SSブログ

【1232】孤独な目立ちたがり屋の1st.インプレッション採点基準 [ビジネス]

 北陸の被災地にも厳しいが、全国の受験生たちにも厳しい寒さだなこりゃ。
 避難所にしても試験場にしても、大部屋の暖房は効率確保が難しい。部屋が温度成層になってしまって、せっかくの熱がどうしても天井付近に偏ってしまうからである。

 かつて照明や空調設備の取り付け工事なんかもちょくちょくやったりしたものだが、普通に我々が暮らすこの居住空間、冬場に脚立ひとつ立てて上がると、あっという間に汗だくになるほど暑いのだ。目に見えないので気にならないのだが、夏場お馴染み30度以上の暑気あふれる世界がすぐそこにある。
 個人住宅なら、下の階で暖房を焚いて常用する部屋を決めておけば、真上の部屋は床暖房とは言わないまでも、案外と馬鹿にしたものでもないくらいの熱回収ができる。灯油もお高いこの御時世なので、うまくやりくって財布にお大事に行きましょう。

 温熱効率としては室内容積の高い位置に拡がる空間を制限したいところだが、天井からの圧迫感もさることながら、頭上に一時性のデバイスを設置するのは安全上の観点からしても好ましくない。
 故に、夏場に使う扇風機を持ち出してうまく室内に循環流を作る…という生活の知恵は現実的かつ効果もかなり期待できるもので、おうちにしても大部屋施設にしても『効く』風流れを探って見つけて室内空気を循環させるのは、暖房の効きの向上にかなり役立つ。いろいろと考えて工夫してみる価値がある。
 但しその循環琉には室内の湿度も乗っかるため、思わぬ位置の壁面や床面などに結露が発生することはあるはずなので、そこんとこ一応は気を付けて。

 さて引き続きNHK朝ドラ関連の話題で続けよう。さすがというか、終戦直後の経済環境にしては皆さんお行儀を守って生き抜いている。
 ポピュラー歌謡の有名歌手の付き人が、サヨみたいな日常用の和服で暮らしていたのかどうかは知らない。ただ我々の親世代から聞いた話では、女性が素足を人目にさらす習慣がまだ当時の欧米社会には一般普及しておらず、浴衣に下駄・草履で街角を歩く日本女性がムラッときた米兵に絡まれる事件が散発したそうだ。屋内は自宅内でも土足で過ごす欧米式文化において、女性の素足はもう他人でもなくなった関係の相手に、公衆の面前でもない場所でしか見せないものだ…という社会通念が根強かったとのこと。
 お銀さんもそんな日常の折、米兵に組み付かれたのかなあ【672】
 果たして、路地裏で歌って踊ってサヨとサムみたいな微笑ましい馴れ合いがどのくらいあったものなのかは知る由も無い。ひとつ確実なのは、こんなことを思い巡らす1945(昭和20)年以降、戦争あるいは敗戦という『社会の御破算』の憂き目も二度と見ないまま辿り着いた結果が、現状この日本社会だという事実である。

 ところで世に溢れ社会を生きる情報体というのは、やはり個体間の相互理解としてコミュニケーションするのが情報処理の原点なのだろうか?要は『会話なのか』という疑問である。
 いまこの世の、ぱっと見いの発現頻度や機能展開を見る限りは間違いなくそうなのだが、これはただの現状到達点に過ぎないのではないだろうか。
 『生物の情報化』が進んで、個体間の相互作用がただの巡り合わせの偶然任せでもなくなり、『社会組織』という上位スケールの情報体が形成された。つまり『話しかけたら受け止める能力を持ったヤツがほかに存在する』という情報社会空間の出現である。

 もしかすると進化の過程で、偶然にも自分のウチウチだけでなく外界からの受信回路をも備えた、『絡みに行って通じる』タイプの同種がたまたまいる空間で、素朴なメッセージをナニか思い入れつつ目前の空間にただ放った個体がいたのではないだろうか。
 最初そいつは誰かが受信して響いてくれるとも思っておらず、普段からそういう『受信者がいて初めて、結果的に発信につながるような行動パターン』を孤独に繰り返しながら、気ままに生きていただけなのかも知れない。
 つまりパーソナル事情で交わされる個体間通信よりも、拡散型のマスコミ発信と一斉受信の方が、原理的に見て時系列の上流側にある可能性を考えてしまうのである。

 『会話』よりも『パフォーマンス』の方が、人間の、というか生物の、通信機能の発達の源流に近かったりするのではないかなあ。
 いちいち目前の相手とタイマンで何かを語り合いつつ発信内容を模索するためには、目前のそいつ個人に通じて達成する目的が要る。これ結構ムツカシクないだろうか。
 いっぽう受信者を特定せず一方的に発信するのだとすると、嬉しいからついついやっちゃうような、悲しいから心ならずもそこに落ち着いて収まるような、原始的・本能的な生体反応の顕れのようなものさえあれば、それを起源としてコミュニケーションが起動するのではないかと考えられる。

 相手を決めて話しかけるよりも、思わず歌い出す方が早かったのではないだろうか。
 つい歌がこぼれ出るくらいなら、踊り出す方がなお早かったのではないだろうか。

 人間どもが現有の社会組織で日常会話を交わしつつ、歌や踊りを特殊スキル扱いで愛でたり競ったりしているが、それって随分と窮屈な勘違いをしているのかも知れない。
 情報体としての生物たちが辿ってきた受発信進化の歴史において、やたら複雑化させシチ面倒くさい高次ルールで習得しにくくしてしまったのは日常言語の方で、そっちの不自然な情報体系に『情報体人生』の比重をかけてしまっているような気がする。

 考えて御覧なさいな。普段の会話って、言って良いコト悪いコト、タテマエにホンネ、慇懃無礼に口先三寸などなど、交わされる言語情報以外のややこしい裏含みが多すぎる。コトバを受信者の義務として埋め合わせて解釈しろって言うんだろ?
 言語通信の形態として高次の産物であることは認めるが、発信者と受信者がくっだらない『忖度』の特例コード表を横行させて、本来の意思疎通がデタラメに混乱したりするようなら、それは本末転倒としか言いようがない。

 『霞が関文学』みたいな劣化退廃型の痴呆慣習がいい例だ。あんなもの早く潰そう。
 歌って踊る動物たちの方が、情報化の到達点を遥かに種の繁栄に活かせている。

 いつも自然に感じるまま思うままを精度よく発信し、正確に受信されたい。
 この『通信の原則』を忘れた人間なる情報体に『人間の尊厳』などあり得ない。
 そんなもの情報的に定義しようが無いからだ。

 『自分の通信には責任を持つ』、明日の超・情報化社会の参画理念にグッドラック!
nice!(12)  コメント(0) 

nice! 12

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。