすら算出し、ますます社会で存在感を増すことになるだろう。道理だ。
 『理知性』『インテリジェンス』のメカニズム解析が進んで、人間につきまとう非合理的で不可解な情報処理特性の論理カラクリが見えてくると面白いんだがなあ。

 明日からの来年、いいコトありますように。皆さまグッドラック、良いお年を~♪
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【1227】パラパラ動画とできあがり酩酊率の年末身体検査 [ビジネス]

 今年は年内最終回が大晦日に命中するカレンダーなので、今回を終えて最後の一回がまだ残る計算ではあるけれど、いやいや『またしても』年末いっぱいまで苦戦乱戦のゆく年くる年になってしまった。昨年末よりはちょっと不調期が前倒しになっている感じはあるのだが、まあ年明けは欲張らず寝正月にさえならなければOK、ぐらいで構えておくとしよう。どうせいずれ全ては過ぎ去っていく。

 まだ首筋や後頭部が練炭を仕込んだかのように発熱しているので、込み入ったムツカシイ内容は避けておくことにしようかね。
 ちょっと前に、ステロイド依存の影響で涙腺の制御がガタガタになっていたハナシをしたが【1221】、涙腺とは別に眼球運動について前々から気になっていることがある。

 今般ステロイドは恐らく無罪で、単に酔っぱらっちゃった時のことである。
 視線を左右に振ると、眼前の景色がドラデデデデ…っと段刻みに移動するのだ。

 サイエンス系のテレビ番組などで『目が回る』状態を再現するにあたり、被験者を柱や椅子に固縛して回転させる手法がよく用いられるのは御存知の通り。回転が止まって固縛が解かれた被験者は視野がぐるんぐるんで平衡感覚はぐらんぐらん、立っているのも難しいはずなのだが、この時の被験者の目を外から観察すると、黒目がチラチラと細かく左右に揺れているのが確認できるというものだ。

 では酔いが回ってきたのを感じて私が左右に視線を振った時も、外から見てると同じような眼球の挙動になってるのかな。わざわざ自覚して申告して、他人に外から見てもらったことが無いので判らない。

 ただ目が回ってぐらんぐらんの時は、黒目こそ左右に振動しているが、本人の視野の絵柄としては左右に振動しているワケじゃないんだよな。裏返せば、酔っぱらって視野の光景がドラデデデってなってるからといって、その動きがまんま外から見た眼球の挙動に反映されるってこともなさそうなのか。
 そもそも『目が回る』のは物理的に身体を回転させられて、三半規管のパイプ内の水が惰性で動いちゃう現象なのだから【633】、根本的に発生メカニズムから違うものだと区別して考えるべきなのかも知れない。

 …だとすると、酔っぱらって物理的に視野を振った時、ひとつながりに連続して動く網膜像の変動に対して、視覚がとらえる視野光景の画像が分割コマ送りになる理由は何なのだろう?

 例によって結論から行くと、シラフで視線を上下左右に振って普通に連続的に見えているその景色、その正体はチマタに溢れるデジタル動画と同じで、実はコマ分割なのではないかと私は考えているのだ。
 夢の中では静止画だけで済んでおらず、間違いなく動画の映像も出て来る。これは私が意識して確認済みだ。
 ならば、まさに現代のデジタル動画のデータ処理技術と同じ原理で、モノを見ると、クリップ動画ファイルが随時に組まれて、脳内ゼロイチ式デジタル記録ビットに書き込まれ、適宜に呼び出されていることになる。そういうことではないか。

 網膜に投影された光学像はもちろん連続的に変化しているはずだが、網膜に敷かれた受光器からの信号を受け取って視野一枚を作画するタスクがどうしてもバッチ処理にしかなりようがないと思うのだ。普段はテレビ相当だとして1秒間に24枚だっけ、とにかくそれなりに素早く作画バッチワークが繰り返されているので、自分の視覚がそんなベタに素朴なプロセス形式になっていると気付かないだけのことではないのか。

 私はこのへん詳しくないので誤解していたら申し訳ないのだが、確かテレビ放映されている画像分割は1秒間24コマなのだけれど、アニメーション漫画の場合はもっと粗くても視聴者にとって十分滑らかに見えるため、わざわざの細分化まで必要とされないシーンでは、同一のセル画を2枚連続ときには3枚連続で撮るんじゃなかったっけ。
 例えば同一セル画を3枚ずつ連続でつなぐケースなら1秒あたり8絵柄に相当するから『0.125秒毎に入力される静止画データが、人間に動画ファイルとして受信・記録される』という事実の証左だ…と考えることができる。

 静止画と静止画の間を突拍子もなく激変させるのではなく、うまく連続性を感じさせるよう十分細かく刻んで徐変させてやれば『人間の目の錯覚で、あたかもつながった動画のように見える』のではない。網膜に映った動画映像を認知する視覚システム、その認知した動画映像を記憶し読み出して再生するファイル管理システムが、元々から生体作動としてそれしかやっていないのではないかと言っている。

 視覚だけを専用に司る構造になっているかどうかは判らないが、パソコンでいうCPUのクロック数(単位時間当たり演算頻度)みたいなことになっていて、例えば1秒間に24回処理=24ヘルツが視覚情報処理の標準スペックなのに、酔っぱらっちまって8ヘルツにも届かない処理速度にまで低下してしまい、普段ならラクラク滑らかに見えるはずの視野変化がゴッキゴキの不連続になってしまう。そういうことなんじゃないすかね。
 そう考えると、秒速で軽く十数メートルは走る自動車を、飲酒状態で運転すると事故率が跳ね上がるのは道理だ、という理解は成り立つなあ。

 あと、自分がいる空間環境の物理量データが、光学映像と言わず音声も温冷感も触覚も味覚も、各々の五感回路から刻一刻と時系列で入力されてくるのだとすると、どれもが各々専用のファイル形式ながら全部ゼロイチ式のデジタルデータとして人間に、いや生物に流通するのであり、もしかすると本当にパソコンのようにイチ情報体あたりイチCPUで済ましているんではないかという可能性が残る。
 やっぱり目が良くて空中機動力の高い鳥類は、頭の回転が速く判断も場当たりで次から次への感じだし、ナマケモノが何か特定の動作だけ電光石火だという話も聞いたことが無い。CPUはその個体に相応しいクロック数のモノがひとつしかなくて、そのCPUがそいつのあらゆる情報処理タスクに共有されてるのではないだろうか。

 以上、まだまだ初歩的な仮説の域を出ないが、私は生命デジタル通信体系なるものが存在していると考えている。今日も調子が悪いのでちょっと早めだがここまで。
 一杯やって運転したりされませんよう。楽しく飲んで平和に帰宅、グッドラック!
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【1226】カーケア熱力学で考える真冬の乗車ルーチン [ビジネス]

 前回の流れでもうちょっと車のハナシを。
 熱力学第二法則により『軸動力なくしては余熱も出ない』と述べた。

 ガソリンが空気中の酸素と結び付いて燃焼反応を起こすことにより『燃料が燃えたぶんの、丸々のエネルギー』が発生する。この燃焼エネルギーから軸動力を取り出すのがガソリンエンジンなのだが、丸々を残さず100%軸動力にすることは不可能なのだ。
 外気温0度の真冬にエンジンをかけて車を動かしたとして、もし燃焼エネルギーが全て軸動力に変換されたなら、エンジン吸気そのままの0度の排気ガスが出て来ないとおかしいってこと…というのは、改めてこうして解説されるとなるほど…と簡単に気付けると思う。そう、全部軸動力は無理なんだよ。

 で、技術的な細かいハナシは抜きにして、だいたいガソリンエンジンの熱効率というのは普通に動かして20パーセント台の中盤から後半あたりが良いところだから、残り7割以上は余熱にしてそこらへんに放散している。この7割の一部を回収し、うまいこと乗員に向けて放熱させるのがガソリンエンジン車の暖房装置だと御理解いただきたい。

 ここで気付いていただきたいのは、ガソリンエンジンという発動機がまずあって、コイツが軸動力の負荷を背負わされて稼働した時、軸動力相応の余熱が発生するという位置関係である。つまり停車していて、せいぜい自車の小型軽量なエンジンの中に仕込まれた必要最低限の回転系の部品たちぐらいしか動かしていない状況では、余熱だって微々たるものなのだ。
 周囲を積雪に塞がれ動けなくなった時、少々空ぶかしをしたところでこの負荷条件は変わらない。だからエンジン稼働を細々とでも継続できることを優先して、空ぶかしなどやめておけと言っている。

 同じ理由で冬季の『暖機運転』という習慣は、実はあんまり効率の良いものではないという話をしておこう。愛車を大切にする方が、自宅駐車場で出発前にエンジンをかけて数分間放置するパターンが多いと思う。
 結論から行くと放置は間違いで、一刻も早く『ゆる~く走行負荷をかけて、そろりそろりながら十分な余熱を発生させ、熱を回してやる』のが、ガソリンを無駄にせずエンジン以外の駆動系も温められる『正しい暖機法』なのだ。水温計の指針が上がり始まるのが見えたら、もう普通に運転して大丈夫である。
 とりあえず冷機状態でいきなり高負荷のかかる運転をしない気遣いは正しいから、是非その心掛けは守って愛車を大切に乗ってあげてください。ポイントは内燃機関の暖気が進む原理をうまく利用することである。

 さて、そこまで車に優しい作動状態を気にしない人にとっての一番の問題は、自分が乗り込んだ直後からの窓曇りというのが一般的だと思う。
 人間の吐き出す水蒸気が冷え切ったガラスに接触してみるみる内面が結露し、条件次第では霜になって凍り付いていくワケだが、この時点で愛車の余熱が十分に足りていない限りは使える熱源がどこにも無く、要はスイッチ操作で機械がナニかしてくれる手段としては、もうどうしようもない。ではどうするか。

 布でガラス内面を拭いて済むのか樹脂へらか何かで削り落とすのか、ともかく前が見えるところまで実力行使で視界を遮る水なり氷なりをかなぐり捨てたら、いち早くそろ~りそろ~りにでも動き出して走行負荷をかけ余熱を発生させ、デフロスタ-送風が窓の内面に叩きつける熱源を確保するのが最も手早い解決策である。

 乗り込んでどうこう以前に窓ガラスの外面、特に前面のウィンドシールドに厚みのある結氷が見られた場合は、さすがに余計な時間短縮は考えない方が身のためかもしれない。まあ手で削れるぶんは削って、内側も含めて前方視界をどうにか確保して、とにかく焦らずノロノロでいいから事故らない範囲で走行負荷をかけて、前が見えなくて動けないならもう諦めて動かずに、なんとか発生させた余熱でまず熱源を確保する。
 『暖機運転』とはただ運転に先立ってエンジンを回しておくのではなく、キホン熱を作って動力系に行き渡らせるだけの負荷をかけながら、正規の運用状態に早々に持ち込んでやるという目的意識が重要なのである。

 あらまあ結構スペースを使っちまったか。まあいいや、愛車はお大事に。
 もっと言うと、自動車に限らずのコトとして、ちょっとした不注意で壊れたり危険な挙動を起こしたりはしづらくなっているけれど、決して世の因果規律から離れて何でもかんでもユーザーの望ましいまんまに現実が変わっている訳ではないので『技術の進歩』を的外れなカタチでアテにされませんよう。
 便利で安価になったからって手荒にしたりせず、できるだけ労わって大事に丁寧に、永く仲良くお付き合いする気持ちを忘れずに。きっといいことあります。保証する。

 …とここまで書いて、なんとも中途半端な分量になってしまった。
 調子も上がらないので、メリークリスマスってことで今回はここまでにしちゃえ。
 何より安全第一、寒い冬の夜に事故なんか起こすと、まずあなた自身は寒空のもと熱源を持って動いていた車を失う。どんだけ辛く厳しいことか。
 そして、それを救助に来なければならない立場の人たちは、わざわざに人が死傷しモノが壊れた現場に出向いて、そこで速やかな処置作業を完遂することを求められる。どんだけ迷惑で面倒なことか。

 どうか皆さま、聖夜の御安全な車輌運行を。平和な夜道にグッドラック!
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【1225】真冬の安全、見えない空気の交通整理 [ビジネス]

 今年もあと10日か…って、人間が勝手に暦を設定して、その1年スパンの始点・終点がこの時期になってるだけではあるんだよな。私にとっては10年来体調もすぐれないまま、コロナの無駄で大袈裟な社会抑制騒動がとどめとなり、二年参りその他の儀式的外出は完全に消滅した。
 不調に臥せっての寝正月にまでなるかどうかはともかく、今年『も』この季節なかなかに調子が上がらないので、手近なウンチクってとこで年末年始の交通安全の話題にでもしておこう。

 交通安全といっても『雪氷で滑りやすい』『視界が悪い』『スタッドレスやチェーンの準備を』あたりは世間一般の注意喚起に任せておくとして、ここではもうちょっと面倒くさく折り入ったハナシにする。雪深い地域でもない限り他人事っちゃ他人事なのだが、こと年末年始においては、自宅OKの帰省先OKでもその道中が危なかったりするので、御一読ください。

 結論から先に行こう。立往生に備えて車外雪かき作業の準備をしておかれい。
 まずフルサイズのスコップだ。頑丈なガチンコ土方仕様のものが望ましい。
 そのスコップだけあっても、身体は凍えるわ足元は滑るわ手元はかじかむわ目は開けてられないわ…では宝の持ち腐れに終わってしまう。万一それを使う場面になったら、躊躇せず全部ボロぐちゃにして使い捨てることを前提に、そのレベルの付帯設備をちゃんと用意しておくのがポイントである。
 あと重作業後に車内に戻って身ぎれいにする準備があると便利するはずだが、あんまり凝り過ぎると空振り回数が嵩んでいずれ手薄になり、手薄になったところを致命的な一撃を喰らわされて肝心なとこで逆効果…みたいな展開もあろうから、そこは自己管理で落としどころを決めていただきたい。

 で、忘れないうちに先に書いておくと、何より暗い時間に移動しないことである。
 まず気温は確実に下がるし、運転はもとより全ての物事がやりづらく面倒くさく失敗しがちの紛失しがちになる。とにかく一分一秒でも、がめつく明るい時間に移動を済ませられるよう工夫を尽くしていただきたい。
 たかが温帯気候の冬季だとはいえ、とても軽装では耐えられないような環境の中、愛車の熱源だけを頼りに我が家キャラバンの小舟で移動しているという現実の構図をお確かめください。簡単な対策アイテムで安全代を稼ぎまくっておくのだ。

 では本題。想定するのは立往生だと述べた。
 御存知の通り、横道に逃れようのない幹線道路で先行する交通トラブルに頭を抑えられ、極寒にさらされながら数時間以上の車中待機を強いられる災害モードである。
 特に怖いのは、短時間のうちにみるみる積雪深が嵩むような強い降雪に襲われるパターンであり、こうなると低温で寒いよりも酸欠死するリスクが恐ろしいのだ。

 ガソリンエンジン車は一般的に車体後部の地面近くに排気管が開口していて、通常なら排気ガスはそのまま大気開放で拡散していく訳だが、積雪深が車体の最低地上高を越えてくるとそうはいかない。   
 ぐるりを雪壁に塞がれ行き場を失った排気ガスが、車体下の空間にどんどん溜まるしかなくなるのは解るだろう。この排気ガスが車室内に侵入してくるリスクが急上昇してくるのだ。

 自動車というのは、ドアから乗り込んで四方に窓も開らけているため『個室空間』のイメージが強いのだが、実際は『密室』とは程遠く、あちこちアナだらけのスキマだらけなのである。そうしておかないと雨具や足元から連れ込んだ雨水が抜けないし、そんな排水よりも圧倒的に温冷快適感や窓曇り防止の要件により、自動車の車室というのは常に外気を導入して速やかに排出する構造となっている。
 夜の桟橋に出掛けて行って間違えて海に落ちてしまう事故で、車から脱出できず車内で溺死している例が結構な確率になっていることを思い出していただきたい。車室にそこらの住居並の気密があるくらいなら軽く数分は車体がぷかぷか浮いているはずだから、手も足も出ないまま閉じ込められて沈んでいくだけに終わらないサバイバル事例がもっとたくさんあって良いはずなのだ。
 無駄に始終スカスカ隙間風が素通しされるようなバカ穴が空いている訳ではもちろんないのだが、自動車の車室はキホン常に換気されているものなのだと理解しておこう。空調操作パネルの内気循環スイッチを押すと乗員が酸欠に陥ると思い込んでいる人もいるが、そんなことは絶対にあり得ない。キホン前走車からの排ガス臭防御だ。

 さて雪国にありがちな事故として、特段に気密も考えていないシャッター付き駐車場で、つい車に乗り込んでエンジンをかけてしまい、たまたま建屋周囲に吹き溜まっていた積雪のせいで隙間換気が塞がれており、一酸化炭素中毒なり酸欠なりにやられてしまう事例を見かける。
 自動車を動かすパワーを発生するのがエンジンなのだから、回すとその勢いで空気中の酸素を消費するのだ。2リッターエンジン車が冷機でエンジン始動し毎分1,000回転で回ったとすると、とりあえず細かいこと抜きのドカチン計算にしても、1分あたり1,000リットル=1立方メートルの新鮮空気を吸い込んでは燃焼行程を経て排気ガスにして吐き出すことになる。
 雪の日といわず相当大きめのガレージでも、命が惜しければ閉め切ってエンジンをかけてはならない。

 現代の乗用車はほぼ例外なく後輪のすぐ後ろあたり、普段は後バンパーが上から被っていて見えないが、逆にバンパーを降ろすとそこにA4コピー紙の半分ぐらいはあろうかという面積の換気口が丸出しになる。車種により左右両側に開いているやつと片側だけに開いているやつがいるのだが、とにかく車外への換気口はここにこのレベルの面積で設けるのが一般的だ。…とすると。

 車外から見て積雪深が車体スソに達するあたりの、せいぜい20センチ前後から、排気ガスの車室内侵入は十分に起こり得ることがお解りだろうか。こうなる前に車体の周囲を雪かきして、自車の排気ガスを車体周辺に停留させず放流・拡散し去ると同時に、車室へのあらゆる隙間風を新鮮な周辺外気から連れ込むような換気経路を確保せねばならない。
 風が強くなり吹雪になると自車に直接触れられる以上の距離には離れたくないし、そもそも車外に出るのは危険なので、とにかく走れなくなったら軽くて浅くて自分の腕力でどうにか掻ける時に雪かきしておかないと、今度は何の準備ツールを持っていようが使えなくなる。

 こうして換気経路確保のアイドリング状態を維持できたとして、車体を走らせる動力負荷もかかっていない状態では、熱力学第二法則により絶望的にヒーターの効きが悪くなることを覚悟せねばならない。『軸動力なくしては余熱も出ない』=エンジンの余熱を使うヒーター作動原理の宿命であるため逃げ道の方策は無く、空ぶかしなどやっても気休め未満でガソリンの無駄遣いにしかならないのでやめた方が賢明だ。
 このぐらいまでアタマに置いて、そんな心配のある地域に出かける方は、ツールとマンパワーの両面で万一に備える準備を固めることをお勧めする。

 最後になってしまったが、いわゆるBEV=充電池とモーターのみで動く電気自動車においては、上記の解説は全く当てはまらない。
 積雪による換気の悪化はあるにしても排気ガスが出ないぶんCO中毒や酸欠のリスクは減ると思うが、走行用まで含めたなけなしの車載電源でもって低温環境下で電熱ヒーターをONするからには、決してガソリン車に比べて安心とは言えないだろう。ちゅうか、そういうことになりそうな環境での使用はやめときなさい。

 慎ましやかだろうと賑やかだろうと、年末年始をそのイメージのまま過ごせるのは、無事故安全の道中あってのことと再認識されるがよろしかろう。交通事故は、やっちゃうと死ななくても死ぬほど面倒くさいしカネもかかる。
 ではよく考えて準備万端整えて、幸福な現実を呼ぶ移動計画にグッドラック!
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【1224】迷惑系ドリーマーが担いだエンタメ市場の屋台骨 [ビジネス]

 NHK朝ドラ『ブギウギ』で描かれる戦中エンタメ業界の社会環境については、気になるっちゃ気になるんだが、この私も当時のことはほんの一部から伝え聞いたに過ぎないので、あんまりこだわる資格も無い。
 弟子兼付き人の座を獲得した小夜は、東京の芸能事務所に単身転がり込んできて鈴子の身辺に出没するようになり居着いてしまった流れだし、熱心な鈴子ファンの愛助学生といえば、鈴子の名古屋巡業の楽屋に面会に押し掛けての馴れ初めなのだが、今の若い人たちってこういうシーンはどのくらいの距離感で観るものなのだろうか。

 実はかなり最近まで我々昭和世代は、現実に憧れのヒト御本人に対面して、運が良ければちょっとしたファンサービスにもあやかれたのだ。さすがに最新カラーテレビの歌謡番組で盛んに見かけたヒデキやらピンクレディーなんかは、スケジュール的にもセキュリティ的にも当時のうちから半径数メートル以内に接近NGだったとは思うけれど。
 その頃の年齢で私は一介のインドア工作少年だったため、実態は知る由も無い。

 特に平成以降、不穏な動機を抱えた不心得者が特別な場所に乗り込んできて凶悪な事件を起こす事例が散発し、今ではまず刃傷沙汰の犯罪防止という観点から、企画運営機能スペースを厳しく一般社会空間と隔離するのが常識となっている。大衆に紛れて、殺傷目的まで腹に隠して近寄って来られるとなると、そりゃどんなに他の大多数のファンにサービスしてあげたくても、隔離する他ないだろう。

 またエンタメパフォーマンス系の興業において、その場なりに発生する実質ビジネス勘定も冷静に酌まないまま、無計画に著作権や肖像権などの概念と言論を暴走させるに任せてしまったことも、業界ぐるみでファンサービス領域の管理を幼稚でデタラメなものにしてしまった一因になっていると思う。
 もっとも今どき視野に見えている全員がスマホ持ってて、誰か一人にでも写真撮られた途端一斉配信でばら撒かれる事態も普通にあるとなると、もう古き良き時代の古き良き理由で一般人と同じ空間で振舞えるとも思えない。油断も隙も無い時代になったものである。

 若かりしころ私自身が超絶・激ウザの倒錯型ジブン世界没入患者だったワケだが、昭和末期から平成初期にかけては、まだまだ楽器好きの演奏好きのどヘタ横好きは『やらしときゃいい入れ込み人種』として日本社会に野放しで増殖中であり、ステージ上の神さまの使用機材や演奏技能に果てしない憧れこそ抱くものの、捻じれて迷い込んだような愛情やイミフの社会問題を起爆させたいなどの歪んだ動機とはすっかり無縁だった。
 そもそも楽器やってるヤツが夢中になるような音楽は、テレビやFMで聴いて気楽に楽しめるとか、心地よいBGMで会話の邪魔にならないとか、そんな世間一般のマトモな目的意識の人たちからすればカルトに凝り過ぎていてよく解らないし価値も無い。
 そんな変態音楽、レコードもCDもビデオも普通には売ってないし、いちいち鳴らすにも音響機材から楽器からカネはかかるわ場所は取るわ音出すとそれだけでうるさいわ、わざわざに関わろうとも思わないような足枷だらけのオタク趣味だったから、必然のなりゆきとしてのマイナーな社会的立ち位置ではあったものよ。

 まあこんな自虐的なカタチで狭く閉じた世界だったため、割と業界全体でファンとの敷居を下げて、むしろ好意的に応援の姿勢で一般客を迎えていた時代である。
 イベントや展示会では会場スタッフさんにこっそり交渉して舞台裏に入れてもらい、憧れの神さまに挨拶してお邪魔の御都合を伺い、握手して会話してサインをもらって、それだけに終わらず、ほんの数分ながら稽古をつけてもらえたりもした。中にはそういうファン接点を好まないヒトもいるという話はあって、ぞんざいな対応をされたという声も聞いたことはあるが、私は幸運にもそっちのケースには遭遇したことがない。

 今はもう廃止されているかも知れないが、かつてはブルーノートなど名のある格式きっちりした?ライブハウスでも、ステージに上がる演奏者たちが、恐らくはファンサービスとして意図的に、客席空間に顔をチラチラ覗かせていたものである。というか、もっと濃い『出待ち』という定番の慣習があった。

 現在のブルーノートは少し離れたところから場所を移転しており、昔は青山の交差点から骨董通りに入って真直ぐ根津美術館に向かう途中のところに面していたと思う。
 どっかの駅ナカのグッズショップみたいな手狭な店舗に入ると、その外観の通りにTシャツやマグカップなんかが所狭しと並んでいて、その奥に受付カウンターがあった。
 そんなエントランスのフロア一角から地下に階段が延びており、実際に客席テーブルで飲食しつつステージ・パフォーマンスを楽しむのは地下一階のライブハウスだった…と思うぞ、確か。

 夜の公演時間に先立って午後2時頃からだっけかお店の玄関前で客席選択権の整理券が配られるのだが、もちろん狙い目の視点で座れるよう早い番号が欲しい。そんなヤツが何人も集まってくるのだから、人気アーティストの公演日ともなると朝のかなり早い時間から、整理券待ちの列が伸び始める。
 まあ大体は同じモノを目当てに集まった同じ人種だから、列の両隣で雑談するにも不自由はしないのだが、今どき個人的に好きな音楽でああいう濃厚な情報交換のできる場所って無くなった気がするなあ。整理券を確保したら、やっと食事に散っていける。

 ディープなお楽しみは当日の公演終了後に客も半分以上掃けた頃で、目前に繰り広げられた圧巻イリュージョンに夢も冷めやらぬ興奮状態のまま、なおもさっさと帰らず、地上エントランスもしくはその周辺にダベり続けるのである。一応おぼろげに大丈夫な周辺環境だったとは思うのだが、どのくらい近所迷惑だったのだろうか。
 とにかく、滞在ホテルに戻る普段着の出演者たちが、地下からの階段を上がってきて玄関前に横付けされたマイクロバスに乗り込むので、その途中をつかまえるのだ。

 周囲はライバルだらけだし、スマホどころかデジカメも無い時代だったから、音楽仲間たちとチーム体制を組み、まずオレが足止めするから、ここでアナタがサインもらって一緒に写真撮って、よしシャッター役はワタシの方で引き受けた…などと手分けして、散々なことをいろんな大御所たちに付き合わせてしまったものである。やらされる方も自分のリリースしたCDだったり自分名義モデルの楽器だったりするので、やはり外回り営業の一環というか、図々しい要求にも快く応じてくれたのだけれど。
 正真正銘の世界的実力者、掛け値なしの超一流、夢中で齧りつくCDやVHSで聴くその現物に触れた実体験というのは、間違いなく私の人生に効きまくっている。整理券の奪取からターゲットへの突撃アタックまで丸一日、仲間たちとお互い誘い合って作戦をサポートしたりされたり、青山ブルーノートにまつわる想い出はいろいろと深いのだ。

 コトほどかように、昔のステージ周辺事情は本当に楽しかったものだが、今では恐らく標準規則化されているのか、ファンサービスの機会を確保するにも定型かつ計画的で、公演終了後にきちんとテーブルを用意してファン一同は順番待ちの列を作ってサインはひとつだけ、みたいなことになっているようだ。時代相応にやむなしとはいえ、ステージに向ける情熱の解決方策としては、形式的かつ希薄になっている感が否めない。
 『高嶺の花』ばかりでなくなり『御近所さん』レベルの周辺層にも拡大されたとも言われる芸能ステージだが、ファンが同じ空気を吸いに行けるような距離感においても、今は手ごわくも無感情に相互交流を隔絶する透明バリアが張られている感じがする。

 通信機器の発達による時代変遷はあるのだろうが、それにしても昨今の『目立ちたかった』とする動機は、ナニのテーマ設定で、誰に対して、どんな心象で目立ちたいのか、それで自分の何が満たされて嬉しいと思うものなのか、理解に苦しむ。
 難しい時代だが、パフォーマンスが展開する場は特別な時空であり、パフォーマーは特別な存在でありつつ、観衆と心底のコミュニケーションが通じて響いてこそのものなんじゃないですかね。

 ステージに上がるも観るも、いつもそれで幸せになれる人であっていただきたい。
 大歓声とともに未来のスポットライトを浴びるアナタの夢と決意に、グッドラック!
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