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【1241】活動写真なきカリスマ弁士のレジェンド話術 [ビジネス]

 前回に続き、人間の画像ファイル記憶って案外と少ないんじゃないかという話を。
 想い出の画像は、それを特定する要件としての言語や図式などのロジカル判定項目に書き換えられて取り置かれ、元のクッソ重い絵柄そのものはストレージ負荷を軽くするためさっさと廃棄されるのではないか。私はそう考えている。

 絵心の無い人に鳥の絵を描かせると、しばしば足を四本描いてしまう例が見られるのもこのためだろう。
 ふわふわぬくぬくの恒温動物で知能も比較的高く、人によくなつくし感情も交換しやすい。卵で生まれてくるが、お付き合いの相手としては犬猫・牛馬なんかと同列の『動物くん』である。
 鳥好きで普段からペットとして現ブツをいじりまわしているだとか、理科好きで生命の進化に伴う四肢の骨格構造に興味や知識が向くだとか、そういう動機でもなければ『動物とは四本足で歩くもの、前足2本と後足2本が揃うもの』という社会通念のロジカル情報が先に立ってしまう人は少なくないと見る。
 ぱっと見い鳥の羽根は形状も機能も足とは違い過ぎて、そっち方面に得意でもない人たちにとっては別モノになってしまい、最初に鳩サブレーの概形ぐらいまでは常識の一環として作画できたとしても、その下に延びる足が何本あるかの記憶が不明瞭だと、つい『動物だから4本』とする判断が働くのではないかと。
 だから四本足の鳥の絵を描く人は、必ず『あやふやな記憶を一般概念のロジック知識で補完する』という画法で描いているはずである。

 因みに犬猫・牛馬は童話などで鳥よりも頻繁に擬人化されたりするので『目鼻口の配置、四肢の構成は人間と一緒』という知識がより深く定着しているのだと思われる。
 鳥は、一般社会人がアタマで考えるにあたり、人間と体格構成を同一視するかどうかがビミョーだってことなんだよな。まあどんだけ絵がヘタクソでも四本足の鳥を描くなんて私の子供時代にはまずあり得なかったから、総じて鳥が現代人類社会の記憶から疎遠になっていて、漠然と『動物一般』に混同されてきている事実の顕れであろう。

 やはりというか生物種としてマイナーなブランドに行くほどこの傾向は顕著となる。ここにタコやタツノオトシゴの絵を描ける方はどのくらいおいでだろうか。
 タコであれば8本足の中央部にあるのが口であり、だから『頭足類』と呼ばれるのであって、人間がアタマ扱いしているところは内臓その他がいろいろ詰まった胴体である。
 もうここまでで、お馴染みの照る照る坊主状の漫画は人間の勝手な擬人化ロジックによる各部位の取り違えがあからさまなのだが、更にはひょっとこの口のように描かれがちな噴水口が定番通りに突き出しているにもかかわらず、両目を入れ縦線の鼻を描き、それで終わらず横一文字の口まで揃ってしまっている例を見かける。
 タツノオトシゴの失敗も同じパターンであり、頭部からちゃんと『口吻』が伸びるところまで正しいのに、そこにヨコ・ヨコ・タテ・ヨコで両目・鼻・口を入れてしまうのだ。…お、おいっ?

 そもそもの興味が不十分なのだろうが、とにかく現物を観察した上での判定ポイントの記憶情報が作画するに足りておらず、そこに本人が直感するところの『顔のパーツと配置』の一般概念が、絵柄のビジュアル要件でなくロジカル判定チェックリストとして割り込んでくるので、こんなことが起こるんだろうな。
 この目で見たお題の体験画像を、的確にお題専用のロジカル判定チェックリスト項目に落とせていないのである。

 ところで非常に精緻な描き込みで有名な日本画家・伊藤若冲【479】の作品には、まるで人間のように切れ長の目をした鳳凰や象が登場する。
 あれだけ画力の達者な人でも、架空の存在であったり、当時はそうそう見ることが叶わない海外の珍しい動物であったりすると、写実基準ではなく一般通念基準の判定ポイントを反映した描写になるという事例だろうな。
 誰にでも自然に受け容れられる、いちばん精度高い『目』の情報がそれなんだもん。
 絵のプロなんだから、そう描くさ。

 もうひとつ似たような話としては、遊就館で黒船来航の解説パネルにも引き合いに出されている肖像画『ペルリ像』の例が面白い。
 少なくとも作画者本人はペリー提督を直接見ていないはずで『目が青い』と伝承されたロジカル情報だけを頼りに頑張った結果、いわゆる白目の部分に青の差し色を入れる形になってしまった。どっちを向いても黒い目の日本人しかいない社会で『目』のイメージがまず固まっていて、でもこんなもんのどこがどう青いんだよ…?と絵描きの記憶と想像力を振り絞った結果がこうなったのである。

 カラー写真など重たい画像データが記録や通信に乗せられなかった時代、その情報を言語という簡素お手軽なロジカルデータに変換し、伝言や手書き文書で流通させたところ、元の情報量が大幅に削られてえらくあやふやな伝わり方をし、受信者側の創造力で埋め合わせた情報に化けて再現された。軽くて便利でたくさん積み置けるロジカル書面だが、こんな不確実性の宿命が抱き合わせなのだ。
 そして私は、社会のヒトとヒトとの情報伝達のみならず、ひとりの人間個人の内部通信でもこんな感じで、結構な粗い目のざるでロジカル化に引掛かった内容ぶんだけ抽出して演算・記録しているのではないかと思っている。

 まず人間のストレージに、画像ファイル・動画ファイルを保存することは可能だ。
 私自身を顧みて、確かに友人の運転する車の助手席で体験した交通事故の動画ファイルは、視野設定も画像も驚くほどしっかりと残っている。のちのちその動画を考察して、あのとき普段と違う網膜像の収集や処理が走っていたのではないか…などと思い巡らせられるのは、未加工ナマの動画が検索可能な状態で保存されているからだろう【54】
 だが相当な条件が揃わないと、この記録モードは発動しないのだと思う。

 むしろ普段から命懸けでもなくテキトーに関心を向ける程度の景色なんか、どんどん『ぱあっと華やかな』とか『何ともおどろおどろしい』とか『血の気も退くほどの』みたいな言語情報や、『青空』『見上げる摩天楼』『商店街』などの大まかな図式情報に変換され、その軽いファイルの方が圧倒的に優先して大事に保存される。
 動画一本、画像一枚をまんま記録するより、日常生活に効く情報内容を項目限定的に抽出して、ロジカル情報処理のチェックリストだけを次々と蓄積する方に生存競争の勝率を賭けた、生命進化の現実解のひとつってことなんだろうな。

 身軽であること、シンプルにこなすこと、これらは毎日たくさんの現実に出遭って、その情報内容から役立つ要点を効率よくストックするための基本原理なのである。
 画像から音声から見境なくスマホに記録を残すより、ちょくちょく間違っても暗記した方が情報生命体としては健全なのかもよ。では明日の進化を目指してグッドラック!
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【1240】踊るジュラシックパークの最新ステップ [ビジネス]

 第一話の冒頭シーン反復から『東京ブギウギ』の舞台フルコーラスで先週が終了。
 NHK朝ドラに絡んで、またちょっと横道トピックを思い出したので消化しておく。

 ドラマのタイトル『ブギウギ』とは楽曲構造のスタイルを指すコトバであり、音楽やってる人には『中抜き三連符基調で、疾走感フィール気味の曲調』と言えばイメージは固まると思う。
 ワン・ツー・スリー・フォー、スクタ・スクタ・スクタ・スクタ…と進むのが三連符。
 その真ん中を抜くので、スッタ・スッタ・スッタ・スッタ…というリズムになる。因みに、つよぽん先生の『スリー・ツー・ワン・ゼロ!』は実用例を聞いたことがない。

 多くの人が『これはスキップするときのリズムだ』と言われて、ハイハイそうねと合点できるはずだ。厳密にいうと朝ドラ主題歌『ブギウギ』も『東京ブギウギ』も、スキップするには少々速すぎるのだけれど。
 時折うまくスキップできない人を見かけることがあるが、あれは『運動神経』なる謎の素質がイマイチ人並でないとか、そういう問題ではない。自分のこなすべき動作の要件が整理できておらず、手足の何をどう制御するのか決めて実行できていないだけのことである。具体的な解説から始めてしまおう。

 まず片足で立ってみる。ぐらつくようなら何かを手でつかんでも結構だ。
 そのまま立っている片足で『よっ!』とジャンプして着地する。
 『よっ』で飛んで『と』で着地。着地して一旦オシマイで全然構わない。

 誰もが『スキップは連続動作だ』と直感的にイメージしており、それは間違いないのだが、気が早やって『次に滑らかに続く動きとは何なのか』を理解しないままテキトーにデタラメをやってしまうので、現実の物理的動作にスムーズに噛み合わなくなり、連続性が破綻してしまうのだ。
 運動神経云々よりも『苦手意識』だとか『食わず嫌い』の心象が主原因だと思う。

 さて片足ジャンプで着地に成功したら、足を換える。ゆっくりで良い。
 しっかり反対の足で立てたら、また『よっ』で飛んで『と』で着地。
 着地したら、また足を換える。そのうち両手を空けて直立で試して欲しい。

 あとは足を換えるのにかける時間を詰めていけば、感覚がつかめてくると思う。
 足を換えるとき一歩踏み出すようにすれば前進できるようになるだろう。

 よっと・よっと・よっと・よっと…と片足ジャンプが左右交互につながって感じられるようになってくれば、スキップの完成である。ポイントは『落ち着いて左右片側ずつの動作単位を確定し、次に連続させていく順番で取り組む』というところにある【214】

 なお、この動作リズムを楽譜にすると上記の『中抜き三連符』になるという関係にあり、三連符を杓子定規に記譜すると譜面が『3』だらけになってウザいので、音楽やってる人種の間では三連符指定の書き込みを省略した上で『これはハネた感じでお願い!』という言い方で済ます方策が広く流通している。

 ところでこんな話にしても前回の論点でしつこく繰り返すなら、今の時代にマッド博士がいて人間の頭と両足を物理的に切り離し、無線接続にして両足を探査機に乗せ月面まで連れて行ったとすると、まず頭と両足の感覚と制御は人間ひとり相当につながっているのだから『記号接地』状態のはずだ。
 だが頭でジャンプを思い立ってから実際に足が地面を蹴るまで1.3秒、飛び上がった足が着地してからそれを検知するまで1.3秒、これではとてもスキップの練習ができない。

 だが、今度はバラバラ切断前の元通りの人間につなぎ直して、生まれ持っての頭から足まで体内の有線接続回路でスキップの練習をするにしても、発信された情報が受信側に届くまでの経路で、間違いなくゼロでない時間がナニガシか掛かっている現実を忘れてはならない。
 太古の巨大首長竜くんたちは、末端から頭までの所要時間が結構な時間遅れになったというハナシもあるから【1041】、ディプロドクスやブラキオサウルスなんかは生体脳神経通信の速度限界が主要因でスキップできないことになる。生体情報処理の作動速度などその程度のものなのだ。

 やっぱ『記号接地』ってコトバは、言語情報としては存在するけれど、明確な定義が現実になって対応するかというと随分と怪しい。たまたまヒトの神経伝達が時間遅れを感じさせない程度に短いから、これを『接地=仲介プロセス皆無の別格な神秘タッチ』として特別視してるだけなんじゃないのかなあ。
 …あ、しまった!そもそもマッド博士が人間の足だけ月面に連れて行ったとして、現地の引力でスキップしようとしても絶対うまく行かないのか。いや、くだらない横道の連鎖はこのへんでやめておこう。

 予定外にスペースを割いてしまったので、残りを別の小ネタで埋める。
 以前、目をつぶると絵柄としては何だかよく判らない漠然とした明滅感のような視覚受像が感じられると述べたが【1228】、目をつぶって創作でも回想でも構わないので、絵柄も色彩も具体的に完成された視野映像を見ることのできる方はおられるだろうか。
 私はいくら頑張ってもワケわからん明滅感のヤミ世界しか見えず、そこにドラえもんもスヌーピーも、日本の国旗の日の丸さえも、再現カラー画像で見ることができない。

 なのにドラえもんやスヌーピーや日の丸どころか、アリでもカマキリでも蛙でも文鳥でも、ゼロ戦でも、C62でも、戦艦大和でさえも、一目見てその瞬間にそれと判別できるし、あっちからこっちから自在に視点を変えてソラで漫画を描き、それっぽく見える程度の正確さで着色まで可能である。何故だ?
 視覚入力にまつわる情報処理と記録のプロセスって一体どうなってるのだろう?

 夢のシーンには、くっきり青空を背にした白亜の豪邸や、真っ暗な夜空を走る虹色の閃光など、明確な形状と色彩のイメージで刻まれた記憶が確かにある。夢に登場する事物は、どう考えても実在し得ない、出遭って自分の目で見ることなど叶わないモノが少なからずあり、故にそれらは私の記憶ストレージからただ呼び出されただけの過去履歴の画像ではない。
 つまり夢の中では、網膜像をリアルタイム検知しての視野映像に相当する入力が、創作の画像データを作り上げた上で起こっていて、朝起きた時点でそれが記憶に残っているということになる。むしろ過去の実体験の記憶より鮮烈ビジュアルなくらいだ。

 覚醒状態で目をつぶって記憶を辿り、想い出の光景を検索しようとしても、その試みの努力が届かないところに視覚画像ショットあるいは動画クリップ形式の記録ファイルがしまい込まれている。だから自力で再現して見ようとしても見えない。
 いっぽう眼前の現実をまず見て具体的な網膜像が入力されてしまえば、想い出がそれに一致するかどうかの合否判定はできる。想い出の形状や色彩を詳細に特定するデータはちゃんと記録され、保存されているのだ。
 さらには朝ドラが『らんまん』の頃に一度考察している通り、その思い出データの断片群を輪郭だけの無着色の『線図』とも整合して、元の現実がどんなだったかを再現できるんだよな【1170】

 恐らく言語や図式やそれに近いロジカル情報単位として『細長い』『四方に拡がっている』などなどチェックリスト形式の判別プログラムが組まれているであろうことと、もうひとつは『眩しい光』『目の覚めるような赤』を見た時の、視覚入力以外の他の連鎖反応が検索タグになって抱き合わせで記憶されており、今リアルタイムで映っている網膜像に、それらを適用してマルバツ式判定で整合性採点するような演算処理が走っているのではないかと考えている。あああ~わかりにくい文章だなあ。

 子供の頃はインパクトの強い視覚入力があると、目をつぶってもその画像が見えてしまい困ったものだが【54】、のちに大人になるにつれ視覚情報処理のフローチャートが変化したということになる。画像ファイルは重くてストレージ負荷が高すぎるので、ロジカル要点ファイルでの記録に切り換えていくんじゃないのかね。

 30億年生命の歴史で高度情報生物の進化の枝をここまで伸ばしてきた原動力は、体内流通情報のデジタル化と、通信・保存の飽くなき軽量化・高速化志向だったのではないかと思うのである。
 ではスキップで頭も身体もほぐしましょうか。軽やかに速やかにグッドラック!
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【1239】ココロ追い求めるマッドサイエンティストの発想源 [ビジネス]

 NHK朝ドラはタイトル曲『東京ブギウギ』が登場、そろそろクライマックスだな。
 続く『あさイチ』では不定期挿入の短編ドラマ『幸運なひと』が面白い。若夫婦のダンナ側にある日いきなり末期の肺癌発覚…というストーリーは、他ならぬこの私が姉で類似ケースに遭遇しており【196】、ついつい入れ込んで録画してまで観ている。
 ドラマ本筋はともかく、そこでヨメちゃんが音楽業界にいた絡みで”All the things you are”というジャズスタンダード曲が使われていたのには一層喰い付いてしまった。

 哀愁帯びた曲調のジャズらしいっちゃジャズらしい曲なんだが、とってつけたような有名なイントロがあって、それをもって演奏を始めることが多い。知らない人が無防備に耳を任せて聴くと、ちょうどメロディが始まるところで、なんだか拍が合わなくなるはずである。
 しかも綺麗に4小節単位で節目がつく素直な構成になっておらず、何も考えないまま楽器パート同士でソロ応酬をやっていると、メロディのおしまい近くで『字余り』的に小節が余る【566】
 おまけに最後の最後に、またしてもメロディからくだんの有名イントロの変態フレーズに戻り、あれっ?と思うような途切れ方で終わってしまうのだ。どんな歴史を経てこんなことになったかねえ。
 好きな人も多く、押しも押されもしない名曲なのだけれど、なんでこんなヒネりのある曲を劇中曲に選んだのだろうか。NHKでは、ただの直球で無難に終わらせないポリシーの選曲基準でもあるのだろうか?

 さて、せっかく妙な懐かし怪奇サイコ映画の話題に触れたので、もう少し続ける。

 記憶に残っているのは実験テーブル上の生首ちゃんひとつと壁面から突き出た両腕3組、端的に数が合わない。頭部のコミュニケーション機能と腕のアクチュエーター機能は、各々連携なく個別に機械に接続されていたのかなあ。
 ともあれラストシーンで両腕が博士の首を絞めるからには、やはり腕に触れたのが博士だと認識して、腕の制御には殺意が籠められていると見るのが自然であろう。とすると、生首ちゃんの目視による判断が入ってるか。

 あとふたつ生首ガラスケースがあったのか、少なくとも3人をこんだけバラしちゃったんだしオリジナルの人体構成にこだわらず、頭ひとつに腕3人分という組み合わせトライアルで接続していたのか?
 今さら確かめる術は無いのだが、とにかく博士に向かって話しかけた生首ちゃんと博士の首を絞めた両腕は、ちょうどヒト一人相当の情報体系のもと通信していたとする。ならば。
 普通に考えて、壁から伸びた腕の指先にアツアツのやかんを触れさせると、生首ちゃんは『アチッ!』声を上げ、腕は思わず手を引込める動作で応えるんじゃないすかね。

 ここに生首ちゃんは『お湯を沸かしたやかんを触ると熱い』という現実事象を、記号接地状態で認識したことになる【1211】

 いっぽう腕と生首ちゃんの接続が切れていれば、生首ちゃんはやかんに指先が触れるのを他人事として眺めるだけ、あとで水ぶくれができちゃった指先を見て、痛そうだし気の毒だし『火傷』というネガティブ現象が起きていることを認識する。
 次にまた同じような行き合わせになりそうだったら、生首ちゃんは誰かに『腕が火傷すると可哀想だから、やかんを近づけないようにね』と頼むんだろうな。のちに接続がある程度でも復活して、自分のコントロールで腕を動かせるようになったなら、熱い感覚まであるかどうかは別にして、火傷しないよう意図的に腕をよける。

 これは『お湯を沸かしたやかんを触ると熱い』という現実事象を、記号接地せずに学習したと表現して良いと思う。

 では腕を隣のおうちに連れて行って、電話回線で生首ちゃんと接続してみよう。
 隣に連れていかれた腕の様子はカメラでライブ中継されていて、生首ちゃんは目の前に置かれたモニター画面を通して、リアルタイムで自分と回線接続された腕の映像を見ることができる。
 生首ちゃんにとっては、間近の腕を肉眼で見るか、隣のおうちの腕をモニターで見るかだけの違いなのだが、これで五感を通して手元の経験を等しく積んだとして、それは仲良く揃って記号接地していると言い切れるのだろうか?
 お解りの通り、アイテム間に通信回線つまり情報の延長経路が挟まっただけの違いであり、情報処理デバイスや、流通する情報の量と質は全く同じである。

 既に実用化されている遠隔操作の手術装置なんかは、まさにコレだよな。
 これって、執刀医にとっては『直接手術する』vs『凄いマシンで手術する』という、異なる二通りの記号接地体験になるはずで、でも手術される患者にとっては『名医に的確な執刀を受けた』という完全一致の記号接地体験となる。

 ここで生首ちゃんを人工知能AIに入れ換えて考えてみたい。
 『AIは記号接地体験ができないため主観や意識の構築ができない』という見解を唱え、いわゆるココロある生命体と区別したがる意見をよく見かける。けれど『記号接地』ってそもそもナンなのだ?それはホントに主観や意識の成立要件になるのか?

 つまるところ『俺は区別するもんね~』とコミュニケーション空間の流通情報的には何の意味も作用もない差別意識をひとり決め込んで、言ってもその先の展開なんか無くて宙に消えるだけなのに、ただ無駄に主張しているだけではないのかと思ってしまう。
 人間がスピリチュアルな心象を籠めて語る『他者に乗り移る』という概念が、具体的な動作手順にまで現実化したとして、まずAIに乗り移ってみて人間が自覚する『主観』『自我』の有無を確かめないと答が出ない。確かめた本人が個人的に答を出しても、それを他の誰かに伝える手段が無い。

 私自身、興味が無い訳じゃないが、ハマるばかりで良いコトなさそうなのである。
 何より私は、そもそもから生物と無生物の間にセンを引かない主義だし【97】

 私は上部と下部の両方の内視鏡の経験者である。要は胃カメラも飲んだし、お尻からもCCDを突込んだ過去がある。
 どっちも自分の視界内にディスプレイが置かれていて、医者にカメラをぐりぐり操作され『ああ~綺麗じゃないの』なんて言われながら一緒に画面を眺めていたのだが、消化器内壁にカメラの固さや温度を感じた記憶はあんまりない。よってカメラの動画ビューにダイレクトにセット連動した触感体験も無い。
 このシチュエーション、腕を隣のおうちに持って行かれて、その自分の腕のモニター画面を眺める生首ちゃんと、どっちが記号接地度が高いのだろうか?

 社会で振舞う『情報体』として人間とAIの間に差異を定義しようと躍起になるのは、あんまり建設的な試みではないと私は思う。
 マッド博士になって人間を実験台にしたら犯罪者だが、パソコンを実験台にしてパーツ構成を試すぶんには、どこからも文句は来ない。映画をヒントにPCマッド博士になればいい考えが浮かぶかもよ。
 お宅のPCくんもどうか御機嫌うるわしゅう。幸せなお付き合いを、グッドラック!
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【1238】最先端サイエンス原野開拓者のパノラマ美的感覚 [ビジネス]

 あいや、月面探査機SLIMくんは季節の巡りで月面の夜を迎えるタイミングとなり、ソーラー電源が切れて機能停止するらしい。大気に覆われない月面の夜の極低温は苛酷だが、湿度も存在しないので着氷や凍結膨張で壊れる心配も無いし、ここはひとつ果報は寝て待つとしよう。グッドラック!

 私は生まれてこのかた皆既日食を見たことが無い。
 簡単に見れるチャンスをみすみす逃したことは一度もなく、日本列島の本州に住んでいて普通に見に行こうと思うようなところに皆既日食の発現域がかかったことが無い…という不可避の国民的不遇がその理由である。残念だが納得がいく。
 いっぽう皆既月食はそんなに激レアな天体現象でもなく、私ならずとも皆さん何度もお目にかかっておられることだろう【568】

 皆既月食の赤い月を眺めるたび、赤色が均一な色合いでなく濃淡の分布があること、そしてその濃淡が激しくめらめらと月全体スケールで揺れ動いていることが確認され、あれをいっぺん月面側から動画で見てみたいと思うのだ。
 まるで燃え盛る暖炉のようなあの赤色の揺らめきは、月面側からこっち向けて見るとどんな景色になっているのだろう?

 地球には大気があるため、木星や土星ほどではないにせよ輪郭にボカシが入ってはっきりしない外観になっている。
 最近にわかに現実味を帯びてきた民間宇宙旅行の目安のひとつとして、だいたい高度100キロをもって『宇宙空間』とする考え方があるワケだが、これに対して地球の半径は6500キロ弱もあり、つまり地球の大気層は皮一枚のように薄い。

 皆既月食の時の太陽・地球・月の位置関係を考えるに、月面からの視射ビューは、地球の丸く真っ黒な影を、ぐるりと朝焼け・夕焼けが囲むカタチになっているのだろうと推察する。
 そして地球大気が揺れ動いて太陽光の透過率や屈折率を変動させるので、ほんの薄い大気層のことながら、月面に投影される夕焼けの濃淡は激しく大胆に揺らめく…ということではないだろうか。
 さぞかし綺麗なんじゃないかなあと、皆既月食を見るたびに思う。でもわざわざ見て喜ぶくらいに他にも良いコトあるなら、もっと早くにさっさと撮って公開画像が出回っているはずだから、あんまり実質的なサイエンス価値は無いのかも知れない。残念。

 月面から見る皆既月食中の地球の姿が私の見立て通りの美しさだったとして、やはりいずれはカメラを通した画像ではなく、現地に身を置いて肉眼で見たいと思うのが人間の願望だろう。
 だがこれまでの地球上の生命の歴史が紡いだ情報生命体の情報処理プログラムは、数日間を閉所で過ごす宇宙航行にはなかなか耐えるのが難しそうだという前回のハナシであった。ショッキングな日本語になってしまうのだが、人間の精神改造レベルの技術が必要になってくるのではないかと。

 まだテレビがモノクロだった昭和40年代、いま思えば結構ヤバいサイコ系インテリ映画がちょくちょく平日の真昼間に流されていたものだ。この記憶もいつか整理しつつ特集したいのだが今回は置いとくとして、その中でも私の脳裏に焼き付いているのが、マッド・サイエンティストの人体パーツ個別化実験をストーリーにした一本である。
 たぶん小学生時代に帰宅したら放映中でやっていて、途中から観始めたのだと思う。よってタイトルも大筋も私は最初から知らない…はずだ。例によって私の記憶容量が足りていないだけのことなのかも知れないが【581】、とにかく紹介したくても紹介できる情報が無い。どこの国か不明だが、海外の作品である。

 かのマッド博士が人っけのない場所に秘密の研究棟を構えており、その実験室テーブルにはひと抱えほどある半球ガラスケースが据え付けられている。そしてその中には確かスキンヘッドの女性の生首ちゃんが収まっていて、あちこち何本か電線ケーブルがつながっていたように思う。また壁の一面からは、人間の両腕が横並びに3組だらんと垂れ下がっていた。
 博士が制御パネルを何かしら操作すると、ガラスケース内の生首ちゃんが口を開けて絞り出すように発声したり、壁の両腕たちがそれぞれ宙をつかむように動く…みたいなシーンがあったのを憶えている。

 つまりマッド博士は人間をばらばらに切断して、電子機器…は当時は具体的概念が無かったはずなので電気回路と接続して、任意の入出力制御が成立するかどうかを実験していたという設定である。
 うわ~エグいにも程があるよ、なんでこんな映画作ろうと思ったんだろ?

 先に走り切っておくと、実験していて確かガラスケースの生首ちゃんに何か意味のあることを言われてたじろいだマッド博士が後ずさりし、そのまま背中で壁ドンするのだが、その場所がちょうど壁から伸びた腕のある位置で、マッド博士は背後から首を絞められ、抵抗するもののそれをはずせず苦しんだのち絶命してしまう。その光景が退いていって、陰鬱な静寂のラストシーンになるのだ。
 最後までどうしようもないな、なんだこりゃ?でももう一度観たくてしょうがない。

 コンピューターが社会稼働する以前の時代に、電気回路で組まれたマン・マシン・インターフェースのズバリそのものの概念が存在していて、それが庶民向け映画にまでなっていたという事実の記録なんだよな。
 悪趣味もいいところの内容ゆえ、フィルムがケミカル劣化しても保存の対象にもならず、もうこの世に残っていないかも知れない。残っていたとして、金輪際一般公開できないのは間違いない。
 こんなものが作られた1950~60年代の時代、科学技術の発達競争が世界中に水爆をいくつも落とし、大気圏外に無人・有人の機械装置を数々打ち上げた。子供向けアニメでは緑あふれる森をブルドーザーが根こそぎ押し崩し、バンビやリスや小鳥たちが悲壮な表情で逃げ惑っていた時代だ。

 科学技術パワーが『善』でも『悪』でもないとされる反面、自然破壊の一面をもってはかなり明確に『悪』のイメージで象徴的に描かれていたと思う。
 だが世界各国が経済発展を主とする国際競争のため、なさけ無用の仁義なき技術発展にしのぎを削るのは、もう人類みずからコントロールが効かなくなっている『探求心』『開拓精神』の本能の暴走として、ただの『悪』でもなく扱う世風が広く定着していた。『悪』の面を認めつつ、そっちに身を預けていたと思う。
 ある意味、人類の手綱を離れて突走る科学技術との対比があからさまだったからこそ、イミフにヒトを別格視した『人間の尊厳』みたいな幼稚で厚かましい自己主張は聞かなかった。当時はそんな時代だ。

 ありゃりゃサイコ映画のハナシに化けて終わっちゃったよ、まあいいや。
 さまざまな情報に溢れたこの現代社会で、無作為に放つにはあまりにヤバすぎる映画なのだが、受信する側の視聴者層の当時の受け止め方として、これが問題にならなかったという事実に気付いて考えておきたい。社会は何故、どんな経緯を辿って、変わったのだろうか?それは良いコトなのだろうか?

 子供たち若者たち、社会は常に変わるので変える側に立て。今週もグッドラック!
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【1237】銀河クルーズ参加資格のメンタル問診票 [ビジネス]

 月面探査機SLIMくんは機能を残しているらしい。とりあえず素直に喜ぼう。
 脳天着地のまま、月面でいう西向きだっけかのソーラー発電パネルが受光し、完全ではないんだろうけど探査機能と収集データの通信成立が報告されている。
 まあ荷重支持するはずの足回りが仕事を失って宙を仰ぐ反面、欲しいブツなり情報なり天上から受け取るつもりだったのに、そのへん軒並み地面とにらめっこになっちゃってるんだから、逆立ち姿勢は結構な大打撃のはずなのだ。行き過ぎた期待はせず『いいコトあったら御報告よろしくっ』ぐらいで、面白いまぐれ当たりを待つ感じで丁度いいと思われる。

 本当に可能かどうかは別にして光の速度を超える移動技術を持たない現代の人類文明としては、4日間ほどで行ける月が宇宙拠点開発の到達限界であろう。
 …っちゅうか、国際宇宙ステーションISSでなくてせめてエコノミークラス級で構わないんだけど、その乗員席から思い立った都度よっこらせっと立ち上がってトイレに行けるくらいの自由度が確保できないことには、乗員のメンタルが持つかどうか心配である。座席に縛り付けられ、4日かけて現地に行って、また4日かけて帰ってくるなんて、それだけで現状の生物としての人間の精神力の限界ギリではないのか。
 そこらの一般人だと、一生に一回のことだから死ぬ気で頑張れと言われても、途中で閉塞感と拘束感に耐えられず気がおかしくなる方が普通だろう。

 早々に横道にそれるが、これのプチ体験版が船上生活だと思うんだよな。
 私が学生時代に船旅50時間で沖縄まで行った話はしたが【664】、うわ~凄い、この船で沖縄まで行くんだ、わあ陸地が見えなくなった、すんげーこんな景色見たこと無い…の未知との遭遇的な熱烈ドキドキワクワクの心境は、200メートル級フェリーならものの3時間もあれば、すべからく沈静化する。
 洋上に出れば普段は目にすることの無い明確な雨柱と虹を従えた積乱雲や、イルカだのトビウオだのいかにも外海らしい生物たちに歓声を上げたりもできるのだが、だだっぴろい床に雑魚寝滞在の大部屋で第一発見者の声を聞き、潮風強いデッキに駆け出して喜んでいられるのは数分から十数分のこと。
 あと夕暮れから夜明けまでは風も弱まり、さすがに空の超絶スペクタルショーが見飽きることのない素晴らしさなのだが、これとて当時すでにポータブルのカセット再生機で聴ける高音質の音楽があって、空の開けた場所に仰向けに寝転がって怒られない甲板スペースがあって、二晩だからそれで済んだのだろう。

 船上生活でしか味わえない貴重な体験の輝かしい記憶の隙間時間を埋めるのは、圧倒的なボリュームの閉塞感である。いま別に散歩に出て何キロも歩き回りたい訳でもなければ、真横に騒がしい手前勝手の群衆がいて迷惑な訳でもない。
 なのに文字通り『地に足が着いた安心感から浮いた』漠然とした不穏心理が拭い切れず、人も羨む優雅なレジャー時間のはずなのに、そのイメージ通りの解放感に身を預けてリラックスし切れない。
 ただただ変化のない『特別な時間』が流れるだけ。それをポジティブに消化し受け流すのが難しいのですよ。まだまだ知見の浅かった学生時代の私が、五感をもって記号接地で学習した貴重な知識アイテムのひとつである。いやあ、いい経験だったよ。

 どこまで乗客の要求値を満足できているかは知らないが、これを調達可能なブツで抑え込む最高級の豪華待遇メンタルケアとして、料理や果実をてんこ盛りにした金銀きらめく大きな杯が並ぶなか炎めらめらのジャグリング…みたいな過剰気味アトラクションの一般解が発達してきたのではないだろうか。
 一方かつての大航海時代には、自由経済市場の原理に則って一旗あげる野望に溢れた貿易船が数々競って長期航路に乗り出し、その少なからずが暴動により船上組織が崩壊して海の藻屑と化した【589】
 現代の社会生活のどこに適用先を見出すかは人それぞれだと思うけれど『孤立空間の集団マネジメント』という課題には、洩れなく意識して観察眼を働かせておいて損は無いと思うのだ。

 もちろん行き先が火星となると何の動力でナニを飛ばすかにもよるのだが、片道ですら軽く年単位の旅程となるのは避けられない。人間は、どこまで狭いワンルームに何人が暮らせるものなのだろうか。後戻りのできない期間中、どんな変化が起こって、どこまで自己完結で解決できるものなのだろうか。
 適性のありそうな掛け合わせで新生児から準備し、外界を知らない狭所で純粋培養式に育成して、それでも恐らく半分以上のダメなヤツはダメで、どうにか壊れずに持ち堪えそうな個体を選別して『火星開発適材準備局』を結成するとか、かなりムチャな人材開発をやらないと火星の有人開拓は計画から成立しないと思われる。

 その居住環境で直近の生命の危険を覚えるような要素など無いはずなのに、恐らくは当人の意識にある『世界モデル』として、何かしら『拘束されている』と自覚しただけの段階で、人間は自由空間と現状拘束条件の対比で頭がいっぱいになり、不安と不満と葛藤に苛まれる窮屈感のプログラムを備えた情報体なのだろう。
 裏返せば『情報』の領域で何らかの的確な工夫で処置を施せば、ウソのように問題なく生命維持の要件動作だけこなしながら、長期間の閉空間の滞在も可能になるのではないかと思っている。

 人工知能AIの開発が進むのに並行して、人間の『意識』『自我』『主観』とは何なのかの議論も見え隠れするのだが、人間がこれらをマシン語の文字列としてAIのプログラミング構築に適用できるくらい解明されれば、数日を越える長期宇宙航行の可能性に手が届くのかも知れない。
 ただここまで来ると、マジガチの文字通りに人間を操縦する精神コントロール技術の実用解ということにもなるからタイヘンだ。具体的成果の記録ファイルを手にしたとして、運用管理のステップでオオヤケ目線には行き詰まった構図で硬直しながら、水面下では無法・非道の実地適用事例が乱発する事態が予想される。
 『自分の願望を優先したい』『他人を従わせたい』『ジブン優位に浸りたい』みたいな卑小で不幸な自己満足の作動特性に抑制をかけられない粗悪ポンコツ情報体・人間なんぞに裁量を持たせてはならず、こんな時こそ究極の合理性で無欲に判定を下すAIの出番なのかも知れない。

 今度はAIの知力を助けにして、人間がポンコツ我欲を修正する順番ですかね。
 それはそれで面白いし、人間もAIもひっくるめて『世の情報体が社会性をもって作り出す技術の進歩』という見方ができる。『情報体の進化』が世を引張る時代だ。

 火星移住が叶う頃には、地球社会ってもう少しマシな問題で悩んでるのかな。
 そんな未来に馴染めるジブンでまずいたい。冬の夜空を見上げてグッドラック!
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【1236】懲りない廃墟ニュータウン宅地開発の新人研修ツアー [ビジネス]

 そうだイカン!道路交通の大雪立往生の回【1225】にひとつ書き忘れていた。
 命にかかわり得る内容なので、取り急ぎ追加情報を突込んでおこう。

 車列の中で身動きが取れないまま積雪が嵩むと、車体周囲を雪が塞いでしまい、排気ガスが車室内に侵入してくる危険があると述べた。
 ならば排気管にホースをつなげて延長し、反対側をリアワイパーやルーフ端などに固定し、積雪に塞がれない高さで排ガスを逃がしてやれば良いのでは?

 結論は『NO』だ。やってはいけません。
 排気ガスは車体前部のエンジンから、ミッチミチの気密経路でお尻の排気管開口まで引かれているのではない。『排気』なんだから、環境適合や保安基準さえ満たしていれば車としては捨てるだけ、それより排気系は高温になるし、いきなり水は被るしの厳しい作動条件下で故障など起こさないことの方が優先度は高い。

 まずそこそこの長さの細いホースで延長されたぶん通路抵抗が上がり、排気系の最終出口が詰まり気味になるから、末端で素直に出て行かないからには、内圧が上がって途中のあらゆる接合隙から排気ガスが洩れ出し、結局は路面と車体底の間に排気ガスが溜まってくるのだ。
 むしろホース延長で『もう大丈夫』と油断しているうちに車体周囲を積雪に塞がれ、ドアを開けるのも困難になったところを、ホースが強風で折り曲げられて塞がる…など事態の悪化を招く危険がある。

 雪かき作業といえば、そりゃあもう手は痛いのを通り越して感覚なくなるし、顔もピリピリちぎれそうで表情変える気がしないし、僅か数分でも体じゅう雪だらけになってありとあらゆる体温を奪われるし、そうやって極寒地獄の重作業から生還して戻ってきた車内で、あったまるための飲み物も待っていないとなると、本気の本気で雪かき作業そのものを最初からサボることを考えてしまうのは重々理解できるが、残念ながらこればっかりは負からない。手も気も抜くと、死ぬぞ。

 排気管延長がお手軽な排ガス侵入事故の対策になるくらいなら、とうの昔にカー用品店で気の利いた専用パーツが商品になって並んでるはずだ…と気付いていただきたい。
 こんな簡単で安価に商品化できそうな便利グッズが無いという事実の裏には、無いだけの理由があるのだ。まだまだ突然の大雪に巻かれることもある今の季節、どうか御安全に。

 さて一気に話題を宇宙に向けて、いいタイミングでJAXAが画像を公開してくれたが、月面探査機“SLIM”くんは脳天から月面にごっつんこの状態か。
 SLIMくんのこんな姿の現状を撮影してくれたのは着陸船本体から分離した小型ロボットだとのことだから、コイツが生きてここまで機能してくれただけでも万々歳である。でもコレ電源供給どうすんだっけ?電池切れたらオワリだっけ?

 地球の六分のイチと言われる月の重力だけれど、軟着陸するためには着地速度を落とすため噴射ノズルを月面に向けなければならないはずで、だとすると着陸態勢に入ってからの姿勢制御が何かうまくいかなかったんだろうかね。画像を見る限り、バウンドしたり転がったりした痕跡は無さそうだから、マンガみたいに頭突き一発で止まったってことか。
 ほぼ原形を保っているし現時点でも十分なラッキー、昭和の時代からこんだけ地球にUFOが飛来していて宇宙人との交流を公表する人たちも少なからずいるんだから、誰かちょっと宇宙人に頼んで起こしてもらってくんないもんだろうか。

 月面に大気は無いので、強風に流されたり雨雪などをもたらす擾乱(じょうらん)現象にも巻かれない。ある意味ラクなのだが、空気抵抗が無いからには落下傘原理の降下着陸装置も使えない。
 接地速度を落とす手段は、月面に向かって月着陸船自体の質量の一部を射出する以外に無い訳で、つまり月面に狙って着陸するためには38万キロの航路を飛ぶ間、その操縦操作に足るだけの質量の余裕と射出機能を温存しておかねばならないのだ。なるほど技術的にはタイヘンなミッションなのである。
 夜にちょっと見上げると、荒地は荒地にしても、機械デバイスをあそこまで飛ばして降ろすぐらいやれそうな感じはしてしまうもんなのだけれど。

 因みに火星は二酸化炭素主体の大気がありヘリコプター型の探査機”INJENUITY”(インジェニュイティ)が何度も地表面で飛行と着陸に成功している。あっぱれNASA。
 気体成分で決まる流体特性も、温度・圧力などの状態量も、これまでの火星探査の測定装置に検知できている以外は未知の大気だから、いわゆる『二重反転ローター』にして反力を相殺し、テールローターを省略する設計思想は正攻法であろう。
 もう何十回も飛んでいて離着陸でコケたハナシは聞いた記憶が無いのだが、激しい砂塵嵐の砂礫チッピングにでもやられたのかローター翅が破損してしまい寿命なのだという。残念だが、よくそれだけの回数を持ち堪えて繰り返し飛んだものだ。
 独立制御のテールローターを自分で操作しないといけない狂気と錯乱の『レボリューター』【1116】よりは操縦がラクチンな気もしないでないが、大気も重力も異なる環境の火星表面で回転翼機の飛行を成功させたのには驚きである。

 『銀河鉄道999』で地球から出発して最初の駅が火星だった。メーテルによれば、

 火星の気圧を人工的に地球並に引き上げるのに1世紀かかったわ。
 今では人間が暮らすのに何の不自由もないところ。
 でも地球の植民星としていま住んでいる人たちの大部分は機械の体の人たち。
 なんて無駄な努力を、人間はしたのかしらね…

 推察するに、先に生身の人間たちが火星での拠点生活を実現し、次いで機械の体が普及したという順番である。人間の心身構造のメカニズム解明が火星植民地化よりも難度高く見積もられており、結局両方ともクリアしたその先が『銀河鉄道999』の世界なんだよなあ。でもコレいずれ訪れる現実化の順番があったとして、逆順なんじゃないすかねえ。

 外宇宙に張り巡らされた『無限軌道』を光速以上で駆け巡る銀河鉄道の技術体系は、これまたメーテルの解説によれば『遠い外宇宙の滅亡した科学惑星の遺跡や異星人から手に入れた、人間の科学力以上の知力』ってことなのだが【994】、そんな遠くの他人事でなくとも、人工創出物AIが叶えてくれる可能性の方が現実的ではないだろうか。
 別格の情報処理能力でAIが提示してきた新たな世界モデルに、人間が心を開いて迎合し実用に動けるかどうかがネックになると思う。

 『進化』の余地を保証されただけの自由空間で『おのれを越える能力を創出し、その優位性を認めて身を預けられる柔軟さ』こそが、高度情報体バトルフィールドでの生存能力の必須要件だ。
 この現代の地球上で、未来の銀河超特急を引張る若く新しいチカラにグッドラック!
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【1235】現実から幻までの太陽系クルーズ航路 [ビジネス]

 JAXAの探査機”SLIM”が月面着陸を成功させた。久々の明るいニュースだ。
…と言いたいところだが、どうやら着陸には成功したもののソーラー発電装置が機能していないらしい。着陸後のSLIM発信データが地球に着信しているそうだから、月面に着陸し損なってバラバラにぶっ壊れたワケでは一応なさそうだ…ぐらいなんだよな。
 このところロケット打ち上げも失敗が続いた感があり、そりゃ内情も知らない外野がテキトーな文句も言えないんだが、それにしても近年『ニッポン宇宙開発技術、どうしちゃったの?』的な不調イメージが拭えなかった。
 まあ調子の上がらない時はあるもんだし、大切なのは『焦らないこと』である。

 月までの距離は約38万キロと言われているから、電磁波の毎秒30万キロで通信して1.3秒弱かかる。これはSLIMの身の上に何かあったとして、それを検知するまでに1.3秒、間髪入れずに受け身の制御で対応するにも、その通信が届くまでまた1.3秒かかるということだから、普通に考えて不慮の事故には間に合わない。
 まだ真直ぐ降りたかどうかも確認中なんだっけ。激突や転倒なんかで本格的に壊れてないのだとすると、いつか次に月に行ったヤツにちょいと起こして置き直してもらえたら有難いんだけどねえ。

 もう数年前のことになるが、小惑星『リュウグウ』にタッチダウンした『はやぶさ2』のお話を聞く機会があった。何しろ相手が小惑星なので、最大で地球から3億キロぐらい離れてしまうことになるのだそうだ。
 はやぶさ2のミッションは、カラ傘おばけのようにリュウグウに一本足で着地したのち直ちに離陸し、そのタッチ一撃でリュウグウ表面の物質を採取して持ち帰るというものだった…はずである。私の記憶が間違っていなければ。

 こういうミッション形態の場合、実は早々に『公転軌道上のここでリュウグウと出会おう』と決まっていて、いったん打ち上げたらそこまでの行程はひたすらヒマな宇宙の長旅…というプラン消化の流れではないらしい。
 まずリュウグウの近くまで飛んで行って、寄せて寄せて傍から眺めながら、どこらへんがタッチダウンに良さげか見繕った上で、相対位置を合わせ込んでいって『よしっ、今ここ!』のGO判断で決行するのだという。だから太陽系の地球軌道とリュウグウ軌道の漫画を描いて、地球からどう飛ばしてランデブーに持って行くかの行程は最初に確定しておらず、人間の場当たり都度の判断による手動操縦なのである。
 むしろリュウグウの十数メートル上空だったかから、せえのー!で降下してチョンと突ついて、その一撃の瞬間にサンプル採取して、帰還の準備態勢を改めて整えにかかるまでの一連のパッケージ作業の方が、自律制御による自動運転に頼っていると聞いた。なるほどな~って感じだ。

 地球から約3億キロも離れた日には、はやぶさ2からの現状報告にしても、地球からの操縦信号にしても、秒速30万キロの通信速度で1,000秒つまり20分近くもかかってしまう。
 『ほら、いま見えるリュウグウってこんなんだよ~』と送られてきた画像は20分前のものだし、『よおし、それならこっちに回り込んでやれ』と作戦思考で放った操作が到達するのは、更に20分後のことだ。
 …こっこここれは、ラジコンのように楽しく操縦できるものなのか?
 人間ってなかなか大したもので、こういうタイムマシン式の演算課題に対しても、ちゃんと学習を経て『勘』が働き、こなせるようになるものだとは聞いたのだけれど。

 これ、宇宙空間に『発信』として放った情報が『受信』されるまでの20分間、ただ水面の波紋の三次元版のように進んでいってる過程なんだよな。3億キロも離れると、人間のしょぼい五感でも『幻』の進展速度に追い付けるというワケだ。
 このハナシどなたかライブ演劇のプロフェッショナルの方、イツマ教授の名言に絡めた、観客の度肝を抜く斬新な解釈で、未来のパフォーマンス新領域の開拓に活かしていただけませんかねえ。前衛芸術系アッチの世界のアングラ演劇に終わらないよう、慌てずの焦らずで、アタマの隅っこに置いておいて取り組んでいただけると幸いである。

 さてジャガイモのような小惑星リュウグウの凸凹表面に運任せでタッチしても、真直ぐで十分な耐荷重の面が待っていると期待する方がどうかしているから、確かはやぶさ2から事前に一発撃ってクレーターを作ると共に『ひと皮むいた中身』を露出させ、その中央にタッチしたんじゃなかったっけ。
 あんな岩石然としたカタチの小惑星をあっちからこっちから見立てて、成功率の高そうな接触地点を慎重に決め、いったん決めたら今度はそこに合わせて確実に作業を命中させなければならない。

 まず着地点に作った綺麗なすり鉢状クレーター、コイツを絶対はずさないようマーキングする必要があるので、先にパチンコ玉みたいな金属球を一定数まとめて散弾にして地表に向け撃ち込んで、まずは着地点近傍一帯にパチンコ玉の星座の地上絵を作ったのだそうだ。
 はやぶさ2からフラッシュを焚いてカメラで撮影すれば、このパチンコ玉星座が輝いてくれるので、ときに見えづらくなるクレーターの陰影ではなく、星座の方を基準に、タッチダウンの自律制御が自機vs地表面の相対位置を割り出せる。な~るほどなあ。

 ナマのままではつかみどころのない自然造形=正真正銘のアナログ事象を正確に把握するにあたり、人類文明としての情報処理手法を適用するため、入力vs出力の因果がはっきりしているデジタル通信現象を『効かせる』試みではないかと、私は思うのだ。

 人間は、いや記憶ストレージを絡めた生涯を送る動物くんたち、さらに機械くんも加えて、全ての高度情報体は、ゼロイチ原理のデジタル情報を介して、環境を把握し、世界モデルを構築し、対応を決心し、そこに現実を巻き起こしている=生きている。
 そしていったん『情報』に変換された現実の全ては、ありとあらゆる通信回路に乗って受発信され、拡散され、記録され、複製され、再生される宿命にある。この世の道理なのだ。
 そのための『情報』であり『通信』なのだよ、個体間という渉外フェーズにしても、個体内という生体稼働フェーズにしても。

 え~と月面探査機”SLIM”の話だったっけ、とりあえず月面からの電磁波到達時間1.3秒はとうに過ぎていて、SLIMくんの現状について何か判ってきてはいることだろう。もしかすると『何が起こっているのか判らない』という事実が判るだけの結末なのかも知れないけれど。
 とにかく38万キロ先の月面にまで到達したのなら、地球上みたく大気現象で風化する心配はないのだから、また忘れた頃にサイエンス話題の材料になって欲しいものだ。

 天文学的スケールって、SFなどハナシとして聞いて知ってはいるんだが実感の湧かない『ホントかよ?』の理屈が、冗談みたいな直球でモロ現実に顕れてくるのが面白い。
 こんな大風呂敷をフルサイズ枠にして中身を細かく計算するような課題となると、もう人間ごときの情報処理能力でナニをどう工夫しようが、とても手に負えないデータ量・演算回数となる。答を諦めるのか?

 『人間の尊厳』なんぞにこだわってちゃ先が知れない、未来が見えない。
 好きに議論して結論出して収まればよかろう。私は先へ行く、あとはグッドラック!
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【1234】幻の男の人生想い出ファイル [ビジネス]

 お、NHK朝ドラ『ブギウギ』のタナケン御大が、オオモノらしさを覗かせ始めたな。
 ステージで観客に披露する印象とステージ裏のプライベート印象が全く違うという例は多々あるようで、大の仲良し喜劇コンビがステージから戻るなりお互いクチも聞かない不愛想同士に豹変するケースもあったと聞く。
 徹底した職業としてのステージ・パフォーマンス運営における、客席向け商品=『夢の一幕』の、重保管理の現場実情といったところか。

 すべからく『華やかで楽しさ満載のオモテ舞台vs暗く陰惨なウラ実態』ばかりだとは言わないんだけれど、とにかくショービジネスなるものは『能力と適性を兼ね備えた人たちが、そこに目標設定した共同作業で実現する成果だ』ってことですな。

 タナケン御大は『喜劇王』の実力に即した懐の深い人格者であり、共演者や制作スタッフに見せる気難しく口数少ない人当たりも『わかって』やっている、職人気質の理想像を王道で行くタイプのようだ。
 『答は自分で探し出すものです』と整理した丁寧な日本語で鈴子に種明かしするあたり、昭和世代にしてみれば到底あり得ない解りやすさである。
 これでも今どき『無駄に怖い、わざわざこんなネガティブポーズから入る面倒にはついていけない』なんて声がちらほら聞こえてきたとしても不思議は無いんだろうな。最初から、そない言うてくれはったらええのにね。

 かつては『ごちゃごちゃ言わずに持ち場に放り込んでシゴくのが一番上達が早い』という無策の叩き上げが、むしろ業種を飛び越えて金科玉条の教育理念だったとして過言ではない。
 そりゃあもう、昭和時代の徒弟制度なんぞ怒鳴られ殴られ放っぽり出され、いつまで経っても何にもかまってもらえず、それでも師匠の憧れの技巧がど~おしても欲しい弟子だけが逃げ出さずに持ち堪えて、どうにかモノになりかけた頃にせいぜい『ワザは自分で盗め』あたりでオシマイ…が多かったような。
 傍目にも誰にでも一見で理解され納得されるような、技巧も人徳も上位の師匠から、その習得に狙いを定め一目散に励む下位の弟子へ…というロジカル整流がスムーズに流れる教育現場は、全くなかったワケではないのだろうが、あんまり聞いた記憶が無い。

 この『自分で盗め』式の放置プレイ・虐待プレイの伝承スタイル、私はあながち否定的にも見ていないのだ。どんな業界であっても避けられず必ず遭遇する理不尽や筋違いに対して、ビビってなびいて大人しく収まるようなハンパ同調に終わらない判断力を育成するには、むしろ効果的だと大いに認めている。
 好きで身を置いた場所でガチに険悪な障壁マターに次々さらされ、その逆境を単独で戦い抜かねば先は無い。好きなことに取り組みたいなら、被弾するに任せて耐えるも、正面から組み合って解決策・緩和策を探るも、自分自身たった一人がナニかしないと現実が動かないのだ。この対戦モードで場数を踏んでおくことは、実用性の高い能力開発として確実に効く。
 『好きなことを好きなように頑張る』は一見効率よく伸びやかで理想的に映るが、実はちっぽけなジブン世界の中だけで思い上がった未熟な自意識が、手付かずのままその先の現実と衝突する運命にある。
 『人材育成』『能力開発』の目的に照らして、十分な成果は期待できるだろうか?

 だが、私自身がこのツンデレならぬツンツン育成スタイルでやれるかというとメチャクチャ難しい…というか、私には絶対に無理なのである。
 もう威厳も恰幅もオーラも皆無のため、厳格めかした態度を決め込んでも貧相なコントにしかならず、その居心地悪い空気に耐えられず自分から笑いで崩してしまうに違いない。その方がよっぽど真剣かつ効率的に、シビアな内容のスキル習得を叩き込める。
 ツンツン育成スタイルがサマになって効果を上げられるのは、天性の才能だよ。

 今の時代、書面なり動画なりの記録ファイルを閲覧して伝承完了、そこから先は本人の内的な情報処理体系へのインストール成否で決まるような能力習得は、完全にインターネットで片付いてしまう。
 ユーザー問わず等しく効果の上がる教材コンテンツなども不要で、壁を感じたユーザーがその訴えを発信していけば、賢いAIにより社会全体規模でその傾向が集約され、発信者に向いてそうな対策案が提示される。
 だいたい記録ファイルの内容になって流通するようなスキル単位なら、そこらで入力して出力を受け取れば良いだけのネット代行ツールがすぐ実現するような気もする。何故そのスキル単位をわざわざ自分の内的情報処理に組み入れようと思うのか?…まで立ち戻って習得目的を固めないと、イミフの自己啓発で時間の無駄をやってしまう。

 再び朝ドラ前作『らんまん』のイツマ教授の台詞が思い出される。
 『演劇とは、演じる者と見る者、人間の間にしか存在しない幻なの』【1202】

 彼の言う『幻』とは、文明や技術が実現する記録メディアにも、あるいはただの人間の記憶にさえも、記録ファイル形式として物理的に残らない『その時空に発信され受信されるまでの間だけに進行する、制作で仕組まれた通信』を意味しているのではないかと思っている。ああ~、伝わりにくそうな日本語だなあ。
 そう、ポイントは『情報』が記録ビットの『書き込み前vs書き込み後の状態変化』という物理的現象に落ち着く前の動的な段階、その一時性の浮動過程に『演劇の目的や成果の本質が存在する』とするところにあるのだ。

 『あらゆる情報は無償で流通するようになるだろう』【432】【590】とする社会予測があり、私は上記のような理解の仕方で、その予測は的中すると考えている。
 知財の創出や管理で情報化社会を生き抜いていくつもりの人たちは、至高不滅の最終目標を見つけ出せとは言わないまでも、将来何年後あたりで何の情報単位の価値を商品にしながら食いつなぐのか、戦略を立てておかねばならない。
 コロナ騒ぎで生気を抜かれるままに弱らされちまった対面コミュ業界は、新価値ぶちあげて再構築に打って出るチャンスかも知れませんぜ。

 何を隠そう、文字フォントだけで済むような薄っぺらい内容の記録情報で繋いでいるのは、このサイトだったりするんだよなあ。やれやれ、おあとがよろしいようで。
 ま、どうにかなるさ!と根拠なき楽観ビジョンの幻を放って、皆さまグッドラック!
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【1233】呉越同舟最強セッションの御機嫌伺い [ビジネス]

 阪神大震災から29年かあ。東日本大震災2011年が12年ほど前で、今年がこの北陸の震災。他にもちょくちょく震災はあったから、やはり日本列島は『地面が動き回る変動帯』の島なのだ。

 私が小学生の頃、子供向けの科学雑誌に『日本は地震が多いので高層ビルは建てられない』と解説されており、それでも当時の技術の粋を集めて常識を破ったのが霞が関ビル147メートルとされていたのを憶えている。
 昔も今も変わらない特性の地盤に、軽量骨格タワー構造とはいえ600メートル超の東京スカイツリーが建ち、今や300メートルのビルも珍しくなくなっているのだから、大した建築技術の進歩である。

 平地を求めて低所に都市構造が発達しがちな日本列島において、地震発生時の液状化現象による地上構造物の沈下が起こりやすい事実が、今般の北陸の被災状況から改めて見て取れる。
 地面強度に対して重たいものを上から載せて暮らす限り、ああなるのはキホン避けようがなく、だとするとやはり電柱に送電線は日本の街並みの生命線維持ラインならではの景観と考えて、埋設など無駄な土建工事をせず現行踏襲で構造・機能を進化させていくべきなのではないかと思う【545】

 新千歳空港では旅客機同士の接触事故が起きており、ビミョーに『航空事故連鎖のジンクス』だとか形態共鳴だとか非サイエンス的ながら気になるんだが、今しばらく静観してみよう。

 NHK朝ドラでまだもう少し続けてみるか。
 GHQ駐在員のサムが元・鈴子付き人のサヨに求婚し、一緒に渡米することになりそうな流れになっている。そう言や『カムカムエブリバディ』の安子ちゃんもGHQのロバートに連れられ渡米したんだっけ。これ、ドラマ筋書き都合だけのただの作り話でもなかったようだ。
 現代の目で見れば随分と大人しくさせられてはいたのだろうが、それでも当時にして欧米文化圏の女性は自己主張が強かった…と、これについては私の親世代でさえ洋式女権主張の実態は直接知らないはずだから、当時語られていた国際社会事情の一般論なのだと思うけれど、とにかくそういうことだったらしい。
 そんな押しの強い欧米の女性に比べて、慎ましやかで献身的な振る舞いが『躾』の領域で行き渡っていた大和撫子の精神文化は、進駐軍のオトコ連中にとってそれはそれは魅力的に映ったのだそうな。戦勝国だからといって家族が平穏無事に過ごせていた者ばかりだったはずもなく、進駐軍と日本女性とのマッチングが成立した事例は散見されたと聞く。全てが微笑ましくめでたい組み合わせだったかどうかは知る由も無いのだが…

 さてパフォーマンス現場の環境設定が歌から演劇に拡がり始めているので、今のうちに当時の音楽事情のハナシを駆けこんでおこうか。
 鈴子とリツ子にしても、彼女ら率いる楽団員たちにしても、業界仲間として仕事仲間として、キホン仲良く好意的で礼儀正しい人間関係の世界が展開している。なるほど生き馬の目を抜く勢いの潰し合い奪い合い無限バトルでは朝ドラにならんだろうしなあ。

 鈴子楽団員のメンバーたちは黙てんバックレもせず、ちゃんと引き抜きの手が伸びてきていることを公然と白状するし、その場でギャラの釣り上げ交渉をふっかけたりもしない。何と義理堅い。
 本作のモデルケース御本人が実際どうだったのかはつゆも聞いたことがない…とまず断って、やはり劇中のああいう『伴奏を従えた歌唱』という形態のパフォーマンスの場合、当然オーディエンスの人気と関心は歌手が圧倒的に背負っている。要は、大半の客が歌手個人を目当てに来場する。
 興業の商品性の在処として、歌手個人に値が付くのは当然である。それこそ客さえ気にしなければ、興行元にとってバックバンドなんぞ要らないくらいだったんだろうな。
 看板歌手がいて伴奏サポートを調達するにしても、有名楽団のバンマスと後援パートの間柄にしても、少なくとも私が聞いた話としては、すべからく稼ぎ頭たった一人がギャラ総額の半分以上をガメていた例ばかりである。ということは、残り半分あるいはそれ以下を結構な人数で取り合う構図になるしかない。

 もちろんバックパート職層には怨恨さえ含んだ根深い不満が蔓延することになるのだが、自分ひとり楽器を持って稼げるようなポジションにそう簡単にありつけるはずもないため、そこに居られるだけでまずはラッキーとして収まるが、しかし待遇の改善がチラつけば信頼関係や忠誠心をやすやすと上回る。
 終戦直後のGHQキャンプの仕事においては、それでも総じて破格の収入だったのが救いだとも思えるのだが、そんな荒んだ業界風土の賃金体系だったからか、当時のミュージシャンが実直で真面目な倹約家だったエピソードはとんと聞いたことがない【676】

 何しろタフな精神文化の競争世界ゆえ売れた方は売れた方で、どこまでが勝者の特権意識なのか、どこからがネームバリュー維持の駆け引きなのか知らないが、リハーサルで『アタシこんなバンドじゃ歌えないッ!』みたいな突然のクレーム発動なんてこともあったのだという。

 ただでさえ不平不満が板についちゃっているバンドメンバーとしては、控室で
 『ド下手糞のくせに、本来ならまずこっちに菓子折り持って挨拶に来いってんだ』
 『あのアマいっぺん…(集団婦女暴行を指す表現なので自粛)…してやろうか』
などと、お行儀のいい吐き捨て陰口発散トークも飛び交っていたらしい。
 当時のことなので、歌手が誰だとか声の調子がどうだとかでキーの高さに注文を付けられ、カラオケ操作パネルのシャープ印やフラット印のボタンを何回か叩く…ではもちろん済むはずがない。スタンダードジャズなんかは曲を自在にバンバン移調させて演奏し、リハーサルで次々と試しつつ、こんな会話を交わしていたのだから凄い。

 その頃マネージャーは関係者一同の平和な合意のため遁走し、華やかなステージの興業成立のため、あちこちに平身低頭で悪戦苦闘していたと思われる。
 観客が現実を忘れて夢中になるステージ上のチームワークは、あながち和気あいあいココロはひとつの信頼関係で、複数の才能が美しく組み上がって達成されるものでもないってことなんだろうな。

 社会組織の最適化にあたり『みんな平和にニコニコ仲良しである必要は無い』と私は考えているのだが、上記のような世知辛くも生命力強く逞しいエピソード群が、かなり根拠として効いている。
 わざわざに暗い闇や汚れた泥の部分を想像しながら朝ドラ観てもしょうがないんだけど、まあこんなウラ話もあるんだなあと興味を湧かせて面白がっていただければ幸いである。
 よし、楽団ウラ事情のネタをクリアできたし、タナケン編の新展開にグッドラック!
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【1232】孤独な目立ちたがり屋の1st.インプレッション採点基準 [ビジネス]

 北陸の被災地にも厳しいが、全国の受験生たちにも厳しい寒さだなこりゃ。
 避難所にしても試験場にしても、大部屋の暖房は効率確保が難しい。部屋が温度成層になってしまって、せっかくの熱がどうしても天井付近に偏ってしまうからである。

 かつて照明や空調設備の取り付け工事なんかもちょくちょくやったりしたものだが、普通に我々が暮らすこの居住空間、冬場に脚立ひとつ立てて上がると、あっという間に汗だくになるほど暑いのだ。目に見えないので気にならないのだが、夏場お馴染み30度以上の暑気あふれる世界がすぐそこにある。
 個人住宅なら、下の階で暖房を焚いて常用する部屋を決めておけば、真上の部屋は床暖房とは言わないまでも、案外と馬鹿にしたものでもないくらいの熱回収ができる。灯油もお高いこの御時世なので、うまくやりくって財布にお大事に行きましょう。

 温熱効率としては室内容積の高い位置に拡がる空間を制限したいところだが、天井からの圧迫感もさることながら、頭上に一時性のデバイスを設置するのは安全上の観点からしても好ましくない。
 故に、夏場に使う扇風機を持ち出してうまく室内に循環流を作る…という生活の知恵は現実的かつ効果もかなり期待できるもので、おうちにしても大部屋施設にしても『効く』風流れを探って見つけて室内空気を循環させるのは、暖房の効きの向上にかなり役立つ。いろいろと考えて工夫してみる価値がある。
 但しその循環琉には室内の湿度も乗っかるため、思わぬ位置の壁面や床面などに結露が発生することはあるはずなので、そこんとこ一応は気を付けて。

 さて引き続きNHK朝ドラ関連の話題で続けよう。さすがというか、終戦直後の経済環境にしては皆さんお行儀を守って生き抜いている。
 ポピュラー歌謡の有名歌手の付き人が、サヨみたいな日常用の和服で暮らしていたのかどうかは知らない。ただ我々の親世代から聞いた話では、女性が素足を人目にさらす習慣がまだ当時の欧米社会には一般普及しておらず、浴衣に下駄・草履で街角を歩く日本女性がムラッときた米兵に絡まれる事件が散発したそうだ。屋内は自宅内でも土足で過ごす欧米式文化において、女性の素足はもう他人でもなくなった関係の相手に、公衆の面前でもない場所でしか見せないものだ…という社会通念が根強かったとのこと。
 お銀さんもそんな日常の折、米兵に組み付かれたのかなあ【672】
 果たして、路地裏で歌って踊ってサヨとサムみたいな微笑ましい馴れ合いがどのくらいあったものなのかは知る由も無い。ひとつ確実なのは、こんなことを思い巡らす1945(昭和20)年以降、戦争あるいは敗戦という『社会の御破算』の憂き目も二度と見ないまま辿り着いた結果が、現状この日本社会だという事実である。

 ところで世に溢れ社会を生きる情報体というのは、やはり個体間の相互理解としてコミュニケーションするのが情報処理の原点なのだろうか?要は『会話なのか』という疑問である。
 いまこの世の、ぱっと見いの発現頻度や機能展開を見る限りは間違いなくそうなのだが、これはただの現状到達点に過ぎないのではないだろうか。
 『生物の情報化』が進んで、個体間の相互作用がただの巡り合わせの偶然任せでもなくなり、『社会組織』という上位スケールの情報体が形成された。つまり『話しかけたら受け止める能力を持ったヤツがほかに存在する』という情報社会空間の出現である。

 もしかすると進化の過程で、偶然にも自分のウチウチだけでなく外界からの受信回路をも備えた、『絡みに行って通じる』タイプの同種がたまたまいる空間で、素朴なメッセージをナニか思い入れつつ目前の空間にただ放った個体がいたのではないだろうか。
 最初そいつは誰かが受信して響いてくれるとも思っておらず、普段からそういう『受信者がいて初めて、結果的に発信につながるような行動パターン』を孤独に繰り返しながら、気ままに生きていただけなのかも知れない。
 つまりパーソナル事情で交わされる個体間通信よりも、拡散型のマスコミ発信と一斉受信の方が、原理的に見て時系列の上流側にある可能性を考えてしまうのである。

 『会話』よりも『パフォーマンス』の方が、人間の、というか生物の、通信機能の発達の源流に近かったりするのではないかなあ。
 いちいち目前の相手とタイマンで何かを語り合いつつ発信内容を模索するためには、目前のそいつ個人に通じて達成する目的が要る。これ結構ムツカシクないだろうか。
 いっぽう受信者を特定せず一方的に発信するのだとすると、嬉しいからついついやっちゃうような、悲しいから心ならずもそこに落ち着いて収まるような、原始的・本能的な生体反応の顕れのようなものさえあれば、それを起源としてコミュニケーションが起動するのではないかと考えられる。

 相手を決めて話しかけるよりも、思わず歌い出す方が早かったのではないだろうか。
 つい歌がこぼれ出るくらいなら、踊り出す方がなお早かったのではないだろうか。

 人間どもが現有の社会組織で日常会話を交わしつつ、歌や踊りを特殊スキル扱いで愛でたり競ったりしているが、それって随分と窮屈な勘違いをしているのかも知れない。
 情報体としての生物たちが辿ってきた受発信進化の歴史において、やたら複雑化させシチ面倒くさい高次ルールで習得しにくくしてしまったのは日常言語の方で、そっちの不自然な情報体系に『情報体人生』の比重をかけてしまっているような気がする。

 考えて御覧なさいな。普段の会話って、言って良いコト悪いコト、タテマエにホンネ、慇懃無礼に口先三寸などなど、交わされる言語情報以外のややこしい裏含みが多すぎる。コトバを受信者の義務として埋め合わせて解釈しろって言うんだろ?
 言語通信の形態として高次の産物であることは認めるが、発信者と受信者がくっだらない『忖度』の特例コード表を横行させて、本来の意思疎通がデタラメに混乱したりするようなら、それは本末転倒としか言いようがない。

 『霞が関文学』みたいな劣化退廃型の痴呆慣習がいい例だ。あんなもの早く潰そう。
 歌って踊る動物たちの方が、情報化の到達点を遥かに種の繁栄に活かせている。

 いつも自然に感じるまま思うままを精度よく発信し、正確に受信されたい。
 この『通信の原則』を忘れた人間なる情報体に『人間の尊厳』などあり得ない。
 そんなもの情報的に定義しようが無いからだ。

 『自分の通信には責任を持つ』、明日の超・情報化社会の参画理念にグッドラック!
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