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【810】マスコミ培養装置の純粋真実供給プラント [ビジネス]

 さすがに忘年会シーズンは終わったかな。いよいよ年内最後の更新につき、とりあえずにでもお尻が切れ良く収まるように、例によって結論から始めてみよう。

 前回述べた通り、社会における情報流通の構造イメージを変える時期に来ている。
 既に時代に合わなくなっている古い情報流通モデルを捨て、次世代モデルの新構想でアタリを勝ち取ったヤツが生き残る。

 日本社会の若年層にはSNS文化を主とする高速大容量通信がかなりの末端まで普及しつつあり、これに伴ってマス・コミュニケーションの概念は消滅の局面にある。
 誰もが携帯電話を持つようになる一方で街から公衆電話が消えていったのは、単なる通話機能が目的事象であって、携帯電話の利便性が圧倒的優位にあったからだが、今般のコミュニケーション・フェーズの淘汰現象は事情が違う。高度情報化社会の『次を勝ち残る生存要件の有無』こそが運命の分かれ道なのだ。

 それは『情報信頼性』つまり発信者と受信者の間で、情報コンテンツの意味する真実が合致しているという保証である。もう何度も話題にしているから改めての解説は必要あるまい。
 現実に即しており、みんなが正しい見解だと思う情報だけが流通する反面、そう思われなければどこにどう発信しようが宙に消えてオシマイ。法律として主張しようが、実質的に1億2千万人組織には容赦なく無視される。
 『誰それに発言権がある』という表現が死語になった。強いて言えば、『受信して取り合うに値する有用な情報を発信した者にだけ、結果として発言権が付いてくる』時代になったのだ。
 法治国家を守りたければ、法律なる情報の信頼性を、行使する側が進んで保証して通用させねばならない。

 我々昭和世代が社会の授業で習った『高度情報化社会』は、マス・コミュニケーション技術の発達による大衆の一律一斉反応がその本質であった。
 それまで文書情報の物理的移動および肉声の到達範囲が限界だった情報流通経路が、ラジオやテレビなどによる不特定多数向けの定点広域配信という新モードを得たことにより、『情報発信者の人格信頼性が実感できないまま、流された情報をみんなが何となく共有している』という形態に移行した。
 当初は、どこで誰に受信されるのか判らないが故に、どこの誰に対しても恥ずかしくないレベルで常識的な社会性・正当性をかっちり保証する、そんな信頼度の高い情報がマスコミ発信されていたのである。少なくとも、そうでなければならないという建前が社会一般の共通認識となっていた。
 昭和の時代、マスコミ関係者というだけで一目置く風習、素人がマスコミに出るというだけで内から外から準備万端で取り繕う風習があったのは、このあたりに理由があるのだと思っている。だがそこで発信する情報が信頼されなくなった以上、全ては過去の記憶でしかない。

 ここで年末につきくだらない柔らかネタを突込んでおこう。
 『うる星やつら』『めぞん一刻』など連載漫画のヒットで有名な高橋留美子さんが、少年サンデーにデビューした時の単発読切り『勝手なやつら』のエピソード、1978年の作品だ。
 まあ全体の雰囲気は、あの真剣悪人不在・ドタバタ乱痴気騒ぎの賑やかな世界そのままなワケだが、新聞配達員の主人公少年がひょんな行きがかりで宇宙人だと誤解され、新聞で『東京にUFO着陸、これが宇宙人だ!!』と報じられるくだりがある。
 彼は科学技術庁に捕えられ、更には防衛庁長官の策略により体内に超小型核爆弾を埋め込まれるとばっちりまで喰らうのだが、この時の会話がなかなかに興味深い。

 『これも地球人類の平和の為です!!』 『しかしコイツ見れば見るほど人間ソックリだな』
 『新聞に宇宙人と書いてあるからには宇宙人です!!』 『なるほど然り』

 日本国のサイエンス系知的総合力を管理する役所と、国際社会どころか地球外からの侵略に対する危機管理を担う立場になっている役所のトップ同士が、迷わず全宇宙の運命決定役としての重大決断を下しているのだ。
 これはギャグ漫画であり、真顔で分析して是非を論じるべきやりとりではない。だが、マスコミ発信が真実として信頼され、重大行政課題の迅速な意思決定に直結している1シーンとして、頭の隅には置いておきたい。

 『そこにいるだけで嬉しい楽しい組織』においては、財務の現状や市場動向、中長期戦略などが関係者周知されているままに信頼できる判断根拠となり、能力相応に適任と認められた役職ポストがえいと決めたら、みんな全面の信頼を寄せてその結論に従うはずだ。本来、理想的作動が叶ってみんな適切に役割分担しながら活き活きと帰属している組織の運営の実情って、案外のマジでこんな感じになるのではないだろうか?
 例えばあなたが、家族や友人と旅行先で御当地観光スポットを選ぶ時や、外食でメニュー選定をする時などはまさにこんな感じであり、まず嫌な心理的負担の記憶を残すような失敗は無いだろうし、仮に失敗しても挽回のリベンジ機会を前向きに考えているはずである。そう、旅行も外食も行くだけで嬉しいし楽しい。

 例えば夢洲人工島ラボの一角で、『ウソと隠し事が皆無のエリア』を試してみたいのだ。
 そこで発現するありとあらゆる事実が、そこで暮らす人々に確認されるがままに共有情報として、マスメディアにアップされたらどうなるのだろうか。僅かでも公共性アリと居住者本人が認識したら、最新技術によりデスノート方式で記録された情報が【472】、どんどんテレビ放映され街角の電子掲示板に表示されるのである。
 但し、『ここではウソや隠し事をしなくて済む』『何をやっても怒られない罰されない』という解放感と、『何を白状しても必ず許してもらえる』『みんな仲良しなのでウソつきたくない隠したくない』という仲間意識が徹底されている必要があろう。

 この環境下で、人々はスマホから目を離して、スマホより迅速で正直なマスコミ情報の受動受信に時間を割くようになるのだろうか?

 実験エリア内での被験者の精神環境を維持するためホストメンバーであらかじめ何割かを埋めておき、残りにゲスト被験者を迎える方式にする必要はあるんだろうな。どんな人選で、どんな事業のある、どんな生活形態が良さそうか具体案までは考えていないが、思い切り非・日常的な未来生活感はぜひ欲しい。
 あとベーシック・インカムを導入して、自分だけカネをがめてトクした優越感にほくそ笑む…みたいな邪念を元から絶っておかなければならない。

 …あ、完全に失敗しました。もちろん高度情報化社会の進化フェーズの話はこれで終わりではありません。
 例年にないくらい酷い中途半端な切れの悪さだが、悪しからず。皆さま良いお年を~♪
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【809】消え失せた真実のアリーナ [ビジネス]

 今年はクリスマス騒乱がさっぱりで、いきなり年の瀬モードが来たという感覚、やはり私だけではなかったようだ。そう、どこも景気悪くて気の毒なハナシばかりなのである。

 『消費の落ち込みをいかに抑えるかが財務政策のポイント』だったんじゃねえの?
 それを理由に、あほみたいな電子マネー限定のお得プランが四方八方ガイキチ乱れ撃ち状態になり、現金主義世代との不公平はどうするんだってことで精神異常CMのプレミアム偽造紙幣までばら撒いて、あれからこれからグチャグチャにしちまったんだろ?
 …で、ホントは今期に始まったこっちゃないんだが、税収は落ちるといよいよ事前に公言してみたと。救いようがないな。
 今さら『消費が冷え込んで困ったなあ』を起点にするハナシなんぞどこにもねえんだよ。
 次は年明けて確定申告の季節に、税務署の窓口職員さんたちがぶっ壊れるんだろうな。

 先にシーズン中のうちに『忘年会スルー』について、もう少し走り切っておこう。
 次回が年内最後の更新になるので、一応でも今年1年の総観的なレビューになるようなカタチも取り繕いたい。うまく行くかなあ。

 社会の高度情報化により、『みんなが共通に捉える大広間としての社会空間』がなくなったのではないかと思うのだ。ここで強調したいのは、マス・コミュニケーションなる概念の消滅である。

 我々昭和世代は、まず万人共通の大広間たる社会に暮らしているという認識を持っている。その大広間で、みんなに知らせたいコト、みんなが知ってるべきコトが、『広告』『公共言論』などと呼ばれマス・メディアに乗っかって飛び交っているワケだ。これをマス・コミュニケーションという…んだよな。
 いっぽう家族同士や親しい友人を始め、特定の少人数の間でのみ交わされる通信は、『個人的』『プライベート』とされ対面会話や電話や電子メールなどによるもので、オオヤケ発信によるマス・コミュニケーションとは明確に区別されていると思う。
 まあ『社会の出来事』としてテレビやラジオや、あとインターネットのブラウザーも入るか、そこに顕れるマスコミ情報コンテンツを受信して自分なりに解釈しては、昔なら友達に電話をかけてそれにまつわる見解を述べて討論したり、あるいは自宅に知人を招待して我流トライアルの思考成果を披露して閲覧してもらったり、まあその場で到達する限りのプライベート通信を楽しむのですね。

 端的に、スマホ世代の若い人たちにこの区別はなくなっているのではないかと思う。
 電話にしても自宅招待にしても相手の時間と居場所を拘束するし、交通費や外出の手間もかかったりもする。だが特定のクラウド空間に自分の話したいコトをぽんぽんアップしていけば、普段からウマの合う仲間たちが各自の都合次第に受信してくれて、どんどん反応して会話をぶら下げてくれる時代になった。グループ設定を変えれば、適宜に相手となる客層=コミュニケーション空間を切り換えることができる。
 これって、電話や訪問会話の面倒を省けると共に、ジブン目的別の視聴者が待つコミュニケーション空間に『ジブン特集』を放送して暮らしているのではないかと思うのである。
 今を去ること数年前『オマエの機種、古すぎてもう修理できねえからな』の最後通告が届いたガラケー【20】の私にはさっぱりワカランのだが。

 この仮説が当たっているとするとスマホ世代は、自分とお互い気心を把握できている客層相手に気ままなミニ番組・ミニ新聞・ミニ雑誌を投入して、視聴者のカジュアルな生の声をリアルタイムで受け取りながら日常を暮らしていることになる。昭和世代にとって、別々の娯楽性をもって受け止められていたマスコミ受信とプライベート通信が、自由自在のお手軽なコンテンツ制作段階の楽しさまで一体化して、若い人たちの関心を埋めているのだ。
 次々と発信情報をアップして思い思いのチャット会話の展開に花が咲いたその後は、放っておけばせいぜい1日で自動削除されるから、後始末の面倒も気にせず一切が残らない。

 対して、取り合うのも馬鹿馬鹿しいような禅問答を繰り返してコンプライアンスとやらで自らを縛り、政権や役人の監視と嫌がらせに怯えて泥の地面にひざまずき、忖度だか何だか知らんが大のオトナが真顔でウソしか流さないのが今のマスコミだろ?
 例えばテレビなんか、若い人たちが自ら撮影し集音し、それを編集して発信し、お得意様たちからの受信閲覧まで全てをこなすそのスマホを、テレビ受信モードに切り換えてもらえないと視聴されない。何の理屈でどんな自己弁護を吠えようが、これで勝負になるとは到底思えないのだ。
 『マスメディアで見かける級の有名人』と聞いて、多少でも人並み以上のプラス評価を見出す昭和世代の感覚などもうとっくに消え失せているはずである。今の子たちには、おバカ作法や嘘っぱち演劇に甘んじて暮らす意味が解らないだろうし、そもそもがそんな無駄なモノ視界に入らない生活になっているのだから。
 だから世のギョーカイ人どもは制作費が枯渇して税金の餌付けで食い繋ぐのが精いっぱいとなり、ときに役所からときに反社会的勢力から、異常な高額の報酬で目も当てられない違法ビジネスみたいなおもらいにありついていたりもするのだろう。これだけ日本経済の基礎体力を疲弊し尽させた以上、業界正常化を自社イメージに重ねて引張る正義のスポンサー企業も現れるまい。これでは『権力の監視役』もナニもあったものではない。

 以上のようなマルチプライベート・コミュニケーション社会が日本国の次世代領域に拡がっているとして、御社の忘年会はそこに鮮烈な一矢を報いる良質エンタメ企画になっているだろうか?
 若年層スルー派の最大多数が『できれば忘年会に参加したくない』で占められているのに対し、その割合はトシを喰うにつれ減少していく傾向なのが興味深い。代わって、最若年層ではほとんどゼロに等しかった『絶対に参加したくない』が、加齢とともに右肩上がりに増加してくるのである。
 なんだよ、若い人たちが『ホントに価値あるんなら参加したい』と忘年会を量っているのに対して、トシ喰うにつれ『こんなもの価値が無いから絶対ヤダ』と確信する古株が増えてってんじゃねえかよ。だーめだ、こりゃ。

 当たり前だが、相手の情報が信頼できないコミュニケーションに意味は無く、そこを判りやすく保証できない発信者は関わる価値を見限られ捨てられる。『情報』で日本社会を定義した時、現行のマスコミは今すでに影も形も無くなっているのではないかと思うのだ。
 おのれの生命の危機に気付いて起死回生、の動向の有無に注目である。

 次回は『情報』で考える新しい社会モデルについて述べてみるか。うまくまとまるかなあ。
 そういうのを夢洲人工島ラボで実験確認したいんだよな。大阪の成長を止めるな。
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【808】人生起動の合い言葉、『ここはどこ?私は誰?』 [ビジネス]

 もうクリスマスかよ。今年はうんざりするほど早々からジングルベル、ジングルベルが耳についた感じがあんまりしない、それ故に『あれ、もう?』という思いなのだが、何か騒ぎ方のトレンドが変わったのだろうか。

 前回の『忘年会スルー』が反応鋭かったのでもう少し。
 そう、キホン今それやって過ごす生活に、耐えがたい不満を抱えていて今にも逃げ出したいとか、他にどうしても進みたい次の将来ステージを描いているとかでもなければ、一日の時間割24時間が埋まった時点でそれが現実解にハマって確定する。別にスマホ会話に限らずとも、人間の日常生活ってそんなもんでしょうが。
 無駄なモメごとを発生させない程度のコミュニケーションを幾つか手早く取り繕ったら、気心知れた間柄の会話を好きなだけ楽しんで、時には全くの別世界でなりたい自分になり思うまま試したいままに振舞う。手の平に収まる通信デバイスひとつで、次々とこれらの次元を乗り換えながら暮らすのだとすると、確かに時間がいくらあっても足りないだろう。
 これで日常生活ペースが完成されているとして、そこからわざわざに新規対応を発生させるようなイレギュラーな拘束スケジュールを突込まれると、どんな心境になるだろうか。

 まず何よりも『いつもやっていることができなくなる』という引き算で始まり、そこへ大金持ちでもないのに余所行き額のカネ拠出が伴うとなると、『そこまでして一体どんな特別なメリットがあるのか』の判定がシビアになるのは当然だろう。
 それこそ他にやりたいこと・やることがロクすっぽない惰性ポンコツ昭和世代が、徒労感に苛まれながら日々を過ごす職場空間の次元から抜け出せず抜け出さず、そもそものストレス根源たる仕事上の人間関係を引きずったまま、場だけ飲み屋に移して発散方向に形式転換することで『年を忘れる』と題した企画なんか、若者たちに共感の余地など皆無なのではなかろうか。
 この季節、新橋駅前のSL広場でネクタイを鉢巻きにして『オレたちが日本をここまでにしたんだぁ~』みたいにクダまいてる昭和くたびれサラリーマンの姿がテレビに映ってたりするけれど、逃げ出したくても逃げられない、たったひとつのコミュニケーション空間でそんなになるまで自分に負担をかけ、飲み潰れて生存意欲を繋ぎ留めるかのような世界観で絡まれても会話が噛む道理は無いのだ。お前みたいなのが日本をこんなにしちまったんだよ、いいから無事にお家に帰んな。
 並走する多次元空間を生きる若者たちが我々世代との接点に使うのは、専用に設定したコミュニケーション枠ひとつとそこ用の自分でしかない。これは生業を軽視しているだとか、我々世代に対して壁を立てているとかの問題ではなく、そもそも多層多次元フェーズのマルチタスク式で生きる当代流人類のコミュニケーション生態が、世の中の出来事にただ対応すると自然とこうなるだけなのである。

 前回の異常老人の例だが、目的機能別・人生多次元化の概念が理解できず、たったひとつのリアル世界に本心の唯一の自分がいるものと勝手に昭和式モデルを他人の人生観の前提に置き、そこに支配欲というボロい動機に任せて相手の生き甲斐の核心に関わる重大情報を漁ろうとするから、キモいしゲスいのだ。
 唯一リアル世界で、唯一自分をすり減らし切り売りするしか手段を持たなかったオッサン世代は、嫌々の渋々にもこの世代共通一本道に適応する方策を身に付けた。
 その唯一自分が納得いくまで世間を戦って勝ち抜いた結果の実践格闘術ならまだいいが、プライドを捨てた事なかれ主義で調子を合わせるだけのフヌケ言いなり渡世術なんぞ、たった一度の人生の時間を無駄に浪費する以上の意味はどこにもない。
 今の若者たちにとっては並走する多次元人生のほんの一面、調整して最小化してしまえば済むようなもの、オッサン基準の情けないお疲れ人生観に自分勝手な絶対価値を主張して、命懸けレベルにまで重要化して同調してくれったって、そりゃ無理だろうよ。

 ところで、もう軽く5年以上前のことなのだが、いわゆるマネジメント系の自己啓発セミナーで、ちょっとしたゲームおよびその結果を題材にしてのグループワークみたいな形式の催しに首を突込んだ時のことである。
 冒頭にネームプレートが配られ、『今日ここで皆さんが名乗るニックネームを書いて、付けてください』から全てが始まった。
 別にネット通信でやってる訳でもないのに、真ん前相手のリアル対面会話で、他ならぬ自分のニックネームをわざわざに決めて、その第一人称をもって、もちろん盛りも削りもせず普通に自己紹介する感覚には正直面喰らったものである。てっきり後半に何かあっと驚く仕掛けがあってその布石になっているものと思い込んでおり、あれよあれよという間にそのまま終了を迎えて、何の刈り取りも無くネームプレートを回収された時には半ば呆然としてしまった。
 い、い、意味ワカランよ…
 すぐ他人を見下す性格の悪い私は、『自己アイデンティティをマスキングすれば自然な人格で振舞いやすいとでも、どこかの社会心理学で聞き覚えたんだろうな。カタチだけポン付けしてもダメなんだがなあ』などと批判的な解釈で振り返ったりもしたりして。

 …これ、もしかして今の若年世代はネット上もリアルもなく、コミュニケーション空間に応じてそこ用の自分を設定するところから始める社会性起動フォーマットみたいなものを持ってるんじゃなかろうか。そう思うようになったのである。

 あちゃーこの話題、最低もう一回はやんなきゃダメっぽいボリュームになりやがったな。
 まあいいや、こういうことにまず考え及ぶところから『忘年会スルー』への本質的対処は始まるのだ。昭和世代が各自抱えているモノ発散したいモノを5分プレゼにでもして、若年層世代に『自分はコレをぶちまけるから、忘年会においでませ!』と訴えかけてみるがよろしい。
 そんなことをして生きてきたから、日本社会がこんなに無法の経済劣化崩壊国家にまで堕ちぶれたのである。

 腹据えて『今後こうやって直しますので、若い人たち一緒に遊んでください』で締めくくり、それを来年ガチに実行して若年層に信用してもらえたなら、忘年会はともかく多少マシなアカウントで会話を始めてもらえるんじゃねえの?
 年内稼働最終週の起死回生をかけた忘年会チャレンジ、各位の健闘を祈る。
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【807】老人会スルーの御多忙次元トラベラー [ビジネス]

 このところ『忘年会スルー』なるコトバが飛び交っていて、なかなか面白い。
 『職場』なる共有スペースで一堂に会して執務する業態がある限りは、その職場組織の自我が肩の力を抜いて遊ぶレクリエーション企画はあった方が良いんだろうな、今の時代でも。
 『業務活動をもって成果を上げる』という一律の目標事象めがけて組織の自我が集中して取り組むためには、時に組織の都合=仲間の都合を、自分個人の都合よりも優先する必要がある。お互いを大切に思う仲間として腹が割れていないと、これが実現しないからだ。

 職場ではいろんな人間がいろんなところから集まってきて出遭うため、決してただ自分勝手な主張同士がぶつかり合う訳でもないのに、たまたま一時的に噛み合い損ねて以降の経緯がうまく折り合わず、それが人間関係の軋轢になっていたりする。
 こんなケースにおいては、砕けた空気感と酒の勢いを借りて、不運な行きがかりで組み上げてしまった相手の悪いイメージを遠慮なく指摘し合い、また酔払ったゴキゲンでそれらを寛大に受け止めて、お互い悪気のない真意を認め合って協力体制が構築し直される…みたいな、職場風土の整備効果が確かにあった【56】
 ただ昨今は、良くも悪くも職場への関わり方すべてがドライかつ一面的な割り切りでなされるものとなってきており、かつてなら人生観を左右する重大事象として腹を割ってまで確かめた、その共同体意識の本丸が、昔ほど人生のかけ甲斐を感じられる至高の対象でもなくなっている。

 時代は流れ、現代の若者たちが人生の時間を泳ぎわたる海原の情報の波は、質も量も大きな変貌を遂げているのだ。
 私なんか完全なる置いてきぼりロートルで、今風の生活スタイルなんか真似しようにもできないのだが、簡単に言えば今の若い人たちは『他のコミュニケーションで忙しい』、これに尽きるように感じる。

 別に交わさなくてもいい死ぬ程どうでもいい会話をだらだら無限に続けるばかりで、実用的な情報収集もしなければ発想や思考展開など情報生産もしていない。頭が痛くなるような哲学書の読破に挑んだり、宇宙の成り立ちに届くような数式の解明に取り組めとまでは言わんけどさあ、それにしても何か他にやることないのかよ?…ってのは、昭和世代なら誰も大体が思っていることだろう。
 『情報的に意味薄すぎの生き方』、実は私もその印象を否定するつもりはない。

 では若者たちの他愛もない通信内容の、ナニがどうイケナイのか掘り下げて考えよう。
 リアル忘年会という古株たちの大事なコミュニケーション空間を放り出して、スマホでお気軽に繋がれるバーチャル空間のコミュニケーションを優先してしまうワケだ。そりゃスマホ通信のコミュニケーション空間の何が便利かって、イヤな相手をそもそもからその世界に存在させないで済むじゃんと。
 だから彼等は、職場通信用と親密通信用ではアカウント=自分IDを違えて、つまり用途に応じたコミュニケーション空間を、別人の自分が振舞うもうひとつの時空として、別途に構築する。多種多様な通信アプリが林立する多次元ネットワーク市場で、目的別の通信世界とそこ専用の自分自身を置き、各々でごく自然な日常を暮らしているのである。
 そこには自分理想のコミュニケーション枠のみならず、義理や強制で参加せざるを得ないものも幾つかあるはずで、そうなったらそこ専用の自分をまた一人立ち上げるんでしょうな。
 おっさん視点で、確かにどうでもいい無意味な会話なのだとしても、並走する多次元世界を同時進行で生きる若者たちにとっては、日常的な交信をごく普通にやっている状態なのではないだろうか。結果的にそれがおっさん基準の世界観の果てを超え、『長すぎる』占有時間に映っているだけなのだ、きっと。

 さてハナシをリアル忘年会に戻すが、前半に述べたように本来は『若い人たちが腹を割りたくなるような組織に、実際に腹を割ってもらうための情報マッチング空間』として開催すべきなのだろう。

 だがどうだ、お宅んちの昭和世代には、若い子の親密通信用アカウントの有無を知りたがったり、そこでの会話を隙あらば覗き見たがったりしそうな人種はいないだろうか?
 自分に向けての送信が止む無し付き合いジャンク通信用のアカウントからなのが判った途端に、執拗な嫌がらせに転じたり、当人周辺の人間関係を血眼で漁ったりしそうな人種はいないだろうか?
 このへん余計な問い詰めをしてはぐらかされ、そしたら今度は相手かまわず返事が悪くなり、不機嫌モードで陰鬱の毒素を職場じゅうに放散する、そんな人種はいないだろうか?
 ここで目線が泳ぐようなら、まずそのキモくてゲスい異常老人を削除してから、『若年層の忘年会スルーは困った傾向なので、手を打ちたい』と問題提起すべきである。あ、こういうのってその性向を隠して隠せるものではないので念のため。この情報的な濃さは有意義なのか?

 子供たちが就きたい職業としての『公務員』の人気は根強いらしいが【476】、官僚になりたがる人材がいなくなっているのだという。
 総じて現代の若者たち子供たちは、良くも悪くも昭和時代の粗野な逸脱部分がなく、洗練された権利保障をよく理解している。つまり昭和世代が『自分勝手を押し通して許されるモノ』『仕方なく皆が調子を合わせてくれるべきモノ』と当て込むその感覚、そんな箱庭ママゴトのお付き合いを愚痴りながら楽しめる感覚は、わざわざの険悪な抵抗もしないままスルーされてオシマイだ。いい気で押し切った横車は、永久に誰にも振り向いてもらえない末路を辿る。

 今般の『忘年会スルー』を見るに、世界標準に照らして不可解なまでに従順でおとなしいとされる日本人も徐々に国際化が進んでおり、だがさすがの我が国は香港のような事態に達する前に、『もう新しい世代は、従えない圧力にはきっぱり従わない』と意思表示しているのだったりすると面白いんだがね。

 野党たち、あげつらって決して充実感も無く見映えもしない役回りになるが、この自爆テロ犯罪者政権のやらかした狼藉を徹底的に突き上げてやって欲しい。
 若い子たちは必要な情報だと納得すれば、不快でもきっちりこなして把握する。無自覚や邪心で『いい加減にしろ、他にやるべきことがあるだろう』などと抜かすズルくて馬鹿な大人より、訴えて刈り取るものは大きいぞ。

 以上が理解できるなら、変化点の節目事実は来年の大阪都構想の住民投票になることも察しがつくだろう。
 古く薄汚いシガラミを捨て去ったシンプルな合理性の時代だ。大阪の成長を止めるな。
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【806】見張りなき島への帰り道 [ビジネス]

 大英帝国の決断、どうやらEU離脱が決定的となったようだ。
 細かいハナシは別として、正解だと思う。国民投票でEU離脱を決めた以上一旦はその通りにしないと、英国6千5百万人組織の自我が自らの意思決定をできなくなっていたところだ【455】

 EU離脱を主張していたのは保守党勢力であり、要は長きにわたって手塩にかけて育ててきた社会保障システムが外乱にさらされ、英国内で平和に完結できなくなることに抵抗したという経緯だったと思う。
 祖国に生まれ育ち、そこに暮らして社会保障費を積み立てて来たのに、EU諸国との交流による中途出入国が増え過ぎて、生え抜き国民にとっては積み立て回収の確証が取れなくなってしまった。これでは大英国民でいることの甲斐がなくなり、いずれ国家社会の維持モチベーションが瓦解するので、もう一度国境線をきっちり引き直そうという訳だ。
 この意向は、長く社会保障システムに身を置いてきた高齢者層が主流であると言われ、一方グローバルネットワークのネイティブ世代である若年層はEU残留派が多数だったと言われる。
 となると、時が経つほど当初の意思決定に反して余命の長いEU残留派が台頭してくる流れがあるはずで、もたもたしていると国民投票で出した意思決定が覆ってしまい、結果として英国社会組織の自我はおのれの意識の所在を見失ってしまう危険があった。
 2016年の国民投票から3年経過の現時点で、一応1月のうちにEU離脱すると決めたままコトが進んでいるのは、『おお、間に合ったか!』という感じである。

 今般のEU離脱が大英帝国繁栄をロジカルに確約する方策であるかどうは判らない。
 だが英国社会組織の自我に問いかけて、EU離脱の回答を刈り取った事実がある限り、これをスルーしたり、これに反抗したりは絶対に許されない。誰の何の、どんな解釈や都合があろうとも、EU離脱は『組織の正義』なのである。
 EU離脱が結果的に失敗だったとしても、どこのフェーズまで深入りするかはともかく、一旦EU離脱に現実として動いた後、どこかで国家組織としての不都合の認識が提起され、それを6千5百万人の過半数が認めて修正の必要性を合意決定した事実まで巻き起こすという経過が、新展開への転換に必要となる。
 『組織の自我が、自らの決心に対して根拠をもって思い直す』顛末を英国民みんなが目の当たりにし、一切を確信して初めて組織の心変わりが叶う。この組織生命体の意識の所在が、経時変化に流されてグラつかなかったことをもって、大英帝国EU離脱は自然ななりゆきであると言えよう。

 私の体感ではあるが、戦って勝ち取った民主主義システムに対する欧米文化の意識は、日本よりも遥かに底深く力強いものがあるような気がする。そしてフェアネス保証の自由競争を勝ち抜く合理性パワーを一元的に信頼する世界観を感じる。裏返せば日本は、自分さえ安泰であれば少々の不平等や自由の束縛には寛大な文化があると思うのだ。
 だから年功序列や箱庭ヒエラルキーみたいなものが必要以上に許されてしまい、それが社会に不可欠な重要職権と結びついて、組織運営が生産性とかけ離れた幼稚な感情的優劣のピラミッド構造で動いてしまったりするのではなかろうか。

 1980年代の頃、西洋音楽の本質とは『演奏の中に神の概念が存在すること』だとする記事に遭遇したことがある。その瞬間は、洋楽の緻密で立体的にメカニカルな音構成を漠然と思い描きつつ、なるほどそういう表現もあるかなあと読み流してオシマイであった。
 だが後に、10連装チェンジャーで次々買ってきたインストルメンタルの音楽CDばかりかけっぱなしで車を運転するようになって、はたと気付いたのである。歌が入っていないのに、『あ、これ邦楽フュージョンじゃね?』と勘付いて確認すると、確かに洋楽CDの1枚が終了して、次の邦楽CDの1曲目が始まっているのだ。もう百発百中のレベルで洩れなく検知可能であった。何故こんなことが起こるのだろう?

 真実は今もって解明できていないのだが、何というか洋楽には『奏者たち以外の、絶対的な存在にその場を統率された規律性』を感じるのだ。対する邦楽は『そこにいる奏者同士の相対的な整合性』のみで成り立っている。表現が難しいのだが、そんな気がする。
 和洋どっちも大好きだけれど、どこか真ん中一本の絶対的な世界支配力の有無が、相違点になっているように思う。

 西洋の文化において、人が暮らすこの世には『裁いて罰する人格としての神の存在』があるのではないだろうか【762】
 これに対して日本の文化においては、日本列島森羅万象の自然がそのままに人の暮らしを支配し、そこに人が成す集団があって、その集団に宿る組織の自我が神格化されており、その神こそ現世に降臨した現人神としての天皇陛下なのではないだろうか【801】
 アフガンで中村哲医師が銃撃に倒れたニュースが記憶に新しいが、不毛の砂漠を治水して豊かな農地に変えたところ、その価値を目当てにする人間の欲に命を狙われてしまったがための悲劇であった。そんな苛烈な奪い合いをせずとも豊かな自然が潤沢な実りをもたらす日本列島において、そもそも人間を直接睨む神の存在は必要なかったのかも知れない。

 だがコトここに到って、その幸せな境遇は恥知らずの背徳の原因になってしまった。
 睨まれ、裁かれ、罰される恐れを知らない劣化非国民は、たかが日本語という言語情報の私見的曲解で平等と自由の保証の言い訳が立ちさえすれば、人の世という社会組織の自我が渋々にでも調子を合わせるものと当て込んでいる。
 そんなデタラメな裏切られ方に馴染みの無い日本社会は、ここまで不甲斐なく私欲の暴走を見過ごしてしまって今があるのだと思う。まだ直近のうちに早く日本固有の倫理観構造を取り戻さないと、身を守るため他の人間をまず疑って警戒する、悪い意味での世界標準に我々は染まっていくしかない。

 反社会的=組織の自我に背くコト、この意味がきちんと定義されていないなどとする驚天動地の言い草、欧米文化圏なら名も知れぬ弱小国でも到底あり得なかった。世界人類文明史に残る日本国の恥である。
 2025大阪・関西万博が諸事挽回の機会に控える巡り合せは、もう取りこぼせない。大阪の成長を止めるな。
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【805】外注命綱の目視品検マイスター [ビジネス]

 どうやらSSブログへの移行はちゃんと完了しているようだ。サイトをメンテするための『管理ページ』リンクが気紛れに消えてしまうのは相変わらずだが、代わりに表示されている『ログイン』で必ず辿り着けるのなら大した問題ではない。
 数日前とうとうサポートデスクさんに問い合わせてみたところ、迅速に御確認いただき問題ナシ大丈夫とのことなのでひと安心したところである。

 国会が課題をわんさか積み残したまま、それをすっとぼけて強制的に閉会した。
 ねずみ講の親玉に仲良し招待状出して飲み会やるばかりじゃなく、ちゃんと税金で仕事『も』やってるので見て見て!とでも言いたげに、とち狂ったように高額の思い付き政策を乱発し、26兆円という驚愕の突発支出を一方的に宣言して、またしても赤字国債の無限発行ループを巻き足しているのは御存知の通りだ。
 26兆円という新規発生の経費枠に引き充てる税金の財源はどこにも存在しないのだから、常識的には『巨額26兆円分の既存予算を削減する』という難課題の緊急設定が先立って然るべきである。
 必要性の根拠があって決まったはずの26兆円ぶんの国務を諦めるとなれば、必要なモノをやめちゃった以上は、あとを放置するのか、延期してでも完遂するのか、それ以外の減額方策を採るのかなどなど、帳尻を合わせなければ国家運営が破綻する。

 現状、日本円は経済学的概念でいうところの『通貨』ではない。経済市場の価値流通媒体ではなく、消費の現場で物品やサービスなど有価アイテムと交換可能な、ただの紙切れである。カネが欲しいし使いたいから、使い道を勝手に次々でっち上げ、次に用意するのは紙とインクで刷りたいだけ刷れば良い。とにかく今の日本社会の消費現場でこの紙切れが引換券として通用するのだから、これが政策ですと。経済最優先とやらがコレかよ、世も末だ。

 北米なんかは、経済指標値の日常振幅の動向はともかくとして、トランプ君がかなりの外交強硬策で、北米国内経済の保護と活性化を押し進めている一方、北米準備制度理事会FRB(=北米の日銀)はこのトランプ効果の皮算用に浮つくことなく金利をしっかり抑えているのが興味深い。
 トランプ君のナウ見たままの経済操作のみならず、その先の因果の展開まで予想して評価対象に加え、否定的な見解を主張する人も多いワケだが、それにしても彼なりに『このフェーズでコレは効く、だからやる』と判断するそのロジックには、キホン誰も異論はないはずだ。それなりに読みハズシもしているんだろうが、『効く』と確信して狙い、その現実を見て適宜に手を加え『当てに行っている』から、今なおその実績を認めて支持する世論は底堅い。つまり、北米社会組織に『トランプ景気効果の信用』が一定規模で定着しているのだ。
 それでもFRBは中央銀行として景気好転期の定番モードに対し慎重を守って、金利の据え置きを決めた。北米を眺めていると、『自国経済市場の組織生命を賭けた現実的な意思決定』が感じられる。

 ちょっと前に、やたらヤバい詐欺師ヅラのパツキンおばちゃんが、唐突に『ナントカ貨幣理論』みたいな眉唾学術を煽動してまわったのを御記憶だろうか。要は『現代の経済市場は日本みたいな債務超過になるもんだし、なってイイんですよ~』みたいな、一応だけ経済用語を使ったトンデモ娯楽空論である。
 乱暴かつふざけた表現のひとこと要約で申し訳ないが実際その程度のものでしかなく、さすがに踏み外しの度が過ぎたようで、誰にもマトモに取り合ってもらえず早々に忘れられた。
 自由の国アメリカでは学術競争のレベルが非常に高く、そこで使いモノになり損ねて喰いあぶれる乞食学者なんぞ掃いて捨てるほどいる。万年あほ丸出しの日本財政に目を付け、発想の転換でそれを正義扱いで褒めちぎれば、政府筋が嬉しそうに騙されてカネづるになってくれるとでも考えたのか。
 ま、しょうがないけど日本もナメられたもんだよなあと思ったものである。

 さてこちらはついこないだのこと、国際通貨基金IMFが日本の消費税率をあげつらって15%適正説を提唱しただのしないだのフェイク噂話が流された。これまた、ハナシ半分にも届かないまま聞き流されて宙に消えたんだけど。
 あのさあ、『国際ウンタラ=国家単位より上位の、何だか知らんがエラい外人』の化けの皮は剥がれ落ちていて、もうアルファベット三文字の看板掲げたポンコツ国際組織にゃ辟易してんだよ、我々1億2千万人日本国組織は。
 マトモな理屈も無ければ偉くもなく、関係者一同の最適解を探る思慮深さも全く無い。前々から何だかおかしいとみんな気付いていて、例の五輪開催地騒動でそれが確信に変わった。
 いいから今度はさ、『どこの国の消費税が今いくつで、各々適正値はいくつ』の一覧表でも作って、各国の政府に消費税率適正化を進言して回るところを、日本の烏合マスコミどもに取材させてやってくれや。その言論トレンドの顛末まで含めて国別グローバル星取表でも作って採点してやるよ。

 他の話題で数回お休みしちゃったが、改めて言及しておく。
 10月に強行して放置している欠陥税制もどきは、一刻も早く9月以前に戻すべきだ。

 荒れた風土の組織では、過ちの是正を訴える発信を絶やしてはならない。誰も何も言わなくなった=正しくない現状で『もういいや』と全員が諦めた…として組織の空気が淀んでしまうためである。
 逆に全員が諦めたのでもなければ、必ず組織の自我はその真意で動き始めるものだ。
 ここは是非、野党たちに頑張ってもらいたい。暮れも押し迫ったこの時期に本当にお疲れさま、大事なところだと思うので、引き続き応援しようじゃないか。どうもありがとう、頑張れ!

 一方いよいよ大阪都構想・特別区再編案が住民投票の実現に向けて歩を進めてきた。
 自らそこに甘んじて諦めない限り、悪い時代ばかりがいつまでも続くものではない。
 面白くなってきているような気がするぞ。大阪の成長を止めるな。
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【804】経済ルネサンスの組織生命プロローグ [ビジネス]

 またしてもSSブログへの移行操作が巻き戻されてしまったので【798】、何度目か知らないが再移行しての更新である。また妙なタイミングで同じことが起こらなきゃいいけど。

 国政の方はもう前代未聞のグッダグダ大崩壊もいいところで、指摘ネタは選り取り見取りの刺し放題だし、まあ気になった向きは徹底的にこの自爆テロ政権を追及すれば良かろう。そのうち社会に飽きの気風が来るかも知れないが、なあに間髪入れず次のバッシング大会が誰かにより起動される。
 この展開、実は2015年の終わりにはもう決まっていた。詳しくは【417】『古代帝国、崩壊の予兆?』を御覧いただきたいのだが、見直す時間の無い方のために最小限を引用するとこんな感じだ。

 この日本社会に居座り続けた古き悪しき社会風潮が、ぐらつきかかっているように思う。
 2015年の空気は明らかに違う。
 『お前ら、もうやだよ。自分も困るぞって?どうせ元々がロクなもんじゃないし、関係ない』
 裏切られ続けた良心は、根深い意地悪に裏返った。

 そう、この4年前時点の以前なら、1億2千万人のみんなで『良心の空気で埋まるのが当たり前の日本社会』をカタチだけでも維持しようとして、みっともない見映えになる手前で日本国組織はコトを落ち着けていた。
 そりゃ腹の虫は収まらないにしても、国家運営という大上段の課題を差し置いてまで糾弾に拘るのは、いくら何でも日本の社会人として適切な姿勢ではないだろう。悪いコトをしたヤツは、どうせ直近の人々に真実を見透かされながら暗く孤独な一生を過ごすんだし、自分がさっぱり忘れて済むんならそれが正解か…
 だが、あの時1億2千万人の過半数がどうにかこうにか括っていた堪忍袋の緒が、音を立てて切れた実感があったのだ。謝って直すならあれが最後のチャンス…いや、あの時点で既に終わってたのかも知れない。

 やんごとなき事情もなく悪意と邪心と私欲とウチワ囲いで仲間みんなを裏切って、日本国組織の自我を本気で怒らせたからには手の施しようが無い。
 『スキャンダル暴露なんかより国家運営の課題に専念すべきだ』の一般論はもはや通用せず、『粗悪スキャンダルを連発してマトモな後処置もできない連中に国家運営をやらせるだけ損害の上積みだから、ここで締め上げて首を刎ねておく』、この方が正解と誰もが確信に到達してしまった非常事態である。
 良心で埋まっていたはずの日本社会の空気が今1億2千万人の不信と怒りで埋まっているのは誰しもが肌で感じている通りであり、さすがにエセ識者どもも『スキャンダル棚上げ指南の一般論を能天気に放つと我が身がヤバい』と思い知っているようだ。
 おもらい目当てのどんなに鈍いヤツでも身の危険が先立ち、もう手先のコマになってくれないとなると、この自爆テロ非国民政権は政治家も役人もファミリー組織も、みるみる各々の生存空間内で孤立が進むことだろう。そこに安心して帰属するつもりがある以上、社会組織の自我には誰も逆らえないし逆らわない。

 さて国政の話題は置いといて、ステロイド離脱に関してはキホンいずれの整理・集約に送るつもりなのだが、始まりと終わりがはっきりしない現象は忘れるとヤなので、今のうちにもう少しだけ追加。

 夢のハナシである。脱ステ騒ぎを起こす前が生来どうだったかは覚えていないが、ここ最近たぶん毎晩見ているのではなかろうか。
 ツラいツラい頸椎の痛みが解消した今夏以降、まず夢の内容の記憶がほとんど残らなくなり、『複雑で緻密な、とても凝ったストーリーだった』という余韻だけが漠然と感じられるようになった。もう暗黒と極彩色光学現象の対比シーン【615】も無ければ、すぐ絵に描けそうな子供時代の懐かしい景色【700】も無い。
 深い傷にはならないにせよ、特に顔の上半分が断続的に赤みを帯びて面で微熱を発し、眉間から目頭一帯、あと眉毛は毛根ひとつひとつがびっしりと痒くなり痛くなっては粉っぽくなって解消…を繰り返している。その直下、理性領域の記憶情報を司る大脳の前頭葉で組織の置換が進んでいるのだろう。

 そういえば会話しながら対面の当の相手に関わるプロフィール情報を取り違えたりする、いかにも特徴的な失敗はここ1年ほどで数回記憶にあるぞ。やはり前頭葉では、断片情報の記憶ファイル同士を偶発的に結び付けては、因果性の認識を当てつける操作が行われていると思われる【692】【693】
 技術仕事で後進育成していて、他人視点では全く意味不明なジブン理論にハマり込んで頑として動かなくなるアレは【652】、このあたりに原因があるのだろう。生物が『手持ち情報を材料に新規の信念を確立し、未知への対応を決心する』ため脳に備えた、適応チャレンジの生存プログラミング能力なのである。
 インパクトの強い記憶情報を組み合わせて新規ストーリーを信念として起こし、それが現実と噛み合うや否や一気にその方針で突走る。競争相手のいない新天地での繁栄を求めて。

 そうか、かつてアリやハチなどコロニー形成する社会性昆虫を『機動性USBメモリー』に例えたが【770】【771】、彼等に明確な脳は備わっていない、つまり上記のような信念ストーリー構築プログラミングの機能は無いと考えられる。だから遭遇する環境を相手にDNA突然変異の確率任せで生き残りを繰り返しつつ、どえらく寂しい歩留りで、だがだからこそ凄まじいまでのバリエーションで多種多様な進化を遂げたのではなかろうか。
 いっぽう原始的な魚類に始まったといわれる脊椎の形成は、のちに神経節の集積を経て脳を作り出し、個体内完結の情報処理で新規性活動プログラムを自前調達し、環境適応していく道を切り拓いた。
 イチ個体が単独でいろいろ試行錯誤できるようになったぶん効率は良いが、逆にその個体ならではの現実解がトライアル成立要件の限度枠にもなってしまう。だから進化の枝分かれ多様性は必然的に限られた範囲に狭まり、昔のヨーロッパの異国見聞録や現代SF漫画の宇宙人なんかに見られるような、四肢および目・耳・鼻・口の概略配置から全く違うような異形の動物や人間がいないんだな、きっと。

 いま世界経済市場は『何でもアリの総模索カンブリア期』に向かっているのだろうか。だとすると自治体も営利企業も、組織の生き残り戦略策定の第一歩は以下の二者択一なのかも知れない。
 1.群生昆虫型=将来像をあえて決めずに自由行動の個々人を仲間意識で繋ぎ止める。
 2.脊椎動物型=自組織の現実像・将来像を共有し一点中枢で命懸けの意思決定をする。
 ひとつ確実なのは、2.で命懸けの一点中枢をただ旧態依然の仕組みとして踏襲したまま、そこに相応しい意思決定能力をあてがえなければ、絶滅の道を辿るしかないということだ。

 大阪都特別4区のコンセプトは面白く、原則は各々2.脊椎動物型をなす特別区がまず4つあり、そんな区のスケールで自由行動の4人仲間とすることで、1.群生昆虫型の優位性を狙っている。返すがえす盲目的に依怙贔屓で持ち上げるつもりはないが、なかなか良いセンスしてるのだ。
 もっとも一発100点はないと思うし、それを狙う必要もない。大阪の成長を止めるな。
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【803】先立つ後悔で考える前借り健康術 [ビジネス]

 前回に続いて、もう少しステロイド離脱の話を書き留めておく。
 内分泌機能の回復が一段進んでは体組織を自己破壊し、それが何度も更新されるうち新環境で破壊されずに耐えられる丈夫なやつが生き残って全て置き換わり、そのクールの回復バランス達成が完遂する。いや、回復バランス達成をもってぴたり平和に落ち着き切った試しはなく、いいところまで来た感じがして『もしかして終わったか?』と喜びかけたところで、再び内分泌機能が次の一段をパワーアップして大暴れ…のサイクルを繰り返して現状に到る。
 つまり一本調子ではなく緩急というか山谷というか起伏があるワケだが、バランスがほぼ成立したほんの僅かな間、びっくりするほど自分が『人間として完璧な正規仕様の中央値』になるのだ。

 長らく自分が暮らしている世界があって、例えばあの通路は普段の使い勝手の都合上物置になっちゃってる、逆にこの植込みの隙間は便利な近道なので、通路でもないのにけもの道になっちゃってんだよなあ、一体いつからこんなコトになってんだっけ…みたいな『自分固有のなりゆき習慣』みたいなものが一掃されるのだ。いきなり新築のモデルハウスに身を置いた感覚とでも言うのだろうか。
 まるで憑きモノが落ちたように…はちょっと違うなあ、そうそう、どこかにバックアップしておいた私の人格を、記憶情報も稼働部位もオーバーホールで設計中央値に整備し直した私の心身に再インストールしたかのような気分である。過去の人生でこんな気分になったことは無かった。
 実に平凡の直球ど真ん中式に、食欲が湧いてごく一般的な内容の飲食をし、寝る時間になって布団に入ってよく眠り、朝にはすっきりと健康的に目覚める。無意味・無意識にやってしまう些細なクセみたいなものがなくなり、ただただ人間ひとりの標準的な動機で日常の物事を快調にこなし、時間が流れていく。

 実際どこまでその通りかはともかく、何故このような心身状態が起こるのか?と考え始めるその前に、いやもしかして生物としての人間が自身に抱く自己認識って元々こんなもんなのではないか?と思ったのである。
 脱ステ騒ぎが始まる前、いま思えばとんでもないことに、私は健康には自信があった。だがあれは、日常生活でなりゆき次第に組み上がった『場当たり無難な作動点』に過ぎず、無難ゆえ問題なく身体は動くしメシも酒も美味いため、『楽しみと満足が及第点にあっただけのこと』なのかも知れない。

 こんなハナシを切り出したのには理由がある。
 数年前から突然増え始め、収まる気配が見えないまま社会に定着したかのように見える、高速道路の逆走事故や『あおり運転』でよく取り上げられるロードレイジの原因がこれだったりはしないだろうか。御存知の通り、いずれも高齢者の認知症が原因だと特定するには無理があり過ぎるのだ。
 だからといって例の半オカルト『形態共鳴』を疑うってのもアレだし【483】、男性のそこそこ中高年に何とも中途半端に偏っていそうな感もあり、もっと科学的に明確な因果事象が存在するのではないかという気がしている。
 これだけの数で同質の事例が新規発生するからには、何か社会的規模の特定操作が広く入力されたと見て良かろう。不可解なのは、逆走にしてもロードレイジにしても、生物が生命の危険を感知して避けようとする本能の領域に逆らう行動パターンであるということだ。

 二十世紀の終わり頃、深夜の東名高速で御殿場付近を走っていて大雨に見舞われた。80km/hぐらいに減速してワイパーはHIモード、流れる滝を掻き分け隙間から前を覗き見るような豪雨であった。
 あろうことか、ここで突然ワイパーが故障して動きを止めてしまったのである。幸い後続車もおらず安全に路肩に停車できたものの、車内でJAFの救援を待つ時間の長かったこと。
 実は停車して数分後に高機のパトカーが見つけてくれて止まってくれたは良かったが、もちろんパトカーにはどうすることもできず、『この雨なので、滑ってスピンした車が突込んでくる危険もあるので、降りてガードレールの外側で待っていてください』と縁起でもない忠告を残して去って行った。
 いや正しい措置だし、しょうがないんだけどさ。冗談抜きに服着たまま風呂場でシャワー浴びる根性が必要な状況だし、いくらなんでも無理だってば。

 結局エンジンをかけたままハザードとブレーキランプを点灯させリアワイパーを動かし、ギア1速でクラッチを踏んでスタンバイ、もし後ろから動きの妙なヘッドライトが迫ってきたら急発進できる体勢で構え、縮み上がりながら20分ばかり待ったものである。
 生きた心地がしなかったとはまさにあのこと、もう金輪際ゼッタイに嫌だ。いわんや渋滞でもない高速道路の走行車線上で自分らだけ停止するなんて、生物としてぶっ壊れていないととてもやれない。
 さらに逆走ともなると、対向してくる車たちの様子からして、認知症患者であってもかなりの確率で身の危険を感じるはずだ。網膜に映る景色が人格意識に届いていないのである。
 今般、自分自身で『人格意識の時間遅れ』を体験している訳だが、これがもっと極端に出たりすると、逆走事故や状況を見失ったロードレイジのような事態があり得るのではないかと思った。
 いっとき某インフルエンザ薬で発作的な行動を起こしてしまう事故が問題視されたが、他にも神経系の副作用を見切れないまま定番の処方薬として出回っている含有成分があったりはしないだろうか。これが当たっていた場合、かつて私が提案した『逆走防止標識』の類は、その発生原理からして全くの無力である【532】
 なお幸か不幸かここまで考え及ぶ前に私は運転しまくってしまっており、一応コワい目に遭ったことは無い。

 現代文明社会では、当座を無難にしのぐため様々な人工的手段が開発されている。もちろんどれも便利で有難いものであり、十分な検証で重篤な副作用が無いと判定された上で世に送り出されることにはなっている。これをいちいち疑ってかかるのも正解ではないのだろうし、無難を得て軽微な被害に抑えておいてこそ現実的な事後の展開が期待できる行きがかりは数えきれないくらいあるだろう。
 だが物事、起こる時には躊躇も容赦もなく起こるもので、その全貌を把握するのにかかる時間は、文明社会の時間の流れの都合ごときと微塵の関係も無いことをしっかりと胸に刻んでおく必要がある。
 その昔、風邪っぽく感じた時点で倍量の総合感冒薬をビールで飲むと一晩で解決する…などと知らぬが仏の経験則を吹いてまわっていた私だが、学習した。ごめんなさい、私が悪うございました。

 トランプ君が『日本は豊かな国だ、親友シンゾーよ助けてくれ』と米軍維持費の負担を求めてきたらしい。助けてあげないと、可哀相な北米は泣きながら軍事力を日本国外に引き上げざるを得ない。
 …『豊かな国』か、まあその通りだよな。
 五輪には兆単位のカネをバラ撒いてどんな追加負担の無理難題にも従順を誓っているし、墜落事故再発防止の確証も無いままF35戦闘機は言いなりに先回りしての大量発注。ま、日本円なんか刷り足せば無限に出て来るんだもんな。

 この現状は事実なんだから仕方ない。現実からは逃れられない。
 年末年始を棚上げで徹底追及も辞さない野党たちの意気込みには、イチ国民として期待させて欲しい。日本国民が選出した国政議会運営の代表メンバーと認めて心より応援する。どうもありがとう、頑張れ!
 そして5年後には大阪発の実効改善アクションが始動するのだ。大阪の成長を止めるな。
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【802】7年越し苦学カリキュラムの履修率 [ビジネス]

 本日をもってステロイド断薬から満7年、残念ながらまだ完全には復調し切れていない。
 概ね離脱完了OKと確信できたら、同じ道のりを行く方々のため利用しやすいシリーズ形式に整理して連載する構想があるのだが、まだそれをやるには時期尚早と甘んじざるを得ない。詳細はいずれ来たる時に見送るとして、一応の節目記録を残しておこう。

 遂に今夏8月、寝ても起きても意識のある間の絶え間なく苛まれ続けていた、頸椎のしつこくしぶとくいやらしい痛みから解放された。私にとって脱ステ苦難の最悪アイテムのひとつであった。
 硬質ゴムを融かして痛み成分をふんだんに混ぜ、道路工事用カラーコーンの型に流し込んで固めたとしよう。この『痛みゴムコーン』が心臓で生成され直上めがけて次々とせり上がってきては、下から首を貫通して後頭部の深くに突き上げ刺さり続けるのだ。一体いつまで続くのか、真剣にツラかった。
 鈍痛と呼ぶには輪郭がはっきりし過ぎている。激痛と呼ぶには果てしが無さ過ぎる。いま生きている時間の背景となって、この世の全てに覆い被さり続けた人生年表級の災厄である。コレがどいてくれただけで、大袈裟ではなく世界に垂れ込めていた厚い暗雲がようやく晴れたかのような一大成果だ。
 断薬後1年半あたりに首が真っ黒に腫れて以降、ずーっと残っていた首周り一帯のクスリ焼けが消滅しつつある。時間はかかるが、逆に辛抱強く時間をかければ、物事は自然なバランス点で釣り合うものなのだ。あと内面側で、舌の奥と喉の荒れが抜ければもう少し人生明るくなるかなあ。

 今年は『クッシング症候群』に相当する症状の解決過程をやり過ごしてきた1年であった。
 クッシング症候群とは『副腎皮質機能亢進症状』とも呼ばれ、ややこしいハナシをかっ飛ばすと、ひと声『内分泌やりすぎの暴走で起こる一連の諸症状』のことである。
 現状の私が医学的にそのものズバリで該当するかどうかは判らないが、ステロイド依存により免疫力が長く抑制され、その弱体化した免疫力に釣り合ってしまった全身の体組織がまずあって、ここから断薬により免疫力が元の強さに回復するにつれ、体組織の更新がそれに追い着いて釣り合うまでは、ずっと『免疫力やり過ぎアンバランス』の常態化を継続しながらここまで過ごしてきていることになる。
 本来のクッシング症候群は脳下垂体の腫瘍などのため内分泌制御が狂ってしまい、内分泌系の作動が暴走することによって起こるものだとされているが、私の脱ステも『内分泌やり過ぎアンバランス状態の継続』という点ではこれと共通して不思議ではない。

 その具体的な症状はというと、顔面が腫れて肥大するムーンフェイス、肩周りの脂肪沈着によるバッファローハンプ=野牛肩、いわゆるメタボ体型化の中心型肥満に、多毛症だ傷が治りにくいだ、ゲンナリするような症状アイテムがずらりと並ぶが、程度はともかく私のケースでは軒並み該当していた。
 もう全身どこにも深く大きい傷はできないにしても、むしろ身体の核心部にヤク離脱の中心が移ってくるので厄介は厄介である。断続的に心臓がガクンとパワーダウンするのと、脳神経および脊椎の通信メイントラフィックが導通不良になって、人間ひとりとしての情報処理機能が寸断されるのが困る。

 緩慢になったとは言っても、核心部で体組織が更新・置換されたのち、身体の厚みを貫通して内外の体表面から廃棄されていくため、途中経路が腫れて荒れては避けられない。
 どうもこれが『認知機能テンプレートにシンクロした受信動作』を妨げているようだ。つまり人間は偶然に飛び込んできた景色や物音を全て検知しているのではなく、『見ようとする画像、聞こうとする音声』など受信情報のファイル形式テンプレートをあらかじめ持っていて、それに合わせて『見に行く・聞きに行く』という積極的な感覚器の稼動による整合過程を経て、そこまで叶って初めて情報処理の材料として視覚・聴覚の認知領域に乗ってくるのではないかと推察したハナシのことである【740】

 随分マシになったとは言え、不調の時には電子メールの受信トレイや表計算ソフトの数値データを全くいじれない。まだ左目の動きが鈍いのはわかっている、だから数字を見ている認識はあるがそれを情報処理の対象として意識のまな板に乗せられない。『ちゃんと見に行けていない』のだ【742】
 特にパソコン操作においては一発の『ポチる』で決裁プロセスが進んでしまうワケだが、ざーっと眺めながら『ハイこれはこう、ハイこっちはこうして…』とポチポチ進めていると、明らかに先に手が間違えてポチってしまい、アタマが確実に『ハイこれ』と判断したのを流し見て、一瞬どころか数秒ときに十数秒遅れて人格意識が一連の顛末に気付き、失敗した事実に慌てる…という順番の展開を今夏以降で最低3回は経験している。
 大丈夫な好調期からダメな不調期に変わるきっかけが自覚できないので苦労するのだ。

 同様に、十分な音量でも流れてくるコトバをちょくちょく捉え損ねるため、どうしても内容を逃したくないテレビ番組は録画しながら観て、適宜に再生で『構えて聞き直したり』もしている。
 もう長らく楽器にまとまった時間触れられていないのだけれど、耳で確かめる出音と手元の感覚が揃って意識に乗って来ないため、それらを受けて繋がってくる演奏行為も音楽構成の組立イメージも成立せず、むしろ断薬後3年目まであたりの方が、苦痛と戦いながらも一応やれていたのが懐かしい。
 スポーツや絵画制作などにも同様の情報処理停滞モードが起こると思われ、まあ脱ステ中は人生の楽しみを諦める覚悟が必要だと思う。裏返せば、どんどん物事が楽しめなくなってくるのには『廃棄体組織の通過による認知機能障害』というメカニカルな理由があり、何か得体の知れない鬱的精神疾患にやられたと思い込んで気が滅入ってしまわないよう、自己の心理状態の管理が大切だ。
 何しろ時間限定で自覚アリの好調期が訪れると、突然かつての『何でもできる、何でもやりたい、何でもやろう』のイケイケ意識状態…というか全身の稼動積極性パワーが勝手に戻って来るのだから。『できる』と『やりたい』は日本語として区別できてしまうのだが、人間の自然な稼動スタンバイ状態としては同一事象を指しているのではないかと思っている。

 このあたりはいずれ『アレクサンダー・テクニーク』なんかと比較考察できるかも知れない。なかなかに難解な心身制御方法論なのだが、私がぼんやり抱いていた経験則とよく合致するので驚いたものである【363】
 いま脱ステを頑張っている方は、難解なままの断片知識としてでも仕入れておいて損はない。ただの健康体で解説の真意が解らず四苦八苦するよりも、離脱過程の内的感覚を通して自分の心身を客観視しながら、ある意味ロジカルに取り組みやすいのではないだろうか。

 今がダメなら直すしかない。一旦でも問答無用の一斉停止が必要ならそうするしかない。
 近道が見つかっていないなら、正しい方角を確かめてそっちへ歩くしかない。歩き通すのに時間がかかるなら、その時間をかけるしかない。
 逆に、そこに十分な勝算をもって取り組むなら、確実に目標までの距離を詰めて行ける。

 ナニがおいくらでどう処置するかを認識できない決められない。五輪のスポーツ祭典をまともに面白がって準備できない。遂にはただ桜を見て普通に楽しむことさえできなくなってしまった。莫大な数の要素で構成する組織生命体は、古びた廃棄物のお陰でなかなかおいそれと方向転換できないものだ。
 だが確実な実効力が足場を固めて伸びているなら、目指して目標に到達する日が来る。
 大阪の成長を止めるな。
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