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【1241】活動写真なきカリスマ弁士のレジェンド話術 [ビジネス]

 前回に続き、人間の画像ファイル記憶って案外と少ないんじゃないかという話を。
 想い出の画像は、それを特定する要件としての言語や図式などのロジカル判定項目に書き換えられて取り置かれ、元のクッソ重い絵柄そのものはストレージ負荷を軽くするためさっさと廃棄されるのではないか。私はそう考えている。

 絵心の無い人に鳥の絵を描かせると、しばしば足を四本描いてしまう例が見られるのもこのためだろう。
 ふわふわぬくぬくの恒温動物で知能も比較的高く、人によくなつくし感情も交換しやすい。卵で生まれてくるが、お付き合いの相手としては犬猫・牛馬なんかと同列の『動物くん』である。
 鳥好きで普段からペットとして現ブツをいじりまわしているだとか、理科好きで生命の進化に伴う四肢の骨格構造に興味や知識が向くだとか、そういう動機でもなければ『動物とは四本足で歩くもの、前足2本と後足2本が揃うもの』という社会通念のロジカル情報が先に立ってしまう人は少なくないと見る。
 ぱっと見い鳥の羽根は形状も機能も足とは違い過ぎて、そっち方面に得意でもない人たちにとっては別モノになってしまい、最初に鳩サブレーの概形ぐらいまでは常識の一環として作画できたとしても、その下に延びる足が何本あるかの記憶が不明瞭だと、つい『動物だから4本』とする判断が働くのではないかと。
 だから四本足の鳥の絵を描く人は、必ず『あやふやな記憶を一般概念のロジック知識で補完する』という画法で描いているはずである。

 因みに犬猫・牛馬は童話などで鳥よりも頻繁に擬人化されたりするので『目鼻口の配置、四肢の構成は人間と一緒』という知識がより深く定着しているのだと思われる。
 鳥は、一般社会人がアタマで考えるにあたり、人間と体格構成を同一視するかどうかがビミョーだってことなんだよな。まあどんだけ絵がヘタクソでも四本足の鳥を描くなんて私の子供時代にはまずあり得なかったから、総じて鳥が現代人類社会の記憶から疎遠になっていて、漠然と『動物一般』に混同されてきている事実の顕れであろう。

 やはりというか生物種としてマイナーなブランドに行くほどこの傾向は顕著となる。ここにタコやタツノオトシゴの絵を描ける方はどのくらいおいでだろうか。
 タコであれば8本足の中央部にあるのが口であり、だから『頭足類』と呼ばれるのであって、人間がアタマ扱いしているところは内臓その他がいろいろ詰まった胴体である。
 もうここまでで、お馴染みの照る照る坊主状の漫画は人間の勝手な擬人化ロジックによる各部位の取り違えがあからさまなのだが、更にはひょっとこの口のように描かれがちな噴水口が定番通りに突き出しているにもかかわらず、両目を入れ縦線の鼻を描き、それで終わらず横一文字の口まで揃ってしまっている例を見かける。
 タツノオトシゴの失敗も同じパターンであり、頭部からちゃんと『口吻』が伸びるところまで正しいのに、そこにヨコ・ヨコ・タテ・ヨコで両目・鼻・口を入れてしまうのだ。…お、おいっ?

 そもそもの興味が不十分なのだろうが、とにかく現物を観察した上での判定ポイントの記憶情報が作画するに足りておらず、そこに本人が直感するところの『顔のパーツと配置』の一般概念が、絵柄のビジュアル要件でなくロジカル判定チェックリストとして割り込んでくるので、こんなことが起こるんだろうな。
 この目で見たお題の体験画像を、的確にお題専用のロジカル判定チェックリスト項目に落とせていないのである。

 ところで非常に精緻な描き込みで有名な日本画家・伊藤若冲【479】の作品には、まるで人間のように切れ長の目をした鳳凰や象が登場する。
 あれだけ画力の達者な人でも、架空の存在であったり、当時はそうそう見ることが叶わない海外の珍しい動物であったりすると、写実基準ではなく一般通念基準の判定ポイントを反映した描写になるという事例だろうな。
 誰にでも自然に受け容れられる、いちばん精度高い『目』の情報がそれなんだもん。
 絵のプロなんだから、そう描くさ。

 もうひとつ似たような話としては、遊就館で黒船来航の解説パネルにも引き合いに出されている肖像画『ペルリ像』の例が面白い。
 少なくとも作画者本人はペリー提督を直接見ていないはずで『目が青い』と伝承されたロジカル情報だけを頼りに頑張った結果、いわゆる白目の部分に青の差し色を入れる形になってしまった。どっちを向いても黒い目の日本人しかいない社会で『目』のイメージがまず固まっていて、でもこんなもんのどこがどう青いんだよ…?と絵描きの記憶と想像力を振り絞った結果がこうなったのである。

 カラー写真など重たい画像データが記録や通信に乗せられなかった時代、その情報を言語という簡素お手軽なロジカルデータに変換し、伝言や手書き文書で流通させたところ、元の情報量が大幅に削られてえらくあやふやな伝わり方をし、受信者側の創造力で埋め合わせた情報に化けて再現された。軽くて便利でたくさん積み置けるロジカル書面だが、こんな不確実性の宿命が抱き合わせなのだ。
 そして私は、社会のヒトとヒトとの情報伝達のみならず、ひとりの人間個人の内部通信でもこんな感じで、結構な粗い目のざるでロジカル化に引掛かった内容ぶんだけ抽出して演算・記録しているのではないかと思っている。

 まず人間のストレージに、画像ファイル・動画ファイルを保存することは可能だ。
 私自身を顧みて、確かに友人の運転する車の助手席で体験した交通事故の動画ファイルは、視野設定も画像も驚くほどしっかりと残っている。のちのちその動画を考察して、あのとき普段と違う網膜像の収集や処理が走っていたのではないか…などと思い巡らせられるのは、未加工ナマの動画が検索可能な状態で保存されているからだろう【54】
 だが相当な条件が揃わないと、この記録モードは発動しないのだと思う。

 むしろ普段から命懸けでもなくテキトーに関心を向ける程度の景色なんか、どんどん『ぱあっと華やかな』とか『何ともおどろおどろしい』とか『血の気も退くほどの』みたいな言語情報や、『青空』『見上げる摩天楼』『商店街』などの大まかな図式情報に変換され、その軽いファイルの方が圧倒的に優先して大事に保存される。
 動画一本、画像一枚をまんま記録するより、日常生活に効く情報内容を項目限定的に抽出して、ロジカル情報処理のチェックリストだけを次々と蓄積する方に生存競争の勝率を賭けた、生命進化の現実解のひとつってことなんだろうな。

 身軽であること、シンプルにこなすこと、これらは毎日たくさんの現実に出遭って、その情報内容から役立つ要点を効率よくストックするための基本原理なのである。
 画像から音声から見境なくスマホに記録を残すより、ちょくちょく間違っても暗記した方が情報生命体としては健全なのかもよ。では明日の進化を目指してグッドラック!
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