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【890】デジタル化不要のニッポン書面効率化マニュアル [ビジネス]

 最近その名を聞いたことがあるような無いような、何だかよく解らないモノだったことに改めて気付かされる国家機関の存在を、モメごとを通して再認識することが多い。
 今度は例の『学術会議』とやらがモメているようで、私はあんまり詳しくないのだが世間に流れるハナシを普通に聞いていて、これが学術界の代表者で構成される組織であり、独立性をもっての発言権を有する…ことになっているというところまでは、まあ理解できた。
 で、なんでモメているかというと、この『学術会議』のメンバーというのは『総理大臣が任命する』ことになっているらしくて、兼ねてから反・政権の立場で意見を述べていたとされる数名のメンバーが、このたび軒並ハブられたからだ。
 これって事実上、『現政権に逆らう人間は、国家運営層から追い出す』という強権発動の構図だよな。

 もっとも『学術会議』とやらが実質もう少しでもマトモに機能していたのなら、ハナっから外交も経済も本件も今なんでこんな事態に陥ってるんだという疑問は湧くし、ならば任命された連中のその後って、どこ資本のおいくらの待遇で、普段どんな結論を発信していて、それが国家運営にどう反映されていたのか気になるっちゃ気になる。
 だがそれを一緒くたにすると議論が発散するので、ひとまず『学術会議』が国政に外力をかけられる独立機関だというところは認めるとしよう。

 さて法律により、国家運営に関わる要職ポストが『行政の長=総理大臣の任命による』とされているケースは案外とあって、おやこんなものまで?と見かけて思うことも少なくない。キホンそれ系の職務の任命行為は、国家運営の事務仕事つまり行政の一環という解釈で、それを実行するのは行政機関の代表者たる内閣総理大臣でしょうと、まあそういう理屈なのかな。
 ここで我々日本国民が熟考し反芻すべきは『任命』というコトバの意味である。

 『あなたをコレコレの役職に任命します』と、それこそ今トレンドのハンコ突いた書面を受け渡す作業があって、その事実を象徴的な節目とし、当人はその職権および職責をもって業務にかかる。
 これに先立って、ではその当人を当該役職ポストに就けましょう、然るべき業務能力を備えていて、役職に課された意思決定志向にも合致しているから…と、『適任の判定』があるんだよな。この判定を受けて、任命作業が執り行われるという順番になる。
 再度、この学術会議とやらには詳しくないのだが、この『任命』という日本語の定義が今あやふやな状態で、『適任の判定』に続く処理作業としての『任命』に限られているのか、『適任の判定』まで遡って丸々『任命』に含めるのか、そこを特定する日本語文章が存在しないのではないかと見受ける。
 劣化版・自爆テロ非国民犯罪者政権がここに目を付け、端的に『古電球が適任の判定から丸々勝手にやっちゃう職権アリ』と解釈するテイで、下民どもの抗議をこれ見よがしに蹂躙して『逆らう者は除外する』という支配的プロセスを強行しようと企んだ。そう見える。

 まずこれについては絶対に許せない非・民主主義的な国家破壊工作であり、日本国民は古電球でも朽ち木トーテムポールでも、血を吐くまで追いかけまわして叩きのめして、本件の行きがかり全貌について、はらわたと一緒にでもゲロ吐かす必要があると思う。
 そもそも古電球も朽ち木トーテムポールも一番ピエロの代役にあてがわれた『出し子』に過ぎず、こんな国民感情の反発が確実な、捨て身の下民制圧役なんか演じる強気には到底出れないはずなのだ。そりゃそうでしょ、この見るからに出来の悪い老人ドロンボーどもにどんだけ手の込んだ主謀ができる?
 ま、以前も今もコイツらの首根っこ押さえて良いように爆弾背負わせて使い捨てる、凶悪な非国民集団が他に潜んでるってことさ。そっちの指示命令系統を暴く必要があるんだよ、我々日本社会組織の自我としては。

 『任命』という日本語情報の定義に話題を戻そう。
 元々は、ただ単に『処理作業としての国の事務仕事を、国政代表者が実行する』という素朴な意図で書かれているとだけ解釈するのが、日本国で暮らす日本人の自然な思考回路だと思う。
 そしてその国政代表者は、日本社会の運営に携わる要職ポストの任命作業をこなす重責を負った以上、どこに何と書いてあろうがイイ加減なことはできないししないのだ。

 大勢いれば『そんな大層な業域のことなんか判らない、お任せします』という国民も多いワケだが、だからって国政のハンドリングを間違えて国民生活が荒れれば、皆きっちり一人ぶんの不満を向けてきて、それが合計された組織の自我を形成する。これを解って、まず決め事として記されている日本語情報よりも上位…というか、より原始的・原理的なマネジメント階層として、組織の自我の感情=自然な国民感情との合流に手を抜かないのが優れた代表者だと思う。つまり適宜きちんと民意に諮ることを怠らない。
 最後の最後、詰まるところたかが決め事という人工情報の行動規範ごときでオチがつかなくなって暴れ出したら、もうこの世の誰にも制御できないのが組織の自我のパワーである。コイツの御機嫌を逆撫でするような組織運営は現実として成立しない。
 その上で、現行法律として既存する日本語情報も、現時点で見ての適否はともあれ、過去に自組織が根拠をもって総意として採用してきた以上は、無碍にしたりせず誠実に順守せねばならない。

 我々日本国民が『日本社会の常識』として共有する国政代表者のイメージとは、こんな組織観で振舞う人物像なのではなかろうか。日本人に定着している一般常識なんだから、万々がイチにもその素質が欠落した『日本人の心得の無い不適格者』が間違えて転がり込むことなど想定していない。
 何しろ六法全書はあの分量だし、『あり得ない非国民』の介入にまで想像力を膨らませて、わざわざ『任命』の限定条件を書き記すなんてやってる訳がなかろう。それが効率的な取捨選択だった訳だ。

 ただ時空は冷酷に移り変わるもので、『法律の文言に書かれていない=誰も禁じていないから自分都合の解釈で正当性を主張して構わない』とボロい禅問答のような読み換えをして愚行蛮行に走り、日本人が合意納得してきた規律意識としての不文律を陰湿かつ険悪に壊す『組織風土犯罪者』が出てきてしまった。そういうことだ。

 分量の都合上、思いっきり一足飛びになってしまうが、こんな現状を打破する具体的方策として鍵となるのが、大阪都構想を起点とするニッポン行政マインドの大転換だと思う。あーまた内容の配分を失敗しちまったよ学習しねえなあ…というか、今の時期、直球ストレートのメインテーマで論じない方が良いのか。
 まあいいや、維新政権以降、全ての大阪府市政策が大成功で何もかもが大幅改善した訳ではないが、自分らの行政措置について理由を聞かれ、シケた汚らしい老人が意味不明の『適切』を言い張る場面など一度たりともなかったことを、大阪府市民も、日本国民も思い出しておこう。

 私というほんのイチ個人が僅か十数人の御贔屓さま方に独り言を聞いていただいているだけのこの場ではあるが、大阪都構想を直言で推すのは一応控えておくことにする。
 明るい将来展開は、他力本願の手放しで転がり込んでくれるものではありませんぞ。では引き続き、グッドラック!
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