SSブログ

【1239】ココロ追い求めるマッドサイエンティストの発想源 [ビジネス]

 NHK朝ドラはタイトル曲『東京ブギウギ』が登場、そろそろクライマックスだな。
 続く『あさイチ』では不定期挿入の短編ドラマ『幸運なひと』が面白い。若夫婦のダンナ側にある日いきなり末期の肺癌発覚…というストーリーは、他ならぬこの私が姉で類似ケースに遭遇しており【196】、ついつい入れ込んで録画してまで観ている。
 ドラマ本筋はともかく、そこでヨメちゃんが音楽業界にいた絡みで”All the things you are”というジャズスタンダード曲が使われていたのには一層喰い付いてしまった。

 哀愁帯びた曲調のジャズらしいっちゃジャズらしい曲なんだが、とってつけたような有名なイントロがあって、それをもって演奏を始めることが多い。知らない人が無防備に耳を任せて聴くと、ちょうどメロディが始まるところで、なんだか拍が合わなくなるはずである。
 しかも綺麗に4小節単位で節目がつく素直な構成になっておらず、何も考えないまま楽器パート同士でソロ応酬をやっていると、メロディのおしまい近くで『字余り』的に小節が余る【566】
 おまけに最後の最後に、またしてもメロディからくだんの有名イントロの変態フレーズに戻り、あれっ?と思うような途切れ方で終わってしまうのだ。どんな歴史を経てこんなことになったかねえ。
 好きな人も多く、押しも押されもしない名曲なのだけれど、なんでこんなヒネりのある曲を劇中曲に選んだのだろうか。NHKでは、ただの直球で無難に終わらせないポリシーの選曲基準でもあるのだろうか?

 さて、せっかく妙な懐かし怪奇サイコ映画の話題に触れたので、もう少し続ける。

 記憶に残っているのは実験テーブル上の生首ちゃんひとつと壁面から突き出た両腕3組、端的に数が合わない。頭部のコミュニケーション機能と腕のアクチュエーター機能は、各々連携なく個別に機械に接続されていたのかなあ。
 ともあれラストシーンで両腕が博士の首を絞めるからには、やはり腕に触れたのが博士だと認識して、腕の制御には殺意が籠められていると見るのが自然であろう。とすると、生首ちゃんの目視による判断が入ってるか。

 あとふたつ生首ガラスケースがあったのか、少なくとも3人をこんだけバラしちゃったんだしオリジナルの人体構成にこだわらず、頭ひとつに腕3人分という組み合わせトライアルで接続していたのか?
 今さら確かめる術は無いのだが、とにかく博士に向かって話しかけた生首ちゃんと博士の首を絞めた両腕は、ちょうどヒト一人相当の情報体系のもと通信していたとする。ならば。
 普通に考えて、壁から伸びた腕の指先にアツアツのやかんを触れさせると、生首ちゃんは『アチッ!』声を上げ、腕は思わず手を引込める動作で応えるんじゃないすかね。

 ここに生首ちゃんは『お湯を沸かしたやかんを触ると熱い』という現実事象を、記号接地状態で認識したことになる【1211】

 いっぽう腕と生首ちゃんの接続が切れていれば、生首ちゃんはやかんに指先が触れるのを他人事として眺めるだけ、あとで水ぶくれができちゃった指先を見て、痛そうだし気の毒だし『火傷』というネガティブ現象が起きていることを認識する。
 次にまた同じような行き合わせになりそうだったら、生首ちゃんは誰かに『腕が火傷すると可哀想だから、やかんを近づけないようにね』と頼むんだろうな。のちに接続がある程度でも復活して、自分のコントロールで腕を動かせるようになったなら、熱い感覚まであるかどうかは別にして、火傷しないよう意図的に腕をよける。

 これは『お湯を沸かしたやかんを触ると熱い』という現実事象を、記号接地せずに学習したと表現して良いと思う。

 では腕を隣のおうちに連れて行って、電話回線で生首ちゃんと接続してみよう。
 隣に連れていかれた腕の様子はカメラでライブ中継されていて、生首ちゃんは目の前に置かれたモニター画面を通して、リアルタイムで自分と回線接続された腕の映像を見ることができる。
 生首ちゃんにとっては、間近の腕を肉眼で見るか、隣のおうちの腕をモニターで見るかだけの違いなのだが、これで五感を通して手元の経験を等しく積んだとして、それは仲良く揃って記号接地していると言い切れるのだろうか?
 お解りの通り、アイテム間に通信回線つまり情報の延長経路が挟まっただけの違いであり、情報処理デバイスや、流通する情報の量と質は全く同じである。

 既に実用化されている遠隔操作の手術装置なんかは、まさにコレだよな。
 これって、執刀医にとっては『直接手術する』vs『凄いマシンで手術する』という、異なる二通りの記号接地体験になるはずで、でも手術される患者にとっては『名医に的確な執刀を受けた』という完全一致の記号接地体験となる。

 ここで生首ちゃんを人工知能AIに入れ換えて考えてみたい。
 『AIは記号接地体験ができないため主観や意識の構築ができない』という見解を唱え、いわゆるココロある生命体と区別したがる意見をよく見かける。けれど『記号接地』ってそもそもナンなのだ?それはホントに主観や意識の成立要件になるのか?

 つまるところ『俺は区別するもんね~』とコミュニケーション空間の流通情報的には何の意味も作用もない差別意識をひとり決め込んで、言ってもその先の展開なんか無くて宙に消えるだけなのに、ただ無駄に主張しているだけではないのかと思ってしまう。
 人間がスピリチュアルな心象を籠めて語る『他者に乗り移る』という概念が、具体的な動作手順にまで現実化したとして、まずAIに乗り移ってみて人間が自覚する『主観』『自我』の有無を確かめないと答が出ない。確かめた本人が個人的に答を出しても、それを他の誰かに伝える手段が無い。

 私自身、興味が無い訳じゃないが、ハマるばかりで良いコトなさそうなのである。
 何より私は、そもそもから生物と無生物の間にセンを引かない主義だし【97】

 私は上部と下部の両方の内視鏡の経験者である。要は胃カメラも飲んだし、お尻からもCCDを突込んだ過去がある。
 どっちも自分の視界内にディスプレイが置かれていて、医者にカメラをぐりぐり操作され『ああ~綺麗じゃないの』なんて言われながら一緒に画面を眺めていたのだが、消化器内壁にカメラの固さや温度を感じた記憶はあんまりない。よってカメラの動画ビューにダイレクトにセット連動した触感体験も無い。
 このシチュエーション、腕を隣のおうちに持って行かれて、その自分の腕のモニター画面を眺める生首ちゃんと、どっちが記号接地度が高いのだろうか?

 社会で振舞う『情報体』として人間とAIの間に差異を定義しようと躍起になるのは、あんまり建設的な試みではないと私は思う。
 マッド博士になって人間を実験台にしたら犯罪者だが、パソコンを実験台にしてパーツ構成を試すぶんには、どこからも文句は来ない。映画をヒントにPCマッド博士になればいい考えが浮かぶかもよ。
 お宅のPCくんもどうか御機嫌うるわしゅう。幸せなお付き合いを、グッドラック!
nice!(13)  コメント(0) 

nice! 13

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。