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【806】見張りなき島への帰り道 [ビジネス]

 大英帝国の決断、どうやらEU離脱が決定的となったようだ。
 細かいハナシは別として、正解だと思う。国民投票でEU離脱を決めた以上一旦はその通りにしないと、英国6千5百万人組織の自我が自らの意思決定をできなくなっていたところだ【455】

 EU離脱を主張していたのは保守党勢力であり、要は長きにわたって手塩にかけて育ててきた社会保障システムが外乱にさらされ、英国内で平和に完結できなくなることに抵抗したという経緯だったと思う。
 祖国に生まれ育ち、そこに暮らして社会保障費を積み立てて来たのに、EU諸国との交流による中途出入国が増え過ぎて、生え抜き国民にとっては積み立て回収の確証が取れなくなってしまった。これでは大英国民でいることの甲斐がなくなり、いずれ国家社会の維持モチベーションが瓦解するので、もう一度国境線をきっちり引き直そうという訳だ。
 この意向は、長く社会保障システムに身を置いてきた高齢者層が主流であると言われ、一方グローバルネットワークのネイティブ世代である若年層はEU残留派が多数だったと言われる。
 となると、時が経つほど当初の意思決定に反して余命の長いEU残留派が台頭してくる流れがあるはずで、もたもたしていると国民投票で出した意思決定が覆ってしまい、結果として英国社会組織の自我はおのれの意識の所在を見失ってしまう危険があった。
 2016年の国民投票から3年経過の現時点で、一応1月のうちにEU離脱すると決めたままコトが進んでいるのは、『おお、間に合ったか!』という感じである。

 今般のEU離脱が大英帝国繁栄をロジカルに確約する方策であるかどうは判らない。
 だが英国社会組織の自我に問いかけて、EU離脱の回答を刈り取った事実がある限り、これをスルーしたり、これに反抗したりは絶対に許されない。誰の何の、どんな解釈や都合があろうとも、EU離脱は『組織の正義』なのである。
 EU離脱が結果的に失敗だったとしても、どこのフェーズまで深入りするかはともかく、一旦EU離脱に現実として動いた後、どこかで国家組織としての不都合の認識が提起され、それを6千5百万人の過半数が認めて修正の必要性を合意決定した事実まで巻き起こすという経過が、新展開への転換に必要となる。
 『組織の自我が、自らの決心に対して根拠をもって思い直す』顛末を英国民みんなが目の当たりにし、一切を確信して初めて組織の心変わりが叶う。この組織生命体の意識の所在が、経時変化に流されてグラつかなかったことをもって、大英帝国EU離脱は自然ななりゆきであると言えよう。

 私の体感ではあるが、戦って勝ち取った民主主義システムに対する欧米文化の意識は、日本よりも遥かに底深く力強いものがあるような気がする。そしてフェアネス保証の自由競争を勝ち抜く合理性パワーを一元的に信頼する世界観を感じる。裏返せば日本は、自分さえ安泰であれば少々の不平等や自由の束縛には寛大な文化があると思うのだ。
 だから年功序列や箱庭ヒエラルキーみたいなものが必要以上に許されてしまい、それが社会に不可欠な重要職権と結びついて、組織運営が生産性とかけ離れた幼稚な感情的優劣のピラミッド構造で動いてしまったりするのではなかろうか。

 1980年代の頃、西洋音楽の本質とは『演奏の中に神の概念が存在すること』だとする記事に遭遇したことがある。その瞬間は、洋楽の緻密で立体的にメカニカルな音構成を漠然と思い描きつつ、なるほどそういう表現もあるかなあと読み流してオシマイであった。
 だが後に、10連装チェンジャーで次々買ってきたインストルメンタルの音楽CDばかりかけっぱなしで車を運転するようになって、はたと気付いたのである。歌が入っていないのに、『あ、これ邦楽フュージョンじゃね?』と勘付いて確認すると、確かに洋楽CDの1枚が終了して、次の邦楽CDの1曲目が始まっているのだ。もう百発百中のレベルで洩れなく検知可能であった。何故こんなことが起こるのだろう?

 真実は今もって解明できていないのだが、何というか洋楽には『奏者たち以外の、絶対的な存在にその場を統率された規律性』を感じるのだ。対する邦楽は『そこにいる奏者同士の相対的な整合性』のみで成り立っている。表現が難しいのだが、そんな気がする。
 和洋どっちも大好きだけれど、どこか真ん中一本の絶対的な世界支配力の有無が、相違点になっているように思う。

 西洋の文化において、人が暮らすこの世には『裁いて罰する人格としての神の存在』があるのではないだろうか【762】
 これに対して日本の文化においては、日本列島森羅万象の自然がそのままに人の暮らしを支配し、そこに人が成す集団があって、その集団に宿る組織の自我が神格化されており、その神こそ現世に降臨した現人神としての天皇陛下なのではないだろうか【801】
 アフガンで中村哲医師が銃撃に倒れたニュースが記憶に新しいが、不毛の砂漠を治水して豊かな農地に変えたところ、その価値を目当てにする人間の欲に命を狙われてしまったがための悲劇であった。そんな苛烈な奪い合いをせずとも豊かな自然が潤沢な実りをもたらす日本列島において、そもそも人間を直接睨む神の存在は必要なかったのかも知れない。

 だがコトここに到って、その幸せな境遇は恥知らずの背徳の原因になってしまった。
 睨まれ、裁かれ、罰される恐れを知らない劣化非国民は、たかが日本語という言語情報の私見的曲解で平等と自由の保証の言い訳が立ちさえすれば、人の世という社会組織の自我が渋々にでも調子を合わせるものと当て込んでいる。
 そんなデタラメな裏切られ方に馴染みの無い日本社会は、ここまで不甲斐なく私欲の暴走を見過ごしてしまって今があるのだと思う。まだ直近のうちに早く日本固有の倫理観構造を取り戻さないと、身を守るため他の人間をまず疑って警戒する、悪い意味での世界標準に我々は染まっていくしかない。

 反社会的=組織の自我に背くコト、この意味がきちんと定義されていないなどとする驚天動地の言い草、欧米文化圏なら名も知れぬ弱小国でも到底あり得なかった。世界人類文明史に残る日本国の恥である。
 2025大阪・関西万博が諸事挽回の機会に控える巡り合せは、もう取りこぼせない。大阪の成長を止めるな。
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