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【1238】最先端サイエンス原野開拓者のパノラマ美的感覚 [ビジネス]

 あいや、月面探査機SLIMくんは季節の巡りで月面の夜を迎えるタイミングとなり、ソーラー電源が切れて機能停止するらしい。大気に覆われない月面の夜の極低温は苛酷だが、湿度も存在しないので着氷や凍結膨張で壊れる心配も無いし、ここはひとつ果報は寝て待つとしよう。グッドラック!

 私は生まれてこのかた皆既日食を見たことが無い。
 簡単に見れるチャンスをみすみす逃したことは一度もなく、日本列島の本州に住んでいて普通に見に行こうと思うようなところに皆既日食の発現域がかかったことが無い…という不可避の国民的不遇がその理由である。残念だが納得がいく。
 いっぽう皆既月食はそんなに激レアな天体現象でもなく、私ならずとも皆さん何度もお目にかかっておられることだろう【568】

 皆既月食の赤い月を眺めるたび、赤色が均一な色合いでなく濃淡の分布があること、そしてその濃淡が激しくめらめらと月全体スケールで揺れ動いていることが確認され、あれをいっぺん月面側から動画で見てみたいと思うのだ。
 まるで燃え盛る暖炉のようなあの赤色の揺らめきは、月面側からこっち向けて見るとどんな景色になっているのだろう?

 地球には大気があるため、木星や土星ほどではないにせよ輪郭にボカシが入ってはっきりしない外観になっている。
 最近にわかに現実味を帯びてきた民間宇宙旅行の目安のひとつとして、だいたい高度100キロをもって『宇宙空間』とする考え方があるワケだが、これに対して地球の半径は6500キロ弱もあり、つまり地球の大気層は皮一枚のように薄い。

 皆既月食の時の太陽・地球・月の位置関係を考えるに、月面からの視射ビューは、地球の丸く真っ黒な影を、ぐるりと朝焼け・夕焼けが囲むカタチになっているのだろうと推察する。
 そして地球大気が揺れ動いて太陽光の透過率や屈折率を変動させるので、ほんの薄い大気層のことながら、月面に投影される夕焼けの濃淡は激しく大胆に揺らめく…ということではないだろうか。
 さぞかし綺麗なんじゃないかなあと、皆既月食を見るたびに思う。でもわざわざ見て喜ぶくらいに他にも良いコトあるなら、もっと早くにさっさと撮って公開画像が出回っているはずだから、あんまり実質的なサイエンス価値は無いのかも知れない。残念。

 月面から見る皆既月食中の地球の姿が私の見立て通りの美しさだったとして、やはりいずれはカメラを通した画像ではなく、現地に身を置いて肉眼で見たいと思うのが人間の願望だろう。
 だがこれまでの地球上の生命の歴史が紡いだ情報生命体の情報処理プログラムは、数日間を閉所で過ごす宇宙航行にはなかなか耐えるのが難しそうだという前回のハナシであった。ショッキングな日本語になってしまうのだが、人間の精神改造レベルの技術が必要になってくるのではないかと。

 まだテレビがモノクロだった昭和40年代、いま思えば結構ヤバいサイコ系インテリ映画がちょくちょく平日の真昼間に流されていたものだ。この記憶もいつか整理しつつ特集したいのだが今回は置いとくとして、その中でも私の脳裏に焼き付いているのが、マッド・サイエンティストの人体パーツ個別化実験をストーリーにした一本である。
 たぶん小学生時代に帰宅したら放映中でやっていて、途中から観始めたのだと思う。よってタイトルも大筋も私は最初から知らない…はずだ。例によって私の記憶容量が足りていないだけのことなのかも知れないが【581】、とにかく紹介したくても紹介できる情報が無い。どこの国か不明だが、海外の作品である。

 かのマッド博士が人っけのない場所に秘密の研究棟を構えており、その実験室テーブルにはひと抱えほどある半球ガラスケースが据え付けられている。そしてその中には確かスキンヘッドの女性の生首ちゃんが収まっていて、あちこち何本か電線ケーブルがつながっていたように思う。また壁の一面からは、人間の両腕が横並びに3組だらんと垂れ下がっていた。
 博士が制御パネルを何かしら操作すると、ガラスケース内の生首ちゃんが口を開けて絞り出すように発声したり、壁の両腕たちがそれぞれ宙をつかむように動く…みたいなシーンがあったのを憶えている。

 つまりマッド博士は人間をばらばらに切断して、電子機器…は当時は具体的概念が無かったはずなので電気回路と接続して、任意の入出力制御が成立するかどうかを実験していたという設定である。
 うわ~エグいにも程があるよ、なんでこんな映画作ろうと思ったんだろ?

 先に走り切っておくと、実験していて確かガラスケースの生首ちゃんに何か意味のあることを言われてたじろいだマッド博士が後ずさりし、そのまま背中で壁ドンするのだが、その場所がちょうど壁から伸びた腕のある位置で、マッド博士は背後から首を絞められ、抵抗するもののそれをはずせず苦しんだのち絶命してしまう。その光景が退いていって、陰鬱な静寂のラストシーンになるのだ。
 最後までどうしようもないな、なんだこりゃ?でももう一度観たくてしょうがない。

 コンピューターが社会稼働する以前の時代に、電気回路で組まれたマン・マシン・インターフェースのズバリそのものの概念が存在していて、それが庶民向け映画にまでなっていたという事実の記録なんだよな。
 悪趣味もいいところの内容ゆえ、フィルムがケミカル劣化しても保存の対象にもならず、もうこの世に残っていないかも知れない。残っていたとして、金輪際一般公開できないのは間違いない。
 こんなものが作られた1950~60年代の時代、科学技術の発達競争が世界中に水爆をいくつも落とし、大気圏外に無人・有人の機械装置を数々打ち上げた。子供向けアニメでは緑あふれる森をブルドーザーが根こそぎ押し崩し、バンビやリスや小鳥たちが悲壮な表情で逃げ惑っていた時代だ。

 科学技術パワーが『善』でも『悪』でもないとされる反面、自然破壊の一面をもってはかなり明確に『悪』のイメージで象徴的に描かれていたと思う。
 だが世界各国が経済発展を主とする国際競争のため、なさけ無用の仁義なき技術発展にしのぎを削るのは、もう人類みずからコントロールが効かなくなっている『探求心』『開拓精神』の本能の暴走として、ただの『悪』でもなく扱う世風が広く定着していた。『悪』の面を認めつつ、そっちに身を預けていたと思う。
 ある意味、人類の手綱を離れて突走る科学技術との対比があからさまだったからこそ、イミフにヒトを別格視した『人間の尊厳』みたいな幼稚で厚かましい自己主張は聞かなかった。当時はそんな時代だ。

 ありゃりゃサイコ映画のハナシに化けて終わっちゃったよ、まあいいや。
 さまざまな情報に溢れたこの現代社会で、無作為に放つにはあまりにヤバすぎる映画なのだが、受信する側の視聴者層の当時の受け止め方として、これが問題にならなかったという事実に気付いて考えておきたい。社会は何故、どんな経緯を辿って、変わったのだろうか?それは良いコトなのだろうか?

 子供たち若者たち、社会は常に変わるので変える側に立て。今週もグッドラック!
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