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【1231】勘違い切換表示のアナログ・デジタル変換器 [ビジネス]

 北陸の震災犠牲者が200人を超えたという。今もまだ捜索は続いている。
 羽田の衝突事故は、とにかく通信記録が正確に見えない限りは何も判らない。
 どっちも大変だが、いま私ごときが無駄な言論をする幕ではないなあ。
 ついでに言うと、私もまだ難しい内容を思考するほど元気になっていない。

 …ということで、前回からのユルい流れを続けましょうか。
 そう、キホン人間だけなのだよ、自分ウチウチに展開する内的情報処理について、ここまでの精度で対外的に発信できるし、発信するのは。
 動物たちにも、例えば『天敵が近いぞ』と察知して特定の鳴き方その他の反射反応が起こり、それを仲間たちが同じく『天敵接近中』と感知して、結果として一斉に逃避行動に移る…という個体間通信は珍しくない。
 そうではなくて、自分ウチウチに構築している『世界モデル』の事物や現象などを、絵図や文字などにして他の個体と共有する。ここまでやるのはキホン人間だけなのだ。
 まあ哺乳類や鳥類などにも原始的な言語と見られる通信文明が確認されるというハナシはあり、私もその通りだと思うのだが、明確な図法や言語があった方が解りやすいので今ちょっと置いておこう。

 人間は長らく『アナログ作動で組み上がった謎と神秘の生命体』であり、そいつが文明を発達させるうちデジタル形式による情報の管理・流通の技術体系を発明した。まあ大概の人間がこう考えている。

 コレ違うんじゃないのか?
 先に30億年生命の進化のなりゆきとして、複雑な情報処理を瞬発的にこなして地球上のややこしい災難をも切り抜け、その成功事例を記録・記憶して、適宜に検索してその先の未来に適用・応用もして、生存競争や環境適応を勝ち抜いた『デジタル情報体かつRAMストレージ生物』が自然発生したのだろう。

 その成功例が人間であり、もともとデジタルデータ原理の体内流通が完成していたからこそ、それを絵図や言語など情報ファイルの形式にまとめて、視覚や音声メディアに乗せて他の個体に向けて発信する発想が生まれた…っちゅうか、そっちへの進化の可能性が道を開いた。そういう順番なのではないだろうか。
 五本の指を順番に折っていける手指の制御性は、案外と数字の発明と一緒に発達してきたものなのかも知れない。馴染みの言語を饒舌に語る発音・発声の制御性も、生活の充実が要求してくるコトバの細分化と一緒に発達してきたものなのかも知れない。
 動物くんたちの中でも、やはり比較的複雑な情報処理を介して凝った生態で暮らす種の連中が、原始的言語のような高度通信をやっているように見える。さらに我々人間どもと規則的な応酬をパターン化して因果を記憶させれば、うまく懐いてくれたり調教されてくれたりして、種を跨いだ胸の内の交信も可能だ【68】

 順番が逆なんだよ。絵図や文字をデジタルデータ化して便利にしたのではない。
 源流の原理がデジタル方式だから、現代の電子技術で高速大容量で流通できるのだ。

 上記の原理を理解した上で『だからなんだけど』というハナシがここから始まる。
 人間は、どんどんRAMストレージ機能を高度化・高次化させていき、『記憶』から記録ファイルを引張り出しては自分ウチウチで捏ね繰り回した挙句、その成果物情報たる『脳内ナニナニ』『空想ナニナニ』『思惑』『理想』を、他の個体との率直リアルタイム共有目的の発信内容に混ぜ込むようになった。
 同じ『情報』なんだから、混ぜてしまえば双方見分けがつかなくなる。

 もうお判りの通りで、ときに『ウソ』や『思い込み』として、人間が現実と噛み合わない言動に迷い込む原因がこれだと考えられる。
 反面、ときに『夢』や『目標』として、人間がわざわざ現実の苦難に噛みついてでも、その先を目指せる原動力ともなっているってことなのだろう。良いコト悪いコト両方あるが、ヒトのこの進化フェーズは生き残るのだろうか、淘汰されるのだろうか?

 さて、古くならないうちにNHK朝ドラ前作『らんまん』のネタを回顧しておこう。
 模索期の国家権力による管理社会に反旗を翻し、その折には拘束され痛い目も見たイツマ教授だが、すっかり時代が進んだ深夜の『日本植物図鑑』の総力制作現場において、彼なりの『夢』=演劇博物館の設立構想を自由奔放にぶっていたのが微笑ましい。制作筋が登場人物ひとりひとりを大切に愛する顕れとして、いいシメだったと思う。
 その演劇博物館の具現化にあたり語られていた課題が、的を射ており面白い。

 『演劇とは、演じる者と見る者、人間の間にしか存在しない幻なの』【1202】

 脚本家が頭の中で設定した、物理的厳密には仮想の『現実』が台本に記録されており、その記録を読解した役者さんたちが独自固有の表現スキルを駆使して、ステージ上で『現実』に組み上げて観客相手に発信する。観客はその『現実』を受信する。これがパフォーマンスの本質だと私は理解している。
 観客席に座って、ステージ上の『現実』に反応する自分の1Fリアル円フロア通信に身を預けて、自分ウチウチに自分なりの『世界モデル』を展開させる。これが観客の情報的スタンスなんじゃないだろうか。

 演劇文化の物的ツールや精神文化の史実情報を展示するところまでなら、普通に博物館として作ることが可能だろうが、上記のイツマ教授の台詞を聞く限り、現場で起こる『ステージ上の現実』について、来場者に体験を交えた理解にまで到達させようとする意志が感じられる。その志の方向と高さには手放しで賛同するが、現代の体験版・仮想現実テクノロジーをフル活用しても、なかなか達成が難しそうだ。

 まず人間生来の体内情報処理のスピードだけは、外から何の外力操作も受け付けようが無いから負からない。ファスト厳禁どころかスローやリピートで、十分な深さで演劇に触れ、体内外に交錯する情報に浸ってようやく理解の対象になるのだから、収益性の施設にするとえらく効率が悪くなってしまうのは間違いない。資金繰りがタイヘンだ。
 イツマ教授のあの台詞が生み出された背景について『らんまん』脚本家さんの演劇博物館の構想がどのくらいのものだったのか、お話をいつか聞いてみたいなあ。

 以上、相変わらずアタマの中の関心事を話題にして、思考展開できるよう解説していく順番を、きちんと交通整理できるほど思考力が無いので、今回はこのへんで。
 いまリアルvsバーチャルに単純化され、手早く間に合うならそっちでいいじゃん的な選択基準になっちゃってる通信プロセスなのだが『必要な情報を組織に効かせる』ことを考え、きちんと通信しないと無意味どころか自滅する。御慎重に。

 スマホやネットがあろうがなかろうが、何人振り向かせて何人コトバが通じるかだ。
 超・情報化時代を勝ち抜く『情報生命力』だと思うね。その発信にグッドラック!
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