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【872】文系ニッポン殿さま気分の有罪判決 [ビジネス]

 長い梅雨がようやく明け、ふと気づけば8月になっているので、間もなくお盆の時期ってことか。例年なら夏休みに合わせて巷に溢れるレジャー企画がすっかりなくなっているので季節感が無い。
 子供たち若者たちにしても夏休みが大幅に短縮されている上、直後に上半期終了の節目を迎えるのだから、嬉しくない行事もいろいろ気になって一斉に遊びに飛び出そうにも飛び出せないか。こんな夏もあるさ、まあ大人しくしとくしかないかな。

 検査件数増による母数底上げ分はあるにしても、特に地方での感染確認数が急増した原因は、やはり少なからず税金ばら撒いてコロナ疎開を奨励したせいがあるのだろう。万遍なく地方全域とならず大都市近郊+沖縄というあたり、『いかにも』感が漂う。
 大都市と特定の疎開先の間で感染者が増えるぶんには、途中の交通機関で乗り合わせて感染拡大するのも概ねその範囲内に留まるものと推察される。ということは、盆休みの帰省がここに加わると、まだ新たに感染が急増する余地が、辺境地およびそこへの交通網に残っているということだ。
 今年は動かず節約に徹するのが吉だろう。返すがえす、初期のうちに外来入港のクルーズ船で感染者を確認できていて、その後もこれだけ致死率・重症化率の低い幸運に恵まれながら、一体この国は国際相場の何周遅れまで落ちれば下げ止まるのだろうか。

 これまで何度か述べている通り、私は少なくとも日本国内において、もう『感染経路を断絶して、未感染者を未感染のまま守り抜く』コンセプトの対処は意味が無くなっていると考えている。特段の後遺症や命に関わるような重症化を食い止めるための医療体制を整えたら、そこがオーバーフローしないよう加減を探りながら、経済破綻を避けるため社会稼働を以前に戻していく。それが現実解だ。

 こんな状況下で、大阪が『5人以上が集まる規模の飲み会を控えて欲しい』という初見で少々理解されにくい要請を出しているので、補足を入れてお手伝いさせていただこう。確かに『5人』の前後に何か感染確率の変化点があるというものではないと思う。

 だからといって人数を明確に指定して線引きしないと『あと一人ぐらい大丈夫』を起点にみるみる際限がなくなってしまい、具体的な行動規範として機能しなくなる…というのはまずひとつ一般論として、確かにある。だがそれだけではない。 
 この大阪のケースでは『ナウ確定的に詳細を掴んだ感染事例をもとに、効きそうな対策手段の可能性を狙って撃っている』というのが、最大のポイントなのだ。

 大阪では、最新の新規感染者の全確認数のうち大半が、ミナミの繁華街のごく限られた一角に集中しているところに着目し、まず当該ブロックにある店には営業を控えるよう要請を出すとともに生活保障策を施した。いっぽう広域に向けては、そこで発生したと思われる感染モードの発生を避けるため、飲食物や食器の交錯する会食を、一桁人数レベルに細分化する操作を入れてみたということだろう。
 現象の検出作業は釣り堀のサカナ、釣れないからといって『サカナがいない』とは断定できないのだが、逆に『ここに釣り糸を垂らして結構釣れた』という事実が掴めたなら、それを基準に現実的な拡大解釈をして、全域に効きそうな攻略法を決める戦術に勝ち目はある。
 釣り針にかかったその場所・その会合モードから今のうち考えられる限りの手を打って、釣果への感度の出方を観察するワケだ。

 死守すべきは『コロナ感染症向けの医療体制をパンクさせずに、発生都度対応でコトを落ち着ける』というところにあるのだから、コロナ感染症専門に指定した病院のキャパシティに余裕があるうち、メのありそうな操作を試していく。これは理に適っている。
 国政がだらだらコロナ疎開に税金を垂れ流す今の流れのままでは、周辺地域の感染者を大阪市の指定専門病院に受け入れざるを得ない展開も予想されるし、盆休み前に間に合う限りの実効策を確保しておく意義は大きい。というか、必須というのが普通の感覚だろう。

 社会生活の現場最前線を抱えて四苦八苦するのは他の自治体も同じだが、現状の大阪府市と比べると、総じて『出来の悪い文系アタマでもがく』イメージが目立つ。そもそもこの日本国内で政治というと、最初から『理屈はデタラメ』『善悪もデタラメ』『採算もデタラメ』が当たり前とされる、おかしな別世界観が常識になっているところに、いま日本国民全員で気付いておこう。
  『真実から日本語情報への、表現過程での変換』
  『日本語情報から現実行動への、解釈過程での変換』
  『日本語情報から日本語情報への、伝達過程での変換』
 これら全てに、恣意の曲解や歪曲で自称支配階級の勝手都合を捻じ込む一方、法律順守に籠められた絶対効力性を傘に着て金科玉条の支配権として悪用する。
 この『情報化社会における犯罪性文系工作』が横行してしまい、馬鹿馬鹿しくなった日本社会組織の自我がそれを指摘したり、それに対して抵抗することを諦めてしまった結果が、この日本社会の惨憺たる現状ということだ。

 こんな日本政治の長らくの慣習が、病原体感染症という極めて理系な問題に直面したのだから、どうしようもなくなって発散するというのも自然ななりゆきだろう。
 『犯罪性文系工作』は、日本語で交信しながら生きるヒトを相手にする限り、通用・強要を当て込めるものだが、そんなものは病原体にも感染拡大にも全く通用しない。
 日本社会全域に向けた劇場型デモンストレーションとして、『国政=所詮は文系工作なんぞ、前日どころか当日になっても根底から簡単に二転三転ひっくり返る』という事実が、言い訳なしの現実直視で周知徹底された。『いったん決めてしまったことが変えられないところに、日本国政の欠点がある』なんて、まことしやかに言われていたものだが、その実態はこの程度のものだ。

 ここまで明らかになっただけでも、日本国がこの新型コロナ・ウィルスのパンデミック騒動を経験した価値はあったと思っている。実際こんなことにでもならない限り、人間とは『とりあえず何とかなっているんだから、まあいいじゃん。仕方ないじゃん』という現状容認の呪縛から離れられないということなんだろうな。
 だから、この機会に学習して直さないと。そのためにはまず生存、どうか御幸運を!
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